「日本海軍」の真実 ー大東亜戦争外伝ー 矢吹直彦
昭和20年8月15日の敗戦の結果、大日本帝国海軍は実質、消滅しました。あれから、80年近い年月が経過し、今、日本には「海軍」なる組織はありません。辛うじて、その伝統は海上自衛隊に引き継がれていますが、自衛隊が「国軍」にならない以上、海軍の伝統が受け継がれているというのは、飽くまでも建物や形式的なものでしかないように思います。戦後、日本海軍は何故か「善玉」のような扱いを受け、敗戦の責任の多くは「陸軍」に負わされました。誠に、不公平な扱いで、当時の関係者は泣いていることと思います。GHQが行った東京裁判に於いても、A級戦犯者の処刑者リストに海軍関係者はいません。アメリカが言う「太平洋戦争」は、その多くが海軍の戦いだったはずなのに、敗戦の責任を負う者がいなかったということは、どういうことなのでしょうか。開戦時の海軍大臣や軍令部総長などは、確か、昭和天皇の前で「開戦やむなし」と奏上したという記録があります。あの時点で、「米英との戦争はできない!」と明言しておれば、戦争はできなかったはずです。それを「戦うも亡国、戦わざるも亡国…」などと、言葉遊びのように言っておきながら、敗戦の責任を感じていないようなその態度は、あまりにも無責任です。陸軍では、阿南惟幾陸軍大臣を始め、多くの軍人が敗戦の責任を負って自刃しました。海軍では大西瀧治郎中将の自刃が有名ですが、あれは敗戦の責任ではなく、「特攻隊」への責任を果たしての切腹です。海軍の重鎮だった永野修身、米内光政、嶋田繁太郎、及川古志郎等は、何を考えていたのか…。彼らの責任が問われないまま、先の戦争の総括はできません。そこで、私論ではありますが、かつて日本に大きな勢力を持っていた「日本海軍」の問題点を分析し、彼らの責任問題を問いたいと思います。
1 日中戦争を拡大した米内光政
私の手元に「多田駿伝」という本があります。副題に「日中和平を模索し続けた陸軍大将の無念」と書かれています。この方は、現代では、あまり有名な軍人ではありませんが、日中戦争が拡大することを虞れ、海軍や近衛首相と対立しながらも不拡大を主張し続けた人物です。彼は、当時「参謀本部次長(中将)」という統帥部の責任を負う立場にありました。このときの陸軍参謀総長は皇族の宮様でしたから、実質、陸軍における最高責任者ということになります。日中戦争は、もちろん陸軍の担当の戦争ですから、用兵を司る参謀本部が「NO!」と言えば、軍隊をこれ以上大陸に派遣することはできません。しかし、当時の近衛文麿首相や米内光政海軍大臣は強行に派兵を主張し、政府と参謀本部が対立していました。しかし、陸軍大臣が派兵案に賛成し、近衛首相が敵の首領である蒋介石に対して、「相手(対手)にせず!」という声明を出されたことで万事休す。日本は、泥沼の日中戦争に引き摺り込まれていきました。多田駿参謀次長は、涙を流しながら反対論を主張し続けたといいますが、会議の途中から強硬派に寝返った米内光政海軍大臣の勢いもあり、「内閣を崩壊させないため…」という消極的な意見で、多田は涙を飲んだのです。そして、多田中将は大将に昇任するとすぐに「予備役」に回され、大東亜戦争開戦の会議には加わることができず、そのまま引退してしまいました。もし、このとき、参謀本部案がとおり、粘り強く蒋介石政府と交渉を続けていれば、米英ソ等の謀略に嵌まることなく、日米戦争は起きなかった可能性が高かったと思います。
この米内光政という人物は、まさに「日本海軍の謎」と呼んでも不思議ではない人物で、一見、「平和主義者」のように見えますが、海軍の「親ソ派」の中心人物ではないかという疑いが持たれています。彼の経歴を見ると、若い頃から海外駐在武官等の経験を積んでいますが、その多くがソビエト連邦とその周辺諸国が中心です。まして、「恋多き男」として有名な人物ですので、彼の国でどのような謀に与したかは不明ですが、疑ってかかるべき軍人の一人です。現在でも、外国に駐在したような場合、いわゆる「ハニートラップ」には要注意だそうですが、だれもが抑制的に動けるとは限りません。歴史書や伝記に詳しく書かれることはありませんが、「酒、博打、女性」は、どんな世界でも要注意なのは変わりません。当時の日本は、幕末の英雄たちを見てもわかるように、「酒」も「女」も男たちの特権だと思う意識が強いのです。そういう特権意識を持った高級軍人が、清廉潔白であるはずがないのです。米内という男は、そういう意味で、国内でも「酒と女」の噂は絶えない人物でもありました。海軍部内では、「米内には、ソ連に隠し子がいるらしい…」という噂さえあったといいます。あの山本五十六も愛人が幾人かおり、そのラブレターも公開されています。その上、ギャンブル好きでアメリカでも相当に遊んだそうですから、脇の甘さは米内以上かも知れません。
また、米内は開戦前から近衛首相の書記官長であった「風見章」とよく会っていたという証言があります。その席には、米内の子分の山本五十六も同席していたようです。風見は、有名な共産主義者で左翼の大物です。風見の盟友は、ゾルゲ事件で処刑された尾崎秀実で、彼らは近衛の側近として日中戦争の拡大に大きな力を及ぼしました。ゾルゲは、日本でスパイとして処刑されましたが、ソ連や今のロシアでは「英雄」として、賞賛される人物なのです。その功績は、「日本を対ソ戦に向かわせなかった」ことによるものです。第二次世界大戦でドイツがソ連に侵攻したとき、外務大臣の松岡洋右は「北進してソ連を撃つべし!」と主張しましたが、昭和天皇は「それでは、国際信義に悖る」と北進することを拒否しました。しかし、冷静に考えれば、元々、ソ連に国際信義などは存在せず、日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州や樺太に攻めてきたわけですから、国際情勢を見極めて判断する政治力が必要だったのです。
近衛文麿という人物は、日本における貴族の頂点に立つ身分を有し、いわゆる「藤原氏」の直系です。そのため、昭和天皇の前でも椅子に座り、足を組むといった無礼な態度で接するなど、恰も「天皇と同格」以上の振る舞いを見せていました。もちろん、生まれながらの貴族ですから、苦労知らずの坊ちゃん育ちで、謀を巡らすことの大好きな男です。そのため、当時の流行でもあった共産主義や社会主義に傾倒し、その仲間が風見章であり、尾崎秀実だったのでしょう。そんな男が日本の総理大臣に指名されたわけですから、日本が悲劇的な結末を迎えるのは必然だったのかも知れません。今では、共産主義がどのようなものかは歴史が証明していますし、現在の共産主義国の状況が報道されていますので、国民でそれを支持する人は少数ですが、当時は、社会不況と相俟って「民主主義の限界説」まで出るような時代でしたから、インテリほど共産主義に傾倒していったようです。おそらく、米内や山本もそんな一人だったと思います。
米内が近衛を支持し日中戦争を拡大したのも、風見などの入れ知恵があったと推測できます。風見や尾崎は、ゾルゲを通じてソ連からの指示を受けて行動していましたので、親ソ派の米内にしてみれば、日本よりも「ソ連」という国に愛情を持っていたのかも知れません。彼が起こした南京等への「渡洋爆撃」作戦は、無差別攻撃として非難され、原爆投下の言い訳に使われています。終戦時の敗戦の責任を負って自刃した阿南惟幾陸軍大臣が、最期に「米内を斬れ!」と部下に命じた話は有名ですが、阿南は、きっと米内の行ったことがわかっていたのだと思います。今さら、それを証明する手立てはありませんが、海軍が平和主義者で、戦争反対を叫び続けたのは「嘘」だということを知らなければなりません。日中戦争が泥沼化しなければ、日米戦争に拡大することはなく、あの悲劇的な最期を迎えることもなかったのです。そういう意味に於いては、海軍も米内光政も責められて当然だと私は思います。
2 軍縮を拒否した海軍の艦隊派
第一次世界大戦が終結すると、世界は一気に「軍縮」へと進んで行きました。これは、大戦によって各国は莫大な戦費を使った上に、国の荒廃と復興という問題が起きていたからです。敗れたドイツ国民は、まさに塗炭の苦しみを味わうことになりました。しかし、その中で日本だけは、海軍の駆逐艦部隊を地中海に派遣しただけで、戦勝国の仲間入りを果たすことができたのです。そのため、太平洋に持っていたドイツの植民地が国際連盟の決議により、日本が「委任統治」という形で支配することができました。まさに、「濡れ手に粟」状態です。本来、こういうときこそ「勝って兜の緒を締めよ!」の格言が生きなければならないのですが、残念なことに日本は「軍縮」の道を選択することができませんでした。それは、軍人たちの「地位向上」という欲望のためです。大正時代になると、世界大戦を経験した世界の人々は、「戦争」や「軍隊」に対してよいイメージを持てなくなっていました。日本でも、日露戦争は過去のものとなり、街中で軍服を着て歩くのも憚られたと言います。そんな中で国際社会は、ワシントン軍縮会議、ロンドン軍縮会議と海軍の軍縮問題について話し合い、日本海軍にも米英比率6割という軍縮を求めてきました。日本政府にとっては、専守防衛を基本とする海軍において、米英比率6割は、けっして飲めない条件ではありませんでしたが、海軍の一部の「艦隊派」といわれた軍人はこれに猛抗議を行い、「統帥権に政府が口を出すな!」という騒ぎになったのです。要するに、軍艦を建造することで海軍の国内での力を誇示し、陸軍に対抗しようとする政治的野心家たちが軍縮を拒否したのです。その言い訳が、「仮想敵国アメリカに対抗するため」ということですから、話になりません。だれが考えても当時のアメリカに勝てる国力などありはしないのに、陸軍がロシアを仮想敵国にした対抗上、海軍は「アメリカ」と言っているだけのことで、だれも本気ではないのです。そうした怪しげな言い方をするところが、海軍のいやらしいところなのです。
それでも、海軍部内には常識的な軍人はいました。日露戦争で東郷平八郎の参謀長を務めた元総理大臣の加藤友三郎です。彼は、海軍の良識派として部内をまとめ、国際協調の重要性を説いていました。それが、彼が亡くなると一気に頭の単純な過激派が台頭し「艦隊派」なる派閥を作ったのです。どこの組織でも、過激なことを声高に叫ぶ連中は厄介です。「失敗を恐れるな!」とか、「アメリカなんかに負けるな!」などという声は威勢がよく、一見格好良く見えますが、意外と何の考えもなく時流に乗っただけのことが多いものです。今でも「中国のバスに乗り遅れるな!」と各企業は碌に考えもせずに中国に進出し痛い目に遭っています。思考の浅い人たちにはありがちな行動で、それを抑えることは本当に難しいのです。結局、軍縮のロンドン会議の提案を日本政府は蹴ることになり、日本はアメリカとの建艦競争に巻き込まれることになったのです。
日本の国家予算で、そんな無茶なことはできないのですが、陸海軍共に「統帥権」を持ち出し、「政治と軍事は、一緒にはできない!」と国家予算がどうなろうと関係ないとばかりに無茶な要請ばかりをするようになりました。今考えれば、戦艦大和や武蔵を建造する意味があったのでしょうか。結局は、子供の我が儘なおねだりと一緒で、海軍の「力の誇示」だけのために、国家予算の半分もつぎ込む嵌めになったのです。これでは、国民の生活は成り立ちません。この当時の軍人には、「国民」は不在なのです。これによって、海軍部内は艦隊派の思うがままになり、海軍の「条約派」と呼ばれた常識的な軍人が多く海軍を辞めさせられました。艦隊派にも条約派にも属さないような態度だった山本五十六は残り、山本の盟友で、「海軍の宝」とまでいわれた堀悌吉中将は予備役に回され、海軍を追われたのです。堀は山本の盟友だと言われていますが、よく考えてみれば、思考の足りない山本を諫めて良識派にしようとして面倒を看ていたのが堀悌吉だったと思います。その堀が海軍からいなくなると、山本に助言する者がいなくなり、勝手な作戦を思いつくことになるのです。こうして、海軍は「艦隊派」が牛耳る軍隊となり、口先だけは威勢のいい軍人が権力を手にして戦争へと突き進んで行ったのです。
3 最悪な結果を招いた「真珠湾攻撃」
日米戦争の最大の失敗は、真珠湾攻撃を行ったことにあります。立案者は、もちろん連合艦隊司令長官の山本五十六大将ですが、当初から軍令部は反対していたのですから、組織上、それをしっかりと拒絶する態度が軍令部には必要でした。当時の永野修身軍令部総長は、「山本に辞められては困る…」と言って、軍令部の職員が反対していたにも拘わらず決裁印を押したといわれています。まさに、組織としてあるまじき行為です。何でも「よきに計らえ」では、組織は成り立ちません。永野という人物は、若い頃は「切れ者」で通っていたようですが、軍令部総長のころには少しぼけてきたようです。物事を深く考えることができず、何か問題が起きても、「政府が…」とか、「山本が…」とか言い訳をして責任逃ればかりしていました。敗戦後は、A級戦犯に指名されましたが、巣鴨刑務所の独房で寒さに震え、肺炎を拗らせて獄死しています。彼の残した日記は、何処かに紛失したまま現在も見つかっていません。何か永野には生きていて欲しくない勢力によって謀られた可能性すら感じます。とにかく、永野のような緊張感の足りない人間でも軍のトップに座れるのですから、大正時代から昭和の前期は、こうしたぬるい人間関係で政治が動いていたことがわかります。現代もそうですが、たとえ創業社長といえども、社員がすべて「イエスマン」になったら終わりです。「イエス」と言うにしても、「社長命令」で済ませるようでは、その会社は長くはありません。イエスの意味を考え、おかしければ再度説明を求め、「ノー!」と言える部下がいなければ、正しい道を選択することはできないのです。そういう意味で、永野修身も山本五十六は組織に不要な人物であり、二人とも組織のトップとして無能な人物だったということです。
次に、日本海軍はそもそも遠征のできる軍隊ではありませんでした。山本は以前に海軍の航空本部長を務めており、日本の航空機の生産量や搭乗員の数、養成制度などを熟知していたはずなのに、ハワイというとんでもない遠隔地に遠征軍を送ったわけですから、これは、とんでもない暴挙です。理屈としては、「開戦劈頭、敵の主力であるアメリカ太平洋艦隊を叩き、アメリカの戦意を挫く」とか、「常に先手を奪って、戦争の主導権を握る」などがあったようですが、どれも上手くいきませんでした。実際は、アメリカの太平洋艦隊で損害を与えたのは、旧式戦艦と航空機ばかりでした。肝腎の航空母艦は撃ち漏らし、ハワイの港湾施設も無傷でした。これで、「勝った、勝った!」では、日本海軍の分析能力は「最低」です。ましてや、この攻撃を口実にアメリカ国民を怒らせてしまったことが最大の敗戦の原因でした。アメリカ人が、自分の横っ面を殴られて黙っているわけがないのです。山本は、「戦意を挫く」などと言っていたようですが、そんなことができないのはアメリカをよく知る山本自身が一番よく知っているはずです。よくも、ヌケヌケとこんな詭弁が言えたものだと驚いてしまいます。「やりたい」が先で、後先も考えずに突っ込んでしまったのか、だれかに入れ知恵され、易々とそれに乗せられたのかはわかりませんが、山本自身が「普通」ではありませんでした。
本来であれば、この大失敗の責任を取らせて山本以下の連合艦隊司令部の幕僚全員が更迭されなければなりません。ところが、日本では何を勘違いをしたのか、提灯で遠征軍を迎えたことで、山本は勝手に「英雄」に祭り上げられてしまいました。実際、山本はわかっていたはずです。その失敗を糊塗するために、次のミッドウェイ海戦やラバウル航空戦を指揮しましたが、それも悉く失敗し、先行きに絶望した山本は、勝手に「戦死する」ことで、現実から逃げ出したのです。その後の日本の悲惨な状況はだれもが承知しているとおりです。
4 稚拙な作戦の数々
最期の「特攻作戦」などを見ると、本当に賢い人間が、専門的に考えた作戦とは到底思えません。あんな作戦を考えるようでは、米英の海軍では、絶対に「不合格」しか貰えないと思います。本来であれば、真珠湾攻撃の失敗の時にすべてを清算し、日本の戦略の原点に立ち返るべきでした。それをしないまま、山本の誤魔化しに乗せられてズルズルと太平洋全域からインド洋、アリューシャン方面まで手を広げ、自滅していったわけですから、海軍の軍人教育は大失敗でした。平和な時代が長く続くと、官僚型の優秀な人材がよく見えるものですが、彼らは過去問は得意なのかも知れませんが、新しい発想で考える努力もせず、それを実行する勇気もありません。所詮は、その場の評価と自分の出世しか興味がありませんので、泥船とわかっていても、自然に沈むのに任せて乗り続けるしかなかったのです。
山本五十六は、近衛文麿首相に「一年や一年半は、存分に暴れてご覧に入れる」と口走ったそうですが、それは飽くまで「短期決戦」を採った場合のことで、山本が行った作戦は、中途半端な「多方面作戦」ばかりでした。真珠湾で航空母艦を撃ち漏らした山本は、内心大いに焦ったと思います。「これからの戦争は、航空戦で制空を奪った方が勝つ!」と豪語していた山本ですから、旧式の戦艦をいくら沈めても意味がないことは百も承知していました。ところが、先の見えない海軍の幹部や国民の多くは、「戦艦巨砲主義」の頭ですから、旧式だろうが大国アメリカの戦艦を沈めたことで「勝てるかも知れない…?」という淡い期待を抱いてしまいました。それは、昭和天皇ご自身も同じです。なぜなら、昭和天皇は、真珠湾攻撃の二人の隊長を皇居に招き、詳細な説明を受け、さらに誉められたと言うことですから、現実が理解できてはいませんでした。ただ一人、山本自身が「これは、やばいことになったぞ…」と青ざめていたのです。そして、次に打った手が「ミッドウェイ作戦」でした。
この作戦もアメリカ軍の航空母艦を太平洋から一掃するために打った手ですが、これまた、中途半端な作戦でしかありませんでした。なぜなら、序でに北方の防衛のために、アリューシャン作戦を実施し、戦力を分散させてしまったのです。さらに、ミッドウェイ攻撃隊に、ミッドウェイ島の攻略なのか、敵の航空母艦の殲滅なのか、どっちつかずの作戦を命じたために、どちらも手に入ることなく、日本の正規航空母艦4隻があっという間に沈められてしまいました。山本が言う「制空権の確保」どころか、日本にとって「虎の子」の正規空母4隻の喪失は、敗戦に匹敵するダメージでした。ただでさえ、熟練搭乗員は少なく、無駄にはできない貴重な戦力だったはずなのに、特に救出部隊を編成するでもなく、闇雲に突っ込ませたために、瞬く間に熟練搭乗員は枯渇し、開戦1年で日米の勝敗は決したようなものでした。それでも、またラバウルなどというニューギニアのちっぽけな航空基地を部隊に「ガダルカナル」島を巡る攻防戦に引きずりこまれ、開戦以来の戦力をすべて失ったのです。結局、山本五十六の作戦はどれも大失敗に終わり、自分はさっさと自殺でもするように敵陣に乗り込み、戦死してしまいました。まさに「無責任」の極地です。
山本五十六の戦死後は、そもそも、戦力が整わないのですから、日本海軍がアメリカ海軍に勝てる要素はありません。あるとすれば、たとえば、マリアナ沖海戦で「アウト・レンジ」作戦などを採らずに、アメリカ艦隊と差し違える覚悟で、艦隊と攻撃機を突っ込ませていれば、相当の戦果が期待できたかも知れません。しかし、日本の完全勝利を目指すような作戦ばかりを採用する日本海軍の指揮官に、そんな度胸のある軍人はいません。日本人は、どこまでもけち臭く、「勿体ない」といつも戦力を「小出し」にしては、やられることの繰り返ししかできませんでした。もうひとつは、フィリピンのレイテ沖海戦です。「謎の栗田艦隊の反転事件」として有名になりましたが、レイテ島に上陸するために集まったアメリカ軍の輸送船団を撃滅するために、最後の連合艦隊を送ったにも拘わらず、何を血迷ったのか、指揮官の栗田健男中将が、戦艦大和に座乗していながら、レイテ湾を目前にして「反転命令」を出して引き揚げてしまったのです。こんな指揮官は、本来なら国家反逆罪で銃殺刑ものです。もし、このとき一緒に大和に乗っていた宇垣纏中将がクーデターでも起こして栗田とその幕僚を射殺してでも指揮権を奪えば、間違いなくレイテ湾に戦艦大和は突っ込んだはずです。そうすれば、その巨砲を以てアメリカ輸送船団と太平洋方面司令長官のマッカーサー大将を葬ることができたのです。栗田という男は、戦後も黙して語らずの態度で、弁明すらしなかったと言われていますが、周りから散々叱られ、ばかにされているうちに何も喋らなくなったのでしょう。こういう男を「国賊」と言うのです。
日本海軍という組織は、体裁だけは立派に整っていましたが、幹部教育は最低でした。優秀な頭脳を集め、海軍兵学校と海軍大学校で鍛えたと自慢していますが、教える教員側が無能では、教わる学生が育つはずがありません。せめて、軍縮の際に、条約派と呼ばれた提督たちが現役で残っていたら、あんな惨めな戦いにならず、悲惨な敗戦もなかったと思います。本物の人材を捨て、無能な男たちが権力を奪い、戦略も戦術もない作戦を考えれば、とどのつまり、最後は「特攻」しかなかったのでしょう。それでも、どうしようもない幹部はともかく、無謀な戦であっても「国難」に殉じた若い初級指揮官や下士官兵たちは、勇敢であり、世界に誇れる「英霊」であったと思います。
5 勇敢だった若い将兵
アメリカ海軍に曰く、「日本海軍は、幹部は無能だが、初級指揮官や下士官兵は世界一勇敢で優秀な兵士だった」。これは、まさに日本海軍を正確に言い表した言葉だろうと思います。どの戦場においても、戦った兵たちは優秀で勇敢だったと思います。戦後、日米の航空戦を独自の視点で描いた坂井三郎氏は、その著書「大空のサムライ」の中で、自分の能力を最大限に生かすための努力を惜しまない様子を書き記しています。「飯を食うのも、寝るのも戦いに勝つためだ!」と若い航空兵を叱咤する場面がありますが、彼らは死ぬために戦ったのではなく、最期まで戦うために必死に「生きよう」としたのです。ガダルカナル航空戦の初日に「零式艦上戦闘機」に搭乗した坂井氏は、僅かな判断ミスで頭部を負傷し戦場を離脱しましたが、その生きようとする凄まじい執念は、読む者を感動させます。そこには、日頃鍛えた操縦技術と精神力、判断力、冷静さがあったことは当然です。しかし、日本海軍には「人命尊重」の価値観はなく、「花と散る」といった比喩があるように「潔く死ぬ」ことばかりを求め、優秀な兵士を次々と無謀な作戦で消耗させていきました。つまり、日本海軍は、見栄えのよい形は整えたがりますが、「戦争に勝つ!」という執念もなく、平和ぼけした頭で戦争をしていたのです。どうも日本人は、権力を持つとそれに甘え、自分の所属する組織と自分の身を守ることばかり考える人間になってしまうようです。今の日本も当時の日本海軍と同じように見えます。日本の政治家は、最初に選挙に出たころは「国のため」に尽くそうという志はあったのでしょう。しかし、政党に所属し生活が安定すると、その既得権を離したくなくなり、国のことより自分が優先されてくるように思います。そして、政党の中の自分の地位が気になり、その中での出世が自分の目標となってくるのでしょう。日本海軍は、そんな思考から抜け出すことができずに「敗戦」によって日本海軍は解体され消滅してしまいましたが、それでも、生き残った幹部には、反省という言葉はあまりなかったようです。言い訳がましい著作も多く出ましたが、「大空のサムライ」ほどの人気は出ませんでした。ましてや、自衛隊発足に便乗してその幹部になり、国会議員にまで昇った特攻作戦推進派の幹部もいます。そこには、「恥を知る」武士道はなく、単なる「卑しい」人間の姿が見られました。彼らは、自分の無謀な作戦で戦死した若い将兵のことをどう思っているのでしょうか。
6 なれ合いの組織
日本海軍の最大の問題点は、上級幹部たちの「なれ合い体質」でしょう。その第一が、山本五十六司令長官の撃墜事件(昭和18年4月18日)です。あのとき、ラバウルは非常に危険な戦場でした。一応、制空権は日本軍にあるように見えましたが、連日、アメリカ軍の攻撃に晒され、ラバウル基地にも多くの敵機が来襲する有様でした。そんな中で、山本は自分の意思で「最前線のバラレ基地を視察する!」と言い張るのです。その上、「護衛戦闘機は、無用!」と、自分の立場も弁えず、現地部隊を混乱させていました。周囲の幹部たちも「危険なので、中止するよう…」と要請しましたが、山本はそれを断固拒否します。おそらく、無事に帰還出来る確率は50%くらいだと、だれもが考えていたのではないでしょうか。作戦中でもあり、多くの護衛戦闘機は出せませんが、それでも6機の零戦が護衛に就きました。ところが、この視察計画が、あっさりとアメリカ軍に漏れてしまうのです。それは、「暗号解読」というより、綿密な計画を現地に「平文」で打電しているからです。それに気がついた参謀の一人が、打った通信士を叱ったという記録がありますが、その通信士を責めるのはお門違いです。当然、上司の命令で打電しているのであり、命令を受けた兵隊に罪はありません。
日本人は、何でも「計画どおり」に進行するのが好きで、こんな危険な戦場でも偉い人間の視察となると、向こう側の準備の関係もあり、「計画を報せて置くことで、長官を遺漏なく迎えることができるだろう」と平和ぼけの頭で考えてしまうのです。この思考では、戦場で臨機応変に対応できないのは当然です。危機管理ができないと言うのか、「縁起が悪い」とでも思うのか、どちらにしても戦場で戦っている人間の思考ではないということです。事実、アメリカ軍はこの暗号電文を解読し、山本機を撃墜すべく計画を練っていたわけですから、甘いのは日本海軍の方でした。結局、山本五十六が乗った一式陸上攻撃機は、撃墜され山本は戦死しました。これも、特に綿密な調査を行わず、責任を追及することもなく、山本五十六は「国葬」となり「元帥」に昇進して戦意昂揚に利用されたのです。この事件は、海軍では「甲事件」と呼び、だれの責任も問わず、有耶無耶のまま放置され、暗号も「解読されていない」という勝手な結論を出して終わりにしてしまいました。もし、この時点で、山本五十六自身の責任を追及し、計画を実行した責任者を処罰していれば、その後の戦い方も違うものになったはずです。責任を追及すれば、「死者に鞭打つ行為だ!」とか、「山本長官に泥を塗るのか!」という浪花節的な情緒で誤魔化してしまうのです。まして、「国葬」などといういい加減な戦意昂揚の手段に使うという非礼は、あってはならない行為だと思います。それを指示したのは、あの米内光政でした。
次に問題になったのが、海軍「乙事件」です。これは、山本五十六が昭和18年4月18日にブーゲンビル島上空でアメリカ軍機に襲われて戦死した後、約一年後の昭和19年3月31日のことでした。山本の次の連合艦隊司令長官に就任したのが、古賀峯一大将です。古賀は、国際情勢も理解した穏健派の将軍でしたが、航空戦の指揮を執った経験はありません。実際に連合艦隊司令部に着任すると、既に日本の海軍力が、かなり低下していることに気づかされました。山本時代に広げすぎた戦域では補給もままならず、日本の国力で支えきることは不可能なのです。おそらく、山本は「短期決戦」を考えて、常に先手先手を打っていったと思いますが、その「先手」が「必勝」にならなかったわけですから、どうしようもありません。そこで、戦線を縮小するために暴風雨の予報が為される中、パラオからフィリピンのダバオへと二式大型飛行艇で移動中、遭難してしまうのです。結局、機体も見つからず、古賀は連合艦隊の指揮を碌に執れないまま殉職してしまいました。そのとき、別の飛行艇に乗っていた福留繁参謀長らは、辛うじて不時着した飛行艇から脱出しましたが、なんとフィリピンの現地ゲリラの捕虜になってしまったのです。普通ならこの時点で自決を選ぶのが日本軍人の慣習でしたが、福留中将たちは、その事実を認めませんでした。それだけでなく、国家機密の「暗号書」がゲリラの手に渡ったのを薄々気づきながら、それも口を閉ざし、日本を窮地に陥れたのです。それでも、海軍上層部はこれを不問に伏し、福留等は海軍内部で出世していくのですから、まさに「なれ合い」の極地でした。当然「暗号表」も変更されず、「大丈夫だろう…?」という自分たちに都合のいい解釈をしてお終いです。お陰で、海軍の暗号はアメリカ軍にすべて解読され、多くの若い将兵が無駄に戦死していったのです。
この「なれ合い体質」の最後の大問題が、レイテ沖海戦における栗田健男中将以下の幕僚たちの行動です。昭和19年の秋は、日本に取って最後の決戦の秋でもありました。もしも、この戦いで敗れるようなことがあれば、それは日本国の「敗北」を意味します。それくらい、重要な作戦が発令されていたのです。この作戦は「捷一号作戦」と呼ばれ、連合艦隊の戦艦大和、武蔵を初めとした戦闘艦のほとんどが参加し、航空兵力も基地航空隊を主力として、フィリピンのレイテ島に上陸してくるアメリカ軍及びそれを護衛する機動部隊と雌雄を決しようと計画されたものでした。最後の連合艦隊司令長官になる小沢治三郎中将は、なんと、正規空母「瑞鶴」を囮に使い、ハルゼー大将率いるアメリカ機動部隊をフィリピンの北に誘い出し、その隙に戦艦群をレイテ湾に突入させようと図ったのです。日本の艦隊は、四方からレイテ湾を目指し、とにかく「レイテ突入」を果たすべく犠牲は問いませんでした。しかし、このときも指揮官たちの意思を統一することはできませんでした。依然として、大きな戦力と考えられていた戦艦を「むざむざと輸送船に差し違えさせるとは…?」と消極的な指揮官も大勢いたといいます。彼らにしてみれば、主敵はアメリカ海軍の戦艦や航空母艦であり、輸送船などまったく価値のない雑魚に見えていたのです。
教育とは怖ろしいもので、日本が国として戦争に敗れる寸前の状況下でも、そんな日露戦争時代の思考から離れることができないのです。国が敗れれば、日本海軍も今の地位もすべて失われると言うのに、それでも「戦艦」や「輸送船」といった目標に拘るのですから、安いプライドは本当に邪魔になります。そんな指揮官ならさっさと更迭して若い優秀な人間に指揮を執らせればいいようなものですが、そこが平時の思考で、年功序列、ハンモックナンバー(海軍部内の序列)が幅を利かせるのです。その一番面倒臭い指揮官が栗田健男中将でした。彼は根っからの大砲屋です。大和を率いる第二艦隊の司令長官でしたが、この作戦には当初から反対を表明していました。それでも、軍人ですから命じられれば従うのが義務です。しかし、栗田は、後になって連合艦隊の参謀にこう念を押した…と言い張っているのです。「もし、敵の有力な艦隊が現れれば、それに向かっても差し支えないな?」と尋ねると、その参謀は「それは、やむを得ない…」と返答をしたと言うのです。そんなばかな話があるはずがありません。連合艦隊が「最後の決戦」と覚悟を決めて、瑞鶴という航空母艦を囮にしてまで勝利を得ようとした作戦に、そんな曖昧さを認めるはずがないのです。本当に栗田健男という軍人は卑怯な男だと思います。
戦後、彼を庇う意見も見ましたが、すべて「あの状況を考えれば、やむを得なかった…」というばかりで、真実を語ろうとはしません。つまり、最初から栗田健男とその幕僚たちはレイテ湾などに突入して死ぬ気などなかったのです。それを嘘に嘘を重ねて誤魔化し、歴史まで改竄したのですから、本当に国賊以外の何ものでもないと思います。ましてや、あのとき、体当たり攻撃の「神風特別攻撃隊」が編成され、若い航空兵が敵艦に突っ込んでいったのですから、戦艦部隊が敵を目前にして「引き返し」ていいはずがありません。それも、ニセ電報まで作成し、恰も敵艦隊が北に現れたかのような芝居まで打っての行動ですから、人として許されざる行為をした連中です。それでも、海軍は彼らを処罰することはできませんでした。結局、海軍の汚名につながるような不祥事はすべて隠蔽したのです。隠蔽した以上、栗田たちに処分はありません。なんと、栗田は艦を下りると、海軍兵学校の校長に異動になっています。もし、生徒たちがこの事実を知ったらどう思うのでしょう。そんな純粋な生徒たちを前に、教育者になろうと言うのですから栗田という男は面の皮が何重にも厚い男だったと思います。
7 まとめ(近代化されなかった日本海軍)
戦後、太平洋戦争と名を変えた「大東亜戦争」は、次第に多くの国民に知られるようになりました。特に、少年雑誌等に漫画として登場してくると、子供たちの間で一大ブームが訪れたのです。64歳になる私の記憶でも、「零戦レッド」「紫電改の鷹」「烈風」「暁戦闘隊」「0戦ハヤト」などがあり、これらは漫画雑誌から飛び出るようにテレビアニメ化され、子供たちの眼を釘付けにしました。学校の図書館にも坂井三郎氏の「大空のサムライ」の児童向け図書があり、私は何度も借りては繰り返し読んだものです。そして、零戦や海軍の搭乗員に憧れるようになりました。その後は、プラモデルに夢中になり、戦闘機や軍艦を夢中になって作り、友だちと見せ合ってその技術を高め合ったものです。そのうち、太平洋戦史にも興味を持つようになり、真珠湾攻撃から始まる戦争史を詳しく知るようになったのです。大人向けの小説等にも太平洋戦争関連の物が多くなり、阿川弘之氏の「山本五十六」、豊田穣氏の「長良川」、松永市郎氏の「先任将校」などの名作が誕生したと記憶しています。作者は皆、元海軍の士官だった人たちで、彼らの書いた物語から「海軍」という存在を知ったようなものでした。特に豊田穣氏は、自らが海軍兵学校出のエリート将校でありながら、敵の捕虜となるといった稀な体験をされた方で、その苦悩が小説に著されていました。
その豊田氏の著作の中で、兵学校での「殴る教育」を是とした文章がありますが、冷静に見ると、そこに日本海軍の限界があるように感じます。組織にとって上官が部下を殴ると、その上官は気持ちがいいものです。「何も言わなくても、わかってくれた」とでも言うような満足感が生まれます。表面上は、殴られた部下も「はい!」と返事をしますので、心の中は見えません。しかし、殴られた部下にとっては、理不尽な体罰は、「この野郎!」という反発しかないのです。それでも、「上官の命令は絶対!」と教え込まれると反論もできません。これでは、間違った作戦も上官のひと言で採用されることになります。おそらく、明治海軍は、黎明期ということもあって、こうした単純な思考の方が物事が早く進み、便利だったのだろうと思います。しかし、組織が大きくなり、複雑になっているのに、「上官の命令は絶対!」では、進歩も発展もありません。アメリカ海軍では、副長規定の中で、「必ず、上官の命令には反論せよ!」という一文があるそうです。つまり、軍艦の艦長が命令を出しても、副長は、「それは、どうしてですか?」といった問いを上官にするというということです。日本なら、今の会社であっても「生意気な奴だな?」と思われ、嫌われる可能性があります。それを「敢えてしろ!」という軍隊は、さすがアメリカだと思いました。
要するに日本海軍は、見かけは近代化された軍隊を装いましたが、中味は封建時代そのものだったのです。江戸時代、会津藩(福島県)には「ならぬものは、ならぬものです」という教えがありました。しかし、これは子供のころには、躾として大切な教育ですが、立派な大人になってからはどうでしょう。戊辰戦争で戦っている最中、会津の鶴ヶ城の奥では連日、会議が行われていました。年長者の年寄りの意見に対して、若い家老が異論を挟むと、長老たちが「長幼の序」を持ち出したり、「年長者の話を聞くもの」などといった子供時代の「掟」を持ち出して、その意見を採り上げなかったといいます。会津藩存亡の危機でありながら、いつまでも平和な時代の教育を持ち出すようでは、戦いはできません。たとえ、年長者や上官であっても、若い者の意見を聞き、思慮深く考える態度なくして戦ができるのでしょうか。この「平和ぼけ」が会津を滅ぼしたとしたら、指導者たちは反省をするべきです。
日本海軍は消滅し、その面影を残すものは少なくなりましたが、せめて、大学等ではその組織の研究を深め、後世に残して欲しいと思います。日本は「軍事研究」のできない(してはいけない)国だそうですが、そんなばかなことがあっていいはずがありません。間もなく、戦後も100年という時代を迎えます。単に歴史として風化させていいはずがないのです。真実を見つめ直し、評価をしっかりと定めてこそ未来が築けるのではないでしょうか。
完
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