私は、以前から、道徳を「モラル」と訳していいものだろうか…と疑問に思っていました。確かに、他に訳す言葉がなかったのかも知れませんが、言葉にして「モラル」という時と、「道徳」という時の心の動き(作用)がまったく違うのです。私からすれば、「モラル」は規範意識というようなニュアンスで語られることが多く、「社会通念上の良識に沿った行動」というように捉えています。簡単にいえば、「世間に迷惑をかけない行動」とでも言えばいいのでしょうか。これは、諸外国でも同じだと思いますが、まさか、日本でいう「謙譲の美徳」や「惻隠の情」までモラルの一部と訳されては、驚きを禁じ得ません。これらは、やはり「道徳」の範疇なのです。もし、日本の教育で、この「モラル」を教えれば事足りるというのなら、モラルは「倫理」の方が訳としては適切なような気がします。倫理を日本語で分析すれば、「理(ことわり)の倫(みち)」となり、「筋の通った行動」を求めることになります。だから、「哲学」もこの倫理で教えているのでしょう。しかし、「道徳」は文字どおり「徳の道」であって、到達点はありません。論語では、それを「仁」という文字で表していますが、人間が「仁者」の道を進むか「愚者」の道を進むかは、その個人の生き方だろうと思います。昨今の事件報道を見ていると、いい大人が、あまりにも愚かな行為に走り、「欲得」だけで生きている姿は、人間の姿をした「餓鬼」のようにも見えます。大人になれば、いい意味で「仁」を心がけてもいいのではないでしょうか。さて、道徳の「徳」という文字は、行動を表しているというよりは、「心」の動きを強く感じます。「徳を積む」という言葉がありますが、何を以て「徳を積んだ」と言えるかはわかりませんが、形はなくても、その人の心がけ次第で「徳は積める」ような気がします。したがって、実際のどんな行動をしたか…という形より、その「心がけ」が人を成長させるのではないでしょうか。つまり、道徳は、「人として、心を磨く修行」であって、行動そのものを指す言葉ではないと考えます。私は、学者ではありませんので、定義そのものの理解が不十分かも知れませんが、自分が生きてきた過程の中で、自分がそう感じ、納得している部分でもあります。おそらく、諸外国でも、その心の部分は「宗教」によって造られているのではないでしょうか。世界史を見ても「聖人」と呼ばれる人は多くいました。そして、それらの人々は「博愛」の精神を人々に広めました。それは、けっして、モラルの話ではなく、やはり「徳の道」なのです。今、ロシアがウクライナに軍事侵攻し戦争になっていますが、ロシアの人々は、これをどう思っているのでしょう。ロシアは、ロシア正教会という立派なキリスト教国なのですから、当然、「博愛」の精神は理解しているはずです。神にお祈りを捧げる人々が、戦争を憎まないはずがありません。たとえ、施政者がどんな理屈をつけようとも、主権国家に侵攻するなどという野蛮な行為を神が認めるはずがないのです。それは、最早「モラル」で語る行為ではなく、神を信じる人々一人一人の「心」の有り様だと思います。どの国でも権力者に逆らう術はありません。権力者には「現世の欲」がすべて詰まっています。そして、権力を失ったとき、その独裁者には何も残らないことは、歴史が証明しているとおりです。日本では、昔から「足るを知る」という言葉があるように、「自分という人間」を知り、己が生きていけるだけの物を欲すれば、それで十分だという教えがあります。我欲に塗れた人間が如何に浅ましいか、私たちは、それを「諫め」として、生きていかなければなりません。そこで、私なりに「日本人の道徳観」について、考えるところを述べたいと思います。
1 神話と道徳
日本には、古代を記録した「古事記」「日本書紀」があります。ここに書かれているのは、日本という国が建国されるまでの「物語」です。今でも「日本の神話」として学校の教科書にも掲載され、子供たちも親しんでいます。たとえば、「天岩戸伝説」「因幡の白兎」「八岐大蛇」「日本武尊」「神武東征」などは、多くの日本人が知っている物語ではないかと思います。戦後の一時期、「神話なんて、科学的根拠がない」と頭から否定された時代もありましたが、今では「パワースポット」という言い方で、日本の神々を祀る神社は、若い人に人気だそうです。「お伊勢さん」で有名な「伊勢神宮」や「出雲大社」などは門前町も賑わい、「伊勢うどん」や「出雲そば」などの食も私たちを楽しませてくれています。外国人観光客にも人気で、あの深い森に囲まれた厳かな雰囲気は、日本でしか味わうことのできない神秘な世界なのかも知れません。こうした日本の神々を祀る社が、今でも人気なのは、やはり若い人たちにも「古代日本人」の遺伝子が受け継がれているからだと私は思います。いくら、社会が変わり「神など迷信だ」と偉い人(世間でいう著名人)が訴えても、心が惹かれるものを否定することはできません。それは、頭で考えるものではなく、「心」が感じるものだからです。そういう意味で、日本には間違いなく、「神」が存在しています。そして、日本の神は「八百万」(無限)に存在し、「森羅万象、神が宿る」国なのです。
教育というものは怖ろしいもので、一つの定説が生まれ、日本政府が権力によってそれを認めると、あっという間に社会に拡散し、疑うこともせずにそれを「真実」と思い込みます。それは、「まさか、日本政府や偉い先生が嘘は言わないだろう…」という先入観があるからです。それだけ「公」は真実を語る機関だと考えられているのです。それは、他国を見ても同じです。この間、アメリカで大統領選挙が行われました。日本でネット情報を見ている限り、あれほどあからさまな不正はないと思いましたが、結果、明らかに不自然な開票のグラフが示されたにも拘わらず、「〇〇ジャンプ」という言い方で容認され、新大統領が誕生しました。それは、アメリカのマスコミや裁判所などの権威ある機関(公)が「不正はなかった」と認めたからです。中国や韓国では、国民に反日教育を行い、これも日本から見れば驚くような教育がなされていますが、国民はこれを信じ、今でも日本は「軍国主義国家」「ならず者国家」と認識しているようです。その国のだれもが、しっかり調べて、自分の意見として持っているのではなく、権威のある政府機関や人物が発言したことで、それが真実と認定されているからです。そして、これを素直に受け入れる人間だけが社会の正当な構成員となり、国をリードしていくのですから、怖ろしいものです。これを普通「洗脳」と言いますが、教育の力によって自分が洗脳されていることに気づかず、真実に気づかないまま一生を終えるとすれば、これほど不幸なことはないでしょう。確かに、「強い者に靡け」とか、「長い物には巻かれろ」という諺はありますが、権力に靡き、巻かれっぱなしの人生なんて面白いはずがありません。そう思う日本人は、少しずつ自分で考え、真実を見極めようと努力し始めました。そんな日本人が少しでも増えることを期待しています。
さて、日本の道徳教育には、「畏敬の念」という価値項目があります。これは、学習指導要領にある価値項目の一つですから、覚えておいてください。「畏敬」とは、「畏れ敬う」ことですが、「怖れる」=「こわがる」と同じではありません。たとえば、幽霊やお化けとなれば、単に「こわい」ですみますが、日本の神々に対して幽霊やお化けのような「こわさ」だけを感じることはないでしょう。なぜなら、日本の神々は、日本をお造りになった祖先神だからです。私の家は、臨済宗ですので「仏教」ですが、ご自分の先祖を「神道」で祀る家もたくさんあります。仏教では、「〇〇信士」とか「〇〇居士」という戒名を付けてお祀りしますが、神道では亡くなれば「〇〇命(みこと)」です。そんなご自分の祖先神を「こわい」と感じるはずがありません。これが「畏敬」の意味でしょう。私の感覚では、「畏れ」は「大事にする・蔑ろにしない」ことであり、それを「敬う」のは、子孫として当然のことだと思っています。そして、私もいずれ「あの世」に旅立ち、子孫を見守ることになるのです。これを学校教育で教えることは、実は、とても大切なことなのです。私は、この「畏敬の念」という価値が理解できれば、日本人として全うに生きていくことができると信じています。科学的という理由で、「目に見えるものだけが真実」と思うような感性では、人間を理解することは到底できません。人間そのものが不思議な生命なのですから、それすらも信じられないようであれば、生きる意味さえわからないはずです。最近起きる愚かな事件などを見ると、そうした「畏敬」という価値観がないために、相手に敬意を払うことができなくなっていることがわかります。たとえば、多くの大人は子供や幼児に敬意を払うことがありません。「子供(餓鬼)のくせに」という言い方がありますが、傲慢な大人は、自分だけが偉く、それ以外は見下す傾向があります。もちろん、慈愛に満ちた大人が子供をかわいがることと見下すことは同じではありません。肝腎なのは子供にも敬意を払い「愛情」を持って接しているかどうかです。言葉はどんなに取り繕っても、心が伴わない態度を子供は即座に見抜きます。「子供が懐かない」のは、そうした大人の姿に警戒心を持つからでしょう。大人の関係でも、下心が見え見えでは、危なくて近づくこともできません。「ハラスメント」が起きる原因も、この「見下す」態度が原因として考えられます。そこには、「畏れ」も「敬い」もなく、目に見える「権力・権威」だけにひれ伏す態度がありありと浮かんできます。こうした現世の権力・権威だけが絶対と思う心が、人間を堕落させるのです。
神仏を敬うことは、日本人として当然ですが、人間同士であっても「敬う」態度は、必要なはずです。子供は一人の人間として大人と同格です。どちらが上とか下はありません。但し、「親と子」「教師と生徒」「上司と部下」「年長者と年少者」という具合に、その立場立場での関係性はできてきます。しかし、それは教える者の態度が傲慢で差別的であれば、だれもその人間を慕う者はいません。逆に、教える側であっても「謙虚」で「慈愛」に満ちた人間ならば、だれもがその人に教えを乞い、生涯の師となるかも知れません。こうした人間としての道徳性の第一歩は、「神や仏」を敬うところから始まっているような気がします。今の日本の教育では、「神仏の教え」を指導することは禁止されています。これは「宗教教育」として、教えてはならない項目だからです。しかし、外国で、こんな国はありません。宗教こそが、国をひとつにまとめる力であり、国民の精神的な柱でもあります。もし、宗教を禁止して現世だけの価値で国民を指導しようとすれば、それは「強権政治」しかあり得ないでしょう。何でもかんでも規則や法律で縛り、権力によって国民を罰する以外に社会の秩序を保つ方法がないからです。ところが、実際、私たち日本人は、国の定めた法律だけで秩序を保っているわけではありません。「慣習法」と言われますが、昔からの生活習慣や風習、儀式、礼儀や作法などを守ることによって社会は円滑に進んでいるのです。この慣習は、仏教や神道の教えから日本人の生活に馴染んだものも多く、そこは、国の規則や法律で規制するものではありません。このことは、外国でも同じはずです。だから、宗教教育は学校でも普通に行われており、それを禁止するはずがないのです。しかし、日本ではこれを禁ずるのはどうしてでしょうか。戦前の「修身科」では、当然のように日本の神や仏の教えに基づく指導は行われていました。それが、敗戦によって修身科は徹底的に排除され、恰も戦争を起こした元凶のような扱いを受けました。それは、GHQが日本人が宗教によって再び団結することを怖れたからです。そして、その団結の元凶が「天皇」だと分析した連合国軍は天皇を取り除くことで、日本を骨抜きにしようとしたのです。しかし、結局、それはできませんでした。もし、あのとき、GHQが強引に天皇を訴追し皇室を潰そうとしたら、日本人の多くはもう一度銃を執り、新たな戦いを始めたはずです。それは、天皇個人というより「天皇」の存在が日本そのものだからです。当時は「国体」と言いましたが、「天皇を中心とする日本の歴史、文化、人」こそが、日本という国の「お国柄」なのです。そろそろ、日本政府もGHQの呪縛を自ら解き、日本人らしい宗教教育を取り入れた道徳教育を始めていただきたいと切に願う次第です。
2 先祖の教え
少子高齢化という時代になると、街中には高齢者が溢れる事態となっています。平日のスーパーやデパートには、高齢者しかいません。その高齢者のほとんどが戦後世代で、高度経済成長期に青年期を迎えました。そのせいかどうかは、わかりませんが、社会に対して不平不満が多く、権利を主張するのもこの世代に多いような気がします。私は、昭和30年代前半の生まれなので、戦後世代には入りません。それでも、高度経済成長期の申し子だと思っています。私の子供時代は、東京オリンピックから始まり、大阪万国博覧会、アポロ宇宙船の月面到着という新しい時代を予感させる出来事があると同時に、ベトナム戦争を始めとして、世界各地で小規模な戦争が起きていました。それでも、日本の経済は右肩上がりに成長し、外国人から、「エコノミック・アニマル」と揶揄されていたことも知っています。「土地神話」が起こり、社会は景気がよくなるだけでなく、金余り現象というべき「バブル経済」が起きたのも、私たちの青年期でした。世間は、核家族化の波が押し寄せ、我が家でもよく「マイホーム」の話は出ていました。当時のサラリーマンの夢は、戸建ての家を買い、自家用車を持ち、家電に囲まれた便利な生活を送ることにありました。そして、子供には、自分の夢でもあった「大学進学」をさせ、だれもが、エリート人生を夢見たのです。このころは、各新聞にも大学合格者(有名私大か国公立大学)の名前が掲載され、名前が出た子供の親は、鼻が高かったといいます。これなどは、単に社会の風潮に浮かれた日本の姿であり、元々の日本人の姿を表したものではありません。こんな価値を追求しているようでは、日本には明るい未来は永遠に来ることはないでしょう。
戦争は、既に30年以上も前に終わっており、まだ、戦中派は現役世代でしたが、戦後の風潮もあって、戦争の話を家庭でする父親も少なく、まして、学校で語られることはタブーでした。戦争映画やテレビドラマなどは創られましたが、どこまで真実に迫っていたかは甚だ疑問です。「太平洋戦争は、日本の侵略戦争だ」と教えられ、全国各地で「反戦教育」が行われたのもこのころです。特に、教職員組合が強かった地域では、かなり熱心な反戦教育が行われており、日本軍が行った戦争犯罪行為などを学校の中で教えられていました。そのために、子供たちは日本人でありながら、「反日思想」を植え付けられ、「自分は、なんて酷い国に生まれたんだ?」と嘆いた作文などが優秀作品に選ばれるほどでした。普通の学校では、近現代史は教師たちのボイコットによって行われず、日本史といえば、明治時代で終わるのが通例でした。当然、高校や大学入試に出題されることもなかったために、生徒は、勉強もしませんでした。自衛隊は違憲の存在であり、有名な学園ドラマでは、主人公の熱血先生が「自衛官になりたい…」と言う生徒を涙ながらに窘めるようなシーンが平然と流されていたのです。これでは、自衛官の子供は、いたたまれません。それでも、世間は、それを批判するどころかその熱血教師を賞賛しました。今でも、その俳優は「〇〇先生」と呼ばれて、立派な講釈を垂れています。もちろん、脚本がそうなっていただけのことですが、この俳優にもその台詞が納得できたのでしょう。この教師役の台詞を借りれば、「自衛隊は腐った蜜柑」でしかなかったのです。今でこそ、自衛隊は「日本に欠かせない組織」という認識がありますが、日本国憲法を素直に読めば、戦力を保持する自衛隊は違憲に決まっています。「違憲ではあるが、必要な組織」が日本政府も国民も認めているとすれば、改憲し自衛隊を憲法に明記するのは当然でしょう。そもそも、国防のための戦力を放棄したり、交戦権を認めないというような憲法は、だれが見ても憲法の資格がありません。もし、学生がこんなレポートを書いたら、即、落第です。それを「不磨の大典」の如く崇め奉る神経の方がわかりません。これぞ、まさしく「洗脳教育」の賜物でしょう。
さて、戦後の日本社会は、GHQによってほとんど破壊され、別な日本という国が出来上がりました。しかし、国民の生活習慣まで権力によって抑え付けることはできませんでした。私たちの生活習慣には、様々な日本人らしさが見られます。最近、外国人が旅行したい国の上位に「日本」が挙げられるそうですが、その中に「日本人のおもてなし」に憧れて来日する人も多いようです。これは、政府が予算を付けて簡単に作れるものではありません。どんなに金持ち国家でも、日本の真似ができないのは、こうした「国民性」が、歴史や文化というバックボーンに支えられているからです。だから、それに嫉妬した国は、日本を蔑み、反日教育に力を入れざるを得ないのでしょう。日本人の持つ、「丁寧な挨拶」「優しい笑顔」「気配り」「正直さ」「約束を守る」「正確な時間」「我慢強さ」「賢さ」などは、歴史や文化の異なる外国人から見れば、日本人の「美しさ」が際立つはずです。しかし、それを日本人は誇ろうとはしません。なぜなら、それが「日常」だからです。この日常の生活習慣こそが、私は「先祖の教え」だと考えています。日本がGHQの占領支配から解放され、再度の独立を果たした日から、日本政府は「国際社会への仲間入りを果たす」ことを目標に、多くの施策を掲げ国民をリードしてきましたが、その多くは「外国との競争に勝つ」または「外国人のようになる」ことがメインだったように思います。本当にそうなのでしょうか。いくら日本人が、同じブランドの服を着て、髪を西洋人風に染めても、日本人は日本人です。身近なところでは、オリンピックの「メダルの数」を競う風潮が今でもあります。これは、マスコミの意向が強いのだと思いますが、「金メダル〇個」を大きく掲げ、それを応援させるような風潮は、何となく「未だに発展途上国みたいなことをしているな…?」と思ってしまいます。このメダルの数が増えると、「国際社会で大きな顔ができるのかな?」と思うのは、私だけではないはずです。そんなことより、SNSで外国選手がツイートしてくれるコメントの方が私には大切に思います。今回の東京オリンピックでも、政府や上層部への批判はたくさん見られましたが、それよりも日本人スタッフ(ボランティア)の活躍は、まさに「金メダル」以上の働きでした。どんなに予算をかけて見た目を立派に着飾っても、その中で働くスタッフの気持ちが入らなければ、いい運営はできません。外国人選手も「清掃が行き届いた選手村」「おいしい食事」「一生懸命に働くスタッフ」「明るい笑顔」等をツイートし、「日本にまた来たい」と言ってくれました。これこそが、日本が誇る「おもてなし」の成果であり、オリンピックの成果なのではないでしょうか。それは、権力によって作られた人工的な道徳ではなく、私たちの祖先から受け継いできた、自然な「心の伝統文化」があったからこそです。この日本人の「美しさ」を引き継いでいくことが、これからの日本という国を発展させる「基盤」だと思いますが、如何でしょうか。
3 お天道様が見ている
私は子供のころ、祖母から「いいか、だれが見ておらんでも、お天道様が見てんだからな…」と繰り返し注意をされていました。特に学問のない祖母でしたが、これが子供を育てる上での「口癖」だったと思います。今、この言葉を遣う親や教師がどのくらいいるでしょうか。昔であれば、だれもが言っていた言葉が今では死語になってしまいました。きっと、頭の良い人は、この話を聞いても、「お天道様は、太陽で、太陽に意思なんかないよ…」とか、「太陽が見ていたところで、何ができるんだ?」と嘯くのかも知れません。自分の生きている世界だけがすべてで、科学が万能だと信じている人には、何を言っても無駄なような気がします。しかし、子供は違います。子供は、大人ほど冷めてはいませんので、そう聞くと、何となく「そうなのかな…?」と一度は、空を見上げ「お日様」を見るはずです。そして、自分の行いを反省し、「悪いことはしてはいけない」という自律心が育つのです。この感覚がないと、大人になっても常に「損得勘定」だけで生きようとします。仕事に就いても「なんだ、これっぽっちの給料じゃ、やってられない」とか、「上司に嫌なことを言われたから、もう、辞めてやる」などと、自分中心に物事を判断するので、仕事や勉強も長続きはしません。そのうち、「自分が運が悪いのは、社会(周囲)が悪いからだ」といつも、自分を庇い、人を貶すのです。そして、自分の選択が間違っていないと思い込み、自分の拙い損得勘定で、次の選択をしますが、それが幸運をもたらすことは稀でしょう。もし、この発想を辞め、「いいこともお天道様が見ているから、頑張ろう」と考えたとします。ここでいう「いいこと」とは、「社会(みんな)の役に立つ」ことです。それが、どんな小さな仕事(正業)であっても、仕事をして社会に貢献できないことはありません。外に出れば、多くの人が働き、こまめに動いている姿を眼にします。朝から店先を履き、窓を拭く店員さんの姿を見ます。ガソリンスタンドに立ち寄れば、制服の店員さんが、ドライバーに案内をしています。道を歩いていれば、宅急便のトラックが配達に回っています。畑には、農作業をしている人の姿を見ます。このどれもが、社会に貢献している人間なのです。こうした風景は日常的なものですが、もし、お天道様に意思があれば、笑顔を見せ「よく、働いているね。ご苦労様」などと声をかけてくれるに違いありません。そうした心を育てるのも、親や教師の務めなのだと思います。
4 心を育てる
平成の時代に入ったころから、学校での「いじめ」問題が取り沙汰され、子供(若者)の道徳心の欠如が国会でも話題になりました。このころの虐めは、ひらがなで書く「いじめ」というような軽いものではなく、陰湿で暴力を伴うような酷い内容のものばかりでした。教師が子供たちのいじめに加担するような事件や、集団で一人の子供の暴力を振るい自殺にまで追い込むような事件まで起こり、社会は「何で、こんな酷いことが起こるんだ?」と、だれもが信じられない気分でその報道を見ていました。しかし、それは、社会全体が「いじめ社会」になっている事実を炙り出すきっかけでもあったのです。これまで、社会が「経済成長」一点張りで走ってきた「つけ」が、今、まさに回って来たような気分でした。学校や子供は、その「きっかけ」でしかなかったのです。本当は、この時点で日本という社会が抱えている闇(問題点)を炙り出すきっかけになればよかったのですが、実際は、そうはなりませんでした。だれも、一度回った歯車を止めることもできず、過去の成功体験が忘れられずに、その後の数十年を無為に過ごしたために、日本は外国人からも「失われた30年」と揶揄された時期に、このいじめ問題が起こりました。何処の国でも「停滞期」はあります。戦前の日本も、明治、大正と続いた高度経済成長期が関東大震災という自然災害をきっかけに終了し、完全な停滞期に入りました。いや、同時に「世界大恐慌」という怖ろしい不況に見舞われ、一気に「下降期」に入ったのです。それでも、政府は軍縮もできず、海外の領土からの撤退もできず、戦争という最悪の事態に引き摺り込まれたのです。どの社会や組織もそうですが、この「停滞期」に入った時点で「下降期」を予測し、しっかりと足下を固める努力をしなければならないのですが、既得権益に侵された権力者の意思を簡単に変えることはできません。現在もこの時代と同じことが起こっています。「高度経済成長」という甘い夢を見た政治家や経済人は、その夢を忘れられずに足掻いてみたものの、この下降期から脱する術はありませんでした。その証拠に、日本の企業はその生産を海外に委ね、日本の産業の空洞化を招いていながら、未だに、他国依存から抜け出せないでいます。いずれ、そんな外国依存が破綻することはわかっていながら、今を乗り切ることだけを考えている経営者は、「自分のときでなければいい…」と現実から目を背け、「見て見ぬ振り」を決め込むのです。こうした負の連鎖が、社会に「いじめ」という醜い鬼を蔓延らせたのだと私は考えています。
さて、それでは、なぜ「いじめ」が起きるのでしょう。そして、起こる原因が学校にあるのでしょうか。もう、そうでないことは国民のほとんどが理解しています。それでも、社会全体として対応ができないために、根本的な議論がなおざりにされたまま、「学校の問題」化していったのです。人は、見たくない事実を「見ないようにする」習性があります。実際には、わかっていても、当座、問題にならなければ「見ぬ振りをする」のが賢明な生き方かも知れません。さすがに、それでは困るということで、最近は「リスク・マネジメント」という言葉が流行りましたが、この「リスク」=「不祥事」防止と言い換えられ、組織に手をつけるのではなく、労働者や子供への管理を強化しただけのように見えます。それでも、社会における不祥事は後を断たず、「リスク・マネジメント」は画に描いた餅のようになってしまいました。やはり、根本的な対策を間違えているのです。まあ、だれしも責任は取りたくないものですから、子供の「いじめ」であれば、「学校で指導すればいい」的な意見は、他の第三者にとって有り難い話だと思います。結局、「いじめ」問題は学校で対応することになりました。正直、「本当ですか?」と首を傾げたくなる結論です。
その後、社会(組織)では不祥事が相次ぎ、また、「ハラスメント」という大人による「虐め」が問題になってきました。「日本の家族は絆が強い」と思われていた家庭がバラバラになり、家庭内での「児童虐待」も大きな「虐め」事件として連日報道されています。これまで、一体何人の子供が親によって虐められ、亡くなったのでしょうか。それでも「親」というだけで、子供に対する権限は強く、児童虐待を防止する対策ができません。過去の「家族神話」を信じ、日本社会が壊れていくのに、「見て見ぬ振りをしてきた」政治の責任は非常に大きいものがあります。つまり、子供が「いじめ」を起こす原因は、大人と今の日本の社会にあるのです。大人にこそ大きな「虐め」問題があるからこそ、子供に影響が出て来たのが「いじめ問題」なのです。大人が自分を反省することなく、学校や教師を叩いても何の解決も得られません。大人が社会が、戦後の日本の営みを反省し、新しい日本像を創らない限り、日本の再生はないでしょう。
人は、目に見えないものを信じようとはしません。科学的に立証できない論は、端から相手にもされないのです。したがって、政治や行政の場において、人間の「心」の問題を真剣に議論したことはないはずです。所詮、「心の問題」は心理学や医学の問題で、それは「病んでいる人」の治療の問題にすり替えられ、政治に反映されることはありませんでした。しかし、人が生きていく上で「心」の問題を避けて通ることができるのでしょうか。人は「心」があってこその人間です。だれしも、人を憎み、蔑み、妬むことを嫌います。純粋な子供の時代に、そんなことを考えたこともありません。親にも教師にも、「思いやりを持て」「優しい人になれ」「一生懸命、頑張れ」と励まされて育ってきたはずです。だから、どんな重大な犯罪を犯した人も、その名前はみんな立派です。だれもが、論語から引用したような名前を持ち、親は「一生懸命、生きろ」と諭したはずです。それが、いつの間にか、心が歪み、人を憎むようになっていくのです。これは、人間が「鬼」に変わる過程なのかも知れません。もし、自分の心を映し出す鏡があれば、毎朝、自分の顔を鏡に映し、反省することができるのかも知れませんが、残念ながら鏡は、やはり、自分の心の中にしかないのです。
これからは、日本の経済が急激に成長することはないでしょう。安価な労働力は外国に移り、半導体などの機械の基盤産業も外国に移りました。新しいIT技術はすべて外国の発明品ばかりです。それでも「日本製品は、丁寧で良質だ」という評価がありますが、それも、これからどう変化するかわかりません。昔は、「日本人は模倣が得意だ」と言われましたが、今では、日本製品が外国でコピーされ、逆に日本製の物が売れなくなっています。この「失われた30年」をどう取り返すのでしょうか。社会が不安定になると、国民全体に活気がなくなり、様々な問題を引き起こします。少子高齢化、人口減少、社会保障費の増大、8050問題、虐め・ハラスメントと、問題が次々と起こり、政府はその都度、対処療法的な対応に追われていますが、根本的な解決には至っていません。世界を見ても、ロシア・ウクライナ戦争、中国の膨張政策、不安定な朝鮮半島問題と、日本が抱える問題は複雑化しています。そんなときに、何ができるのかを考えて欲しいと思います。
私見を述べれば、これからは、日本人が自らの手で、「日本を取り戻す」運動を進めていくべきだと思います。戦後、80年近く経過し、日本は奇跡の復興を成し遂げ国際社会に復帰しました。しかし、国としてはアメリカの庇護の下に中途半端な状況にあります。この問題は政治問題ですからここで論じる話ではありませんが、この戦後の日本社会が壊れてきていることは間違いなさそうです。それは、日本人が「日本人らしさ」を失いつつあることに比例するかのようです。日本は、世界に誇る「歴史と文化」の国です。そして、日本文明は固有の文明であり、アジアの諸国とは違う発展を遂げてきました。顔や姿形は似ていても、日本人の考え方は、他のアジア人とは異なることは明白です。そして、それが「日本(人)らしさ」につながっていることも事実なのです。そうであるならば、これからの日本は、その特長を生かした産業を興すことも可能でしょう。今でも自動車産業は日本の基幹産業であり、重工業も世界のトップクラスを誇っています。宇宙技術やコンピュータ技術、ロボット技術も世界の最先端を走っています。大切なのは、今までのような経済効率などではなく、日本人らしい「優しく・丁寧で・温かい」技術を磨き、世界に発信していくことではないでしょうか。そのためには、もう一度、社会や学校で「日本を取り戻す」運動を展開し、道徳教育に力を入れ、子供たちに「美しい日本」を見せることです。もし、一流企業が政府と協力して「美しい日本」キャンペーンを推進したら、この国はもう一度変われるような気がします。もちろん、素人の戯言かも知れませんが、「日本人の心」がこれからの未来のキーワードのなるような気がします。
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