教育雑学9「日本人のモラルは清楚」

令和5年を迎え、世界も日本も混沌としています。戦後続いた「アメリカ中心主義」も脆くなり、大国同士の争いも激しくなってきました。ロシアはウクライナとの戦争にのめり込み、「世界の孤児」になりつつあります。国際連合の常任理事国が世界秩序を破壊し、我が物顔に領土拡大を目指すようになっては、「戦後の国際秩序は崩壊した!」と言ってもいいでしょう。隣国の中華人民共和国は、台湾併合の野望を露骨に示すようになり、既に米中の睨み合いは続いています。もし、ここでロシアや中国が勝利し、欧米日連合が手を引く事態に陥れば、世界は「専制国家」が支配することになり、新しい「国際秩序」が誕生することになります。そのとき、日本は、日米同盟の意義を失い、中国やロシアの支配下に置かれるといった想像ができます。そうなれば、「民主主義」時代の終わりです。それが、一歩間違えれば現実の世界になる事態は、まさに「有事」です。しかし、国内では、未だにそんなシュミレーションは妄想であるかのような政治勢力が台頭し、未だに宗教問題や増税問題で国会が紛糾しているのは、如何にも「危機管理能力」の低さを露呈しているようなものです。この先、日本はどのような国を目指して生きていくべきなのでしょうか。今の日本人の多くは、「民主主義」は敗戦によって、戦後、アメリカから持ち込まれた思想だと思われているのかも知れませんが、とんでもありません。形態は異なるにしても、日本の「民主主義」は、聖徳太子の「和を以て貴しと為す」の時代から続く理念であり、明治天皇の「五箇条の御誓文」にもその趣旨は書かれていました。

一、廣ク會議ヲ興シ、萬機公論ニ決スヘシ                                                                      一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ經綸ヲ行フヘシ                                                                   一、官武一途󠄁、庻民ニ至ル迠、各其志ヲ遂󠄂ケ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス
一、舊來ノ陋習󠄁ヲ破リ、天地ノ公道󠄁ニ基クヘシ
一、智識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起󠄁スヘシ

日本は、明治維新によって国際社会に出て行きましたが、当時の植民地(帝国)主義の中で翻弄されて行きます。そして、日本の「あり方」は、国際政治の中では徹底的に嫌われ、戦争へと追い込まれて行ったことは、ここで語るまでもありません。日本は、元々、世界に野心などを持つ国ではありませんでした。日本列島と周辺の島々を「国土」として守っていければ、それで満足な国なのです。そして、そこに暮らす人々が仲良く睦み合い、争いごとをなくし、穏やかな気持ちで毎日を送ることができれば、それが一番の「幸せ」なのです。そこで育まれた精神は、穏やかで、人と争うことを好みません。昨日まで「敵」であっても、和睦すれば、今日からは「友」になれるのです。そういう意味では、日本人は「清楚」な心を持っているのでしょう。もちろん、国が落ち着かない時代はありました。それでも、「天皇」を中心にまとまろうとする力は存在し、現在にまで至っています。

私は、日本人がすべて「清らかで、心の美しい人々」だと言うつもりはありません。昭和の時代だけを見ても、粗野で差別的で、力で弱い者を従わせようとする人間(権力者)はいました。上に立てば、横暴で暴力も辞さない指導者も多くいました。それでも、一人一人が「素の自分」に戻れば、それほどの悪人はいなかったと思います。ただし、日本人は周囲の雰囲気に流されやすく、その場の「空気」によって動いてしまう傾向が見られます。最近、よく、「同調圧力」という言葉が使われましたが、「圧力」というよりは、「同調空気」と言った方が適切のような気がします。今回のコロナ騒動にしても、都会より地方の方が「同調空気感」は強く、その自治体自体が頻繁に「注意喚起」を声高に叫んでいるため、その地域に住む人たちは、未だに「コロナ」を恐れ、自粛ムードを解消しようとはしません。「安全第一」はわかりますが、それが極端に走ると、それに同調しない人を排除する雰囲気さえ出てきてしまいます。こうした姿勢は、人々から冷静さを奪い、自分の頭で考えることを止めてしまいます。日本が、戦争に突入したのも、こうした「空気」が醸し出したことも一因だと言われています。日本の場合は、マスコミが自分たちの思想(左翼的)に基づいて人々を煽動しますので、それに煽られた国民の一部が大声で主義主張を叫んだり、集会を開いたりしていますが、普通の国民はそれに同調することはありません。しかし、それに反論するだけの根拠もありませんので、敢えて「無視」を決め込んでいるのです。

「日本人のモラルは清楚」という言葉は、ドイツ在住の作家「川口マーン惠美」氏が某月刊誌に書かれていた言葉です。昨年末のサッカーワールドカップ・カタール大会についての日本人選手や日本人サポーターの振る舞いについて評論されたものですが、私は、この言葉に少なからず共感を覚えました。それは、私も日本人なので、「日本人の道徳心は清楚」であってほしいと願っているからかも知れません。そこで、「清楚な道徳心」とは、どういうものなのか、考えてみようと思います。

1 「惻隠の情」は死語か?

日本人の道徳心は、「モラル」や「マナー」とは少し異なります。なぜなら、その心は、他者が評価するものではなく、最後まで「自己評価」でありたいと思うからです。昔から、「日本人には惻隠の情があった」と言われますが、簡単に言えば、他者への「同情」であり「思い遣り」の精神を表しています。それは、相手や周囲に気づかれようとして行う行為ではなく、「そっと、気遣う」優しさが根底にはあります。私も子供のころに、祖母から「お天道様が、見てるからな!」と言われて育ちましたが、どんなに貧しくても、心だけは「貧しく」ならないようにしようと気をつけていたつもりです。それでも、自分の人生を振り返れば、恥ずかしいことばかりです。サッカーW杯での選手やサポーターのしぐさは、何もマスコミに取り上げて褒めてもらおうとする行為ではありません。「人知れず」淡々と行い、自分に納得出来れば、それでいいのです。選手たちが、試合後、応援してくれた人々に深々と頭を下げて「無言のお礼」をする姿が報道されていましたが、あれこそが、自分の真心から出ている「感謝」の気持ちなのです。それを傍から見ると、「清々しく」「清楚」に見えるのでしょう。こうした道徳心を持つ日本人が多く存在しながら、社会を賑わすニュースには、眼を覆いたくなるような卑劣な行為が映し出されています。特に、権力側に立つ日本人の道徳心の欠如は、「人間の弱さ」を露呈しています。未だに社会は、「力のある者が支配する」構図から抜け出そうとはしません。そして、その驕りが自らの道徳心を失わせ、別の権力によってすべてを暴かれるまで、自分の本当の姿を隠そうとするのです。しかし、それは、心の何処かにどこかに「自分が行った行為は醜い」ことを知っているからでしょう。「力」とは、本当にコントロールすることが難しい「人間の本性」なのかも知れません。

「惻隠の情」は、日本人がけっしてなくしてはならない日本人の「心」でもあります。これをなくして日本人はどうやって生きていけばいいのでしょう。どんなに賢い人間であっても、どんなに権力を手にした人間であっても、これだけは忘れて欲しくありません。

2 「仁」の心を持ちたい

子供のころ、NHKの番組で「新八犬伝」という人形劇が放映されていました。「八犬伝」は、原作は江戸時代後期に作られた曲亭馬琴の「南総里見八犬伝」だそうですが、正直、私は、このテレビドラマで初めて知ったというのが本当のところです。江戸時代の小説ですから、その考え方が「武士道」にあったことは間違いありません。ここで、私は「仁義礼智忠信孝悌」という言葉を知りました。それこそ、本物のサムライが持つ「力」のことです。何も摩訶不思議なことは起こりませんが、その文字が書かれた「玉」を心に持つだけで、勇気が湧いてくるような言葉なのです。そして、成長するに連れてその言葉が、「論語」に出ていることを知りました。論語は、中国古代の思想家「孔子」が弟子に伝えた言葉ですが、日本にその思想が入って以降、日本の風土に合わせるように孔子の言葉の解釈も変化していったようです。そして、江戸時代なって「武士道」に集約されていったのでしょう。しかし、「仁」だけは、武士というより「医」の世界で用いられることが多いようです。「医は仁術」と説いたのは、江戸初期に「養生訓」を著した貝原益軒ですが、思想的には、だれもが共感するのではないでしょうか。

「医は仁術なり。仁愛の心を本とし、人を救うを以て志とすべし。わが身の利養を専ら志すべからず。天地のうみそだて給える人をすくいたすけ、萬民の生死をつかさどる術なれば、医を民の司命という、きわめて大事の職分なり」

日本は、近代を迎えても「医は仁術」の思想はなくなりませんでした。「日本近代医学の祖」といわれた佐藤泰然は、佐倉に「順天堂」を開き、西洋外科を中心とした西洋医学を全国から集まって来た塾生に教えました。そして、併せて病院を開き、多くの人の治療に当たったのです。この順天堂の「堂是」は、まさしく「仁」でした。この精神は、二代堂主佐藤尚中に受け継がれ、現在の順天堂大学医学部に引き継がれています。今の日本の医師たちは、どんな思想を持ったとしても「医は仁術」の精神から外れることはできないはずです。手塚治虫の漫画「ブラックジャック」は、一見、ニヒルで「金」にしか興味のない医師に描かれていますが、その実は、人を思い遣る、愛情に溢れた人間だと気づかされます。だからこそ、今でも多くの人に愛される漫画として評価されているのだと思います。「医は仁術」こそが、「清楚な道徳心」を表した言葉のような気がします。

3 道徳は常に「目立たず」

日本の道徳観は、みんなの前で堂々と披露するものではありません。常に「控え目」で「謙虚」なはずです。日本人は「恥を知る」国民だと言われていますが、この「恥ずかしい」と思う心を失えば、日本の道徳文化は終わります。日本人は古代から、狭い土地を耕し、多くの人と助け合いながら生活を営んできました。現代でも、それほど大きな土地を所有する人は少なく、住居もけっして大きく立派な物ではありません。電車に乗るにも、少し前までは満員電車に揺られて目的地に行くのが普通の光景でした。学校の教室にも30人以上の子供がいて、ゆとりのある教育が行われたことはありません。それでも、日本人は大きな混乱もなく、穏やかに暮らしてきたのです。もちろん、歴史を見れば、国内での戦が続いたり、外国との戦争も経験しましたが、それは、日本人が望んだことと言うよりは、その時代に「やむを得ず」そうせざるを得ない事情があったからに他なりません。今の生活も、だれが望んだ…と言うよりは、「社会がそう変化した…」というのが実感でしょう。どちらかというと、日本人は「流されやすい」人々なのかも知れません。確かに、マスコミ等から流される報道を見ると、「世の中、理不尽だなあ…」と思うことは多々ありますが、それを「自ら変えよう!」という強い意思はありません。「まあ、仕方がない…」と諦めて、自分なりの工夫をしながら生活を営んでいるのです。

本質的に日本人は、優しい人が多いように思います。見た目は、少し派手だったり、怖そうに見えたとしても、心の中は、それほど歪んではいません。電車の中で高齢者に席を譲ろうとするのは、見た目とは関係ありません。先日、私が見た光景ですが、電車の中で、立派な恰好をしている40代の男性二人が優先席に陣取り、傍若無人に足を投げ出し、声高に自慢話に夢中になっていました。おそらく、周囲の眼に気づかないのでしょうが、側にいた高齢の女性の戸惑っている表情は、何かを語っているようでした。周囲の人は敢えて注意はしませんが、傍から見て、だれもが、「おやおや…」と思っていることだけはわかります。少しだけ成功した人たちなのでしょうか。その自慢話は周囲にもよく聞こえ、「ああ、恥ずかしいな…」と思ってしまいます。それより、オレンジに髪を染めた若い女性が、側に立つその高齢女性に、サッと席を譲ろうとする姿の方が、道徳的だと思いました。高齢女性が、「ありがとう、でも、大丈夫ですから…」と言っている姿が日本人的です。「自分でできることは、自分でする」という精神は、いくつになっても尊いものです。横柄に、「おい、席を譲るのがマナーだろう!」と言われては、どちらも立場がありません。何も言わなくても感じ合える、わかり合える姿こそが、日本人の「清楚な心」なのだと思います。

4 子供に伝えたい「清楚な心」

今、各家庭では子供たちにどのようなことを教えているのでしょうか。「大人の話はよく聞くこと」とか、「友だちと仲良くすること」などという話は、どの家庭でもされると思います。日本人にとって、「思い遣り」や「優しさ」は、人として当たり前の感情だということはわかります。しかし、小学校に入学し勉強が始まると、道徳的なことが疎かになっていくような気がします。日本政府も「学力向上」は真っ先に掲げますが、「道徳心の向上」を一番に上げたことはありません。マスコミの報道でも、体力や学力の問題は取り沙汰されますが、「道徳」になると、ほとんど報道されないのが現実です。実際、今の日本人は、道徳的な行為に対してどのように受け止めているのでしょうか。東日本大震災時に、日本中で「絆」の大切さが共有され、マスコミも挙って「絆」キャンペーン的なものを流しましたが、10年が経過した現在、あまり効果があったようには思えません。あのとき、被災した東北の人々が、最後まで「我慢強く」「礼儀正しく」「秩序」を保ったことは賞賛されるべきですが、それでも、一部の大人が、道徳心を欠いた行動を取っていたことは見逃せません。また、「風評被害」が広まり、東北の人々が地震以外のことで二重の苦しみを味わうことになったことは残念です。せめて、同じ日本国民として、エゴに走らず、被災者を支えるような行動を取ってもらいたかったと、今でも思います。

日本は、戦後、高度経済成長を成し遂げ、世界の先進国の仲間入りを果たしましたが、敗戦後は、世界の最貧国にまで堕ちました。国土は戦災によって焼かれ、配給も滞り、人々は飢えに苦しみ、多くの人が敗戦後に亡くなりました。戦争が終わったのに、だれにも看取られる死んで行く…という辛さは、味わった人間にしかわからないでしょう。それでも、国が再生できたのは、日本人に昔からの「道徳心」が残っていたからです。自暴自棄にならず、我欲だけに走らず、貧しいながらも近しい人と助け合い、励まし合いながら生き抜いたことで、今の日本を創ったのです。しかし、それは政府の方針でも占領軍(GHQ)の命令でも、マスコミのキャンペーンでもありません。昔から受け継いできた日本人の「心」がそうさせたのです。しかし、その「日本人らしい心」も放置すれば、いずれは廃れ、眼に見えない「心」などより、現実的な「物」に執着する日が来るように思います。「物欲」にはキリがありません。しかし、人間的な心の成長は、自分を冷静に見つめ直すきっかけになります。「生涯100年時代」と言われますが、100年後、自分はどんな人間に成長しているのでしょう。そこまで生きても「我欲」から抜け出せないとすれば、あまりにも無惨としか言いようがありません。私自身、どんな老後の運命が待っているかはわかりませんが、「清楚な心」を持つ老人になっていたいと思います。

今、日本社会は中流意識が消え、「格差社会」が訪れました。子供たちを見ても、貧困に喘ぐ家庭の子供が確実にいます。親の介護をしなければならない子供がいます。いじめを受けて苦しんでいる子供がいます。障害や病で苦しんでいる子供がいます。それでも、子供たちは純粋です。健全に育つ環境さえ整えば、子供の心は歪んだり汚れたりすることはないのです。たとえ、いじめをしてしまった子供でも、その子供の生活環境さえ整えば、心優しい子供に戻ることだってできるのです。「心が清楚」であることは大切なことですが、それは一番に「大人」に求められており、政治や経済、教育に求められていることを忘れてはなりません。多くの日本人は、社会が益々発展し、さらに日本が豊かになることを望んでいるわけではありません。普通に生活ができ、みんなが思い遣りを持って仲良くできる社会を望んでいるだけなのです。そうした「普通」の日常があれば、日本人はいつも「清楚な心」を取り戻すはずです。子供たちには、日本人が昔から受け継いできた日本人らしい「道徳心」を、大人たちが身を以て教えてあげて欲しいと願うばかりです。

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