教育雑学1「教師の哲学・教育の不易」

令和4年4月1日から教育雑学のブログを始めます。昭和56年から平成30年まで小学校教師として勤めてきた経験に基づき、日本の教育や教師像について、自分なりの考えを述べてみたいと思います。ここ数年、教師の仕事の「ブラック化」が話題になり、若者の教職離れが進んでいます。本来、教育に携わる職は、子供にとって憧れの職業の一つだったはずです。それが、脆くも崩れ去り、だれもが「就きたくない仕事」に成り果てようとは、だれも考えもしなかったはずです。しかし、現実は現実として受け止め、日本の教育を再生していかなければなりません。この問題を放置すれば、日本の教育は廃れ、社会の荒廃を招くことは必定です。そうなる前に、日本国民の一人として何ができるのか、考えてみたいと思います。この「教育雑学」は、私自身の経験に基づいたものですので、偏りがあることは承知しています。しかし、一人の人間である以上「偏り」があるのは当然です。その偏りを大切にして生きていくのも人生でしょう。既に公職を退いた身ですので、思いの丈をそのままに書き綴りたいと思います。取り敢えず100号を目指して頑張ります。

雑学1 日本の教育の不易

以前、文部科学省が教育の「不易と流行」という言葉で教育の重要性を説いたことがありました。不易とは、どんな時代になっても変わらないものを指し、流行は読んで字の如くです。しかし、実際、どちらに大きな比重がかかっているかと言えば、それは「流行」であることは明らかです。文部科学省では、中央教育審議会などの有識者による諮問機関を設け、日本の教育のあり方について議論をされているようですが、なぜか万人受けするかのような答申が多く、その多くは対処療法的な対応になっています。この数年間を見ただけでも、「道徳の教科化」「探求学習(アクティブ・ラーニング)」「英語の教科化」「ギガスクール構想」と、次々と新しい施策が発表され、「これで、学校が変わる。子供が伸びる」かのようなキャッチコピーが散見されますが、どれも中途半端に終わるような気がします。学習指導要領は10年に一度の改訂なので、その時代時代を表す目標が設定されますが、ここ50年ほどを見ても、何一つ定着したものはありません。所詮10年程度では、国の方針が学校現場に理解され、子供の指導に生かされるまでには至らないのです。よくて「3割」程度の定着率で、次の改訂に向かっているように思います。要するに、戦後教育は、よく言えば「時代に適応した目標」を設定して行われてきましたが、悪く言えば「流行だけを追った目標」に終始し、不易の価値を忘れてしまったのです。それでは、教育の「不易」とは何でしょうか。そもそも、何処の国でも学校教育に力を入れるのは、それが国の根幹を支える人材育成だということを知っているからです。だからこそ、莫大な予算を計上し、義務教育が円滑に進められるよう整備を怠らないのです。それは、日本においても同じです。江戸時代には寺子屋、塾、藩校が整備され、幕府直轄の「昌平坂学問所」は、幕臣だけでなく他藩の優秀な人材にも門戸を開き、特に優秀な者には「塾頭」に据えるなど、その柔軟性があればこそ、日本の礎を築いたのです。明治以降も義務教育制度を設け、国民皆教育が推進されました。日本は農耕社会です。そのために、組織を作ることに長けています。さらに、稲作をとおして「協力」「共助」「勤勉」「道徳」などを身につけました。明治時代を迎え、一気に社会が西洋化していっても、それを受け止められたのは、国民の生活基盤が整っていたからです。そして、それは軍隊や産業にも生かされ、僅かな間に日本は国際社会に堂々と出て行かれるまでになりました。この日本独特の「特性」こそが、教育の場でも生かされるはずなのです。日本人ならだれもが知る論語には、「故きを温めて新しきを知る」という孔子の言葉がありますが、現代においても、日本人がこれまで大切にしてきた価値を生かした教育をすることが、この「温故知新」を生かす道だろうと思います。しかし、残念ながら日本の戦後教育は、この道を目指しませんでした。大東亜戦争の敗戦は、日本人にこれまでの自信を喪失させ、アメリカ型民主主義こそが正しい道だと思い込み、教育も大きく変えてしまいました。本来、教育は「公」に尽くすことを本分としなければなりません。それは、実は「私」を生かす道でもあったのです。「私」を優先しようとすれば、「公」の意識が希薄になり、勝ち負けに拘る「損得主義」が蔓延ります。「損得主義」で生きようとすると、自分にとって「損」になることは、けっしてしようとはしません。なぜなら、それは「無駄」だからです。そう考えると「協力」も「共助」も、まったく無駄なことのように思えてしまいます。本当にそうでしょうか。一生懸命自分のために働き、自分のために勉強をしても、得られるものは「自己満足」だけです。いや、自己満足すらも得られないかも知れません。人が満足を得るためには、他者からの評価が必要だからです。それに、人間が生きるために必要な「道徳心」は、「公」の場で行かせるものであって、自分のための「道徳」などありはしないのです。「思いやり」「優しさ」「勇気」「仁愛」などの価値は、本来他者に向けられるものです。戦後の日本人は、「私優先」「個人主義」が蔓延り、常に損得を頭に入れて生きているようにさえ見えます。しかし、「損して得取れ」という言葉があるように、その瞬間は損をしたように見えても、その行為が周囲に感謝されたり、自分の気持ちが楽になったり…することがあります。それが「世のため、人のため」になるのであれば、よしとしてもいいのではないかと思います。私に言わせれば、不易とは「世のため、人のため」という哲学を持つことに他なりません。「自分のため」だけに学ぶのなら、そんな学びはつまらない。そんな学校はつまらない。そんなことだけを教える親や教師に価値はないのです。子供には大きな未来があります。今、学校の教師が不人気なのは、厳しい労働環境だけでなく、「世のため、人のため」を説く教育を堂々と行えないから…なのではないでしょうか。そして、「自分のため」に学ぶことが、本当の教育の道だと言うなら、今後、教師になろうとする若者はいなくなるはずです。教師という仕事は、きれいごとではなく、間違いなく「聖職」だと私は思います。「世のため、人のため」だと思うからこそ、子供を叱り、励まし、その成長を支えようとするのです。時には保護者と対立する場面があるかも知れません。それでも、子供のために信念を持って指導をするのは、「いつか、気づくことがある…」と信じるからです。子供が大人になって、一人でもいいから「教師の教え」を覚えていたとしたら、その子供は幸せでしょう。そこには、真実があるからです。真実の言葉だけが自分の心に刻まれ、自分を動かす原動力になるのです。当たり障りのない「褒め言葉」は、何の足しにもなりません。今の人は、耳障りのいい言葉だけを聞きたがり、厳しい言葉を嫌う傾向にありますが、諭してくれる人、叱ってくれる人がいるということは、本当は幸せなことなのです。不易とは、本来、そういうものなのでしょう。自分は何のためにこの世に生を受け、生きていくのか…と言うことをもう一度自分自身に問い直して欲しいものです。

 

 

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