コロナウィルスの感染症が世界中で広がって以降、日本は数年間にわたり「自粛生活」を余儀なくされました。亡くなられた安倍元総理が、テレビ画面越しに「学校の一斉休校宣言」を出されてから、子供たちの学校生活は180度の転換を余儀なくされたのです。それは、「学校は、できるだけ休んではいけない」という常識が覆り、「体調不良であれば、積極的に休むこと」という意識に変わったということです。そもそも、不登校児童の多くは、「体調不良」を理由にして欠席していたわけですから、後者であれば、「学校に登校するべきではない」というのが常識になりました。この考え方が数年間続いたことで、子供だけでなく、保護者や国民の意識も変わり、「必ずしも、学校だけが勉強の場ではない」というような意識が、日本中に広まったように思います。ここで考えなければならないのは、実は、子供の「不登校問題」は、子供個々の問題ではない…ということです。専門家の議論も、不登校を子供個人や家庭、学校の問題であるかのようの捉えていますが、これは、間違いなく「社会構造上の問題」だと言うべきでしょう。なぜなら、今の日本は「昭和」の時代の日本ではありませんし、日本人もここ30年で大きく変わりました。学校だけが「戦後教育体制」のまま継続していくのは、無理があるのです。そのことを踏まえて「不登校問題」を論じたいと思います。
1 日本の「教育」の崩壊
今、マスコミで盛んに問題視されている事件は、保育園での保育士による「虐待」事件を契機とした「乳幼児保育・教育」の問題です。これまで、小中学校でのいじめや教師の指導が話題になった教育論争も遂に「保育」の世界にまで広がったということです。今、日本中の保育園や幼稚園なのでは、一斉に「保育実態」の調査が行われているようですが、今、取り上げられている事例は、おそらく氷山の一角のような気がします。国は、「一億総活躍社会」を謳い、とにかく労働力の確保に必死になって取り組んでいます。日本も諸外国のように「人口減少」は大きな問題であり、少子高齢化と呼ばれるようになると「専業主婦」という言葉は死語になってしまいました。「子供は、できるだけ保育園等に預け、大人は精一杯外で働く社会」を目指してきたのです。しかし、ここには、子育ての本質論がありません。本当に乳幼児期から福祉施設等に預けて、専門職員に「子育て」を委ねることが本当にいいのでしょうか。国民の中には、「我が子を自分の手で育てたい」という人だっているでしょう。しかし、今の賃金体系では、我が子を自分の手で育てることは「贅沢」なことなのです。今でも「待機児童を解消する」のが、行政の大きな仕事になり、あちらこちらに「保育施設」が誕生しました。学校のひとつである「幼稚園」も「延長保育」の名で、子供を長時間預かることが求められ、「幼保一元化」が幼児教育の中心となっています。そんな社会の動きに「冷や水」を浴びせかけたのが、保育園での乳幼児の「虐待」です。
「幼い子供は可愛い」というのは、国民の一般的な常識でしょう。確かに、他人の子供であれば、その笑顔を見ているだけで「癒やされる」という人もいるはずです。しかし、多くの乳幼児を預かる保育士の立場になってみればどうでしょう。学校の教師も同じですが、「子供」と一括りしても千差万別です。だれもが保育士や教師の指示を聞いて、素直に従ってくれるわけではありません。子供ですから、危険なことも予測できず無茶な動きもします。子供同士で喧嘩にでもなれば、「ひっかく」「噛み付く」「叩く」などは日常茶飯事です。それを「させない」ことも保育士や教師の仕事なのです。一般の人は、「それが仕事だろう?」と冷ややかに言いますが、子供の「安全確保」にかける労力は大変なものだということを忘れてはなりません。何でも「仕事だから、当たり前!」という論は、非常に危険な考え方です。子供を預ける親が「よろしくお願いします…」という態度で保育士に感謝する心を持っていれば、保育も円滑に進みますが、「仕事だから、当たり前だろ…」という態度では、苦労をしている保育士の立場はありません。こうした、人間関係が「子育て」には重要なのです。もちろん、虐待を繰り返した保育士に同情するものではありませんが、「実態」を踏まえた議論をしないと、保育園も学校と同じように「ブラック化」が問題視され、保育士のなり手がいなくなるという事態を招くということです。
日本の「教育の現場」を見れば、既に大学教育は飽和状態で、その学力格差は眼を覆うばかりです。中学校1年生程度の数学が覚束ない学生が「大学生」では、大学教育の質が問われます。経済優先が本当にいいのかどうか、一度立ち止まって考えて見る必要があります。さらに高等学校も生徒の学力不足が顕著になり、多くの普通高校では、部活動でもしない限り、勉学に励んでいる生徒はあまりいないようです。小中学校は、「学校ブラック化」問題の渦中にあり、生徒指導と保護者対応で教師は振り回され、今や「学校の教師」は「なりたくない職業」の一番手でしょう。それに加えて、今度は保育園、幼稚園での「不適切指導」が明るみに出て、日本の「教育」は以前のような輝きは失せ、今や社会の「負の遺産」化状態にあります。そもそも、学校教育だけが日本の教育を支えてきていたのに、家庭教育や社会教育が崩壊している今、今後、何処が日本の「教育」を支えていくのでしょう。これでは、若者は結婚もできないし、子供を作ろうとする意欲が湧かないのは当然です。若者が元気になれるのは、社会が安定し、家庭を持つことが自分の「幸福」につながることを確信できたときだけなのです。
2 個人・人権重視の社会
平成の終わり頃から、世界の情勢は日増しに混沌としてきています。各地で紛争が起こり、遂には大国ロシアは侵略戦争を起こしました。それも、明らかな「大義」のない戦争です。そんな中で国際連合は、その思想を左翼的なものに支配され、日本に対しても「?」と思わせるような勧告等が続いています。たとえば、既に「従軍慰安婦」問題は、明らかな捏造であることが明らかになってきても、政治の世界では未だに解決しようとしていません。嘘で塗り固められた「創作」を政治利用し、気に入らない国を貶めようとする国際政治は、政治家の劣化を表しています。そんな中で登場してきたのが、「個人・人権」重視の社会です。もちろん、個人や人権が尊重されるのは大切なことです。身分制度による「差別」や「思想弾圧」などが行われるべきでないことは、だれもが認めています。しかし、これが「過ぎる」と、人間関係を薄め、社会のつながりを断つ危険性があるのです。今の日本でも子供の不登校問題だけでなく、以前から「8050問題」と言われるような、成人の「引き籠もり」問題もあり、社会はそれらに対処できなくなってしまいました。もはや、8050問題は「9060問題」になろうとしています。
今、テレビや新聞報道等を見ていると、必ず「ハラスメント(いやがらせ)」が話題になります。立場の強い者から弱い者に対して、「性的いやがらせ」「暴言によるいじめ」「差別的な対応」等、日本社会が如何に「人間関係」を弱らせてきたかがわかります。子供のいじめが話題になっていたころ、「いじめは、子供にだけある」ような報道が続き、多くの人々は自分のやっていることを自覚しませんでした。そのために、「いじめ防止対策推進法」なる法律ができ、「子供はいじめをしてはならない」と条文に書かれたのです。それが、10年も過ぎた今ごろになって、雪崩を打つようにして社会全体での「パワハラ」「セクハラ」「モラハラ」報道が連日続き、挙げ句に「保育園」での乳幼児虐待にまで至りました。これは、一体どうしたことなのでしょう。日本人の道徳観でもある「お互い様」や「人様」などの人を敬うような接し方は陰を潜め、他人に対する「思いやり」「配慮」「優しさ」「助け合い」…等の精神は無くなってしまったかのようです。日本語としては残されていても、心の中では、「他人より自分が優先」「損することはしない・したくない」「目先の得が欲しい」「責任は取りたくない」などの、自己中心的な考えが蔓延しているように思います。こうした考え方は、社会全体の風潮で、それを諫めるはずのマスコミも政治家も不祥事が後を絶ちません。これで、子供だけは「健全に育てる」と言っても、本当に可能なのでしょうか。
失礼を承知で申せば、自分のいやなことを強いられれば、「個人の権利」を主張して拒否することができます。それを強制されれば「パワハラ」で訴えることも可能です。それによって、周囲から疎まれれば、「いじめられている」と言うこともできるのです。「いじめの定義」では、「いじめられた本人がいじめと認識すれば、いじめである」とされていますので、たとえ自分の至らないところがあっても、反省は求められません。しかし、こうした態度では、円滑な人間関係を築くことはできず、次第に「孤立」していくことは明白です。また、働く場所も制限されるのではないでしょうか。人間社会は、どう足掻いても「人間関係力」が求められます。特別な才能に恵まれれば、たった一人でも仕事はあるのかも知れませんが、それは、稀な才能の持ち主のことで、一般的には通用しません。要するに、何でもそうですが、物事には「加減」があるということです。そのためには、乳幼児のころから、愛情豊かな人々に囲まれて暮らし成長していく「環境」が大切です。そうした「人的環境」「物的環境」「社会環境」に恵まれるような社会を創っていかない限り、「権利の主張」だけで幸福が得られるとは思いません。
3「不登校」を前向きに考える
「不登校になる子供」に対して、社会は「困った子供」というレッテルを貼りがちですが、一概にそうとも言えない現状があります。それは、今の「学校体制」そのものが、既に機能しなくなっているのではないかと思えるからです。日本の学校制度は、敗戦後の占領国軍(GHQ)の指令の下に整備されたことは何度も申し上げましたが、その体制が80年近くにもなり、社会のニーズに応えられなくなっているように思います。当該自治体のはがき一枚で入学する学校が指定され、文部科学省が定めたカリキュラムに則った教育が施されるわけですが、このシステムが本当に21世紀の現代に適合した教育方法なのでしょうか。先にも述べたように、社会は既に「個人優先主義」「人権重視主義」を採用し、AI技術が飛躍的に発展した未来型社会を創ろうとしています。そこで働く人材は、「従順で平均的な労働者」ではなく、「才能に溢れた創造的な個性」が求められているのです。それは、もう「労働者」という一括りでは考えられなくなっています。企業も積極的に「働き方改革」に取り組み、制服を着せた社員ではなく、自由な服装で自由に発想する社員を求めています。労働する場や時間も自由になり、成果主義を採るようになりました。ところが、学校は相も変わらず「従順で平均的な優等生」を創ろうとしています。これでは、この「価値基準」に合わない子供や保護者は、学校に対して多くを望まなくなることでしょう。たとえ、学校に一歩でも足を踏み入れてみれば、「これは、ちがうな…?」という思いを持つ人は多いはずです。もちろん、学校教育には社会に出たときに身に付けておかなければならない「社会常識」や「生活習慣」、「道徳性」などを養う大切な役割を担っていることは承知しています。しかし、教室という枠内で一斉教授型で指導することが、本当に最適な教育方法なのか…という疑問が湧くのも当然だと思います。
昭和の時代であれば、学校の教育方法や体制に異議を挟む人は少数だったと思います。なぜなら、高度経済成長期は、「従順で平均的な労働者」を大量に求めていたからです。逆に「個性的」な人間は排除され、社会から「変わり者」という眼で見られていました。まして、高い「学歴」を勝ち取った人間が「エリート」と呼ばれ、幸福を味わっているように見えていたわけですから、だれもが、日本の学校教育体制を支持しました。でも、今は「昭和」の時代ではありません。高度経済成長期など、二度と日本にもたらされることはないでしょう。そういう時代に「高学歴」は、幸福のパスポートではないのです。そんな飾りのような学歴より、特定の専門分野で個性を発揮して活躍する方が、自分らしい「幸福」を掴むことができるのです。先日まで、テレビで「コンピュータゲームクリエイター」が主人公のドラマが放映されていましたが、世界的に活躍する彼らの「学歴」の話は一切出てきませんでした。これが、現代なのです。
子供が、たとえ「不登校」であっても、必ず「光る」ものがあるはずです。それが、学校教育に役立ちそうもない「光」であっても、その光こそが、子供の持つ「才能」だということを忘れてはなりません。その光に気づかない周囲の大人たちは、それを「無駄な才能」として切り捨てようとしますが、それは、単に「自分の価値基準」に合わないだけのことで、子供に責任はありません。ひょっとしたら、その才能は「世界」が求めている才能なのかも知れないのです。学校に通学して学ぶ意義を感じられず「不登校」になったとしても、その「光」さえ失わなければ、必ず「道」は見えてくるはずです。今は、ちょうど、過去の価値観と未来の価値観がせめぎ合い、戦っている最中なのかも知れません。しかし、「過去の価値観」に勝利はありません。ただし、「人の生き方」としては、過去から大いに学ぶべきです。人間は絶対者ではありません。どんなに科学技術は進化しても、人間は機械ではないのです。人間は「考える脳」「感じる心」を持つ生命体なのです。だからこそ、人間としての成長がなければ、人として幸福を味わうことはできません。それこそ、新しい時代だからこそ、真の「道徳」が求められているのです。「思いやり」「謙虚さ」「優しさ」「譲り合い」「助け合い」といった精神性は、生活が豊かになればなるほど、求められるものだということを忘れないでいて欲しいと思います。
4 新しい教育制度を整える
「教育を受ける権利」はだれにでもあります。そして、それは全世界の子供に保障されなければなりません。しかし、どんなに優れた制度であっても時代とともに欠陥は見えて来るものです。日本もそういう時代に来ています。70年以上昔に作られた制度を後生大事に抱え込み、そこから一歩も前に進めないとすれば、それは日本政府の怠慢というものでしょう。しかし、現実には、不登校児童は確実に増え、「今の学校のやり方には合わない」といった声は日増しに強くなっているのです。まして、教職員の労働環境が「ブラック」と呼ばれるほどに劣悪になった責任は、政府にあります。日本人が国民性として我慢強く、自己主張が苦手です。学校の多くの教職員は、どんな無理な要求も「子供のためになるなら…」と身を削るようにして耐え、頑張って来ました。しかし、その努力が報われるどころか、次第に社会の批判に晒され、子供が「憧れる職業」ではなくなってしまったのです。政治家もマスコミに操られるようになり、国会での議論もまるで「週刊誌ネタ」を基にした暴露合戦のようです。これでは、日本の教育を本気になって憂え、未来像を描く議論などできるはずもありません。その学校も、そんな無理な要求を受け続けたために疲弊し、今の状況になってしまいました。学校の教師が力を失えば、子供の教育に影響を与えるのは当然です。教師の多忙化の中で、新しい教育課題に取り組み、難しい保護者対応を強いられ、生徒指導のために深夜でも働かなければならない現実を社会は評価しませんでした。冷たく、「教育のプロなんだから、当たり前だろう」と言われ、だれもが唇を噛み締めたのです。
「不登校」の子供が出始めたとき、学校は「不登校ゼロ」を目指して取り組むように国から要請されました。何でも問題が起きれば「ゼロ」を目指すのが学校なのです。いじめが起きたときも「いじめゼロ」を目指し、実態を十分把握できないまま、国への報告だけは「ゼロ」という自治体は多く、だれもが首を傾げたものです。しかし、現実的に多くの子供がいる中で「ゼロ」になることはあり得ません。現場は、絶対に「ゼロ」にはならないことを知っているからこそ、きめ細かな対応をして、その子供に寄り添う必要があるのです。よく子供の話を「聞き」、保護者の「願い」を知った上で、最善の方法を家庭と一緒になって探すのが学校や教師の役割のはずです。しかし、現実的に、それは「時間」が許しません。教師は教育の「何でも屋」です。朝8時から夕方4時30分までが勤務時間ですが、それで終わる教師を私は見たことがありません。朝は7時には出勤し、夕方は会議やら教材研究、生徒指導等で、帰宅が9時頃になることは特別ではないのです。中学校では、部活動がありますので、さらに帰宅時間は遅くなります。こうした中で、「きめ細かな指導」がどれだけ可能だと言うのでしょう。命じる側にいる人は、そんな実態を無視するかのように「通知文」一本で学校現場に指示を出します。やれなければ、強い「指導」が入りますので、国や県の命令は「絶対」なのです。
こんな実態は、不登校の子供や保護者には関係ありません。それを教師が口にすれば、「言い訳」にしか聞こえないでしょう。それも「当然」です。親や子にしてみれば、教師は「子供のために働く存在」だと思っているからです。これが過ぎると、親は教師や学校に「依存」し始めるのです。「何でも学校に言えば、ただでやってくれる…」と思えば、公的教育機関は便利です。「勉強を見るのも学校」「しつけをするのも学校」「進学の面倒を看るのも学校」「問題行動の解決も学校」「子供のトラブルの解決も学校」…。これでは、家庭の教育力は低下するばかりです。それでも、学校の教師の多くは、「子供のために」を合言葉に「できるだけの支援」をしようと考えて行動しています。それでも、「学校体制」の問題を一教師がどうにかなる話ではありません。そろそろ、国が本格的に議論を進め、日本の未来を見据えた「教育制度」のあり方を検討して欲しいと思います。
5 子供の「ニーズ」
今の子供たちは、昭和の時代の子供のように単純ではありません。社会の「生き方の方程式」が崩れていることを肌で感じている世代です。昭和のころのように、暴力や暴言で鍛える時代は終わりました。今は「理不尽な行為は、たとえ親や教師であっても許さない」時代なのです。既にプロスポーツ等の世界では、強圧的な指導は陰を潜め、常にコーチや監督は個人の能力を見極め、データに基づいた指導を始めています。アマチュアスポーツでも、不正が横行したような怪しい体制の「組織」は、その不正等が公になり、君臨していたリーダーが排除されました。最近では、東京オリンピック・パラリンピックの組織の不正が問題になり、社会全体が、一部の人間の横暴を許さなくなっています。これは、学校も同じです。以前のように、理由も説明しないまま、「いいから、やれ!」的な指導者はいなくなり、常に丁寧に説明し合理的な指導をするよう求められています。そういう社会の変化の中で、子供たちは「自分でものを考え、行動する」力を身につけていかなければなりません。たとえ、「不登校」状態にあっても、保護者や教師の考え方ひとつで子供の才能を伸ばし、「生きる力」をつけることはできるのです。既に高等学校には多くの「通信制高校」が誕生し、中学生の進路に貢献しています。この状況は益々拡大し、多様な学びを得る機会は増えていくはずです。また、大学の新卒者の採用も次第に変化し、何でも「一律」に行ってきた採用方法ではなく、「キャリア採用」なる「転職」も勧められています。CMなどでは、「自分の力を発揮できる会社」をアピールし、恰も「能力のある人間は、転職をすべし」とでも言うような宣伝を行っています。
こうした社会変化は、自然に子供たちにも影響し、旧来の「石の上にも3年」や「生涯同じ会社で働くのが善」という思想は、既に崩壊しています。企業も右肩上がりの「年功序列制」を止め、「能力主義」に転換して生き残りを模索し始めました。その点、「ベンチャー企業」は有利かも知れません。「一流大学を出て、大企業に入って、高い給料と退職金で老後は悠々自適に暮らす」時代は、もう二度とやって来ません。そうであるならば、「不登校」すら前向きに捉え、「子供の才能を伸ばすチャンス」だと考えて、子供に「夢」を与えては如何でしょうか。たとえ不登校の経験があっても、それは何のハンディにもならなくなります。逆に、自分の「生き方」を見つけた子供は、社会に出てから強い存在になるかも知れません。親や社会が敷いたレールを言うがままに走るより、自分でレールを敷いて、自分のエンジンで走らせる人生の方が何倍も面白い…といった発想もできるでしょう。社会は刻々と変化していきます。そして、そのスピードは、今の私たちの想像を遥かに超えているように思います。だったら、大人は子供に対して、「わかったような未来」を語るのではなく、「子供の持つ光を信じて」、子供自身が自分の力で走るような手立てを考えるべきでしょう。
6 複線型の学校制度
そこで、大切なのが「学校種」です。急に「6・3・3制」を覆すことはできませんが、「学校種」なら、早急な対応が可能です。今でも、各都道府県では新しい形態の学校づくりを始めています。たとえば、「農業高校」では、「日本最先端技術」を使った農業技術を学ばせるのです。もちろん、教員には、企業から一流の講師を派遣してもらえば、生徒の意欲は倍増するはずです。また、政府が学校の「設置基準」を緩和すれば、各企業と自治体が提携した「学校」を設立することもできます。これを各市町村に設立していけば、これまでのように「普通科」しか選択できない子供たちの選択肢が広がり、進学意欲も高まるはずです。大学も総合大学ではなく、「単科大学」を増やし、高校以上の専門教育を行うことで、より優れた技術者や研究者が誕生するはずです。「不登校」になる子供の中には、「〇〇おたく」と呼ばれる専門性に特化して興味を持っている者がいます。「昆虫博士」や「鉄道博士」「歴史博士」「宇宙博士」など、日本中には大人の及びもつかない「子供博士」がいるものです。その天才的な閃きを持つ能力を国が生かすのです。
この「複線型」の学校制度は、実は戦前の学校制度に見られました。義務教育は小学校6年間でしたが、その後の進路選択は様々で、高等学校・大学・専門学校も国立と私立でユニークな教育が行われていました。確かに、戦争中が「画一的な教育」になってしまったかも知れませんが、建学の精神はそうではなかったはずです。特に大正時代に花開いた「自由教育」は、関東大震災や戦争がなければ、もっと日本中に広まり、日本は国内だけで発展していく可能性もあったのです。それが、敗戦によってすべてを「無」にされてしまいましたが、そろそろ、日本人も歴史から学ぶときが来たのではないでしょうか。学校で「従順で平均的な日本人」を育成する時代は終わりました。これからは、「個性」と「創造」の時代です。我が子が、たとえ「不登校」状態になったとしても、それを「悪」と捉えるのではなく、その子供の「光る個性」と捉え、その子だけが持っている「才能」を開花させるために応援するべきなのです。それが、きっと十数年後に日本社会に貢献する力になると私は信じます。
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