「山本五十六」の真実 ー大東亜戦争外伝ー 矢吹直彦
現代において名将、凡将、愚将、論外…と様々な評価が下されているのが山本五十六という軍人です。近現代史において必ず登場してくる名前ですから、若い方でも知っている人は多いと思います。新潟県の長岡の生まれで、旧長岡藩の名家から海軍軍人を志した人物です。長岡藩といえば、有名な「河井継之助」がいます。幕末の動乱期において長岡藩牧野家の執政となっていた河井は幕府にも新政府にも与しないことを宣言して、長岡一藩を「武装中立」を宣言しました。要するに、攻めてくれば戦うが、そうでなければ中立を保つ…という宣言です。新潟は今でも日本海側の海運の拠点です。ロシアや朝鮮の船も入港し、戦略的にも中立を保てるような場所ではありませんでした。しかし、河井は、当時、日本にわずかしか輸入されていなかった連発銃である「ガトリング機関銃」を二門を購入し、強力な武装を施したのです。そうなると、幕府側である会津藩も新政府軍も長岡藩の決断ひとつで戦局が左右しかねない状況に陥りました。それでも、河井はどちらにも与せず、結果として、新政府軍との会談が決裂して新政府軍と戦うことになったのです。この辺りの事情は、作家司馬遼太郎の「峠」という小説が参考になります。来年には映画を公開されますので、私もぜひ見たいと思っています。その河井ですが、確かに善戦はしましたが、結局、長岡藩はその城を新政府軍に奪われ、河井も会津に落ち延びる途中で亡くなりました。長岡は、新政府軍の攻撃を受け、町は三日三晩燃え続けたそうです。山本五十六は、長岡藩家老として戦死した山本帯刀家の跡を継ぎました。元々は、高野姓ですが、海軍軍人として出世していたために、郷土の人々が、山本家という名家の存続のために、五十六を養子に迎えたのでしょう。当時であれば、この「家名」を残すことは、何よりも大切なことだったのです。そして、山本五十六は、郷土の期待に応えるように、大正、昭和の海軍の中で出世をしていきました。そして、海軍次官、連合艦隊司令長官として日米開戦を迎えたのです。山本にとって、「郷土の期待」に応えることは、自分の人生の最重要課題であり、いずれは日本の英雄になりたかったのだと思います。そんな人間が、あの無謀ともいうべき真珠湾攻撃を強行し、日本海軍を崩壊させてしまいました。それが、日本が敗戦となる一番大きな原因だったはずです。戦後は、有名な作家によって新しい山本五十六像が創られ、「太平洋戦争の英雄」というイメージが固定しました。ところが、覆らないと思っていた英雄像が、戦後、70年が経過したころから、様々な評価がされるようになってきたのです。日本の近現代史における中心人物ですので、今回は、現代に見る「山本五十六」像について、述べてみたいと思います。
1 名将 山本五十六論
戦後、しばらく言われてきたのが「山本五十六名将論」でした。まず、評価点としては、次の四点が上げられます。第一は、「航空機優先論」を説いたことです。元々は砲術を専門にしていた山本ですが、時代の趨勢を読み、「これからの時代は、航空機が発達し、制空権を奪った方が戦争に勝利する」という考え方を持ちました。昭和初期には、この考えは先進的過ぎて多くの海軍軍人には受け入れられない思想だったのです。当時、海軍兵学校を優秀な成績で卒業した者は、第一に砲術科に進むのが一般的で、航空科はどちらかというと、成績の悪い者が行かされる分野だったのです。「戦艦優位論」は、大型の超弩弓戦艦として「戦艦大和」や「戦艦武蔵」を誕生させました。これらの戦艦は、「不沈艦」と呼ばれ、徹底した防御システムを持った鋼鉄の塊でした。それに比べて、航空機は、やっと複葉機から単葉機に移行したばかりで、その速度も遅く戦術も定まっていません。その上、機体は脆弱で、高空からの攻撃では爆弾を投下しても命中率も悪く、よほど大量に飛行機を動員しなければ、対戦艦戦の勝利は覚束ない状況でした。航空機の運用が完成されたのは、大東亜戦争が始まってからのことだったのです。ところが、歴史が証明しているように、航空機の発達はめまぐるしく進み、あの戦艦大和でさえ、敵の艦載機によってあっけなく沈められてしまいました。つまり、山本五十六の考えは「正解」だったのです。この山本の航空機優先論があったからこそ、陸海軍で競うように優秀な戦闘機や爆撃機を開発することができたのです。そして、その航空機優先論が花開いたのが、「真珠湾攻撃」及び「マレー沖海戦」でした。日本海軍の零式艦上戦闘機は当時の世界水準を凌駕し、搭乗員の質も高く「無敵」を誇ったことも山本名将論に拍車をかけました。
第二は、日独伊の「三国軍事同盟」への反対です。第一次世界大戦が始まるとナチスドイツの進撃は電光石火の勢いで、世界中の人々の度肝を抜きました。ドイツの各種兵器はどれも高性能で、科学立国を目指したドイツと手を握ることが米英に対抗出来る手段だと考えていた人々の前で、反対論を唱えることは、相当の覚悟が必要だったのです。まして、日本は国際社会から孤立し、満州国問題も解決していませんでした。そんな情勢の中、ドイツだけが友好国となり得たのです。政府も陸軍も世論も、みんな「同盟締結」に賛同している中、海軍だけが反対を表明していました。その海軍の中にも同盟締結賛成論者はたくさんいたのです。反対したのは、海軍省です。名前を挙げると米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官、井上成美軍務局長だったといわれています。これも、後にドイツが連合国軍に敗れ、無条件降伏をしていますので、海軍省のトリオの反対は「大正解」ということになります。こんなことから、戦後、日本では、海軍は「平和論者」であり、三国同盟に強く賛同した陸軍が戦争を煽ったという解釈が一般的になりました。山本が連合艦隊司令長官になったのは、反対派の急先鋒だった山本次官を殺そうとねらう勢力があり、「命の危険が迫っている…」との理由で、米内大臣が「連合艦隊」に逃がした…からだといわれています。
第三は、日米英戦争回避を最後まで願っていたということです。山本は対米英戦争開戦は、最後まで反対だったといわれています。最後の最後まで日米交渉に望みを託し、「真珠湾攻撃の攻撃隊が出撃した後でも、交渉の妥結の見込みがあれば、すぐにでも帰還命令を出す!」と言いました。映画でも山本の強い意思を示すシーンで、演じる役者としても、格好いい見得を切る場面です。そして、日米交渉妥結の見込みがなくなった日本政府の命令によって開戦が決定し、真珠湾攻撃が行われたのです。その際も「宣戦布告」に拘り、最後通牒後に戦闘が行われるよう配慮したといわれていますが、その願いは空しく、ワシントンの日本大使館の怠慢で、最後通牒が野村大使からアメリカのハル国務長官に手渡されたときには、既にハワイは攻撃されていたのです。これによって、日本は「卑怯者」のレッテルを貼られてしまいましたが、山本は終生それを悔やんでいたと言われています。
第四は、危険を顧みず部下の将兵のために最前線に出向き、壮絶な最期を遂げたことです。連合艦隊司令長官の身でありながら、最前線で指揮を執り、将兵を励まし続けたその姿は、国民の感動を呼びました。山本は連合艦隊参謀長だった宇垣纏の「前線視察要請」を受けてラバウルからさらに最前線のブインまで赴く計画が作られました。本人は、「連合艦隊司令部が、どんどん前線に出て行くのは決していいことではないんだがな…」と前線視察を躊躇っていたとも言われていますが、最終段階になると山本の方が積極的になり、「みんな大変なのだから、護衛は少なくていい」と言い張り、たった6機の零戦が護衛についただけでした。これも、周囲を慮った山本の懐の大きさを示すエピソードになっています。しかし、アメリカの暗号解読によって悲劇的な最期を迎えたのです。結果、山本五十六は大日本帝国軍人の鑑となり、国葬の栄を賜りました。しかし、山本の戦死後、戦局を挽回する機会は訪れず、日本は坂道を転げ落ちるようにして、悲惨な敗戦へと向かって行ったのです。まさに、惜しまれる日本の英雄でした。
2 凡将・愚将 山本五十六論
1で紹介したのが、戦後、多くの有名作家の手によって描かれた「山本五十六像」です。ところが、昭和の終わりころから、この「凡将論」や「愚将論」が世に出始めたのです。その原因は、一に「真珠湾攻撃」にありました。当初、山本は日米交渉妥結を期待し対米英戦争反対を説いていましたが、いつの間にか、「戦争をするなら、開戦劈頭、敵の主力艦隊を撃滅して、アメリカ国民の戦闘意欲を失わせる」と言い出し、「今次の戦争は、航空戦が主体になるだろうから、敵の航空母艦を葬る必要がある」と強硬にハワイ攻撃を主張し始めたのです。日本海軍は、元々、敵地に遠征して戦うような組織ではなく、日本防衛のために敵を近海にまで誘い込み、そこで一大決戦を行うような計画で創られた組織でした。したがって、山本の思想は、根本的に日本海軍が受け入れられるものではなかったのです。確かに、山本が言うように「航空戦」が主体となることは想定されていましたが、それでも、「長期消耗戦」は、絶対に避けなければならない愚策です。まして、ハワイ攻撃など、これまでだれも考えたことがないのです。それを山本は、自分の信頼できる部下であった大西瀧治郎少将と源田実中佐に計画を漏らし、検討させたのです。こんな重大な秘密を個人に漏らせば、どうなるか考えもしなかったのでしょうか。結果としてハワイ攻撃は海軍部内の反対を押し切って実行されましたが、山本が描いていた形にはなりませんでした。
まず、アメリカ国民は卑劣な日本軍の攻撃に怒り、「リーメンバー・パールハーバー」は、日本を憎悪するアメリカ国民の合言葉になってしまいました。それは、当然でしょう。当時、アメリカ大統領のルーズベルトは、アメリカ国民に「世界の如何なる戦争にも参加しない」と言明して大統領になった人物ですから、日本との戦争なんてだれも予想していなかったのです。そこに、「宣戦布告」の最後通牒もないままに真珠湾を攻撃され、多くのアメリカ兵が死んだのですから、これが許せるはずがありません。その上、航空母艦を撃滅するはずが、肝腎の航空母艦が港におらず、旧式の戦艦だけを沈めることになってしまいました。結局、無理強いして行った真珠湾攻撃は、採点すれば「0点」いや、「-100点」になってしまったのです。しかし、アメリカから経済的な圧迫を受けていた日本は、この一時の成功に喜び、山本を「英雄」に祭り上げてしまいました。これ以降も、山本は長大な遠征作戦を次々と行い「ミッドウェイ攻略作戦」で大敗北したにも拘わらず、責任を曖昧にしたまま、南太平洋の作戦に邁進しました。結果、世界一を誇った日本の航空部隊は悉く消耗し、僅か一年で、当初の大戦力を使い切ってしまったのです。そして、その時点で山本は敢えなく戦死してしまいました。要するに、自分勝手な戦争を行った挙げ句、戦力を失うと自殺のような形で死んでしまい、後のことを何も考えないまま、日本は自滅していったというわけです。これが、山本五十六凡将論、愚将論の理由です。
3 論外 山本五十六論
平成の終わりころになって、これまでとは大きく異なる「山本五十六論」が出されるようになってきました。これは、主にネット上で、いわゆる近現代史研究家が膨大な資料を駆使して研究した結果として出されたもので、その信憑性は侮れません。なぜ「論外」かというと、その主張では、山本五十六が、そもそも「大日本帝国を裏切っていた」ことが前提にあるからです。これを世間ではよく「陰謀論」という言葉で片付けようとしますが、「太平洋戦史」だって、占領軍(GHQ)によって書かれた歴史です。そもそも、日本では「大東亜戦争」と呼称していたものが、いつの間にかアメリカだけの「太平洋戦争」になってしまったのですから、最初から嘘は明らかです。あの極東軍事裁判(東京裁判)だって、結論ありきの裁判だったことは、だれもが承知しているところです。ただ、日本政府がその判決を受け入れただけのことで、戦後の国会決議の中で、いわゆる「ABC級戦犯」と言われた人々の名誉は回復されたはずです。ところが、現代でも国会論争の中で、議員は平気で「A級戦犯」と呼び、恰も、犯罪者呼ばわりをしていますから、GHQによる日本への謀略は成功したと言っていいでしょう。したがって、「太平洋戦史」が謀略によって創られた史実だということを、これからも、検証していく必要がありそうです。歴史の事実だけを上げますと、戦争直前の近衛文麿内閣のブレーンの中には、スパイ容疑で絞首刑になった尾崎秀実がいました。有名なゾルゲ事件で処刑された新聞記者です。そして、近衛内閣の書記官長(今の官房長官)の風見章は、紛れもない共産主義者でした。つまり、近衛文麿も同じ共産主義者、若しくは、そのシンパだったと考えても間違いなさそうです。その風見章と海軍大臣米内光政や山本五十六は頻繁に会い、かなりの書簡のやり取りをしていたそうです。戦後、それを焼却した姿を風見の息子が見ていたそうですから、それも事実でしょう。また、戦犯となって獄中で死亡した、開戦時の軍令部総長だった永野修身の残された書簡は、遺族に返される途中の列車の中で盗まれたそうですから、これに何が書かれていたのか、興味が湧きます。そして、戦争末期、近衛文麿は天皇に、「この戦争は共産主義者によって仕組まれたものだ…」という近衛上奏文を出したということですが、当時の近衛文麿という政治家は、何を考えていたのかよくわかりません。まあ、天皇の前で椅子に座り足を組むような男ですから、「自分は、天皇と対等だ…」くらいの感覚があった人物かも知れません。だから、共産主義者に上手く利用された…可能性はあります。どちらかというと、自分が利用しているつもりで、利用されていたということはありがちな話ですから、とにかく、信用に値する人物でなかったことがわかります。ある評論家によれば、「山本はヒットマンだった」ということですが、アメリカの謀略(アメリカ政府内のソ連のスパイ)によって操られた人物が「山本五十六」だとしたら、これまでの名将論や凡将・愚将論もまったく意味を為しません。大日本帝国に忠節を尽くし海軍軍人としての評価としての様々な論ならわかりますが、アメリカの謀略に加担した「ヒットマン」ならば、そんな議論をすること自体、恥ずかしいことになります。これは飽くまで憶測に過ぎませんが、山本五十六という人物も、裏では、我々が知り得ない「闇」を抱えていたのかも知れません。今後の研究を待ちたいと思います。
4 山本五十六戦死の謎
山本五十六は、ガダルカナルの攻防戦に虎の子の航空母艦の搭乗員を使い、その目的を達成することができないまま「イ号作戦」を終わらせました。海軍では、「一定の成果が得られた」と主張しましたが、艦載機の搭乗員を消耗したことは、次の航空作戦に大きな影響を与えることになったのです。そして、昭和十八年四月十八日、山本はラバウル基地からさらに奥地のブインまで「視察に出かける」と主張し、連合艦隊司令部のほとんど全員を引き連れて、一式陸上攻撃機二機に別れて飛び立ちました。現地では「多くの護衛機を付ける…」と言っているにも関わらず、それを断り、僅か六機の零戦隊が護衛の任務に当たりました。結果、アメリカ軍の待ち伏せに遭い、二機とも撃墜され、山本もこの戦闘で戦死したのです。この事件は、「海軍甲事件」と呼ばれ、当時の重大事件として取り扱われました。それにしても、山本は何故、そんな最前線に僅かな護衛機で向かったのでしょうか。それも、護衛機はたったの六機では、護衛しきれるものではありません。山本機は、ニューブリテン島のジャングルの中に墜落していきました。それでも、操縦していた機長は、必死に操作をしたのでしょう。機体は完全に破壊されることなく、緊急不時着の形になって残りました。かなりの衝撃は受けたはずですが、山本の遺体は大きな損傷もなく、外に飛び出した椅子に腰掛け、眠るようにして死んでいたそうです。ところが、問題はその後のことでした。山本機を攻撃したアメリカ陸軍機のP38ライトニングの機銃弾は、13粍弾であるはずなのに、山本の死因は、それよりも遥かに小さな銃弾の傷が致命傷だったのです。戦闘機の13粍弾が体に命中すれば、人間の体はかなりの損壊を免れません。銃弾の欠片だったとしても、山本の遺体はきれい過ぎたのです。また、山本の遺体は機体の外にあり、椅子に腰掛けていたのです。それは、山本自らか、若しくは、他のだれかが椅子に座らせたことになります。近くに高田という軍医長(少将)が倒れていたということですから、山本の体を持ち上げ、椅子に座らせたのは、この軍医長の可能性があります。それは、「恰も、救助を待つ長官のように見えた…」という捜索に当たった陸軍部隊小隊長の証言も残されています。そうなると、山本は生きて機体から脱出し、自らの拳銃で自決した可能性があります。要するに、この前線への視察は、この戦争の勝利を諦めた山本が、死ぬことを目的に行った作戦と見る向きもあるのです。
5 山本五十六の心情
山本五十六という人間を知りうる限りの情報で分析してみると、よく言われるのが、「博打好き」「女好き」「新し物好き」というところでしょうか。アメリカ時代にポーカーを覚えてきて、勝負どころになるとはったりを嚙まして、相手を煙に巻くような手を得意にしていたようです。そして、自分でも「賭け事」を仕事にしたいようなことまで言っていたそうですから、「博打好き」というのは、当たっているような気がします。そういう人間だからこそ、戦争も博打の延長上で賭けに出て大負けをしてしまったのかも知れません。しかし、一国の運命を賭け事と同じように考えられたかというと、その説には自信が持てません。普通の人間なら自制心が働き、遊びと国の運命を天秤にかけるような真似はできないものです。次の「女好き」も有名な話で、噂だけでなく多くの恋文なども残っているようですから、「港港に女あり」という人だったのでしょう。軍艦に芸者衆を遊びに来させた…という話もあります。こうした砕けた一面が、部下に好かれる原因かも知れません。女好きは、米内光政海軍大臣も相当なものだったようです。だから、戦争に弱いとも言えませんので、軍人としては欠点にならないのかも知れませんが、今でいう「ハニートラップ」に引っ掛かる可能性はあります。山本はアメリカに留学したり、アメリカ大使館付武官として勤務したりしていますので、スパイ関係の網にかかった可能性は否定できないでしょう。女性の甘い誘惑に乗せられて秘密を漏らす…ことは、古今東西で行われる古典的なトラップです。
さらに、「新しい物好き」は、有名な話があります。様々な小説にも書かれていますが、「水から石油ができる」とか、「飛行適性を占いで見る」などがあります。それも、本人は大真面目に検討したそうですから、摩訶不思議な現象に興味があったのかも知れません。そうなると、真珠湾攻撃も「占い」を参考にした可能性もあります。こうした逸話に近い話からも、山本五十六という人物は、相当に脇が甘い人物のように見えます。当時、日米英開戦にあたっては、秋丸機関という政府機関が、シュミレーションを行い、最善策を提案していたそうです。それは、真珠湾攻撃などという無謀な作戦ではなく、対米戦より対英戦に重きを置き、インド洋を抑えて東進してくるドイツ軍と手を結ぶという作戦でした。実際、インド洋作戦は中途半端に終わってしまいましたので、何とも言えませんが、かなり現実味のある作戦に思えます。確かに、インド洋を制圧してイギリスの東洋での支配権を奪ってしまえば、アフリカ、ヨーロッパ、中東と攻めてくるドイツ軍と手を結ぶことができます。そうなれば、アメリカもなかなか日本に手が出せなかったかも知れません。歴史「if」を付けても意味がありませんので、これは妄想の類いでしょう。もし、そんなことになったとしても、あのナチスドイツといつまでも友好関係でいられるはずもなく、今度は「日独戦争」や「日ソ戦争」があったはずで、どのみち、日本が「平和」でいられるはずもないのです。
山本五十六が行ったハワイ、ミッドウェイ、ガダルカナル…と、途方もなく遠い戦場で戦うことが、必勝の作戦だったのかは不明ですが、山本五十六という人物は、相当の自信家だったことは間違いなさそうです。今の企業にもこのような人物はいると思いますが、一度、しくじると坂道を転がるように転落していく企業家もいます。いつの時代でも、沈着冷静な判断と合理的な判断が求められそうです。
完
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