今の日本は少子高齢化に歯止めが利かず、毎年のように出生率が下がり、いつか日本という国がなくなるという話も冗談ではなくなりました。街中にも子供の姿を見なくなり、子供の甲高い歓声も聞かれなくなりました。まあ、捻くれた年寄りには静かに暮らせていいのでしょうが、老人ばかりの社会は、何となく陰気で活気がありません。それに、年寄りの発する言葉にはあまり知性を感じないのは、時代というか、生活環境というか、自分も同世代だからかも知れません。それに比べて、子供は元気です。活力が漲る世代の子供たちは、明るく生き生きと動き回り、躍動感があります。そんな姿も学校という職場を離れると、パタッと見られなくなり、寂しい限りです。ところで、そんな貴重な存在となった子供たちが、今、危機に瀕しています。やはり大きいのは、今回のコロナ騒動とそれに伴う「児童虐待」問題、そして、社会全体が「子供理解」ができなくなっていることでしょう。身近に子供がいなければ、子供に接することも少なく、子供の発達を理解することはできません。昔であれば、若い親であっても、地域が子供を支えるコミュニティがありました。しかし、今はそれも皆無です。子育てを公的な「専門職」しか扱えないとなれば、これはもう末期現象です。「子は鎹」などという言葉がありましたが、結婚した3組にひと組が離婚する時代となると、子供は鎹どころか、邪魔な存在になってしまいます。大人が子供を邪険にする社会は異常です。親が子を無条件に愛するといった時代はどこに行ってしまったのでしょう。そんな悲しい現実の中で、「令和の子供論」について述べてみたいと思います。
1 児童虐待問題
児童虐待問題が顕在化してきたのは、今から20年ほど前からだと記憶しています。「児童虐待防止法」ができたのが、平成12年ですから、そのころが、日本社会がおかしくなってきた時期なのかも知れません。戦争が終わって既に55年が過ぎていました。戦後の日本は、占領国軍(GHQ)によってアメリカ型の民主主義が強制され、占領されていた7年の間に大改革が行われました。これは、国際法に違反する部分が多く、日本弱体化計画の一環として行われた政策でした。昔からの日本の「家制度」は崩壊し、その家の存続よりも「個人」とか「権利」を重視する法律ができました。この制度は一見、「個人を重視する」という点で優れていると考えがちですが、公とか、家族という日本社会の「絆」を壊すきっかけにもなったのです。この後、日本人は戦前の反動のように個人主義に走り、「核家族」という言葉が生まれました。家制度がなくなったことで、その家は長男が継ぐといった長子相続の原則がなくなり、どの子にも財産を譲られる権利を得たのです。それは、一見、平等のように見えますが、僅かな財産を複数の子供で相続すれば、家が傾くのは当然です。その上、相続税は厳しく、戦前のような資産家はいなくなりました。確かに、個人の権利が尊重されるのは有り難いことですが、自分の先祖の家がなくなっていくのは寂しい限りです。今では、家族と言っても、親と子供だけの世帯がほとんどで、三世代同居は希になりました。それに、今や、単に核家族ではなく、離婚率の増加と共に片親家庭(半核家族化)が年々増え続けています。特に収入の少ない母親と子供だけの家庭は貧困率が高く、その上、実の親や親族の援助も受けられずに困窮している話はよく耳にします。「自己責任」という言葉も流行りましたが、何でも自己責任と片付けられると、弱い立場の人は反論する術がありません。若い母親が必死に働いても、得られる収入は僅かです。子供を二人も抱えては、食べるだけで精一杯なのではないでしょうか。最近では「ヤング・ケアラー」という、子供が親の介護をするといった問題まで出て来ており、家庭問題は国家レベルの社会問題になってきました。まして、地域を見ても、核家族化どころか高齢者の二人暮らしや独居老人が増え、その老人夫婦がいなくなると、だれも住まなくなった空き家が目立つようになってきました。こうなると、元々弱かった地域としての絆もなくなり、困っている家庭や子供を支援する体制は弱体化するばかりです。今の時代、親や祖父母でさえ、自分が生活するだけで精一杯で、子供や孫家庭まで支援できる人は少なくなりました。また、「8050問題」といわれるように、家庭内に引き籠もる子供(成人)の問題が表面化しています。いわゆる「引き籠もり」の成人は、全国で100万人を超えているそうです。間もなく、「9060問題」になる気配すらあります。生活保護世帯も年々増え続けており、年金問題と併せて、日本の福祉政策もそろそろ限界でしょう。いずれ、見直しが議論されると思いますが、国も少子化問題に本腰を入れないと国の存続問題になるのは明らかです。こうした問題は、戦後、日本が進めてきた「個人主義」の負の遺産だと思います。それでも、30年程前までは、「近所の世話焼きおばさん」などがいて、甲斐甲斐しく若い母親を助けてくれる人もいましたが、今では、若い母親が子供を預けられなくて困っていても、「責任が持てないから、面倒は看られない」と、断るケースが多いようです。何かあれば責任問題を追及される社会では、だれも余計な「お節介」を焼く人はいません。こうした中で起きてきたのが、家庭内での「虐待」問題です。被害者は、乳幼児から中高生に至るまで様々ですが、離婚、再婚が増えたことも原因として考えられます。子供にとって、実父実母がいても、親の都合で離婚となれば、子供の意思に関係なく、どちらかに養育してもらうしかありません。母親が再婚すれば父親は他人であり、そこから虐待が生まれる確率も高まるようです。もちろん、性善説からすれば、再婚して親となれば子供を慈しむのは当然だと考えがちですが、自分に懐かない義理の子を愛せるかどうかは、その人の人間性にかかっています。警察や政府は、年々増加する児童虐待問題を「法律の趣旨が広く周知されたから、通告が増えたのだ」と発表していますが、ここまで来るとそれだけでないことは確かです。公式発表では、令和2年度の児童相談所による対応件数は20万5029件に昇り、前年度より1万1249件(5.8%)増になっています。この数字を私たちは、どう見ればいいのでしょうか。もし、「仕方がない」と見る人がいれば、それは人間としての感覚が麻痺している証拠です。子供の身になってみれば、日常的な虐待が、その肉体と心に与える影響は計り知れません。社会はすぐに「子供を守ろう」と言いますが、具体策はなかなか出て来ません。本来、虐待のおそれのある家庭に政府が介入して、子供を保護すればいいのですが、日本は「親権」が強く、警察や裁判所も家庭内に踏み込むことを躊躇います。まして、権力を持たない児童相談所の職員が介入するのに躊躇うのは当然です。子供を一時保護しようにも児童養護施設は少なく、実際の要請に応じられる組織になっていないのが現実なのです。「子供は、親元で育つのが一番」という神話がありましたが、それも、今は疑わしい限りです。早く親元から離れ、自活できる道を見つけてやる方が、子供にとって幸せなことは多いはずです。最近、「毒親」とか「親ガチャ」などという言葉が流行りましたが、こんな言葉が流行ること自体、日本社会の病巣を映し出しているのです。まして、虐待を受け続けた子供が成人した後、我が子に同じ虐待行為を行う例はたくさんあります。虐待で逮捕された親が、後に、「子供の愛し方がわからなかった」という発言をしたという報道を耳にしますが、子育ての仕方も分からず、子供を宿し、出産しても、可愛いのはほんの一瞬です。その後は、自分のやりたいことも我慢して「子育て」に時間を奪われるのです。子育てが自分の生き甲斐になればいいのですが、子供はペットではありません。十分な愛情を注ぎ、その成長に合わせて育てていく手立てを学ばなければ、子育てはできません。それをだれの支援もなく、母親が一人で行うとなれば、ある日、子供が憎くなることもあるでしょう。本来は、慈しみたいと思う母性が憎しみに変わったとき、人間は「鬼」になるのかも知れません。本当に気の毒なことです。そして、負の連鎖は続くのです。おそらく、通告されない虐待件数は公開された数の数倍、数十倍に及ぶはずです。「子供を守る」というスローガンはすばらしいと思いますが、悲劇を早く食い止めるよう、国の早急な対応が待たれます。児童虐待、ヤング・ケアラー、高齢化、孤立化等、この国の「家庭」は崩壊寸前です。戦後の個人主義が行き過ぎた結果かどうかは分かりませんが、早急に対策を講じないと中国やロシアが言うように、「近いうちに日本という国は消滅」してしまうかも知れません。
2 「今時の子供」論
いつの時代でも大人たちは「今時の若い者は…」としたり顔で批評するものです。自分たちも若いころは大人たちにそう言われてきたのですが、そういう子供を育てているのは、自分たちだという自覚が必要なのですが…。まるで他人事のように批評し、恰も「自分の子供のころは違う!」とでも言いたげな風潮があります。「子供は親の背中を見て育つ」と言うように、子供は間違いなく大人の姿を投影しています。そして、自分の身近な大人に間違いなく似ているのです。それは、姿形ばかりでなく、性格や仕草、癖まで似るといいます。だから、大人がだらしなければ、子供もだらしなくなり、大人に、正義を貫く言動が多ければ、子供も正義感の強い子供に育つのです。これは社会の風潮と連動しており、子供は「その社会が生み出す申し子」と言えるでしょう。人によっては、「それは、元々の性格だろう?」と考えるかも知れませんが、不思議と学校においても同じことが言えますので、子供の性格だけにその原因を求めることはできません。その学校なり、学級なりの雰囲気が、子供に影響を与えていることは確かだと思います。今回のコロナ騒動の中で、子供たちは、外に出て遊ぶ自由も制限され、ひたすら家の中に閉じ籠もることを強いられました。今、学校では、長欠、不登校児童生徒が激増しています。子供が外で遊んでいると、近所の大人が学校や教育委員会に、「子供が外で遊んでいるぞ。何を指導しているんだ?」と通報するのだそうです。中には「マスクおじさん」のような人も現れ、勝手に自分の正義感で監視活動を行い、他人に注意することを生き甲斐にするなどという、過剰な反応もありました。子供は仕方なく、家の中で静かにゲームなどをして遊ぶほかはありません。公園には「立ち入り禁止」の札が掲げられ、学校も休校になってしまい、子供にとって辛い2年間でした。大人の苛立ちを直接ぶつけられる子供も増え、落ち着いた生活などほど遠い毎日だったのです。狭い家の中に子供がいれば、大人は苛々します。大人同士でも毎日顔を突き合わせるのは苦痛なものです。そういう意味でも「外に出て働く(学ぶ)」ということは、貴重なのだと実感します。少子高齢化の時代に入り、外で遊ぶ子供の声が聞こえなくなりました。子供は元気が一番ですが、コロナ禍でなくても、子供が遊ぶ場所はなくなりました。学校から下校すれば、昔なら、近所の仲間と外で遊ぶのが普通でしたが、今は、塾や習い事で忙しく、気儘に遊ぶことができません。遊ぶのにも「約束」が必要なのです。それに、公園に行っても小さい幼児や高齢者がいれば、騒ぐこともできません。ボール投げやサッカーは禁止。だから、公園に子供は寄りつかなくなります。近所の空き地は、そもそも私有地のために立ち入り禁止で、道路は車がひっきりなしに通過するため、危険極まりない状態で遊べません。本当であれば、「子供専用」の公園があって然るべきだと思いますが、公平の観点から、それも難しいのでしょう。選挙のたび毎に議員になろうとする人は、「子供は国の宝だ!」と絶叫しますが、そのときだけのことで、子供を本気で心配する人は少数です。所詮、選挙権のない子供は自分の意見を言う場もありませんし、理不尽な大人の言うがままに従い、少しでも反抗すれば「困った子供」というレッテルを貼られ、厄介者扱いされます。私も子供のころは、よく「早く大人になりたい」と思ったものですが、それは、今も同じでしょう。子供が少なくなってきたせいか、高齢者の中には、子供の甲高い声が耳障りになるようで、「子供がうるさくて眠れない」といった苦情を役所などに訴える人もいるようです。如何に大人という人間が身勝手かわかります。「今時の子供」は、好き好んでそうなったわけではありません。社会が子供にとって暮らしにくいから、今時の子供になっただけのことです。「今時の子供」「今時の若者」という前に、「今時の大人(年寄り)は…」と嘆きたくなる子供は多いことと思います。時には、子供の声を真摯に受け止め、施策に反映して欲しいと思うばかりです。そして、子供たちの甲高い声が地域に谺しても、「おっ、子供たちは今日も元気だな…」と微笑むような老人になりたいものです。
3 教育費の負担
戦後の長い学歴偏重社会は、日本の社会に深い傷を残しました。高度経済成長が止まり、低成長時代に入って30年以上が経過しても、未だに「学歴」を重んじる風潮がなくなりません。テレビ番組でも「〇大王」などと、偏差値の高い大学の学生の知力を題材にしたクイズ番組が成り立つ程ですから、如何に、日本人が学歴に弱いかがわかります。それに伴い、教育費もどんどん高騰し、大学4年間で1千万円もかかるような話も聞きます。私立の大学の授業料が年間130万円程はかかるはずです。4年間で500万円以上が授業料等になります。それに、通学費、小遣い、雑費等で1千万円くらいかかっても特別贅沢をさせているようには思えません。世帯年収が800万円だとしても、子供が二人もいれば、教育費だけでいったいいくらかかるのでしょう。以前は、子供一人にかかる教育費が約3千万円といわれましたが、それでも二人で6千万円というお金がかかるのです。これだけの費用がかかれば、子供を複数持つだけで大変なことです。少子化が改善できない理由の一つにこの「教育費」問題があることは間違いありません。この学歴神話ができたのも、戦後の教育改革による「6・3・3制」の単線型学校制度が原因です。戦前の日本は複線型で、農業、工業、商業と、各産業の学校が充実しており、普通科を学ぶ中学校や女学校は一部の若者が通っていました。当時は、進学そのものが少ない時代でしたから、働きながら学ぶ少年も多かったのです。戦後になると、核家族化が進み、若い者は仕事を求めてどんどんと都会に働きに出て行きました。そして、結婚し、小さな家庭を持ったのです。特に子供に残す財産のない親たちは、「せめて、学校だけでも…」と進学を勧め、高等学校や大学への進学率は高まっていきました。それでも、当初は、高校卒業生の2割程が大学に進学するだけで、それ以外は、みんな高卒の学歴で就職して行きました。ところが、国は全国各地に次々と高等学校や大学を設置していきました。そして、大学進学を熱心に勧めると同時に大学設置基準も緩くなり、日本には約800もの大学が存在するまでになりました。大学進学率も54%に上り、短大や専門学校を入れると80%を超えるそうです。この現象をどう捉えればいいのでしょうか。こうなると、「大学に行って当たり前」の状況が作られ、学生もあまり深く考えることなく大学進学を目指しているような気がします。実際、その中でエリート校と呼ばれる大学は少数で、全体の3~5%くらいでしょうか。そして、偏差値の高い学校は東京に集中しており、地方出身者は否応なしに東京での一人暮らしを余儀なくされ、親の出費はさらに嵩むことになります。さらに、就職となると、そのときの社会情勢が企業の採用数に深く関わり、「超氷河期」などと揶揄された時期もあります。それに、そもそも、大卒の枠はけっして大きくはないため、大学3年生になると就職活動をしなければなりません。そうなると、実質、大学で勉強する期間は、僅か2年半程度です。日本の大学は、「入るに難く、出るに易い」といわれ、大して勉強をしなくても単位を揃えれば卒業できると言われています。最近は、かなり是正されたようですが、これでは、何の為に高額な授業料を払って大学に入学したのかわかりません。クラブ活動やサークル活動も楽しいものですが、親の身になれば、「もっと、勉強して欲しい」というのが本音だろうと思います。こうして、大学進学熱に煽られるように、地方の高校にも「普通科」が作られました。普通科とは、ご存知のように一般教養的な学問を学ぶ課程で、大学進学等を考える生徒の進学先でした。そうなると、当然の如く、だれもが大学進学を目指すようになります。それでも、国公立と私立では授業料にかなりの格差があり、国公立の大学ならば、授業料も安く、その上奨学金制度も充実していました。そのために、保護者の多くは国公立大学への進学を望んだのです。ところが、国は「授業料の格差是正」を謳い、国公立大学の授業料を私立並みに上げてしまったことで、保護者が負担する教育費は増大していったのです。併せて、奨学金制度も公的な奨学金はなくなり、民間の学生ローンが幅を利かせたために、大学に進学した学生たちは、高額な「奨学金」という名のローンを組んで学ばなければならなくなりました。その付けは、就職後にも重く「返済」という形で若者にのし掛かったのです。それでも、「今時、大学くらい出なければ…」と勝手に思い込み、親も子も、それが当然であるかのように考えるようになりました。確かに、その企業に定年まで勤めれば、高卒より大卒の方が生涯賃金は多いと思いますが、終身雇用制が崩壊し、退職金制度もなくなろうとしている今、大学を出ることがそれほど大きな意味を持つようには思えません。それより、高度な技術を学べる専門学校の方が「手に職(資格)」があるだけに、いいような気がします。どちらにしても、学校を出ただけで将来が安泰になるほど、社会(日本や世界)は甘くありません。それでも、「高校卒業程度では、いい暮らしが送れない」と思い込んでいる日本人は多いと思います。そして、「いい高校」「いい大学」に進学するために、子供のころから進学塾に通う子供が急増し、受験産業は日本の教育を担うまでになっています。この進学塾の費用も家計を圧迫する原因ともなっているのですが、「教育熱心」な日本人は、その負担を「子供のため」と受け止めているのです。この異常な状況がいつまで続くのかはわかりませんが、自分の老後資金のことを考えると、ある程度の蓄えは必要でしょう。
4 個性を伸ばせない日本人
最近、しきりに言われる「個性化教育」は、基本的に賛成です。しかし、本当に今の日本人は個性を伸ばす教育ができるのか…という疑問が残ります。戦後の日本の教育をたとえるなら、それはまさに「金太郎飴教育」でした。金太郎はたしかに美味しい菓子です。見た目もきれいで、一度は手に取ってほおばりたくなります。そういう意味で、日本人らしい繊細な和菓子だと思います。しかし、どこを切っても同じ「金太郎」の図柄が出て来ます。つまり、ひとつの飴自体に個性はないのです。日本の教育も同じです。戦後の復興とともに、日本の学校教育は再開されました。そして、6・3・3制が定着すると、全国津々浦々に小中学校が設立され、文部省の指示を受けながら同一の教育が実施されてきました。これは、世界的に見ても画期的なことだったと思います。よく過疎地区の子供たちが紹介されることがありますが、過疎の村とはいえ、立派な校舎が建てられ、児童生徒数に応じて教師が派遣されています。給食もあり、運動のできる体育館も備えています。教科書は、全国一律に検定本が無償で提供されており、教育を受ける権利は間違いなく保障されているのです。この学校教育制度のお陰で、日本人は文字を読めない、書けない人はほとんどいません。高校進学率も90%を超え、日本の子供のほとんどが高等教育を受けられます。これだけ見ると、「さすが、先進国」だと思わせます。確かに、外国の教師が日本の学校を訪問すると、日本の教育のすばらしさを絶賛します。それは、子供たちの挨拶や規律などの態度面の評価が高いからだと思います。そして、給食や清掃の場面を見ると、羨ましいとすら感じるようです。マスコミ等は、これらが管理的だとか、個性がないなどと批判しますが、実際の現場で働いている教師にとって、日本型の教育は、理に適っていると思っています。まず、効率的に考えて、子供を集団で管理し指導するのは、どの国でも見られる教育方法です。集団で学ばせることで、いわゆる社会性を身に付けたり、道徳的実践を行える場としても機能していますし、公教育の目標でもある「公民的資質」の育成にもつながります。これが、まったくの個別教育に移行すれば、個人に応じた教育はできるかも知れませんが、それはもう「公教育」ではく、各家庭の考え方で行うべき「私」のものでしょう。事実、有名人の子弟は、公教育を受けずに外国の学校に通わせる例も多く、義務教育と言いながらもかなりの自由を日本は認めています。但し、この学校制度には前提があります。それは、「家庭教育において、生活の基礎基本がある程度できている」という前提です。幼児期から、日本の子供は保育園や幼稚園に通い、家庭においても保護者により、十分な教育が施されていると思われています。「親は子を慈しみ、すべての愛情を子供に捧げる」くらいの愛情を親たる者は持っていることが日本の文化だからです。しかし、先にも書きましたが、児童虐待は止まることを知りません。実は、既に日本の家庭教育は危機に瀕しているのです。以前は、貧困が児童虐待を生むのではないか…という意見もありましたが、今では、経済的に何の問題もない家庭においても「過度な期待」によるネグレクトは起きています。「偏差値」「学歴」「見栄」等で生きてきた人たちは、自分だけの価値観にしばられ、少子化の中で子供に過度に期待し、子供をコントロールしようとするのです。酷い親になると、「自分の子を親がどうしようと勝手だろ!」と嘯き、自分の虐待行為を否定した挙げ句に、「人の家のことに口を出すな!」と叫び、大騒ぎになります。人権が尊重される日本では、こうした家庭問題には弱く、警察も児相も具体的な対処方法が見つからないのが現実です。これも、現代の病巣のひとつでしょう。そうなると、これまで信じられてきた前提が覆り、日本の学校教育のあり方が根本から問われる事態に陥ります。政府も手を拱いたままで改善策は見出せないようですが、放置そればするほど、病巣は広がり、手の施しようもない状態になりかねません。早急な改善策が求められます。
さて、そんな「親の愛に育まれてきた子供」が小学校に入学してくるのですが、果たして、現在の幼児教育や家庭教育はどうでしょう。もし、この前提が崩れていれば、日本の学校教育は第一歩から躓くことになります。「今時の子供」は、本当に幼児期から集団行動が取れるような躾が行われているのでしょうか。もし、「公」より「私」が優先される教育を受けてくる子供が増えてきたら、間違いなく学校は崩壊します。以前は、親たちは子供に「我慢」や「辛抱」などという耐える強さを教えたものですが、今は、我慢や辛抱は、「子供がかわいそうだ…」とか、「我が子が損をした」と考え、「不公平だ」と訴えます。これも「権利」という考え方が強く示されたことで起きてくる現象です。この「損得」で生きる生き方は、自分の生き方を狭めるものですが、将来の見通しが持てない人たちには、目先の損得こそが、今、最も重要なことで、何でも我先に収穫を得ようとします。まさに飢餓状態です。豊かな時代といわれても、実際は、こうした心の「飢餓」が始まっているのです。集団生活では、損得の考え方が馴染まないのは当然です。なぜなら、だれもが一番を望んでも、集団でいる以上、常に一番を得ることはできないからです。それでも、学校では、できる限り「公平」に接しようとしますが、それは主観の問題もあり、なかなか、機械的に扱えないのが人間です。この「差別感」「不公平感」を如実に表すのも現代人の特徴でしょう。どうも、学校教育が求めている価値と、現代の人々が求めている価値が違い過ぎ、昔からの日本人の価値観で生きている人々には、なかなか辛い現実があります。子供の人間関係も「いじめ問題」が登場してからは、ギクシャクしたものになり、親友を作るのも難しいようです。子供は一緒にいれば、仲良くなったり、喧嘩をしたり、意地悪をしたりと様々な葛藤を繰り返してお互いを理解していくのですが、この「負」の部分にばかり目をやれば、友だちはできなくなります。人間関係は、心の作用ですから、なかなか難しいものですが、それを単純化しようとするのが、現代人の特徴なのでしょう。大人も、セクハラ、パワハラ、モラハラ…と、常に「ハラスメント」に気を遣いながら生きています。親身になって教えようにも、この「ハラスメント」の壁がある以上、昔風な「鍛えて育てる」教育は、消えていく運命なのです。
こうして、昔の価値観に基づく前提が崩れていけば、その組織の崩壊は免れません。感覚的に言えば、それは、近い未来に必ず起こる現象だと思います。「いい、悪い」の話ではなく、社会が変わってきた以上、その組織がどうあれ、変革が求められる時代になったことを認めざるを得ないのです。もし、今の学校で、子供個々の「やりたい」「やりたくない」といった感情が優先されたら、学校のカリキュラムを進めることは困難になり、集団としての秩序はなくなります。秩序が崩壊すれば、学校運営はできません。今の時代は「褒める教育」が推奨されていますので、教師の多くは子供を叱りません。「褒めて伸ばす」ことが教師の評価につながるからです。しかし、現実はそんなに甘い世界ではありません。学校には様々なタイプの子供がいます。タイプというのは、「性格」「能力」「道徳心」「生活習慣」「家庭環境」等、だれ一人として同じ条件の子供はいないということです。もし、学校が今の体制のままで、どの子にとっても過ごしやすい場所であろうとするならば、当然、「ルール」が必要になります。各職場においても常識的な「ルール」があるように、学校には学校のルールがあり、それを守ることで組織は秩序を保ち、円滑に機能していくのです。文部科学省が方針を転換して、「自由に…」「個性重視で…」「ルールは不要」と言うのであれば、今の学校教育法を改正して、「民間の学習塾」や「家庭での学習(ホームティーチング)」なども「学校」として認可する他はありません。そうすれば、保護者や子供の選択肢は広がり、ニーズに応じた様々な教育ができることでしょう。もう、そういう時代になっているような気がします。これまで、日本は教育の先進国でした。しかし、時代は大きく変わったのです。この学校制度も学校の「ルール」も、時代に合わないものがあり、子供や保護者のニーズに合わないものも出て来ました。これを改正していくことはもちろん必要ですが、今の体制では、「自由」や「主体性」の名の下に、「放任」を認めることはできないのです。
学校教育も高度経済成長期の一時期、成果を挙げたからと言って、何十年もそのままというわけにはいきません。事実、日本の学校は魅力をなくし、「先生になりたい」という子供や若者は激減しています。また、過酷な労働環境の実態が明るみに出ると、ブラック化問題が取り沙汰されています。つまり、学校体制の崩壊が始まっているのです。それは、時代に合わないために起きる「軋み」のようなものかも知れません。これからは、子供たちには、社会に順応できる能力だけでなく、個々の優れた資質を伸ばす教育が不可欠になってきます。これが、いわゆる「個性」を伸ばす教育です。外国では既に始まっていますが、子供の能力に応じて「飛び級」という制度を設けています。これは、能力的に高い資質のある子供は、学年を飛び越えて進級、進学させ、その人間に適した場で教育を施そうとする制度です。たとえば、中学生の子供が、飛び級で大学院の専門課程に進み、研究者として新しい発見に挑戦できるようになるというシステムのことです。また、「ギフト」と呼ばれるような知能が高い子供のために、より高度な授業が受けられるような教室や学校を整えたりすることを行っている国もあります。そうして社会に出て行った能力の高い人間によってAI革命が起こり、世界が高性能のコンピュータでつながる社会を創り上げたのです。この分野においては、日本は先進国にはなれませんでした。各家庭に普及したパソコンやスマホ、そのソフトの多くも外国製のものばかりです。日本の電気メーカーは完全に遅れをとり、今や、半導体すら外国に依存する有様です。今の時代を「第五次産業革命」の時代というのだそうですが、日本は、残念ながら時代の流れに遅れをとったのです。それは、政治の弱さでもありました。日本では、いつの間にか「みんな平等」という意識を刷り込まれ、少しでも不平等感があると不満を口にします。これは、一見よいように見えますが、能力の高い人間には結構辛いこともあるのではないかと思います。学校も常に横並び、勉強も過去問中心の知識偏重、試験もマークシートで思考は問われません。大学の勉強もさほど高度な内容は少なく、卒業しても急成長の会社は少なく、賃金も横並びでは、才能を持つ人間はいたたまれないことでしょう。飛び級もなく、ギフト対応もなく、ただ横並びでは、才能のある者は外国の先進地域に飛び出して当然です。その証拠に多くのノーベル賞受賞者の先生が、外国の企業や大学を拠点に研究してノーベル賞を取っているではありませんか。日本にいては、そんな環境を得られないから外国に行くのであって、日本に充実した研究ができる環境があれば、外国への流出は防げるのです。
これからの社会が、求めている人材を学校教育で育成できているかと問われれば、それは「否」です。この「横並び」精神から脱却しないかぎり、日本に明るい未来はやってこないと思います。これからの時代は、AI(人工知能)が有為に働く時代です。そうなると、人間はAIにはない「知性」や「創造性」「安定した情緒」が求められると思います。「知性」は「教養」と言い換えてもいいでしょう。知識や高度な技術はAI搭載ロボットに任せるとして、人間は、これまでの歴史や文化、先人の知恵などを活用して新しいニーズに応える努力をするべきなのです。AIは、確かにその正確性、予知能力、高い技術力にかけては人間を凌駕しています。しかし、人間の「心」までは、読み切れません。だからこそ、人間には高い「知性」が必要なのです。そして、「創造性」は、「芸術的センス」とでも言い換えましょうか。たとえば、日本人はロボットを「友人」のように扱います。それは、日本にロボットなる用語が登場してきて以降、ロボットは私たちの味方だったからです。「鉄腕アトム」「マジンガーゼット」「ガンダム」「どらえもん」…。こうした漫画やアニメの世界で育った日本人は、心から愛せるロボットを造り続けるでしょう。だから、芸術的センスが必要なのです。そして、最後の「安定した情緒」は、本来、日本人が持っていた「温かさ」です。権利の主張は大切なことです。しかし、それは、主張しなければならないギクシャクした社会があるからです。ハラスメントも、周囲が温かければ起こり得ない問題なのです。それをいつの間にか日本人は忘れ、損得で生きるようになりました。弱い者をいじめても、心が痛まない日本人は、何かを忘れてきていると思います。今後、AIと上手に付き合い、一緒に仕事をしていくためには、本来の日本人の情緒を取り戻すべきなのです。それこそが、日本人の「個性」として、世界が認める存在になるような気がします。
「日本人は、どの人も同じような顔をしている」とは、戦後の日本人を外国人が評した言葉です。つまり、「個性が感じられない」という意味で遣われました。それでも、今は、日本人もかなり個性的な人が増えてきたように思います。スポーツ選手、俳優、芸人、歌手、画家、作家…と、世界で活躍している日本人は多いと思います。しかし、国内で見ると、未だに流行に流され、自分の意思で行動する人は少ないようです。「周りがそうするから、自分もそうしよう」的な発想は、危険だと思います。流行は、自分が気がついた時点で流行ではなくなっているものです。流行を生み出す人は、「個性」を発揮した人ですが、それに乗る人には、個性は感じられません。個性とは、「自分を信じて行動できる」ことを言うように思います。他の人が何と言おうと、自分の意思で考え、行動し、生きようとする人をこれからの社会は求めているはずです。自分の意思を持つ人間の顔は、自ずと人と違うはずです。「人と違うことを怖れない」勇気こそが、これからの子供たちに求められているように思います。
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