教育雑学13 教師の「寄り添う力」が鍵を握る

日本の教師の本当の凄さは、子供に「寄り添い」ながら指導できる「カウンセンリング(相談対応)力」なのかも知れません。それも、相談だけにとどまらず、「適切な助言」をした上に次の「見守り」段階を経て、具体的な支援にまでつながる「公」の対応までするのですから、フォロー体制としては完璧です。ここまで子供に寄り添って対応してくれる「仕事」が他にあるのでしょうか。外国にも同じような例があるのか知りたいくらいです。もちろん、教師全員がそれを完璧にマスターしているわけではありません。人間性や経験によって差が大きいのも事実です。しかし、多くの教師は、それを「当然の仕事」として受け止め、日々実践しています。教師はよく「カウンセリングマインドを磨け!」と言われますが、教師が捉えている「カウンセリングマインド」とは、「子供を受け入れ、子供の声を真摯に聞き、共感する」ことをいいます。こうすることによって、子供との信頼関係を築き、悩みや問題に素早く対応できるように努めているのです。

最近、学校現場で事件等が起きると、当該教育委員会が「学校にスクールカウンセラーを派遣する」といった報道を聞くことがあると思います。要するに傷ついた子供たちの「心のケアをする」という意味で行われるようですが、何か「特別な配慮をしました」的な匂いがして、少し違和感を覚えます。どうも、日本人は「カタカナ職」と「資格を持つ専門職」に弱いのではないでしょうか。それに「専門職」と聞くと、何か「特別な能力」があるように錯覚しがちですが、肝腎なのは「資格」取得後の経験であって「資格」そのものにそんな力はありません。スクールカウンセラーも単に「心理学」を専門的に勉強して資格を得た人たちであって、「臨床経験」が少ないカウンセラーではどれだけ適切な助言ができるかは、甚だ疑問です。それなら、「教育職」という専門職を長く続けた「教師」には敵わないと思います。それを敢えて「スクールカウンセラーを派遣する」と言うことで、社会の不安を取り除こうとしているのでしょう。それとも、「今の教師には、子供の心のケアなどはできない」とでも考えているのでしょうか。

もちろん、「カウンセラー(臨床心理士)」は、大学・大学院にまで行かなければ取得できない資格ですから、時給も高く、専門職として遇されるのは当然ですが、だからといってそれですべてが解決できるわけではありません。一連の報道の中で言う「派遣する」という言葉に注目してみてください。何か違和感を感じませんか。つまり、「スクールカウンセラー」は、学校に「配置」されてはいないということです。現代は「ストレス社会」と言われるように、大人から子供まで様々なストレスを感じながら生活を送っています。ここ数年来の「新型コロナ感染症」も、世界中の人々の生活を一変させ、制限の多い暮らしは子供たちの自由を奪いました。マスクの着用、会話の制限、外遊びの制限、学校の登校制限等は、子供を健全に育てるための「自由に、のびのびと…」という条件にまったく反しています。おそらく、この後遺症は今後大きな社会問題となっていくと思われます。現実に、不登校と呼ばれる「学校に登校できない子供」の数は増加するばかりで、子供たちの「心のケア」は喫緊の課題なのです。

しかしながら、その「スクールカウンセラー」なる心理の専門職が、学校に配置される見通しはまったくありません。現在も、辛うじて中学校に週に1~2回程度派遣される程度で、小学校には「たまに」来て相談業務に当たる程度です。この程度では「いなくても同じ」と感じている教師は多いはずです。これでは、そのカウンセラーの人柄や人間性、能力などがわからず、管理職も適切な助言ができません。名目上は「小中学校に派遣している」のでしょうが、実際が伴っていないのです。そして、未だに事件等が起きると「派遣する」でお茶を濁すのが役所(教育委員会)の通例になっています。もちろん、予算の関係上、そうせざるを得ないのは十分理解しています。国が動かないのですから、各自治体の教育委員会でも忸怩たる思いに駆られていることでしょう。もし、心理学を専門に学んだ「スクールカウンセラー」が、教師と同じように、各学校に「配置」されていれば、教師より遥かに専門的な「相談業務」ができると思います。時代はそれを望んでいるのです。

そもそも「スクールカウンセラー」という職は、先進国では当たり前に聞く話です。当然、各学校に配置されていて然るべきですが、それが未だに実現できないのは、政府の怠慢以外の何ものでもありません。権力の側に立つ者は、常に現場の状況を把握し、現場より先に見通しを持って「作戦」を練っていなければならないのです。先の大戦の時も、日本の作戦は本当にお粗末で腹立たしいことばかりでした。「戦略」も「戦術」もお粗末では、権力の側に立つ意味は何処にあるのでしょう。スクールカウンセラー(臨床心理士)は、大学・大学院でしっかりと心理学を学び、臨床経験を積んだ「専門職」です。そして、それが、正規職員として採用され学校に配置されれば、さらに経験を重ね、学校にとって「なくてはならない」存在となり得るのです。

今でも中学校などでは、来校される日を待ち望んでいる子供や保護者はたくさんいると聞きます。派遣されるカウンセラーたちにしても、「もっと、派遣期間が長ければ…」と忸怩たる思いで勤務しているという話を聞きます。正規に採用されないので、彼らはその資格が生かし切れず、その職に就くことを諦め、他の仕事をしている人も多いのです。それが、「事件が起きたから派遣する」では「取り敢えず」感が拭えず、真の実力が発揮できずにいるのが現状です。それに、何も彼らが「特効薬」を持っているわけではありません。派遣されたカウンセラーにしても、その学校の状況や子供、保護者、教職員の実態を把握しないまま相談業務に入れるはずがありません。もし、本気で「心のケア」をやるつもりなら、「スクールカウンセラーを配置する」でなければなりません。そう考えると、「じゃあ、今まで、その役割はだれが担っていたのですか?」という疑問が湧いてきます。それは、もちろん、カウンセリングマインドを学んだ「教師たち」に決まっています。

日本政府(文部科学省)は、「教育」と名の付くものはすべて「学校」に押し付けてきたのが戦後の大きな特徴でした。「押し付けてきた」という言葉が失礼であれば「委任してきた」と言い換えてもいいかも知れませんが、その依存率はほぼ「100%」ではないかと私は思います。そして、そのために今の「学校ブラック化問題」が起きているのですが、逆に言えば、日本の教師はそれだけ「鍛えられた」とも言えると思います。先ほど述べたように、子供の悩みや相談に対応することを専門とする「カウンセラー」の資格を所得するのは、「大学院」まで進学し心理学を学ばなければなりません。その費用はもちろん本人負担ですから、だれもが取得できる資格ではありません。そのため、各学校に配置するとなれば、そもそも「有資格者」の確保ができないでしょう。それに、既に配置されている「教師」にその役割を担わせれば、特別な資格がなくても平凡な「カウンセラー」以上の仕事はしてくれます。ならば、敢えて外国のように「分業」などにする必要がありません。「そんな面倒なことをしなくても、先生にやらせりゃいいじゃないか?」というのが、政府の高官の本音だと思います。私がその立場なら、当然そう考えます。要するに、外国に倣って「スクールカウンセラー」なる資格職を設けても、実際はそれを学校に配置する計画はなく、優秀な「教師」に行わせるのが一番の「策」だったのです。しかし、これからの時代は、もうそんな悠長なことを言っている場合ではありません。「教育を教師にのみ頼る時代」は終わらせなければならないのです。

教育基本法には、家庭、地域、学校それぞれの「教育の役割」が明記されています。その趣旨からすれば、今の日本の教育は「教育基本法」違反の状態が続いているということです。もちろん、家庭や地域では、「精一杯、子供の教育に努めている」と反論されることでしょう。それはよくわかります。しかし、「社会全体」を俯瞰して見たときに、本当に「これでいい!」と言えるのでしょうか。少子高齢化の現在、子供は本当に「国の宝」です。しかし、政治の世界では「子供の教育」に割く予算は先進国の中でも最低レベルで、家庭の教育費は増大するばかりです。政治家はよく「子供たちには、家庭の状況に拘わらず平等に教育を受けさせたい」と言いますが、それなら、高等学校や大学の教育をどう評価しているのでしょう。もちろん、高校や大学が「このままで十分」だと仰るのなら、異論はありません。それなら、日本の高校生や大学生は、先進国の中でも「優秀」な位置にあるのでしょう。そうであるのなら、国民は現状の日本の教育に「満足」し、政府等の「教育施策」に納得しているのでしょう。だとしたら、問題があるのは「義務教育段階」だと断言してもいいはずです。少し皮肉めいた言い方になりましたが、それほど、学校の教師たちは現状に「不満」を持っていることを「権力側に立つ人たち」には、知っておいて欲しいと思います。それでは、そんな現実の中で子供に寄り添い、日々奮闘している先生方のためにも、現実の「教師の寄り添う力」がどんなものなのか述べたいと思います。

1 期待される「学級担任」像

学校に子供を通わせる保護者の多くは、学校に何を期待しているのでしょう。それは、我が子が「健全に育つこと」に尽きるはずです。それは、ほとんど子供の「全人格の形成」すべてを意味しています。たとえば、子供の「しつけ」と称される、人として「当たり前」の生活習慣や道徳性などは、どのくらい家庭で行われるべきなのでしょうか。答えは「その年齢に相応しい生活習慣や道徳性を家庭で身に付けさせる」と言うことです。つまり、小学校1年生であれば「6歳の子供」なりの「しつけ」が行われている前提で学校教育は行われています。したがって、教職員の配置も、それが前提となって人数が決められ、学級の定数も定められているはずです。つまり、小学校1年生は、学級「30人」以内であれば、担任教師一人で指導が可能という判断が国(文部科学省や財務省)にあるということです。それでは、「6歳の子供の発達程度」とは、どの程度を言うのでしょう。①集団生活を営むことができる。②教師の指示を理解し、素直に聞くことができる。③45分間の授業を座席に着いたまま受けることができる。④みんなで協力して作業を進めることができる。⑤自分の身の回りの片付けができる。⑥一人で着替えや用便ができる。⑦一人で食事を摂ることができる。⑧善悪の判断がつき、自ら行動を律することができる。⑧一人でも「安全」を確認して登下校ができる。⑨思い遣りなどの基本的な道徳性が身についている。⑩ひらがな・カタカナの読み書きができる…等。一見、簡単なように見えますが、これだけの項目を完璧にしつけられた子供はどのくらいいるのでしょうか。そして、家庭ではこれらができるような「しつけ」が行われているのでしょうか。もし、この1割でもできていなければ、教師は、それを入学後に「学校」で指導しなければならなくなるのです。

もし、この割合が増え続ければ、日本の「学校教育体制」は崩壊します。なぜなら、今の学校は、「就学前の子供のしつけは、家庭が行う」ことを全体にして体制を整えているからです。もし、その前提が崩れている兆候が見られるのであれば、国は責任を持って就学前の「家庭教育状況」を調査し、実態を把握しておかなければならないはずです。しかし、そんな調査を実施したという話を聞いたことがありません。もちろん、それが「個人情報保護」の観点から「できない!」ということもわかります。それでも、保育園や幼稚園に調査をかければ、統計的な数値は出るはずです。最近、保育園での不適切な「育児」が問題になりましたが、この問題の背景は、すべて「保育園」や「保育士」側にだけあるのでしょうか。

今では、あれほど人気だった「保育士」のなり手がいないという状況だそうです。学校の教師も保育士も「なり手がいない」では、日本の幼児教育も学校教育もかなり「危険」な状況に陥っていることになります。確かに「家庭」は、完全に国民に任された「プライベートな場」でしょう。しかし、児童虐待の著しい増加、DV問題、貧困家庭の問題、片親家庭の増加…等を考えれば、これまでと同じように「聖域」でいいのでしょうか。教育基本法に謳われているように、「教育の第一義的責任は家庭にある」のです。その「家庭」が壊れようとしている今、そこに支援の手を差し伸べなければ、少子化の問題も幼児教育・学校教育の問題も解決しないと思います。「子供は国の宝」と言うのであれば、一日も早く「子供を守り育てる」法整備が待たれます。

今、日本は、「教育に携わりたい」と願う優秀な人材から見放されようとしています。本来、人間は「子育て」や「教育」を尊ぶ感性がありました。なぜなら、昔であれば、生まれた子供が立派に成人になる確率が低く、多くは幼い頃に亡くなってしまうからです。大切に育てていた我が子が、病や事故であっけなく死んでしまうほど悲しいことはありません。だからこそ、「子供は大切に育てよう」と社会全体で支援していたのです。それは、もちろん「制度」などではありません。日本人にしてみれば、それは「当たり前」の行動であり、「そうしなければ、子供が育たない」といった危機意識もあったはずです。おそらく、それは「本能」に近い感覚だったと思います。私も人の親になって、我が子はいつまでも愛おしく、離れていても、何処かで「見守っている」意識が強くあります。言葉は交わさなくても、子への愛情はずっと持ち続けることでしょう。「教え子」に対する感情も、実は、それに近いものを感じているものです。もちろん、我が子ではありませんので、生涯にわたって心配しているわけではありませんが、時折、「あいつら、元気にしているかな?」とか、「〇〇は、どうしているんだろう?」などと思うことがありますので、他人とはいえ、一緒に過ごした「時間」は、私にとっても大切な「宝物」になっているのです。

教育というものは「ものづくり」と違って、短期間で結果が出るものではありません。たとえ、結果が出たとしても、教師の影響力がその人間にとって「どの程度のものだったか」を計る術はないのです。私は、優秀な人ほど「一人で育ったように見せる」傾向があるように感じていますが、それは、反面、優秀な人ほど「寂しさを人一倍味わってきた」のかも知れないと思っています。なぜなら、優秀な人は、親や周囲の期待も大きく「立派な子」を演じなければならないからです。兄弟でも年長の兄や姉は、親から「お兄ちゃんでしょ!」とか、「お姉ちゃんだから、我慢して!」などと言われて育つわけですから、何処かで「演じ」なければ、苦しくて仕方がありません。それでも、少しだけ親にゆとりができたとき、「いつもすまないねえ…」とか、「ありがとうね…」などと言われて頭のひとつも撫でてもらうと、本当に嬉しいものです。子供の感性に「できる・できない」は関係ありません。年齢相応の感性があるだけで、賢いから年齢以上の「感性」を持っているわけではないのです。それでも、自分の「感情を抑制する能力」が高いだけに、親や教師にも本音を見せずに振る舞う「芝居」ができるのです。だから、「一人で育ったように見せる」のでしょう。

子供を預かる教師の中でも「学級担任」の役割は大きく、保護者も担任に期待し、できるだけ応援しようと思っている人がほとんどです。しかし、その担任の行動があまりにも理不尽であったり、子供の成長を阻害するようなものであったとしたら、保護者の落胆は大きく、担任批判、学校批判になったりすることもよくわかります。最初の期待が大きいだけに、子供以上に保護者の落胆は大きいのです。たとえば、①家に帰ってきた子供から担任の「いやなところ」を耳にする。②授業参観なのに学級が落ち着かない。③保護者懇談会なのに上手く話ができない。④子供の評価が納得できない。⑤性格が気に入らない…等。教師は、本当に多くの眼で常に「評価」に晒されていることがわかります。もし、この五つの評価が「満点」であれば、その教師は子供や保護者から信頼される「優秀」な教師ということになります。さらに、大事なのは「問題が発生」したときの処理の仕方です。たとえば、「子供がいじめに遭っている」という情報を耳にしたとき、優秀な教師はどう動くのでしょうか。それは、対応は冷静そうに見えますが、その教師の本心は「絶対に許せない!」といった怒りの感情に苛まれているはずです。もし、その「怒り」の感情がなく、事務をこなすように淡々と聞いていたとしたら、保護者はその教師を信頼しなくなるはずです。

もちろん、その「怒り」の感情を表に出すことはありません。しかし、いじめという行為を「許せない!」と思えない人間に解決はできるはずがないのです。だからと言って、子供にその感情を直接ぶつけることはありませんが、それをしてしまった背景は理解したとしても、「いじめという行為」はけっして許してはならないのです。ここで言う「けっして」は、「反省するまでは…」という前提がつきます。その生々しい人間としての感情が、子供の心を動かすのだと私は思います。よく、「教師は毅然とした態度で、子供に接しろ」と言われますが、この「毅然」とは、「善を尊び悪を憎む」ことだと私は解釈しています。そして、しっかり反省を促し謝罪すれば「水に流せる」ものもあるでしょう。そうした問題に対処できる教師が「優秀」であり、「信頼」される教師になれるのです。

2 子供は「建前」を嫌う

あまり子供と関わりを持たない大人は、「子供は大人を敬い、言うことを聞くものだ」とする固定観念があるように思います。それは、子供を見下した態度であり、大人の権威をひけらかす、子供にとって一番苦手なタイプの大人です。こうした傲慢な態度ができるのは、子供には何の「権力」もないからです。今でも、刑事事件や刑事裁判では、子供の証言は大人ほど認めて貰えないと思います。「どうせ、幼稚な子供の言うことだから…」と軽く見る習慣は、人権が叫ばれる現在、如何なものでしょうか。子供にとって一番悲劇なのは、自分自身の親から虐げられる「虐待問題」です。この児童虐待は、統計を取り始めて以降、急速に増え続け社会問題化しています。おそらく、当初は「子供の言うことだから…」と警察や役所もあまり取り合わなかったのではないでしょうか。事実、私が知る限りに於いても、通告した学校の校長が、その保護者に怒鳴り込まれて謝罪したという話も聞いています。さすがに、今はそんなことはないでしょうが、子供の証言を軽く見る傾向は残っていると思います。確かに、子供は自分の身を守るために悪さをしても「だれかのせい」にして黙ることがありますが、それは大人も同じです。逆に大人こそ開き直り、「証拠を出せ!」だの「法律に背いていない!」だのと悪あがきの末、「黙秘する」とばかりに口を開かない人間もいるようですが、悪いことをすると表情に表れる子供の方が、「ずっとまし」な場合がたくさん見られます。

子供の場合は、本当のことを言えば「叱られる」ために「嘘を吐く」ことがほとんどで、大人の「保身」「悪足掻き」とは少し違います。それでも、子供を理解した大人が諄々と諭していくと、子供は意外と早く「素直」になるものです。こうした「諭す」技術を持つ教師は意外と多いと思います。まあ、「技術」と言っては失礼ですが、長年多くの子供と接していると、子供の「特性」に気づくものです。それは、「子供は建前を嫌う」ということです。もちろん、親や教師ではない他人の大人が「建前」を言うことに腹を立てたりはしません。それが「大人」であることを承知しているからです。よく大人は、子供に向かって「夢を持とう」と言うようなことを言いますが、具体的な「夢の持ち方」まで話してくれる大人はいません。しかし、これと同じことを親や教師が言ったら子供はどう感じるのでしょう。きっと、「先生、夢ってなんですか?」「どうすれば、夢は叶うのですか?」「夢がない人はどうすればいいんですか?」などと、次から次へと質問が飛び出すはずです。もし、そういう反応がないとしたら、その教師は既に子供から「見放されている」と思った方がいいでしょう。要するに、これが「建前」なのです。

経験を積んだ教師なら、この「夢」をこう諭すと思います。「夢を持つことはいい。しかし、夢が夢で終わっては意味がない。夢を実現するには何をすればいいと思う?」そんな問いかけをしながら諭していきます。そして、「夢が、目標に変わったとき、人間は具体的な方法を考えるものだよ」と。そして、具体的な「目標」を定めて努力した人の話をします。私の教え子に、子供のころ「プロ野球選手になりたい」という夢を持った少年がいました。彼は、その夢を「目標」に変えて六大学の野球部のレギュラーになるまでに成長しました。しかし、彼は、今は消防士を仕事にしています。それは、「夢が破れた」のではありません。大学生になって同級生に後のプロ野球で大活躍することになる選手が入って来たそうです。同じユニフォームを着て、同じグラウンドに立って何度も試合をしたそうです。そして、ある日彼は気づいたといいます。「そうか、プロ野球というのは、彼のような能力のある人間が行くところなんだ」と。そこに気づいた彼は、自分がこれまで努力して鍛えた心と体を生かして「人のために役に立つ人間になろう」と決心して、消防士の道に進んだそうです。

確かに、子供のころの夢は「職業」としては果たせなかったかも知れませんが、彼の弛まぬ努力は「消防士」という尊い仕事に就くことで実を結びました。「夢」を持つことは確かにすばらしいと思います。しかし、その夢が「目標」になるまでの努力なくして夢の実現はないのです。さらに、その「目標」を立てて努力しても叶わぬ現実はあります。しかし、それまでの過程は無駄だったのでしょうか。とんでもありません。少年から青年になる時期をひたすら「努力」したことが人生にとって「無駄」であるはずがないのです。私は、よく子供たちにこの話をしました。十分に理解できたかどうかはわかりませんが、だれもが「納得」した表情をしていたことは嘘ではありません。この話は、私が大人になった彼から直接聞いた話です。もう、20年以上も前に聞いた話ですが、今でも私自身の「教訓」にしています。教師でありながら、教え子から「諭された」のです。すばらしいと思いませんか。

親でも教師でも同じですが、大人が自分をよく見せようと「格好をつけ」ても、子供の素直な眼は嘘をすぐに見破るものです。子供は何も言いませんが、建前だけの教師や大人を信用することはありません。子供は経験がない分、大人を頼ろうとしています。但し、自分が信頼に値する大人を見極めて「ついていこう」とするのです。そんな信頼していた教師や大人に裏切られれば、これほどショックなことはありません。子供の心は深く傷つき、すべてのことに意欲を失ってしまうでしょう。「子供を健全に」育てたければ、大人は「嘘を吐かない」ことです。「建前」はあったとしても、子供の前では常に「本音」でぶつかってください。それが学校では「教師」の仕事であり、家庭では「親」の役割なのです。

3 「自分の好きな道を生きろ」は、信頼を失う

「自分の好きな道を生きなさい」という子供に投げかける言葉は、大人にとっては思い遣りのある「美しい言葉」のように聞こえます。もちろん、この言葉を大人になってから言ってくれれば、成人した子供は喜ぶかも知れません。しかし、これを小中学生のころに言われたとしたら、子供はどう思うのでしょう。「好きな道」も見つからない時代に「好きに生きていい」と言われても、どうしていいか途方に暮れるばかりです。子供によっては、「親に見捨てられた」と思う者もいるのです。この「好きな道論」は、戦後に生まれた一種の思想であり、高度経済成長期の遺物のように感じます。私たちが育った昭和後期の時代は、確かに社会が発展し生活が豊かになっていった記憶があります。取り敢えず「学歴」さえ得られれば幸福が得られるかのような「錯覚」さえ生まれました。そんな時代であれば、経済的に恵まれた家庭では、「子供は、自由にのびのびと育てたい」という理想に邁進しても不思議ではありません。しかし、昭和の末期にバブルが崩壊し、平成から令和へと続く30年もの間に日本の経済成長は止まり、今では日本の家庭には「中流意識」がなくなりました。社会は「二極化」が進み、貧困家庭の増加は著しいものがあります。

そんな「先行き不透明」な時代に「好きな道を生きろ」は、子供の不安を増幅させるだけなのです。子供にしてみれば、「何をすればいいのか」しっかり自分の進むべき「道」を示して欲しいのです。唯一頼りにすべき自分の親から「好きにしていい」と言われては、立つ瀬がありません。学校でも「自分らしく生きなさい」と言われ、政府からは「自分探しの旅に出よう」と言われ、何も見つからないまま「成人」してしまえば、もう後戻りはできません。仕方なく、生きるために職を求めますが、「自分らしい生き方」のできる職が簡単に見つかるはずもなく、途方に暮れるのが眼に見えています。しかし、だれも「責任」を取りたがらない社会になると、そんな面倒な人の人生に関わろうとする人もいません。それでは、あまりにも「無責任」と言うものでしょう。

これまでの教師であれば、まずは学級内に集団生活に欠かせない「秩序」を整えるために、道徳的な指導を行うはずです。「正直に生きる」「正義を重んじる」「みんなで協力し合う」「思い遣りの心で接する」など、学級の目標は常に「道徳的」でした。その上で「我儘」を諫め、「お互い様」の精神で学級を運営していくのです。その「道徳的な価値」を共有しておかなければ、集団での秩序を保つことはできません。現代のように「価値の多様化」が進んだ社会は、個人によって多くの多様な意見が存在します。学校教育に対しても批判的な国民は多く、保護者も学校に望む内容は様々です。しかし、それでは学校を運営していくことができません。学校が日本国憲法、教育基本法、学校教育法等の関連法律に基づいて運営されるものであり、指導内容も「学習指導要領」から逸脱することは許されません。したがって、必ずしも個々の子供や保護者のニーズに応えられるわけではないのです。

子供は、どの子供であっても「自分の進むべき方向」が定まれば、それに向かって直向きに努力する力を持っているものです。子供の素行や性格に問題があると言われる原因の多くは、家庭での不適切な「しつけ」や「放置」、そして隠れた「虐待」など、明らかに子供にとって不健全な生活環境があるからだと考えられます。それらの要因がありながら、すべてを「子供個人の資質」であるかのように断じるのは、子供を「差別」していることになりませんか。最近、よく言われるのが「教育ネグレクト」です。親が子供を自分の「分身」であるかのように考え、自分の果たせなかった夢を子供に託すといった行為が、子供を苦しめることになるのです。虐待は、親の地位や経済力は関係ありません。その親の「資質」の問題なのです。今の日本の法律では、何らかの事件が起きなければ、家庭の問題に介入する方法がありません。そして、児童虐待でさえ児童相談所や役所任せで、強い権力で押さえることもできないのです。人権は「大人」にあっても、子供は大人の半分も認められていないでしょう。本来であれば、「子供の人権」こそが、最大限に守られるべきものであって、不適切な「家庭」であれば、子供を「国家権力で保護すべき」と考えるのは「おかしい」のでしょうか。

学校には様々な子供がいます。だれもが安定した家庭で育っていれば、これほど教育が楽に行えることはないでしょう。高齢者が昔を懐かしみ、「昔の学校はよかった…」というようなことを言いますが、それは学校や教師自身に「権威」があり、家庭や地域が「安定」していたからに他なりません。たとえ貧しくても、社会に秩序があり、生活が落ち着いていれば、それほど大きな問題は起きないのです。しかし、現在のように、国が「一億総活躍社会」を目指すようでは、だれもが「ゆとり」を持つことができません。コンピュータ社会になって、人々の生活にゆとりが生まれたどころか、多忙化に拍車をかけるようになりました。そして、そんな「ストレス」で心身を病む人は増加し続けています。これで「健全な心を育てることができるのだろうか?」と疑問が湧いてきます。子供時代というものは、そんな社会の動きに敏感なのです。いくら、大人たちが「子供を守る」と言っても、それが建前なのか本音なのかは、子供でもすぐにわかります。だから、子供にも大きなストレスがかかっているのです。それが、子供の心身に大きな影響を与えていることを社会は知るべきなのです。

時代は大きく変わりました。失礼ですが国が言う「自分探しの旅」などに出ても幸福を掴むことはできません。「自分の好きな道に進め」と言われても、それを受け入れる社会ではないのです。それなら、何をすればいいのでしょう。それは子供自身が「力」をつけることです。その「力」は、自分の体に宿っています。絵の上手な子、歌の上手い子、速く走れる子、算数の得意な子、作文の上手な子、お喋りの上手い子、手先が器用な子、だれとでも仲良くなれる子、リーダーシップの取れる子、字の上手い子、頭の回転の速い子…。どの子供にも「光る個性」があります。たかが学校時代の評価に囚われて、自分の光る個性を潰す必要などありません。「学校は、所詮、学校」なのです。社会に出れば「学校」は関係ありません。実力だけがものを言うのです。それなら、「自分のやりたいこと」を見つけて努力し、力を蓄えること以外にはないでしょう。「自分の好きな道」に進むためには、それを「子供任せ」にするのではなく、親も教師もそれを「見つける」努力をするべきなのです。そして、その子供の「光る個性」を磨く支援を行うことが親や教師の「使命」でもあると思います。もう「学歴社会」は何処にもありません。あるように見えるのは、間もなく消えるであろう「幻影」なのです。

4 教師は、子供の「個性」を知る存在

今、親たちは、どのくらい「我が子」と接しているのでしょう。朝早くから夜遅くまで働き、乳幼児期から保育園や幼稚園に預け、夜も「預かり保育」を依頼すれば、実際に子供と接する時間は、限りなく「ゼロ」に近いような気がします。もちろん、「寝顔を見ている」とか「朝ご飯を一緒に摂っている」とか、「休日は一緒に過ごす時間を取っている」などの意見はあると思いますが、それでも、学校の教師には敵わないはずです。保育園や幼稚園の先生たちも同じです。確かに、学校でいえば「30人の中の一人」ですが、学校の教師がその子から完全に「目を離す」ことはありません。教室内にいれば、学級のその日の雰囲気はわかります。だれが怒っていて、だれが泣いているとか、体調の優れない子はいないか…など、口には出しませんが、眼で学級の30人の子供を追っていないようでは「教師失格」です。もちろん、それは担任ばかりでなく管理職を含めた学校全体の職員が子供をよく見ています。学校では「挨拶」を奨励していますが、そんな「挨拶」ひとつで子供の変化には気づくものです。「素人が気づかないから、教師も気づかないだろう」というのは、教師を見下している証拠です。マスコミの偏見に満ちた報道を鵜呑みにすると、真実が見えなくなるものです。

長年、教育に携わり、毎日子供たちに接している教師は、知らず知らずに「人を観察する」習慣が身についてしまいます。そして、その人の仕種や表情、言葉などから、その「人格」から「癖」「考えそうなこと」までなんとなく想像できるようになってきます。それができなければ、子供の異変に気づくこともできず、万が一の事故にも対応できません。教師は「常に先を見て指導する」存在なのです。たとえば、ある子供の表情に異変があれば、すぐに「声をかける」のが第一です。たとえ「大丈夫です…」と言われても、また、一時間後には必ず声をかけているはずです。そして「必要」と判断すれば、保健室や相談室に連れて行って話を聞いたり、主任や管理職に相談するなどの対応をします。子供は何も言いませんが、発熱の場合もあるし、悩みがある場合もあります。友だち関係、親子関係、兄弟関係など、子供の「悩み」は尽きません。そんな「寄り添い型」の支援は、おそらく学校の教師しかできないでしょう。そして、その子供が信頼している教師になら本音を吐露し、問題解決の足がかりを掴むことができます。最近の「児童虐待」などは、この方法で発見され「通報」されるケースが多いはずです。

教師は、長年鍛えた「観察眼」によって、言葉を発しない子供の心を読み取り、先手を打って対応を考える力が備わっています。もちろん、中には「鈍感」な教師もいるとは思いますが、それでも、多くの子供と接していることで身につく力は大きいはずです。残念ながら、今の大人にはこれができません。偉い政府の皆さんや大学の先生は、理屈で「ああだの、こうだの…」と仰りますが、子供と接している時間が短い人に子供の心は読み取れません。私も接している時間がなくなると、そんな能力がすぐに低下していくのがわかります。年齢のせいもあるのでしょうが、職人が使う「勘が鈍る」というものだと思います。確か「刑事ドラマ」にもそんな台詞があったはずです。

親の中には、「子供のことは自分が一番よくわかっている」と言う人がいますが、そんなことはありません。それは失礼ですが「思い込み」です。「思い込んでいる」のか、「思い込みたい」のかはわかりませんが、「自分の子供」という意識が強すぎると、それが子供への対応に現れます。親にしてみれば「子供のことを心配して…」あれもこれも指図をしてしまう人が多いようですが、それは一個の人格を持つ人間には大変「失礼」なことなのです。昔の親は儒教的な考えが強く、「子は親に従うもの」といった偏った思想を持つ人が多かったようですが、これでは社会は発展しません。何でもそうですが、「無条件に従わせる」権威や権力は、民主主義でないことは確かです。昔の日本の軍隊では、秩序を保つために、兵隊には「無条件で上官に従わせる」文化がありましたが、結果を見れば明らかです。子供も「一人の人格を持つ人間」として遇し、親や教師であっても何処かに「敬う心」が必要なのです。「子供のために…」という親心はわかりますが、それが本当に子供のためになるのかどうかは、よく考えてみるべきでしょう。自分の「エゴ」を押し付けているだけだとしたら、子供は早々に、そんな「親から逃げだそう」とするはずです。

子供の「個性」は、「好きこそものの上手なれ」の言葉があるように、「好きなこと」をやらせていると、子供は夢中になっていつまでも集中してやっています。今流行りの「コンピュータゲーム」もそのひとつでしょう。近い将来、オリンピック種目になるそうですから、いつまでも「ゲームなんか…」と言っていられない時代が来るようです。たとえば、その「ゲーム」も、単に「遊び」から「知育」や「安全」「防災」「保健」…と様々な分野に広がっていく可能性を秘めています。もし、本気でゲームにのめり込むようなら、「ゲームクリエイター」などの開発する側の仕事を目指してもいいのではないでしょうか。目先の「学校」や「学歴」に囚われていると、成人した後に、「自分は何もできない」ことに気づくことになるかも知れません。こうした「才能」は、学校では養えないのです。そのため、学校の評価としては何も得られないかも知れませんが、社会に出たとき、貴重な「能力」を持つ人材として活躍できる可能性を秘めているものです。教師は、そうした子供の「個性」を見抜き、支援してあげるのも大切な役割になってくるはずです。

5 「寄り添う力」を生かす教育

日本がこれからの時代に「世界の先進国」として生き残って行くためには、「教育」を欠かすことができません。しかし、政府は、あまりそのことについての「自覚」がないようです。文部科学大臣の国会での答弁を聞いていても、「ああ、この人は教育がわかっていないな?」という感想しか持ちませんでした。まあ、政府内での「文部科学大臣」の位置を考えれば、その程度の認識でも仕方がないのでしょう。民主主義は完璧な政治体制ではありません。だから、共産主義や専制主義などが蔓延り、世界を混乱させているのですが、国民の「民度」が低下すれば、当然のように国力が低下するのは当然です。そして、その「民度」を計るバロメーターが「教育」なのだと思います。

今の日本の教育は、政府の「焦り」ばかりを感じます。あの「ゆとり教育」を潰したときもそうでした。しっかりとした検証もしないまま、マスコミや野党の政治家に攻撃されると前言を翻して「ゆとり教育」を自ら潰してしまったのです。その後は、世間の顔色を窺いながら、マスコミなどが気に入るような「施策」を出し続けました。「全国学力テスト」「教員免許更新制」「開かれた学校づくり」「コミュニティスクール構想」「道徳の教科化」「小学校での外国語(英語)教育の実施」「ギガスクール構想」と、どれも「地に足」がつかないままに全国の小中学校に命じた「新しい教育」や「教育施策」です。特に教師に嫌われたのが「教員免許更新制」ですが、これもやっと「廃止」になり、全国の教師は「ほっ…」としていると思います。その間に、新型コロナ感染症が蔓延すると「リモート授業」なる方法も編み出され、子供も教師も保護者も右往左往するばかりです。こうした矢継ぎ早の国の教育施策に、一体どんな意味があるのでしょう。もちろん、ひとつひとつの考えはわかります。しかし、それを学校現場に「これでもか!」と下ろしても、それをこなす時間も人もいないのです。できなければ、「教師の質が落ちた!」と嘆き、施政者たちの「自己反省」がありません。さらに、ストレスで倒れる教師が増加しても代替の講師すら派遣できない有様では、「日本の教育は末期現象」だと言わざるを得ないと思います。

戦争中の日本の「大本営」の参謀たちも同じでした。どうしようもない作戦を立て、現場から反対意見が出されても、「天皇」の名を借りて無理矢理命じた結果、無惨な敗北と日本軍の無条件降伏という結果に終わったのです。それでも、彼らの反省の弁を聞いたことがありません。悪名高い大本営参謀だった男は、戦後、日本の一流商社に入社し長く権力を手にしていたといいますから、日本の敗戦など、本人にしてみれば「痛くも痒く」もなかったのでしょう。この無責任体質は今も同じです。「悪いのは、実行できない現場」なのですから、現場の教師はたまったものではありません。これでは、教師のなり手がいなくなって当然です。今では、そのエリート官僚にさえ希望者が激減していると聞きますから、若者は、現実が見えているのです。今度は、どんな「無理難題」を押し付けてくるのか、わかったものではありません。もし、自分たちの考えていることを実現したいのなら、やるべきことは簡単です。①教育予算を先進国並みに引き揚げること。②学校の教職員の人員を大幅に増やすこと。③学校の裁量権を認め、その地域に応じた教育を進めること。④教職員を労働基準法に照らして遇すること。しかありません。こんな簡単なことが「できない」のですから、日本は「先進教育国」にはなれないはずです。

今、隣国の動きが忙しなくなり、日本人の多くに「危機意識」が高まってきました。政府もさすがに「防衛費」を増やし、真剣に「有事」に備えなければならなくなりました。それでも、有事に際しては、今の政府では、国民を守ることはできないでしょう。所詮はだれかに責任を押し付けて、言い訳に終始して「終わり」です。日本人から「武士道精神」「大和魂」を奪った時点で日本は終わっていたのです。本当は、そこに救世主になるような「リーダーの登場」が待たれるのですが、日本の神々は、そんな人間を地上界に送ってくれるのでしょうか。

話が少し横道に逸れましたが、「教育の根本」の話をします。「教育」に一番大切なのは「強い心」を創ることにあります。文部科学省は、二言目には「学力向上」を唱えますが、それ以前にやるべきことを忘れています。有識者会議の議論を見ても、学者たちが勝手なことを述べてはいますが、肝腎なことが抜けています。それが「強い心」なのです。学校にいると、今の子供の多くが「自信なさそうにしている」のがわかります。元気がないというのか、覇気がないというのか、どちらかというと下を向いて歩いているように見えるのです。確かに、昔に比べて英語が話せたり、パソコンが使えたり、勉強をしたりと頑張っているのでしょうが、それでいて「自信なげ」に見えるのは、何故でしょう。それは、周囲の大人たちの関わり方に問題があるように思います。

失礼ながら、昔と違って今の大人は、だれもが「無関心」「無責任」になりました。これは別に非難して言っているのではありません。「そうならざるを得ない」という理由があるからです。子供を例に取れば、少子化の流れで、街中に子供の姿を見ることが少なくなりました。そうなると、大人はいつも大人だけで生活をするようになります。高齢者は高齢者だけのコミュニティを作っていますので、そこに子供の入る余地はありません。だから、たまに聞く「子供の声」がうるさいのです。まして、子供はいつもポケットに「防犯ブザー」を所持していますので、不審者に見られれば即通報される時代です。そうなると、気安く声もかけられません。注意などもってのほかです。もし、知らない子供と仲良くなって、誤ってケガでもさせたらその責任は重大です。孫でさえ、簡単に預かれない時代ですから、いくら優しい大人でも尻込みして当然なのです。学校の教師たちも、「子供が傷つかないように…」と、話しかける言葉にも気を遣います。昔のようなぞんざいな言葉を遣えば、いつ苦情が来るかわかりません。その「よそよそしさ」が、逆に子供の心を傷つけているのです。

子供に「強い心」を育てたいのであれば、それは、大人が自分の意思を示し、子供の前で「方針」をきちんと示し、ブレない自分を見せることしかありません。教師が30人もの子供の前で毅然としていられるのは、自分に「自信と誇り」があるからです。教師が子供に優しくできるのは、子供に阿らず、敢えて「厳しい指導」ができるからです。教師が子供の「個性」を見抜くことができるのは、子供に様々な「挑戦」をさせているからです。そして、だれの前に出ても「私がこの子たちの教師です」と、堂々と胸を張れるからです。そんな教師の姿を見た子供たちは、「格好いいな…」と憧れを持ち始めます。その大人に対する「憧れ」が、自分の心を奮い立たせるのです。そういう気持ちになった子供は「努力」を惜しまなくなります。そして、だれに対しても「優しく」接することができるようになります。自分の信頼する先生が「世のため、人のため」に尽くそうとしているのなら、「自分もそうしたい」と思います。それが、知らず知らずのうちに「力」になってくるのです。

そういう子供の変化を見て、親はどう思うのでしょう。きっと、「いい子になったな…」と子供を褒めるのではないでしょうか。そして、他の人にも少しだけ自慢したくなるはずです。その評価がさらに子供を勇気づけ、子供なりの努力を続けていった結果、夢が目標に変わり、自分の「生き方」になるのです。学校の教師にできることは多くはありません。しかし、常に子供に「寄り添い」、厳しく接しながらも、本気になって子供の成長を願って日々奮闘しているのです。教育は「サービス」などではありません。教育は、人間同士の「学びあいの場」なのです。

日本中の多くの「教師」は、単に「教員」で終わるのではなく、自分でなりに教育の理想を追い求めた結果として真の「教育者」になりたいと願っています。マスコミは安易に「教師=教育者」という言葉を遣いますが、それは間違いです。教員として採用された者が「教師」になり、教育の道を極めようと努力し続けた結果、教え子たちから「あの先生は、本物の教育者だったね…」と言われたら、満足だろうと思います。子供に「寄り添う」ことは、簡単そうに見えてなかなか難しいことでもあります。それでも、「寄り添う」教師でいられたら、教師も子供も幸せに違いありません。日本もそんな「教育」ができる時代が、一日も早く来ることを切に願っています。

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です