第六筑波隊戦記 -時空を超えたカミカゼ-
矢吹直彦
序章 ビッグE
戦後77年が過ぎ、日本が国としての生命を懸けて戦った大東亜戦争も敗戦と同時にその大義も失われ、「太平洋戦争」という矮小化された名称が付けられ、今尚、歴史の教科書に太字で書かれている。
歴史を知る日本人には、けっして納得できる用語ではないが、敗戦国という事実が人々の上に重くのしかかり、日本人の拘りなど、世界から見ればちっぽけな言い訳でしかない。
だが、実際に日本軍と戦ったアメリカを初めとした連合国軍兵士は、日本の兵隊に対して、敬意を持っている者も多いと聞く。
この物語の主人公もそんな戦いをした日本兵の一人だった。
それも、世界海戦史上、かつてない戦法によって、唯一勝利した男のことを「ビッグE」と称された軍艦の乗組員は、片時も忘れることはなかっただろう。
戦後、新しく創られた「太平洋戦史」では、アメリカ軍が日本軍を圧倒し、完膚なきまで日本軍を叩きのめした…と内外に吹聴したが、事実はそんな単純なものではなかった。
彼らにとって、太平洋戦線への出動はいつも気が重かった。なぜなら、いつ、どこからともなく日本兵は忍びより、自分の命と引き換えに肉弾となって突っ込んで来るからだ。それは、陸も海も空も関係がなかった。少しでも気を緩めれば、つい、さっきまで隣にいた戦友が、どす黒い血を吐いて骸になって倒れているのだ。だから、彼らには体を休める暇がなかった。
この大きな太平洋という大海の中で、彼らが考えたこともないような怖ろしい殺戮が待っていたのだ。
「おい、ジェームズ。今日は、もう来ないかな?」
「いや、こんなもんじゃない。奴らは人間じゃない。悪魔だ…」
ジェームズと呼ばれた若い男は、鋼鉄でできた重いヘルメットを取ると、タオルで顔を拭いた。しかし、拭いたはずの汗が、何度拭いても収まるということを知らなかった。そして、さっきまで対空13粍機関銃の引き金を引いていた指先の震えが止まらなかった。
幸い、この日の攻撃は、取り敢えず防ぐことができたが、遠くに配備されている駆逐艦の数隻から黒煙が上がっていた。
それは、ジェームズのいう「悪魔」の仕業だった。
(おそらく、あの艦も酷いことになっているんだろう…)
(何人死んだかな…?)
(一体、こんなことがいつまで続くんだ…?)
ジェームズは、震える指先を抑え、腰に下げていた水筒に口をつけた。
一気に喉に水を流し込む。
美味いか、不味いかは関係ない。
喉が異様に痛むのだ。
水を何度流し込んでも、その痛みが取れることはなかった。
「おい、リチャード。少しは休んでおけよ…。奴らはもう一度きっと来る。悪魔は、俺たちの心の隙間に忍び込んで来るんだ!」
そういうジェームズの目は、何かに怯えるように遠くの空を見詰めていたが、目の眼球が小刻みに揺れているのをリチャードと呼ばれた若い水兵は見逃さなかった。
ジェームズと呼ばれた男は、半年前にこの「ビックE」に配属された19歳の一等水兵である。
ジェームズは、高校を出るとガソリンスタンドに勤めていたが、単調なその仕事に飽き飽きしていたところに、「海軍志願兵募集」のポスターを見て海軍に志願した。
母親は、
「何も、二十歳を過ぎてからでもいいじゃないか?」
と言ったが、ジェームズは、そんな母親を振り切り、
「ああ、もうあんなガソリンを入れるだけの仕事はウンザリだ」
「俺だって、英雄になりたいんだ。ナチでもジャップでも関係ない。俺が蹴散らしてやるさ!」
と、威勢のいい言葉を残してイリノイの田舎を飛び出して海軍に入った。しかし、戦時中の海軍は、思っていた以上に訓練も厳しかった。それでも、教官から、
「貴様は、いい面構えだ。貴様はきっと英雄になれるぞ。頑張れ!」
と励まされているうちにその気になり、半年の訓練が終わると、この「ビッグE」と呼ばれた巨大空母に配属されたのだ。
ジェームズにとって、この艦は、まるで「浮かぶ城」のように見えた。そして、「ビッグE」への配属は、自分が英雄になるための第一歩だと感じていた。
ジェームズは、海軍に入ってみて、これが天職だと思い始めていた。
ガソリンスタンドでコセコセと客に世辞を言い、小銭をもらうようなけちな仕事より、アメリカ合衆国という金看板を背負って第一戦で戦える方が、ずっと格好良く見えた。
(見てろ。俺は、きっと英雄になってやる!)
そう思うと、勇気が湧いてくるような気がした。
事実、ジェームズは兵隊向きの男だった。
頭の回転は速くはないが、正直で嘘がない。
上官の命令にも忠実に従う要領のよさも身に付けていた。その上、声がでかい。
海軍兵にとって声のでかさは、他に何にもまして必要な資質だった。だから、海軍に入ってからは、いつも模範兵として表彰された。
ジェームズが配置されたのは、巨大な航空母艦の甲板下のポケットと呼ばれる銃座だった。ここには、対空戦闘用の機銃が備え付けられており、ジェームズは、志願して13粍二連装対空機銃の射撃手になった。
ビッグEは、この太平洋戦線に出撃する前に対空用機銃を大量に配備した。そのために、ジェームズのような新兵でも射撃手という名誉ある配置に就くことができたのだ。
上官たちは、何も言わなかったが、この配置が「地獄の一丁目」だと知ったのは、この沖縄に来てからだった。
賢い者たちは、挙って艦内での仕事を希望したが、叶えられた者は僅かだった。その点、最初から戦闘員を志願するジェームズは、上官の覚えもよかった。しかし、その対空機銃員が一番戦死する確率が高いのだ。
ジェームズたち新兵は、ハワイにある海軍の新兵養成所で半年間の基礎訓練を受けた。本来であれば1年かけて訓練を行うはずだったが、志願兵の減少と反戦運動の高まりの中で、兵員不足を生じた海軍は、教育期間を半年に短縮して訓練を施したのだ。
特に、ジェームズたちのころは、何故か「対空射撃訓練」が多く採り入れられ、小銃などの火器の扱いを習うと、上官がこう命令した。
「いいか。太平洋戦線は、今、佳境に入っている。今や戦場は、貴様らのような若い力を必要としているのだ。とにかく、対空機銃の扱いに慣れろ。それが貴様たちの任務だ。いいな!」
本当は「大砲を撃ちたい…」と考える者もいたが、今や大砲を撃ち合うような海戦は起きなかった。
日本には、巨大戦艦があるという噂を聞いたことがあったが、このビッグEには敵わないだろうと思った。これこそ、まさに「浮かべる城」なのだ。
ジェームズたち、同期の新兵300名は、数名の脱落者を出しながらも半年にわたる訓練を終え、海軍一等水兵に任命された。上官によれば、
「貴様らは運がいい。半年で一等水兵だぞ。普通、一年の訓練の後に与えられる階級だ。それに、戦場に出れば、また半年で進級する。そうすれば、半年後には、上等水兵殿だ。そして、帰還後、専門の各種学校に入校し、1年もすれば、二等兵曹になれるんだ」
「中には、戦場での働きによってシルバースター勲章でももらえば、一気に階級が上がる。どうだ、すごいだろう!」
「そうなれば、貴様らは国の英雄さ。そうしたら、貴様たちは堂々と国に凱旋できるんだぞ!」
この言葉を聞いた仲間たちは、歓声を上げて喜びを爆発させた。
それはそうだ。ここにいる連中は、仕事にあぶれて兵隊に志願してきた連中がほとんどなのだ。それが「英雄」になれると聞いて喜ばない奴はいない。
勲章のひとつもぶら下げれば、除隊後も多くのサービスが受けられる。
就職を望めば、地元の企業なら喜んで採用するだろう。
大学に行きたければ、軍から奨学金が貰えるし、入学試験も特別採用枠がある。
ジェームズにしても、ガソリンスタンドの店員なんてチンケな仕事をしなくても、町の英雄として大学にでも行けるのだ。
そうなれば、町で事業でも興して大金持ちになってやる。そんな夢を描いていた。しかし、その夢が叶えられたのは、この中の数%もいなかった。それを知るのは、もっとずっと後のことだった。
「ビッグE」ことアメリカ合衆国海軍航空母艦「エンタープライズ」は、世界最強を謳われた海の航空基地だった。
1938年(昭和13)に就役した大型航空母艦で、基準排水量2万1千トン、全長252m、搭載機約100機、乗組員約3000名の巨大空母なのだ。
日本との戦争が始まると同時に、多くの海戦に参加し、日本の機動部隊と互角以上の戦いを演じて見せた「アメリカ海軍の至宝」だった。だから、この沖縄でも、この「ビッグE」が来たからには、アメリカの勝利は疑いのないものだった。
だれもがそう思い、乗組員たちも当初はさほどの緊張感もなくハワイを出撃したのだった。
だが、艦長のエドワード大佐には、懸念材料があった。それは、古くから乗組員が交替し、かなり多くの転勤者を受け入れていたからである。それに、今回の出撃前に乗り組んだ新兵は100名を数えていた。これまで、ミッドウェイから硫黄島まで多くの作戦に従事してきた艦ではあったが、乗組員の技量は、下がるばかりで、今回も対空機銃の操作に熟練している乗組員は、3割もいなかった。つまり、それだけ実戦経験のある兵が少ないのだ。
アメリカ海軍は、どんな戦場でも3ヶ月連続で戦えば、3ヶ月は後方に下げて休暇を取らせる義務があった。そして、1年戦場に出れば、次の1年は後方勤務として新しい要員を派遣する体制になっている。ところが、兵士の志願者が減ると、この循環が難しくなるのだ。
日米戦争は、アメリカにとっても苦しい戦いの連続だった。
アメリカ海軍は、日本機動部隊との決戦により戦力を奪い、太平洋の島伝いに日本を攻略しようと考えていた。そのために、ガダルカナル、パラオ、トラック、テニアン、サイパン、フィリピンと軍を北上させて行ったが、その兵士の損耗率は驚くべき数値を示し、アメリカ軍だけでなく、アメリカ政府も頭を抱えていたのだ。
なぜなら、アメリカ国民は、そもそも、この戦争を望んではいなかった。それが一転して開戦できたのは、日本が「真珠湾」を攻撃したからである。しかし、当初の熱も次第に冷めると、昭和19年には志願者が激減するといった事態を招き始めたのだ。
それは、特に海兵隊と航空隊に顕著に見られた。
ガダルカナルもパラオもテニアンもサイパンも、日本軍の抵抗は熾烈を極め、アメリカ軍の兵士は次々と遺体となって本国に送還された。
中には、認識票も見つからず、そのまま現地に残された遺骨もあった。
アメリカ政府や軍は、そんな被害の状況をひた隠しにしたが、実際、「戦死通知書」が遺族に届けば、その町の話題になった。
アメリカ東部の田舎町では、次々と届く訃報に、母親たちが市庁舎に団体で抗議に出るといったことが報道され、話題になった。
新聞では、連日「大勝利」の見出しで、「日本軍を撃退した!」と報じていたが、戦死者数は少なく見積もられ、元気に帰還する兵隊の写真ばかりを載せていた。しかし、現実は違う。
ある町では、志願して兵士になった若者の半数が還って来なかった。そして、今尚、日本軍との熾烈な戦いは続き、硫黄島、沖縄、そして日本本土となれば、途方もない数の兵士が死ぬことになるのだ。それは、アメリカ政府が許しても、家族は許せなかった。
時には、軍需工場の女性によるボイコット運動まで起こり、アメリカの厭戦気分は、既に昭和19年末にはピークに達していた。そんなときに、ジェームズはアメリカ海軍の兵士として沖縄に向かっていたのだ。
第1章 雷鳴
「おい、早く帰った方がいいぞ!」
校舎の3階の窓から、シノザキが早紀たちの方に向かって何かを叫んでいる声が聞こえた。
(何だ、シノザキか…?)
そう思いながら、早紀は、ふと、校舎の3階に掛かっている大きな丸時計を見た。時刻は間もなく夕方の5時00分を指そうとしている。そして、そのまま、眼を大空に向けた。
寒かった冬が終わり、やっと春らしい季節になってきていた。とにかく、今年の冬はもの凄く寒かった。
「異常気象」ではないかというくらい、いつまでも寒冷前線が下がらず、3月でも厚手のコートが手放せなかった。それでも、4月を迎えるころになると一気に暖かい風が吹き始め、桜が開花したのは、卒業式を終えるころだった。
これなら、今年の入学式は、満開の桜の下でできるはずだ。
そんなことを考えながら、早紀は、少し霞がかかったような空を見ていた。
ところが、目の端に異様な黒い影が見えたような気がした。それは、ジワジワと青空を浸食していくのがわかる。
「あれっ、雨雲だ…」
やっと暖かい春が来たというのに、春雷というのもありがた迷惑だった。
それでも、最近のヒット曲に「春雷」という歌があり、なんとなく鼻歌が出た。
「突然の雷が 酔心地 春の宵に…」
すると、隣にいた奈保子が、
「あれ、それ春雷でしょ…? あれ、いいよね…」
と一緒に歌い出すので、周囲の高校生がこっちを見て笑っているのが見えた。
「奈保子…」
早紀が注意をしても、もう奈保子は止まらない。
だんだん大きな声で歌い出すではないか。
もう、恥ずかしい…って言ったらありゃしない。
この子は、昔からこういう変なところがあった。そのうち、身振り手振りで踊り出されてはたまらない。
「さ、雨も降るから帰るよ!」
そう言って、早紀は、自転車置き場まで奈保子を引っ張るのだった。
遠くで、コロ、コロ…と雷らしき音が聞こえていた。
今年は冬が寒かったせいか、春の風の中にも急に冷気が入り、首筋あたりがゾクッとすることがある。だから、まだマフラーが手放せないのだ。それに、肌に当たる空気も冷気を帯びている。
それに、まだ気温も低く、日射しも強くない。
空は晴れてはいるが、黒い雨雲が、霞のかかったような空の端からアメーバの増殖のように広がって行く様子が見える。
「ありゃ、これは、やっぱりひと雨降るかな?」
そんなことを言っている間に、雷鳴がゴロ、ゴロ…という音に変わり、いよいよ、近づいてきているようだ。
早紀と奈保子は、汗に汚れた髪を洗い立ての「日本手ぬぐい」で拭きつつ、自転車置き場に向かっていた。
女子高生が「日本手ぬぐい」とは、なかなか渋い趣味だと思うだろうが、早紀たち剣道部では、常にハンカチ替わりに数本の「日本手ぬぐい」を鞄に入れているのが常識だった。
どうしてか…と問われると、特に理由はないが、部活動を始めた時から、本校剣道部では、それが「決まりだ!」と先輩たちから言われていた。それに、稽古では、面の下に被る「日本手ぬぐい」が必要だったので、早紀たちには特に違和感はない。ただ、クラスの友だちに見られると、
「やだぁ~。格好いい~!」
とからかわれるので、少々面倒臭かったが、慣れてくると、こんなに便利な布はない。
中学校の時に、友だちに勧めたら、クラスの女子全員が「日本手ぬぐい」をハンカチ替わりに持ってきて、一時ブームになった。
それが、みんな可愛い「手ぬぐい」なので、早紀も剣道用がたくさんあるのに、わざわざ町の和装店まで行って「うさぎ柄」の手ぬぐいを買ったことがあった。
店には、たくさんの種類の「日本手ぬぐい」が陳列されていて、また、吃驚である。
どうも、最近ではこうした和装小物が売れるのだそうだ。それに、意外とほつれてきたころが、一番汗の吸い取りはいいのかも知れない。
早紀のは、子供のころから道場で使っていた白地に「守破離」と墨で書かれた手ぬぐいで、家にもまだ10本以上はある。ただ、女の子が使う物としては、少し色気がない。
やっぱり、可愛い「うさぎ柄」や「お菓子柄」の手ぬぐいがいいかな…。
「守破離」とは、武道家の心構えの基本の言葉だ。そのせいか、未だにシノザキや父親に、
「早紀は、なかなか、自分の世界を破れないでいるんだな…」
と言われてしまう。
小学校1年生から、既に10年以上剣道の稽古を積んでいるのだから、そろそろ自分の型を身に付けてもいいのだが、つい守りに入ってしまうらしい。
一応、剣道二段で、間もなく三段の昇段試験を受ける予定だが、自分の得意技というものがない。
シノザキにも、
「山川のは、どの技も平均点以上だが、その体を生かし切っていないんだ」
と言われるが、自分に自信が持てないのか、試合になると何故か緊張して思い切った技が出ないでいた。
それでも、長いキャリアがあるので、そこそこは勝っているが、やはりそこそこで、優勝は少ない。
肝腎なところでポカをして負けることが多いのが早紀の欠点だった。
まあ、そんなわけで、日本手ぬぐいは早紀たち剣道家の「象徴」みたいなものなのだ。
早紀は、学校の部活動の稽古を終え、同級生の奈保子と帰宅するところだった。
校舎の正門の左側に新3年生の自転車置き場がある。
早紀たちは、この4月から高校3年生になった。そして、女子剣道部は、早紀が主将で奈保子が副将である。
奈保子とは、高校に入学してからの仲だが、昔から剣道の試合で顔を合わせるライバル同士だった。
勝敗は、早紀の方が少し上だが、奈保子の「返し面」は侮れない。
早紀も何度か、鍔迫り合いの後に喰らったことがある。
スーッと引く寸前に打ち込むので、咄嗟に避けきれないのだ。こういう狡さが奈保子の特長なのだが、これもやってみると意外と難しく、早紀のはバレバレである。
それにしても、相変わらずシノザキの声はでかい。
普段から割れた鍋でも叩いたようなダミ声で生徒を怒鳴っているが、あの声なら、マイクを使わなくても全校に響くだろう。しかし、滑舌が悪いせいか、大声は聞こえるのだが、何を言っているのかわからないときがある。
「シノザキ、何、言ってんだよ!」
空に向かって二人で吠えたが、早紀たちの声がシノザキに届くはずがない。
それでも、「早く帰れ!」と言っているらしいことだけは、その手振りでわかった。
シノザキがこっちに顔を向けた塗炭、早紀も奈保子もよそ行きの顔を見せた。そして、心の中とは裏腹に、女子高生らしい可愛らしい声で、「はーい!」とシノザキに聞こえるように返事をして手を振ってやった。
女子高生の制服に萌えない男はいない。
ああ見えて、シノザキだって独身の男なのだ。
普段はしかめっ面をしているが、授業中にちょっと猫なで声を出してやると、すぐにドギマギするのがわかる。それに本校の制服は、戦前の制服を模して作られた少しレトロ調の濃紺のセーラー服である。
最近は、ブレザーを制服にしている学校が多いが、本校は大正時代に開校した「自由教育」を売りにしているせいか、学校の方針も意外と復古調であった。したがって、男子の制服も濃紺の金釦で上着にはポケットがない。
これも意外と好評で、制服目当てで入学してくる生徒も多いのだ。
そんな制服に袖を通すと、早紀たちでも、なかなかの「女子高生」に見えるのだから不思議だ。
まあ、シノザキにちょっかいをかけるのは、大抵、クラスの朝倉麻紀だったが、麻紀は社長令嬢のお嬢様らしく、楚々としていてなかなかの美形だった。 黙っていれば、モデルか…と思うような美しさだが、あれで案外茶目っ気がある。
シノザキに叱られても、「はーい…」って返事して、少しシナを作るのだ。その色っぽさは女の私たちでさえゾゾッ…と身震いするほどなのだから、男共がザワつかないはずがない。
シノザキも、さすがにこのお嬢様には、一本取られてばかりだ。
早紀も負けじとシナを作って見せるのだが、奈保子に言わせれば、
「あんたのは、シナじゃなくてギャグだよ…」
と呆れられるだけだった。
早紀は、見た目と違い、高校3年生になったばかりの「花の女子高生」なのだ。
最近の女性雑誌にも「〇〇ギャル」特集が組まれるようになり、今や女子高校生の制服姿は、世の中の男たちの憧れになっている。…らしい。
らしい…というのは、どうも本校の男共は奥手が多いらしく、そんな可愛い女子高生がたくさんいるのに、早紀たち剣道部女子のところに男が寄って来ることがない。
早紀も奈保子も剣道部で鍛えた肉体と、すらっとした長いカモシカのような足が魅力的だと思っている。
スカートもやや短めにしてあるし、最近流行のルーズソックスこそ履かないが、紺のハイソックスは長い足によく似合う。
まあ、今時の高校生はみんなこんなもので、早紀たちは、その中でもまじめな方だと思っている。少し色が黒いのが難点だが、これも「小麦色」だと言えば、それなりだろう。だが、奈保子に言わせれば、
「早紀、あんたのは小麦色じゃなくて、クロちゃんだろう?」
「冬も黒いのに、夏になると日焼けで真っ黒になるんだから、小麦は小麦でも焼きすぎのトーストだね…」
なんて悪態を吐く。
どうせ、汗臭い剣道仲間だから何とでも言わせておくさ…。
どうも剣道は、防具にも汗の臭いが染みつき、どんなきれいな娘の防具でも、その匂いは耐えられない。
小手なんか、脱ぐと自分の手にも汗と脂、防具独特の匂いが混じり、洗っても匂いが取れたことがない。
さすがにこの匂いでは、男共が寄って来るはずもないのだ。
それに比べて吹奏楽部の麻紀は、いつもバラのような香りを漂わせていて、放っておいても男共が近づいていくのがわかる。
噂では、既に大学生に彼氏がいるらしい…。
この物語の主人公の一人である「早紀」と呼ばれた女の子は、東京は両国生まれの私立大和学院高校3年山川早紀、17歳だ。
隣にいるのは、同級生の高木奈保子。
早紀は2月生まれなので17歳になったばかりだが、奈保子は5月生まれなので、もうすぐ18歳になる。
最近は、少し大人になってきたのか、「セブンティーン」という響きに早紀は憧れていた。
雑誌にも、グラビアに同じくらいの女の子がビキニ姿で載っていた。
まあ、あそこまでじゃないが、早紀もそこそこイケてるんじゃないかと、風呂上がりに鏡の前でポーズを作って見るが、角度によってはなかなかのものだと自負している。だから、以前は、早紀も早く「セブンティーン」になりたいと思っていた。しかし、実際、17歳になったところで、何も変化がないのは、どういうことだろう。
これで、18歳になっても、やはり汗臭い剣道女子なのだろうか。
憧れる先輩がいないわけじゃないが、話したこともないので、イメージ先行である。
これも、恋といえば恋なのかも知れないが、彼氏のいる麻紀とは大違いだ。
奈保子も今は一人だが、確か、去年は彼氏がいる…と言っていた。
何でも中学校の同級生だったそうだが、喧嘩別れをしたらしい。
早紀はそれを聞いたとき、一人でフフフフッ…と密かにほくそ笑んだ。
早紀と言えば、そんな浮いた噂のひとつもない。
こちらが一方的に憧れても、向こうが何も知らないんじゃ、恋とも言えないだろう。そういう意味では、奈保子は、一応「恋愛」経験者なのだ。
子供のころは、碌に鏡を見たこともなかったが、中学生になったころから少しは身だしなみには気をつけるようになった。一応、歯も磨くし、髪も梳かす。
まあ、長い髪ではないので、梳かすといっても「手ぐし」で十分なのだが、一応髪を洗えば、ドライヤーで乾かすようになった。
小学生のころは、「ほっといても乾くよ…」と専ら自然乾燥に頼っていた。
既に背は165㎝を超えており、人並み以上に高いのだが、痩せ型で、手足ばかりが長く、顔が小さい。
ただ、なぜか眼だけが大きく、睫毛も長かった。
周りの女子からは、「ワーッ、モデルみたいね…」なんて、言われることもあるが、顔が童顔なので、モデルになっても化粧映えはしないだろう。それに、背は高いが肌は黒い。
もちろん、日焼けのせいもあるが、父親が黒系なので、こればかりは直しようがない。
母親は色白だから小学生の妹は肌が白い。これは、少し不公平だと早紀は思う。それに、髪は邪魔にならないように、かなりショートに切り揃えてる。子供のころは、一時、ポニーテールにしていたのだが、さすがに夏場は邪魔くさくなり、高学年になるとバッサリと切って、それ以来髪は男子並みにしている。
親友の奈保子は、色白、ぽっちゃり系で、髪も肩まで長く、時々、よそのおばちゃんから「可愛い…」と言われるのが自慢らしい。
あのおばちゃんたちは、若ければみんな「可愛く」見えるのだ。
先日も、奈保子と原宿に行ったとき、何人かのおばちゃん組に声をかけられたが、それは専ら奈保子の方だった。
それに、奈保子は5月生まれなので、間もなく18歳になる。
だからかも知れないが、早紀が見ても大人の色気が出始めているようだ。
早紀が男なら、間違いなくラブレターを渡している一人だろう。
早紀は、喋ればぶっきらぼうだし、小学生のころから男子に喧嘩で負けたことがない。この長い手足を使って男共を蹴倒すのが、早紀の得意技なのだ。
だから、今の今まで、ラブレターなる物をもらったことがない。
奈保子なんて、しょっちゅう(時々)下駄箱に入っているらしい。
こちらが聞いてもいないのに、そういうときは必ず奈保子は嬉しそうに報告に来る。そして、「私は、気がないんだけどね…」とひと言付け加えるのが癖になっていた。
(なんじゃ、そりゃ…?)
早紀には、そんなことは、些末な問題でしかなく、正直、どっちでもいい話なのだ。腹の底では、少し悔しさは残っているが、「私は私でしかない…」と諦めている。ただ、2月生まれの早紀は、どこから見ても、まだ、色気という「色」はついていない。
今は、この体たらくな女子剣道部を復活させることが、早紀に与えられた当面の課題なのだ。
昨年度は、本校女子剣道部は、残念ながら東京都ベスト8で青森県で開かれる予定のインターハイには出場が叶わなかった。
個人戦では、3年生の主将日向由貴先輩が準優勝でインターハイに出場した。
昔は、東京都の中でも強豪校として鳴らしており、シノザキが赴任したころは、インターハイには毎年団体で出場し、ベスト8二回、ベスト4一回の実績があった。
個人戦でも昭和46年の年に、3年生の沢田澄子さんがインターハイで優勝を飾っている。それが、最近では、都大会ベスト8はいい方で、数年前は、出ても1、2回戦で負けていた。それも、本校が進学校として実績が上がるのと反比例するように、女子剣道部は弱くなっていったのだそうだ。
やはり、「文武両道」は難しいのだろう。
インターハイ個人戦に出場した日向由貴先輩は、二回戦敗退だったが、全国3位に入賞した佐賀女子高3年の春川泉選手と互角の勝負を演じたのは、最近耳にした明るいニュースであった。
日向先輩は、剣道3段で、体の大きい人だった。
私もよく稽古をつけて貰ったが、体力があるので、なかなか押し込めず、よく面をもらった。その痛いこと、痛いこと。
竹刀が撓るので、面を打ち込まれると後頭部に痛みが走る。
こっちが、それで朦朧としていると、また、面に飛び込まれて終わりなのだ。
その豪剣でさえ、やはりインターハイでは通用しなかったらしい。でも、いい勝負をしてくれたのは、嬉しかった。
「ねえ、日向先輩の返し面、すごかったよね…」
「あれで、一、一になって、三本目の相打ち面は、惜しかったなぁ…」
「ビデオで見ても、あれは、日向先輩の方が先のように見えたけどね…」
「うーん…。でも、打突の正確さは、春川さんかな…?」
こんな話を奈保子と練習後のダベリングをしていたところにシノザキのダミ声が聞こえてきたというわけだ。
早紀たちが夢中になっていたのは、その日向先輩と春川選手との一戦がすごかったからだ。
一進一退を続けたその試合を、早紀たちは部室のビデオで何度も見て研究を続けていた。日向先輩が戦った佐賀女の春川さんは、オールマイティの試合巧者で、1年生のときからインターハイに出ていて、常に個人戦ベスト8以上に入る猛者だった。
こういう選手には、正直攻め手がない。しかし、日向先輩は、その体力で圧倒する場面もあって、得意の面が効果的に効いていた。ただ、スピードで春川さんが優れており、その動きに日向先輩がついて行けず、最後の相打ち面も僅かに春川さんの竹刀が先に入っていた。
そうなると、この「スピード」「足捌き」が、本校女子剣道部の課題になっていた。それから、早紀たちは、シノザキの指導で、何度も何度も足捌きの練習と、ダッシュを繰り返した。
男子部員からは、「おい、女子は、いつから陸上部になったんだよ…」とからかわれたが、「ふん…!」と無視して、練習は続けられたのだった。
お陰で、早紀も奈保子も、随分と引き締まった足になり、風呂場で見ると、「満更でもないな…」と一人悦に入っていた。
このビデオは、早紀たちが青森までは応援には行けないので、日向先輩の両親が、そのときのビデオを貸してくれたのだ。
部員みんなで、しょっちゅう見て研究をしている。
そのうち、テープが擦り切れるんじゃないか…と思うのだが、ダビングしているそうだから、遠慮なく使わせてもらおう。
それにしても、剣道は「腕や手」ではないことがわかる。
やはり、昔から言われるように「足」が肝腎なのだ。
春川さんの足捌きは、まるで日本舞踊を待っているように美しいが、日向先輩のは、「足捌き」というより、地団駄を踏んでいるようにさえ見える。
失礼ながら、これが現実なのだろう。
勝敗は、僅かな差に見えるが、実際は相当の実力差があると見た。だから、早紀は目標を「春川泉」に決めた。
あのスピードと足捌きをマスターできたら、早紀は「鬼に金棒」なのだ。
そんな調子で稽古を重ね、早紀たちは当面の目標を「春のインターハイ予選県大会突破」と定めた。
早紀は、団体でも個人でも最後のインターハイに出るつもりでいた。
ただ、心配なのは、「弱気の虫」である。
「これさえ克服できれば、絶対に大丈夫だ」と言われているが、こればかりは、自分の性格を責めずにはいられなかった。
早紀たちが「シノザキ」と呼んだ中年の男性教師は、本校剣道部の顧問兼監督である篠崎鉄馬教諭のことである。
篠崎教諭は、本校の社会科の教員でもあった。
國學院大學剣道部の出身で、剣道五段の猛者である。
全国大学剣道選手権に二度出場した経験を持ち、得意技である「返し面」は、今も健在で、男子部員も歯が立たない。
早紀たち女子部員は、専らコーチの岩代千絵子教諭に教わる方が多かった。
彼女は、やはり剣道三段の腕前で、小太刀の名手として知られていた。だから、剣道でも、彼女の「出小手」は、切れ味が鋭い。
早紀もよく稽古をつけて貰うが、なかなか一本が取れない。
お陰で、早紀の小手技もかなり上達した。
それに、彼女は背が高く細身なので、早紀によく似ていた。但し、足捌きとなると、彼女のそれは「春川クラス」のレベルにあった。
当然、大学の剣道部でやってきた先生なので、上手いのは当然なのだが、彼女は、30を過ぎているのに、いつまでも若くきれいで、本校の「マドンナ」と呼ぶ人もいたぐらいだった。
シノザキは、「チエ先生」が好きなのかも知れないが、そんな素振りは一切見せない。それに、彼女には素敵な彼氏がいるという噂もあった。
まあ、あれだけの美女を放っておく男はいないだろう。
「チエ先生」の教科は化学で、いつもは白衣を纏い、颯爽と校舎内を闊歩している。
「化学者と剣道」って何か不思議な気もするが、どちらにしても格好いい。乗ってる車だって、トヨタのマークⅡだし、早紀もいつか「チエ先生」みたいになりたいと本気で思っているのだ。
早紀には、昔から「内弁慶」のところがあった。
両国の和菓子屋に生まれ、甘く育てられたせいか、少し我儘らしい。
らしい…と言うのは、奈保子だけでなく、小学校のころから担任の教師に言われていたからである。
そんな性格もあって、兄たちが習っていた「青龍館道場」に通わされたのが剣道の始まりだった。
青龍館の松戸師範はもの凄く厳しい人で、礼儀や作法については徹底的に仕込まれた。そのせいか、早紀も姿勢がよく、それが剣道にも現れているらしい。
長年、厳しい稽古を積んできたので、近隣の高校の練習試合でも負けたことがない。
「大和学院の山川」といえば、この近隣では少しは聞こえた剣士なのだ。だが、学校ではそんなことは関係なく、男子と一緒にガンガン練習させられている。
早紀たちの町「両国」は、今でこそ「相撲の聖地」とかで、街中に大相撲に縁のある建物や店舗も多く観光客で賑わっている。
大相撲の相撲部屋もあちこちにあり、本校相撲部も全国大会の常連校なのだ。
学校の周囲は、やっぱり東京なのだが、意外と路地に入ると都会には似合わない昔ながらの小さな長屋もある。
学校は隅田川沿いにあり、春になれば、堤防に植えられた桜が一斉に咲くので、観光客だけでなく住民の目も楽しませてくれている。
両国は、「忠臣蔵」や「赤穂浪士」の討ち入りで有名になった「吉良邸」があったところで、今でも昔の吉良邸の一部が「松阪町公園」になっている。
早紀の少し上の先輩には、矢頭右衛門七の子孫を名乗る人もいて、全国大学生選手権大会で優勝もしている。
この辺りは、そんな関係もあるのか武道が盛んなのだ。
だから、剣道部員は道場出身者が多く、みんな段位を持っている。しかし、ここ一番になると弱気になるのか、いつも、都大会で二位や三位に甘んじることが多いのが課題だった。
早紀の代では、きっと都大会の優勝を成し遂げ、インターハイに出場したいが、何せ、東京は学校数も多く、区大会ですら勝ち残ることが難しいのだ。
シノザキは、「今度こそ、その壁を打ち破れ!」と檄を飛ばすが、早紀たちには、何か足りないものがあるようだった。それは、技術的なものではないのだが、今ひとつ、早紀自身が克服できないでいた。
周りの人に言わせれば、
「大和学院の生徒は、上品過ぎるんよな…。もっと、ハングリーにガンガン行かないと。要するに、最後の詰めが甘いんだよ!」
と言われる。
確かに、この学校に通ってくる生徒の家庭は裕福な家が多い。
早紀の家は、町の和菓子屋だからそんなに裕福ではないが、東京の「老舗」で通ってるので、雑誌に掲載されることもあり、菓子司「立花」の菓子は、上品なお遣い物になるようだ。
最近できた新作の「水饅頭の黒蜜かけ」は、かなり評判を呼んでいる。でも、所詮は菓子だから、薄利多売で儲けは少ない。だから、傍で見ているほど、暮らしは楽ではないのだ。
そうはいっても、早紀や兄たちの学費や部活動の費用もばかにならないし、少しでも節約しようと思うのだが、剣道の道具は修理ひとつとっても、結構高いのだ。
早紀の父や祖父は、「気にしないでいい…」と言ってくれるが、大学生の兄ともなると、そうもいかないようだ。
兄も時間を見つけては、家の手伝いをしたり、アルバイトに出かけたりしているが、大学生二人となると、家計が心配になる。
二人とも家から大学に通っているので、それほどお金はかからないが、頭のいい兄二人は、大学院への進学も考えているようだった。
こんな調子だから、節約と言っても、この古くなった自転車を自分で整備して乗っているくらいしかできない。でも、中学校時代からの相棒だから愛着はある。
そんなこんなで、遂に高校3年生の春を迎えたが、早紀の生活自体には何の変化もなく、時間だけが過ぎていく。それに、今年は春先が寒かったので、桜の開花は少し遅れているようだった。
「こんな気持ちのままでは、キャプテンして大丈夫かな…?」
そんなモヤモヤした気持ちのまま、春のインターハイ予選が始まろうとしていた。
5月になれば、墨田区の「区大会」が始まる。
これは、夏のインターハイに向けての大事な予選会であり、早紀としても、これまでの練習の成果を発揮する絶好の機会と捉えていた。しかし、3年生で3人は揃うが、二人の2年生を使わざるを得ない部員不足は、如何ともし難い状況だった。
男子は、20人以上の部員がいるが、女子は、有段者が5人しかおらず、残りの5人は、まだまだ戦力にはほど遠かった。それでも、奈保子が中堅で、早紀が大将に座っていることで、安定感はあった。後は、先鋒が3年生の山城迪子が鍵になる。
迪子は、やはり地元の道場の出身で二段である。体は小さいが、天性の脚力を生かした飛び込み面は、相当の威力を発揮しそうだったが、大柄な相手には、体力差で難しい面があった。それで、今、一生懸命体力を増強しているところだったが、まだ、結果は出ていない。
後の次鋒の佐々木久美と副将に置いた山田聡子が2年生の選手だ。
まあ、佐々木も山田も剣道の経験者で初段だが、技は使えるとして、体がまだできていない。二人とも背はあるが、筋力が弱く、「百本素振り」でさえ音を上げることが多い。
早紀たち3年生は、1年のころからシノザキとチエ先生に鍛えられているので、「百本素振り」は、毎日3セットはやっている。それに、今は、スピードと足捌きの練習に余念がない。
最近では、チエ先生から日本舞踊の手解きを受け、足の運び方を教えてもらった。確かに、日本舞踊は、一曲踊ると、剣道の稽古以上に汗をかいた。これも、なかなかのスポーツで、「踊りだ」と言ってばかにはできない。
あんなに優雅でゆっくりとした動作で踊れるのも、稽古によって体幹が鍛えられている証拠だった。これをマスターできれば、確かに「足捌き」に応用できるだろう。
そんなことを考えながら、奈保子と相談をしていたのだ。
シノザキは、早紀たちだけでなく男子の監督も兼ねていたので、なかなか忙しく、早紀は、そんな悩みを打ち明けたこともない。ただ、シノザキもわかってはいるらしく、
「まあ、今年のチームは小粒だからない。少し、体力的には厳しいかも知れんな…」
と言うくらい、選手全員が小柄で細身だった。
早紀が一番背が高く167㎝あったが、奈保子も160㎝程度だったし、他の選手も160㎝に届かない者も多いのだ。
それでも、体重があればいいのだが、みんな今時の女子高生で、あまり太りたがらないし、甘い物を食べても、稽古をするとすべてが汗で流れてしまうようだった。
早紀も奈保子もそれなりに食べるのだが、体質と言うか、なかなか体重は増えなかった。
まあ、早紀より奈保子の方が、体重には気を遣っていたのかも知れない。
奈保子の将来の夢は、舞台女優だから、意外とオーディションなんかを気にして節制している風もある。その点、早紀の夢は学校の教師だから、あまり体重は関係ない。でも、細いのは祖母譲りで、こればかりはどうしようもないのだ。
さて、そうこうしているうちに雨雲らしい黒い雲が、こちらにドンドンと広がってくるのが見えた。
(おっと、これは、来るな…?)
早紀と奈保子が、やっと来た春を楽しんでいるうちに、周りは益々暗くなり、真っ黒な雲の隙間から、真っ白な光の筋が見えるようになってきていた。
「ねえ、早紀。雷が近づいてくるよ…」
そういう奈保子の顔にも、愈々、焦りの色が見え始めた。
「そうだね…。じゃ、急ごうか?」
早紀がそう言うと、二人はそれぞれの自転車に乗り、急いでペダルを漕ぎ始めた。
早紀の家と奈保子の家は、学校から出て10分くらい先の「回向院」で別れる。
早紀はそのまま隅田川の方に向かうが、奈保子は、そこから左手に折れる。
道路は整備されているので自転車でも走りやすいが、雨が降ると路面が濡れてブレーキが利きにくくなるのだ。
気になって空を見ると、上空は霞がかった空が広がっていたが、右手奥には真っ黒な雲が異様な光を伴って接近してくるのが見える…。
今時、こんな珍しい空にお目にかかったことはなかったが、春の異常現象だと思えば納得もできた。
春雷には、そんな不思議な力でも秘めているのかも知れない。
冬が長かった分、雷のエネルギーも随分と溜まっているのだろう。
まだ、雨粒は感じないが、少し、冷やっとした風が頬を撫でた。こういう風が吹くのは雷雨の前兆である。それに、風が出て来たのか、街路樹がかなり揺れ始めている。
学校から大きな隅田川の方角に向かって走れば、一直線で両国橋に着く。
学校からは自転車で15分ほどなので、歩けない距離ではなかったが、早紀たちは部活動の練習もあるので、特別に学校から許可をもらって自転車通学をしていた。
学校から早紀の家までは、のんびり走って30分くらいだから、急げば20分で帰れる。
奈保子の家は、そこから左折していくので、やはり急いでも30分くらいはかかるだろう…。
そんな時間の関係もあって、奈保子の方が早紀より焦り気味だったのかも知れない。
自転車のペダルは思ったより重く、気持ちばかりが先行しているせいか、なかなか進まないように感じる。それに、この辺りは平坦に見えるが、少し上り坂なのだ。
普段は、鼻歌でも歌いながら走る道で、あまり坂を苦にしたことがないが、この日ばかりは、何故か汗をかいた。
それでも、雨が降らないうちに回向院近くまで辿り着いた。ここまで来ればもう少しだ。
ちょうど、回向院の山門前まで来ると、早紀は自転車を止めて奈保子を見た。
後ろを走っていた奈保子も、空を見上げながら自転車を止めた。
早紀が、
「奈保子、じゃあここで。気をつけてね…」
そう言うと、奈保子も、
「うん。降る前に家に着けばいいけどな…。雷は怖いし…」
「じゃ、早紀。行くね…」
そう言うと、サッと自転車のサドルに跨がり、右手を大きく振って自転車で走り去った。
奈保子の背中越しに、「じゃあ、明日、またね!」という声だけが聞こえた。
早紀も大きな声で、「じゃあね。気をつけて!」と叫んだが、こっちも、のんびりとしてはいられない。
急いで自転車に跨がろうとしたその瞬間に、いきなりポツン、ポツンと大きな雨粒が落ち始め、アスファルトの路面に丸い小さな円を描いた。
それは、本格的な雷雨の予兆だった。
「やだ。もう降ってきた?」
そう思い、前籠に入れてあるボストンバックから、折り畳み傘を出そうとしたときである。雨がバケツの水をひっくり返したように降ってきた。
ザー、ザザザーッ!
「きゃあ!」
早紀は、その場に自転車を捨てるように置くと、急いで回向院の山門の中に走り込んだ。
幸い、回向院の山門は、ドーム型の屋根が付いており、取り敢えず雨だけは凌げる。しかし、急な天候の変化には驚いた。
今や、空は真っ黒な雲で覆われ、まるで夜のようになった。そして、数本の稲光が光った。
ピシャ! ゴロゴロ! ピシャ! ゴロゴロ!
その大音響とフラッシュを焚いたような白い光の連続攻撃は、どんな剣の達人でも躱すことはできないだろう。
早紀は、悲鳴を上げながら、ひたすら回向院の山門の柱にしがみついていた。そして、その柱の中からは、何と仁王様がこちらを睨んでいるのだ。
その怖ろしげな顔が、稲妻の光に照らし出され、早紀を「カッ!」と睨み付けている。
普段はよく見たことのない仁王像の眼が、このときばかりはランランと光っているように見えた。
「きゃあ…っ!」
早紀は、その顔を見ただけで、気が遠くなりそうな恐怖を覚えた。
(奈保子は、だ、大丈夫かな…?)
そう思い、身を屈めながら空を見上げた瞬間である。その日、最大級の稲妻が、目の前に光った。
ピシャ! ド、ドドーン!
その光が目を瞑っていた私の目の奥まで入り込んだ。
「キャアー!」
どうやら、回向院の山門の屋根に雷が落ちたらしい…。
早紀が覚えているのは、そこまでだった。
心の中で、(奈保子、奈保子は…?)
と、さっき別れた奈保子のことが脳裏から離れなかった。
周囲には、猛烈な突風が吹き、その方向の定まらない風は周囲の迷惑も顧みず、あらゆる物をなぎ倒す勢いだった。
風は、ゴーッ…という音からガーッ!という音に変わり、空には稲光が幾筋もの黄色い光の筋を見せて、地上を叩いた。
早紀は、消えかける意識の中で、そんな情景を見ていた。それは、自分の眼で見たものではないようだった。目は瞑っていたが、耳だけははっきりと、その音を聞いていた。
早紀は、為す術もなく、ひたすら、波に漂う木の葉のように翻弄されるしかなかった。
第2章 第13期海軍飛行予備学生
「総員起こし、15分前!」
その声で、俊介は目を覚ました。
(もう、朝か…?)
それにしても、妙な夢をみたものだ。
首筋に寝汗をかいている。隣のベッドに寝ていた坂井が声をかけてきた。
「おい、富高。どうした。貴様、朝方、何か寝言を言っていたぞ…」
「どうせ、悪い夢でも見たんだろう。夢は、眠りが浅くなる朝方に見るっていうからな…」
俊介は、少しドギマギしながら
「あ、そ、そうか?」
「すまなかったな…」
と、坂井に頭を下げた。
「いや、気にしてないよ。まあ、よくあることさ。こっちこそ、つまらんことを言ってすまなかった…」
そう言うと、また、二人は、上を向いて眼を閉じた。
(それにしても、今の夢は何だ?)
(あの少女は、一体だれなんだ…?)
自分でも夢が断片過ぎてよくわからなかったが、所詮、夢とはそういうものだろう…と、すぐに頭を切り替えた…。
それでも何故か気になる夢だった。
それは、何かの予兆のようにも感じられた。そして、嵐の中で一人の少女を助けたような感覚だけが、俊介の手に残っていた。
海軍では、早く目が覚めても勝手に起きることは許されない。
次の「総員起こし、5分前!」の放送が終わると同時に一斉に起き上がり、ベッドメイキングなどをする動作に入るのだ。そして、こんな生活も後ひと月もすれば、おさらばだ…と思うと心が軽かった。
俊介たち第13期海軍飛行予備学生は、戦局の悪化に伴い、昭和18年の秋に、土浦航空隊に入隊し、海軍の基礎訓練を終えた後、ここ筑波航空隊に移動して、飛行訓練に明け暮れていたのだ。
それも、もう間もなく終了となる。
俊介は、戦闘機専修学生に選ばれ、主に旧式の「零戦」を使用して、模擬空戦の訓練を行ってきたが、実際、見るのとやるのとでは大違いだった。
寝室の隣に寝ている坂井直などは、容易く操作を覚えるようだが、俊介は、複座に作ってある零戦の練習機の中で、教官から怒鳴られてばかりで、一向に操縦が上手くならない。
こんなことなら、偵察学生にでも志願すればよかった…と、少しばかり後悔している。それを坂井に言うと、
「何を言うか。おまえは、間違いなく上達しているぞ。あの引き起こしは、俺も真似はできん…。そう、腐るな!」
そう言って、いつも慰められるが、確かに、急降下からの引き起こしだけは教官からも誉められる。
それと言うのも、俊介は子供のころから柔道をやってきたお陰かも知れなかった。体格は、背は高くないが筋肉質で、いわゆる「固太り」体型なのだ。
機種の選定のときも、教官からは、
「本当は、急降下爆撃機が貴様には似合いだが、今は、その機種はないからな…。取り敢えず、戦闘機に行け!」
そんなわけで、戦闘機専修になってしまった。
元々は、「九九式艦上爆撃機」や「彗星」という急降下爆撃機があったのだが、載せる航空母艦がないらしく、今は募集をしていないようなのだ。
戦闘機乗りなら急降下は必須だったし、今、開発中の新型機があるという噂も耳にしたので、いずれ、そちらの機種がいいかな…と俊介は思っていた。
今はとにかく、戦闘機に慣れる方が先決だった。
さっさと起きることもできないので、そんなことを何となく考えて時間を過ごしていた。すると、また寝室のスピーカーが室内に鳴り響いた。
ここで起きていない者はだれもいない。しかし、号令は最後まで聴くのが海軍式で、ラジオのプツンという音が「ラストサウンド」で、それを合図に戦場のような忙しさが始まる。
本来は、ラッパ手のラッパの音で動くのだそうだが、筑波航空隊も広く、ここで訓練している人数も多いことから館内放送で号令がかかった。
昔の教官たちからしてみれば、やっぱり人間が吹くラッパの音色に郷愁を覚えるようだ。
館内放送なので、鳴る前にスピーカーのスイッチが入るような音がする。
「総員起こし、5分前…!」
声だけは、まったりとしている。
これも海軍の伝統らしく、何でも戦闘中でもこんなまったりとした言い方で命令が出るのだそうだ。
「そういん、おこ~し…。ごふんまえ~」
「ツー… … プツン!」
俊介たちは、その「… プツン!」という音が鳴るや否や、脱兎の如く飛び起き、寝間着を脱ぎ事業服に着替える。
その寝間着を雑に畳むとまた怒られる。だから、手早い割に畳み方は丁寧になる。そして、白い事業服に着替えると、そのままベッドメイキングに入るのだ。
このとき、シーツを直し、上掛けの毛布を正確に畳まなければならない。
角の取り方も決まっていて、最初のころはまごついたが、今では1分もあれば、完璧にベッドメイキングが完了する技を身につけた。
最近は、純毛の毛布じゃないので、少し埃が立つが、昔は一流ホテルで使うような「純毛100%」だったそうだ。
それでも、こんな毛布一枚か二枚で真冬でも寝るのだから、海軍は寝ることも訓練らしい。
これも予備学生の間だけのことで、少尉に任官すれば、そんな面倒は従兵がやってくれる。それに、海軍士官は布団も自分で持ち込める…と聞いたことがある。
この戦局では、それも難しいが、昔は結構な暮らしができたようだ。
このベッドメイキングの一連の動作も、「無駄を省く」という海軍軍人精神を学ばせるための一環なのだろう。
最初、土浦航空隊に入隊したころは、連日、兵学校出の教官たちに怒鳴られ、辟易としたものだが、今では、彼らより上手にできる自信があった。しかし、俊介たちは、まだベッドだからいい…。
次の14期は、入隊時には二等水兵で招集され、3ヶ月ほど新兵教育が行われたのだ。
その理由は定かではないが、どうも、採用人数が多く、改めて再試験をするつもりで適性を見ていたようなのだが、各班についた教班長が下士官だったために、
「貴様らは、たった3ヶ月で准士官なるそうだが、今は、新兵だ。ぼやぼやしておると承知しないぞ!」
と怒鳴られ、拳で鉄拳制裁を喰らったり、バッターと称するバットで尻を殴られたりと、散々な目にあったそうだ。そういう意味では、俊介たち13期は、幸運だったと言える。
ベッドメイキングが済むと、急いで洗顔を済まし、練兵場に全速力で出なければならない。海軍は、常に「駆け足」が基本であり、普通に歩けるようになるのは、士官待遇になってからだった。
俊介たちが急いで外に駆け出すのは、そこで海軍名物の「号令練習」があるのからだ。
これも兵学校の習慣を予備学生の訓練に持ち込んだものらしいが、とにかく、声を張り上げ、「右向け右!」だの、「分隊、前へ進め!」だの、何でもいいから号令をかける練習をするのだ。
お陰で、ただでさえでかい声が、さらに磨きがかかり、いつの間にか声だけは、いっぱしの海軍士官らしい声になった。
それにしても、海軍というところは、なかなか面白い習慣があるところだと感心した。
そう言えば、14期の連中はベッドに寝かせて貰えず、兵隊が使うハンモックを吊って寝ているらしい。
俊介たちも訓練で一度だけ吊ったことがあるが、帆布という丈夫な布でできているので、固くて広げるのも畳むのも至難だった。
俊介は大学まで柔道をしていたので、指先の力は強い。
だから、何とかこれを畳むこともできたが、あまり腕力や指先を鍛えていない者は、相当に苦労をしたようだ。
このハンモックは、しっかり畳んで袋に入れないと水に浮かばないということである。それに、戦闘時には「弾丸除け」に使われるので、固くしばる必要があった。
ひとつの袋が大体30㎏ほどはあったから、罰でこれを担いで練兵場を走らされると、腰が砕けるんじゃないか…と思うくらい重い。
ひ弱な奴では、到底、兵隊は務まらないのだ。
卒業も間近に迫ると、飛行訓練も佳境に入り、俊介の腕も次第に上がってくるのがわかった。
零式艦上戦闘機の操縦にも慣れ、だいたいの特殊飛行もこなせるようになってきた。
熱い夏も、上空に上がれば快適な空間が広がっていた。
一人で上空に上がった時などは、大空を独り占めにできたような気がして、これまでの嫌こともすべて忘れるような気になった。そして、最後は得意の急降下に入るのだ。
高度3000mから1000mくらいまで一気に加速する。さすがに、急降下に入るときは、一瞬、上空で深呼吸をして心を整えないと怖くて仕方がない。
俊介が零戦の風防を開けると、外気が一気に操縦席に入ってくる。
秋とはいえ、高度3000mの上空の気温はかなり低い。それでも、新鮮な空気は気持ちがいい。
腹一杯に新鮮な空気を入れると、フーッ!と大きく息を吐き、額に乗せてある飛行眼鏡を眼に当てる。そして、首に巻いていた白いマフラーを口元まで引き上げて、口元覆うのだ。
なぜか、急降下する前はこの動作をしないと心が決まらない。それほど、急降下をするときは、心も体も緊張して固くなった。
心を決めると、風防を占める。
ガラッ…!という音を残して、操縦席には静寂が訪れる。
俊介は計器板を見て、計器に異常がないことを確認すると徐に操縦桿を前に倒していく。
急降下訓練には、角度45度にもなる本格的な「急降下」と、角度20度程度の「緩降下」の訓練が行われたが、教官からは、
「実戦では、緩降下だけは、絶対にするな!」
と戒められていた。
最初のうちは、操縦桿を倒すのが怖いので、角度が浅くなるのだが、それをすると後席から伝声管をとおして、嫌というほどの大声で怒鳴られた。
「こらっ、富高!」
「貴様、そんなに早く死にたいのか!!」
「死ぬ気で突っ込め!」
その声は、普段温厚な教官とは思えないほど厳しく、俊介は、(ええい、ままよ!)という気分で、力いっぱい操縦桿を前に押し倒した。
角度がつくと、重力の関係なのか、尻が浮き上がるような感覚になる。
これは、角度が付けば付くほど起きてくる現象で、そのままにしていると力が入らないので両足を踏ん張り、体が浮くのを抑えるのだ。
日常生活で、こんな急降下のような経験はない。私の分隊では、青森出身の工藤という学生が、
「ああ、あれはスキーの急滑降に似ているな…。山だと精々30度くらいのものだが、それでもその場に立つと直角の斜面を滑るような気がして、怖かった覚えがある…」
と言っていたことを思い出した。しかし、私らのような東京生まれ、東京育ちでは、そんな経験はない。それでも「やれ!」と命じられれば、やるのが軍人である。
それにしても、何度やっても急降下は怖ろしく、この恐怖心を克服しなければ飛行機乗りにはなれないのだ。
実は、俊介は柔道3段で早稲田大学柔道部の主将を務め、中学校のときは、全国3位になった実績もあった。
俊介の「支釣込足」からの「押さえ込み」は定評があり、これが決まれば、「富高の術中から逃れる方法はない…」とまで言われていた。
そのくらい技と腕力には自信があった。それでも、急降下するときの操縦桿はやたら重くなる。
そもそも、飛行機の操縦桿はワイヤーで引くようにできているので、生半可な力では操作できないのだ。急降下は特に押すにしても引くにしても、相当の腕力を必要としていた。
「よし!」と、気合いを入れて操縦桿を思い切り前に倒すと、零式艦戦型練習機は、もの凄い角度で地上に向かって突っ込んで行った。
速度計が急にクルクルと回り出し、何と時速「550㎞」を計測している。 通常、零戦の最高速度は時速520㎞である。それが、30㎞も超過するということは、機体がもつかどうか、ギリギリのところだった。
俊介は目を開き、その、もの凄い速度の恐怖に耐え、高度計をチラッ…と見ると、既に高度2000mを切るところだった。
すると、後席の西村教官が、
「富高ぁ!。引き起こせっ!引き起こせえ!」
と怒鳴っいる声が耳に響いた。
どうやら、何度も叫んでいたらしいが、俊介は、無我夢中で気がつかなかったようだ。
はっ…と我に返った俊介は、渾身の力を込めて操縦桿をグッと手前に引いた。
だが、速度が出すぎているためか、操縦桿を引いても飛行機の沈下は止まらない。それに、操縦桿がやたら重い。
これまで、柔道で対戦した相手の何倍も重く感じたが、それでも、腹の底に力を入れて引くと、機体がようやく反応し、飛行機の沈下を止めると同時に急速に反転して上昇していくのだった。
そのときの重圧(G)は、よく「動物園の象に乗られているような感覚だ」と言われていたが、まさに、象が数匹、自分の胸に乗っかっているような感覚で、胸が押し潰されそうだった。
高度を上げて、ちょうど3000mで水平飛行に戻すと、後席に「すみませんでした…」と声をかけるものの、後席からの反応はない。
(どうした…?)と振り返ると、何と教官の西村中尉が仰向けにひっくり返っているではないか。
西村中尉が気がついたのは、それから数十秒後のことだった。
俊介が、「大丈夫ですか…?」と声をかけると、憮然とした調子で、
「まあ、あれくらい気合いが入っていれば、合格だ…」
と、それ以上は何も言わなかった。
さすがに、飛行予備学生の引き起こしで失神したとは、恥ずかしくて言えないのだろう。
こうして、俊介の面目も少しは立ったというものだった。
着陸して、指揮所にいる井上分隊長に報告をすると、当の隊長は口を歪めてにやついているのがわかった。
「おい、富高。ほどほどでせいよ。飛行機が壊れちまうからな…」
そう言って、考課表に何かを書いているようだった。どうせ、「ばか力あり」とでも書いたのだろう。
指揮所のテントの後ろに回り、用意してある麦茶をコップに注ぎ、グッ…とひと息で飲み干すと、やっと気持ちが落ち着いてきた。
(さて、さあ、戻るか…?)
と、兵舎の方に足を向けると、先を教官の西村中尉が歩いていた。
俊介が近づいて、
「教官、先ほどは、ありがとうございました。急降下のコツが掴めたみたいです…」
そう言って礼を言うと、西村中尉は、
「ああ、そりゃ、よかったが、こっちは、もうふらふらだよ。あんな操作二度と味わいたくないもんだ…。それにしても、貴様、ばか力だな…」
「戦闘機に乗せるのは惜しい…。艦爆があればなあ…」
そう言って、首を左右に動かしながら笑うのだった。
兵舎に戻ると、先に飛行訓練を終えて上がってきていた坂井が声をかけてきた。
「おい、富高。貴様、すごいことをやるんだな…。驚いたぞ」
「最後のあの操作は、何だ?」
「緩降下から、急に急降下態勢に入り、もの凄い速度で突っ込んで行くのが見えたぞ。それに、あの引き起こしからの急上昇は見事だ。俺にもコツを教えてくれ?」
そう言われるので、俊介は、あのときの状況を掻い摘まんで話した。すると、坂井は、
「理屈はわかるが、あれでは、引き起こしが難しいだろう。あんな角度で突っ込めば、もの凄い重圧がかかり、並の力じゃ引き起こせないな…?」
そう感心していたが、急に何か思いついたらしく、
「だけど、あれなら、敵に後ろを取られても逃げられるんじゃないか…?」
坂井は、そう呟くように言うと、そのままブツブツ言いながら、何処かに行ってしまった。
あの男は、普段は寡黙でいい男だが、一度自分の世界に入り込むと、周りが見えなくなるらしい。それも、坂井の面白さでもあった。
そんな話をしていると、確かに、自分の右腕硬直しているのに気がついた。上腕の筋肉が勝手にピクピクと動いている。
(やはり、少し無理をしたかな…?)
そんなことを考えながら、俊介は次の作業に向かうのだった。
その後の急降下訓練は、もう恐怖心も克服し、大空をかなり自由に飛べるようになってきていた。
もちろん、坂井や上手い連中のようにはいかないが、急降下で自信がついたのか、次に上手くいかなかった「三点着陸」もできるようになったのである。
これも、坂井にその要領を何度も教わり、実地訓練した成果だったが、教官たちも急降下の様子を見ていて、陰で「富高も案外やるじゃないか…」と評価してくれたらしく、着陸のこともあまり注意されなくなったのも大きい。
人間は、何でも少し自信がつくと、自分本来の力を出せるのだろう。
俊介の場合、そういうところがある。
子供のころの柔道の試合でも、緊張のためか、なかなか普段どおりの動きができず格下の相手に負けることがあった。
どうも少し考えすぎるところがあって、万全の態勢にならないと技が出せないのだ。しかし、それでは上手くいかないので、中途半端でも技を出すように心がけたところ、それが嵌まったのだ。
つまり、逃げ腰で技を出しても上手くいかないが、積極的に前にさえ出ていけば、中途半端な技であっても、相手の腰が引けているので、相手の態勢を崩すことができるのだ。
ある試合で、なにも考えずに、思い切り行った払い腰からの寝技が決まり、それ以降、自信がついて負けなくなったことを覚えている。
何でもそうだが、どうも俊介の「心のエンジン」は、暖まるのが遅く、モタモタしてしまうが、十分に暖まれば回転数も上がり、力が出せる性質があるのだろう。そう思うと、少し気持ちが楽になった。
そして、それから2ヶ月後、俊介たち第13期予備学生の卒業式が行われた。
卒業式では、坂井は第3席で「恩賜の銀時計」を拝領する栄誉を賜ったが、俊介は、20席で坂井には遠く及ばなかった。そして、坂井は、新しい任地の神奈川県の厚木にある第302航空隊に赴任して行った。
別れ際に、坂井とは固い握手をして再会を誓い合ったが、それは、残念ながら叶わなかった。
ときどき、風の便りで、坂井が厚木で新鋭機に乗っているという話を聞いたが、こちらも、いよいよの時が迫ってきていたのである。
同期生が各地に赴任するのに、俊介は何故か、この筑波航空隊に残留となり教官任務に就くことになった。
配属先を知らせる紙が、食堂の掲示板に貼られたので見に行くと、俊介の名前の下に「筑波航空隊」とあるではないか。つまり、ここのことである。さすがに俊介もこれには納得いかなかった。
井上分隊長に文句を言いに行こうか…とも思ったが、海軍の人事に口を出すことは御法度である。まして、自分は大学出の予備学生であり、海軍の経験も1年しかない。
行ったところで、「何しに来た、帰れ!」と怒鳴られるのが関の山だと思い返した。
期長の山田ならもっといい方法を考えるのだろうが、「俺じゃなあ…」と考え、文句を言いに行くのは止めにした。
寝室に戻り、ふくれっ面をして荷物を整理していると、坂井がやって来て、
「おい、富高。そうむくれるなよ。貴様は、次の14期の教官になるんじゃないか。貴様は俺と違って英語もできるし、理数科にも強い。操縦だって上手いし、あの、急降下の技術はだれにも負けん。次の連中によく教えてやれよ…」
「それに、14期は一番下の二等水兵を経験してきた後輩だ。いい意味で鍛えてやってくれ…。俺も、新設の本土部隊で面白くはないが、まあ、お互い希望通りとはいかないが、腐らずにやろうぜ!」
と、声をかけてくれた。
確かに今の戦局では、自分の希望など言ってはおられないことは、俊介にもわかる。
それに、俊介も坂井も、そう遠からず死ぬことになるだろう。
だったら、その持ち場で戦うしかない。
そう思うと、自分の中で燻っていた不満が、薄れていくのがわかった。
坂井直は、13期予備学生の中では「天才」と呼ばれていた男で、剣を取れば、教官だろうがだれだろうが、この男に勝てる者はいない。そして、操縦桿を握れば、どんな特殊飛行も難なくこなす技術の持ち主なのだ。
仲間内では、だれもが尊敬の念を抱く男だった。
首席の座は、帝国大学出の秀才に譲ったが、海軍軍人としては、だれが見ても坂井が一番なのだ。だから、俊介も坂井に励まされて教官配置を納得した。そして、13期は、卒業と同時に「予備学生」から正式に「海軍(予備)少尉」となった。
軍服の階級章にも小さな桜が一つ付いた。
これで立派な「海軍士官」である。
卒業式では、みんなでワイワイと階級章を見せ合ったが、一度でいいから家に帰って少尉の軍服姿を見せたかったが、休暇が出る様子も見られず、それぞれが任地に向かうのだった。
第3章 教官配置
13期の戦闘機専修組が筑波航空隊での訓練を終えて、実施部隊に散ってひと月後、いよいよ、土浦航空隊で鍛えられてきた第14期飛行予備学生120名の戦闘機専修組が到着した。
先任は、慶応大学出身の山脇幸平学生である。
14期は、俊介たち13期と違って、最初から志願して入隊した者たちではなかった。彼らは、いわゆる「学徒出陣」組なのだ。
昭和18年に入ると戦局の悪化から、それまで大学生や専門学校生に与えられていた「徴兵猶予」の制度が撤廃された。
これまで大学生等の高等教育を受けている者は、将来の日本のエリートとして特別扱いを受けていたのだ。
それが撤廃されたことは、日本人の多くに、この戦争がかなり苦しい状況に追い込まれていることを予感させた。
14期は、最初からの志願ではなく、一旦徴兵した兵隊に希望を聞き、採用したものだった。優秀な学生の中には、「自分は、指揮官にはなりたくない」と一兵卒として戦い戦死した者も多い。
だから、14期は二等水兵として「ジョンベラ」と称される水兵服を着せられ土浦航空隊で鍛えられた。そして、再試験によって改めて予備学生に採用されたのだ。だから、彼らの舐めた辛酸は、俊介たち13期以上に辛いものだったに違いない。
それだけに、筑波航空隊に入隊してきた120名は、かなり鍛えられてきたと見えて、精悍な顔つきをしていた。
中には、同じ早稲田の連中もおり、こちらは旧交を温めようとしたが、向こうは、一瞬、顔を綻ばせるが、すぐに真顔に戻り敬礼をするので取り付く島がなかった。
後から聞くと、土浦空を出るとき、上官から、
「先輩がいるからと言って、馴れ馴れしくすると容赦はせんぞ!」
「いいか、娑婆っ気を出すな!」
「常に上官と部下の階級があることを忘れず、しっかり励め!」
そう言われてきたようだ。
だから、この真相を聞くまでには、ひと月ほどかかったくらいだった。
俊介は飛行科の分隊士として、飛行訓練の教官兼航空力学と数学の教官を兼ねた。
元々、大学で数学専修だったことから、基本的な航空力学の基礎は理解していたが、後は、飛行訓練で経験したことを学問的に話すしかないと考えていた。
14期は、文系出身の学生ばかりなので、私のような理系出身の学生はいない。
徴兵猶予撤廃は、文系の学生に適用されており、理系の学生は大学生の身分のまま、陸海軍の研究所に送りこまれたらしい。
ただ、この14期は、さらに訓練期間が短縮され僅か3ヶ月で実施部隊に送らなければならないのだ。そのためには、明日から速成教育で飛行訓練を行い、取り敢えず「戦闘機乗り」に仕上げる使命が課せられていた。
そういう俊介も飛行時間は500時間もなく、戦前であれば、まだまだ実用機で訓練を受けている飛行学生程度の実力なのだ。それが、たった半年の訓練で卒業させられ、実施部隊の教官になっているのだから、お粗末としか言いようがない。
それでも、「やれ!」と命じられれば、やるしかない。
俊介は、この戦争の前途に暗い影しか見ることができなかった。それに、俊介に与えられた任務は、14期の連中に専ら「急降下」を教えることにあった。
上官の井上分隊長は、私を呼ぶと、
「いいか、富高。おまえが教えるのは、角度45度での急降下だ。それ以外の操縦は教えなくていい。とにかく、眼を瞑らずに突っ込めるように仕上げてくれ!」
そんな命令だったが、僅か3ヶ月でできることと言えば、それくらいなものだろう。三点着陸もスタント(特殊飛行)も、特に必要ないようだ。
この命令を聞いて、俊介も「なるほど…」と納得することができた。
大して操縦が上手くもない俊介が教官として残されたのは、他の者より「急降下」の操縦が上手く見えたからである。しかし、簡単に言うが、あれは、相当の腕力がなければ、引き起こしが間に合わず、下手をするとそのまま地面に激突することすらあるのだ。
この14期の予備学生たちに、そんな力があるのだろうか…?
そう考えると、不安で夜もあまり眠れなかった。
入隊式が終わると、その翌日から、飛行訓練が開始された。
俊介は、最初の3回ほどは緩降下で体を馴らし、徐々に角度を付ける方法で訓練に臨むことにした。そして、腕力を鍛えるために、毎朝夕に腕立て伏せ100回を課した。さらに、主計科に頼んで学校で余っている「ゴムまり」を調達させた。
最初、主計科の分隊士は、
「何に使うんですか?」
「まさか、遊びじゃないですよね…?」
と言うものだから、手近にあったリンゴを右手一本で潰して見せた。
ブシュ!という音と共に、赤いリンゴは見事に砕けた。それを見た主計科の分隊士は、
「ええっ、そんなことができないといけないんですか?」
と自分も挑戦してみたが、リンゴは堅く僅かに指の跡がへこんだだけだった。
「まあ、これくらいの腕力がないと、操縦桿の引き起こしは厳しいので…」
そう言うと、分隊士は早速近くの学校に掛け合ってくれたようだ。
学校も今やゴムまりで遊んでいる時間もなく、どこの学校にも相当数が眠っていたらしい。
「海軍で必要だ!」と聞いた校長は、慌てて数を用意して筑波空に持参してきた。
その数は、優に500個は超えたが、これだけあれば、一人2個充てて渡しても十分だった。そして、私は飛行学生に、
「いいか、腕立て伏せの他に、このゴムまりをずっと握っているんだ。いいな!」
と命じた。
それ以降、少しでも休憩時間があると、各所でギュッ、ギュッ…という音が響いた。さすがに司令も当初は驚いたようだが、私の指示だと聞くと、
「まあ、短期間での養成だからな、あれくらい工夫せんとダメかも知れんな…」
と黙認してくれたそうだ。
おそらく、以前の海軍だったら、「予備少尉が、勝手なことをするな!」と、厳しく指導されたことだろう。
とにかく今は、なりふり構わず、3ヶ月で彼らを実施部隊に送らなければならないのだ。それには、せめて「急降下」をマスターさせなければ、使い物にならない。
それがわかっているだけに、こちらも考えられる方法は何でも試してみる必要があった。それに、あの坂井は、腕力を鍛えるために、毎日欠かさず樫の木刀を振っていたことを思えば、ゴムボールも効果はあるだろう。
幸い、筑波周辺は野菜も魚介類も豊富で、食事面での苦労がなかったので、14期の連中の腹を満たすことだけはできた。それに「3ヶ月」という期限があることは、だれもが承知していることなので、ゴムボールを握らせても、不満は出なかった。そして、その成果はひと月後には現れはじめた。
彼らの握力は、私が見てるだけでもメキメキ向上し、何人もの学生が緩降下から急降下の段階に入ることができたのだ。それに、引き起こしの要領もわかってきたようで、高度1000mを切ってからの引き起こしもできるようになってきた。
本当は、高度600mで引き起こさせたいのだが、そこまで行くにはもう少し時間が必要だった。
ハワイやミッドウェイ時の艦爆隊は、角度45度で侵入し、高度600mから450mで投弾し、そのまま引き起こして回避する能力があったということである。それは、俊介もやってみたが、もの凄い重圧(G)がかかり、少しのミスが機体を地面に激突させる怖れがあった。
(こんなものすごい技術がなければ、敵艦に爆弾を命中させられないのか?)
そう思うと、怖ろしくなった。しかし、その恐怖が現実のものとして、俊介たちの目の前に間もなくやって来るのだ。
そんなハイピッチの訓練が連日続く中で、瞬く間に2ヶ月が過ぎた。
もう、残すところ後ひと月である。
その日は、早朝から飛行科全員が講堂に呼び出されることになった。
食堂で、俊介も予備学生と一緒に食事を摂っていると、急に館内放送のスピーカーが鳴った。
「0800、飛行科は総員講堂に集合せよ。繰り返す、0800、飛行科は総員講堂に集合せよ!」
俊介は、ちょうど麦飯に味噌汁をかけて喉に流し込もうとしている時だった。
「ん…?」
「一体、なんだ。それにしても急だな?」
俊介は隣にいた同じ教官の山下中尉に、
「なんでしょうね…?」
と声をかけたが、中尉もわからないらしく、
「まあ、行けばわかるんだろうよ…」
そう言うと、彼は、また、ゆっくり飯を食べ始めた。
筑波空の食事は、海軍の伝統に倣い麦入りではあったが、とろろ芋が付いたり、卵焼きが付いたりと戦時中にも関わらず結構贅沢で、みんな食事だけが楽しみだった。
おそらく、こんなに飯が美味い航空隊は、他にはないだろう。
それも、司令が直々に農家に挨拶に回り、協力を要請してくれたというのだから、泣けてくる。
ここの司令は、青木安二郎大佐で、実は予備役の人だった。
「予備役」とは、現役を退いた元軍人のことを言い、緊急時には招集されることを前提としていた。
青木大佐は、予備役になってからは、故郷の甲府に戻り農業に従事していたが、海軍から改めて呼び出しがあり、筑波航空隊の司令として昨年赴任してきた人だった。
年齢は50歳くらいの人だったが、坊主に刈った頭は白く、年齢より老けて見えた。
何となく覇気のない人物に見えたが、さすが元農家の人である。
このご時世に野菜でも果物でも肉でも調達してくるので、陰では「主計大佐殿」と呼ぶ者がいるくらいだった。
それでも、恩恵に与っている兵たちは、そう言いながらも慕っていた。
実は、この青木大佐は、訳ありの人物だったのだ。
噂では、ミッドウェイ海戦時の空母赤城の艦長だった人らしく、その敗北の責任を取る形で予備役に回されたという。
赤城が沈む時、本人は、既に羅針盤に体をロープで巻き付け、部下たちの説得に応じず、最後まで「赤城に残る!」と言い張ったそうだが、部下数名に強引に担がれ、命を永らえたということだった。
温厚な人柄で、大海戦を経験した空母の艦長を務めた人には見えなかったが、予備役に回された挙げ句、練習航空隊の司令では、気の毒としか言いようがない。しかし、それでも、こんな戦局の中で、部下の食事の心配までしてくれるいい司令だった。
俊介たちは、その話を聞くとしんみりとしたが、余計に有り難みが湧き、だれもおかずを残す者はいなかった。
俊介も心の中で、青木大佐に感謝せずにはいられなかった。
食事が済むと、飛行科の隊員は急ぎ足で講堂に向かった。
予備学生たちは、当然、教官より先に行って整列を済ませておかなければならない。
講堂に到着すると、飛行科全員が顔を揃えた。
中央には、作業服を着た14期の飛行学生が緊張した面持ちで整列を済ませ、真っ直ぐに前を向いていた。それは、数ヶ月前の13期の姿と重なって見えた。
予定時刻の0800を過ぎると、あの青木司令が自ら先頭に立ち、歩いて講堂に入ってくるではないか。
俊介たちは、副長あたりから何かお達しがあるものと思っていたが、司令自ら来る以上、何か重大なことが起きたことを察した。それは、学生たちも同じだったようだ。
そんなことを考えていると、筑波空副長兼飛行長の東城中佐が前に出て号令をかけた。
「きをつけ!」
「ただ今から、青木司令のお話がある。よっく聞くように!」
東城中佐は、少し小太りで口髭を蓄え、歩き方がユーモラスだった。
背が高く細身の青木大佐と、背が低く小太りの東城中佐の組み合わせは、まるで漫才師の「エンタツ・アチャコ」みたいで、可笑しかった。
それでも、今は笑うときではない。
青木大佐が直々に訓示するのは、それ相応の理由がなければならない。
だれもが、固唾を呑んで青木大佐の言葉を待った。
すると、青木大佐は静かに壇上への階段を上り、中央に進み出た。そして、演台の前に立つと、また、副長の東城中佐が号令をかけた。
「司令に敬礼!」
青木大佐が、ゆっくりと敬礼をすると、「なおれ!」の号令がかかった。
青木大佐は、「んっ…」と咳払いを一つすると、全体を見渡し、静かな口調で話し始めた。
「…第14期予備学生の諸君。本日は、君たちに重大な任務を伝えなければならなくなった…」
(重大な任務…?)
その言葉を聞いたとき、正直(きたか…?)と思った。
青木大佐は、少し言いにくそうだったが、仕方がない…という表情を見せて、こう告げたのだった。
「本日、我が隊に連合艦隊司令部より命令が下された…」
「本隊は、直ちに特別攻撃隊を編成し、本土に迫ってくる敵艦隊に攻撃をかけることになった!」
そして、全員を見渡すと、
「…但し、この任務は命令ではない。志願とする…」
そこまで言うと、言葉に詰まったのか、一人黙って壇上に立っているのだ。しかし、その目は、予備学生120名に注がれていることがわかった。
すると、青木大佐は、こんなことを話し始めた。
多分、それは予定にない行動だったろう。
下で東城中佐が、妙な動きをするのが見えた。
そんな下での動きを無視するように、青木大佐は話し始めた。
「諸君、済まない…」
「私は、あのミッドウェイ海戦で陛下より預かった軍艦赤城を沈め、多くの将兵を失ったにも拘わらず、こうして生き恥を晒している。そして、また、このような命令を諸君に伝えなければならない。どうか、愚かな私を許して欲しい…」
「前途ある諸君に、この国を託さなければならないほど、日本は危機に瀕している。君たちの親御さんたちに、私は何と言って詫びればいいのだろう。そう思うと、本当に辛い…。だが、私も海軍軍人である以上、命令は絶対である…」
「いよいよ、敵が本土に迫って来ている。先月には、神風特別攻撃隊が編成され、フィリピンで敷島隊他が敵機動部隊に突入したことは承知していると思う…」
「これからの戦局は一重に君たち若い力にかかっている。済まないが、よろしく頼む!」
そう言うと、頭を深く下げるのだった。
これを見た120名の予備学生は、咄嗟に頭を一斉に下げたが、俊介も海軍に入ってこんなことは初めての経験だった。いや、私と言うより海軍にとっても前代未聞の出来事だったに違いない。
予備役とはいえ、海軍大佐で航空隊司令の職にある軍人が、「済まない…」という言葉を発して部下に頭を下げたのである。
これには、東城副長や飛行科分隊長の井上大尉もどうすることもできず、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。そして、青木大佐は、徐に顔を上げると、そのまま静かに壇上を降りたのである。
副長の東城中佐は、号令を忘れてポカンとしていたが、気を利かせた井上大尉が、「敬礼!」と号令をかけると、120名の予備学生は全員がザッ!という揃った音に合わせるように、敬礼で青木大佐を見送ったのである。
その後、井上大尉から、細かい注意があったようだが、だれも聞いていないかのようで、しばらくざわめきが収まらなかった。
食事が済んで夜になると、各分隊毎に封書が届けられた。
その茶封筒には、一枚の紙が入っていた。それが「志願票」である。
予備学生たちは、あちらこちらで今朝の青木大佐のことを話しているようだった。
それにもまして、「特別攻撃隊」という任務がどういうものかがわかっているだけに、心が乱れるのは、どうしようもなかった。
(それにしても、青木大佐は、どうして、あんな言い方で特攻編成を告げたのだろう?)
それは、海軍の形式にはないものだった。
おそらく、他の隊であれば、厳しい口調で戦局を語り、特攻隊を美しく飾った言い方で、部下を鼓舞したに違いない。それが、青木大佐は違った。
俊介は、きっと、彼には彼の葛藤があったのだ…と思った。
(青木さんには、やはりミッドウェイで死ねなかった負い目があるんだろう。そして、多くの部下将兵を死なせた責任を今も感じているのだ…)
だから、あんな言い方でしか、自分の気持ちを表せなかったのだと思う。
青木大佐は、最早、軍人として振る舞うことを止めたのかも知れない。
「軍人 青木安二郎」は、やはりミッドウェイで死んだのだ。そして、今の青木安二郎は、軍人としての青木大佐ではなく、人間としての「青木安二郎」になっているのだろう。それが、彼の生き方なのだ。
その夜は、だれもが深く考えているようだった。
戦局が切迫しているのはわかる。そして、若い自分たちが戦うしかないことも理解できる。しかし、特攻隊となれば、その任務はイコール「死」なのだ。そう思うと、自分の心の中の揺れ動く気持ちを抑えることはできなかった。
では、志願票に〇を付けなければいいのか…と言えば、それも違うだろう。
×を付けて提出したところで、自分の死がなくなるわけではないのだ。
それなら、これまでの過酷な訓練をしてきた飛行機の方が、自分の死に場所としては相応しいとも思う。
ただ、自分の意思でそれを決めていいのだろうか…という迷いは、当然のようにある。
これが、通常の作戦任務であれば、迷うことはない。
なぜなら、そこには自分の意思は関係ないからだ。ただ、軍人として与えられた任務を全うしての死ならば、自然に受け入れられるだろう。
それを「自分の意思を示せ!」と言われては、どうしようもないではないか…。そんな葛藤が、朝まで続いた。
翌朝、0800までには、志願票を各分隊毎に取り纏め、先任分隊長である井上大尉の元に届けることになっていた。
俊介は、何度も自分の意思を確かめ、ようやく覚悟を決めた。そして、予備学生たちとは別に、自分の意思を伝えるべく、0500に井上分隊長室を訪ねた。
「総員起こし」には、まだ1時間あったが、昨晩は、一睡もできなかった。
多分、それは、14期予備学生全員が、そうだろうと思った。
裸電球一つに、まだ、明かりが灯っていた。
夜が明けきらない薄暗い廊下を歩き、士官室の奥にある分隊長室の前に立った。すると、ドアの隙間から明かりが漏れていることに気づいた。
部屋のドアをノックすると、すぐに「入れ!」の応答があった。
既に井上大尉は、軍服に着替えていたが、その顔色は冴えず、やはり昨晩は寝ていないようだった。
井上大尉は、こちらを見ると、何も言わずに入るように促した。
「失礼ですが、分隊長はお休みにはならなかったのですか…?」
俊介がそう尋ねると、大尉は、脇に置かれた大きな箱を取り出した。そして、
「見ろ。これが、君の教え子たちの志願票だ。120名全員が希望や熱望と書いて出してきている…」
「ほとんど、全部の分隊が夜のうちにこれを届けに来た。今朝まででいい…と言ったのに、これではゆっくり考える時間がなかっただろう」
そう言いながら、既に全部に眼を通したことがわかった。
どれも丁寧に封書の上部が切られており、見終わった後、元に戻されているのがわかる。
「熱望と書いた者は、このうちの半分近くもいるんだ。先輩として、君はどう思う…?」
俊介は、それにどう答えていいのか、わからなかった。
「君は、これを本心と思うか…?」
「私は、青木司令の謝罪の意味が、よくわかったよ。この希望、熱望の一枚一枚に彼らの苦悩があるんだ。それがわかっているからこそ、青木司令は、彼らに謝罪したんだよ…。本当に辛い決断だったと思う」
そして、
「富高少尉。君は彼ら予備学生の先輩だから言うが、今度の特攻隊の編成命令は、第6次までの編成になる…」
「特攻隊員は、隊長を含めて各隊8名。さらに直掩隊20名を選抜する予定だ」
「要するに、特攻隊員48名と直掩隊20名の68名編成になる」
「つまり、特攻隊員として連れて行くのは、14期の三分の一ということだ。直掩隊には、教官・教員配置のベテラン搭乗員で編成する。しかし、いずれ、第二次筑波隊を編成することになるだろう。そうなれば、全員が特攻に出ることになる…」
そこで井上大尉は深いため息を吐くと、徐に顔を上げ、
「そして、第一次攻撃隊は、俺が指揮を執る。これは決定事項だ!」
そう言うと、自分の椅子に深々と腰を下ろすと、机の中から煙草を1本取り出し、マッチで火を点け、静かに吸うのだった。
それは紫煙を楽しむというより、自分の気持ちを煙草の煙と一緒に吐き出しているように見えた。
俊介が、何か言いかけようとすると、
「君が来た理由は、わかっている。この編成に加えてくれ…と言うのだろう?」
図星だった。
「因みに言っておくが、教官配置の者で、一番先に志願して来たのは、君だ。それにしても、予備学生の出身者が一番先に名乗りを上げるとは、兵学校が泣くな…」
「どうだ、図星だろう?」
俊介は、何も言い返すことができなかった。
ただ、深く頷くと、ひと言「よろしく、お願いします…」とだけ告げて分隊長室を出た。
これで、俊介は間違いなく特攻隊員として出撃することになる。それも、そんなに遠くない時期に命令が下ることはわかっていた。それでも、心が決まると、何となくスッキリとして、気持ちが落ち着くのだった。
俊介は、士官室に戻る廊下を歩きながら、以前、坂井と話し合ったことを思い出していた。
坂井は、
「我々は、遠からず戦死する運命だと思う。しかし、俺は、命のある限り精一杯生きようと思う。そして、自分の生を生ききるんだ。そう思うと、どんな運命でもきっと満足出来ると思うよ…」
そう言って、生死について悩んでいた俊介を励ましてくれたことがある。
坂井は、剣道の達人で、剣の道を極めた男だった。それだけに、彼の言葉は重く、自分の腹に深く落ちた。
(そうだよな、坂井…。短い生涯かも知れないが、自分の生を生ききる…ことこそが、生甲斐というものだろう…)
そう納得すると、急に腹が減ってきた。
「今日の朝飯は何かな?」
俊介は、いつもと変わらぬ気持ちで、外の様子を眺めた。
季節は、冬に向かおうとしており、朝は相当に冷え込んでいた。
それでも、今も今まで俊介は寒さを忘れていた。
心が決まったことで、急に寒さと空腹を覚えたのだった。
外はまだ暗い闇だったが、食堂の方からは、味噌汁のいい匂いが漂ってきていた。主計科は既に起きて、朝食の準備をしてくれているのだ。
第4章 第6筑波隊隊長
昭和20年の正月明け早々に、第14期海軍飛行予備学生の卒業式が行われた。と同時に、筑波航空隊における「神風特別攻撃隊」の編成が終わり、食堂掲示板にその編成表が張り出された。
攻撃隊は、6次までの編成で、各隊は隊長を含めて凡そ8名の構成である。隊長には、中尉以上の階級の搭乗員が指名された。
第1次には、やはり先任分隊長の井上和弘大尉が隊長となり、他7名はすべて14期卒の少尉たちである。
第2次には、海軍兵学校卒の教官である柴田中尉、第3次は、やはり兵学校卒の橋口中尉、第4次には予備学生同期の山下中尉、第5次は、やはり同期の福島中尉、そして最後の第6次は、富高俊介中尉である。
他に、直掩隊員として、日華事変からのベテラン搭乗員である沖長寛特務少尉を隊長に、他は予科練出の一飛曹、二飛曹で揃えられていた。
彼らは、最低でも500時間以上は飛んでいる戦闘機乗りであった。
ただし、開戦時のように1000時間を超える搭乗員は少なくなり、沖長特務少尉が、唯一2000時間を超える飛行時間を持っていた。
彼は、フィリピン、南洋諸島、そして内地勤務を経て、またフィリピンの過酷な戦場を戦い抜き、半年前に筑波航空隊に教官として配置された人だった。
この教員配置が終われば、当然のように、また前線勤務となるのだ。
年齢は、それでも20代半ばで、俊介たちとさほど変わらなかったが、昭和14年ころから戦場に出ているので、他の者とはそもそもキャリアが違い過ぎた。
敵機の撃墜数と撃破数を合わせると20機を超えており、その飛行技術は隊の中では抜群だった。
俊介も彼に急降下を指導してもらったことがあるが、そのとき、沖長特務少尉からは、
「富高少尉の急降下の技術は満点です。しかし、引き起こしの後の回避操作が甘いです。あれだと、敵艦の対空砲火の餌食になります。最善の方法は、機体を引き起こした後、あまり高度を取らずに低空飛行に持っていくのです。そのとき、右か左に転舵し、敵の目を逸らすことです…」
「それでも、あの苛烈な対空砲火から逃れる術はないと思いますが、機体の腹を見せれば、それで終わりです。そこを訓練で身に付けてください」
という助言をいただいた。
俊介が、
「でも、少尉。私たちの任務は特攻なので、回避運動は無用かと思いますが…」
と言うと、沖長は、
「いえ、特攻任務であろうと、飛行機に乗る以上はセオリーがあります。この操作を覚えておいて損はありません。どうせ、飛行機乗りになったのですから、一流の技を身につけておいたらどうですか…?」
そう言われて、俊介はハッ…と気がついた。
(そうだ。俺は死ぬために飛行機乗りになったんじゃない。戦うためになったんだ。それなら、生き残る道を知ることは少しも恥じゃない…)
そう言ってくれる沖長特務少尉の言葉が嬉しかった。
きっと、沖長特務少尉も、戦闘機乗りとして特攻には、言いたいことがあるのだろう。その目は、少し憂いを帯びていた。
俊介の隊は、兵庫県出身の本田少尉、埼玉県の大木少尉、徳島県の藤田少尉、愛知県の高山少尉、長崎県の折田少尉、同じ東京府の小山少尉、地元茨城県の中村少尉の7名である。
後に、第1次から第5次で出撃していながら、機体の故障で引き返してきた5名が隊に加わった。
それが、徳島県出身の大喜田少尉、愛知県の荒木少尉、兵庫県の時岡少尉、石川県の西野少尉、群馬県の黒崎少尉である。
結局、最終的には、この13名が俊介と共に突っ込む仲間になった。そして、彼らはすべて予備学生14期の俊介の教え子たちだった。
隊の編成が終わると、早速、隊員が俊介の下に集まった。そして、特攻隊員に選ばれたことを素直に喜んでいるようだった。
兵庫の本田昭は、東京高等師範出の現役教師で、既に中学校に赴任直後に召集を受けて海軍に入った男だった。専門は国史と地理で、水泳では全国大会で入賞した実績があり、水泳訓練でもダントツの速さを誇っていた。
埼玉の大木正雄は、声は大きいが体は小柄だった。専修大学器械体操部の選手で、鉄棒やマット運動が上手かった。
徳島の藤田幸男は、國學院大学出の神主の息子で、隊の中でも神主を呼ぶ代わりに藤田に衣装を着させてお祓いの儀式に使われていた。その祝詞は、まさに本物の神主そのものだった。
愛知の高山治は、名古屋帝大出の秀才で、銀行員になる寸前に召集された。計算が得意で、戦争が終わったら経済学者になりたいと言っていた。
長崎の折田信夫は、中央大学の法学部出身で、いずれは法曹界で活躍したいという夢を持っていた。
東京の小山真次郎は、府立三中から慶応大学に進み、ボートを漕いでいたということだった。確かに、彼のカッターの漕ぎ方は玄人はだしで、海軍の兵隊より上手かった。
茨城の中村亨は、家が土浦の農家で、入隊した土浦航空隊から徒歩で20分の距離にあった。休みになると分隊の仲間を連れて時々実家に帰っていたらしい。法政大学の野球部出身で、捕手としても有望な選手だったそうだ。
隊長の富高俊介は、東京の両国の生まれで、早稲田大学の柔道部出身である。卒業を前にして、商社に就職が内定していたが、たまたま立ち寄った喫茶店に貼ってあったポスターを見て13期に志願した変わり者なのだ。
俊介は動機が不純なだけに、12人の部下を持つ身としては、少し面映ゆい気持ちもあった。
それでも、全員、俊介が一度は教官として指導した予備学生であり、このうちの何人かとは、一緒に同乗飛行を行い、急降下訓練をした記憶があった。
集まると、そのときのことをよく肴にされたが、だれもが、引き起こしの途中で気持ちが悪くなり、「操縦席を汚して怒られた…」というオチがついた。
俊介にしてみれば、気持ちが悪くなって嘔吐するのは可愛いもので、酷いのになると、そのまま失神し小便を漏らしたまま、着陸するまで気づかなかった奴もいた。これでは、何のための訓練かわからない。
幸い、この隊には、そういう失態を犯した人間はいなかったようだ。
彼らも、俊介の命令を守り、常にゴムボールを握り、腕立て伏せ100回を繰り返し、腕力と体幹を鍛えてきたのだ。
昭和20年に入ると、日本本土への空襲が本格的になってきた。
既に関東地方には昭和19年の11月には、群馬県の中島飛行機武蔵工場が狙われ、20年になると、多くの軍需工場が標的となった。
本土にある防空戦闘機部隊が迎撃に上がったが、アメリカが誇る戦略爆撃機B29の巨体を墜とすには、力不足の感が否めなかった。
それでも、坂井が赴任していった厚木基地の海軍302航空隊は、一人気を吐いて奮闘していた。その様子は新聞でも紹介され、特に遠藤幸男中尉の活躍は、ニュース映画でも取り上げられていた。
我々の情報によれば、坂井直は、新鋭の局地戦闘機「雷電」に乗って既に数機を撃墜したという話が伝わってきた。
坂井も、この筑波航空隊で鍛えられた予備学生出身の搭乗員である。それは、筑波空の特攻隊員たちにも大いに励みになったようだ。
俊介は、坂井と同期だったこともあり、よく、坂井の操縦法などを部下の少尉たちに話してやると、だれもが羨ましそうに話を聞いていた。
自分たちもできることなら「特攻」ではなく、坂井のように戦闘機乗りになって敵戦闘機や爆撃機と戦いたかったに違いないのだ。しかし、それでも自分の任務の重さを考えると、人を羨んでいる時間はなかった。そして、間もなく、硫黄島にアメリカ軍が上陸したという情報が入った。
硫黄島は、東京の一部である。
これまでは、遠く離れた島々であったが、硫黄島は小笠原諸島のひとつである。これを敵に奪われることは、日本本土への空襲がさらに強まることを意味していた。
連日、日本の各基地から特攻隊が出撃し、攻撃をかけているようだが、敵の艦隊は大きな輪形陣を作り、無数の対空砲火で日本軍機を寄せ付けなかった。
筑波航空隊は、まだ、その準備が整わないという理由で、この硫黄島の戦いには間に合わなかった。
井上大尉は、青木司令に、
「第1次の隊でもいいから、出してもらいたい!」
と直談判したそうだが、青木大佐は、
「ならぬ! 今の技量で突っ込んでも犬死になる。もっと、訓練を積んで、成算がある技量に達したら、間違いなく命令を下す。それまで待て!」
それは、日頃の温厚な青木大佐の姿とは、違う厳しさがあったという。
青木大佐は、同じ死ぬにしても、精一杯の訓練を積ませた上で死なせたいと考えていたようだ。
その証拠に、実はこのとき、連合艦隊司令部からは、
「筑波空は、特攻を出さないのか?」
という厳しい問い合わせがあったと、後で聞かされた。しかし、青木大佐は、「未だ、訓練不十分!」と言い返し、電話を切ったということだった。
連合艦隊としても筑波航空隊の司令が「うん」と言わなければ、どうしようもない。ましてや、予備役の司令である。
現役の司令と違って、将来の道がない大佐に怖い物など何もないのだ。
本心では、ミッドウェイで死なせてくれなかったことを恨んでいたのかも知れない。
今、考えてみれば、あの敗戦は、赤城艦長がその責めを負うものではないだろう。
赤城に座乗していた第一航空艦隊司令長官の南雲中将や草鹿参謀長に責任があるのは明白なのだが、生き残ってしまったために、青木大佐は一人貧乏籤を引かされたのだ。
その恨みが、ここに来て爆発したのかも知れない。
そのお陰で、筑波空の特攻隊員たちは、「成算のある戦い」に臨むために、連日、厳しい訓練に明け暮れることができたのだった。
因みに、特攻というと、だれもが「飛行機を急降下させて、敵艦目がけて突っ込めばいい…」と考えがちだが、それでは成功は覚束ない。
急降下も一歩角度を間違えれば「緩降下」になり、敵艦の対空砲火の餌食なるのは間違いない。
逆に、角度をつけすぎると、操縦が難しくなり、目標を大きく外すことにもなった。
未熟な搭乗員は、敵艦に体当たりする前の操縦技術を高めなければ、そもそも作戦としては成り立たないのだ。
フィリピンで成功した敷島隊の搭乗員は、全員が飛行時間1000時間近くは飛んでおり、実戦経験を持つ猛者たちだった。
そういう連中だからこそ、敵の隙を突いて成功したようなもので、だれでも飛行機に乗って飛んでいけば上手くいくというものではない。
まして、機体に250㎏爆弾を装着すれば、それだけで操縦は難しくなる。そんなことは、素人でもわかるだろう。
この特攻を成功させるには、とにかく、冷静に状況を見極めた上で、絶好のタイミングで突っ込むことが必要だった。そして、角度45度の急降下は絶対である。
どの国の機関銃もそうだが、仰角一杯に上げても、角度45度で突っ込んで来る時速500㎞の飛行機に弾を命中させるのは至難の技だった。しかし、これも同じラインで飛行すれば、機関銃の発射角度が固定され、命中する確率は上がる。
これを防ぐには、第一に、機体の発見を少しでも遅らせることに尽きる。
雲ひとつない青空では、機体を隠すところもなく、これではひとたまりもない。
だから、薄暮や早朝に出撃させるのだ。しかし、技量の乏しい搭乗員では、暗い時間帯の操縦は難しく、敵艦隊を発見しても目標が定まらず、モタモタしているうちにやられてしまうだろう。つまり、簡単に「敵艦に突っ込め!」と命令するが、戦果を上げるためには、かなりの研究を要する作戦だということを青木大佐はわかっていた。
筑波空では、特攻訓練が始まって以降、この理論を徹底的に研究し、如何に効率よく攻撃するか…を議論しあった。これを提案したのが、司令の青木大佐である。大佐は、
「いいか。戦場では日頃の精神論は、何の役にも立たない!」
「私は赤城の艦橋で、南雲中将以下の参謀たちが、あのとき何をしていたかをつぶさに知っている。それは、恥ずかしいくらいの狼狽振りだったのだ…」
「日頃、勇ましいことを言っている奴に限って、いざとなればオロオロするばかりで満足な策も立てられない!」
「見かねた我々が口を挟もうとすると、南雲の参謀共が、部外者は黙っていてもらおう…などと偉そうに言うので、赤城の乗組員は口を閉ざしていたのだが、だれもが、ふざけるなと思っていた!」
「結局は、日頃から敵の動きを分析し、訓練をした者が勝つのだ。能がない奴だけが精神論で誤魔化す!」
「いいか! 特攻攻撃は精神論では成功しないのだぞ。よく研究せよ。まだ、時間はある!」
そう言って、6人の隊長を励ますのだった。
事実、司令は連合艦隊の命令に抗い、硫黄島作戦に我々の隊を出すことを拒んだのだ。それは、この「研究」と「訓練」をさせるためだった。
やはり、それが、実際の戦場で辛酸を舐めた人間だけがわかる真実なのだろう。そう思うと、是が非でも、この戦いには勝利しなければならなかった。
この研究の中心になったのは、第1次筑波隊を率いる分隊長の井上和弘大尉だった。
もちろん、井上大尉は各特攻隊長の先任である。
本来は、隊長を指名する役割の先任分隊長が率先して特攻隊を率いることは、兵たちに驚きを以て迎えられ、筑波空全体の志気を高めるのに効果絶大だった。
井上大尉は、兵学校71期の卒業で、鹿児島県国分の出身である。
剣道3段の達人で、小柄ながらその「出小手」は鋭く、坂井が予備学生でいたときも何度か稽古をしているのを見た。
総合的な技量では坂井には敵わなかったが、何度か小手を奪うところを見たことがある。もちろん、坂井にしても遠慮があったろうから真剣で立ち会えば別だが、達人の域に達していたことは間違いない。
普段は寡黙な人だったが、心根は優しく包容力があった。
この第1次の隊長を引き受けるときも、
「ああ、理由は簡単だよ。俺の家は鹿児島の国分だ。ここにも海軍の基地があってな、そこから出撃できたら、家族に見送ってもらえるじゃないか…」
と言って周囲を煙に巻いた。
本心は別にあるとして、そんな言い方で、周囲を納得させるのも大尉一流のウィットである。
どの隊でもそうだが、幹部たちの中では、兵学校出と予備学生出の確執がある。下士官搭乗員の中でも、予科練の中での確執があった。
兵学校出の士官は、
「俺たちが正規将校だ!」
と口癖のように言っていた。しかし、昔と違って、このころの兵学校は大量採用の時代を迎えた上に、修業期間が2年半程度に短縮されていた。
中学校を卒業して兵学校という軍隊しか知らない男たちに、実際できることは少なかった。
予備学生は、それでも「国難に殉じるために馳せ参じた!」という自負があった。そして、この戦争が終われば、民間で働く人間で、軍人を職業とはしていない。そういう意味では、兵学校出の職業軍人より、冷静で教養もあった。
中には、坂井のように軍人としても抜群の技量を示す者もおり、兵学校出の士官が勝手に予備学生をばかにしたり、差別して見ているケースが多かったようだ。それでも、若い将校たちは、死ぬことを怖れてはいないようだった。
予科練には、甲乙丙の各種別があり、昇任の速さが異なるのが問題になっていた。
特に「甲種」は、受験資格が中学校卒であるために卒業後の昇進が速く、乙種や丙種の連中から妬まれていた。
それはそうだろう。昔から「軍隊は、飯の数」というように、キャリアが長い者が「偉い」という約束があった。
それが、甲種を出ると、あっと言う間に乙種や丙種卒の階級を抜いていくのだ。そして、甲種予科練の連中にしてみれば、同じ中学校卒業なのに、兵学校卒は「海軍将校」だといって、階級だけでなく、その生活においても待遇がこれほど違うとは、思ってもみなかったようだ。
こうした制度上の欠陥は、戦争という有事において露呈し、人間関係の難しさを表していた。
まして、今度の特攻編成に兵学校出が加わらなければ、不満はもっと高まっていたことだろう。
それを、分隊長の井上大尉が率先して志願したことで、筑波空では、その問題は起こらなかった。だからこそ、青木大佐の下に全員が結束できたのかも知れなかった。
昭和19年末から始められた特攻訓練は、年が明けると益々厳しさを増して行った。隊員の中には、操縦を誤り機体を壊したり、けがをして病院送りになった者もいて、新しい隊員を指名しなければならないことも起こった。
ただ、残された隊員たちも「特攻隊員」ではいが、「特攻要員」として指名されており、転勤していった者たちの中には、私たちより先に突っ込んで行った者も多いのだ。
俊介は、沖長特務少尉に指摘されたように、突っ込んでからの回避運動の訓練に余念がなかった。
回避運動というより、急降下後に急に敵艦に転舵され、目標が逸れた場合の措置として上手く操縦できるかどうかの訓練のつもりだった。
急降下時には、もの凄い重圧(G)を受け、操縦桿が鉄棒のように重くなる。おそらく水平飛行時の10倍の重さがかかってくると考えていい。
その重い操縦桿を動かし、敵艦の動いた方向に舵を切るのは、至難の技である。
通常なら、そのまま目標を見失い、海面に突っ込んでしまうだろう。
そんなことを考えながら、何度も急降下から回避につながる操作を繰り返した。
夕刻、訓練を終えて兵舎に戻るときには、腕はパンパンに硬直し、指先にも力が入らない日が何日も続いたのである。
ある晩、沖長特務少尉と夕飯が一緒になった。
おかずは、野菜の天ぷらが主だった。
サツマイモや椎茸、レンコン、かき揚げなどが並び、麦飯を何杯をお替わりしたくらいだった。
そのとき、沖長特務少尉は、俊介にこんな話を聞かせた。
「富高少尉。戦争が始まる前に、私が、航空母艦の蒼龍にに乗っていたころのことです。私は戦闘機乗りですが、予科練の二期上に染谷岩雄という人がいました。当時一飛曹です…」
「染谷兵曹は、艦爆乗りで、その腕は蒼龍艦爆隊一だと言われていました」
「何がすごいかというと、染谷兵曹の急降下は左右に揺れるのだそうです。どうしてか…と言うと、敵艦からの対空砲火を避ける動きをしているんだ…と言うことで、私も興味が湧いて本人に話を聞きに行きました」
「ある晩、煙草盆出せの命令が出た後、私は同期の戦友と一緒に艦爆隊の居住区に顔を出したのです。もちろん、ここにも同期生はいます。そこで、ちょうど煙草を吸っている染谷兵曹を捕まえて、その話の真偽を確かめたのです…」
その日は、染谷兵曹は機嫌がよかったみたいで、
「なんだ、おまえ等…。つまらん話をわざわざ聞きに来たのか? と言いながらも、話してくれました」
「それが、さっきの話です」
「染谷兵曹によると、何でも、急降下するとき、敵艦に軸線を合わせるのですが、そのまま突っ込むのではなく、方向舵を少しずつ左右に動かしながら250㎏爆弾を投下する射点まで持っていくのだ…と言っていました。それは、敵艦の対空砲火を意識してのことで、操作ひとつで敵弾も避けられると言っていました…」
「私たちは、まさか…?と思っていましたが、この戦争が始まってから、まさにその技術で何隻もの敵艦に250㎏を当てたと言いますから、すごいでしょう…」
「私もためしに戦闘機でやってみましたが、このときの操縦桿の重さが半端なくて、諦めました。しかし、富高少尉の腕力なら可能かも知れません。研究してみてください」
そう言うと、沖長特務少尉は、特務士官室に戻って行った。
その後ろ姿を見ながら、俊介は、(そんなことができるのか?)と思ったが、翌日から、その動きも訓練に採り入れることにした。しかし、それは言葉で言うほど簡単なことではなかった。
まず、軸線に合わせた操縦桿を左右に動かすと機体自体がブレて、軸線を外すのだ。それに、さらに操縦桿の効きは悪くなる。
動かし過ぎると、そのままロックしたかのように固くなり、益々目標から遠ざかってしまう。これでは、敵艦に命中はしない。
染谷兵曹のように急降下しながら機体を動かすのは、操縦桿と足下にあるラダーペダル(方向舵)を相互に細かく作動させる必要があったが、この微妙な調整がやたら難しい。
「な、なんだ。染谷兵曹という人は、こんな技を駆使して急降下爆撃をしていたのか…?」
そう思うと、私のような飛行時間500時間程度の搭乗員にできる操作とは思えなかった。
それでも、俊介の飛行訓練を見ていた沖長特務少尉に言わせれば、
「案外、いい線行ってましたよ。もう少し練習すれば、いいところまで行くんじゃないですか…」
そう言われて、何度も同じ操作を繰り返した。
とにかく、少しずつでも感覚を慣らしていかなければならない。それは、気の遠くなるような作業に思えた。
因みに、その染谷兵曹は、歴戦のために体を壊し、現在は療養中ということだった。
沖長特務少尉に言わせれば、「どうも、肺を患っているらしい。だから、もう戦地勤務は無理だろう…」ということだった。
俊介には残念なニュースではあったが、この「染谷岩雄」という名は、俊介の脳裏に深く刻み付けられることになった。
こうして猛訓練が続いている間にも、日本の戦局は益々悪化の一途を辿っていた。
硫黄島での戦いが、遂に終わりを迎えたのである。
昭和20年2月半ばから始まったアメリカ軍の硫黄島上陸作戦は、硫黄島の将兵の活躍により、かなりの損害を敵に与えたことは大本営発表からもわかった。
それに、海軍からも多くの特攻隊が出撃しており、俊介たちとしても出られないことが悔しくもあった。
それでも、青木大佐の強い思いを知った以上、闇雲に出撃して散ることはできなかった。何としてでも、敵に一矢を報いなければ、我々が死ぬ意味がないのだ。
世間では、特攻を美化するような記事に溢れていたが、250㎏爆弾を抱えて急降下することは、容易ではない。
余程のベテラン搭乗員ならともかく、飛行時間500時間にも満たない未熟な搭乗員では、上手く機体を操ることもできず、敵の戦闘機の餌食になるか、対空砲火で叩き落とされるかのどちらかである。
これに成功するためには、一人一人の技量だけでなく、その隊全員が同じ目標に向かって任務を果たさなければならないのだ。
これは、まだ、だれにも言っていないが、俊介の隊では、各隊員の役割を決めて作戦を成功させようと考えていた。しかし、それは、彼らに過酷な任務を命じることになる。
俊介としては、そこに躊躇いがあった。しかし、これをやらなければ全機が敵艦に損害を与える前に海の藻屑となる可能性が大きいのだ。
そして、硫黄島守備隊は、奮戦空しく、4月に入る直前に玉砕した。
戦死者はおよそ2万人を数えた。
冷静に考えれば、連合艦隊がその総力を挙げて戦ったマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦に敗れた時点で、戦局を挽回する方法はなかったのだ。
俊介たちは噂として「日本には、もう、連合艦隊はいないらしいぞ…」と聞かされていたが、硫黄島が落ちたことを知った時、それは真実だと悟った。
日本には、もう航空部隊しか戦力はないのだ。そして、それは、我々の出撃を意味していた。
井上大尉も、
「さあ、そろそろ、我々の出番だな…」
「この筑波航空隊の全力を挙げて、特攻攻撃をかける日も近い。やってやろうじゃないか!」
と、何かを悟ったような表情で、最後の訓練に向かうのだった。
俊介は隊員を集めると、この訓練期間中に、自分なりに考えた作戦について説明をすることにした。
ただし、この作戦がどれほどの効果をもたらすかについては、実戦経験がない俊介には、正直、自信が持てなかった。
それでも、俊介は第二士官室の食堂のテーブルに沖縄海域の地図を広げて、その周りに集まるように指示を出した。
7人は隊長である俊介の言葉を待った。
俊介は、徐に地図を指示棒で指し示しながら、
「いいか。硫黄島の戦いを見ると、敵は既にレーダーを駆使した対空射撃を行っているようだ。それはかなり正確で、闇雲に一直線に急降下すれば、間違いなく対空砲火に捕捉される…」
「そこでだ。我々は、各自の判断で突っ込むのではなく、目標をひとつの輪形陣に定めて、全員がその中心にいる正規空母をねらうようにするのだ…」
「この8人で、一隻の正規空母を潰せば、100機以上の敵機を撃墜するのと同じ効果がある」
「バラバラに目標を決めても、空母に命中できる確率はほとんどゼロに近い。これまでの戦果を見ても、空母に損傷を与えたのは、フィリピンでの特攻しかない。あのころは、敵艦隊も輪形陣を作っておらず、対空射撃にレーダーは使用してはいないのだ…」
「だが、我々の隊は、その空母を狙う!」
「そのためには、この8人を三つの小隊に分けて、三方向から突撃することにしたい…。それも、少しずつ時間差を設けて突撃するのだ。時間差は5分。敵の対空射撃の方位計算が済むまでには、それくらいの時間がかかるはずだ」
「方位は、9時、12時、3時に定める。これを第一次攻撃、第二次攻撃、第三次攻撃と呼ぶ。最初は、第一次攻撃隊が9時の方向から突っ込み、次いで第二次、そして最後に第三次の攻撃隊が突っ込む。そうすれば、敵の対空射撃にも誤差が生まれるはずだ…」
俊介は、脇に置いてある黒板にチョークで図を書きながら作戦要領について説明をした。
俊介は、早稲田で数学を研究しており、彼の説明はその「確率論」に基づいていた。それを知るだけに、隊員のだれもが、真剣な眼差しを向けて聞いていた。
レーダーの装備されていない昔の海戦なら、同時攻撃が有利だったろう。しかし、高性能のレーダーを装備した管制射撃の現在では、たとえ、同時に四方から攻撃をかけても間違いなく捕捉され撃墜される。
だから、同じ高度、同じ方角から攻撃するのではなく、同一目標を時間差で三方向から攻撃を仕掛けるのである。
それなら、各対空火器が我々を捕捉して攻撃するのに、若干の誤差が生じるはずだ。その誤差を利用して輪形陣の懐に飛び込むのが作戦のねらいだった。
それでも、試すことができない以上、この方法がどのくらい効果があるかはわからない。しかし、数学の確率論で考えれば、一方向から突撃するよりも遥かに効果的なことは証明できるのだ。これが無理なら、他に方法はない。
俊介は、7人を前に、
「これは、飽くまでも、俺が大学で学んだ数学の確率論に基づく数式から計算して導き出した方法だ。学生の戯言かも知れん…」
「無論、それを実行できるかどうかの自信はない。だが、自分の命を懸ける以上、自分が納得できる方法でやりたい…」
俊介は、自分の正直な気持ちを隊員たちに打ち明けた。そして、沖長特務少尉から聞いた染谷兵曹の攻撃方法を話した。それは、彼の精神力ではなく、その合理的な考え方にあった。
沖長特務少尉は、染谷兵曹の言葉として、こう言っていた。
「軸線に合わせるだけでは、敵の標的になります。それを微妙にずらすだけで、案外、砲弾は当たらないもんですよ。たとえば、角度が1度ずれれば、小さな砲弾が当たると思いますか? 軸線上をいつまでも飛んでいるから、当たるんです。だったら、軸線をほんの少しだけ外せばいい…」
俊介は、数学を学んだ人間の一人として、この染谷兵曹の話は納得ができた。ただ、できないのは、それだけ操縦が難しくなり、相当の技量が必要だからだ。
だったら、一人ではできない方法をみんなでやればいい…。それが、この作戦なのだ。
「それ以外に成功する方法はないと思うが…。どうか?」
私は7人の意見も聞いてみよう思った。
すると、本田少尉が真っ先に手を挙げた。
「本田か…。言ってみろ…」
と促すと、本田少尉は、少し考えをまとめるかのように間を置くと、
「それなら、私は第1攻撃隊に志願します。最初に、敵の対空砲火を引きつけますので、ぜひ、次の隊で成功させてください!」
「私は、急降下の技量もあまり高くありません。それなら、最初に突っ込ませてもらいます。そして、急降下の上手い者が、最後の第3攻撃隊に入るべきです」
「富高隊長は、ぜひ、第3攻撃隊として最後に突っ込んで、この作戦を成功させてください!」
その言葉に、全員が頷いた。
全員が大学を出ているだけに、数学から導き出した「確率論」は、納得できる説明だったようだ。それに、だれもが、自分の死に意味を持たせたいと考えていたのだ。
俊介は、全員の意思を確認すると、最後にこう告げた。
「わかった。我が隊はこれでいこう。但し、その前に我々が敵艦隊にたどり着けなければ意味がない。そのためには、急降下だけでなく、低空での編隊飛行は不可欠なのだ。いいか、これからの訓練は、時間差急降下攻撃と低空飛行訓練を徹底的に行う。少しでも操縦を誤れば、海に突っ込むぞ。心してかかれ。以上だ!」
もう間もなく、筑波空にも再度の特攻要請が来るだろう。
青木大佐は、これを必ず受けるだろう。そうなると、もう時間はない。
俊介は、作戦通り、8人の「隊」を三つの攻撃隊に分けた。
第1攻撃隊を本田少尉、大木少尉、藤田少尉とした。そして、その指揮官に本田少尉を指名した。
第2攻撃隊は、高山少尉、折田少尉、小山少尉である。指揮官は、高山少尉である。
最後に第3攻撃隊は、隊長である俊介と中村少尉が務めることに決めた。
本田や高山は、14期の中でも分隊長を務めるリーダーで、他の隊員たちの信頼も厚かった。
無電が使えない状況では、各自の判断が大きくなる。そのためには、戦場でも冷静な判断ができる者を各攻撃隊の指揮官に選んだのだ。
俊介の隊は二人だが、中村機が突っ込んだ後に俊介が突っ込むことにした。これも敵の対空砲火を攪乱させるためである。
もちろん、中村少尉に異存はない。
もし、機体の故障で途中で引き返したり、敵機に墜とされても計画は予定どおりとした。
たとえ、最後の一機になっても、この計画どおりに実行するのだ。
人間は、特攻隊員になったから強くなれるわけではない。
寧ろ、特攻隊員になったからこそ、女々しくもなり弱くもなるのだ。
もちろん、それを他人に悟られるような真似はしなかったが、ただ、闇雲に「死んで来い!」では、作戦とは呼べないだろう。
たとえ、死ぬことが前提であっても、俊介は、「作戦」を指揮したいと願った。そして、作戦である以上、計画を立案し計画に則って戦うのが軍人の使命である。その「使命感」さえあれば、それは「自殺」ではない。
一人の兵士として戦い、使命を全うして死を迎えたいという気持ちを俊介は、大切にしてやりたいと願った。そして、そう思うことで、彼らの意思は強固なものになるのだ。
昭和20年の4月に入り、硫黄島が落ちたニュースと共に、いよいよ沖縄に敵が現れた。
青木大佐は、特攻隊員全員を集めると、こう訓示した。
「いよいよ、敵が沖縄に迫ってきた。ここが、この戦争の正念場である。我が隊にも間もなく特攻出撃命令が下るだろう…」
「これまで訓練してきた諸君である。今さら言葉もないが、精一杯戦って欲しい。それだけである!」
そして、この言葉の翌日に、連合艦隊司令部から筑波航空隊に「出撃命令」が下されたのだった。と、同時に、俊介には「神風特別攻撃隊第6筑波隊隊長」が正式に命じられた。
これで、思い残すことはない。後は征くのみである。
第5章 回向院
昭和20年4月1日早朝。
遂にアメリカ軍が沖縄本島への上陸を開始した。
既に沖縄は、度重なる空襲と艦砲射撃に見舞われ、県土は焼土と化していた。
沖縄県民は、疎開をしようにも既にその時期を逸し、とにかく北部に逃げ延びるしかなかったのである。
日本の陸海軍も3月に入ると次々と特攻隊を出撃させ、4月には大規模な「菊水作戦」が発動されたのだった。そして、海軍筑波航空隊にも遂に出撃命令が下された。
「いよいよ、敵は沖縄本島に上陸を開始した。本日、連合艦隊司令部より、本隊にも九州に進出せよ…との命が下された!」
「これより、神風特別攻撃隊筑波隊の出撃を命じる!」
外の練兵場に集められた隊員たちは、青木大佐より、命令を受領したのである。そして、特攻隊員に三日間の特別休暇が与えられた。
俊介は、遠隔地のために帰ることにできない仲間がいることを思うと、自分だけ帰ることに躊躇いがあったが、そのことを知った中村少尉が、
「隊長、どうぞ一度東京の家に帰ってください。隊長が帰られないとなると、地元の私も帰りづらいのです。他の者は、銘々に行くところもあるようですから、お願いします…」
「それに、隊長の家は確か…両国でしたね。あそこは、この間の空襲でどうなっているか?」
「ぜひ、お帰りになって、家族の安否も確認してからでないと、心が残ります…」
そう言われ、俊介は彼らの温情に甘えることにした。
確かに、中村の言うように東京がどうなったか…気にならない者はいなかったのだ。
「そうか、気を遣わせて済まないな…。じゃあ、一日だけ帰らせてもらうよ…」
そう言って、俊介は、翌日の昼過ぎに東京行きの電車に乗ったのだった。
俊介の家は、東京の両国にあった。
「あった…」というのは、今はない…ということである。
この3月10日に東京の下町を中心に大空襲があり、浅草、両国を初めとする隅田川一帯は、そのほとんどを焼かれ、俊介の家族の消息も不明のままだった。
実は、3月10日の後、先任分隊長の井上大尉が零式艦戦にのって、東京上空を飛んでくれたのだが、見渡す限りの焼け野原で、両国橋付近は「何も残っていない…」という報告をくれたのだ。
俊介の家は鉄工場を経営しており、陸軍の軍需工場指定を受けていたために、疎開もできずに、小銃などの部品を造っていたのである。
おそらく工場には、父と母、祖父が働いていたはずだが、国民学校6年生の妹の寛子は、卒業式のために疎開先の松本から帰ってきているはずだった。
俊介の下の弟真二は、陸軍に入隊して、生きていれば東京の連隊にいるはずだが、どうなっていることやら、何もわからないのだ。
それを知っている隊員たちは、俊介を東京に帰したいと考えて気を遣ったのだろう。
俊介自身は、既に家族のことは諦めていた。
あの可愛かった寛子も死んだとなっては、もはや、生きている意味も感じなかったし、この作戦で死ねることが逆に嬉しくもあったのだ。
あの晩のことは、今でも覚えている。
あの日は、午後になると筑波周辺も次第に風が強くなり、「飛行訓練中止!」の命令が出た。
滑走路の設置してある天幕も外され、隊には「しっかり、戸締まりをしろ!」という命令が副長から出されていた。
することのなくなった隊員たちは、格納庫に入り、零式艦戦の整備を手伝ったり、自分の身の周りの整理をしたりと、久々の時間を楽しんでいた。しかし、夕食をすませ、消灯ラッパがなることになっても風が止まず、俊介は、何故か、胸さわぎを覚えていた。
数日前に届いた寛子からのはがきには、
「3月9日には、東京に戻ります。翌日の10日が両国国民学校の卒業式です。私も4月からは大和女学校の女学生になります。兄さんも元気で頑張ってください 寛子」
と、書かれていた。
検閲が厳しいのか、当たり障りのない文章だったが、いつものかわいい文字が躍り、俊介はこの妹が元気でいることが、一番嬉しかったのだ。
俊介と寛子は10歳以上も年の差があり、妹というよりは自分の娘のような感覚があった。
両親は鉄工場での仕事が忙しく、この寛子は、まだ健在だった俊介の祖母が育てたようなものだった。それでも、俊介が帰宅すると、嬉しそうに近づき、甘えてくるの寛子だった。祖母は、
「まるで、俊介が寛子の父親みたいね…」
とからかったが、柔道に明け暮れていた俊介には、寛子の存在だけが心を休める時間だったのだ。
俊介が大学生になると、寛子も小学生になり、算数や理科をよく聞いてくるようになった。もちろん、寛子は賢い子で一人でもできるのだろうが、あまり親の愛情を受けられなかったせいか、俊介にはいつまでも甘えてきた。
下の弟の真二もいるのだが、真二にはあまり懐かなかった。
真二は私と違って社交家で、陰では女学生と付き合い、そんな様子を寛子は感づいていたのかも知れなかった。
その点、俊介は堅物で通っており、女性に対しては奥手だったので、そんな堅い兄が寛子にはよかったのだろう。
俊介が海軍に入ってからも、よく手紙をくれた。
最初のころは女文字なので、同期から随分と冷やかされたが、妹と知ると、同期の島田や佐藤などは、
「おう、いいなあ。妹かあ…?」
と、自分に来たはがきでもないのに、俊介に来たはがきを先に読んでしまうなんてこともあった。
一度、家族写真が同封されてきたときなどは、寛子を見て、ずっと「かわいい、かわいい…」を連発して、佐藤などは、
「いいなあ。妹かあ…、大人になったら見合いをさせてくれ!」
などという始末で、軍人とは思えないような軽い男たちに困ったことがあった。その佐藤は、確か、四国の松山に赴任したはずだった。
東京に着くと、俊介は早速、両国の自分の家があった辺りに行ってみた。
両国駅は辛うじて残り、電車は走っていたが、その線路周辺にあった建物は粗方なくなっており、あれからひと月は経とうというのに、焦げ臭い匂いがあちらこちらから漂ってくる。
駅からは建物で見えなかったはずの隅田川が目の前に流れているのがわかった。そして、その奥もずっと焼け野原なのだ。
公式にはわからないが、ここらに住んでいた人は、余程の運がよくなければ助からなかったと思う。
あの日の大風は、夜になっても止まず、あれでは一度点いた火は風に煽られて燃え広がるばかりだったろう。
おそらく、俊介の家は、陸軍の下請け工場だったから、逃げるより先に火を消す作業に追われていたと思う。
特に父親はまじめな性格で、納品日に遅れたことがないのが自慢だった。
それだけに、出来上がっていた製品を放置できるはずがないのだ。
結局は、それらを防空壕に運び入れている間に火に巻かれたものと思われた。
これだけの火が出たところをみると、敵は爆弾ではなく焼夷弾を使ったことが想像できた。
海軍でも焼夷弾の研究は行われており、沖縄でも敵陣地への焼夷弾攻撃が計画されていたという。しかし、日本軍が考える攻撃とは規模がまったく違うのだ。
おそらく、アメリカ軍は、軍需工場ではなく「人」を目標に攻撃してきたものと考えられた。
両国周辺を見ても、爆弾の落ちた穴は見えない。そして、焼け跡に残る匂いには、油の匂いが残っていた。
(油を撒いたのか…?)
それにしても、非戦闘員である一般人を攻撃目標にした上、油を撒いて焼き殺す作戦を立てるとは、アメリカという国は、なんと怖ろしい国なのだ。
そんな国が、世界一の大国だとは、世も末だな…と俊介は思った。
午後の2時過ぎに両国駅に着いた俊介は、そのまま隅田川沿いを歩き、清洲橋に向かった。
俊介の家は清澄庭園の近くにあった。
隅田川沿いには桜の花も見られたが、今年はだれもそれを愛でる余裕もなく、通りを歩く人は皆足早に下を向いて行くばかりだった。
俊介も急ぎ足で実家に向かったが、予想していたとおり、自分の家がどこにあったかもわからないくらい瓦礫で足の踏み場もなかった。
それでも、何か家族の手がかりになるような物がないか…と探し回ったが、結局、めぼしい物は見つからず、まだ、使えそうだったスパナやレンチなどの工具をいくつか集めただけだった。
それでも、しばらくそこにいると、家の間取りを思い出し、
(あそこが玄関で、ここが居間か…。工場には、ここから入るんだったっけ…)
などと、頭の中で家や家族のことを思い出していた。
そこにかれこれ1時間近くもいただろうか。
後ろから急に声をかけられた。
「もしや、富高鉄工所の俊介さんじゃないかね…」
俊介が後ろを振り向くと、リヤカーを引いた中年の男性が見えた。
汚れた国民服に、国民帽を被った姿でその人は俊介を見ていた。
「はい…。富高です…」
そう応えると、男は、笑顔を見せた。
「俺だよ、俺…。ほら、海産物問屋の鍵屋の善一だ…」
そう言われて、よく見ると、近所で商いをしていた「鍵屋」の善一だった。
この「鍵屋」は屋号で、姓は「鍵」という。
何でも「赤穂浪士の矢頭右衛門七に縁のある家柄」らしく、真偽は不明だが、近所では有名な話だった。
「ああ、鍵屋さんではないですか?」
「よくご無事で…」
そんな挨拶をすませると、鉄工場の跡の瓦礫に腰を下ろした。
俊介が、「休暇が出たので、様子を見に来ました…」と言うと、あの夜のことを掻い摘まんで話してくれたのだ。
「そうかね。休暇かね…。海軍さんも大変なことだね…」
「あの晩のことは、俺も忘れられんよ…。酷いもんだった…」
善一の言うところによれば、やはり、俊介が考えていたとおりだった。
「富高さんは、普段から、家では頑丈な防空壕を造ったから、万が一の時はここに工場の荷物を運ぶことにしているんだ。ここなら、爆弾のひとつやふたつ落ちてもビクともせんわ…」
「そう言っておったから、多分、あの日も、荷物を防空壕に運び入れてから、自分たちもその中に入っておったと思うよ…」
「だが、あの日の空襲はまさに地獄だった。俺たちの家は、ここから少し離れておったんで、すぐに火に巻かれることはなかったんだが、この辺りから両国、浅草にかけては、もう家に火が入ってどうにもならんかったんだ」
「俺の家も焼けはしたが、昔からの蔵が残ってな…。最後は、そこに家族みんなで入っていたんだ…。どうせ、死ぬときは一緒だって、祖母さんが言うもんでな…」
「防空壕に入ったもんは、みんな酸欠でやらてしまったそうだ。火が空気をみんな燃やしてしまうんだ。だから、一旦、防空壕に入っても息苦しさで外に飛び出して、火に巻かれて倒れる者が多かった…」
「そして、熱い、熱い…、言うてな。隅田川に飛び込むのさ。最後には、その川にまで火が回ってな…。俺のところは、幸いにも蔵の中に火は入らんかった。息は苦しかったが、何とか朝まで持ち堪えたんだ…」
「それでも、祖母さんは、その後すぐに死んでしまったけどな…」
そう言うと、暑くもないのに手ぬぐいで顔を拭くのだった。
きっと、涙を見せるのが恥ずかしいのだろう。
そして、最後に言葉を詰まらせると、
「だけど、富高さんには何もできずに、申し訳ないことをしてしもうたわ…」
そう言って、頭を下げるのだった。
俊介は、それでも、妹のことを尋ねないわけにはいかなかった。
「そ、それで、妹の寛子は、どうなったでしょう。疎開から帰ってきていたはずなんですが…?」
すると、善一は、
「いや、寛子ちゃんのことはわからん…。確かに、あの界隈の小学校は卒業式を控えておった。だが、寛子ちゃんが戻っていたかどうかまでは、わからんな…」
そう言って、また、顔を拭うのだった。
もう、俊介は、それ以上聞くことはできなかった。
この鍵家の人々も自分たちが生き延びるのに精一杯だったんだ。
二人の間に間の悪い沈黙が流れた。
善一は、もう一度手ぬぐいで顔を拭くと、
「じゃあ、俊介さんも気をつけて。海軍さんも大変だろうから…」
と言って立ち上がった。そして、何かを言いたそうにしていたが、言葉を飲み込んだようだった。
俊介も、「はい、ありがとうございました…」と言って立ち上がった。
二人は、少しの時間、焼けた町と瓦礫を見詰めていた。
善一は、徐に顔をこちらに向けると、
「ところで、俊介さんは…特攻に出るのかね…?」
と尋ねてきた。
善一が口ごもっていたのは、きっと、このことが聞きたかったのだろう。
「今ごろ、休暇って、何か、変だからね…」
「いつ、行くんだい?」
「もし、だれかが俊介さんのことで訪ねて来たら、話しておくよ…」
「だが、言いたくなければ、儂も聞かん…。軍の秘密もあるだろうし…」
そう言って、軽く手を振り、リヤカーの方に向かう善一に、俊介はこう伝えた。
「あの、善一さん…」
「もし、もし…、弟が帰ってきたら、伝えてください。弟の真二は陸軍にいます」
「ああ、無事で帰ってきたら、必ず伝えるよ…」
「はい。私は間もなく特攻に出ます。所属は筑波航空隊です」
「後、一ヶ月後には、私はいません。だから、そう伝えてください。もし、真二も帰らなかったら、それまでのことです」
「あっ、それから、真二が帰ってきたらこれを渡してください」
そう言って、俊介は走って善一のいる道路に出た。
俊介が善一に渡したのは、いくつかの工具の束だった。それを「筑波海軍航空隊」と書かれた手ぬぐいに巻いて手渡した。
「これは…?」
「今、ここで拾い集めた親父の工具類です。真二は工学部ですから、使えるかの知れませんので…」
そう言うと、善一は、
「そうか…。わかったよ。それまで、大事に取っておくから…」
そう言って、帆布でできた肩掛け鞄にそっとしまうのだった。
すると、善一は、同じ肩掛け鞄から紙袋を取り出した。
「俊介さん。これ…」
そう言って、茶色の紙袋から黒い塊を私に手渡すではないか…。
その小さな塊を俊介の掌に乗せると、
「これはな、沖縄の黒砂糖だよ。家の蔵にあったもんだが、戦前に仕入れておいた物でね…。今じゃあ、貴重品さ…」
「でも、今日、富高さんちの俊介さんに会えて嬉しかったよ。本当は、みんな無事だったら、よかったんだけどな…」
「あんたも沖縄に行くんだろう。だったら、これ、食べてくれ。沖縄の味がする」
「沖縄には、戦前に一度だけ買い付けに行ったことがある。本当にこの世の楽園さ。それが、今じゃ、ここより酷いことになっているだろう」
「こんなもん、軍人さんに渡すもんじゃないが、今は、こんな物しかなくて、済まないな…」
そう言って、(食べてごらん…)という風に、俊介に勧めるのだった。
それは、黒砂糖独特の香りがあったが、口の中に小さな塊を入れると、上質な甘さが口全体に広がった。
「う、美味い…。こんなに甘い砂糖、久しぶりです」
「ああ、そうだろ…。また、こんな砂糖がたくさん手に入る時代が来ればいいんだがな…」
そう言うと、残りの黒砂糖が入った紙袋を俊介に押し付けた。
「これは、俺からの餞別だ。あんたからの言伝、必ず伝えるからな…」
そう言う善一は、少し涙ぐんでいるように見えた。
また、手ぬぐいで顔を拭いた。
そして、別れ際に、
「善一さん、善一さんもご無事で。そして、今日は、会えて嬉しかったです」
「ありがとう、ございました!」
そう言うと、俊介は紙袋を持ったまま、海軍式の敬礼をした。
すると、善一は、深々と頭を下げて、
「ご苦労様です。武運長久をお祈りいたします!」
善一は、俊介の顔を見ずに、それだけを大きな声で言うと、振り返らずに下を向いたまま、リヤカーを押して自分の家の方に歩いて行った。
善一も振り返るのが辛かったのだと思う。
その後ろ姿は、何とも寂しげであり、何度も手ぬぐいで顔を拭いている様子が見えた。
時計を見ると、もう間もなく1700になる。
春とはいえ、夕方近くになると、さすがに寒い。
俊介は、これから両国駅に向かい、今日のうちに筑波航空隊に戻るつもりでいた。
筑波航空隊のある「友部」は、常磐線友部駅から歩いて30分ほどのところにあった。
両国駅から友部駅までは常磐線の電車で2時間程度である。
休暇は三日あるので、途中で寄り道をしてもいいのだが、特別に行くところもなく、ここで知り合いの鍵屋の主人に会えただけで、もう十分だった。
「さあ、帰ろう…」
そう思い、空を見ると、少し曇っているのがわかった。
「なんだ、雨でも降らなきゃいいがな…」
俊介は、急ぎ足で両国駅に向かうのだった。
ところが、手前の回向院の側まで来たとき、急に大粒の雨が降り始めた。
こちらは、雨具の用意がない。
それに、海軍士官は傘をさしてはいけない決まりがあった。
本当は、将校用のマントを羽織るのだが、その用意もなく、しばらく雨宿りのつもりで回向院の本堂に飛び込んだ。
それは、まさに雷が鳴る寸前だった。
回向院は、燃えてはいなかった。
(あの空襲で、燃えなかったのか…?)
という疑問は残ったが、それより、この雨を凌ぐことが先決に思えた。
俊介は、本堂の奥に声をかけると、一人の僧が出て来た。
下を向いたままのなので、様子はわからなかったが、俊介が雨宿りを願うと、「それは、お困りでしょう…」と本堂の中に案内をしてくれたのだ。
「まあ、止むまで、どうぞごゆっくり…」
僧は、それだけ言うと、また奥に下がってしまった。
本堂の中は薄暗かったが、特に焼けたような跡もなく、以前のままのように見えた。
俊介が改めて本堂の中を見渡していると、外は、雨音が激しくなってきたようだった。
「いやいや、こりゃあ、困ったな…」
障子を開けて縁側に出ると、外は、土砂降りの雨と激しい雷鳴が響き、まるで「春の大嵐」のようになっていた。
それはまるで、この界隈で亡くなった多くの霊の慟哭のように聞こえた。そう思うと、この雨が「涙雨」に見えて仕方がなかった。
そのとき、俊介は何故か表の様子が気になり、山門の方に目をやった。
横殴りの雨があらゆる物にぶつかり、ビチャ、ビチャ…と激しい音を奏でている。そして、風があたりの物を巻き込むように吹いてきて、俊介の軍服を濡らした。それは、3月10日の風を思い起こさせた。
俊介が、雨風をよけようと、右手を顔の前に出したその時である。一筋の真っ白な光が、回向院の山門の屋根に落ちるのが見えた。
バキバキ…! ド、ドドーン! ガラ、ガラ、ドーン!
それは、まさに山門が吹き飛ぶかと思うほどの衝撃だった。そして、俊介は、「あっ!」と声を上げて、その場に伏したのだった。さすがに、航空隊にいて、轟音や爆発音には慣れているはずの俊介でさえ、今の落雷はすごかった。
ただ、これで怯んでいたのでは、猛烈な対空砲火の中に突っ込んで行くことなど到底無理だ…ということもわかっていた。
俊介は、不覚にも、驚きの声を発したことが恥ずかしかった。そして、まだ、覚悟が不十分なことに気がついた。
(ええい、情けない。これしきの雷に怯えるとは…)
俊介は、その場に仁王立ちになって、真っ暗な空を睨み付けていた。
すると、どうしたことだろう。
その落雷と同時に、急速に雨が上がり雷鳴が遠ざかって行くではないか。
まさに、「春雷の神様」の到来であった。
そこに、さっきの僧が慌てて走ってきて、
「海軍さん、大丈夫ですか?」
と聞くので、
「いやあ、すごかったですね。でも、もう止んだようでよかったです…」
そう答えると、その僧は、
「じゃあ、本堂にお茶を淹れておきましたから、どうぞ一服お上がりください」
そう言って、また、部屋を後にするのだった。
この回向院は、明暦3年の「振袖火事」によって江戸に大火が起こり、江戸の庶民が10万人以上も焼死したことで創られた「無縁寺」だった。
3月10日の大空襲では、不思議なことにここだけが延焼を免れて建物が建っていたのである。
(まさか、B29がここだけ狙わなかった…ということもないだろうに…)
と、少し不思議な気がしたが、俊介には有り難いことだった。
雨が収まってきたので、茶を一服いただいて帰ろうと思ったそのときである。
雷が落ちたであろう山門に眼をやると、なんと、その下にだれかが倒れているのが見えたのだ。
早速、駆け寄ってみると、なんと女学生である。それも、制服から見て、近所の「大和女学校」の生徒で間違いないようだった。
回向院の山門は屋根が付いており、雨は多少は凌げるが、冷たい風までは防げない。
そっと体に触れると、やはり、体全体が冷たかった。
体温が下がっているのだ。
(これは、いかんな…)
俊介は、早く手当をしないと危険だと判断した。
土浦での訓練時代に、水泳訓練で低体温で倒れた仲間をたくさん見てきたので、様子はすぐにわかった。
どのくらいの時間倒れていたかはわからないが、外に倒れていたせいで、体が冷えたのだろう。
4月と言っても、あれだけの風雨に当たれば、すぐに体温は奪われてしまうものだ。
(それにしても、今ごろ、こんな制服を着てどうしたというのだろう…)
という疑問は俊介の頭を過ったが、そんなことより介抱が先だった。
俊介は、この娘をヒョイと軽く抱き上げると、そのまま本堂に戻っていった。
本堂の座布団の上に寝かせ、何度か声をかけたが「ん…」と唸るばかりで、一向に目を覚ます様子は見られなかった。それに、若い娘である。体を揺さぶって起こす方法もあったが、そんな乱暴なことは俊介にはできなかった。
幸い、僧が運んでくれた茶があったので、少し頭を持って、茶碗の中の温くなったお茶を口に含ませると、コクリ…と飲み込んだ。
(ああ、よかった。せっかく、空襲で生き延びたのに、ここで死なせては申し訳ない)
それにしても、よく眠る娘だった。
俊介は、また、奥に声をかけると、先ほどの僧が出て来たので事情を説明した。そして、体を拭く物と掛け布団を頼んだ。
僧は、特に表情も変えずに、
「はい、わかりました。すぐにお持ちいたします…」
そう言うと、静かに廊下を渡り奥に行くと、間もなく、手ぬぐいと掛け布団を持ってきた。
俊介が、「ありがとう…」と礼を述べると、その僧は「いいえ、どうぞゆっくり休んでいってください…」と言い、また、静かに音もなく下がって行くのである。
この僧は、言葉遣いは丁寧で、頼んだことをすぐに対応してくれるのだが、表情がよく見えないために、年齢も定かではない。
若くも見えるし、意外に高齢かも知れなかった。
とにかく、フッとどこからともなく、浮き出るように現れては消えるのだ。
何となく不気味な感じのする僧だったが、そんなことを気にするのは失礼だと思い直し、言葉に甘えることにした。
本堂の中は薄暗く、これが「不気味」な感じがする原因かも知れなかったが、いつの間にか、本堂の蝋燭に火が灯されているのだ。
それは、ボウッ…とした明るさだったが、本堂の安置されている大きな御本尊である「阿弥陀如来」の仏像が、その灯りに照らされ、妙に生々しく見えるのである。
阿弥陀如来像は、「生あるものすべてを救う仏」と言われており、この回向院もそういう意味では、災害で亡くなられた多くの名もなき庶民を弔う寺であった。
そう思うと、俊介も、今はひたすら阿弥陀様におすがりして、この自分の僅かな生を全うしたいと願うのだった。
(それにしても、いつの間に何本もの蝋燭に火を点けたのだろう…?)
何か、あの雷が落ちてから、不思議なことばかりが続くようで、気持ちが悪かったが、そんなことより、この娘を何とかしなければならない…という気持ちが先に立っていた。
俊介は、娘の濡れた髪を軽く手ぬぐいで拭くと、掛け布団を掛けてやった。
娘の髪は短く肌も浅黒かったか、今の娘にしては背が高く均整が取れているように見えた。
蝋燭の灯りでよく見ると、この娘はどことなく妹の寛子に似ていることに気がついた。それは、幼いころより寛子を間近で見ていた俊介だからこそわかるのかも知れなかった。
たとえ寝ていても、その寝顔が寛子そっくりなのだ。
俊介は、時間が過ぎていくのを(困ったな…)と思いながらも、妹に似たこの娘をすぐに起こさないように、静かに目が覚めるのを待つことにしたのだった。
どうせ、電車に乗り遅れたとしても休暇は、まだ二日ある。
宿は特にないが、両国駅でわけを話せば、それなりの配慮はしてくれると俊介は踏んでいた。
こういうときに、海軍士官の肩書きは有効なのだ。
そう考えると、俊介もなんとなく眠くなり、まどろみ始めた。
これまでの訓練や、今日一日の疲れが出たのかも知れないが、こんな時間に睡魔に襲われたことなど一度もなかったのに、やはり緊張の糸が休暇で切れているのだろう…と思った。
俊介は、娘の寝ている側で、本堂の太い柱を背にして目を閉じているうちに、意識が次第に薄れていくのがわかった。
阿弥陀如来様に見守られているせいか、その眠りは殊の外、心地のよいものに思えた。
第6章 富高俊介中尉
それから、どのくらいの時間が過ぎたのだろう。
早紀は、夢を見ていた。
そこは、まるで真綿のような雲の中を歩いているような感覚があった。
その雲は羽毛布団のように温かく、いつまでもそこにいて、この真っ白な雲に包まれていたいと思うのだった。
それは、ひょっとしたら、母の温もりに近い心地よさだったのかも知れない。
子供のころ、よく、母の膝に乗り、あやしてもらった。
柔らかな母の胸に抱きつくと、母の匂いがして心が安らいだ。
子供は、母の胎内から生まれて来るのだから、母の匂いが心地よいのは当然なのだ。だから、早紀は、いつまでも母から離れなかった。
だけど、早紀の家は忙しく、そんな至福の時間は短かく切ないものだった。
「さあ、早紀、もう起きなさい…」
母の声がどこからともなく聞こえたような気がして、早紀は、その声のする方を探した。いや、その声は祖母の寛子の声だったような気もする。
白い雲は、果てしなく広がり、まるでこの世界に自分しかいないような感覚に陥っていた。が、次第に、その白い雲が少しずつ薄れると、その下には大きな海が広がっているのである。
「あ、落ちる…?」
そう思った瞬間に、早紀の体は、ストン!と落ちたかと思うと、急に加速して、勢いよく海の方に向かって行くのがわかった。
早紀の目に大海原が映った。
「きゃあ…っ!」
自分の声に驚き、海に墜ちる寸前に早紀の意識が戻った。
「えっ、ここはどこなの…?」
目は覚めたが、自分が今、どこにいるのか全然わからなかった。
周りが、何となく薄暗い。
よく見ると、大きな畳の敷いてある広間に、何本もの蝋燭が灯り、それが照明になっているのだ。
外はもう暗くなっていた。
腕時計を見ると、午後5時30分を回っている。
(学校を出たのが、5時だったから、まだ、30分くらいしか経っていないのか…?)
ほんの僅かな時間に、自分の居場所すらわからないなんて…、一体どうしたのだろう。
頭が混乱して、何から考えていいのかさえ、よくわからなかった。
剣道の試合でも、子供のころは相手に先に一本取られると、混乱して試合を壊し、散々な目にあったことがあった。
それくらい頭が整理出来ないでいた。
それでも、体を起こすと、自分の体に布団が掛けてあったことがわかる。
その布団は、上等な物ではなかったが、よく陽に干した布団で、まだ、お日様の匂いが残っていた。だから、自分はあんな夢を見ていたのかも知れない。
しかし、冷静に考えても、ここが何処かは、見当もつかなかった。
そのうち、眼がこの暗さに慣れてきた。
改めてよく見ると、ここは寺のようだった。
寺といえば、
「あっ、回向院だ。私は、回向院の前で倒れたんだ…」
早紀は、思わず言葉を発したが、すぐに口を押さえた。
何となくだが、ここは黙っていた方がいいような気がして、言葉をすぐに飲み込んだ。
静寂が少し怖かったが、外では木々の葉の擦れる音がしており、ここが寺であることは、わかった。
よく見ると、正面に大きな仏像がこちらを見て微笑んでいる。
早紀には、その仏様は怖ろしくはなかった。
何となく、祖母の顔に似ており、優しげな目元が笑って見えたのだ。
眼を左手に向けると、なんと、そこには柱に寄りかかるようにして眠っている男がいるではないか…。
濃紺の詰め襟の学生服を着て、白い靴下を履いている。
腕を組んで頭を柱にもたれかけている。
どうも、寝ているらしかった。
早紀は、ゆっくりと立ち上がり、改めて周りを見ると、ここが、やっぱり寺の本堂だということがわかった。
それにしても、随分と古い建物のようだ。
早紀の知る回向院は、山門もそうだが、参道も立派な石畳になっていて、本堂も洒落た造りで、明るい感じがしたが、ここは、如何にも古い御堂という感じしかしない。
すると、後ろの方から「うう…ん」という喉を鳴らすような声がした。
早紀が振り向くのと、その男が眼を開けるのが同時だった。
「きゃっ!」という声と「おっ!」という声が同時に本堂に谺した。
これが、富高俊介中尉との出会いだった。
「ああ、やっと起きたね…」
「でも、よかったよ。その様子なら、特にけがもないようだから、もう安心だ…」
そう言って、男は笑った。
その屈託のない笑顔に早紀も思わず白い歯が零れた。
そのとき、早紀は、ふっと、今の状況を理解した。
そう、あのとき、雷が鳴って早紀は、自転車を門前に捨て、一目散で山門の中に入ったのだ。
そして、早紀が山門に転がるように飛び込むのと山門の屋根に雷が落ちるのが同時だった。
早紀は、そこからのことは覚えていない。
もし、山門の屋根がなかったら、今ごろ早紀は、雷の直撃を受けあの世に行っていたかも知れないのだ。
いや、それより、ここはあの世なのかも知れない。しかし、体を触ると感覚はあるし、目も頭もはっきりしているから、やはり死んではいないようだ。
そんなことを考えていると、その男の顔が近づいてきた。
「きゃ…!」
思わず、目をパチパチとしばたかせた。
何とも目の大きな人だった。でも、何故か怖い気がしない。
「私、ひょっとして、気を失っていたんじゃ…ないですか?」
早紀が恐る恐る、その男に尋ねると、
「ああ、そうだよ。ちょうど、私も雨宿りをするために、ここにいたんだよ。そしたら、山門に雷が落ちてね…」
「音が止んで、山門を見たら、君がその下に倒れていたというわけだ。わかったかな…?」
その言い方は、まるで子供に言うような話し方だったので、早紀は少しムッとしたが、どうやら、この人が自分を助けてくれたらしい…ということに気がついた。
早紀は、改めて正座をして目の大きな男に頭を下げた。それは、まるで剣道稽古の挨拶のようだった。
「あ、ありがとうございました。助かりました…」
そう言うと、男は、
「いや、別に大したことじゃないので…、気にしなくていいですよ」
と、少し照れ臭そうだった。
そんなやり取りが、二人を近づけた。
本堂は相変わらず薄暗かったが、蝋燭の灯りにも慣れ、二人は、いつとはなしに親しく口を利いていた。
早紀は、どちらかというと人見知りで、まして、若い男性と話をすることは苦手な方だったが、何故か、この男とは、わだかまりもなく話ができた。
それは、数分間のことだったが、昔からの知り合いであるかのように、二人は打ち解けた。
男は、「海軍中尉、富高俊介」と名乗った。
早紀も、「大和学院高校3年、山川早紀」と名乗った。
だが、早紀も俊介も、どちらにも誤解があったようだ。
早紀は、「海軍中尉」と聞いて、何を言っているかがわからず、服装から「自衛官」だと勝手に思い込んだ。
(ああ、海軍…ね。それなら、海上自衛隊の人だ…)
こういう早とちりをするところが、早紀らしい。
それも仕方がない。なぜなら、早紀の時代に海軍は存在しないし、その濃紺の制服は、東京の私立の高校の学生服とよく似ていたからである。
俊介は、「大和学院高校」と聞いて、勝手に両国の外れにある「大和女学校」のことだと勝手に思い込んでいた。
なぜなら、妹の寛子が4月から入学する予定の学校だったから、制服もよく知っていたのだ。
だが、俊介は、早紀とは別のことを考えていた。
(ひょっとしたら、この子は、この世の者ではないのかも知れないな…)
(明るく振る舞っているが、モンペもはいていないし、ここから焼け野原の何処に帰ろうって言うんだ?)
(あの雷といい、この寺の妖しさといい、俺は奇妙な世界に迷い込んだのかも知れない…)
(しかし、たとえそうであっても、俺は、この子の屈託のない笑顔は大切にしてやりたい。俺が、笑顔を見せていれば、この子は間違いなく成仏できるだろう…)
(きっと、あの空襲で死んだ霊魂が彷徨い、ここにいるに違いないのだ…)
俊介は、そう考えていた。
そして、
「あ、そうだ早紀ちゃん。いい物をあげよう…」
そう言って、将校鞄から取り出したのは、さっき鍵屋の善一からもらった黒砂糖の入った紙袋だった。
「えっ、何ですか?」
紙袋自体は、茶封筒のようで、特に変わった物ではないが、(今時、珍しいな…)と思い受け取った。
そっと中を見ると、それは見慣れた黒砂糖だった。
早紀は、
「あれっ、黒砂糖…。いいんですか?」
男の顔を見ると、彼はコクリと頷いた。
「じゃあ、ひとついただきます…」
そう言って、それを有り難く受け取り、そのひと塊を口に入れた。
少し独特の香りがしたが、黒砂糖の甘さが口いっぱいに広がった。そして、自分のお腹が空いたのを、今、感じたのだった。
「うわっ、すごく美味しい黒砂糖。ありがとうございます…」
早紀にとって黒砂糖は、自分の家で使われる菓子の材料である。
わらび餅にかける黒蜜は、この黒砂糖がなければできないし、いい物じゃないと「立花」のわらび餅にはならない…と、父が吟味して選んでいたから、早紀は、甘い物には少しうるさかった。
それに、この黒砂糖は確かに良質な物で、沖縄の物だということもすぐにわかった。
「本当に美味しい。この独特の香りがいいのよね…」
そう言って紙袋を俊介に返そうとすると、俊介はそれを拒み、
「いや、いいんだよ。これは早紀ちゃんが持ってお帰り。家族のみんなもきっと喜ぶよ…」
そう言って、早紀に渡すのだった。
俊介にしてみれば、それも供養だと思っていた。
早紀は、家に帰れば黒砂糖はあるのだが、せっかくの好意に甘えることにした。
「あ、ありがとうございます。大事に食べますね…」
そう言うと、自分の肩掛けバックにしまうのだった。それは、祖母の寛子が、大島紬の生地で縫ってくれた物で、丈夫で早紀のお気に入りだった。
学校用の通学鞄は、自転車の荷台に括り付けたあったので、今ごろは、山門の外に放置されているだろう。
そう思うと、早紀は慌てて立ち上がった。
そして、思い出したように座り直し、
「あの、これ。お礼と言っても何も持っていないんだけど…」
そう言って、小さな布の袋を俊介に手渡すのだった。
それも手縫いの「お守り袋」である。
中味は、乃木坂にある乃木神社の「勝守」だった。
これも祖母の寛子が、早紀が剣道を始めるときに、わざわざ乃木神社に行って買って来てくれた物だった。
「汚れるといけない…」と言って、小袋を作り、その中に「勝守」を入れてくれたのだ。
それ以来、早紀はいつも肌身離さず持っていたが、何故か、これをお礼にしようと思ったのだ。
「はいっ!」
そう言って、そっと俊介に手渡すと、その小袋の裏には「サキ」と刺繍がされていた。中には、乃木神社のお守りが入っている。
俊介は、
「だめだよ。こんな大切な物を人にあげては…」
と遠慮したが、早紀は、
「でも、受け取ってもらわないと困ります…」
と言って、俊介に押し付けるように渡すのだった。
(そうか、無碍にはできないな。これも供養だと思って有り難く受け取ろう…)
そう思い直した俊介は、
「ありがとう、お祖母ちゃんによろしくね…」
と礼を言った。
「ところで、お祖母ちゃんの名前は何て言うの…?」
俊介は何気なく早紀の祖母の名を尋ねた。
「寛子って言います。うかんむりの寛子…。昔の人の名前だけどね…」
それを聞いて俊介は驚いた。
「えっ、寛子って言うんだ?」
寛子は、俊介の妹の名で、3月10日の空襲で死んだものと俊介は考えていた。
その寛子の名が、ここで出るとは思ってもいなかった。そして、俊介は、これを「寛子の導き」だと考えることにした。
(そうか、寛子がこの子に代わって、俺の前に出て来てくれたんだな…)
そう思うと、目の前にいる早紀が、寛子に見えてきて、俊介は思わず涙ぐんだ。
「どうしたんですか…?」
寛子という名を出した途端に表情を変えた俊介を見て、早紀は(悪いことを言ったかな…?)と思い尋ねたのだ。
俊介は、ぐっと涙を堪えながら、早紀に告げた。
「寛子はね…。私の妹は、この3月10日に亡くなったんだ。だから、今、君が寛子の名を口にしたんで、思わず思い出してしまってね…。すまない」
そう言うと、ハンカチでグッと涙を拭いた。そして、
「じゃあ、遅くなるといけないから、そこまで送るよ…」
俊介は、早紀を促すと外に出た。
外は、さっきの大嵐が嘘のように晴れ上がり、まるで戦争なんかないようなきれいな満月が空に輝いていた。
時間は、ちょうど1800を指していた。
俊介は、早紀を山門まで送ると、
「じゃあ、君のお祖母様によろしくね…。寛子さんに…」
そう言うと、軽く手を振った。
早紀は、
「ありがとうございました。富高さんもお体に気をつけて…」
「ここで、失礼します…」
そう言うと、大屋根の山門を潜った。
俊介は、妹の寛子が、今度は無事に成仏して極楽に行かれるよう、早紀の後ろ姿に手を合わせるのだった。そして、俊介が眼を開けた次の瞬間、そこには早紀の姿はなく、月明かりに照らされた荒漠とした焼け野原が広がるだけだった。
そして、俊介が後ろを振り向くと、焼け跡に建つ回向院が無惨な姿を晒していたのだった。
第7章 菓子司「立花」
早紀は、山門を潜ると、道路脇に自転車が横たわっていた。
自転車を起こし、軽く点検をすると、雨に濡れた形跡はあったが、特に壊れてはいないようだった。
「結構、長く乗っている自転車だけど、意外と丈夫だな…」
そんな独り言を言いながら、荷台の濡れた通学鞄と前籠に入れてあったスポーツバッグを確認すると、濡れている以外は異常は見られなかった。
外は、月明かりで本堂の中より明るいくらいだった。
そして、もう一度、俊介に別れを告げようと早紀は後ろを振り向いたが、そこには、俊介の影は何もなかった。
それだけでなく、回向院の本堂は立派な鉄筋造りで、あの古い木造の本堂は、何処にも見えないのだ。
山門も参道も新しく、あの古い木造の建物は何処に行ってしまったのだろう。そして、鬱蒼とした回向院の木々の葉の擦れる音も聞くことはできなかった。
それでも、早紀は、回向院の奥に向かって手を合わせた。
なぜなら、あの仏像の微笑みが忘れられなかったからである。
あの優しい微笑みが、自分を励ましてくれているようで、嬉しかった。
それに、自分を助けてくれた「富高俊介」という自衛官は、会ったときから、懐かしい匂いがした。それは、祖母の寛子の匂いに似ていたからかも知れなかった。だから、初めて会った男の人なのに、すぐに仲良くなれたのだろう。
(あの人は、一体だれなんだろう…?)
何となく現実に引き戻されたような気がして、夢でも見ていたのだろうか…とも考えたが、それにしてもリアルな出来事だった。
そう思ったが、早紀のバックに、あの富高俊介がくれた黒砂糖の入った紙袋がしっかりと入っているのがわかった。
(やっぱり、現実か…?)
そんな不思議な感覚のまま、早紀は改めて自転車に跨がると、家路を急ぐのだった。
「ただいま…」
自転車を車庫の隅に置くと、早紀は、荷台に括ってあった通学鞄を取り出し、家の中に入った。さっきからお腹が空いてたまらなかった。
あのとき、俊介がくれた黒砂糖が、一気に食欲を掻き立てたのだ。
「お祖母ちゃん。ご飯できたぁ…!」
玄関に入るなり、奥にいるであろう祖母に声をかけた。
この家は、和菓子屋を営んでいたので、夜も忙しく、母親が店に出ている間、祖母の寛子が夕飯の支度をすることになっていた。
すると奥から、
「早紀ちゃん、お帰り…。雨に当たらなかった…?」
という声が聞こえたので、早紀は、
「うん、ちょっと…。でも大丈夫?」
と答えると、すぐに、
「ご飯できてるから、着替えてから台所にお出で…」
「はあーい!」
早紀はそう返事をすると、さっさと3階の自分の部屋に上がって行くのだった。
早紀の家は、両国橋の袂で和菓子屋「立花」を営んでいた。そして、数年前に家を3階建ての鉄筋コンクリート住宅に建て替えたのだ。
古い家は、戦後に建てた2階建てだったが、家族6人で暮らすには手狭で、店も繁盛していたことから、父が思いきって建て替えてくれたものだった。
それでも、店の構えは昔の「立花」のイメージを損なわないようにデザインされていて、屋号の入った木製の看板は、何でも戦後、欅の木の一枚を手に入れて作らせた物だそうだ。
書は、当時の回向院の住職に頼んで書いてもらった立派なものである。
1階は、店と作業場、従業員の休憩室とお風呂場になっていた。
菓子屋の作業場は、あれで結構重労働なのだ。
とにかく、材料の入っている袋が重い。
ひとつが大体30㎏はあり、大人がひとつ担ぐのも「よっこらしょ!」と気合いを入れないと難しい。それに、餡子を練るのも骨が折れる。
火加減を見ながら、何度も何度も鍋の中を大きな杓文字で掻き回すのだが、これもやってみると腕がすぐにパンパンになる。それに、煮えた小豆はもの凄く熱く、鍋からはじけ飛んだ豆が顔に当たったら、それこそ火傷をしかねない。
早紀もアルバイトで手伝ったことがあるが、これなら、剣道の稽古に行っていた方がマシなくらいだった。
作業場にはエアコンは入っていたが、菓子屋の作業場は、煮る、焚くといった熱を加える作業が多いために、全員が汗だくになる。
店に並べば、見た目は雅な菓子であっても、その製造過程は地獄かも知れない。だから、1階には休憩室と風呂場が設けてあり、1時間も作業すれば交代し、休憩室で体の熱を取ったり、シャワーを浴びたりして、着替えも頻繁にしないと体調を崩す原因にもなったのである。
以前は、祖母の寛子も作業場に立っていたが、60歳を超えた頃から中での食事の用意などを専ら行うようになっていた。
70を過ぎた今は、家族の世話が中心になっている。
母の智子は、店に立つことが多く、店は3人の店員で賄っていた。
母は、この「立花」の跡取り娘で、父の史郎は、元々菓子職人で智子との結婚を機に、婿に入った人である。
この「立花」は、戦前からの老舗の菓子店として、浅草で営業していたそうだが、空襲のために「立花」の家の者は全員行方不明となった。
そこに、復員してきた祖父の真が、跡を継ぐ形で再建したものだった。
子供は智子一人で、祖父の下で修業していた史郎を婿に迎える形で、今も「立花」の暖簾を守っているのだ。
この後は、だれが継ぐかはわからないが、兄二人も大学に通い、菓子職人になるつもりはないようだったし、早紀も教師になりたいと考えていたので、家を継ぐつもりはなかった。
祖母の寛子は、やはり、元々両国の人で、実家は鉄工場を経営していたそうだ。しかし、ここも戦災で焼かれ、疎開していた寛子と兵隊に行っていた兄の真二だけが生き残った。
そして、その真二が鉄工場を再建して、寛子を育てたということだった。
真二の家は、今では「株式会社 富高鉄工」として、この辺りでは大きな会社として有名になっている。寛子は、小学校を出ただけで鉄工場を手伝っていたが、祖父の真と仕事を通じて知り合い、結婚したそうだ。
きっと、甘い物が食べたかった鉄工場の従業員のために、「立花」に菓子を買いに行っていた寛子を、祖父が見初めたのだろう。
聞いたことはないが、年頃の早紀には想像がついた。
自分もそんな恋がしたいと思うが、今のところ、そんな出会いはない。それに、さっき会った「富高俊介…」という人も、いい人だったが、そんな気持ちなる対象ではないような気がしていた。
そんなことを思い出していると、ふと、さっき会った「富高俊介」の名前が頭に浮かんだ。
そう言えば、
(富高…って、お祖母ちゃんの旧姓じゃないの?)
(そうだ。間違いない。富高鉄工が親戚だって言ってた…)
早紀は、そう気づくと、確かめないわけにはいかなかった。
早紀は、着替えを済ませると2階にある台所兼食堂に下りた。
この部屋は割合広く作られていて、いっぺんに8人くらいは食事ができた。それでも、普段はみんな忙しく、精々一人が二人で食べるくらいで、みんなが揃うのは、盆と正月くらいなものだった。
テーブルの上には、祖母手作りの野菜の煮物やカレイの煮付けなどが並んでいた。
もちろん、お手製の「ぬか漬け」も茄子とキュウリが添えられている。
そこに、祖母がご飯と味噌汁を持って台所から出て来た。
早紀は、さっきまでは「富高…」について、聞こうと思っていたが、その美味しそうな品々を見ると、お腹の虫が我慢できずにグーッと鳴った。
(話は後だ…)とばかりに、「いただきまーす!」と言うと、ご飯とおかずを交互に口の中に放り込むのだった。寛子は、
「まあまあ、女の子が、もう少し行儀良く食べなさい…」
と注意はするが、早紀の食べっぷりに嬉しそうだった。
早紀は、昔から黙って食べることのできない子供で、何でも「おいしい…」とか、「うまい!」とか言いながら食べるので、寛子としても作り甲斐のある孫娘だった。
早紀は、10分ほどでそれらをすべて平らげると、持ってきてくれたお茶を啜った。そして、ぬか漬けのキュウリを摘まみながら、
「ねえ、お祖母ちゃんの旧姓って、富高…だよね?」
と尋ねた。
すると、寛子は、
「ええ、そうよ。富高寛子が、私の名前。結婚して、山川寛子よ…」
と答えたが、何を今さら聞いて来るのか…と少し頭を傾げた。
「ふーん、やっぱり…」
早紀は、頭の中で同じ富高姓の二人を想像していた。
年齢は俊介が二十歳くらいで、寛子が70過ぎの高齢者だが、どことなく似ていないこともない。
(なんだろう…?)
早紀の頭の中で、何かが結びつこうとしているのだが、何となく辻褄が合わないのだ。すると、早紀が妙なことを言い出した。
それは、早紀がさっき回向院で経験した富高俊介の出会いのことだったのだが、その名前を早紀が言ったとき、寛子は思いもしない名前が飛び出して驚いた。
「えっ、早紀、もう一度行ってみて。富高俊介って言った?」
「そうよ、富高俊介。よくわかんないけど、自衛隊の人みたいよ…」
「自衛隊…?」
寛子は、それを聞いて、不思議なことがあるもんだと考えていた。でも、別に変わった名前ではないし、同姓同名の人がいてもおかしくはない。
それに、早紀が「自衛官」と言うのだから、そうなのだろうと思うことにした。
まさか、50年以上も前に死んだ兄が、そこにいるはずもなく、ただ、孫娘を助けてくれた自衛官の「富高俊介」という人に感謝するばかりだった。
(これも、縁というものかも知れないな…)
寛子は、そう思うのだった。そして、早紀に、
「いい人に助けてもらってよかったね。折角だから、私の部屋の仏壇の上に、兄の富高俊介の遺影がかかっているから、手を合わせなさいよ…」
「同姓同名の自衛官なんて、何かの縁よ、きっと!」
早紀は、(そういうもんかなあ…)と考え、
「じゃあ、後でお祖母ちゃんの部屋に行くね…」
そう言うと、膨れたお腹を抱えて自分の部屋に戻っていくのだった。
早紀は、こう見えても結構忙しく、宿題もあるし、剣道部の日誌も書かなければならない。そして、高校3年生らしく肝腎の受験勉強もあった。
早紀は高校を卒業したら、筑波教育大学に進学したいと考えていたのだった。ここの教育学部で教員免許を取り、行く行くは母校の大和学院の中等部か高等部で数学を教えながら剣道部のコーチになりたかったのだ。
そして、全国制覇をするのが早紀の夢だった。
早紀は、普段は少しのんびりしている性格だったが、意外と集中力はある。剣道の稽古をしていても、始まると、その集中力は剣道部内でも群を抜いていた。こうした性格だからこそ、シノザキは、早紀を主将に任命したのだろう。
早紀が机に向かって、それらの作業を次々とこなしているうちに3時間が過ぎていた。
早紀が、ふと気がつくと、時計の針は午後の10時を回っている。
店は午後の7時までだったから、既に後片付けも終わり、母たちはゆっくりしている時間だった。
早紀は、何気なく側にあった肩掛けバックに手を伸ばした。中を探ると、紙袋に手がかかった。
(あ、黒砂糖の袋だ…)
そう気がついた早紀は、バックから黒砂糖の袋を掴み、慌てて2階の祖母の部屋に向かうのだった。
寛子は、そろそろ寝ようかと、布団を敷いて寛いでいるところに、早紀の声が聞こえた。
「お祖母ちゃん、ごめん。ちょっといい…?」
「ああ、早紀ちゃん。いいよ。お入りなさい…」
そう言うと、ドアがそっと開いた。
そこには、可愛い孫娘の顔があった。
早紀と寛子は、目元が似ている。
大きく黒目がちな目は、富高家の家系かも知れなかった。
早紀の眼は大きく、いつもキョロキョロしていて、子供のころは、「クロちゃん」というあだ名までもらっていた。それは、色の黒いところから来ているのか、それとも「瞳が大きい」ことから来ているのかわからなかったが、多分、その両方だろう。
寛子が、
「あ、そうそう、富高の兄の話だったね…?」
と思い出したように言うと、早紀が部屋の中に入ってきた。
寛子の部屋は、畳敷きの6畳の和室だった。
部屋の奥の箪笥の上に小さな仏壇が置いてあり、仏様が祀られていた。
その中には、寛子自身が作った木の位牌が置かれており、それには寛子の字で「勇吉 茂 幸 俊介之霊」と書かれていた。
それは、寛子が12歳の時に作ったものである。
正式な位牌は、次兄の真二の家にあったが、真二が復員してくるまでの間、親戚の家に預けられていた寛子が、その家にあった木を削って作ったものだった。
寛子は、空襲後、しばらくは千葉の佐倉にある伯母の家で暮らしていたのだ。そして、昭和20年10月に千葉の九十九里の部隊にいた真二が復員して、迎えに来てくれたのだった。
その後、寛子は東京に戻り真二が再建した鉄工場で一生懸命に働いたが、結局、入学する予定だった女学校へは進学せず、真二を助けて働いたのである。
そういう意味で、寛子の戦中、戦後は苦難に満ちたものとなった。
ただ、兄の俊介が戦死したことは、佐倉の親戚の家で聞かされた。
それは、当時の新聞に大きく紹介されていたからである。そして、戦後、焼け跡に戻ったとき、近くの鍵屋という海産物を商う主人から、俊介が真二に渡してくれと言って届けられた鉄工場の「工具類」が、唯一の兄の遺品となった。
寛子は、その工具類を包んでいた「筑波航空隊」の手ぬぐいを今も大切に仏壇にしまっている。そして、俊介が最後まで自分のことを気にしていてくれたことに感謝していたのである。
寛子が、こうして生きているのは偶然だった。
本当は卒業式に行くために、松本市にある報恩寺から、6年生20名が東京に戻ることになっていたのだ。
前日まで、寛子はそのつもりで自分のリュックに荷物を詰め、下級生に挨拶までしていた。
ところが、寛子は前日の作業中に切り株を踏んで、足の裏を切ってしまったのだ。当時のことで、アルコール消毒をしたまま包帯を巻いてもらったが、夜から急に熱が上がり、体を動かすこともできなくなった。
翌朝には一応熱は下がったが、引率の教師の判断で、しばらくは寺で静養することになり、寛子は同級生と一緒に東京に戻れなくなったのである。
寛子は、自分の運のなさに泣いた。
「なんで、私だけこんな目に遭うの?」
そう言って泣いたが、こればかりはどうしようもなかった。
結局、傷はそれから治るまでに2週間近くもかかった。
幸い、寺の住職に薬草の知識があり、山から採ってきたいくつもの野草を煎じて練った膏薬を塗り続けて、やっと治ったのである。
もし、あのまま放置すれば、足が腐ってしまったかも知れないと、後から聞かされた。
3月10日の大空襲は、疎開していた子供たちの家を焼き払い、多くの子供が戦災孤児となった。
寛子の家も焼かれ、家族が行方不明だという報告を受けた。
男の先生の一人が東京に戻り、学校や地域の状況を見てきてくれたのだ。
それでも、そのときは兄二人が兵隊に行っていたので、微かな希望があったが、佐倉で兄俊介の戦死を聞かされたときは、ショックで立ち上がれない程だった。
(大好きな、俊介兄さんが死んだ…?)
(もし、真二兄さんまでいなくなったら、私は、どうすればいいんだろう…) 寛子の小さな胸は不安で張り裂けそうだった。
親戚の伯母は、「ここにいればいい…」と言ってくれるが、この家も子供が3人もいる。それに、農家の仕事だけで家族全員を養っていくのは大変そうだった。
寛子は居候の身になって、それがよくわかるのだ。
寛子の前では何も言わない伯父も、伯母とはよく口喧嘩しているのを見ていたのである。
それからの寛子は、いつも神仏に手を合わせるようになっていた。
幸い、寛子の伯母の家の近くには佐倉の鎮守である「麻賀多神社」の分社があり、そこは地域の人々の信仰の対象になっていた。
寛子は、毎日、そこに行っては手を合わせ、家の仏壇にも手を合わせた。
寛子にとって、その瞬間だけが、心の安らぎを感じる時間だったのだ。
そして、寛子は伯母の家の手伝いをよくやった。
最初の頃は、伯父も、
「東京のお嬢さんに農作業は、無理だな…」
と諦め顔だったが、今では、その寛子を頼りにするまでになっていた。
寛子は田んぼでも家の中でも、自分のできることは何でもやった。それが、亡くなった家族への供養になると信じていたからである。そして、頑張っていれば、きっと真二が迎えに来てくれる…と信じていた。
昭和20年8月15日の天皇陛下のラジオ放送を寛子は聞かなかった。
そのころ、寛子は庭で草取りをしている最中だった。
真夏の昼は暑い。
麦わら帽子にモンペ、腰には手ぬぐいをぶら下げた恰好は、背が高い分、寛子は一人前の農家の娘に見えた。
「戦争が終わった…」と聞かされたのは、その日の夕方のことだった。しかし、戦争が終わったと聞かされても、寛子の生活に変化があるわけではない。
でも、これで真二が帰って来る可能性が少し広がった。
こうしてふた月、寛子は待った。
その日は、佐倉の秋も色が濃くなり、収穫を終えた田の刈り取り跡が、秋の深まりを感じさせた。
寛子の顔も日に焼けて真っ黒になり、その仕事ぶりは近所の評判になるくらいだった。
真二が訪ねて来たのは、その日の夜のことだった。
「こんばんは…」
という若い男の声がしたので、寛子が玄関に出てみると、そこには待ちに待った真二兄の姿があった。
思わず、寛子は真二に抱きつくなり、オイオイと声を上げて泣いた。
それは、伯父や伯母にしてみれば、驚くべき光景だった。
あの気丈な寛子が、子供のように泣いているのだ。
真二は、既にすべてを承知していた。そして、伯父と伯母に丁寧を礼を言い、軍隊から持ってきた缶詰をいくつか取り出して伯母に渡した。
「すみません。今は、こんな物しかなくて…。いずれ、改めてお礼に伺います」
そう言って、寛子を促すと、その夜のうちに伯母の家を出た。
そして、佐倉駅に泊めてもらうと、翌朝一番の汽車で、二人は東京に戻ったのだった。
寛子のリュックの中には、自分で作った家族の位牌がそっと忍ばせてあった。
両国に戻ってきてからも、寛子はいつも神仏に手を合わせた。
真二は、自分の家の焼け跡に近所の焼け跡から見つけてきた材料で、バラックの小屋を建てた。
早稲田の工学部で学んでいた真二は、昔から工作が得意で、このバラック小屋も少しだけ近所の人を頼んだが、ほとんど一人で作ってしまった。
材料は焼け焦げた柱や板ばかりだったが、その工作のうまさは近所でも評判になり、しばらくは大工のような仕事をして寛子を養ってくれたのだった。
寛子たちが戻ると、早速、鍵屋の善一が真二を訪ねて来た。そして、4月頭に俊介がここを訪ねてきたことを話したのである。
善一は、それを涙ながらに二人に語って聞かせた。そして、
「真二さん、俺は俊介さんに頼まれたんだよ。あんたらが帰ってきたら、頼む…って。だから、何でも言ってくれ、俺ができることは何でもするからな」
そう言うと真二の手を強く握るのだった。
ただ、善一は寛子の顔を見ると、
「だけどな、俊介兄さんは、あんたのことだけを心配していたんだ。寛子のことを知らないか…って、俺に何度も聞くんだが、俺は何も知らなかった」
「だから、兄さんは、寛子ちゃんが家族と一緒に死んだものと思って、特攻で死んだんだと思うと、それだけが、申し訳なくてな…」
そう言うと、善一はまた泣いた。
こうして、真二と寛子は、近所の「鍵屋」の世話になりながら、戦後の生活を二人で創っていったのだった。
寛子の神仏を敬う習慣は、彼女のこうした苦しみの中で生まれたと言っていいだろう。寛子は、神仏に手を合わせることで、心の安らぎと家族の幸せを願ったのである。
その習慣は今でも続き、毎朝、仏壇に手を合わせると、その足で回向院まで歩き、無縁仏と本堂の阿弥陀如来に手を合わせるのだった。そして、俊介が眠る靖国神社にも俊介の月命日には参拝を欠かさなかった。
早紀が、部屋に入ると、寛子は、仏壇の上の鴨居にかかっている一枚の写真を指さした。
「早紀、あれを取って頂戴…」
「はい…」
寛子はそれほど背が高くないので、普段は小さな台を置いて高いところの物を取るのだが、今日は背の高い早紀がいるので、頼むことにしたのだ。
それは、昔の写真だった。
その写真は、白黒の上に既にセピア色で、その上、鮮明ではなかった。
早紀が、
「これって、だれの写真なの?」
「まあ、その写真が俊介兄さんよ…」
「ほら、家は空襲で全部焼けてしまったじゃない。だから、思い出のアルバムもみんな燃えちゃって…。家族写真って家にはないのよ」
「他のもそうだけど、後から親戚の家に残っていた集合写真なんかの写しを取って、こうして飾っているの…」
「俊介兄さんのは、筑波の航空隊の人が持っていた物をもらったのよ…」
「そう言えば、目のところなんか、早紀に似ているわね…」
そう言って、少し埃のついた写真を大切そうに、柔らかなタオルで拭うのだった。
その写真は筑波航空隊時代の訓練中のもので、同じ隊の人が8人で写っていたそうだが、俊介の部分だけを拡大しているので、不鮮明なのだ。
これをくれた人の話では、この隊の人は全員が戦死しており、だれも生き残らなかったそうだ。
「これをくれた人は、同じ筑波の航空隊の人なんだけど、隊は違うようね…。だから、こんな写真しかなくて、済まない…って言っていたわ」
「でも、あっただけよかったと思う…。どう、俊介兄さんの顔がわかった?」
早紀は、さっきからじっと眼を凝らして写真を見ていたが、服装も違うし、小さな写真を伸ばしているので、あのときの富高と名乗った人かどうかまでは、わからなかった。
「でも、そんなわけないよね…。同じ名前だからって、同じ人とは限らないし、もう、50年以上も昔に死んでいる人だもんね…」
「わかった。お祖母ちゃん、お騒がせしました…」
そう言って、部屋から出ようとしたとき、早紀は、紙袋のことを思い出した。
「そうそう、お祖母ちゃん。その富高俊介さんが、これをくれたの…」
「何、これ?」
「うん。黒砂糖よ。何でも沖縄のだって…」
寛子は、その紙袋を取り出すと、小さな塊を摘まんで口に入れた。
そして、
「ああ、美味しいね。これ、沖縄の黒砂糖よ…。へえ、その富高さんがくれたの?」
そう言って、袋をじっと見詰めている寛子の顔が一瞬、変わった。
「ねえ、この紙袋。今の物じゃないわ…」
「だって、私、子供のころ、お遣いに鍵屋さんに行ったとき、これと同じ紙袋でよくお菓子をもらったのよ。そう、これこれ…」
「ほら、下に小さく(鍵屋商店)って印刷されているじゃない…」
「今の鍵屋さんは、鍵屋商店じゃなくて、別の会社の名前になっているよ…。それに、こんな紙袋は、戦争中か戦後間もなくの物でしょう…」
それを聞いて早紀も、もう一度紙袋を見てみた。
確かに、そこには「鍵屋商店」の印刷文字が見える。今は、確かアルファベットで「KAGIYA」になっているはずだった。
早紀は、何か不思議な気持ちがしたが、それ以上は詮索しても、祖母もわからないだろう…と思った。そして、最後に、
「ところで、回向院って、木造の本堂がまだ残っていたっけ…?」
そう尋ねると、寛子は、
「まさか、あそこは山門が焼け落ちて、本堂もかなりの被害を受けたはずよ。それに、戦後、新しく建て替えてたはずだけど…」
「今は、ほら、鉄筋の立派な建物じゃない。そんな木造の建物なんか、もうとっくになくなっているよ」
と答えるのだった。
毎日、回向院のお参りに行っている祖母が言うのに、間違えているはずがない。
早紀は、「ん…?」と首を捻ったが、それ以上は何も聞かずに、部屋に戻るのだった。
「ふーん、そうか。じゃ、お祖母ちゃん、おやすみ…」
何か釈然としない思いを抱えたまま、早紀は自分の部屋に戻っていった。そして、あの写真に写っている富高俊介という祖母の兄を思い出していた。
「富高俊介、中尉…?」
確か、あのとき、あの人はそう言ったのだ。「中尉と…」。
早紀は慌てて百科事典を取り出し「中尉」の項目を探した。
すると、それはすぐに見つかった。そこには、
「軍隊の階級の一。将校(士官)に相当。尉官に区分され、大尉の下、少尉の上に位置する。」
と書いてあるではないか。
そうなのだ。
「中尉」とは、富高俊介の階級だったんだ。そして、改めて「日本海軍」の項を調べると、そこに「制服」が図で描かれていた。
それはまさに、あの制服だった。
早紀が「学生服」と言った制服は、海軍の軍服で、階級は「海軍中尉」であって、自衛官ではないのだ。そして、あそこに写っている人の「眼」は、間違いなく、早紀が会った富高俊介中尉の眼だということに気がついた。
早紀は慌てて、階段を下り祖母の部屋のドアを開けようとしたそのとき、部屋の中から何か呟く声が聞こえてきた。それは、祖母の声だった。
寛子は、仏壇の前に座り何度も手を合わせてお経を唱えていた。そして、
「ねえ、俊介兄さんなんでしょう…?」
「早紀を助けてくれたの、兄さんなのよね…。ありがとう、兄さん。いつも私たちを見守っていてくれて、本当にありがとう…」
「この黒砂糖美味しかったね…。昔もよく鍵屋さんがおやつにくれたもの…。私がもらうと、家でみんなで食べたよね。懐かしいな…」
早紀には、祖母が呟く声がはっきりと聞こえていた。そして、しばらく、祖母のお経を唱える声が聞こえていた。
それは、いつもの祖母の習慣だったのだが、今日ばかりは、早紀も祖母の部屋の前の廊下で手を合わせるのだった。
第8章 出撃前夜
沖縄特攻作戦は、昭和20年4月1日から本格的に開始された。そして、4月6日、井上大尉が率いる神風特別攻撃隊第1筑波隊が、大尉の故郷である第一国分基地から出撃していった。
いよいよ、沖縄を舞台に陸海軍の特攻隊が、九州の各基地から次々と出撃して行く「特攻作戦」が幕を開けた。
筑波航空隊の先陣を切った第1筑波隊は、駆逐艦1隻を撃沈するという戦果を挙げたのだった。
俊介は、それを筑波航空隊を出発する直前に聞いた。
青木大佐は、その報告を受け取ると、何も語らずに司令室に入っていった。おそらく、自ら志願して第一次攻撃隊長として逝った井上大尉他の隊員たちの冥福を祈っているのだろう。
司令室には、祭壇が設けられており、青木大佐が日々祝詞を唱えていることは、隊の者ならだれもが知っていたからである。
そして、遂に俊介の隊にも出撃命令が下されたのだ。
それは、ちょうど井上大尉たちの第1筑波隊の戦果が報道された日のことだった。
既に第5次までの筑波隊の隊員たちは、九州に進出し、そのときを待っているはずである。
俊介が率いる第6筑波隊を以て、取り敢えず、筑波航空隊の特攻作戦の第一陣の派遣は終わるが、戦局次第で、新たな特攻命令が下ることが予想されていた。しかし、既に機材はなく、俊介たちが筑波航空隊に残る戦闘機を持って行くことになる。
後は、古い機体や練習機ばかりで、おそらく訓練にも支障を来すことだろう。だが、それを咎める者はだれもいなかった。
壮行式は、0900に、きれいに整えられた滑走路で行われた。
俊介たち8人は、完全武装を施した飛行服に身を包み、そのときを待っていた。
4月の空は澄み、桜の花がまだ残る穏やかな朝だった。
よく見ると、滑走路のフェンス越しには、多くの人の顔が見えるではないか。
これまでは、特攻隊の出発は極秘に行われ、これまでの隊は、航空隊の隊員たちだけで見送られたのだが、この日は、少し違うようだった。
張られた天幕の中を見ると、既に用意が調い、俊介が隊を代表して挨拶に出向いた。そして、青木大佐を見つけると、
「司令、よい日和なりました。ありがとうございます!」
そう言って敬礼をした後、
「しかし、いいんですか?」
「フェンスのところに、住民が集まっているようですが?」
と質問をぶつけると、青木大佐は笑顔を見せ、
「おい、そろそろいいだろう。入ってもらえ!」
そう副長の東城中佐に命じるのだった。
副長が「はい!」と返事をするや否や、何と航空隊の門が開き、たくさんの住人が、こちらに向かって来るではないか…。
俊介が驚いて眼を丸くしていると、青木大佐は、
「まあ、上からは極秘で出せ…と言われていたんだがな…」
「しかしだ。我が航空隊にとっても、これが最後の壮行の会になるかも知れないんだ。おそらく、今の状況では機材の揃わない練習航空隊など閉鎖になるか、防空基地になるかのどちらかだろう…?」
「それに、俺もここでお払い箱さ。この間、命令が来た…」
「行き先は、九十九里の防備隊だとさ…。まあ、予備役の大佐など、それが似合いだろう」
「それに、ここの周辺の人たちには、貴様らの飯の用意で散々世話になっていたからな。俺も知り合いが多いんだ…」
「だから、こうしたのも、俺の最後の我儘さ…」
「まあ、こんなことくらいしか、してやれんが、頼んだぞ富高!」
そう言って、力強く俊介の手を握るのだった。
考えてみれば、大佐の言うように、こんな非常な戦局にありながら、隊員たちの食事だけは以前と何も変わらなかった。
青木大佐が、農家を回っている話は聞いていたが、最後までそれを続けていてくれたんだと思うと、本当に嬉しかった。
だからこそ、感謝の気持ちを込めて、我々の出陣に筑波の人たちを呼んだのだろう。
おそらく地域には青木大佐を慕う者も多いことだろうから、こんなにたくさんの人が詰めかけているんだ。それに、青木大佐が隊を離れるとなれば、この日は、青木大佐の送別の日でもあるのだ。
そうこうしているうちに、第6筑波隊の壮行式が始まった。
それは、如何にも簡素なものだったが、我々を取り巻く人数は、1000人を超えていたかも知れない。そして、式が滞りなく終わるまで、1000人を超える住民は、黙ってそれを見ていてくれたのだった。
人々は、それぞれが小さな小旗を持っているのが見えた。
多くは「日の丸」の旗だったが、中には子供が何かの絵を描いて振っているのもあったり、幟旗を持っている人もいる。
そして、式が終わると、いよいよ、第6筑波隊の8人は、各自の機に乗って出発するのである。
俊介は、隊員の前に一歩出ると、最後に青木大佐に礼を述べた。
そして、その挨拶の最後に、見送りに来てくれた人々にお礼の言葉を付け加えた。
「神風特別攻撃隊第6筑波隊、これより、出発いたします。大変お世話になりました!」
と告げて敬礼した後、俊介たち8名は、周辺で見守る人々に向かって敬礼をするのだった。そして、
「筑波のみなさんを守るために、これより出発いたします。これまでのご厚情に感謝申し上げます!」
と怒鳴るようにして叫んだ。そして、隊員全員で、
「ありがとう、ございました!」
と絶叫し、各方向に向けて敬礼をするのだった。
壇上では、青木大佐が同じように四方に向かって敬礼すると、参列した筑波航空隊の隊員たちも同じように四方に向かって銘々が敬礼をしている。
そして、口々に「ありがとう、ございました!」と言ってるのが聞こえてきた。それは、隊全員の本心だったに違いない。
次の瞬間、それは大きなうねりになり、ざわめきの波が滑走路全体を覆うような雰囲気になった。そして、我々8人は改めて青木大佐に体を向けると、
「司令、行って参ります!」
と俊介が告げ、一斉に敬礼をするのだった。
青木大佐は、感慨深げな表情で俊介たちを見ると、深く頷くのだった。
俊介が隊長としての指揮を執るために前に出て、青木大佐を顔を見ると、その眼には涙が浮かんでいた。
それは、惜別の涙なのだ。
俊介は、それを見てから、「かかれ!」と号令をかけた。
その号令と共に、8人は一斉に自分の愛機に向かって走って行くのだった。
そのとき、ゴーッ!というような、割れんばかりの歓声と拍手が起きた。それは、この航空基地全体が揺れんばかりの熱量を持った温かい拍手だった。
俊介は、一番最後に愛機に向かった。
そして、滑走路の奥にある自分の愛機に足をかけると、顔なじみの坂本二等整備兵曹に声をかけた。
「坂本…、随分世話になったな…」
「すまないが、機体はもらうよ。最後まで大事に乗るから、許してくれ…」
そう言うと、若い坂本は、
「いえ、隊長に乗っていただき、幸せです。機体は万全です、可愛がってやってください!」
「武運長久を祈ります!」
そう言うと、精一杯の敬礼をするのだった。
この坂本は、福島の出身で、若いながら整備の腕は一流だった。
「世話になった…」そう言葉にして、ふと座席の脇を見ると、布に包まれた物が置いてあるではないか。
坂本に聞くと、
「それは、主計科最後の心づくしだそうです。中味は、いなり寿司、海苔巻き、卵焼きだ…などだそうです」
「先ほど、主計科分隊士から渡すように言われました!」
敬礼をしたまま、そういう坂本の顔には笑顔が戻っていた。
俊介は、
「ありがとうって、古林主計科分隊士に伝えておいてくれ!」
「じゃあ、出発する! 元気でな…!」
俊介は、操縦席で点検を終え、エンジンの確認をした。
エンジン音に問題はない。回転数も正常。計器の異常もない。
俊介は風防を開けたまま、手で「チョーク外せ!」の合図をすると、下で待機していた整備員が一斉にタイヤ止めを外した。
スロットルを少しずつ開き、回転数を上げながら操縦桿を前に倒すと、機体は、スルスルと動き始めた。
周りの隊員たちも順調に準備が整ったようである。
俊介は、もう一度坂本兵曹に手を振ると、そのまま滑走路の端に機体を動かした。
滑走路周辺は、すべて住民で埋め尽くされ、大きな声で声援を送ってくれているのがわかる。
俊介は、その集団に頭を下げると、それを見ながら滑走を始めた。
スロットルを全開にして、操縦桿を前に倒すと尾部が上がったことがわかった。揚力がついたのだ。
零戦52型は、そのまま滑走を続けると、機体は滑走路の半分ほどでフワッと浮き上がった。
今日は、爆弾ではなく増槽タンクを装備しているので、さほど重くはないが、実際は、これ以上の重みになることは確実だった。
上空1000mに上ると、列機を待った。
しばらくすると、全機が揃い、俊介たちは編隊を組んだ。
そして、予めの予定どおりに、航空隊の上空を一週すると、筑波の人々に見送られて懐かしい基地を後にしたのだった。
俊介の隊は、一旦、名古屋空に下りて燃料補給をすると、休憩を取り、そのまま九州の鹿屋基地に向かった。
命令では、敵の艦載機が時々飛来して来るので、大分、宮崎方面から鹿児島に向かうように指示が出ていた。
確かに、俊介たち8人は、これまで急降下訓練や低空飛行訓練は実施していたが、敵機との空中戦はほとんど訓練していなかった。そのため、敵機との遭遇はできるだけ避けなければならなかった。
噂では、最近は敵の艦載機も内陸まで飛んで来るという話で、俊介は、名古屋を出るときから、状況を説明し、「周囲の確認を怠るな!」と命令したが、内心の不安は隠せなかった。
修介も、上空に上がるとキョロキョロとあちらこちらに目を配り、警戒を続けていた。
ちょうど、宮崎上空に達すると雲が出始め、高空での飛行は危険と感じた俊介は、編隊を高度1000m付近に誘導した、そのときである。
俊介の眼に、一瞬、キラッと光る何かを発見した。
俊介は、急に胸騒ぎを覚え、僚機に合図を送って、編隊の高度をもう一度上げた。
高度、3000mまで上昇すると、下方に見慣れぬ5機編隊を見つけたのだ。
「敵だ…」
そう確信した俊介は、無線で僚機に「敵機発見!」を告げ、急いで敵の後方に回り込んだ。
できれば、このままやり過ごしたかったのだが、無線の聴き取りが悪く、全員に方針が徹底できないもどかしさを感じながら、敵の様子を注視していた。
すると、その中の一機が気づいたらしく、こちらに編隊を誘導するではないか…。
俊介は、「しまった…」と思いながらも、この有利な状況なら、敵を墜とせないまでも逃げ延びる方法はあると思い、高度差を利用して一機に急降下の操作に入った。
それは、以前、坂井と話している時に、坂井が、
「あの急降下はすごい。俺にも教えてくれ…」
と言っていた言葉を思い出したからである。
通常の空戦であれば、我々に勝ち目はない。
敵の艦載機となれば、空中戦のプロである。
それに比べて、我々は特攻の専門部隊であり、急降下しかできない集団なのだ。
俊介は、即座に操縦桿を倒して敵編隊の中央目指して突っ込んで行った。
無論、20粍機関砲と7.7粍機銃の把柄は握りっぱなしである。
「うおーっ!」
という絶叫とともに、俊介の零戦52型は、空気を斬り裂いて、角度45度で突っ込んだ。
敵機は、その攻撃を怖れたのか、こちらに向かってきた1機も翼を翻すと、その高速を生かして一目散に逃げて行くではないか。
俊介は、高度1000mを切るところまで急降下を続けると、すぐに機体を引き起こし、そのまま高度300mを維持しつつ、低空飛行で退避したのだった。そして、そのまま海に向かうと、日向灘沿いに鹿児島方面に向かうことに決めた。
特に理由はないが、内陸では緊急時に不時着できる可能性がないのと、急降下した際に山があり、思い切った操作ができないと考えたからである。
敵機が去ったことを確認するために、後方を見ると、何とか7機がついて来るのが見えた。
(全機、無事だったか…。それにしても危なかったな?)
そこで、低空飛行から1000mまで上昇し、編隊を組み直すように風防を開けて指示を出した。
編隊が整うと、手信号で「大丈夫か?」と送ったところ、全機が翼を振るのが見えた。これは、飛行中の「了解」の合図である。
こうして、危機はあったが、第6筑波隊は、夕方近くに鹿屋航空基地に着陸したのだった。
降りてみると、鹿屋航空基地は雑然としていて、人が多い割に統制が取れていない印象を持った。
それはそのはずである。
ここは、第5航空艦隊司令部が置かれた最前線基地ではあったが、他の隊のように一個の航空隊が基地を所有して部隊を編成しているのとは違い、各航空基地から特攻隊が数日間から長くて2週間、この基地で過ごし、最期の出撃をしていくだけの場所なのである。
したがって、基地司令はいるが、それより上位に第5航空艦隊が「特攻作戦」の指揮を担当しているわけだから、所属部隊はないに等しいのだ。
だから、ここにいる飛行兵は、自分の隊毎に過ごすことが多く、その雰囲気は雑多なものがあった。
俊介たちにしてみれば、青木大佐を頂点に、軍民一体となった筑波航空隊とは大違いで、基地の雰囲気に馴染めるものではなかった。
俊介たちは、鹿屋基地に着陸すると、すぐに第5航空艦隊の司令部に到着の報告に出向いた。そこで、俊介たちは先発していた第2、第3、第4の各筑波隊が出撃したことを知った。
第2筑波隊は、4月14日に、兵学校72期の柴田中尉以下10名が出撃した。そのうち1名がエンジン故障のため出撃中止。他は全員敵艦に突っ込み、戦死したが戦果は不明だった。この隊にも14期の連中が何人もいた。その中でも庄司という男は、印象に残った搭乗員で、操縦はあまり上手くはなかったが、毎日スケッチブックを持って絵を描いていた。もし、戦争がなければ、きっと画家として大成したことだろう。その庄司も勇敢に突っ込んだということだった。
第3筑波隊は、4月16日に、兵学校72期の橋口中尉以下11名が出撃した。そのうち2名がエンジン故障で途中から引き返してきた。他は全員戦死。
この日は、陸海軍協同の大規模な特攻作戦が行われており、隊毎の戦果確認ができなかったようだ。詳細はわからないが、空母他3隻撃沈の報告があったそうだ。
橋口中尉は、ばりばりに気合いの入った将校で、常に「努力」を忘れないように、自ら予備学生と一緒に走り、飲み、食うといった豪傑だった。鹿児島県の出身で、見事、空母に体当たりしたそうだ。
第4筑波隊は、4月29日に、予備学生同期の山下中尉以下11名が出撃した。ちょうど、我々第6筑波隊が、到着した日の午前中の出来事だった。
同期の山下の出撃なら、見送ってやりたかった。
山下昇は、専修大学出身のテニス選手で、筑波空に来てからも兵学校出の連中と時々テニスコートでテニスを楽しんでいるのを見たことがあった。
山下に聞くと、大学テニスで有名だった山下を誘ったのは、兵学校出の連中だったようだ。彼らは中学時代にテニスをやっていたようで、山下の名を聞いて、わざわざ教えを受けに来たそうだ。その山下は、沖縄に向かう途中の空中戦で被弾し、沖縄の海に散った。そして、残念なことに、やはり2機がエンジン故障で出られなかった。
そして、第5筑波隊は、やはり同期の福島中尉以下10名が5月11日に出撃する予定になっていた。
福島悟は、大阪帝大の出身の秀才で、文系でありながら数学がよくできた。
教官の俊介にもよく質問し、軍人よりも学校の教師が似合う男だった。
他にも俊介が直接教えた14期の予備学生が二人おり、鹿屋で旧交を温めたが、福島は、この特攻作戦には納得できないものを感じているようだった。
夜になると、よく俊介の下を訪れて話し込んだが、どこまで親身になれたかどうかは、俊介自身にもよくわからなかった。
ただ、同じ特攻隊員同士、「話ができただけで幸せだった…」と言って、先に出撃して行った。
俊介は、第5航空艦隊司令部に到着の報告を済ませると、8人は指定された宿舎へとトラックに便乗して案内された。
そこは、小学校を接収して兵舎にしているとのことで、士官室は、まさに小学校の教室だった。
俊介も隊員の少尉たちも同じ部屋をあてがわれた。
一応簡易ベッドは置かれていたが、子供用の机や椅子がそのまま教室の隅に残されており、別の教室にはオルガンも数台置いてあるとのことだった。
ここに勤務している主計兵曹に尋ねると、長くて2週間、早いと3日ほどで出撃命令が下るようだった。そうなると、我々の出撃命令も近いかも知れなかった。
そこに、懐かしい顔が訪ねて来た。
それは、先発したはずの隊員たちである。
みんな14期の予備学生で、どれも私が訓練をした連中だった。
「隊長、申し訳ありませんでした…」
5人は、ひたすら「済みません…」を繰り返すばかりで埒が開かないので、その中の先任である高島少尉に尋ねると、全員が一度出撃したがエンジンの不調で引き返してきたということだった。
高島少尉は、
「我々は、エンジンのトラブルが原因で、やむを得ず引き返したものなのです。ところが、基地に戻るなり参謀から酷く怒鳴られました」
「そこで、すぐにでも出撃したいと申し上げると、参謀は、そんな余分な飛行機はない…の一点張りで、埒が開きません」
「そこで、ぜひ、第6筑波隊に私たちを編入していただき、一緒に出撃させてください。お願いします!」
そう言う高島の声に、他の4人もまったく同意の表情を見せた。
確かに、エンジンの不調は彼らのせいではない。しかし、機材が足りないのは事実だろう。
ここに来てわかったことだが、我々が筑波から運んできた零戦は52型である。新品とは言えないが、あの青木大佐が苦労して集めてくれた機体なのだ。
到着の報告に行ったとき、参謀から、
「運んできた零戦は、こちらで使わせてもらう。そちらの隊には、別の機体で飛んでもらう。いいな!」
と命令されたので、俊介は、それを拒否した。
「それは、困ります。この機体は、筑波航空隊司令の青木大佐自らが中島飛行機の群馬工場に出向き、交渉の末、筑波空で揃えたものです」
「作戦命令は、そちらにあることは承知していますが、機材は、筑波空の所属ですので、もし、どうしてもと言うのであれば、青木大佐と交渉をしてください!」
「それができないと言うのなら、我々は、その命令に従う義務はないと思います!」
そう言うと、少佐参謀は眼を丸くしていた。
まさか、予備の海軍中尉に反論されるとは思ってもいなかったのだろう。
青木安二郎といえば、空母赤城の艦長としてミッドウェイ海戦を指揮し、無念にも生き残り、敗戦の責任をとった形で予備役になった大佐として知られていた。しかも、その性格は剛直で、連合艦隊の命令も拒否するような硬骨漢であることは、内部では有名だった。
そうなると、兵学校で20期も後輩の少佐風情が、面と向かって交渉できるはずがない。まして、第五航空艦隊司令長官の宇垣中将とは、兵学校で一期しか違わないのだ。
もし、このことで青木大佐から直接宇垣中将に苦情でも言われれば、少佐参謀の面目はない。
そう考えた参謀は、苦虫を噛み潰したような顔をしたが、俊介に、
「そうか。青木大佐が直々に調達したとなれば、やむをえん。それは認めよう…」
それだけ言うと、そそくさと奥に引っ込んでしまった。
所詮、軍官僚参謀など、こんなもんだろうと思った。
ところが、今度は、生き残った筑波隊特攻隊員の処遇である。
もし、放置すれば、関係のない隊に入れられて出撃させられるに違いない。それでは、あまりにも気の毒だった。
俊介も安請け合いはできなかったが、明日、第5航空艦隊司令部に直談判に行こうと考えていた。
夜になって、我々より先に行く予定の福島隊の面々が現れた。
福島隊は、俊介たちの宿舎とは違うのに、わざわざトラックを宿舎の従兵に運転させて来てくれたのだ。
「おうい、富高…。いよいよ貴様らも来たか?」
その手には一升瓶をぶら下げており、
「おい、今日はとことん飲むぞ!」
そう言って、俊介たちの宿舎にドカドカ…と入ってきた。
俊介は大して酒を飲めなかったが、この日ばかりは無礼講ということにして、福島隊11名と我々富高隊8名、そして生き残りの5名は、朝まで痛飲したのだった。
出撃前だというのに、その酒は明るく楽しい酒だった。
福島隊も、もう出撃する覚悟はできているようだった。既に筑波隊の4隊を見送ってきた福島隊である。
やはり、見送るのは辛いのだ。だったら、自分たちも早く出撃したい…というのが、偽りのない気持ちだった。
俊介たちも、ここに来て僅かだったが、特攻基地という独特の雰囲気に馴染めず、あの筑波航空隊や青木大佐や先に逝った井上大尉が懐かしかった。
その晩遅く、福島隊は元気に自分の宿舎に戻っていった。
別れ際に隊長の福島は、
「じゃあな富高、そして諸君。いずれ、靖国で会おう!」
「先に行って待ってるからな…」
そう言うと、全員で敬礼をして別れたのだった。そして、この日から二日後、彼らは出撃して行ってだれも還らなかった。
戦果は、巡洋艦一隻大破という報告があった。
翌朝、我々第6筑波隊の隊員8名と生き残りの5名は、意を決して第5航空艦隊司令部を訪ねることにした。
要件は、無論、筑波空特攻隊生き残り5名の処遇問題である。
朝食を済ませすると、特攻隊員の我々にはすることがない。
常に「待機!」が命じられているのだ。
そのために、その間は、機体の整備をしたり、沖縄までの飛行航路を確認したりと、隊毎に内容は自主性に任されていた。と言うより、第5航空艦隊にしても、全国から集まって来た別部隊の隊員の処遇には、手を焼いていたというのが本音だったと思う。
特攻隊員たちには宿舎をあてがい、食事も酒も出したが、軍規を保つ手段もなく、いずれ「軍神」になる連中だと考えると、あまり手荒なこともできなかったようだ。
それに、特別に訓練をするような施設もなく、次々と出撃命令を下さねばならないため、組織として運用できるような状態にはなかったのだ。
特攻隊員の中には、町に出て騒ぎを起こす者もいたようだ。それを警察や憲兵隊にもらい下げに行くのは、第5航空艦隊司令部の仕事になっていた。
参謀あたりが行けば、警察や憲兵隊も素直に応じてくれるが、下士官あたりが行っても埒が開かず、一晩留め置かれる隊員もいて、司令部でも頭の痛い悩みでもあった。
それに、筑波空のように融通の利かない連中もいるので、参謀たちも強い態度で接するようにしているのだが、それに反発する隊員たちも多かったのだ。
俊介は、とにかく、第5航空艦隊司令部には「無理」を押し通すつもりだった。そして、その交渉役は、隊長の俊介がやるしかない。
司令部は、朝から忙しそうで、今日も三つの特攻隊が出撃するのだそうだ。
沖縄戦の最初のころは、盛大な出発式が行われ、報道班員もたくさん来ていたようだが、連日の出撃が続くと、人はそれに慣れ、若い隊員たちの死への旅立ちにすら、感慨を持たなくなってしまっていた。
この鹿屋基地では、こんな風景は日常であり、人の死が、これほど軽く扱われる時代もそうないだろう。
俊介たちは、主任参謀の戻りを待って、本部庁舎の玄関前に立っていた。
飛行服を着たまま、黙って立っている13人を見て、だれもが不審な表情を浮かべたが、特に咎める人間はいなかった。それは、だれが見ても、この13人が特攻隊員だと思っていたからである。
俊介たちは、ここに1時間近く待っていた。
春の5月とはいえ、ただじっと立っているのも辛いものがあった。しかし、こんな場所で雑談するわけにもいかず、ひたすら、主任参謀を待つことにした。
そこに現れたのは、何と…宇垣纏中将だった。
先頭を宇垣長官が歩き、その後ろを幕僚らしき4、5人が歩いてくる。
そうやら、この日は、珍しく宇垣長官自らが見送りに出たらしい。
長官は、飛行服の13人を見つけると、側に寄ってきて、
「おまえたちは、どこの隊か…?」
と聞くので、俊介が代表して、
「筑波航空隊所属、第6筑波隊、他5名であります!」
と緊張して返事をすると、宇垣長官は顔を綻ばせ、
「なんだ、青木のところの連中か?」
「ところで、青木大佐は元気かな?」
と、今度は優しげに聞くので、俊介が、
「はい。元気にしておられます!」
「そうか…。じゃあよかった。赤城では、すまぬことをしたからな…」
そう言って、少し空を見るような眼をするのだった。
「ところで、おまえたちは何をしに来たのか?」
と問われたので、斯く斯く然々と、これまでの経緯を話すと、
「無論、そうした方がいい。おまえたちの所属が筑波空なら、筑波の隊に入って出撃するのは当然だと思う。そうしなさい…」
そう言われたので、全員がサッと敬礼し、
「ありがとうございました!」
と大声で礼を言うと、宇垣長官は、
「もう、青木に会うことはないだろうが、あいつは兵学校時代の俺の対番でな。よく面倒を看てやった男なんだ…」
そう言って笑って行ってしまった。
こうなると、参謀と言えども何も言えずに、押し黙ったままだった。
我々にしてみれば、まさに「天佑」だった。
それに、青木大佐が宇垣長官の兵学校時代の対番だったとは、驚きである。因みに「対番」とは、兵学校独特の制度で、新入生徒に対して一期上の先輩が、一年間、兄貴分になって親切に教える制度を言う。
普段は何も言わない先輩が、夜の自習時間になると側に寄ってきて、あれこれと声をかけてくれるのだ。
これは、新入生にとって忘れられない思い出であり、その対番同士の関係は生涯続くとまで言われていた。
その宇垣長官が3号生徒(2年生)のときの4号生徒(1年生)が青木大佐だった。もう30年以上も昔の話になる。
宇垣長官の鶴の一声で、5人の第6筑波隊への編入がきまった。ところが、今度は機体をどうするかの問題があった。
彼ら5人は、エンジン不調で引き返したものであり、機体は鹿屋基地にある。そこで、格納庫に行き、整備長に今の話をすると、
「えっ、宇垣長官がそう言われたのか?」
「じゃあ、この機体は、やっぱり筑波隊に返すしかないな…」
そう言って、筑波空の機体番号の書かれた機体を指さした。
ついてきた五人が、心配そうにエンジンのことを聞くと、
「ああ、それなら、新しい部品が届いたので、さっき交換したばかりだ。試運転するから見ていてくれ!」
そう言われて、格納庫前に引き出された零戦52型の試運転が開始された。
どうもプラグの不具合で調子が出なかったようだが、そのプラグを新品と交換すると、見違えるようなエンジン音が響くのだった。
整備長の話によると、
「今の機体は、勤労動員の中学生が作っているらしいんだ。だから、機体は新品でも、なかなか完全な機体は難しいらしい。三菱や中島でも何度も試運転をするのだが、それでも、粗悪な部品ではすぐに壊れるし、整備する我々も大変なんだよ…」
「これなら、昔の機体の方がずっといい。俺なんか、ラバウルの埃まみれのところで機体整備をしていたが、あんな劣悪な環境でも、零戦の栄11型は故障知らずだったんだ」
「胴体が壊れても、エンジンさえ無事なら、すぐに他の機体と交換して付け替えれば、すぐに飛べるんだから、初期の零戦は優れ物だよ…」
「まあ、とにかくそういうことなら了解した。この五機は、筑波で使うんだな…?」
「はい。宇垣長官から、そう命じられました。よろしく願います!」
この整備長は、佐藤特務中尉と言い、開戦以来の貴重なベテラン整備員だった。そして、青木大佐を知っているらしく、
「青木大佐には、気の毒なことをしたな…。俺は、戦前の土浦航空隊で一緒だったんだ。と言っても、向こうは中佐、こちらは一等兵曹じゃ話もできないが、地元とは、随分と馴染んでいたな…」
「筑波では、どうだったんだ?」
その話で、俊介たちは合点がいった。
(青木大佐は、戦前に土浦空の司令をしていて、地元とは元々顔なじみだったんだ。それで、我々のときも、随分と便宜を図ってくれたというわけか…)
俊介は、佐藤整備長に、
「はい。青木司令には、筑波空のだれもが随分と世話になりました。感謝してもしきれません…」
そう言うと、佐藤整備長は、
「だがな…。あんたたちを特攻に出すのは、苦しかったはずだぜ。あの人は、そういう人なんだよ…」
「ああ見えて涙もろく、部下の命を一番大事にする大将だったよ。だから、赤城の最期は本当に苦しかったと思う…」
「あの艦を沈めるなら、自分も一緒に沈めてもらいたかったのに、ばかな連中がいたもんだ。武士の情けも知らんのか…?」
そう言うと、俊介の肩をポンと叩き、
「任せておけよ。この機体は、万全にして準備しておくから…」
そう言ってくれたのだった。
結局、翌日、第5航空艦隊司令部からは、生き残りの5人全員が第6筑波隊に編入される命令書が俊介に渡された。
命令を受領するとき、航空参謀から、
「いいか、富高中尉。これは、長官の特別な配慮だからな…。心せよ!」
そう言われて、俊介は堅い敬礼を返すのだった。
第9章 出撃
福島中尉の率いる第5筑波隊は、予定通り5月11日早朝出撃して行った。
この日は、大がかりな特攻攻撃となり、陸海軍合わせて70機の特攻機が三次に渡って攻撃をかけたということだった。
筑波隊は、全員が特攻に成功したようだった。
だれが、成功したかまではわからなかったが、巡洋艦に数機の体当たりを確認したという報告があった。そして、その報告をもたらしたのは、あの沖長特務少尉以下の直掩隊だった。
沖長寛特務少尉率いる直掩隊は、筑波を出るときは20名の隊員がいたが、今や、生き残っているのは、9人ということで、間もなく原隊である筑波空に戻るという話を聞いた。
そこで、その晩、俊介は特務士官の宿舎を訪ねた。
海軍は、どうも差別的なところがあり、兵学校や機関学校出の正規将校と、我々予備学生出身士官を区別しただけでなく、兵隊からの叩き上げの特務士官も区別し、絶対に作戦などには関わらせようとはしなかった。
こうした硬直した体制が、柔軟な思考を妨げ、教科書通りの作戦に終始して敵に裏を掻かれてきた原因だと予備学生出身者たちは見ていた。
おそらく、特務士官たちも同じだったろう。
予備学生上がりなんかより、実戦経験が豊富で、頭脳明晰な特務士官を単に「兵隊上がり」というだけで差別する感覚が俊介にはよくわからなかった。
この戦争が総力戦というなら、貴重な経験や頭脳は作戦に生かすべきなのだ。だが、一向にそれを考える様子もなく、いつまでも将校風を吹かす態度にだれもが辟易していた。
夕食を終えて、宿舎にある自転車を借りて30分ほど走ると、別の学校に出た。ここは、元は女学校だったところで、今は「特務士官」と「下士官」が宿舎としてあてがわれていた。
本部にはやや遠く、こういうところにも差別感が見て取れる。
玄関で案内を請うと、若い二等水兵が出て来て、
「あっ、沖長特務少尉ですね。案内いたします!」
そう言って、可愛い敬礼をするのだった。
聞くと、まだ、志願して半年にもならないということだった。
海兵団での訓練も3ヶ月で終了し、そのまま、ここに配属されたということだった。
本当は、艦隊勤務に憧れて海軍に志願したのだろうが、今は、その軍艦がいないのだ。
この少年兵は見たところ18にもなっていないだろう。15歳と言っても通るくらい、幼い顔つきをしていた。
こんな少年までも兵隊に取るようでは、先が思い遣られる。
俊介は、そんなことを心配しながら、案内について行った。
沖長特務少尉の部屋は、俊介たちの部屋と同じようなものだった。
元は教室なので、造りが似ていて当然だったが、元は女学校ということで、どこか華やいだ匂いを嗅いでいたのは、俊介ばかりではなさそうだった。
案内されて室内に入ると、奥のベッドに沖長はいた。
「おい、沖長少尉。ご無沙汰です…」
飛行服を脱いで三種軍装で寛いでいた沖長特務少尉は、こちらを見るなり、
「おおっ、富高中尉ではありませんか?」
「まだ、生きておったんですね…」
そう言って、飛びつかんばかりの勢いで、俊介の体を叩いた。
「おい、沖長さん。痛いですよ…」
そう言うと、そこにいた他の士官も笑っていた。
階級は俊介の方が一つ上だったが、海軍歴は10年を超える沖長特務少尉には、まったく歯が立たない。しかし、年齢も同じで、筑波時代もよく操縦を教えてもらった仲だった。
俊介は夕食も終えているので、沖長特務少尉に誘われるままに、食堂で酒を飲むことになった。
ここは、特務士官と下士官だけの宿舎で、基地のような堅苦しい規律はなかった。それは、予備士官の宿舎も同様だったが、やはり、所属が違うのでお客さん扱いなのだろう。
沖長特務少尉が声をかけると、別の部屋から沖長隊の生き残りの面々が顔を出した。みんな、筑波空の優秀な下士官搭乗員たちである。
年は若いが、それでも飛行時間は1000時間を超え、今ではベテランの域に達する連中だった。
彼らも俊介の顔を見ると、
「ああ、富高中尉ではありませんか…?」
「元気で何よりです!」
そう言って駆け寄ってくれた。
その笑顔は、ベテラン搭乗員というより、あどけない少年兵の面影を残していた。そして、俊介と沖長たちは、この夜、夜が更けるまで飲み明かした。
直掩任務を主とする沖長隊は、ここに来て既に11人の部下を戦死やけがで欠いていた。そして、直掩の任務を後1回で解かれるということだった。
俊介が敵の状況を聞くと、
「いやあ、すごいなんてもんじゃない。今のままでは、沖縄に辿り着くのでさえ奇跡ですよ…」
「敵の陣形は、多分、硫黄島の戦い以上に厳しくなり、レーダー射撃もかなり精密射撃になってきています。その上、空母が多く配備されており、攻撃機よりも戦闘機が多いのが特徴です」
「この戦闘機が、特攻隊の進撃を阻んでいるのです…」
「鹿屋から沖縄本島までは、約650㎞あります。巡航速度で飛んで約1時間半というところです」
「しかし、敵機は鹿屋から4、50分ほどの地点に第一群が待っており、ここを突破しても、その20分後には第二群が待っています。そして、最後が敵艦隊上空の護衛戦闘機部隊です」
「私たちは、直掩が任務ですから、敵機を発見次第これと空戦になります。しかし、敵の戦闘機はとにかく頑丈で、こちらの弾が当たっても煙も吐きません。それでも、損害を与えれば、直掩任務は果たせます」
「特攻隊は、その直前に低空飛行に入り、こちらが空戦をしている間に少しでも沖縄に向けて飛行をし続けます。それでも、第二群に当たるまでには、まず、半数がやられると思ってください」
「そして、沖縄本島まで20㎞の地点で上昇し、そのまま突っ込むのですが、敵の対空砲火はレーダーを使った精密射撃ですから、そのままでは、かなりの確率で被弾します」
「要するに、よほど上手くやらない限り、成功は見込めんのです」
「私の隊もこの間に11機がやられ、9人戦死、二人が大けがを負って病院に送られました。残りの9人も満身創痍です。私も二度ほど被弾し、辛うじて鹿屋に戻って来れましたが、多分、もう無理でしょう…」
「9人も、次の直掩で死ぬ覚悟です。機体も修理を重ねてきましたが、もうボロボロです。最期は私も特攻隊と一緒に突っ込むつもりです…」
沖長のその言葉には嘘はないだろう。
当初、筑波で考えていたよりも状況はさらに悪くなっているようだった。
それでも、沖長たちは俊介に笑顔を見せ、
「これで、いつ死んでも悔いはないですよ…」
などと冗談まで飛び出す始末だった。最後に沖長特務少尉が、
「しかし、今日、富高中尉にお会いできてよかったです」
「こちらに来ていることはわかっていましたが、会いにも行かず申し訳ありませんでした…」
そう言って頭を下げるのだった。
よく見ると、沖長特務少尉の頬はげっそりとこけ、体も細くなったようだった。それだけ神経を削るような戦いをしてきたのだろう。
どちらにしても、この時代に生き残ることが難しいことは、百も承知していた。
特攻隊と直掩隊の違いはあるが、どちらにしても「死」は、目前に迫っていたのだ。
翌朝、いつものように本部に向かうと、いの一番に「搭乗割」を見る。
「搭乗割」とは、第5航空艦隊司令部が作成した出撃予定の表のことを指す。それが、大体1週間分が本部の広間に貼り出されるのだ。
だから、ここに来て以来、この「搭乗割」を確認するのが日課になっていた。
昨日、第5筑波隊の出撃を見送った我々は、その日が近いことはわかっていた。そして、遂に俊介は、「第6筑波隊」の名をそこに確認したのだった。
それは、明後日14日の0600の出撃予定になっていた。そして、その直掩には、あの沖長隊9名の名前が書かれていたのだ。
この日は、鹿屋から出撃する隊は三隊だけで、特に大きな作戦が発動されてはいなかった。そして、早朝出撃は筑波隊だけで、残りの二隊は薄暮攻撃に回されていた。
「どちらがいい…」ということもないが、俊介としては早朝の方が、気持ち的には有り難かった。そして、我々も最初で最後の出撃だったが、沖長隊も最後の出撃になるだろう。
だが、沖長隊に護衛して貰えれば、これ以上心強いことはない。
後は、計画に従って、最善を尽くすのみである。
その晩、第6筑波隊13名と沖長隊の9名が士官食堂に集まって、最後の打ち合わせを行った。
沖縄方面の地図を開き、僅か1時間半の飛行をどう乗り切るか…という話し合いになった。
もちろん、主導するのは何度も沖縄に飛んでいる沖長特務少尉である。
沖長は、俊介以外の隊員にも、アメリカ軍の防衛線の状況を説明し、
「中高度で飛行すれば、間違いなく敵のレーダーに捕捉されます!」
「敵は、三段構えで特攻隊を待ち受けていますので、これに引っ掛からずに突破する方法はありません…」
「もし、できるとすれば、低空を飛行し続けるか、高高度を飛行するかのどちらかでしょう…」
「私は、思い切って特攻隊の皆さんには、高高度の飛行をお願いしたい。もちろん、誘導は、こちらのベテラン搭乗員が行います」
「そして、もう一つ。囮隊を作るのです。それは、従来の中高度を飛行する隊です」
俊介が「囮ですか?」と尋ねると、
「そう、囮です…」
「おそらく、敵のレーダーは、いつものように中高度に合わせているはずです。高度5000m以上の高度では、普通、爆弾を抱えた戦闘機が飛ぶ高度ではありません」
「高度が高くなれば目標が見えず、余程航法に長けた搭乗員でも偵察機の誘導がなければ無理でしょう」
「この時期の沖縄海域は、気温が上がり雲が多く発生します。関東のような晴天に恵まれる日は少ないのです。したがって雨も多く、雨になれば飛行機は飛べません」
「高度を高く取れば、確かに敵のレーダーには捉えられないかも知れませんが、ずっと雲の上を飛びことになります。当然、海面は見えないし、余程、注意しないと目標すら見失うことになります」
「それに、爆弾を搭載している飛行機は燃費が悪く、増槽タンクを積めない分、燃料の心配があります…」
沖長特務少尉は、続けて、
「これまで、偵察機の誘導で沖縄に飛んだ特攻隊はありません。それは、そうですよ。僅か1時間半の飛行距離です。まして、島伝いに飛ぶことができる航路です。高度さえ保っていれば、飛ぶこと自体に無理はないのですから…」
「だからこそ、そこが盲点になると思うのです」
「これまで、陸海軍の特攻隊が同じ航路で飛行してきたことは、敵もわかっています。だからこそ、待ち伏せ作戦が可能なのです。だったら、その敵の常識をの裏を掻くのです」
「いいですか?」
「通常の中高度は、我々7機が飛びます。そして、空中戦を行っている間に、富高隊は高度5000mから沖縄を目指してください。誘導は、この河井と佐々木の両一飛曹が行います」
「彼らは、水上機からの転科組ですから、航法はお手のものです。必ず、沖縄に誘導します」
俊介が思わず、
「それでは、直掩隊が危険になるではありませんか?」
と聞き返すと、沖長は、
「だから言ったでしょ。これが、我らの最期の出撃になると…」
「えっ…!」
(まさか、直掩隊が特攻を成功させるために、自分たちを犠牲にしようと言うのか…?)
沖長がそこまで考えているとは、思いもよらなかった。
それに、それは命令違反じゃないのか?
「しかし、…」
そういう俊介に、河井一飛曹が答えた。
「もう、何度も沖長隊長とは話し合った末の結論です。まして、最期の直掩が同じ筑波空の特攻隊となれば、是が非でも成功させたいじゃありませんか?」
「それが、我々に美味い飯をたらふく食わせてくれた筑波の人たちと、あの青木大佐への恩返しですよ!」
「我々の戦果が報道されたとき、筑波の人や航空隊の連中は、泣いて喜ぶんじゃないんですか?」
「もう、戦争の勝ち負けはいいです。我々は我々の戦争をしましょう!」
そう叫ぶように言うと、沖長の後ろにいる直掩隊員たちも深く頷くのだった。
「あ、ありがとう…」
もう何も言う言葉はなかった。
隊員たちは、お互いに肩を抱き合い、「よし、やろう!」と、成功を誓うのだった。それは、特攻隊員と直掩隊員の心が一つになった証でもあった。
俊介はそんな姿を見て、
(きっと、青木大佐は、こういう戦争をしたかったんだろうな…)
と、あの柔和な顔に似合わないちょび髭を思い出していた。
昭和20年5月14日、早朝0530。
まだ、夜が明けきらぬ中で、静かに第6筑波隊の出発式が鹿屋航空隊の格納庫前で行われていた。
起床ラッパは、0600が決まりである。
そのために、鹿屋基地の隊員たちはまだ夢の中だろう。
だが、その方がいい。
筑波隊には、こうした静かな中での出撃が似合っているのだ。
それに、筑波を出るとき、航空隊だけでなく地域住民の盛大な見送りを受けてきた。何の悔いもない。
その静寂の中に、第6筑波隊13名と直掩隊9名が並んだ。
鹿屋基地の山崎中佐が訓示を始めようとしたそのときである。
暗い陰の方から一人の軍人が顔を出した。それは、なんと宇垣長官だった。
宇垣長官は、鹿屋基地司令の山崎中佐を制止すると、
「すまないが、私に別れの言葉を言わせてもらえんだろうか…?」
と静かに告げると、山崎中佐はサッと身を引いた。
そして、代わりに宇垣中将が壇上に上ったのである。
それは、まさに異例だった。
これまでも宇垣長官が壮行式に出ることはあっても、訓示をしたことはなかった。宇垣はいつも静かに頷き、特攻隊員に敬礼をして見送るのを常としていた。
それだけに、周囲の者たちは、驚きと共に緊張の色を隠せなかった。
宇垣長官は、静かな口調で話し始めた。
「筑波航空隊の諸君。いよいよ、君たちの隊で最後になった。青木大佐が手塩にかけて育てた諸君を散らせることは、断腸の思いだろう。諸君の戦果は必ずこの宇垣が直接青木大佐に知らせる。存分に戦ってもらいたい…」
「健闘を祈る…。以上である!」
そう言うと、俊介たちのところに下りて来て、一人一人と握手を交わすのだった。
周りの参謀たちも、この異例の光景に唖然として佇んでいたが、隊員たちは、緊張の中にも、宇垣纏という人の熱い思いを受け止めていた。
「長官、後のことはよろしくお願いします!」
俊介が隊長として、それだけ言うと、22名の隊員たちは一斉に感謝の敬礼をするのだった。
そして、水杯を交わすと、俊介の「かかれ!」の号令で、一斉に自分の愛機へと一目散に散っていった。
それぞれの愛機の前には、寝ずに整備してくれたのだろう、顔を真っ黒にした整備兵たちが笑顔で隊員たちを操縦席に押し上げてくれるのだった。
俊介の愛機の前には、あの佐藤整備長が待っていた。
「富高中尉、いよいよですね…」
「整備は万全。絶対に故障はしませんよ。成功をお祈りします!」
そう言うと、静かに笑みを浮かべ、俊介と交替するのだった。
俊介の飛行服のポケットには、妹の寛子に似た早紀という名の女学生にもらった乃木神社の「勝守」が入っていた。
これがあれば、心強い。
向こうに行けば、先に逝った寛子や家族が待っていると思えば、怖ろしくはなかった。それより、是が非でも、この作戦を成功させたかった。
そして、出発準備を整えると、壇上に立っている宇垣長官に聞こえるような大声で、
「長官、お世話になりました!」
「第6筑波隊、征きまあす!」
と怒鳴った。
それは爆音にも拘わらず、長官に届いたようだった。
長官は、その声を聞くと、さらに大きく帽子を振るのだった。そして、何かを言っているようだったが、それは私の耳には届かなかった。
そのとき、宇垣長官は、「がんばれ、頼んだぞ!」と繰り返し叫んでいたそうだ。
参謀たちは、鉄仮面と呼ばれた寡黙な長官が、大声で叫んでいるのを初めて見た。そして、それに釣られるように、その場にいた全員が声を枯らして見送るのだった。
本当は、普段偉そうに見せている参謀たちも、こうしたかったのかも知れない。肩書きや立場が邪魔をして素直になれなかったが、本心では、壮途に就く者たちへ声をかけたかったのだろう。
それを宇垣は「長官」としてではなく、人間として体現して見せたのだった。
操縦席に座ると、
(今日は、25番(250㎏爆弾)を吊しているから注意して離陸しないとな…)
そんなことを考えながら、「チョーク離せ!」と下の整備員に合図を送った。
スロットルをゆっくり前に推すと、機体はスルスルと加速するが、やはり、少し重い。
俊介は、隊員たちに発進の合図を送ると、機体は次第に加速して、いつも以上に滑走して地上を離れた。
夜が明けてきたらしく、上空には青空と星が入り交じって見えていた。それに、やはり雲は多い。
俊介がチラッと後ろを振り返ると、まだ、見送っている長官や参謀、そして整備員たちの姿が見えた。
列機も順調についてきている。
すると、一機の零戦が近づいてきた。
直掩隊の沖長特務少尉である。
沖長隊長は、俊介に向かってバンクを振ると、機速を上げ先行して行った。その後ろには、予定どおり6機の「囮隊」となる零戦がついて行くのが見えた。
高度を3000mに取ると、俊介に合図を送って誘導の位置に着いたのが、河井、佐々木の両一飛曹である。
この二機は爆弾を装備していないので、加速がいいようだった。
すると、彼らは次第に高度を上げると、10分もしないうちに高度5000mに達した。
機体が重いので、この5000mを維持するのもなかなか難しく、少し気を緩めると高度が下がるのだ。
この高度では空全体に雲が広がり、海面がまったく見えない。
こうなると、計器と地図だけが頼りだったが、先を行く二機は、躊躇う様子もなく時速400㎞で飛行を続けるのだった。
高度が低ければ、故郷の山河が見えるところなのだろうが、それを見ることはできなかった。
残念だが、こればかりは仕方がない。
我々は感傷に浸ることよりも作戦の成功が大事なのだ。
確かに沖長が言うように、高度5000m以上に上ると雲が下に見える。
まさに雲海が広がる世界だった。しかし、如何せん、何処を飛んでいるか、皆目見当がつかない。
それでも俊介は、航空図に赤で飛んだ航路を書き入れながら飛行していたので、大体の位置は把握できたが、それでも目標物が見えない不安は怖ろしくもあった。
既に、鹿屋基地を飛び立ってから30分以上が過ぎている。
今のところ順調に飛行を続けているが、先行して中高度を飛行しているはずの7機の直掩隊が気になったが、どうすることもできない。
そのころ、直掩隊の7機は、敵戦闘機群と空中戦の真っ最中だった。
敵の前衛編隊とぶつかったのだ。
当初、直掩隊を特攻隊と誤認した敵編隊は、真正面から攻撃を仕掛けてきた。しかし、沖長特務少尉を指揮官とする7機は、これまで数度の実戦を経験してきた搭乗員たちである。
敵機を発見すると、サッと散開し、増槽を落とした。
零戦52型は、中高度での巴戦になれば、グラマンF6F戦闘機でも互角以上に戦えるのだ。
特攻機と思っていた敵機は、零戦が増槽を落とした時点で、この編隊が特攻隊でないことを悟った様子だった。
沖長機は、もたついてる敵機に近づくと、20粍と7.7粍弾をその左翼に撃ち込んだ。すると敵機は左翼をもぎ取られ、そのまま回転しながら墜ちていくのが見えた。
他にも数機が黒煙を吐いて逃げていくのが見える。
これは、完全にこちらの勝利だった。
但し、7機のうち一機がガソリンを吹いているではないか。
それは、若い荒木二飛曹の機だった。
沖長が近寄ると、荒木二飛曹は、既に体に銃弾を受けているらしく、風防に赤い血飛沫が見えた。
荒木は、沖長機に向かって笑顔を見せ、手を振ると、そのまま静かに高度を下げて行くのだった。
「荒木…!」
沖長は、風防を開けて叫んだが、無論、声が届くはずがない。
荒木機は、まるで不時着をするかのように海面に突っ込むのが見えた。そして、小さな飛沫を上げたかと思うと、機体は荒木武という二十歳の若者を乗せたまま、静かに海の中に吸い込まれて行った。
沖長には、感傷に浸っている暇はなかった。
おそらく、敵は、中高度に特攻機がいないことを悟ったはずだ。
そうなれば、第二の敵編隊は低空域か高高度に向かうはずだ。
もし、高高度に向かえば、万事休すである。
そこで、沖長は低空域を捨て、一直線に第6筑波隊が飛行する高度5000mに上昇することにした。
もし、レーダーに捕捉されたとしても、多少の時間差はできる。
高度5000mなら、そのまま急降下に入れば、敵機のスピードでは捕捉できない。だとしたら、自分が敵艦隊を見つけて、これを支援する他はないのだ。
僅かな時間でそう考えた沖長は、6機になった直掩隊を率いて高度5000mを目指すのだった。
零戦52型の性能を持ってすれば、10分とはかからないだろう。
腕に巻いている航空時計を見ると、鹿屋基地を出発して、約1時間が経過していた。もう、時間はなかった。
後30分もすれば、沖縄本島が見えてくる。
沖長は、河井一飛曹と佐々木一飛曹が気になったが、心配をしても仕方がない。
水上偵察機出身の奴らなら、間違いなく沖縄本島まで特攻隊を誘導してくれるだろう。そう思いながら、高度5000mを目指して上昇を続けるのだった。
とにかく、敵のレーダーが富高隊を捕捉する前に敵艦隊を発見できるかどうかが鍵になるのだ。
沖長隊が上昇を続け、高度4000mに達したころ、沖縄本島が遠くに見えてきた。
よく見ると、嘉手納湾周辺に敵艦隊がいるのが見える。
「よし、敵艦隊発見!」
沖長は、無電のキーを叩いた。
これで、鹿屋基地には、第6筑波隊が沖縄本島上空に達したことがわかっただろう。後は、突入のみである。
そこに、見覚えのある編隊の機影が見えてきた。第6筑波隊である。
ところが、沖長の発見と同時に、同高度に敵編隊を発見した。
「しまった。もう、敵が上がってきたのか?」
それは、レーダーに特攻隊が捕捉されたということを意味していた。
もう、迷っている時間はない。
沖長は、5機の列機と共に、敵編隊の中に突入していった。
そのころ、第6筑波隊は、河井機と佐々木機の誘導で、高度を下げ始めていた。そして、高度4000mで敵艦隊を発見したのだった。
「よし、敵艦隊発見!」
の報を無電のキーを叩いて、鹿屋基地に報せた。
鹿屋基地では、
「また、敵発見の無電が入りました。今度は、隊長機からです!」
地下壕の無線室には、通信参謀が今や遅しとその連絡を待っていた。
「よし、やったな!」
そう言うと、メモ用紙に「敵艦隊、発見 第6筑波隊 以上!」と書いて、通信兵に手渡した。
「すぐに、本部に電話で報告!」
「はい!」
そのころ宇垣は、長官室で第一報を待っていた。
そして、「敵艦隊発見!」の報告を聞くと深く頷いた。
「そうか、筑波隊は敵艦隊に辿り着いたか…?」
だれに言うでもなく、宇垣はそう呟いた。そして、
(せっかく、沖縄まで行ったんだ。頑張れよ、富高中尉…)
宇垣は、座っていた椅子から立ち上がると、窓際から空の様子を見るのだった。それは、まるで子供の遠足を心配する父親のようだった。
そして、いつまでも空を見ながら、富高たちの成功を心の中で祈るのだった。
第10章 突撃
特攻隊というと、だれもが「統率の外道」と言い、無駄死にだったかのように論評する。しかし、第6筑波隊の突入は、綿密に計算された計画に基づく「体当たり攻撃」だった。
だから、彼らは自分たちの死を決して「無駄」だとは思っていなかった。
筑波航空隊は、青木安二郎という指揮官を擁して、合理的な作戦で特攻作戦に臨もうとしていた。そして、そのために過酷な訓練を課し、選ばれた搭乗員たちもそのために自分の技量を磨いてきたのだ。
確かに、飛行時間は短く、多い者でも600時間にも満たなかった。
それでも、急降下の腕を磨き、用いる機材も司令自らが航空機メーカーに頭を下げて調達してきた。
さらに、その護衛に当たる直掩隊には、筑波航空隊のベテラン搭乗員を選抜し、特攻隊の掩護に当たらせたのだ。
だから、彼らは闇雲に死に向かったのではない。
自分たちの持てる力を最大限に発揮するべく、その計画通りに戦ったのだ。
結果として、全隊員が戦死したが、その死は、紛れもなく戦闘での戦死である。ただ、闇雲に敵艦に突っ込んだ「自殺攻撃」ではないのだ。
日本軍は、戦争末期に多くの特攻機を出撃させ、数千名の若者を死に至らしめた。そのことに対する反省はあって然るべきだろう。しかし、そこには、特攻を「作戦」として捉え、軍人として名誉ある戦いに臨んだ若者たちがいたことを忘れてはならない。
記録に残るわけではないが、自分の持てる力を最大限に生かすための努力をして死んで行った若者たちのことを、後世の人たちに知ってもらいたいと思う。
「いよいよ、俺一人か…?」
俊介は、海面に点在するいくつもの波紋を見ていた。
それは、仲間たちが敵艦に突っ込んだ墓標のようだった。
俊介が指揮する第6筑波隊は、沖長特務少尉の意見に従って、高度5000mで沖縄本島を目指した。
敵艦隊のレーダーは、通常の高度3000m付近に照準を合わせていたのか、雲海を遥かに超える高度5000mを飛行する攻撃隊に気づくことはなかった。
なぜなら、高度5000mでは海面が見えず、「今の日本軍のパイロットの技術では、絶対に不可能」という結論をアメリカ海軍は持っていた。
開戦当時のベテラン搭乗員を粗方失った日本軍のパイロットは、速成に次ぐ速成で、アメリカなら、まだ練習機教程の者まで動員していることを承知していたのだ。
それに、特攻機に使われる機材は旧式の物が多く、故障も多いという分析までされていた。
さらに、燃料問題は深刻で、かなりオクタン価の低い航空燃料が使われており、カタログ通りを性能を出す飛行機はない…というのが、アメリカ海軍の結論だった。
そうなると、日本軍機は、早朝か薄暮の攻撃しかないが、沖縄までは島伝いに飛行する他はなく、高度3000mで迎撃機を待機させれば、少なく見積もって八割は墜とせると考えていたのだ。
しかし、実際のアメリカ艦隊の乗組員は、そんな参謀たちの分析など関係なかった。とにかく、僅か二割だろうと、狂ったように突っ込んで来る日本軍機は怖ろしく、信じられないほどの恐怖心に怯えていたのだ。
「また、悪魔が降ってくる…」
そう言って、何人も乗組員がけがもしていないのに、精神を患い後方に送られて行った。そして、それを見た別の乗組員が発症し、この病の連鎖が止まらなかったのだ。
そんなことは、日本軍は気づいてもいなかったが、後、3ヶ月も特攻攻撃が続いたら、アメリカ艦隊は、内部から崩壊するとまで言われていた。
そんな混乱の最中に、第6筑波隊は敵艦隊の上空に現れたのだ。
俊介は、高度4000mで敵艦隊を発見し、発見の第一報を鹿屋基地に打電した。そして、計画に従い一番左翼の輪形陣を目標に定めた。
俊介は、風防を開けると、大きく手を振り左翼を示した。
それが攻撃準備の合図となった。
ここまで誘導してきた河井機と佐々木機は、さらに上空を警戒し、最後の空戦に備えていた。
そのころ、囮隊となって敵戦闘機群を引きつけていた沖長特務少尉以下の6機は、改めて高度を上げ、敵艦隊の護衛機群に突っ込んで行ったのである。
それは、俊介の操縦席からもよく見えた。
(ああ、直掩隊が行ったか…)
そう思うと、彼らが戦ってくれている間に、攻撃を開始しなければならない。
上空には、河井機と佐々木機が踏ん張っている。
「よし、計画通りに行こう!」
そして、再度俊介が腕を伸ばし、クルリと回転させ前方に腕を振った。それが、最後の合図となった。
第6筑波隊の特攻機は、敵機動部隊の9時、12時、3時方向から時間差で突っ込むのだ。
すると、第一次攻撃隊の本田隊が急降下していくのが見えた。
本田の後には、大木と藤田、そして、後から加わった高島と矢島の各少尉が突っ込んで行く。
敵の輪形陣からは、猛烈な対空砲火が浴びせられたが、彼らはそれに怯むことなく、突撃して行った。そして、次々と対空砲火によって火達磨になると海中にその姿を没した。
空は、晴天にも拘わらず、敵の対空砲火によって黒い弾雲があちらこちらにできて、薄暗くなっていた。
と思う間もなく、第二攻撃隊が、今度は12時の方向から突撃を開始した。
さすがに敵艦隊も急な応戦が間に合わなかったのか、対空砲火が遅い。
すると、先頭の高山少尉が巡洋艦に命中するのが見えた。
音は聞こえないが、猛烈な黒い煙がたち上り、すぐに真っ赤な炎が見えた。高山機の戦果を確認する間もなく、次の折田機、小山機、そして友部機、山本機が空母目がけて突っ込んで行く。
しかし、残りの4機は命中寸前で敵弾が命中し、炎を吹きながら海面に激突するのが見えた。
さあ、いよいよ第三次攻撃隊の番である。
僚機の中村機が俊介に敬礼をすると、角度45度の急降下で3時の方向から突撃を開始した。
今度は急に3時の方角から突っ込んで来る特攻機に、敵の対空砲火は右往左往しているようだった。
この短い間隔では、レーダー射撃が間に合わないのだ。
そうなると、乗組員個々の判断で射撃をする他はない。それが、対空砲火が統一されなかった原因に見えた。
中村機に続いて田口機が突っ込んで行く。
俊介は、断雲に隠れるようにしながら、その戦果を見届けていた。
中村機は、角度が深すぎたのが、命中寸前に角度を変え、手前の駆逐艦に命中するのが見えた。そして、この駆逐艦はもの凄い爆煙を吹き上げると、瞬時に海面から消えていた。さらに、田口機は、対空砲火に左翼を吹き飛ばされ、回転しながら、空母の側面に当たったようだった。
俊介は、それを見届けると、さらに断雲を探すように、敵空母の上空に潜んでいた。
おそらく、敵は、これで日本軍機の特攻攻撃は終わったと思ったことだろう。それにしても、12人の14期予備学生の教え子たちの最期は見事だった。しかし、感傷に浸っている暇はない。
俊介は、敵空母の上空から鹿屋基地に打電した。
「第6筑波隊 敵大型巡洋艦一隻大破 敵駆逐艦一隻轟沈 敵空母小破 …富高」
それは、モールス信号での打電だった。
おそらく、鹿屋基地の通信室では、隊長機からの無電に驚いていることだろう。
もし、沖長機が無事であれば、それは直掩隊の任務だが、その沖長機の姿はどこにも見えなかった。それに、我々の上空を掩護していた河井機も佐々木機も、その姿が俊介の視界から消えていた。
いつの間にか、彼らも戦果確認のために、一緒に突っ込んでしまったのかも知れなかった。
俊介は、それでも動かなかった。
ようやく俊介が動いたのは、敵艦隊の陣形が緩んだのを見たときだった。
「よし、今だ。行くぞ!」
そう呟くと、胸ポケットにしまってある「勝守」をギュッと握りしめた。
そして、心の中で(寛子、今行くぞ!)と叫んでいた。
俊介は、純白のマフラーを口元まで上げ、飛行眼鏡を装着した。そして、操縦桿を前方に倒すのだった。
それは、まさに敵の隙をついた奇襲戦法だった。
一度緩んだ輪形陣を立て直すことは難しい。
敵の大型航空母艦では、だれかが叫んでいた。
「あっ、もう一機、カミカゼが来る!」
それは、まさに、空母を目指して一直線に飛んでくるではないか。
その瞬間、もの凄い対空砲火の光の束が俊介の機体を襲った。
まさに、敵弾が当たる…と思われた。
そのとき、俊介は、操縦桿をぐるりと回し、方向舵のペダルを思い切り蹴った。
すると、機体はクルリと回転して背面になったかと思うと、ほぼ直角になって大型空母の真上から逆落としに急降下するのだった。
俊介の眼には、グングンと迫る空母の甲板が見えていた。
それは、スローモーションのように、ゆっくりと俊介の目の前に迫ってきた。
(もう、大丈夫だ…。寛子、今行くぞ…)
最後の最後に、俊介は目を閉じた。もう、何も見えなかった。
俊介の機体は、背面気味な体勢から加速すると、もうだれにもそれを止める力はなかった。
そして、その瞬間は、敵の乗組員の目にもゆっくりとした映像だけが残った。そして、零戦52型は250㎏爆弾を抱えたまま、中央エレベーター付近に命中したのだった。
バゴン!
俊介の爆装零戦52型が命中した瞬間、大穴が甲板に開いたが、爆発は起こらなかった。
乗組員の何人かが体当たりの衝撃で吹き飛んだが、爆発は起きない…と思った次の瞬間だった。
俊介の機体から外れた250㎏爆弾は、艦の格納庫に転がり、大爆発を起こしたのだ。
ドゴーン! ドゴーン!
爆発は、次々と起こった。
そのたびに多くの戦闘機とアメリカ兵が宙に舞った。そして、空母の甲板上は修羅場と化した。
一瞬、だれもがその現実を受け入れられず呆然としたが、ビー!ビー!と鳴る警報音が、静寂を斬り裂いた。
我に返った乗組員は、慌てて消火道具を手に、燃えさかる炎に立ち向かうのだった。
この戦争に勝利しているのは、アメリカ軍だったが、戦場で戦っている兵隊に勝利者は何処にもいない現実を、彼らは肌で感じていたのだった。
こうして筑波航空隊の総力を挙げた特攻作戦は幕を閉じた。
結局、生き残ったのは、直掩隊の1名の搭乗員だけだった。
その一人は、特攻隊を沖縄まで誘導し、そして最後まで俊介を護衛してくれた佐々木浩一一飛曹だった。
この佐々木が生き残ったことで、第6筑波隊の行動が記録に残された。
そして、図らずも佐々木一飛曹は、隊長機の最期を見届けることになった。
あのとき、敵機から特攻機を護るために、河井一飛曹と佐々木一飛曹は、上空を警戒しながらも、特攻隊の戦果を確認しようと必死に操縦桿を握っていた。
河井一飛曹は、第一次攻撃隊の戦果を見届けようと高度を下げたとき、敵の対空砲火の直撃弾を受け、特攻機より先に火達磨になって墜ちていったのである。
直掩隊で一機だけ残った佐々木一飛曹は、隊長機を追っていた。
そして、隊長機が急降下したかと思う間もなく、空母上空で反転して直角に空母の甲板上に命中するのを確認したのだ。
一瞬の沈黙の後に、猛烈な爆煙が空を覆ったかと思うと、爆発音が次々と谺し、それを見た佐々木一飛曹は、敵航空母艦の撃沈を確信した。
そして、モールス信号の電鍵を叩いた。
それは、「敵空母一隻 撃沈!」であった。
佐々木一飛曹は、燃えさかる炎と誘爆している爆発音を再度確かめると、機首を反転させて鹿屋基地に戻って行くのだった。
沖縄に向かう出撃時には22人だったものが、帰りにはたった一人となっていた。
直掩隊として最後まで戦った沖長隊は、敵艦隊上空に敵の編隊を発見すると、遮二無二、その編隊に突っ込んで行った。それは、常に冷静沈着な沖長特務少尉らしからぬ行動に見えた。
沖長は、
「だめだ。敵機に特攻機が見つかればひとたまりもない。富高少尉、後は頼んだぞ!」
それは、沖長寛の最期の叫びだった。
敵編隊は、単機で向かって来る零戦を発見すると、編隊を解き、沖長機に向かって四方から攻撃をかけた。
ドドドドド…! ドドドドドド…!
敵機の二連射が終わったとき、沖長機は、尾翼付近から猛烈な黒煙を吹き出しながら、クルクルと回転するように海面に落下していった。これが、沖長特務少尉の最期だった。
他の5機は、やはり直掩の任務を最期まで全うしようと、各攻撃隊の後方について、そのまま急降下に入ると離脱することなく、敵艦に突っ込んで行ったのだった。
どの機も既にかなりの損傷を受けており、もはや鹿屋基地に帰還することは叶わなかったのだ。それでも、最期まで任務を全うしようと命をかけた行為をだれが責めることができるだろうか。だが、この壮烈な最期も何の記録に残ることはなかった。
ただ、彼らの死は、
「昭和20年5月14日 沖縄方面に於いて戦死」
とだけ記録された。
実は、このとき、佐々木一飛曹の機体もかなりの損傷を受けていた。
猛烈な対空砲火は、確認しようと高度を下げた佐々木の零戦にも多くの傷を残した。
幸い、致命傷には至らなかったが、風防にはヒビが入り、翼にはいくつもの砲弾の破片が突き刺さった。それでも、必死の操作で佐々木一飛曹は、鹿屋基地に戻ってきたのだった。
既に燃料も底をつき、まさに瀕死の状態で滑走路に飛び込んで来たのが、佐々木機だった。そして、その佐々木一飛曹を待っていたのは、宇垣長官だった。
着陸して、息を吐く暇もなく佐々木一飛曹は、一目散に長官の待つ指揮所へと走った。そして、長官の前に立つと、第6筑波隊の戦果報告を行った。
「敵大型空母に一機命中。巡洋艦に一機命中! 共に大破!」
佐々木は、自分の見たままを報告するしかなかった。もちろん、印象としてはどちらも「轟沈」として報告したかったが、筑波隊全員で勝ち取った戦果に嘘が混じることは、自分が許せなかったのだ。
それを宇垣長官は、「うん、うん…」と頷きながら聞いていた。
最後に佐々木一飛曹は、「戦死21名、生還1名!」と怒鳴るように申告し、長官に敬礼を済ませると、その場にどっと倒れた。
彼の気力もここまでだった。
佐々木一飛曹が、宿舎のベッドで眼を覚ましたのは、その翌日の昼のことだった。
20名いた筑波航空隊の直掩隊も19人が戦死し、残ったのは、佐々木一人になっていた。
乗機の零戦も、着陸した時点で使い物にならず、そのまま廃棄された。
佐々木浩一一飛曹は、翌々日には任務を解かれ、原隊復帰を命じられた。そして私物をまとめると、一人東京行きの汽車に乗り込んだのだった。
もう、彼に乗る飛行機は、ここには残されていなかった。
第11章 不死身のビッグE
ジェームズ一等水兵は、この日もアメリカ海軍が誇る空母エンタープライズの左舷ピケットにある二連装の13粍対空機銃に座り上空を睨んでいた。だが、その目は虚ろで焦点が定まっていないように見えた。
同期のリチャード一等水兵が、
「おい、ジェームズ、大丈夫か。少し疲れているんだ。休んだ方がいい…」
そう言って、上官に告げようと腰を浮かしたが、ジェームズはそれを制して言うのだった。
「いや、大丈夫だ。まだやれる。俺は英雄になるんだ。だから、あんな悪魔、俺の対空機銃で叩き落としてやる!」
その声は勇ましかったが、どこか魂が抜けているようで、リチャードは、
(こいつも、やられちまったか?)
と胸を人差し指で叩いた。
リチャードの言う「やられちまったか?」は、過酷な戦場で兵隊が患う「心の病」のことである。
ジェームズは、ここに配備されてから3ヶ月、日本軍機による連日の攻撃で、心も体も休まる日はなかった。
リチャードは、同じ一等水兵でも飛行機の発着担当の兵隊だったので、戦闘中は艦内に退避していて、戦闘には加わらなかった。
だが、ジェームズは自ら志願して、この対空機銃の射撃手となっていた。
リチャードは、海軍の新兵養成所の同期の誼で、何かとジェームズを気遣っていたが、日に日に疲労の色が濃くなるジェームズを心配して声をかけたのだが、この男は、後ろに下がるつもりはないようだった。
確かに、上官にそれを告げても、交代要員はいないのが現実だった。
当初、ジェームズは、この対空機銃を見て「すげえ…」と眼を輝かせて見入っていた。
元々ガンマニアだったジェームズにとって、本物の13粍対空機銃は、クリスマスにもらった玩具のようなものだったのだろう。
実際、装填する13粍弾は大きく、ずっしりとした重量感があった。
それがいくつもの金属のカートリッジに詰められ、射手の脇に置かれていた。
その発射速度は速く、飛行機への命中率は一番高い兵器として、ハワイを出撃する前に、このビッグEに配備された新型兵器だった。
ジェームズは、その射撃手に真っ先に手を挙げた。
養成所でも、射撃は同期の連中よりも高い評価を受けており、子供のころからガンマニアだった知識は、教官からもよく誉められた。
他の成績はパッとしなかったが、これだけは譲れないとジェームズは思っていたのだ。
確かに、日本の特攻隊は「カミカゼ」と呼ばれ、アメリカ兵には怖ろしい悪魔のように思われていたが、ジェームズは、これを一機でも撃ち落とすことに執念をかけていた。
なぜなら、この機銃でカミカゼを墜とせば、勲章と同期より早い昇任が約束されているからだ。
これまでにジェームズは3機のカミカゼを撃ち落としていた。
個人のスコアとして「3機」は誉められていい。
まして、この機銃はレーダーでコントロールされていない。
要するに、自分の腕と度胸で敵機と向き合う古典的な兵器なのだ。
だが、射撃手を守る鋼鉄のプロテクターはないに等しく、輪形陣を突破してくるカミカゼには、ほとんど無防備で戦わなければならなかった。
その恐怖は、一度でも味わえば、二度とその場にいたくなくなる…と言われていた過酷な配置だった。
ビッグEでは、これまで対空機銃員が5人も死んでいた。
突っ込んで来るカミカゼを必死になって撃つのだが、それは、まるで、自分目がけて突っ込んで来る暴走トラックと戦っているようなものだった。
それが、目の前に「来た!」と思った瞬間に逸れて海面に激突するのだが、狂ったように撃ち込んで来るカミカゼからの機銃弾は、艦体に当たると跳弾になってあらゆる物を傷つけた。
そのために、戦闘員は防弾用のベストと鋼鉄製のヘルメットを装着しているのだが、そんなものは、気休めにしかならない。
跳んでくる破片は、下からも上からも攻撃を仕掛けてくるのだ。
鋼鉄の艦体は無傷でも、人間はそうはいかない。
一度の「カミカゼアタック」で、どの艦艇でも、必ず数人から数十人の死傷者を出していた。
ジェームズは、もう、何度もそんな経験をしていた。
最初は「へっ、あんなもん平気だ…!」と嘯いていたジェームズだったが、何度も重なるうちに心も体もヘトヘトになっていた。
それでも、ジェームズには、「5機」という目標を成し遂げたかった。
5機撃墜となれば、「エース」と呼ばれるのだ。
この称号を手に入れることが、ジェームズの目標であったが、既にその心身は、酷く蝕まれていた。
軍医は、そんな兵隊に密かにマリファナ入りの薬剤を投与した。
それは、軍内の秘密だったが、そうでもしなければ、兵隊が保たないのだ。それでも、艦隊からは、連日、何人もの神経を患った患者が後方に送られ、そのたびに、また、新しい補充兵が送られてくるである。しかし、最近では、その補充兵も足りず、アメリカ本国では、しきりに「海軍志願兵募集」が行われていた。
艦隊の上層部はこの問題に頭を抱えていた。
「これ以上、精神を病んで後方に送られる兵隊が出れば、艦隊自体を後方に下げなければならなくなる…。それは、一大事だ!」
確かに、もし、そんなことにでもなれば、マスコミは面白おかしく新聞に書き立てるだろう。それは、海軍の誇りにかけて絶対に阻止しなければならないかった。
だから、ジェームズのような若い兵隊には、勲章と昇任をエサに釣っているのだが、思うような成果は出ていなかった。
「アメリカ海軍とあろうものが、情けない…」
と、艦隊司令部の参謀たちは嘆いてみせたが、実際に艦橋でカミカゼの洗礼を受けた指揮官たちは、いつまでも沖縄海域にいることに不満を漏らすようになっていた。
戦争は、どのみちアメリカの勝利である。
それなのに、日本軍に降伏勧告もせず、こんな小さな島に大量の兵隊を送り込み、毎日何千という死傷者を出していることに、納得出来ないでいたのだ。
このころ、前線の軍人たちは戦いに飽きていた。
パールハーバーのころの熱も冷め、イタリアやドイツも降伏した今、日本だけが戦える道理はなかった。
「さっさと日本に降伏勧告でもして、戦争を終わらせる方法はあるだろう?」というのが、指揮官たちの共通の思いだったが、アメリカ政府にその動きは見られなかった。
海軍の上層部では、艦隊の一部引き揚げも検討されたようだったが、陸軍や海兵隊の要請もあり、なかなか実現できないまま時だけが過ぎていた。
その間にもカミカゼは、終日襲ってくるのだ。
これでノイローゼにならない方がおかしい…。
そんな不満が蔓延している中、ビッグEに悲劇が訪れた。
「ビー!ビー!ビー!…」
けたたましい警報音で飛び起きたビッグEの乗組員たちは、朝食を摂る間もなくヘルメットを被り、防弾ベストを装着して持ち場に走った。
ジェームズも痛む頭を押さえながら、対空機銃座に着いた。
彼の補助には、二人の補充兵だろうか、名前もわからない二等水兵が就いた。
「昨日までいたチャーリーとアダムスはどうしたんだ?」
二人に聞いても要領を得ず、とにかく、
「いいか、ここにカートリッジを差し込むんだ。いいな!」
そう言うと、二人は緊張した顔をして頷くばかりだった。
この二人にとって、今日が初めての実戦なのだ。
ジェームズは、二人に名前を尋ねると、一人は「ネルソン」、もう一人は「マック」と答えた。が、それ以上は聞いている暇がない。
既に上空には対空砲と思われる黒い弾雲が見られ、戦闘が始まっていることがわかった。
すると、間もなく、猛烈な対空射撃が9時の方向で始まった。
「いよいよ、カミカゼが来たな!」
痛かったはずの頭も、戦闘が始まれば不思議と痛みはなくなっていた。
これは一種の興奮状態で、体内からアドレナリンが大量に放出されている証拠なのだが、ジェームズには有り難かった。
脇の二人は、既に体を震わせ、荒い息を吐いていた。
「おい、慌てなくてもいい。落ち着いて命令に従え!」
ジェームズの言葉に頷くのだが、眼は、虚ろに空の彼方を見ていた。
(まあ、初戦はこんなもんだろう…)
13粍機銃の冷たい砲身を撫でると、それは冷たく氷のようだった。
それが、射撃を始めて数分もすれば、溶岩でも触っているかのような高温になるのだ。
それを濡らした革で冷やしながら射撃を続けるのだが、連射は禁物である。万が一、砲身が熱によって膨張すれば、砲内で爆発する危険性が指摘されていた。だから、ジェームズは、連続射撃は「10秒」と決めていた。
そのときである。
こちらに向かって9時の方向から数機のカミカゼが突っ込んで来るのが見えた。
「おい、こっちに向かってくるぞ!」
ジェームズはそう叫ぶと、二連装13粍機銃の引き金を引いた。
ドドドドドドドド…!
体を揺さぶるような衝撃を受けながら、向かって来るカミカゼに向けて射撃を開始した。
既に、ビッグEを中心とした数十隻の艦艇から火の束がカミカゼに向かって発射されるのが見える。それは、まさに花火の連続発射であった。
その隙を突くように、日本軍機は突っ込んで来る。
周囲は、落ちてきた砲弾によって海面は波立ち、硝煙の匂いが立ち籠め、近くの艦艇が爆発音を発したのがわかった。
すると一機のカミカゼが、ジェームズたちを目がけて突っ込んで来るのが見えた。
日本軍機は、機銃を撃ちながら突進してくるのだ。
カン、カン、カン…!とビッグEの艦体に弾が当たるのがわかる。
その音を聞いたとき、ジェームズは、大声で「伏せろ!」と怒鳴った。
補充兵の二人は、頭を抱えたまま動こうとはしなかった。
幸い、そのカミカゼは、近くの艦が撃ち落としたらしい。
ジェームズは、二人の背中を叩いて起こすと、新しいカートリッジを保ってくるように指示を出した。
「いいか、次が来る。急いでカートリッジを持って来るんだ!」
「はい!」
二人はよろけるようにして弾薬庫に走った。
やっと9時方向からの攻撃が止んだ…と思った次の瞬間、なんと12時の方角から突っ込んで来る数機が眼に入った。
ジェームズは脇に置いてあったカートリッジを自分で装填すると、カミカゼに向かって13粍機銃弾を発射した。
ドドドドドドドド…! ドドドドドド…!
と、軽快な音と共に撃ち出された弾丸が、カタッ!という音と共に出なくなった。弾切れである。
「おい、弾っ! 早く持って来い!」
そのころには、全艦艇から12時の方向に向かって対空射撃の花火が上空に向かって打ち上げられ始めていた。
その爆発音と光と硝煙の匂いは、弾丸を取りに行った二人の補充兵の足を止めた。
弾丸のカートリッジを抱えて、二人は甲板上に蹲ってしまったのだ。
「ばかやろう、何をしているんだ!」
ジェームズがそう叫んだとき、また、一機のカミカゼが、突っ込んできた。
そして、その機体から発射された20粍弾が甲板を舐めるように掃射されると、二人の補充兵は吹き飛ぶようにその場で跳ね、甲板に叩きつけられたのだった。
そのカミカゼが、海に墜ちるのを見たジェームズが、慌てて駆け寄ったが、二人は、背中と腹を撃ち抜かれ、惨たらしい姿で死んでいるのだ。
わけもわからずに戦場に出て来て、何もできないまま死を迎えたのである。
ジェームズは、何も言わず、カートリッジを乗せた台車を自分のポケットに運び、一人で装填を始めるのだった。
また、近くの艦艇から黒い煙がたち上っているのが見えた。
そして、呆然とする間もなく、今度は3時の方向からの攻撃である。
右から左まで180度の方位から時間差で攻撃を受けたことは、これまでなかった。
艦橋では、艦長のエドワード大佐が、頭を抱えていた。
「今日のカミカゼは、どうなっているんだ?」
「こんな波状攻撃をかけられたらレーダー射撃が間にあわん。被害が出るばかりだぞ!」
こうなると、輪形陣を保つどころではなくなっていた。
各艦艇は右往左往するばかりで、空母の護衛のはずが、自分の身を守るために必死に転舵を繰り返し、駆逐艦同士でぶつかる事故まで誘発していたのである。
そして、その攻撃が短時間で止んだ。
エドワード大佐は、落ち着く暇もなく命令を下すのだった。
「すぐに、輪形陣を立て直せ!」
「今、突っ込まれたら、最悪だ!」
そして、空を見ると、少しずつ青空が戻って来ていたが、断雲が多くその隙間から差し込む光が眩しかった。
エドワード大佐は、後ろを振り返り、近くにいた水兵に、
「君、悪いがコーヒーを一杯、頼めるかな?」
と命じた。
態勢を整えるまでの間、少し頭を整理したかったのだ。
大佐が熱いコーヒーを口に少し入れたそのときだった。
艦内から、
「3時の方向に敵機!」
「本艦目がけて突っ込んできます!」
それは、絶叫に近い叫び声だった。
エドワード大佐が艦橋の窓に近づき、その物体を確認した。それは、紛れもない日本軍の「ゼロ」に違いなかった。
断雲の中から、それは真っ直ぐに急降下でビッグEに直線的に突っ込んでくるのだ。
輪形陣は、まだ整ってはおらず、レーダー射撃ができる状態ではなかった。
すると、各々に各艦から花火の束が打ち上がり始めた。
ドドドドドドド…!
という発射音が聞こえ始めたそのときである。
なんと、そのカミカゼは、ビッグEの上空に達したかと思うや否や、反転して直角に甲板目がけて突っ込んでくるのだ。
大佐は、その光景に動転し、命令も出せずに黙って眼を瞑った。
次の瞬間である。
ドゴーン!
という衝突音が甲板上に響いた。
それは、ゼロが甲板の中央部に激突し大穴を開けた音に違いなかった。しかし、爆発音が響かない。
(何…、不発か…?)
艦橋内で全員が防御の姿勢を取り、蹲った態勢を緩めた次の瞬間だった。
艦体を揺るがす大爆発音が響き渡った。
ドカーン! ドカーン!
それは、何回も鳴り響き、そのたびにビッグEの巨体は大きく揺れた。
呆然とするエドワード大佐を尻目に、副長のトーマス中佐が、
「消火班急げ!」
「機関停止!」
「窓を開けろ!」
と、次々と乗組員に命令を下した。
その声に尻を叩かれたのか、呆然としていた乗組員が慌てるように作業に向かって行く姿が大佐の目に映った。
エドワード大佐はそれを眺めながら、側にいたトーマス副長に、
「ああ、それでいい。よくやった…」
「損傷箇所を急いで確認せよ。何としてもこのビッグEは沈めさせん!」
そう言って、自ら甲板に向かうのだった。
艦長のエドワード大佐が甲板に立ったとき、そこはまさに修羅場と化していた。
もし、地獄という世界があるのなら、こういう場所を言うのだろうとエドワードは思った。
甲板上には大穴が開き、そこからもうもうと黒煙が立ち上っている。
穴の奥には真っ赤な炎が見えた。
それでも乗組員は、必死にホースで水を撒き、消化剤を散布している。だが、これだけの被害を受けたとなると、さらに被害は拡大しそうだった。
たった一機のカミカゼによるとんでもない被害に、エドワード大佐は、身震いするほどの恐怖心が湧いてきた。
それでも、エドワード大佐は、自分の職務を忘れなかった。
被害の全容を確認すると、また艦橋に戻り、周囲にいる全艦艇に消化作業の支援を要請するのだった。
その結果、5時間ほどでビッグEの火は鎮火した。
それだけ、この「ビッグE」は、絶対に沈めてはならないアメリカ海軍のシンボルだったのだ。
もし、このとき、沖縄でビッグEが沈没していたら、アメリカ世論は沸騰し、政府は真剣に講和を考えていたかも知れないと言われている。しかし、運命の女神は、この軍艦を見放してはいなかった。
幸い、機関が無事だったことでビッグEは、何とか体勢を立て直した。しかし、死傷者は数百名に上った。
静寂がビッグEの艦内に戻ると、戦場の整理が始められていた。
破壊された戦闘機や機銃は、簡単に海に投棄された。ホースを使って甲板を洗うと、乗組員の流した多くの血が海水と一緒に海に流れ落ちていった。
倒れている兵隊は、無数にあった。
その遺体の多くは、火災で焼け爛れ、だれかを識別するには認識票だけが頼りだった。そして、13粍機銃座で戦っていたジェームズ一等水兵の遺体は何処を探しても見つからなかった。
リチャードがあちこち探し回ったが、結局、どこからも発見されず、あの爆発時に、爆風で海に飛ばされたのだろう…という結論になった。
ジェームズは、この戦闘の功績により海軍二等兵曹に進級し、勲章が遺族に送られた。
自分の息子が戦場で命を落としたのに、家族の下に届けられたのは、一片の感謝状と小さな箱に入った玩具のような勲章だけだった。
母親は、それを届けに来た海軍の下士官に、
「うちの子の遺品はないのですか?」
と尋ねた。すると、その下士官は、
「それは、私の任務ではないのでわかりません…」
と、つれない返事をするばかりだった。
結局、ジェームズの死は、地元の新聞に掲載されたが、それは他の多くの戦死者と同じ扱いでしかなく、写真も小さなものだった。
これが「アメリカの英雄」の真の姿なのかも知れない。
ビッグEは、まさに満身創痍の中で奇跡的に沈没を免れた。しかし、この海域に止まっていることは非常に危険だった。
日本のカミカゼは、早朝と薄暮時にやって来るのだ。
ビッグEは、それでも機関長を初めとした機関員の必死の復旧作業により、辛うじて機関が動き始めた。
それは、まったくのノロノロ運転で、「自転車よりも遅いくらいだ…」と笑われたが、護衛の駆逐艦3隻を伴うと沖縄海域から母港のハワイ島を目指して航海を始めた。
甲板上には、既に戦死した多くの乗組員の遺体が遺体収納袋に入れられて並べられていた。
それは100体以上になっていた。
リチャードは、そこにジェームスの遺体がないことを残念に思った。
彼と一緒にいた二人の補充兵の遺体はあるのに、彼のだけがないのだ。
すると、そこに見慣れない遺体が横たわっていることに気がついた。
リチャードが、周りの乗組員に尋ねると、
「ああ、それは艦橋の下にあった遺体だ。上半身だけになっていたが、かなり焼け爛れていたんで、そこに置いたんだ…」
忙しそうに遺体の確認をしている兵隊は、リチャードの言い方に不満そうだった。
所詮、リチャードは一等水兵でしかなく、この男も階級は似たようなものだった。もし、士官に聞かれれば、もっと気の利いた言い方をしたのだろうが、兵隊同士では本音が出る。
それでも、リチャードは、納得いかなかった。
「この男の姓名は、わかっているのか?」
リチャードが尋ねても、周りの兵隊たちは首を横にするばかりで、だれ一人、この遺体の男を知る者はいなかった。
「この男には、認識票もなかったんで、たぶん、補充兵の一人じゃないのか?」
そんな答えが当然のように聞こえた。
確かに、補充兵は毎日のようにビッグEに配属され、姓名を確認する間もなく欠員ができた箇所に配置されるのだ。
その補充兵の上官でさえ、「どんな男だ?」と聞かれても、書類を見なければ何も答えられなかっただろう。それくらい、補充兵などにだれも関心を持たなかった。
それでも、リチャードは、その焼け爛れた顔をじっと見ていた。
そして、恐る恐る収納袋のジッパーを開けると、そこには見慣れないライフジャケットが眼に入った。
それはアメリカ軍の支給品には見えなかった。
リチャードは、(まさか…?)と思い、さらに深くジッパーを下げ、その男の体を調べると、ライフジャケットの下に着ているパイロットスーツのような服のポケットから、奇妙な物を発見した。
それには、また、奇妙な文字が書かれているのだ。
「これは、日本語じゃないのか…?」
リチャードは日本語を読むことはできなかったが、高校時代に見たことはあった。
(この男は、日本のカミカゼパイロットじゃないのか…?)
そう思い、近くにいた航海士に報告すると、その航海士は日本語が少しは読めるらしく、その遺体をくまなく調べ始めた。そして大声で、
「おい、艦長を呼べ。すぐに艦長と軍医を呼んで来い!」
と、リチャードに命じるのだった。
リチャードが、艦橋に続く階段を上ると、艦長のエドワード大佐が副長や航海長と一緒に、海図を見ているところだった。
リチャードは、恐る恐る、近くの副官に航海士の伝言を伝えた。
すると、副官は、
「ああ、だめだ。だめだ。艦長たちは今、忙しい…。そう航海士に言っておけ!」
と命じたが、リチャードは思わず、
「に、日本兵です。日本のカミカゼパイロットの遺体があります…!」
そう告げると、艦長たちの顔が一斉にリチャードに向けられた。
「何…?」
「今、何と言った…?」
「だから、艦橋下に日本人の遺体が見つかったんです!」
リチャードは不満げにもう一度、告げるのだった。
そして、自分が眼にしたことを隠さずに報告すると、艦長たちは、走って階段を駆け下りて、その遺体のある甲板へと向かった。
そこでは、既に軍医のケネディ少佐が、その遺体を点検していた。そして、艦長にこう告げたのだった。
「驚きました。この遺体は、日本のパイロットに間違いありません…」
「名前は、えっと、トミタカ シュンスケ…、海軍中尉です」
「彼のジャケットのポケットに、これが入っていました…」
そう言って、艦長に手渡したのは、小さな布でできた小袋と財布だった。
財布には、日本の円と思しき紙幣が何枚か入っていた。
艦長は、焼け爛れたその遺体に手を合わせると、
「顔はよくわからんが、いい面構えだ…」
「このビッグEをここまで追い詰めた男は、世界中でこの男しかいない」
「この男こそ、真の英雄と言うのだろう…」
「わかった。この英雄も他の我が艦の英雄たちと一緒に葬ってやろうじゃないか…?」
「そうだろう…?」
そう言って、立ち上がると水葬の準備を命じるのだった。
そして、最後に、
「この男を見つけたのはだれだ?」
と問われて、リチャードがおずおずと手を挙げると、
「君が、今日一番の功労者だな…」
そう言って、男が持っていた小袋と財布をリチャードに手渡すのだった。
「これは、君が持っていろ…」
そう言われて、リチャードは「はい…」と答えた。
黒革の財布と布製の小袋。
なぜ、これがここにあるのか…、リチャードには不思議でならなかった。
(まさか、悪魔が正体を現すとは…)
上半身だけの黒く焼け爛れた遺体は、何も語ろうとはしなかった。しかし、遺体と遺品が残されただけ、ジェームズよりは幸せに思えた。
ビッグEの水葬は簡単だった。
本当であれば、棺に戦死した者の遺体を納め、葬送曲を軍楽隊が奏でる中で海に流すのだが、それも難しかった。
どの遺体からも認識票が取り外されると、遺体収容袋のジッパーが再度閉じられた。そして、牧師を兼ねた通信長の祈りの言葉が終わると、一斉に甲板上から海に放り込まれた。
その多くの遺体はしばらく海に漂い、ビッグEを追いかけるように船尾に着いてきていたが、やがて、海の中に消えていった。
あの日本人パイロットの遺体も同じように海に沈んでいった。
それをぼんやりと眺めていたリチャードは、
「もう、たくさんだ。英雄ごっこは、もう終わりにしよう…」
そう呟くと、艦長から預かったカミカゼの遺品を、そっと自分のポケットにしまうのだった。
第12章 還ってきた「勝守」
あの日から50年という月日が経過していた。
ビッグEこと、アメリカ海軍の誇る航空母艦「エンタープライズ」は、ハワイに戻ると、そのまま修理工場に回され、二度と太平洋戦線に復帰することは叶わなかった。
あの戦闘で生き残ったリチャードは、ハワイに戻るとそのまま除隊となった。実は、彼自身も強度の神経症を患っていたのだった。
本人に自覚はなかったが、ハワイで静養しているうちに、汗を大量にかくようになり、診察を受けたところ「神経を相当に痛めている」と言われ、そのまま除隊の手続きをしたのだった。
リチャードの出身は、ユタ州のセントジョージで、彼の家は綿の栽培などをして生計を立てる農家だった。
リチャードは、戦争には参加したが、戦後もカミカゼのことは一切語らず、一農夫として、昔ながらの家で暮らし、綿の栽培と僅かな牛と羊を飼い、静かに暮らしていた。
その暮らしは、慎ましくはあったが、戦後知り合った同じ村のメアリーと結婚し、3人の子供にも恵まれた。
長女は、ニューヨークに出て会計士になり、次女は地元の小学校で教師として働いている。そして、最後に生まれた長男のジェームズが、家の跡を継いで綿栽培と牛や羊の世話をしてくれているのだ。
三人共に既に結婚し、孫を5人も授かった。
そのリチャードにもひとつだけ心残りがあった。それは、戦争中のある出来事だった。
リチャードも既に70歳を超えたころ、体調を崩して町の病院に入院をした。そして、末期の胃癌であることが宣告されていたのだ。
リチャードには、わかっていた。
「後、3ヶ月がいいところだろう…」
毎日病院に来ては、夫の世話をしてくれるメアリーにそう小声で呟いた。
メアリーは、リチャードには過ぎた妻だった。
メアリーは、村の中でも目立たない女性だった。
除隊して、家の手伝いをしていたころ、綿花の収穫の時期は、知り合いの家から何人かが手伝いに来てくれるのだ。その中に一人に大きな眼鏡をかけたメアリーがいた。
メアリーは物静かな娘で、丸顔にそばかすがあった。
背が低く、声も小さいので目立つ存在ではなかったが、最初に会ったときからリチャードは気になる存在だった。
収穫が終わろうとしている日の夕方、リチャードは思いきってメアリーに声をかけた。
「ああ、メアリー。もし、よかったら、今度お礼がしたいんだけど…」
すると、メアリーは驚いた顔で、
「お礼なら、もう、いただいているわ…」
そう言って、素っ気なく立ち去ろうとしているところを、リチャードは言った。
「いや、ちょっとだけ、僕の話を聞いて欲しいんだ…?」
そう言うと、真剣な目でメアリーを見詰めるのだった。
メアリーは、その目があまりにも真剣で、胸がドキドキした。
「あ、でも、今日はちょっと…」
そう言って、足早に家族の下に歩いて行ってしまったのだ。
だが、このことをきっかけに二人は交際を始めることになったのだから、運命とは皮肉なものである。
メアリーは、リチャードの実直な性格に惹かれた。そして、交際して間もなく、メアリーはリチャードの苦悩を知ることになったのだった。
夜になると、ときどきリチャードは魘されて起きることがあった。
メアリーが尋ねても、
「ううん、何でもない。少し、嫌な夢をみただけだ…」
そう言ってはぐらかしたが、それが、頻繁に起きると、さすがのメアリーも真剣に尋ねないわけにはいかなかった。
すると、リチャードは少しずつ、戦争中の体験をメアリーに聞かせてくれるようになった。それは、メアリーにとって、衝撃的な事実だった。
同世代のメアリーは、もちろん、多くの若者が戦地に行ったきり還って来なかったことは知っている。
新聞でもラジオでも、戦争のことばかり言っているので、メアリーたちの話題も戦争の話ばかりだった。だけど、アメリカが勝っていることは聞かされても、実際の戦場を語る人はだれもいなかった。
と言うより、それは「タブー」だったのだ。
そして、町の中で、
「ねえ、戦争に行った若い人たちが、みんな還って来ないのよ。来るのは、一通の封書だけみたいよ…」
と言った噂話を聞いたことがあった。
それは、だれもが小声でヒソヒソと話しているので、あまり広まらなかったが、メアリーは何度も耳にしていた。
リチャードの話を聞いて、メアリーには「あのことか…」と納得できたのだ。
それから、リチャードはメアリーに対してだけは、少しずつ自分のことを話始めた。
その回数と比例するように、リチャードが魘される回数が減ったのも事実だった。
リチャードは、病室のベッドで、
「あの日、ジェームズは消えるようにいなくなってしまったが、彼は勇敢な兵士だった…」
「それに比べて、儂は、ただ逃げ惑うことしかできなかった…」
そんなことをメアリーに話始めた。
そんなとき、メアリーは何も言わず、うんうん…と頷きながら聞いていた。
それも、真剣に聞くのではなく、何気なく、他の用事をするかのように自然に振る舞うことをメアリーは心がけていた。もちろん、夫の心の負担を和らげるためである。
リチャードは、独り言のように呟くと、
「そう、自分の心に引っ掛かっている、あのことをはっきりさせてから死にたい…」
と、言うのだ。
リチャードの言う「あのこと」とは、いつも枕元のオルゴール箱に入れてある古い「思い出」の品のことだった。
静かな秋の夕暮れに、リチャードは、息子のジェームズを病室に呼んだ。そして、メアリーのいる前で、ジェームズにオルゴールの箱を渡した。
「ジェームズ、すまないが、この小袋と財布の持ち主の遺族に、これを返してあげてくれないか…?」
そう言うと、
「二人とも、よく聞いてくれ、これが儂の最期の頼みだ…」
そう言うと、あの日のことを話すのだった。
外は、もう秋の色が強くなり、ポプラの木も黄色い色づき始めていた。
そんな穏やかな景色をもう見ることはないだろう…とリチャードは思った。
話は、1時間にも及んだ。
ジェームズは、父が死の間際に自分に託した思いを理解した。
そして、
「わかったよ、父さん。この遺品は、必ずそのカミカゼパイロットの遺族に渡るように手配するよ…」
それを聞くと、リチャードはホッとしたかのように穏やかな表情を浮かべて、また窓の外を眺めた。
メアリーが温かいコーヒーをリチャードに手渡すと、
「ありがとう、メアリー。君が側にいてくれて、本当にうれしい…」
そして、ジェームズを見て、
「なあ、ジェームズ。人はどうして争いをするのだろう…?」
「あのカミカゼパイロットは、本当に怖ろしい男だった。あの攻撃は今も忘れられない。あのビッグEがたった一機の戦闘機に翻弄された挙げ句、100人にも及ぶ戦死者を出したんだからね…」
「それでも、よく、ビッグEは沈まなかったもんだよ。あのとき、生き残った乗組員は、自らがホースを握り、必死になって消火したんだ。絶対沈ませないって言ってね」
「それでも、死体を水葬にするときは切なかった。最後に、あのカミカゼパイロットを海に送ったんだ」
「エドワード艦長はじめ、儂たちは全員で敬礼をして、その英雄たちを見送った…。敵も味方も関係なく…」
「儂も戦争さえなければ、あの男とは仲良くなれたかも知れない。戦友のジェームズのようにね…」
「もうわかっただろう、ジェームズ。君にこの名前を付けたわけを…」
「ビッグEのジェームズは、あの日、どこかに消えてしまったが、儂の心の中にはずっと居続けたんだ」
「だから、儂は愛する息子に同じ名をつけた。それは、ジェームズの命をおまえに引き継いでもらいたかったからなんだ…」
「すまないジェームズ。親の勝手な思いで、おまえに苦労をかけてしまったのかも知れない。だが、これは、儂だけじゃない。ジェームズやあのカミカゼの願いでもあるのだ。そう考えてくれ…」
そう言って、リチャードはメアリーとジェームズの手を強く握りしめるのだった。
リチャードが静かに息を引き取ったのは、それから三日後のことだった。
ジェームズは、早速、そのカミカゼの遺品を持って地元の新聞社の「セントジョージ・タイムス」社を訪ねた。
そこの編集者は、ジェームズのハイスクールの同級生で、ジャックという名前で呼ばれていた。
ジャックは、ジェームズの話を聞くと、
「わかった、ジェームズ。そのビッグEをやっつけた日本人パイロットの話はなかなか面白い…。記事にしてみるよ」
そう言ってくれたが、「で、パイロットの名前は?」と聞かれて、ジェームズは言葉に詰まってしまった。
父のリチャードからは、その名前は聞いていなかったのだ。
「そうか、わからないのか?」
「で、手がかりは…、ビッグEをやっつけたのが、カミカゼパイロットだったことと、この財布と小袋か…?」
「財布はわかるが、この珍しい布でできたこれは何だ?」
手に取ると、それは、手縫いの布袋だった。
ジャックが口を開き、中を覗くと、また四角い形の布状の物が入っている。
表には「勝守」という文字が書かれていた。
これは、ジャックもジェームズもわからなかったが、社内の「日本通」で通っているナンシーを呼ぶと、ナンシーは即答した。
「ああ、これは日本のお守りね。ええと、そう、乃木神社の物よ…」
とすぐに答えてくれた。そして、
「私、日本に行ったとき、乃木神社に行ったことがあるの…」
「乃木と言えば、東郷と並ぶ日露戦争の英雄よ…」
話が長くなりそうなので、ジャックがそれを制すると、ナンシーは「あ、そうそう…」と言って説明をしてくれた。
「これはね、(勝ち守り)って言って、勝負に勝つことを祈るお守りで、今でも日本のスポーツ選手はよくバッグにぶら下げたりしているわ…」
と答えた後に、入れてあった袋を手に取り、裏に「サキ」と縫い付けられた文字を見つけた。
「ああ、持ち主がわかったわ。名前だけしか書いてないけど、サキ、持ち主はサキという名前の人よ…」
「サキは、女の人の名前。彼の恋人か奥さん…。とにかく、親しい女性に違いないわね」
ジャックとジェームズは、顔を見合わせると納得したように頷き合った。
この記事が「セントジョージ・タイムス」に掲載されると、ジェームズはジャックを伴って、隣のコロラド州のデンバーにある日本総領事館に駆け込んだ。そして、日本の書記官に記事を見せて、
「この財布とお守りの持ち主の遺族を探して欲しい。父の遺言なんだ…」
と頼むのだった。
手がかりは、
「戦争中、沖縄に出撃したカミカゼパイロットであること」そして、「空母エンタープライズに命中し大損害を与えたパイロットであること」それに、「お守りは乃木神社の勝守で、袋にサキの文字があること」を告げた。
総領事館の安西書記官は、この話に興味を示し、すぐに日本の外務省に問い合わせることを約束してくれたのだった。
それから、約2ヶ月が過ぎた。
もう、季節は冬になっていた。
新聞社のジャックの下に、安西書記官から電話が入った。
それによると、そのパイロットは、
「第6筑波隊の富高俊介中尉ではないか…」
という連絡だった。
それは、日本の外務省と防衛庁で調べた結果だという。
特に、防衛庁には、そのときの記録が残されていて、
「空母エンタープライズが大破したのが、昭和20年5月14日のことだということがわかりました。そして、その日に出撃した特攻隊は、早朝に1隊と夕方に2隊、そして、同じ夕方に陸軍の特攻隊が出撃していますが、時間から考えて、エンタープライズの損傷は午前中で間違いありません」
「そうなると、特攻出撃した隊はひとつです。それは、第6筑波隊で、隊長は富高俊介という名の中尉です」
「この隊は、特攻隊と直掩隊併せて22機が出撃していますが、生き残ったのは一人です」
「今、その方と連絡が取れるか調査中です。また、遺族が何処にいるのかも調べていますので、少しお時間をください…」
いう報せだった。しかし、富高中尉関係で「サキ」という名は見つからなかった。
ジャックは、早速、新聞の追加掲載記事を書くことにした。
そして、1週間後の記事に、
「ビッグEを破壊した日本のカミカゼ 富高俊介中尉」
というタイトルを付けた。
それは、亡くなったリチャードの話を詳細に載せた特集ページだった。
先の記事を読んでいた読者から、会社に多くの問い合わせがあったことから、編集長が「おい、ジャック、特集で書け!」と命じてくれたのだ。
そして、この記事は、全米で大評判を呼んだ。
たった一人で、あのビッグEを破壊したカミカゼは、戦後世代の若者たちをも興奮させた。
アメリカでは特攻隊のことを今でも「カミカゼ」と呼ぶ。そして、それは英語の辞書にも掲載され、日本が戦争末期に採用した「自殺攻撃」として紹介されているのだ。
この記事を読んだ日本のテレビ局が、セントジョージまで取材に来たのは、正月明けの寒い日だった。
ジャックとジェームズは、二つの遺品を見せて、
「何とか、この遺品を遺族に返したいのです。そして父が見た彼の最期を遺族に伝えたいと思います。どうか、探してください。よろしくお願いします…」と訴える二人の映像が、日本でも流れた。
それは、正月明けの2月の「戦争ドキュメンタリー」として組まれ、多くの反響を呼んだのだった。
高校3年生の正月を迎えた早紀は、大学入試を控えてテレビどころではなかった。
今年の夏は、インターハイに個人では出場できたが、やはり団体戦は、都大会で敗退し、無念の涙を飲んでいた。
それでも、早紀はインターハイで個人戦3回戦まで勝ち上がったことを素直に喜んでいた。
最後の3回戦は、岡山誠実高校の高山選手と互角の勝負をしたが、最後に胴を抜かれ敗れたのだ。それでも、早紀には悔いはなかった。
そして、後は筑波教育大学の合格を目指して、ひたすら受験勉強に明け暮れる日々を送っていた。
それでも早紀は、時々、あの日の回向院のことを思い出していた。そして、富高中尉からもらった黒砂糖は、今でも早紀の机の中に残っていた。
ただ、気がかりなのは、富高中尉に渡した、あの「勝守」のことだった。
「あの、勝守はどうしたんだろう…?」
「富高中尉が持っていてくれたらいいんだけどな…?」
そんなことをぼんやりと考えていた。
それから三日後、早紀が教室に入ったとき、慌てるようにして奈保子が走り寄ってきた。
「ねえ、ねえ、早紀。昨日のドキュメンタリー、見た?」
「えっ、何のこと?」
「私、勉強で、今、忙しいから、奈保子のように推薦で大学決まった人とは違うのよ…」
そんな憎まれ口を利いたが、奈保子は気にしていないらしく、
「だって、あんたが言ってた富高俊介のことやってたんだよ!」
「えっ、マジで…?」
早紀は、祖母の寛子に話した後、いつもの調子で学校の帰りに奈保子にも回向院ででの一部始終を話していた。
そのときは、奈保子も、
「ええっ、あんた、気を失っていた時に夢でも見たんじゃないの…?」
「あのときは、私ももうずぶ濡れで、もう少しで風邪を引くところだったわよ…」
「なに…、黒砂糖?。ふうん、何か狐に化かされたような気分ね…」
そんな風に話していて、話題はすぐに切り替わってしまった。
そんなわけで、奈保子が覚えていたとは思わなかったが、テレビで放映されたとなれば、話は変わる。
早紀は、昼休みに改めて、その話を聞くことにした。
奈保子によると、何でもアメリカの人が富高中尉の遺品を持っていて、それを日本の遺族に返したい…とのことだった。そして、富高中尉が、戦争中に特攻隊員として敵の大型空母に体当たりしたという話も出ていたそうだ。
それで、テレビでは、その遺族を探すために遺品となった「黒革の財布」と「勝守のお守り」があると言っていた。それに「サキ」という日本女性らしい名前がカタカナで刺繍されていたという紹介もあった。
奈保子は、
「ねえねえ、あの勝守ってさ、あれ、あんたが女子剣道部員みんなに買って来てくれた乃木神社の勝守じゃないの?」と言うのだ。正確には、祖母の寛子に頼んで全員分買って貰ったのだが、そこは、あまり言わないようにしていた。
奈保子が、そう思い込んでいるのだから説明はいるまい…。
奈保子は、今はとにかく、そのドキュメンタリー番組のことで頭がいっぱいらしかった。
「だって、あの小袋どうしたのよ。あれ、あんたのじゃない…」
「それに、その袋の後ろに(サキ)って刺繍した名前があるらしいわよ…」
「どういうこと?」
二人は、ゴクリと生唾を飲み込んだ。
まさか、あの回向院で出会った富高俊介が過去の人だったなんて、未だに信じられなかった。
奈保子は、何度も「不思議だ、不思議だ…」と言い続けていたが、早紀には、何となくわかるような気がしていた。
そして、もう一度、寛子と話さなくては…と思うのだった。
その晩、夕食後に早紀は寛子の部屋を訪ねた。そして、奈保子が言っていたテレビ番組の話をすると、寛子は、
「ああ、あれね、私も見ていたのよ。でも、あなたに話すかどうか迷っていたの…」
「でも、聞いたのなら仕方ないわね…」
そう言って、祖母は戦後の話を早紀にするのだった。
戦後、寛子は俊介の弟の真二が復員してきたことで、両国に戻り、鉄工場の再建を手伝っていた。そして、知り合った和菓子職人の山川真と結婚したのだ。
終戦後5年もしたころだった。
そのころは、真二の「富高鉄工」も軌道に乗り始め、鉄加工は日本の復興に欠かせない産業となっていた。
くず鉄はいくらでも焼け跡から手に入ったが、それを溶かし溶接する技術者が不足していたのだ。
真二は従業員を使い、様々な注文に応えるべく、朝から晩まで働いていた。
生活が軌道に乗ると、寛子に、
「おい、寛子。今からでもいいから学校に行ったらどうだ。夜間中学もあるし、そこから高校や大学に行く道もあるんだから…」
と勧めたが、17歳になる寛子は、もう進学はとうに諦めていた。
「いいの、兄さん。工場もここまで頑張って来たんだから、兄さんがお嫁さんをもらうまで、私が一緒に働くから…」
そう言って、ずっと工場で経理のような仕事をしていたのだ。
そのうち、寛子一人では手が回らなくなり、もう一人の事務ができる女性を雇い入れた。それが、真二の嫁になる範子だった。
範子は、高等女学校を出た人で、算盤も簿記も何でもできた。
戦争中は、勤労動員で陸軍省に勤めていたそうで、てきぱきした素敵な女性だった。
最初の頃は、年下の寛子が教えていたが、半年もしないうちに範子が経理全般を見るようになり、寛子にも自由になる時間ができてきた。
そして、工場内に食堂ができると、真二は賄いのおばさんも雇い、寛子は少しずつ家のことに専念するようになっていたのである。
そんなときに、和菓子職人の山川真に出会ったのだ。
真は、寛子より五つ年上で、戦前から菓子職人として修業をしていた人だった。そして、戦災で焼かれた「立花」を再建しようと頑張っていたころに、寛子に出会い二人は惹かれあった。
それは、「和菓子が取り持つ縁」というような甘いものではなかったが、何度も顔を合わせるうちに、何となく交際が始まったと本人は言っていた。
そんなころ、一人の青年が「富高鉄工」を訪ねて来た。
身なりは背広をきちんと来た青年で、事務所に入ると名刺を取り出し「佐々木」と名乗った。
対応したのは、寛子だった。
真二も範子も忙しく、その男に対応できるのは寛子だけだった。
名刺には、「明誠工業株式会社事業部 佐々木浩一」と書かれていた。
明誠工業とは、戦前からの飛行機製造メーカーで、今では自動車に方向転換を図り、トラックやオート三輪などを製造販売している中堅企業だった。
寛子は、そこの社員が何の用だろう…と思ったが、佐々木は、
「ここは、富高俊介中尉のご実家で間違いないでしょうか?」
と聞くので、寛子が、
「はい。そうです。私が妹の寛子です。すぐ上の兄が復員して鉄工場を経営しています…」
と答えると、涙を浮かべ、
「あ、あなたが寛子さん…でしたか? よくご無事で…」
「隊長は、あなたが3月の空襲で亡くなったとばかり思い込んで…残念がっていました」
寛子は、佐々木浩一が兄俊介の部下であることを知り、そして、俊介の最期を知る唯一の人物であることを知ってショックを受けた。
寛子は慌てて真二を呼びに行くと、真二も驚いて佐々木から夜が更けるまで、兄の最期を聞かされたのだった。
「だからね、私は、俊介兄さんの最期は聞いていたの…」
「ごめんね、話さなくて…」
「でも、テレビを見て、そんな遺品があったなんて知らなかった…」
「だけど、あのお守りは、私が兄さんにあげたものじゃないわ…」
「一体、だれが…?」
そう考えていた寛子だったが、早紀の顔を見ると合点がいったように、頷いた。
「早紀ちゃん、あなたね。あのお守りの人は…。あなたが兄さんに渡したお守りだったのね…」
そう言って、早紀を抱き寄せるのだった。
「そう、あなたが渡したお守りを兄さんは肌に身に付けて逝ったのね…」
「よかったわ。私の代わりに孫のあなたが、兄さんに渡してくれて…」
「だから、兄さんはあなたを守るために戦ってくれたのよ」
「ありがとう、早紀ちゃん。あなたのお陰で兄さんは幸せだったはずよ…」
「本当にありがとう…」
そう言う、寛子の目からは涙が止めどなく流れ、早紀を胸に抱きながら泣き続けるのだった。そして、早紀も寛子の胸の中で泣いた。
泣きながら、あの回向院の夜を思い出すのだった。
二人にとって、それは不思議なことでも何でもなかった。
俊介が、あの日、回向院で早紀を助けたことも事実だし、早紀に黒砂糖をくれたのも事実だった。そして、そのお礼に早紀が俊介に「勝守」のお守りを渡してくれたのも事実なのだ。
それに、あのお守りを渡したのは早紀だったが、あれを乃木神社に行ってお祓いを受けて買って来てくれたのは、寛子に間違いないのだ。
寛子は信心深い人だった。
朝や夕に必ず回向院に回り、手を合わせることを日課としていた。それに、家の仏壇にも自分で造った位牌がそのまま置かれている。
たった12歳の少女が、空襲と戦いで亡くなった家族を弔うために、精魂込めて造った白木の位牌なのだ。
あれから50年が過ぎ、その白木も変色したが、寛子が生きている限り、亡くなられた家族の魂は、寛子と寛子の家族を見守り続けるだろう。
そう思うだけで、二人は満足だった。
理由はわからないが、あの春雷が二人を引き合わせたのだろう。
実際に俊介に会ったのは早紀だったが、俊介にとって早紀は「寛子」なのだ。寛子の血が早紀につながっている。その血は俊介の血でもあるのだ。
寛子の孫だからこそ、運命は、俊介に「寛子の孫の顔」を見せてやりたいと思ったのかも知れない。
家族を持たずに死んで行った俊介にとって、それ以上の供養はないだろう。それが運命ならば、なんと嬉しい巡り合わせだろう。それも、阿弥陀如来様のお導きかも知れない…と寛子は思った。
そして、いつまでも早紀のことを見守って欲しい…と仏壇に手を合わせるのだった。
その後、テレビ局が両国の「富高鉄工」を探し当て、真二や寛子に取材にやって来た。そして、「エンタープライズ号をたった一人で破壊したカミカゼパイロット」として俊介が紹介された。
それは、日本よりもアメリカでの反響の方が大きかったようだ。
どこから手に入れたのか、寛子が持っていた俊介の写真より立派な軍服を来た写真が大きく引き延ばされ、雑誌などにも掲載されるようになった。
それは、まさに早紀によく似ていた。
寛子は、それを見て、
「ねえ、早紀…。あなたのその大きな目は、俊介兄さんの目だったのよ…」
そう言って笑った。
確かに、早紀の眼は、顔の大きさに比例せず、眼だけが強調されている。
「そうか、だから俊介さんは、私の顔をジロジロと見ていたんだ…」
そう思うと、早紀もおかしかった。
それから半年後、日本にセントジョージから二人の男がやって来た。
もちろん、新聞記者のジャックとジェームズである。
ジェームズは、両国の「富高鉄工」を訪ね、真二と寛子に、富高中尉の遺品手渡した。しかし、その「勝守」については、寛子は何も話さなかった。
それに話したところで、だれも信用してくれそうもなかったからである。だから、このお守りについては、家族も知らない秘密となった。
そして、このときの様子は、またテレビ番組で紹介された。
特にアメリカのテレビクルーが一緒に来日していて、ずっと両国から浅草周辺を撮影していた。
早紀も取材を受けたが、勝守の袋にあった「サキ」に気づかれないようにしていた。だから、あれだけは「謎」として残った。
アメリカの番組では、「空襲で亡くなった俊介の恋人」ということになったらしい。
早紀はそれでいい…と思った。
早紀にとっては、祖母の兄だが、今は一番親しい「お祖父ちゃん」になったから、恋人と言われるのも満更ではなかった。
それにしても、あの日の回向院は不思議だった。
そして、もう一度、あの日の回向院に行ってみたいと願うのだった。
あの後、第6筑波隊の直掩隊で唯一生き残った佐々木浩一は、時の人となり、勧められて、自分の戦争体験を綴ったところ、出版されて大ヒットとなった。
何でも、今度、映画化されるという話も聞いた。
それでも佐々木は、実直なサラリーマンとして、今でも航空機メーカーで働いている。「それが、生かされた自分の生き方です」と何かの記事で読んだ。
そんな出来事があってから、さらに30年近くが過ぎ去った。
祖母の寛子も真二も、佐々木浩一も既に鬼籍に入った。
早紀は、間もなく50歳を迎え、今日も忙しい日々を送っていた。
あれから10年後に早紀も結婚をして家族を持った。
二人の息子には、俊典と寛という名をつけた。
もちろん、俊介と寛子にあやかった名前である。
夫の直彦は、早紀が急に「これがいい」と言うので、了解したが、
「どういう理由で、その名にしたんだ?」
と尋ねたが、早紀は、
「インスピレーションよ。何か、ビビッとその名が浮かんだの」
と言って笑うばかりだった。
早紀は、やはり同じ中学校の同僚だった数学の教師と結婚をした。
早紀も同じ数学の道を選び、若いころの夢であった大和学院中等部の剣道部の顧問になった。
中学校では男女の区別なく練習をしている。
夢は全国大会出場だが、まだ、実現はしていない。
それでも、早紀は生徒に無理なく指導することを心がけていた。
もちろん勝つことも大事だが、それよりも「心」の結びつきが大事なことは、寛子や俊介を見ていてそう思うようになっていた。
その後、佐々木は何度も寛子を訪ねてきた。そして、俊介と仲間たちの強い絆の話を聞かせるのだった。
佐々木は、
「私は、強い兵隊になりたいと思っていました。自分が強くなれば戦争にも勝てるのだと…」
「でも、それは間違いだったのです」
「それを、あの筑波隊の人たちから教えられたのです…。特に富高中尉の計画はすばらしかった」
「この人は、死ぬためにここにいるんじゃない。戦うためにいるんだ…そう思ったのです」
「そして、一人一人の技量は低くても、ああいう戦い方があることを実戦で知りました」
「私は、最初から最期まで、筑波隊と直掩隊の戦いを見ていました。自分ももうだめだ…と何度も思いました。でも、この戦いを伝える人間が自分しかいないと気づいたとき、私は必死に操縦桿を握り帰還したのです…」
「あれこそ、仲間がいたからです。あれが人の絆なのです!」
「戦争という怖ろしい世界でも、強い絆に結ばれた信頼関係が、あの戦果をもたらしたと自分は思っています」
「そして、一方、戦争はもう懲り懲りです。あの大きな空母にもたくさんの兵隊が乗っていたでしょう。戦争とはいえ、多くの人の命を奪ってしまいました」
「そのことだけは、自分が背負って行きたいと思います…」
そんな話をしてくれた。
寛子と早紀は、その佐々木の苦悩が俊介の苦悩だとわかっていた。だからこそ、寛子は死ぬ間際まで、あの白木の位牌に手を合わせることを忘れなかったのだ。
そして、寛子の位牌は、今も早紀の手元に残されている。そこには、新しく早紀の手で「寛子」の文字が加えられていた。今ごろは、雲の彼方でみんなで仲良く暮らしているかと思うと、早紀は寂しくはなかった。
今日も、大和学院中等部の道場では、早紀の指導する大きな声が聞こえていた。もうすぐ、また、春雷の季節がやって来る…。
完
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