雑学3 教師聖職論
教師は聖職か否か…と問われれば、私は間違いなく「聖職です…」と答えます。そうでなければ、教育という仕事には携われません。人が人を教え導くという仕事は、そんなに簡単なことではないのです。人は人工ロボットではありません。プログラムひとつで自由に操れる道具ではありません。人が人を信用し、心を開くまでには、それなりの時間とお互いの努力が必要です。様々な家庭環境で育った子供の心は複雑です。傍目には何も問題がないように見えていても、それぞれ抱えている悩みは深く、それを無闇に口に出すほど、子供は単純ではありません。子供というより、人は皆同じです。第三者は、簡単に「困ったことがあったら相談して…」と言いますが、一体だれに相談したらいいのでしょう。相談者というものは、自分の物差しを基準に相談に応じようとします。相手を慮って助言できる人は少なく、それに、相談内容が他に漏れることも考えておかなければなりません。「相談して…」と言われても、その前にやることがあるものです。相談するためには、相談する相手と自分との深い信頼関係が必要です。「この人なら、相談できる…」という確証のないままの相談は、所詮、気休めにしかなりません。たとえ心理の専門家を称されても、初対面の相手と信頼関係が築けるはずもなく、通り一辺倒の世間話程度の話しかできません。それが、普通です。もちろん、話ことで気持ちが楽になる効果はありますが、解決に向かうかというと、そんなに単純な話ではないでしょう。そんな中、学校の教師は度々子供や親からの相談を受けることになります。それは、友人関係だったり、親や子への接し方の問題だったり、勉強のことだったりと多岐にわたります。どれくらい適切な助言ができたのかは、私も分かりませんが、教師の利点は、一過性の相談ではないことです。担任になれば少なくても1年間は毎日子供と接しているわけですから、信頼関係が出来れば、子供は見違えるように成長していきます。しかし、信頼関係が築かれなければ、その子供は相談にも来ないだろうし、そもそも、30人もいる学級が秩序を保つことも困難になります。世間では、「学級崩壊」という言葉で、学校や教師を責めますが、その理由は様々で、あの困難な状況を解決できる「妙案」があれば、私が聞きたいくらいです。さて、人間関係論は無数にありますが、正直、上手くいかないのが人間なのかも知れません。そんな、人間関係づくりが難しい中で、唯一、教師だけが子供に寄り添おうと努力をしています。もちろん、親にはそうあって欲しいという願いはありますが、児童虐待などの問題が表面化してきている現在、真に子供に寄り添える親がどのくらいいるのか、甚だ疑問です。「親は、我が子に無償の愛を注ぐ存在」という理想論がありますが、気持ちがあっても行動が伴いない親は、かなりいるように思います。子育ては本能だけではできません。「子供に寄り添う」とは何か…から学ぶ必要があるのです。教師も同じです。教員免許を取得したり、教職に就いたから「教師」になれたわけではないのです。結局は、その人間性に待つことが多く、学力よりも、その人間が持つ「センス」みたいなものかも知れません。そして、「学ぼう」とする謙虚さのない人間に成長はないのです。それは、教え子から学ぶこともあれば、我が子から学ぶこともあります。先輩教師から学ぶこともあれば、保護者から学ぶこともあります。何事も「学び」だと私は考えています。この「学ぶ力」は、偏差値学力ではありませんので他者が測ることが難しく、長年の努力によって培われていくもので、方法論はありません。だから、教師は難しい仕事なのです。これを単に「労働者」だと言われてしまえば、それまでですが、自分の権利ばかりを主張するような人間(労働者)に、子供に寄り添うような教育ができるのでしょうか。教師が子供に信頼されるとしたら、それは、その教師の「センス」と子供に寄り添える教師になろうとする「強い意思」しかありません。それには「不断の努力」が欠かせないのです。
論語に「仁」という言葉があります。私の好きな言葉で、自分の永遠のテーマだと考えています。おそらく、生涯をかけても、その本質に迫ることはできないでしょう。しかし、「そうありたい」という思いだけはあります。まして、人を導き、人の道を説く教師は、常に「仁」を目指す人でなければならないはずです。仁とは、道徳を志して到達する人間の究極的な姿を現す言葉で、おそらく、人がどんなに修業を重ねても「仁者」になることは難しいでしょう。しかし、目指そうとする気持ちが人を成長させるのも確かです。そして、その高い志を持つ人間の言葉だけが、相手の心に届くのです。建前や一般論で人は動きません。なぜなら、「心」が動かないからです。話す人に「誠」がないからです。人の心は繊細で傷つきやすく、他人の言葉や行動に敏感です。それは生存本能と言ってもいい。自分の身を自分で守る以上、信用できる人間とそうでない人間を見極めるなければ生きていけないのが、自然の掟です。人間だけは、自然を離れ人工的に作られた世界で暮らしていますから、元々の本能を忘れがちですが、子供は違います。子供は、弱い生き物です。いつ天敵に襲われるかも分からないし、病気やけがが襲ってくるか分かりません。幼ければ幼いほど、研ぎ澄まされた感性が必要です。しかし、生を受けた後、刺々しい茨の暮らしが続けば、人はより獣に近くなり、優しく安心な暮らしが続けば、人はより心を豊かにします。教師は、その後者を子供に与えられる存在なのです。たとえ肉体は生きていても、心が失われれば、それはもう人ではありません。だからこそ、人が真っ当な大人に成長することを助ける教師は、聖職者のような高い志を持つ人間でなければ務まらないのです。
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