日本人は、これまで「家庭」とか「親」というものに対して無頓着過ぎたきらいがあります。「家庭は聖域」という言葉があるように、政治の世界では「家庭」は常に健全であり、親は子供を慈しむ存在である…という前提で成り立っていました。それは「信仰」に近い思想だったかも知れません。確かに「親が子を慈しむ」という考え方は、私たちの心にも強く刻まれており、表面上の態度はともかく、心の中では「子は宝」という思いは今でもあります。それは、多くの日本人が共通で持っている「愛情」だと思います。したがって、親と子によって営まれる「家庭」が第三者の監視対象になることは、心情的に「嫌だ!」というのもよくわかります。そのためか、日本では親として子を養育する権利、いわゆる「親権」が非常に強く、行政機関といえどもそれを奪うような行為は慎まなければなりません。しかしながら、平成、令和と呼ばれる時代になってから、この日本人の「聖域」といわれる家庭に多くの問題が隠れていることに気づき始めました。それが、「児童虐待」の問題です。最初、このニュースが飛び込んで来たときは、だれもが「まさか…?」という思いに囚われたはずです。「実の親によって、幼気ない子供が殺された?」という事実に社会は混乱しました。そして、だれもが「特殊な例であってほしい…」と願ったものです。しかし、それは、決して「特殊」な事件ではありませんでした。その後も、家庭内における「児童虐待事件」は後を絶たず、マスコミ等は、繰り返し児童相談所や警察などの行政機関の甘さを指摘しましたが、予算も権限も人員もないそれらの機関は、この問題にまったく「無力」でした。
最近では「ヤング・ケアラー」と言われる問題が注目されるようになり、「家庭は聖域」の前提は崩れてしまっています。それに、日本人の「働き方」の意識が大きく変わり、各企業も「人件費削減」を声高に言うようになりました。政府は「賃金を上げて欲しい…」と経済界にお願いしていますが、企業側にしてみても、いつ景気が低迷し会社自体が危機に陥るかもわからない中で「内需を拡大したい」という政府の思いは理解しても、怖くて賃金を上げることもできない状態です。余程、バブルの崩壊が経営者には堪えているのでしょう。その上、日本人の「離婚率」が急上昇し、三組に一組が離婚する時代となれば「片親家庭」が増えて当然です。「親一人、子一人」の家庭だってたくさんあります。そんな中で親が病気やケガで倒れれば、その「介護」を子供がやるのはやむを得ないことです。日本の福祉もそこまで想定してはいませんでした。それが、現実に起こってくると、社会は大騒ぎするばかりで、これといった「策」が出されるわけではありません。確かに、申請をすれば「生活保護対象」になると思いますが、これもハードルは決して低いものではなく、「その申請に子供が行けるか?」となれば、支援も後手に回るのは当然です。親に「養育する意思」はあっても、現実的にそれが「できない」家庭に対する支援はどうすればいいのでしょう。そんな社会の姿を見ながら、「親とは何なのか?」「家庭とはどうあるべきなのか?」ということを含めて考えてみたいと思います。
1 「親」になる自覚
動物として「親」になることと、人間として「親」になることは自ずと違うことはだれもが承知しているはずですが、その「自覚」がないままに「親」になってしまえば、戸惑うことばかりだろうと思います。子供は必ずしも望まれて生まれてくるケースばかりではありません。ましてや、生活基盤が整っている家庭とそうでない家庭では、子育ての環境もまったく違うのです。単に「親だから…」というひと言で片づけられる問題ではありません。最近のような「少子化」の時代になると、周囲の人間にも「親」になった経験のある人が少なくなり、「どう、子育てしたらいいのかわからない?」と訴える人も多いようです。まして、若くして出産した女性にとっては、何もかにもが「驚き」の連続でしかなく、子供が「生まれた瞬間」から親として「我が子」のために動かなくてはなりません。これまでの生活環境が一変し、何もかも自分に押し付けられるようで、不安が一気に高まってくる…という話を聞きます。女性にとって「出産」するということは、恰も「子育て」自体がすべて「自分の責任」であるかのような感覚になってしまうのです。
本来であれば、子供には母親だけでなく父親もあり、双方が協力し合って「子育て」をしていくものですが、自覚のない「親」のままでは、「子育て」の日常が負担に思う人もたくさん出てくることでしょう。私自身も最初の子供が生まれたとき、それほどの実感が生まれなかったことも事実です。家に「赤ん坊」がひょっこりやって来て、妻からの「あなたの子よ…」という言葉で「父親」を実感したようなものでした。そして、私なりに子育てに参加し、できる限りの時間を使って「世話」をしているうちに、我が子が愛おしくなってきたものです。それは、二人目の子供のときも同じでした。上の子には、「おまえの弟だよ…」と言って紹介しましたが、兄も最初は、「ふうん…弟?」と言うようにキョトンとして迎えたことを覚えています。それでも、一緒に育つうちに「兄弟関係」が築かれ、弟は兄を慕うようになりました。今でも兄は弟を気遣い、弟は兄を尊敬しています。確かに、「子育て」は自分の時間を割くような負担感はありますが、それにもまして、我が子に対する「愛情」は日増しに強くなり、いつの間にか「親」としての自覚が生まれたような気がします。今になってみれば、この子育てに関わった「時間」こそが、私たち親子にとって貴重なものだったことがわかります。つまり、「子育て」に関わらなければ、なかなか「親」としての自覚が生まれず、負担感ばかりが気になってくるのかも知れません。子育てを「負担」と思っている間は、真の「親子関係」は築けないのでしょう。
2 周囲の「子育て」支援
実際、子供を抱えた若い親たちが、本当に自分たちと公的支援(福祉)だけで子供を育てることができるのでしょうか。政府は、「保育所を充実させ、待機児童を減らしている」として自信満々な答弁をするのでしょうが、現実にはそんなに簡単な話ではないと思います。確かに、近隣に保育所(園)はありますが、その所得に応じた費用がかかります。また、発熱時やケガをしているような場合は、預けることもできません。ましてや、この「コロナ禍」の中で「発熱?」と聞いただけで拒否をする園や町の医院もあったほどです。今でも、この「発熱」に関しては社会全体が怯えており、たとえコロナが「5類」になったとしても、一回「うつる病気」という認定がされてしまうと、だれもが敬遠し自宅で子供を看るしかありません。要するに、「健康で問題ない幼児」であれば看てくれますが、どこかに「△」や「×」が付いた子供は、預ける先がないのです。ましてや、その保育園もいくつかの問題を抱えています。
一番問題なのが「保育士不足」です。保育所で預かる子供の人数が多く、保育士たちはずっと「手が足りない」ことを訴えていましたが、政府はそれに対してしっかりと応えることをしてきませんでした。これは、介護士や教師も同じです。「足りない」と言い続けていても、現場の声など政治の政界には何も響かないのです。それでいて、選挙の度毎に「子は、国の宝!」と連呼する候補者たちは、当選後に何をしているのでしょう。ここにも「少子化」が改善できない問題があります。マスコミでも「日本の教育費は、先進国の中でも低い」と報道していますが、実際、教育にお金がかかることは承知しています。日本に義務教育制度が整って以降、各地域には小学校や中学校が徒歩圏内に設けられています。その学校の建築費だけでなく、毎日の運営費は決してばかにはできない額でしょう。保育所や幼稚園なども多くあり、これを「無駄な経費」と考えるのなら、日本は「先進国」から後退するべきなのです。そもそも、「子育て」や「教育」は、すぐに「効果」が出るものではありません。継続的に何十年も努力を重ねた結果として「国の礎」となる人材育成につながるのであって、眼に見える「成果物」を示すことはできません。しかし、多くの国々は、そうした「先行投資」が必要だということはだれもが知っています。それを出し惜しんでいるのは、日本の政府くらいなものでしょう。ひょっとしたら、「人材などは、AIに替えればいい…」とでも考えているとしたら、怖ろしい限りです。
今の社会で唯一の保育所(園)、そして保育士が不足する事態になれば、日本の「子育て支援」は破綻します。今や自分の「孫」であっても、「預かる」ことを嫌がる祖父母世代が多くなったと聞きます。これは、愛情がない…ということではなく、「万が一の責任」が問われるからだそうです。たとえ、孫であっても自分が看ていて「病気になった」とか「ケガをさせた」となれば、看ていた者の責任が問われます。昔なら、隣近所のおばさんが「いいわよ。うちで預かるわよ…」と快く引き受けてくれたものが、自分の親でさえ「面倒は嫌だ」となれば、やはり公的な保育所(園)しかありません。それも、子育ての環境的としては、決して恵まれていない施設で長時間預かるわけですから、保育士の負担はとても大きく、今の待遇では希望者が少なくなるのもわかる気がします。預ける「親」にしてみれば、「金を払っている」という立場がありますので、飽くまでも「質の高いサービス」を求めたくなりますが、いつまでも「お客様」感覚では、子育てはできません。たとえ必要経費を出したとしても、子供の面倒を看てもらう以上「いつも、お世話になっています…」という態度と「一緒に育てている同士」という感覚が必要なのです。昔はみんなが持っていたそんな感覚を忘れてしまった責任は、一体だれにあるのでしょうか。
3 「親」になるのは理屈ではない
最近、家庭内での児童虐待事件が出るたびに、「親なのに…?」とか「親のくせに…?」と言った言葉が聞かれます。しかし、そうした事件の「背景」が報道されるようになると、我が子を虐待するに至る経緯は様々で、そこには複雑な人間関係が見えてきます。たとえば、母親は間違いなく「我が子」としての認識はあっても、その配偶者に「我が子」としての認識があるかどうかは別です。今、片親家庭が増えているように、子供の父親が必ずしも「実父」とは限らない場合があります。それはそれで仕方のないことですが、結婚相手に子供がいることを承知で籍を入れたとして、よい「家族関係」が築けるかどうかは、本人たちの努力次第のところがあります。片親家庭が増えるのも、そうした家族間の「人間関係」が築けなかったり、相手に対して「不信感」を抱いたり、経済的な問題があったりするなど、人間関係の問題はなかなか難しいものです。したがって、「親なんだから…」と言われても、なかなか納得できない部分があることは、仕方のないことだと思います。
子育てには、我が子に対する「愛情」が不可欠ですが、この「愛情」が持てるようになるまでには、「相当の時間」と「関わり方」が問題になってきます。学校の教師も同じような経験をしています。自分が担任した子供や関わった子供に対しては、やはり、他の子とは違う「愛情」を持つようになるものです。それは、言葉を換えれば「心配」とか「気がかり」といった方が適切かも知れませんが、どの教師に尋ねても同じような感覚は持っているはずです。最初は40人近い子供はみんな「同じ」に見えます。もちろん、元気な子とか頭のいい子、運動のできる子などの区別はできますが、それは飽くまで「表面」に見える現象で判断しているだけのことで、その「子供」のことが十分にわかっているわけではありません。したがって、顔も同じように見え、すぐに名前と顔が一致しないものです。しかし、半年、一年と経過していくうちに、様々な個人の情報が入ってきます。そうなると、子供とも「打ち解けて」話ができるようになりますので、たとえ教師であっても、仕事として見ているだけではない「気持ち」が自然に湧いてくるのものです。「あいつ、今日は飯食って来たかな?」とか「あいつの家のお母さん、元気になったかな?」「早くケガが治ればいいな?」「明日は、学校に来れるかな?」などと、自分の家庭に戻っても心配していることもあり、「仕事だ!」と割り切れないのが教師という職業なのです。
同じことが、「家庭」でもあると思います。それは、我が子に対しての「思い」です。母親は四六時中我が子と接していますので、親となる意識が早く芽生えるのは当然のことですが、父親になるとそうでもありません。それでも、妻と一緒になっておむつを替えたり、お風呂に入れたり、離乳食を食べさせたりしているうちに可愛くなり、家に帰るのが楽しみになるものです。その後も、一緒に遊んだり、添い寝をしたり、園に送っていったりするうちに強い「絆」が結ばれるのです。しかし、もし、こうした「時間」と「関わり」がなかったとしたらどうでしょう。本当に我が子であっても「可愛い」と思えるのでしょうか。これまでは、「親なんだから、我が子が可愛くて当然!」という常識があったかと思います。しかし、ここ10年以上の「児童虐待」の増加率を見ていると、「当然!」ではなくなっているような気がしてならないのです。確かに、今の時代はストレスの多い時代です。特にここ数年の「コロナ」の蔓延は、生活に厳しい制限を設けなければなりませんでした。その見えないストレスは、大人の感情を荒立てたのかも知れません。まして、「子供には、近づかない!」と言われれば、我が子であっても抱っこもできません。これでは、親が「親としての自覚」を持つ「時間」も「関わり」も減り、親としての愛情を固められない危険性があるように思います。
4 親も「子育て」を学びたい
今のように、いつまでも「家庭が聖域」のままでは、少子化に歯止めは利かないと思います。昔であれば、若い親が子供を産めば、周囲の「先輩お母さん」たちがあれこれと世話を焼いてくれたものです。近所には必ず「お節介おばさん」なる中年の女性がおり、何かと近所のことを心配しては「お節介」を焼いてくれました。現代のように「プライバシーの保護」とか「人権」という言葉は強調されませんでしたので、何かあれば家の中に上がり込み、「ああせい、こうせい…」と親代わりになって若い母親の面倒を看てくれたものです。若い母親も「ちょっと迷惑かな…?」と思いながらも、そんな親切は結構頼りになったのです。それが、いつの間にか「プライバシー」という言い方で、「余計なことはしてはならない」文化が生まれ、実の親でさえ、娘や息子のことを心配しても「放っておいて頂戴!」と叱られるのがおちです。そうなると、子供が産まれても「責任持てないから、預かれないよ…」と拒否される始末です。何でも「責任、責任…」と言い過ぎたツケがこういう形で日本の人々の暮らしを狭めていったのです。しかし、困っているのは本当の話です。
子育てについて相談したくても、今や「ネット」か「公的電話相談」くらいしかありません。我が子が病気になったときも、すぐに飛んできてくれる親は近くにはいないのです。男といえば、少子化の時代ですから、子供のころから家の手伝いも碌にせずに育ってくると、実際、結婚しても何もできません。もちろん、「やらなければ…」という思いはあるのでしょうが、料理ができたら「すばらしい夫」になれるはずです。奥さんに「あなたも少しは手伝ってよ!」と怒られても、「だって、やったことないもん…」と開き直られると、どうしようもありません。こんな状態で苦労している母親は多いはずです。私の家では、私自身が料理などが好きで、若い頃から自炊していましたが、それ以外はあまりやったことがなく、妻に指導されながら「子育てに参加」した程度の働きしかできませんでした。実際は、隣に住む妻の母(私の義母)が頼りで、二人の子供を育ててもらいましたので、頭が上がりません。それは、本当に恵まれていたと思います。妻にしてみても、子供が小さいころは何かと義母の世話になり、いろいろなことを教わったと言います。そんな環境があればこそ、息子たちも立派に育ちましたが、今の時代、本当に恵まれた子育てができている人はどのくらいいるのでしょう。
もし、国の福祉制度として「巡回ママ」さんのような人が、週に一度でも定期に家庭訪問してくれれば、子育ても少しは楽になるような気がします。今、高齢者が介護認定を受けると「デイ・サービス」が利用できます。これは、介護認定の判定のランクによって利用料金等が変わるようですが、本当に「至れり尽くせり」で、有り難いシステムだと思います。これと同じように「子供が産まれた」とわかった時点で、福祉の「ケア・マネージャー」さんのような人が病院に訪問して、「巡回ママ」の制度を説明し、当人が了解すれば計画的に動くようにすればいいのです。もちろん、料金は「無料」でしょう。その他に育児に必要な物品は、すべて「1割負担」で借りられるようにすれば、ベビーベッドもベビーカーも哺乳瓶も安く使うことができます。その上、出産費用を無料とする他に、「祝い金100万円」が贈られれば、子供を産んだことで「国民が全員で喜んでいる」証になります。そして、この「巡回ママ」は小学校入学前まで継続され、その後は、「巡回子育てヘルパー」に引き継ぐのです。これも「週に1回」程度、必ず家庭訪問し、その親子との信頼関係を築き、場合によっては学校との橋渡し役も担えば、親たちはどのくらい助かるでしょう。こうすれば、常に「信頼された第三者」が家庭に立ち入り、家族の「安全」を見守ることができるのです。いいアイデアだと思うのですが、如何でしょうか。
5 子供が「憎い」人はいない
子供に関係する様々な事件を見ていると、やはり、どっかで「釦の掛け違い」のような失敗をしていることに気づかされます。一生懸命育てているのに、赤ちゃんは親の期待を他所に泣き続けます。「子供のためを思って…」小言を言っているのに、子供は「うるさい!」と言って心を閉ざしてしまいます。叩きたくはないけど、叩けば言うことを聞いてくれるので、それが常態化して「体罰依存」のしつけをしてしまいます。そして、体が大きくなると子供から仕返しをされ、「家庭内暴力」になってしまいます。「子供の夢」だったものが、いつの間にか「親の夢」になってしまい、親が夢中になり過ぎて子供を苦しめます。子供の小さな「嘘」を親が勝手に大事にして学校に怒鳴り込み、子供の人間関係を壊してしまいます。どれもこれも、親たちは何処かで「間違っている」ことに気づいているのですが、自分ではどうしようもないのです。「だれか、助けて!」と心の中で叫んでも、だれも気づいてはくれません。こうして、その家族は壊れて行くのです。そして、それは、お互いが年を取っても続きます。なぜなら、「親子」の関係は簡単断ち切れないからです。
最近、「毒親」とか「親ガチャ」という言葉が流行りましたが、これは、子供が大きくなって始めて気づく、真の親の姿を言い表した言葉です。でも、それを言う子供世代も、喜んでそう言っているわけではありません。もし、そうなる前にだれかの「援助の手」があれば、この親子は変わるチャンスがあったはずです。今や、学校の教師も「学校ブラック化問題」以降、これまでのような「なんでも相談室」ではなくなりました。「困った時は、即学校」というシステムは、もうありません。子供が家出をしても、警察に厄介になっても、学校の先生が助けてくれることは期待できないのです。親が自ら警察に通報し、自分の足で子供を探し出し、その後「言い聞かせ」なければならないのです。これまで、学校に過度な期待を寄せ、「先生なんだから、何とかしろよ!」と嘯いていた人たちは、逆に社会から「自分のことだろう。自分で何とかしろ!」と言われるのです。でも、本当にそんなことができますか。まず、無理でしょう。もはや、日本の「家庭」は自分たちだけでは「自律」も「自立」もできない状態に陥っています。それなら、日本の福祉制度を充実させ、「子育て事業」を広げることです。それができないなら、日本の少子化には歯止めがかからず、いずれ、コンピュータとロボットに社会が乗っ取られてしまうことでしょう。
子供は、接点の少ない人から見れば「邪魔な存在」「厄介者」「うるさい奴ら」なのですが、関わりの多い人にとっては「かけがえのない大切なもの」でもあるのです。どうして、こうも違うのでしょうか。昭和の時代は、街中に子供が溢れていて、子供の声が聞こえないことなんてあり得ない風景でした。学校の教室にも40人以上の子供がひしめいていて、小学校でも1000人もいる学校もありました。子供の声は、変声期を過ぎていませんので常に甲高く、大人の耳には「キー、キー!」と聞こえるのかも知れません。いつも汗をかき、フーフー言いながら走り回り、御飯をもりもり食べるのが子供でした。習い事に行く子も多くいましたが、それは「嗜み」程度の習い事で、私も「お習字」「算盤」は塾に行った覚えがあります。そんな子供が、平成、令和と続く中でどんどん減少し、今、街の中に出ても出会うのは「高齢者」と「働く人」ばかりです。本当は、子供がいること自体が「羨ましい」贅沢なことだと思いますが、自分中心で生きていると、そんなことすらも「煩わしく」なってしまうのでしょう。こうした日本人の感覚が少子化の問題につながっているような気がします。やはり、「子は宝」「子は鎹」と言うのであれば、国全体で少子化問題に取り組むべきなのです。
6 「親学」は、日本の伝統
「親学」というのは、特別な学問ではありません。昔からの日本の「子育て」を学ぶことを指します。何も新しい理論を学ぶ必要もありませんし、日本人は日本人らしい「子育て」があっていいと思います。脳科学の学者の意見では、子供は母親の胎内にいるときから、母親や周囲の人の声を聞いて育つと言います。よく、音楽が「胎教」にいい…などということも耳にしますが、やはり、優しい「言葉かけ」や美しい「音の調べ」は、子供にも嬉しいものなのでしょう。私も我が子が幼い頃は、「好きだよ…」とか、「かわいいね…」などと声をかけていました。事実、そう思うのですから仕方がありません。人の子と比べても「我が子が一番可愛い」と思ってしまうのが「親」というものなのでしょう。子育てで一番大切なのは、「情緒」を育てることだそうです。いくら「IQ」が高くても、それだけで生きられるわけではありません。やはり、人間として一番大切なのは「心」を育てることです。その「心」を育てるには、身近な人たちの温かな関わり方、笑顔、優しい言葉かけなど、その子を「愛している」という気持ちが伝わることだと思います。昔、「親は、我が子の4歳までの記憶で子育てをする」ということを聞いたことがあります。つまり、子供が本当に無邪気でかわいい時期は「4歳」までだということです。その時代の記憶があれば、その後に成長した子供との多少のトラブルがあっても乗り越えられる…という教えです。
子供が成長して「自我」が芽生えれば、親と言葉を交わすことも少なくなります。反抗期も訪れることでしょう。しかし、それまでの深い関わり方があれば、子供は「真っ直ぐ」に育ちます。これは、学校の教師も同じなのです。子供であっても、その人格を「尊敬」し、教師自身が子供に「嘘」を吐かないことです。そして、自分が教えたことは、教師が自分の身を以て「行動で示す」ことです。子供はいつまでも「子供」ではありません。いずれ大人になり、私たちを導く存在になるのです。そう思えば、子供の教育を疎かにすることはできません。そういう態度で接すれば、子供は大人や親を信じ、ついて来てくれるのではないでしょうか。大人は何かあっても自分の言葉で弁解することができます。そのとき、「子供」のことではなく、「自分」を中心にして弁解しているのではないでしょうか。「あの子が、こう言ったから…」とか、「あの子が悪いから…」などと問題を起こした原因は「子供にある」が前提では、親や教師は勤まりません。どこかで、「自分の至らなさ」を反省し、すれを口にするべきなのです。「申し訳ない。私がきつく言い過ぎたから、あの子も心を閉ざしたのだと思います…」くらいのことを言えば、子供も素直になれるのですが…。人間は、なかなか「反省」ができない生き物なのでしょう。
今の日本には、いろいろな意味で「哲学」がありません。「生きる」ということや「日本人」ということについても、しっかりとした「哲学」がないために、常に「損得」でものを考える習慣が付いてしまいました。子育てを「損得」などで評価したら、嫌になってしまうはずです。子育ては、単純に言えば「生き甲斐」だと思います。自分に何の見返りなどなくても、「この子を育てた」という喜びと自負は、自分の一生の財産になるはずです。「親になる」ことは、真剣に考えればとても難しいことなのでしょう。しかし、それを「喜び」と感じられるような社会になることを期待します。
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