忠臣蔵外伝「山吉新八郎の忠臣蔵」
矢吹直彦
序章 ある侍の死
時代劇で有名な「忠臣蔵」の登場人物の中に山吉新八郎という侍が出てくる。
吉良家の当主となった左兵衛義周に仕えた侍だったが、元は米沢藩上杉家の侍である。
米沢時代の家禄は少なく、武士としては軽輩の身分かも知れないが、元々貧乏藩であった上杉家の中では、けっして軽輩の扱いを受ける侍ではなかった。
ずっと先のことになるが、明治時代に活躍した福島県令山吉盛典は山吉新八郎家の末裔である。この山吉は明治の元勲である大久保利通が暗殺される直前に会った人物としても知られている。
明治時代になっても、
「あの山吉新八郎の末裔か…」
となると一目置かれたことは間違いない。それほど、この物語の主人公である「山吉新八郎盛侍」は後世に影響を与えた人物なのだ。
宝暦三年(一七五三)七月、この年は何故か冷夏に見舞われ春になっても空が晴れず、どんよりとした灰色の雲が空を覆っていた。いつもの年なら、この米沢にも春はやって来る。
米沢は、今の山形県南に位置し、最上川の源である吾妻連峰の裾野に広がる米沢盆地の中の城下町である。
今の福島県とは県境を接しているが、今でもその道路はカーブの多い山道で、当時は人の往来も限られていたことが想像できる。
冬は殊の外寒さが厳しく、今でも、「特別豪雪地帯」に指定されている。
会津と同じ内陸部の盆地であるため、降雪量は多く、冬場の往来は極めて難しく「天然の要害」と呼ぶに相応しい地形を利用して城を築き町を開いた。
そんな自然環境の厳しい土地でありながら、各所に温泉が湧き出ており、小野川温泉、白布温泉、姥湯温泉、大平温泉など、豊富な温泉群は新八郎の時代の前から米沢に暮らす人々を癒やしてきた。
東北地方のような厳しい環境で育った人間は、だれもが無口で我慢強い。その上、米沢藩上杉家は殊の外貧しい。
上杉家から食む禄だけで暮らせる家はほとんどなく、何処の家もそのあたりの百姓家とさほど変わらず、内職や畑仕事をしない武士はいなかった。それでも、名門上杉家の誇りだけは高く、幕末の戊辰戦争においても、最後まで新政府軍に抗った雄藩なのだ。
それに、上杉家にとって「会津」は、旧領だった土地である。
豊臣時代に、上杉家は越後から会津に移された。それも百万石を与えられ、五大老の一人になった。
会津は厳しい土地ではあったが、豊かな実りのある土地だった。そのため、徳川幕府によって米沢に移されてからも、会津は懐かしい故郷だった。
幕末の戦で、上杉家が会津の松平容保を最後まで見捨てなかったのは、正義が会津藩にあると信じたからだ。そして、会津松平家の侍が、命を捨てて会津という国を守ろうとした気持ちは、米沢上杉家の侍にもあった。
その土地には、自分たちの先祖が眠り、今を生きる領民がいる。それを守るのが「正義」ではないのか。戦った上杉家の侍の心の中には、常に「毘沙門天」がいたのである。
雪深い米沢に暮らす人間にとって、「春」という言葉の響きは、男女の恋に似た疼きを感じる。そのためか、東北には女の子が産まれると「春」という名をつける者が多いのも特徴だった。しかし、今年はその春がなかなかやって来る気配がない。
「今年は、冷夏になるのか…?」
いつものように、早朝から上杉神社に詣でる白髪の老人は、物憂げに空を睨むとぼそっと呟いた。
上杉神社は、慶長六年(一六〇一)に上杉家が会津から米沢に移されるに伴い、上杉謙信公の祠堂を米沢に移したことが起源とされている。後に、アメリカ大統領にまで知られるようになった「上杉鷹山公」も併せて祭神とされたが、この物語には上杉鷹山は、まだ、登場しない。
さて、この老人は、もういくつになるのだろうか?
結った髷を見る限り、武家には違いないが、体は痩せ細り、如何にも「先の短い老人」という風体ではあるが、杖代わりの樫の木の棒に頼るでもなく、その立ち姿には威厳があった。
余程の武術の達人か、はたまた学問をした人なのか…。とにかく、傘寿はとうに過ぎているようである。
通りがかりの男が、
「おい、爺様。そんななりでふらついていると風邪を引くぞ…」
と声をかけるが、老人は耳も遠いらしく、そんな声に反応するでもない。
かと言って惚けている風でもないのだ。
米沢の空は、未だにどんよりと重たい灰色の雲を敷き詰め、日射しを遮っていた。
老人は毎日のように日の出と共に、この上杉神社に詣でるのを日課としていた。それは、雨でも雪でも大風の日でも関係がなかった。 この一徹さがこの老人の見事さでもあるのだが、その体は、一見、今にも倒れそうな枯木のようだった。しかし、皺の奥に隠されたその眼だけは、千尋の谷を這い上がってきた「虎」のような光を宿していた。
そこに、孫娘の「小春」が近づいて来た。
孫娘と言っているが、本当は「ひ孫」にあたる娘である。しかし、それでは如何にも年老いた老人のようで恥ずかしいので、知らぬ者には「孫娘」で通している。
娘は、年の頃は十二、三になったであろうか…。
前髪を少し垂らし、白い頬のえくぼが愛嬌になっている。
冬の寒さのせいか、その頬はいつもほんのりと赤く、愛らしい。
小柄ではあるが、その身のこなしから武家の家の者だと察せられた。
「お祖父様…。今朝は殊の外寒いですので、早く戻るように父上が仰せです…」
小春の言う父とは、この男の孫を指す。
名を新十郎盛真と言った。
米沢藩上杉家の勘定方の武士である。それでも、既に三十は超えており、今や「上杉家勘定方二百石」の禄を食む当主なのだ。
米沢藩上杉家で二百石といえば上士なのだが、上杉十五万石は如何にも貧しく、二百石のうち半分は分引きされ、実際に支給されることはなかった。しかし、この男の家は、米沢新陰流の宗家を継いでおり、門人からの付け届けも多く、何とか台所は賄われていた。
「付け届」と言っても、現金がもたらされることはほとんどない。いつも、門人の家族が、庭の畑で採れた野菜や、内職の品を持って来るくらいのもので、よくて「手ぬぐい」の類いが精々だった。それでも、他家に比べれば恵まれている。それもこれも、この老人の働きによるものだった。
「おっ、小春か…?」
老人は、声をかけた「ひ孫娘」を見て眼だけで合図を送った。そして、娘の顔を見ることなく前を向いたまま、
「しかし、暦の上ではとおに春も過ぎたと言うに、これほど冷え込んでは、作物が育つまい…」
「困ったものじゃわい…」
そう言って、小春に手を引かれるようにして神社の鳥居を潜ったそのときである。
社殿の奥から出てくる数人の怪しい若党らに目が留まった。
男たちは、こそこそと周囲を見回しながら出てくるではないか…。
(さて、賽銭泥棒…ではないのか?)
そう感じた老人は、逃げるように足早に出てくる男たちに声をかけた。
「おい、お主たち、何処の者だ?」
すると、数人の男たちは、ギョッとした顔を向けたが、年老いた男と小娘に気づくと、如何にも憎々しげな顔を見せて近づいてきた。
この日の朝は、急激な冷え込みで靄がかかり、まだ、陽が差して来る気配はない。そのために、姿を捉えることはできても、顔までは判別できなかった。
男共は五人。
どうやら、武士ではない。
町のごろつきといった類いだろう。
神社の門前で二人を取り囲むように、グルグルと回って近づいてくる。
チンピラに限って体を揺すり、首を前に出しながら凄むのは、何処の土地でも同じなのかも知れない。
老人は、妙なことに感心しながら、その数人の与太者を眺めていた。
「お祖父様…」
小春は、痩せた老人の背に隠れるように身を縮めた。
老人は小声で、
「小春、ちょっと神社の鳥居の柱に掴まっていなさい…」
そう言うと、男共に眼で合図をするようにして、数歩左手に歩を進めた。それは、雪駄を擦るようにして足を運んでいるので、音は聞こえない。
男共は自然とその誘いに乗るように左へと誘われた。
その動きに不自然さはなく、この年老いた男が並の人間でないことを表しているのだが、この与太者たちにそれを見抜く力などはありはしなかった。
「な、なんだ、じじい!」
「やろうってのか…?」
眼を瞑っているかのような静かな佇まいに、男たちは次第に焦りを感じ始めていた。
こっちは五人。
相手は、耄碌したじいさん一人とあっては、男共も引くに引けない状態になった。
心の中では、
(なんだ、こんなじじい。すぐにでも畳んでやるわ…)
と、凄んで見せるが、どうも勝手が違う何かを感じていた。なぜなら、いつものように足が動かないのだ。
そのときである。
太陽の日射しがサッと男たちを照らした。
一瞬、男たちが眼を掌で覆う仕種を見せた。
その瞬間、老人の持つ杖に仕込まれた刃が、朝日を浴びてギラリと光った。
その素早い動作は、ほんの一瞬で、だれもが一呼吸もおかないうちに、刃は元の杖に収められていた。
居合の抜刀術と言えばいいだろうか。
「な、なんだてめえ!」
一人の若い男が野犬の遠吠えのように叫んだ瞬間、その着ている単衣の着物の帯がパラリと落ちた。
男たちの中には、下帯まで斬られた男もあった。
男たちは口を開く暇もなく、五人は、帯を斬られて醜態を晒すことになった。
「ひゃあ…!」
猫が蛙でも踏んづけたような声を上げて、男たちは斬られた着物の前を隠すこともなく慌てふためいた。
この寒いのに、男の一物もブラブラと晒している者もいる。しかし、どれも寒さで縮こまり、少し遠間にいる娘の目には見えなかったようだ。
すると、一人の男が気がついたものか、「おっ…!」
という声を挙げて前を合わせると、だらしなく垂れ下がった着物の裾を慌てて両手でたくし上げた。
呆然とした男たちは、現実に何が起きたのかも分からないまま、今の己の姿の惨めさだけは悟ったらしい。
五人は、困惑したような顔を見せながら、着物の裾を引き摺るように走り去って行くのだった。
本来は、「今に見てろ!」などという捨て台詞を吐くものだが、それすらも忘れたかのように、慌てふためく男共を見て、小春が老人の背中でクスクスと笑っていた。
「おい、小春、変な物を見ちまったかな…?」
小春は、「変なもの…?」と聞き返したが、まだおぼこの娘には、老人のこの言葉の意味がわからなかったらしい。
老人は、「フン…」と軽く鼻を鳴らすと、何事もなかったかのような風情で、小春に手を引かれて社殿に向かうのだった。
老人は、今でこそ、このようななりをしているが、米沢の城下でこの侍の名を知らぬ者はおるまい。
いや、江戸でさえ、この男に会わずとも、その名は老若男女に知れ渡っていた。
なぜなら、年末にかかる芝居の「忠臣蔵」には欠かせない登場人物の一人だからである。
この老人の名を「山吉新八郎盛侍」という。あの赤穂事件で名高い「山吉新八郎」その人なのだ。
芝居の「忠臣蔵」では「山吉新八」の名で登場することが多く、それが実在の名に近いために、巷で有名になった。だが、これと本人はまったく関係がない。
新八郎は、この年既に八十をいくつか超えており、隠居生活も長くなっていた。それでも、毎日家の隅にある二十畳ほどの道場に顔を出し、若い者に稽古をつけるのを日課としていた。
確かに、昔に比べれば体力は落ちたが、その剣捌きは何一つ衰えてはいない。
稽古では、若い者に分があるように見えるが、さて、真剣で立ち会えばどうだろう。
一瞬にして腕や足の腱を切断され、身動きができないようにされるのではないだろうか。
今朝のあの男共は、腱の代わりに着物の帯を着られただけですんだが、もし、新八郎にその気があれば、その場に五つの骸が並んだだけのことである。
小春がいたことで、彼らは命拾いしたのだ。 さすがに新八郎も若い娘の前で血を見ることを避けたのかも知れない。それより、与太者とはいえ、若者の命を奪うには気の毒とでも思ったのだろう。
(これも、年老いたせいかも知れない…)
と、新八郎は心の中で苦笑いを浮かべていた。
その晩、新八郎は夢を見た。
普段、夢など滅多に見ない新八郎だったが、この夢だけは脳裏に刻みつけられるように新八郎を度々襲った。それは、まさに自分の生涯の中で、最も辛く苦しい時代の思い出だったが、唯一、自分が侍として、その命を燃やした瞬間でもあった。
この夢を見る度に、苦しさと同時に心が熱く燃えるような強い感情が湧き上がるのを覚えるのだ。しかし、それを他の者に語ったことはない。
冷夏とはいえ、やはり夜は暑苦しく、新八郎の体は寝汗で濡れていた。それでも、何故か寒さを覚えるのだった。
「寒い…、寒い…」
新八郎の口元がそう呟いているように見えた。だが、それを知る者はだれもいない。
妻の初は、既に二十年前に他界し、それ以後、新八郎は独り身を通している。
初が生きていたころは、そんな新八郎を心配して、夜中でも声をかけるのが常だったが、急な病を得て一人静かに逝ってしまった。
その日は、まだ雪の残る春の朝だった。
いつもなら、新八郎より先に起きて台所仕事をしているはずが、この朝は、やけに静かだった。
新八郎は眼を覚ますと、思わず、
「はつ…?」
と声に出した。
結婚以来、女房の名を口に出したことなどない新八郎だったが、この日は、何故か「初…」という名を口にした。
普段は「おい…」で用が足りたし、武士たる者が、女房の名を口にするなどあってはならないことだと思っていた。
その名を口にして、新八郎は少し戸惑いを感じていた。しかし、何処にいても妻の気配は感じるものだが、今朝に限ってはそれもない。
新八郎は、徐に起き上がると、その足で台所に向かった。そこで眼にしたものは、初が寝間着のまま板の間に横たわる姿だった。
初は、まるで寝ているかのように眼を閉じ、青白い顔を見せていた。
口元が微笑んでいるように見えたのが、せめてもの救いだった。
(どうやら、苦しまずに逝ったようじゃな…)
後でわかったことだが、どうやら心の臓が弱っていたらしい。
「この朝の冷え込みで、急な発作に見舞われたのであろう…?」
と言うのが、医師の見立てだった。
新八郎は、何も言わず黙々と初の弔いを済ませ、いつもの生活に戻ったが、心の中は、ポッカリと大きな穴が開いたようで、気力を失せていくような気がしていた。しかし、それを傍の者が気づくことはなかった。
ただし、それ以来、ただでさえ無口な新八郎が、さらに口を閉ざすようになった。
もし、初が生きていれば、
「あなた、もう大丈夫ですよ。私がここにおりますから…」
と声をかけてくれたに違いないのだ。それは、新八郎にとっては、「魔法の言葉」だった。
礼を言ったこともなかったが、その言葉をかけられただけで、勇気をもらえた。それをもう二度と聞くことはないのだ。
(もう一度、初の声が聞きたいものじゃ…)
そう願う新八郎だったが、それは叶わぬ夢となった。
それでも、あの夢だけは、未だに新八郎を悩ませ続けた。
本当は、初にだけはその理由を語って聞かせようと思っていたのだが、恥ずかしさが先立って言わずじまいに終わってしまった。
他の者では、そんな他愛のない「夢物語」を語ったところで、年寄りの戯れ言にしかならないことを新八郎は知っている。それに、侮りを受けては侍の面目が立たぬ。しかし、今夜の新八郎の様子は普段とは違うようだった。
ただ、邸の離れに小さな「隠居所」を設け、自分のことは自分でする習慣を身に付けていた新八郎の変化に気づく家の者は、だれもいなかった。
新八郎は、「寒い…」と呟くと、頭が少しずつ醒めていくのがわかった。それは、現実の世界なのか、未だに夢の世界なのかはわからない。ただ、侍としての本能が頭を覚醒させようとしているのは間違いない。
新八郎は、改めて眼を閉じると耳に気持ちを集中させた。
何かが聞こえた…というより、胸騒ぎを覚えた。しばらくすると、遠くの方から多くの人間がこちらに向かってくるような足音が新八郎の耳の奥に微かに届いた。
(遺憾、これは…?)
新八郎の心臓が一瞬「ドクッ!」と高鳴った。それは、新八郎が一番恐れていた事態を招いたことを意味していた。
(まさか、今夜とは…?)
新八郎は、灯りを点けぬまま、枕元に置いた小袖に袖を通し袴を履いた。
小袖は用心のために稽古用の厚手の物を着た。これなら、寒さを凌げるだけでなく身を守ることができると考えてのことだった。そして、上杉家の家紋の入った鋼板を縫い付けた鉢巻きを締め、両刀を腰に差し込むや否や一人表に出た。
既に雪が積もっており、足下が覚束ない。
(しまったな…。やはり草鞋を用意しておくべきだった…?)
足袋は履いたが、足下は雪駄しかない。
それでも、新八郎の雪駄は革でできた丈夫な造りになっている。
(いざとなれば、裸足で戦うしかあるまい…)
そう思い、静かに侍長屋を出て表門に向かう。
表門には、不寝番が立ち、周囲を警戒しているはずだが、どうやら不寝番の足軽は口を塞がれたようだ。
新八郎の背中に緊張が走る。
物陰から見ると、数人の男が警戒しながら邸内に入って行くのが見えた。それに、既に邸の外には、かなりの人数が揃っているのが気配でわかる。
(やはり、赤穂の者共か…?)
腰の大刀に手をかけた…瞬間に、新八郎はガバッ!と布団を撥ねた。
(夢か…?)
体中が寝汗でぐっしょりと濡れている。
蒸し暑い夜だから、寝汗を掻くのは当然だが、この汗は別の意味を持つ。それに、この夢は、これまで幾度も見た。
そのたびに初に世話をかけたのだ。
その場で、「フーッ…!」と大きく息を吐くと、新八郎は呼吸を整えた。
(八十も過ぎて、五十年前の夢を未だに見るとは、儂も修行が足らんようじゃな…)
そう思って天井を見た瞬間、心の臓がドクン…と大きく動いた。
「うっ…!」
新八郎が出した声は、それだけである。
胸を押さえようとしたが、その間を神は与えなかった。
新八郎の体は、そのまま固まったように動かない。
眼を見開き、片膝を立てて、今すぐにでも立ち上がろうとする姿勢のまま、新八郎の心の臓は俄にその動きを止めた。
ここまで八十数年間動いていた新八郎の心の臓は、なんの前触れもなく、突然、動きを停止したのだ。そして、それがあまりにも突然だったので、新八郎は呆然としたまま、また夢の世界に戻っていった。
翌朝、その異様な姿を見た家の者は驚いたという。
なぜなら、骸となった新八郎は、大刀に右手をかけ、今にもその場に立ち上がらんとする姿で死を迎えていたからである。
眼は空を睨み、口は一文字に結ばれた表情からは、だれもが戦いに臨むであろう侍の姿を想像していた。そして、
「新八郎殿は、己の死を迎える直前に、一体何を見たんだ…?」
新八郎の最期を聞いた人たちは、だれもがそう呟いた。
享年八十三。
安寧の世にただ一人、本物の戦場を知る男の見事な死に様だった。
第一章 茶会の夜
江戸の師走は寒い。
それでも日中は陽が差せば、暖かい陽だまりもできるが、陽が落ちれば一気に寒気が体にまとわりついてくる。
この時代の着物は、後の世の洋服とは違い、冷気が体内に入ってくる隙間が多い。
冷気が入らないように胸元を必死に合わせるが、首回りからも冷気は入ってくる。
袖口からも裾からも至る所から冷気が体内に侵入し、体も心も凍えさせるのだ。それに、着物という衣は、あまり厚着には向いていない。まして、武家ともなれば、着重ねもままならず、日中、襟巻きを巻いているのは、浪人者か無役の御家人くらいなもので、歴とした禄を食む旗本や各大名家の家臣にはそんな者はいなかった。
だから、「やせ我慢」という言葉があるように、だれもがこの寒さに身を縮めながら「我慢」を自ら強いているような生活を送っていた。まして、暖房が火鉢か炬燵では、炭代もばかにならない。
多くの庶民は、早々に夕飯を済ませれば、後は布団に潜り込むしかない。
嫁でもおれば、その体を抱くだけで暖は取れるが、大抵はそれだけでは済まなくなる。
しかし、独り者は、猫でも抱くしかあるまい。最近は、菜種油も高くなってきており、炭代、油代と暮らしにかかる金はいくらでもいる。そこで繁盛するのが「湯湯婆屋」だった。 飯の支度に合わせて熾した火で湯を沸かせば、湯たんぽの二つや三つにはなる。
この陶器製の「湯湯婆」は、中国から室町時代には日本に到来したものらしいが、上級武士などは、銅製の物を使用しているとかで、庶民にはちょっと手が出ない。それでも、陶器製は扱いやすく、家の中に二三個は買い求めてあった。
どの家でも湯を沸かした序でに、残り湯を「湯湯婆」に入れて暖を取るのである。
おそらく、寒がりの大石内蔵助や吉良上野介も冬場には、この道具の世話になっていたに違いないのだ。
庶民なら、その湯湯婆を真ん中に置き、家族みんなで布団の中に足を突っ込み合って暖を取った。しかし、武士だとそうはいかない。
家の主人はともかく、子供までも使わせてくれる家は少ないはずだった。なぜなら、それは「武士だから…」ということになる。
子供のころから、
「武士の子たる者、我慢ができないでどうする!」
と叱責され、「寒い…」と身を縮められるのは、武士以外の庶民の子供たちの特権だった。
夕刻時にもなれば、陽が落ちるのも「釣瓶落とし」で、早々に雨戸を閉め、家の中に籠もってしまうので、外は犬猫でさえ歩かないと言われていた。そんな江戸の本所、回向院裏の旗本邸では、恒例の「年忘れの茶会」が催されていた。
その邸の主である吉良上野介義央は、前の高家筆頭職、四千石の大身旗本である。それも官位は、従四位上左近衛権少将というとてつもなく高い位の武家なのだ。
この官位は、徳川家親藩の大名に匹敵するような官位であり、並の大名の遥か上に立つ地位を有していた。その吉良義央が催した茶会である。
江戸の高名な茶人、俳人、そして幕府の高家職と呼ばれた人々が招かれ、賑やかな会は夜更けまで続いた。
吉良家では「年忘れの茶会」という趣旨で行われていたが、だれもが「送別の茶会」だと忖度していた。それは、高家職を正式に引退した上野介が、上杉家の領地である米沢への隠居が取り沙汰されていたからである。
集まった客は、口々に、
「いつ、赤穂の浪人が押し入るかも知れぬ江戸に居るより、遠く離れた米沢なら上野介殿に手出しはできまい…。年明け早々にも米沢に籠もるに違いない…」
そう言い合ったが、だれもがそれを確かめることもできず、茶会の夜は更けていった。
そもそも「茶会」とは申せ、茶を飲むのは最初の一服だけで、後は酒の席が用意されている。
江戸の街中から贅を尽くした馳走が膳を飾り、側には美しい女人が侍るとなれば、高貴な身分の者であっても鼻の下の伸びない者はおらぬ。
その間にも琴や三味線の音曲が奏でられ、艶やかに着飾った娘の舞も披露されるとあっては、まさに「年忘れ」の数刻を過ごすには絶好の機会であった。
この日ばかりは、この家の主も久々に明るさを取り戻したかのように顔が綻んで見えた。忙しいのは、この家の者たちばかりである。
ただ一人、渋い顔をして酒も飲まずに奥にいたのは、「若殿」と呼ばれている上野介の孫にあたる左兵衛義周のみだった。
義周は、上野介の孫であるだけでなく、この高家旗本四千石の正式な後継者だった。と言うより、この年末に上野介が公儀に対して隠居届を出していたので、実質的な当主は、
義周なのだが、家来たちも理屈ではわかっていても、なかなか、これまでの習慣は崩せなかった。それに、まだ、二十歳前の義周は、今宵の宴席には招かれていない。
義周は、心の中では、
(こんな派手な宴をやっている場合ではないだろうに…)
そう思っていたが、一方では、
(お祖父様も、これまでの我慢、さぞやお辛かったことであろう…)
と、同情を禁じ得なかった。
なぜなら、上野介も年が明ければ、故郷の三州吉良に引っ込むつもりで用意していたのだ。
さすがに、「米沢」はない。
義周の側には、近習の者たちが控えていたが、その者たちも今宵ばかりは忙しそうなので、義周なりに気を遣い、早々に床に入った。
元とはいえ、高家筆頭まで勤め上げた上級旗本の「茶会」に粗相があってはならない。この家に仕える百人以上の侍や女たちは、だれ一人として暇な者はいなかった。いや、それより、朝からずっと働き詰めである。
客がいる以上、一人だけ先に酒を飲むわけにもいかず、たすき掛けで働く姿は真冬だというのに、ハアハア…と息を弾ませている。そして、だれの額にもうっすらと汗を滲ませ、その熱気が、火鉢の中で熾った赤い炭以上に周りを温めてくれているように思えた。
この物語の主人公である山吉新八郎という侍もその一人だった。
その晩、新八郎は吉良邸の表玄関に張り付き、下足番のような仕事をしていた。
人手が足りないのもあるが、吉良家に長く勤める者が少ないために、客の素性がわかる者が必要なのだ。
巷では、
「いつ、赤穂の討ち入りがあるかも知れん…」などという噂もあり、茶会とは申せ、忍びでも入り込まれては一大事である。そこで、上杉家から吉良家に派遣されて十年以上になる古顔の新八郎が選ばれた。そこに、米沢から来たばかりの若い付け人の新貝弥七郎が、
「なんだ…。吉良邸は、もっとピリピリしているのかと思っていたら、案外、暢気なんですね…?」
そう言って、新八郎にくっついて玄関先に出ていた。
(若い奴は、暢気でよいな…)
と、嬉しそうにキョロキョロとしている弥七郎が、新八郎には可愛く見えた。
既に三十も半ばになった新八郎には、二十歳そこそこの弥七郎は弟というより、息子のようにも見える。だが、頼りなく見える弥七郎も米沢新陰流の遣い手の一人として、吉良家の当主となった義周の側に仕えることになったのだ。
新八郎が道場で剣を交えてみると、まだ粗さは見えるが、さすがに目録の腕前は確かで、万が一の時には大きな戦力になることが期待されていた。
弥七郎は、この邸の主、吉良上野介義央が浅野内匠頭に城中で斬られたことで、額に傷を負ってしまったことを米沢で聞かされていた。
米沢城下では、江戸ほど評判にはなってはいなかったが、納戸役の見習いを命じられていた弥七郎は、上司の笹井源一郎から内々に聞かされていた。
この「見習い」という制度は、上杉家独特のもので、今でいう「アルバイト」である。
部屋住みの長い藩士の子弟で、家で燻っている者に僅かばかりの賃金を与えて、正式な仕事が与えられるまでの「つなぎ」として、仕事を覚えさせていたのだ。
笹井は、四十半ばの侍だが、特に取り立てて特徴はない。ただ、「整理魔」の評判があり、とにかく、納戸に保管されているものはすべて熟知しているという納戸役のエキスパートだった。それに、家中では「情報通」で知られており、どこから聞いて来るのか、江戸や京の情勢にも詳しく、町人の噂話もよく知っていた。その源一郎が、弥七郎の側に来ると、
「お主、今度、吉良家に行くそうだが、十分気をつけて参られよ…」
「赤穂の者共が、そろそろ事を起こすような噂もある。吉良様は江戸では、かなり不人気と見えて、町の者共は仇討ちを待ち望んでおるらしいぞ…」
そんなことを耳打ちするのだった。
弥七郎は、(へえ、そうなのか…?)くらいの気持ちしか湧かず、源一郎には、
「はっ、畏まってござる!」
と丁寧に頭を下げて見せた。この男は、それで満足らしく、「うむ…!」と頷いて行ってしまった。
この弥七郎の直属の上司にあたる笹井家は、禄高は、僅か三十石五人扶持の軽輩の身上ではあったが、上杉家自体が貧乏を画に描いたような大名家なので、百石を超えるような武士は数えるほどしかいないために、他家では中堅の侍に当たる地位にあった。
木綿の着衣も薄汚れて、あちこちツギを当てているが、それでも米沢では決して恥ずかしくはない。
今時、絹の羽織や裃を着けているのは、家老くらいなもので、殿様の綱憲公でさえ国元では、
「儂も木綿の衣服で良い…」
と言うくらい藩を挙げて質素倹約に努めているのだ。そのためか、江戸の吉良家に対しては米沢の者は、あまりよく思っていない。しかし、米沢藩上杉家が今こうしてあるのは、吉良家のお陰なのだ…ということもみんな承知していた。
そもそも上杉家は、徳川の天下になる前は、上杉謙信公を祖とする会津百万石の大大名だった。
徳川家が実質四百万石だったと言われるように、百万石という領地は破格の待遇と言う他はない。それだけ、豊臣政権は、名門上杉家を重要視していたことになる。それは、上杉謙信自体が野心家ではなく、
「越後という国の安寧を願う」
という態度に終始し、その戦は常に「正義」でなければならない…という鉄の掟があったからなのだ。
豊臣秀吉の側近であった石田三成は、上杉家重臣の直江兼続と昵懇の間柄であり、その絆は終生続いたという。
豊臣秀吉が天下を取ると、その命により、越後から会津に移されたが、家臣は上杉謙信公以来の強力な軍団を備え、その旗印である「毘沙門天」は、正義の象徴でもあった。それが、関ヶ原の合戦で石田三成に与したために会津から米沢に移され、百万石から三十万石まで減らされて、何とか改易を免れていた。
さらに、徳川家四代家綱公の時代に当主綱勝が急死し、無嗣子のために断絶の危機を迎えたが、当時の幕府宿老だった会津の保科正之の尽力もあり、急遽、親戚筋の吉良家から養子を迎え存続が認められたのだ。しかし、それで済む話ではない。
跡継ぎの公儀への届け出が遅れたという理由で、三十万石が半分の十五万石に減らされ、米沢の上杉家は辛うじて家が存続しているという有様になっていた。そのため、本当なら家臣を大幅に減らさなければやっていけないのに、「謙信公以来の家臣団」の結束は強く、家臣一同が、
「家禄を減らされても上杉家に残りたい…」と嘆願し、上杉家全体が貧しさに耐えることを選択したのだった。そのため、上杉家の家臣は皆等しく貧しい。
僅か三十石でも大したもので、十石程度の侍は米沢には何処にでもおり、どの家でも蚕を飼い田畑を耕し、普段は農民と変わらない暮らしぶりだったのだ。
弥七郎は、馬廻り五十石新貝喜兵衛の次男で、どのみち養子先でも探さねばならない身であったが、たまたま、剣の腕を見込まれて吉良家の養子に入っていた春千代こと左兵衛義周の付き人として江戸に出て来たばかりだった。
そのころ、吉良上野介義央は、あの忌まわしい刃傷事件から約一年が経過し、高家職を引退する旨を幕府に届け出ていた。
義央にとっても、刃傷事件以降の世間の風当たりは強く、江戸の町ではすっかり嫌われ者になっていた。
瓦版などにも言いたい放題に書かれ、すっかり「悪人」が定着していたのだ。
江戸の町衆にしてみれば、高家職四千石の上級旗本など、顔も見たこともない「雲上人」であり、有職故実に精通していると言われても、何のことかもわからない。
それに比べて、赤穂浅野と言えば、有名な堀部安兵衛が仕官した家であり、美味いと評判の「赤穂塩」の産地としても有名で、その親しみの度合いはまったく違うのだ。
逆に「吉良家」と言われても、吉良の領地のある三州には縁のある江戸者も少なく、尾張徳川家と江戸徳川家は犬猿の仲で有名だったために、吉良家はそういう意味でも「吉良われ者」などと揶揄される始末だった。それに、額に大きな傷跡が残った姿では朝廷への憚りもあり、ちょうど還暦を迎えたこともあって引退を決意したのだ。
このとき、義周は春千代から元服して左兵衛義周と名乗ったばかりで、まだ、十五歳だった。
十五と言っても、現代の十五歳ほど幼くはない。既に元服をしませておれば、一人前の武士としての扱いを受ける。そうなれば、奥方を迎える者もいるし、側室も置ける。
男としても一人前で、側で面倒を看てくれる女性がいても不思議ではない。
ただ、酒を飲むことを控えるくらいのもので、分別も一人前にあった。
この左兵衛義周は、細身ながら背も高く、
幼いころから鍛えた剣の腕前は、他の吉良家の家臣にも引けを取らなかった。
義周は、上杉家の当主綱憲の子で義央の孫に当たる。
綱憲は、名門上杉家にとって殊の外大切に扱わなければならない主君であった。なぜなら、この男がいなければ、名門上杉家は間違いなく改易の憂き目を見ていたからである。
本来は、高家筆頭の旗本である吉良家の嫡男であり、他家に養子に出るような立場ではない。
いずれは吉良家の当主となり、上野介から旗本四千石と高家職を引き継ぐことが決まっていたのだ。それが、上杉家の一大事に縁戚である上野介は、断腸の思いで自分の嫡男を上杉家に出したのだ。このとき、他の手段はなかった。
この負い目は、上杉家家中にとっての弱点であり、必要以上に吉良家に対しては謙る他はない。
つまり、吉良上野介義央は綱憲の実父であり、義周は実の孫に当たるのだ。
詳しくは述べないが、吉良家と上杉家は、幾重もの縁でつながっており、ほとんど一心同体と言っても過言ではなかった。
それにしても、十五歳の高家見習いでは、まだまだ心許なく、祖父の上野介義央が事実上の吉良家の主であることに異を唱える者はいなかった。
弥七郎は、この義周が名目上の当主になるのにあわせて、「付け人」として、上杉家から派遣された。そういう意味で、新八郎は、弥七郎の直々の上司にあたる。しかし、元々、物事に拘らず飄々としている弥七郎は、新八郎にも気安く話しかけるような今風の若者の一人だった。それに、江戸に来てから弥七郎は、髷を「江戸風」にしていた。
新八郎が、それを見咎め、
「何だ、弥七郎…。米沢の侍が早々に江戸風に染まるとは、米沢侍も軽くなったものだな…?」
と不満を口にしたが、弥七郎は特に気にする風でもなく、
「まあ、山吉様。そんな堅いことを言っていると、江戸の女に嫌われまするぞ…」
「江戸の女は、田舎くさい侍を(芋侍)と陰で呼んでいるらしいですからね?」
「それに、郷に入れば郷に従うのも、孫子の兵法と言うものでござろう…?」
「まあ、私は、一度、こんな格好いい江戸風の髷にしてみたかったんです…」
「上手くいけば、江戸の商家の婿にでもなれるかも知れませんし…」
そう言って、カラカラ…と笑うのだった。
「おまえ、侍を捨てるのか…?」
「いやいや、ものの例えでござる…」
まあ、こうした暢気で明るい物言いが弥七郎のいいところなのだが、若い弥七郎に言われて新八郎も(そんなもんかな…?)と手を頭に乗せ髷を直すのだった。
そんな他愛のない会話もこんな日だからこそできるというもので、「今日の茶会は特別なもの」という意識が吉良邸を覆っていた。
二人は、粗方の客の迎えが終わってホッとした束の間、今度は、周囲の巡回警備を仰せつかった。それを命じたのは、やはり米沢藩出身の家老小林平八郎である。
平八郎は、もう三十年以上吉良家に奉公している古株である。
元々は、江戸詰百石の家柄だったが、吉良家に輿入れをした富子姫付の用人として籍を上杉家から吉良家に移したのだ。しかし、これは建前で、もし、富子に万が一のことがあれば、元の上杉家に帰参することになっているのだが、そんなことは起こる様子もなく、次第に吉良家で頭角を現し、今では、吉良家二百石の家老職に就いていた。
上杉家十五万石なら、家老となれば最低でも一千石にはなるだろうが、旗本四千石では、家老と言っても上杉家の頃より少し多くなったくらいだった。それでも、高家筆頭家の家老職ともなれば、各大名家との付き合いもあり、何かと忙しい毎日を送っていた。
この小林平八郎も米沢新陰流の免許皆伝の腕前で、江戸では一刀流も学んだと言っていた。
年は、五十をいくつか過ぎた初老の侍で、新八郎とは親子ほどの年の差があった。そのせいか、同じ米沢者として面倒なことは命じやすいのだろう。
吉良家には、上杉家から移って来た侍と、元々の吉良家の領地である三州吉良の庄から召し抱えられた者がいて、あまり仲はよくない。そのため、上杉出身の小林平八郎と吉良出身の左右田孫兵衛と松原多仲の三人が、家老職となっているのである。
孫兵衛は、上野介より少し年下だが吉良家譜代の家柄で、それこそ算術に明るく如才がない。
他家との交渉も上手く、常に義央に付いて周囲に眼を配っている。やはり、高家筆頭ともなれば、それなりの格式があり、孫兵衛もそれなりに有職故実に精通しており、義央は、
「孫兵衛が高家職なら、儂も随分助かるのだが…」
とぼやくほどだった。
また、松原多仲は奥向きを預かる家老で、普段はあまり目立つことはないが、実直を画に描いたような男だった。そして、取り次ぎ役として上野介に侍っているのが、やはり吉良出身の鳥居理右衛門である。
理右衛門は、平八郎に年も近く、孫兵衛が隠居すれば次の家老職になることが決まっていた。
理右衛門は吉良家出身者のまとめ役で、やはり剣の腕は立つ。
若いころは義冬、義央の護衛の役割を担っていたが、四十を過ぎたころからは、取り次ぎ役として吉良家家中で重きを置いた侍であった。
ここ数年は、その剣の腕を披露したことはなく、確か、小野派一刀流の免許だったはずだが、それを隠して黙々と仕事をこなすような古武士だった。
孫兵衛と多仲、理右衛門が常に上野介義央の側近くに侍っているのに対して、平八郎は奥方である富子付の侍だったためか、家老職に就いてからも上野介を苦手にしていた。
上野介にしても、気心の知れた吉良者と違い、気候風土も違う米沢者とでは、話す話題にも事欠く始末で、そもそも東北訛りがよくわからない。
平八郎は、人物は確かだが、この訛りが何年江戸にいても治らなかった。
まあ、新八郎や弥七郎には関係のない話だが、それでも、上杉侍への指示は、ほとんど平八郎をとおして行われた。
「おい、すん八郎…。それが終わっだら、周囲をよぐ見張れ!」
「こげん時こそ、赤穂の連中が来ねえとも限らねえんだからな!」
そう言って、平気で夜の寒空の中の外仕事を命じるのだ。
「はっ、畏まりました!」
新八郎の言葉遣いや態度は丁寧だったが、心の中では、
(ちぇ、このくそ狸が!)
と悪態を吐いた。
(それにしても、平八郎殿の訛りはきつい…)
それに、一緒についてくる弥七郎は、まだ二十歳と若く、三十半ばの新八郎とは一回りも違うのだ。
この夜の見回りも、奥州米沢から来たばかりの若い弥七郎には何でもないことだろうが、江戸暮らしが長くなり、中年に差し掛かった新八郎には堪える。それに、最近は神経痛も出ており、こうした寒い夜ほど腰に来る。
もちろん、そんな弱音を吐くことができないが、後で腰が痛くなるのは勘弁して欲しかった。
「今日はついてないな…」
「上野介様の年忘れの茶会で、玄関先での接待を命じられたかと思えば、今度は、この夜更けに外の見回りだとよ…。くそっ、まったくついてないぜ!」
そう悪態を吐く新八郎だったが、弥七郎は、
「まあ、いいじゃないですか。これも、付き人の仕事ですから…」
と割り切っている。
この新貝弥七郎という男は、米沢藩馬廻役新貝喜兵衛の次男で、まだ部屋住みである。 このままでは、養子先が見つからず田舎で燻っていたところ、吉良家の付き人の話があり、真っ先に手を挙げて志願して来た男だった。
幸い、剣の腕は目録までもらっている。
明るくさっぱりした若者で、田舎より都会が向いているような男なのだ。
だから、この付き人を無事に勤め上げたら、吉良家に仕官か、何処かの養子になるつもりなのだろう。
本当に商家の婿になるかも知れん。
実際、江戸詰の米沢藩士の家からは、ときどき、刀を捨て商人や農民になった者もいるのだ。ただし、どれもそれなりの資産家の家の婿である。
弥七郎はそんな例え話を聞かされて、あわよくば…と考えているのやも知れなかった。まあ、それも時勢だろう。
とにかく、新八郎との縁もあり、左兵衛様付の付き人にしてもらい、四六時中、左兵衛付き用人の新八郎にくっついていた。そんなわけで、深夜になっても仕事は終わらず、底冷えのする中で邸内を警備して回っていたのである。
それでも半刻もすると、吉良邸内での茶会の後片付けも終わったようで、巡回も「終了せよ!」のお達しがあった。
「おい、弥七郎…。一杯熱いのを飲もうぜ。もう、体が冷えきっちまった…」
新八郎は、弥七郎に声をかけると、そそくさと裏の台所に回って行く。
台所には、奥に八畳ほどの座敷が設えてあり、火鉢には滾々と炭火が熾っている。これも、吉良家の優しさなのだ。
弥七郎は、吉良家に奉公して間もないが、この家は、家来に殊の外優しい家柄だった。
給金は高くはないが、その代わり、飯が美味い。さらに、だれもが軽輩者にも優しく、身なりにもうるさかった。古く汚れた衣服などを着ていると、奥の女中などから、
「何ですか…、その恰好は?」
と言われて、早速、納戸から古くても仕立てのいい単衣を持ってきて、その場で着替えさせられるのだ。
その上、その上等な衣服を褒美として頂戴できることがあった。
主人の上野介が身嗜みには殊の外うるさく、たとえ軽輩者でも気になる者があれば、すぐに側の者に声をかけ、衣服を改めさせた。
弥七郎の「江戸髷」も上野介の意に適っており、新八郎に小言を言われる筋合いはない。
そんなわけで吉良家の納戸には、少し古くなった着物が山積みされており、その中でも比較的質のいい物は、もう一度洗い直し、修繕をして若い者に下げ渡すことも多かったのだ。こうした心配りは、主、上野介から発せられている。
そう言えば、新八郎の妻の初も、邸に手伝いに出るときは、パリッとした上等な着物を着て行ったが、奥を取り仕切る「お局様」から戴いたと言っていた。
吉良家のお局様と言えば、富子姫付のお女中である「幸の局」様以外にはおらぬ。
(そうか、幸の局は、元は上杉の家の者だから、米沢者だったわ…)
上野介の奥方である富子姫は、上杉家第二代藩主上杉定勝の娘である。
富子は、今から四十年程前に吉良家に輿入れしたが、そのときから幸の局は、富子の側にいたことになる。
その幸の局にしても米沢の女は可愛いのだろう。初にも何かとよくしてくれるようだ。
それだけに、だれもが身なりには気をつけており、特に殿様や奥方様に会う役目の者は殊の外、気を遣った。
当主の上野介は、高家筆頭の高位にある殿様だが、この台所にもしょっちゅう下りて来る。そして、女中や台所侍にも声をかけるので、みんなは驚いたが、評判は上々だった。
上野介は年は老いても細身で背筋が通り、目鼻立ちのはっきりした「お公家顔」なので、若い女中たちにも人気があった。
その上、話し方もその態度も品があり、その振る舞いには隙がない。
子供のころから高家職として自立するよう躾けられたためか、その仕種が自然なのだ。それに比べると、同じ大名でも田舎の者ほど粗野に見える。
おそらく、浅野内匠頭の刃傷沙汰もそんな些細なことが原因かも知れなかった。
人間は、どうもつまらぬことを根に持つところがある。
いくら大名と言っても、所詮は人間なのだ。気に入らぬことはたくさんあるし、人間の好き嫌いも出る。それは、仕方のないことなのだろう。
新八郎も弥七郎も、深く考えたことはないが、上野介と自分たちが同じ人間とは到底思えない隔たりを感じていた。その上野介に弥七郎も何回か声をかけてもらっている。
最初のときは、
「そうか…。寒い米沢から、すまぬのう。義周を頼むぞよ…」
そう言って、頭を下げるので、弥七郎も困ってしまった。
それにしても、そんな偉い殿様から直々に声をかけられただけでも名誉なのに、頭まで下げられたとあっては、これで張り切らない方がおかしい。
国元では、弥七郎を案じ、
「なかなか、養子先が見つからんな…?」
と父親の喜兵衛が嘆くばかりで、こればかりはどうしようもなかったが、吉良家への出仕の話が出ると喜兵衛は大いに喜び、弥七郎の仕官祝いにと立派な着物を誂えてくれた。
新貝家は、譜代の家柄で百石を賜る上士だったが、その家禄も名目だけで、今では半分の五十石も貰えればいい。
凶作ともなれば、その五十石も何かと理由を付けられて分引きされることも多いのが実状だった。それ故、喜兵衛は、早いところ三男の弥七郎を養子に出したかったのだ。そうすれば、食い扶持が一人減ることになる。これも、上杉家では切実な問題になっていた。
上杉家は、戦国時代には上杉謙信を擁し、かの豊臣秀吉や徳川家康とも互角に戦った「越後の龍」の異名をとったほどの武勇の家柄だったが、天下分け目の戦いといわれた「関ヶ原」の一戦において西軍の大将石田三成に与し没落した。
北の拠点である会津に陣を構え、攻めて来るであろうと徳川軍と決戦に挑むべく大軍で布陣していたところ、僅か一日で石田三成の西軍が関ヶ原で崩壊し、上杉家は戦わずして徳川家康に敗北したのだ。
その結果、会津に百万石あった領地を没収され、米沢に僅か三十万石で生き長らえたのである。そして、遂に先代の時に跡継ぎがすべて死に絶え、改易になる寸前に吉良上野介の嫡男である今の上杉家当主綱憲を養子に迎え、改易を免れたという経緯がある。
その代わり、領地を半分に減らされ、上杉家は十五万石の大名として生き残ったが、そのために、吉良家とは切っても切れない深い関係になっていた。
その吉良家の当主、吉良上野介が赤穂浅野家の当主、浅野内匠頭長矩に江戸城中で襲われたのだから、話は穏やかではない。
この話は、すぐに米沢にも届いた。
弥七郎が、その話を聞いたのは、ちょうど米沢城下にある藩の道場で、同じ若者侍同士で稽古をしている最中のことだった。
「おい、おい。大変なことが起こった…。弥七郎、みんな集まってくれ!」
そう血相を変えて飛び込んで来たのが、同僚の安達貞治郎だった。
貞治郎は、上杉家右筆五十石安達貞雄の三男である。
剣の修行よりも、こうした情報を集めるのを得意としていた。人間にはどうやら得手、不得手があるようだ。
貞治郎は、ぜいぜいと咳き込みながら、道場の板の間に駆け込んでくると、
「に、刃傷だ。江戸城中で、刃傷だそうだ…」
「吉良の殿様が…、浅野にやられたぞ…!」
その言葉に、道場にいた十数名が色めき立った。
「な、なんと。それで、吉良の殿様は…?」
「お、お命は無事なのか…?」
「どうなのじゃ?!」
若い者たちが、貞治郎を取り囲むように責め立てると、貞治郎は、
「そ、それは、儂にもそこまではわからぬ。ただ、浅野が吉良様に松の大廊下で刃傷に及んだと…、江戸城は大騒ぎらしい…」
やっとの思いで貞治郎が話すと、若い者たちは一瞬は慌てたが、そのうち、
「まあ、上杉にとっては大恩ある吉良様だが、まあ、我が殿に災難がなかっただけよしとするしかあるまい…」
そう言って、あきらめ顔で板の間に腰を下ろしてしまった。
弥七郎も、
(まあ、上杉にとっても厄介なじいさんだからな…)
と所詮他家の出来事として噂話として広まる程度だった。
大騒ぎになったのは、江戸の新八郎である。
新八郎は、このとき義周の剣術の稽古のために道場で汗を流していた。
この日は、朝からの曇天で肌寒い一日だった。
急な報せは、瞬く間に江戸城中から各藩邸にもたらされた。
当事者である吉良家と浅野家は大騒ぎとなった。
吉良家では、万が一上野介が亡くなれば、すぐにでも義周が吉良家を相続しなければならず、屋敷にいた家老の松原多仲は、慌てて義周が登城する用意に取りかかった。それを見咎めた富子が、
「何をしやる!」
「そんなことより、殿の安否を確認するのが先じゃ!」
と、怒鳴りつけた。
多仲は、富子の剣幕に驚いて慌てふためくばかりで、役に立たない。
そこで、平八郎が、
「すぐに、物見を立てますれば、ご案じ為されるよう…」
と取りなした。
新八郎は、不安な表情の義周に寄り添い、
「なあに、大丈夫でござるよ…。殿はああいうお人じゃ。滅多なことはありませぬ…」
そう言ってはみたものの、やはり「万が一」に備えることは忘れてはいなかった。
別に家老の松原多仲が粗忽だったわけではない。たまたま、側に富子がいただけのことで、家を守るとはそういうことなのだ。
新八郎は、道場にいた侍たちに、
「こういうときこそ、落ち着かねばならぬ。とにかく、城内での出来事じゃ。殿の安否を確認次第、ご公儀の判断を待つしかあるまい…」
そう言って、稽古を中止とさせ、次の報せを静かに待つように…と命じたのだった。
確かに、そう命じた新八郎ではあったが、まさか、千代田の城内で刃傷沙汰が起きるとは、不思議でならなかった。
(なぜ、そんなことが起きるのだ…?)
(あり得ん!)
(徳川幕府が開かれて百年。その支配体制は固まり、徳川家に逆らうような大名はすべて改易されてきた。ましてや、我が殿である上野介様は小大名では及びもつかない高貴なお人なのだ。その御方に刃傷とは、気が狂ったとしか思えん…)
新八郎も自分なりにその背景を考えては見たが、思いつく理由は何も見つからなかった。
義周は、そんな新八郎を見ながら、
「大事ない。殿はきっとご無事じゃ。皆の者、心配いたすな…」
と声を上げた。そして、近くに居た川尻新右衛門に、
「新右衛門、そちは急いで江戸城中平川門に向かい、様子を見て参れ!」
と命じるのだった。
それは、普段の大人しい義周ではなかった。 まるで、吉良家の当主のような堂々とした振る舞いで、新八郎たちを驚かせた。
新八郎は、
(この御方は、生まれながらに大将の器をお持ちなのかも知れぬ…)
と、改めて義周の顔を見詰めるのだった。
新右衛門は、命じられたとおりに一目散に平川門に走った。すると、既に門は閉じられ、中の様子は分からなかったが、周辺の様子から城内が大騒ぎになっていることが伝わって来た。そこに、城内にいた用人の鳥居理右衛門が脇門から出てきたではないか。
新右衛門が「鳥居様!」と声をかけると、理右衛門は、
「よう参った、よう参った…」
と言いながら、気持ちを落ち着けると、新右衛門に小声で、
「斯く斯く云々じゃ…」
「直ちに邸に立ち返り、若殿様と奥方様にご報告申し上げよ!」
と告げると、また、門内に戻って行った。
おそらく、家老の左右田孫兵衛と共に、上野介の容態を看るために戻ったに違いない。そう確信した新右衛門は、また、その健脚を飛ばして吉良邸に走った。
吉良邸は、江戸城内呉服橋御門内に邸を構えていたが、平川門から呉服橋御門までは相当に距離があった。
走れば、走れぬ距離ではないが、壮年の理右衛門では無理だったろう。その点、新右衛門は、走ることにかけては自信があった。
脱兎の如く外堀通りを走り抜けた新右衛門は、息を弾ませながら吉良邸に戻って来た。
新右衛門は、義周の御前に平伏すると、休む間もなく報告した。
それは、次のとおりであった。
「大殿様はご無事!」
「額と背に刀傷を負われましたが、浅手にて命に別状ござらぬ由!」
「また、ご公儀より養生いたせとの仰せあり!」
「以上でございまする!」
その報告を受けた義周は、すぐに祖母である富子に報告すると、ほっと胸を撫で下ろした。そして、新右衛門に対して、
「その方の働き見事であった!」
そう言って、金十両を与えたのだった。
それは、義周の近習として仕えている新右衛門にとっては、武士としての誉れとなった。
新八郎は、そんな義周を見て、
「類い稀な、総帥の器ぞ…」
と、感嘆の声を漏らした。
皆が慌てている中で、これほど鮮やかに命令を下す殿様を新八郎は見たことがなかった。
そういう意味で、義周には生まれながらの総帥としての資質があるのだろう。
実際、
その日は、勅使が江戸城に入られる日であり、各大名家の家臣たちが平川門内にて待機していた。
中での用を済ませた孫兵衛と理右衛門は、「後は、殿のお帰りを待つだけじゃな…」
と、暇に飽かせて他藩の家臣たちと雑談しているところに、突然、この事件勃発の報せが飛び込んで来たのだった。
「おうい、刃傷じゃ。刃傷じゃ!」
そう言って、平川門の中に溜まっている各藩の家臣たちの前に、奥に勤める侍が大声で走ってきたのだ。これは、おそらく、浅野家と吉良家の家臣に報せるために走ったものと見られるが、どの侍たちも「刃傷!」と聞いて慌てぬ者はいない。
門の中は大騒ぎになり、やっと相手が「浅野内匠頭殿…と吉良上野介様」と聞いて、両家の家臣たちは大慌てになった。
早速、邸に知らせねば…と理右衛門が走ろうとした、まさにそのとき、川尻新右衛門が声をかけたのだった。
理右衛門にしてみれば、若い新右衛門が神の遣いのように見えたという。
理右衛門も既に五十になり、走れと命じられても自信があるわけではない。
邸が江戸城呉服橋御門内であったが、走ればかなり距離はある。しかし、火急のこと故、「無理だ!」とも言えず、死ぬ気で走る覚悟で門を飛び出したところに新右衛門が現れたのだ。
それも、
「若殿に命じられて、様子を見に参った!」とのことであるので、伝言を新右衛門に託したのだった。それが、幸いした。
この韋駄天走り男のお陰で、吉良家は急速に落ち着きを取り戻し、殿を迎える準備を整えたのだった。
それに対して浅野家では、だれもが動転して指示が出せず、内匠頭の奥方である阿久里姫が、業を煮やして直接指示を出したという噂が流れてきた。
内匠頭の舎弟の大学などは、ただオロオロするばかりで、何の役にも立たなかったそうだ。
やはり、こうした火急の際には、強い大将が必要なのだ。それが、「武士としての心構え」であることを吉良家の人々は、身を以て味わったのだった。
そういう意味に於いて「若殿、義周」は、まさに非常時の大将に相応しい殿であったといえる。
義周から直々に褒美を戴いた新右衛門に言わせれば、
「その間、息も出来なんだ…?」
と笑って語っていたが、
(息が、できなくてもしゃべれるんだ?)
と、周りの者たちはその言い方に笑いそうになったが、もし、浅野の立場であれば、それどころではない。
まかり間違えば、いくら吉良家でも改易にもなりかねない事件なのだ。
この川尻新右衛門は、赤穂浪士が吉良邸に押し入った際、最期まで義周の側を離れず奮戦したという。しかし、多勢に無勢、武林唯七と剣を交えて背中を割られ、池の中に落ちて溺死して果てた。まだ、二十歳になったばかりの若者だった。
新右衛門は吉良の庄の生まれで、母一人子一人の家だった。
子供のころから学問に秀でていたために、上野介に見出され、義周の近習として取り立てられた者だった。その親しさがあったために、義周は新右衛門に「物見」を命じたのだろう。それにしても惜しい才能を散らせた…と新八郎は新右衛門の屈託のない笑顔を思い出すのだった。
ところで、播州赤穂浅野家と言えば、遠く米沢にも富裕藩として聞こえた米沢藩士には羨ましい御家だった。
領地は五万石の小藩ではあったが、その地は山陽道にあり姫路にも広島にも近い。
その上、良質な「赤穂塩」の産地として知られ、商売も上手だと聞く。さらには、自前で城を築き、城下町の賑わいは姫路以上だとも言われていた。
そんな豊かな藩の大名が、何故、江戸城中で刃傷などに及んだのか…。
想像しても理解に苦しむ。
新八郎も、(たかが、饗応役であろう…?)と首を傾げた。
饗応役などは、数日間奉公すればすむ役目で、金さえ惜しまなければだれにでもできる仕事でしかない…という認識がある。まして、殿である上野介様に尋ねれば済む話ではないか…?
北国の米沢にいる新八郎たちにしてみれば、
「南国の恵まれた土地を与えられて、何の不満があるのか?」
と釈然としない思いでその話を聞いた。もちろん、貧乏藩の米沢に多額の費用がかかる饗応役が命じられることは金輪際ない。それでも、江戸城の修復工事などは何度も命じられ、そのたびに家臣たちは、その費用の一部を臨時に納めなければならなかったのだ。
鳥居理右衛門が聞いてきた話では、江戸城では勅使を迎える当日を迎え、だれもがピリピリしていたところに、浅野が度々上野介様を呼び止め、つまらぬことを聞くので、上野介が怒ってぞんざいに扱ったところ、急に浅野が刀を抜いて上野介様に斬りかかったということだった。
浅野は、二度目の饗応役だったにも関わらず、そんな些細なことが気になるような性分だったのか…と思うと、浅野家の家来たちの普段の苦労が分かるようだった。
結局、上野介は額と背中に傷を負ったが、命に別状はないらしい…ということで話は終わった。
とにかく、大丈夫そうだ…というので一同ほっとしたところだった。
兎にも角にも、新右衛門の働きが今回の騒動の「一番手柄」になった。
夕刻、上野介は密かに駕籠で邸に戻ってきた。
新八郎たちがその姿を見ることはなかったが、しばらくは養生せねばなるまい。ただ、公儀からは、「養生するように…」というお達しがあり、家臣一同安堵したが、それより、吉良家家中は、浅野内匠頭という大名に腹を立てていた。
(それにしても、短慮なことよな…)
新八郎にしても、勅使が来るということが、どういうことかよくわかっている。そんな大事な日に、浅野は一体何をしておったのだ。
あんなものは、ただ黙って指図を待っておれば終わるものを、妙な功名心でも立てようと考えたのかも知れぬが、これで改易とは、赤穂藩浅野家の家臣たちが憐れであろう。
そんな新八郎の脳裏に、以前、江戸に出たときに出向いた道場で剣を交えた一人の男の顔が浮かんでいた。その男こそ、元、上杉家家臣、原惣右衛門である。
惣右衛門自身は米沢の生まれではあったが、父親が浪人したことで江戸に出たと聞く。 だが、新八郎の通う米沢の道場には、この惣右衛門の親戚の者が多く通っており、新八郎の山吉家と原家は、やはり縁続きなのだ。そのためか、江戸で「原惣右衛門元辰」の名を聞いたときは、さすがに驚き言葉を交わしたのだった。
そのころの惣右衛門は、赤穂浅野家の足軽頭で三百石の上士だった。それに比べて新八郎は、吉良家で三十石五人扶持の軽輩である。そのことに少し引け目を感じていた新八郎だったが、親子ほどの年の差がある惣右衛門の豪剣と剣を交えるのが楽しみで、直心影流の堀内源左衛門の道場に通っていたのだ。
ただし、新八郎の剣は、上杉の米沢新陰流である。
この剣は元々は「柳生新陰流」なのだが、「外様大名家が将軍家と同じ流派というのは、畏れ多い…」
とのことで、米沢に移って来てからは「米沢新陰流」を名乗っていた。
新八郎は、子供のころからこの剣を学び、青年時代はひたすら稽古に励み、米沢藩四天王の一人に選ばれた実力者である。
既に免許を持つ者として家中では、その名を知られていた。
新陰流が上杉家の剣として栄えたのには理由があった。それは、当時の剣術には珍しく攻撃的な剣術ではなく、寧ろ、防御に主眼を置いた剣だったからである。
柳生新陰流は、開祖である柳生石舟斉の「無刀取り」が世に知られているが、これが、まさに、新陰流の「極意」であった。
確かに、戦は攻めねば勝てない。だからこそ、勝つための剣術を学ぶのだろう。しかし、「勝利」は次の戦を生み、また、勝てば、さらに次の強敵と戦う「無限地獄」に陥るのだ。そして、いずれは敗れ、身を野に晒すだけのことでしかない。しかし、「負けぬ」剣であれば、身を滅ぼすことがない。それが「無刀取り」の極意だった。
上杉家は、謙信公以来、多くの戦を重ねてきたが、それは飽くまでも自国の領土を守るための戦であり、侵略のための戦ではない。そのために、常に「毘沙門天」を祀り、正義の戦を行ってきたという自負があった。
新八郎の剣も、そうした剣であり、相手を叩きのめすような邪剣ではない。
上杉家は、越後から会津、米沢と常に北国の雪深い土地で生きてきた。だからこそ、だれもが「耐える心」を持っている。この若い弥七郎でさえ、この寒空の下で夜回りを命じられても愚痴ひとつ溢さず、「寒い…」のひと言も出ないではないか。
そう思うと、自分の鍛錬の未熟さを感じる新八郎だった。
二人は、深夜の巡回を終えるとやっとの思いで台所の奥座敷に上がった。
外は既に雪が降り始め、しんしんと体の芯まで冷える寒さだったが、台所は、客が帰った後も残り火が熾っており、まるで別世界だった。
新八郎と弥七郎は、中に入るなり「フーッ…」と大きなため息を吐いた。それは、まるで新鮮な空気を吸うような仕種に見えた。
その二人の姿が滑稽に見えたのか、幾人かの女たちの忍び笑いが起きた。
二人は顔を見合わせると、少し気まずい表情になったが、それでも、本音は隠せない。
そそくさと座敷に上がると、腰の大小を傍らに置いた。
火鉢に手をかざすと、手が真っ赤になっており火の暖かさが痛いように沁みてくるのがわかる。
武士たる者、そんなみっともない姿は本来御法度なのだが、何故だか、この吉良家の台所では、自分の本当の姿を見せることができた。
(そう言えば、初はもう長屋に戻ったかな?)
と周りを見たが、それらしい姿はなかった。
そんな新八郎に気づいたのか、年嵩の女中が、
「ああ、初殿ならもう長屋にお戻りですよ。お子様方がおられるので、一足先に上がられました…」
そう言って微笑むので、新八郎は、
「何も申すか?」
「そんなんではない!」
そういう新八郎の顔は、火鉢のせいか、ほんのり赤味を帯びたのを女たちは見逃さなかった。それでも、何も言わないのが、吉良家の女たちの優しさなのだ。
そこに、若い女中が熱々の銚子を数本置いていく。
「はい、山吉様。いつもの熱燗ですよ。お疲れ様でした…」
若いのに、仕事の疲れも見せずに労いの言葉をかける娘の姿に弥七郎も嬉しそうである。
「いいですね…。新八郎殿はいつもこんな贅沢な暮らしをしておったのですね…?」
弥七郎が、そう言うので、
「ばかを申せ!」
「今日は、たまたまじゃ…。たまたま…!」
「余計なことは言わずに、ほれ、一献!」
眼の前の熱く燗した徳利を一本摘まむと、新八郎は若い弥七郎の茶碗に注いでやるのだった。
その徳利の口からは湯気が立ち上り、本日、客に振る舞われた灘の名酒が香しい香りを漂わせた。
二人は、もうその香りだけで酔いが回りそうだった。
「いやあ、これは、灘の生一本ではありませぬか…?」
「かたじけない…」
そう言うと、弥七郎は、茶碗の熱い酒をググッ…と飲み干した。
「それでは、新八郎様もご一献!」
今度は、弥七郎が熱い酒を茶碗に注いでくれる。
「おう、おう、忝い、忝い…」
そう言うと、次の瞬間には、もう熱い酒が、新八郎の喉を過ぎていた。
冷えた体に熱い酒は、殊の外染み渡る。
「う、うまい!」
新八郎は、ホーッ…と白い息を吐きながら、今度は手酌で、また、次の一杯を茶碗に注ぎ、腸に流し込むのだった。
弥七郎も、
「では、私も自分で頂戴仕る…」
とばかりに、同じように徳利を掴むと茶碗に注ぎ、熱い酒を一気に喉に流し込んだが、新八郎を真似したせいか、そのままゴホ、ゴホッ…と咽せては茶碗の酒を溢すのだった。
「おい、弥七郎。お主、まだ、酒の飲み方も知らんのか?」
新八郎の言葉に、弥七郎は、
「はあ、私は、二十歳になったばかりで、米沢では、隠れて飲んでおりましたので…」
そんな二人のやり取りに、片付けが終わった女たちもクスクスと笑い合っていた。
女たちには、お茶と甘い菓子が振る舞われており、それに、残ったご馳走は、片付けの者たちの「つまみ」にしてよいのが吉良流でもあった。
上野介は、高家筆頭という役目柄、進物は多いのだが、余程の物でない限り家来たちへの褒美とすることが多かった。
実際、新八郎にも、
「義周がそちを誉めておったぞ…」
と言うと、その場で、
「小袖にでも仕立てるがよい」
と正絹の反物をもらったことがある。
おそらく、どこぞの大名家が持って来た指南料の品だと思ったが、高価な品を褒美として戴けるのは、三十石五人扶持の新八郎には有り難い。
もちろん、新八郎が正絹の小袖など身分不相応で着られるものではないが、金子に換えるとそれなりの金額になり、小遣いには不自由しなかったのである。
新八郎は、密かに、
(初や子らに何か求めてやろう…)
と考える、優しい一面があった。
こうした殿様の思いやりは、下々まで伝染するようで、ここの奉公人は、だれにでも優しいのだ。
特に女衆は、気さくに声をかけてくれるので、田舎育ちの米沢者も働きやすかった。
だが、そんな浮かれた風情をしていながらも、新八郎が隙を見せることはなかった。
酒はいくらでも飲めたし、飲んで不覚を取るような飲み方はしなかった。
いつも周囲に「気」を巡らせており、油断するということがない。これも、長年の修練の賜物だった。そして、こんな雪の夜こそ、一番危険だということも体の何処かで感じていたのである。
新八郎と弥七郎は、数杯の茶碗酒を飲み干すと、
「さて、わしらはこれで引き上げじゃ。美味い酒をご馳走になったわ…」
「では…」
そう言うと、酔いが回らぬうちに退散するのだった。
女衆にしてみても、長居されては迷惑である。そんな気配りができるのも新八郎が信頼される証だったのかも知れない。
こうして、年忘れの茶会は滞りなく終わり、後は、新年を迎えるだけになるはずだった。
第二章 雪の朝
新八郎と弥七郎が台所で一服し、自分の長屋に戻りやっと眠りに就いたのは、十四日の夜も更け、日付が十五日になったころである。
台所で酒を頂戴したこともあって、腹の中は温かだった。それでも、新八郎は、それぞれの長屋に引き揚げるとき、弥七郎にひと言申し渡した。
「いいか、弥七郎。けっして寝間着に着替えてはならぬ。このままで寝るのだ。そして、枕元には大小を揃えておけ。それが、付き人の務めぞ…」
実際、新八郎はあの刃傷事件以降、夜に寝間着を着ることがなかった。常に小袖と袴を着けたまま仮眠を取るのである。
修練とは怖ろしい。
新八郎ほどの手練れともなると、ほぼ熟睡するということがない。
普段から仮眠に慣れていて、稽古の休憩中や少しでも時間が取れれば、すぐにでも眼を閉じる。それが、僅かな時間であってもそれだけで休めるのだ。
戦国の世では、戦場に出た侍は甲冑を着たまま大木に寄りかかり仮眠を取ったと言われている。
特に上杉謙信公は、周囲の者が、
「御館様が寝たのを見たことがない…」
と言うほど、体を横たえたことがなかったそうだ。それでも、体は頑健で病知らずだったと聞く。
その最期も、自ら死期を悟るように、
「さて、そろそろ参ろうかの…?」
と言ったきり事切れたという伝説が残されている。
越後には「常在戦場」の言葉が残されているが、まさにその心構えが「上杉侍」の武士道なのだ。
新八郎は、それを米沢にいるころから年嵩の者たちに諭されていたし、弥七郎もそう諭されていたはずだった。それを聞く弥七郎は、深く頷くと真顔に戻り、
「はい、畏まりました。そういたします…」
そう言って別れた。
まさか、この数刻後に天下を揺さぶる大騒動になろうとは、さすがの新八郎も思ってもみなかった…。しかし、武士は常に戦場にある心構えで生きねばならぬ。それが、謙信公以来の上杉侍の矜持なのだ。
どのくらい眠っただろうか。
何故かこの夜は、妙な胸騒ぎがして寝付きが悪かった。
朝から忙しく働いたせいもあったが、戦場に出ればそんなものではない。
まさか、あの美味い酒が脳を興奮させてしまったのやも知れぬ…。
(やはり、俺には米沢の濁り酒が似合いのようだ…)
そんなことをぼんやりとした頭で考えていたが、それでも、うつらうつら…していたようで、浅い夢を見ていた。それは、新八郎の子供のころの出来事だった。
新八郎が十二歳のころだったと思う。
道場からの帰り道、野犬に襲われそうになっている農家の娘に出会った。
側には、もう一人老婆の姿があったが、野犬は、この娘が目当てのように見えた。
娘は、七、八つで、町に婆さんと物売りに来たようだった。
老婆の周囲には大根や人参が散乱し、それを他の数頭の野犬が貪るように食っている。しかし、娘を見ている大柄な一頭だけが、そんな野菜には眼もくれず、娘を凝視し、唸り声を上げているのだ。
グルグル…ッ。グルグル…!
という犬の喉の奥から聞こえる低い唸り声は、この犬が本気だということを示していた。
口元からは涎も垂れていて、この犬は脳を冒されているかも知れなかった。
今でいう「狂犬病」は、この当時でも人間に移る病であり、それは「死」を意味していた。それ故に、周囲には、通行人もいたが、だれも手出しができないでいるのだ。
新八郎たちがそれに気がついたのは、そんな人のざわめきが耳に入ったからである。
「おい、あれは何だ?」
先を歩いていた仲間の彦之進が指さす方を見ると、何やら犬の鳴き声が聞こえ、人が遠巻きに見ている様子が見えた。
新八郎たちが人混みをかき分けて前に出てみると、既に数匹の犬が野菜を囓る様子と二人の姿が見えた。
「これは、どうしたことだ?」
周囲を見渡しても、侍らしい者はいない。そこに、周りから声が飛んだ。
「おい、侍の子らよ。娘っ子、助けてやれや!」
「おめえ等も、二本差しだろが…?」
新八郎たちは、その声に押されるように前に出た。しかし、剣の修行をしていると言っても、実戦経験などあるはずがない。
新八郎の仲間は四人だが、この中で、取り敢えず剣が遣えるのは新八郎しかいない。
それに気づいた新八郎は、意を決すると、一緒にいた仲間を手で制し、一歩前に出た。
(俺が、何とかするしかあるまい…)
新八郎は十二歳ながらも、稽古では若い侍と互角の勝負をすることもあった。
多少の自信はあるが、稽古は所詮稽古でしかない。
相手は野良犬とはいえ、凶暴な獣には違いないのだ。しかし、ここで怯んではこれまでの稽古が無駄になる。
そう考えた新八郎は、腹の底に力を込め、息を整えて敵の燃えるような眼を見据えた。すると、その黒い野犬は視線を新八郎に変えた。
その眼は、(なんだ、子供か…?)とばかにしているように思われた。
新八郎は、躊躇うことなく刀をスラリと抜いた。
普段は、手入れのとき以外に刀を抜くことはない。それは、周囲の大人たちからきつく言われていたからだ。
「よいか。刀を抜くことは、己の死を覚悟することなのだ。無闇に抜けば、だれを傷つけても武士の恥となろう…」
「そうなれば、死を賜っても文句は言えぬのだ…。その覚悟で刀を扱え!」
その言葉は、新八郎に死を予感させた。
(もし、この娘を助けられなければ、俺は腹を切る!)
そう覚悟を決めると、心が落ち着いた。そして、ジリジリと間合いを詰めると犬に対峙した。
娘は腰を抜かしているらしく、大きな眼を見開き、震えているのみである。
もし、ここで新八郎が怯めば、その犬は真っ直ぐに新八郎の喉元目がけて飛び込んで来るだろう。
新八郎は、真剣を実戦の場で抜いたことはない。しかし、それでも、腰に差した刀は、なまくらではないのだ。
この刀は、山吉家に伝わる業物を祖父の源三郎が、敢えて新八郎に与えてくれたものだった。そのとき、祖父は、
「よいか、新八。一旦真剣を腰に帯びた以上、大人も子供もない。それは、武士の証である。一旦、鞘から抜けば、敵を斃すか己が死すか…それを覚悟せよ!」
そう言って、渡してくれたものだった。
その刀を新八郎は抜いたのだ。
たとえ、相手が犬畜生であろうと、これは生死を賭けた真剣勝負なのだ。
新八郎は、これまでの鍛錬で習得した「呼吸法」で丹田に力を込め、己の心を「無」にした。
既に新八郎の目には、敵の姿以外は何も見えなかった。音も聞こえない。そして、静かに腰を落とし眼を下に落とした。
その瞬間である。
敵は、ガウッ!という低い唸り声を発して新八郎に飛びかかってきた。
その一瞬、新八郎の右腕は、下から天に向かって光と共に大きく伸びた。
ヒュン…!
という風を斬る音が一瞬、新八郎の耳元で鳴った。
風が、サーッ…と新八郎の頬を撫でた。
次の瞬間、ドサッ…!
敵は、何の叫び声も上げずに石ころだらけの土の上に倒れ、無惨な姿を晒していた。
ただの黒い物体と化した犬は、既に眼には力はなく、ヒクヒクと体を震わせ涎を垂らしていたが、それも間もなく止んだ。
それを見た数頭の仲間の犬たちは、食いかけの大根や人参を残して、一目散に逃げていくのが見えた。
(斬った。初めて敵を斃した…)
それは、野犬とはいえ、新八郎が生涯忘れられない感触として、その手に残った。
新八郎は、犬の血で汚れた刀身を手ぬぐいで拭うと、無言で刀を鞘に収めた。
刀は素直に鞘に収まった。
(大丈夫だ…。刃筋が立っていたようだ…)
それは、新八郎が師範から厳しく指導された賜物でもあった。
刀は、刃を立てなければ物は斬れぬ。
少しでも刃筋が狂えば、刀身は二度と鞘には収まらないのだ。
それができた。
(実戦で、俺の剣が遣えた…)
新八郎は、密かにそのことに満足感を覚えていた。しかし、心は落ち着いて見えたが、右手の指先がおかしい。
眼をやると、右手の指だけが小刻みに震えているではないか。
新八郎は、震える手を周囲に悟られないように懐に入れた。
生臭い犬の血の匂いだけが道端に立ち籠めていた。
「フーッ…」
腹に溜まった濁った空気を外に吐き出すと同時に新八郎の脳が目覚めた。
何かしら、不吉な予感が頭を過った。
新八郎は、(いやな夢をみたな…)そう思い、まだ、真っ暗な闇の中で懐に入れていた手ぬぐいで寝汗を拭いた。
そのとき、新八郎の耳には、遠くから聞こえる不気味な音が微かに響いていた。
(ん…? これは?)
複数の人間が隊列を整えて、雪道を歩くような…。それは、音と言うより「気配」と言った方が正しい。
最初は、遠くで雪の軋むような気配を感じただけだが、それが次第に大きくなり、音は大勢の人間が雪を踏むようなキシキシ…というように聞こえた。
米沢育ちの新八郎にとって雪を踏む音はよく知っている。その音で、新八郎の脳は、完全に覚醒した。
(赤穂の者共だ…。間違いない…!)
新八郎は、敢えて声に出すことを止めた。 声に出せば、自分の心が冷えることがわかっていたからだ。
既に新八郎の体は、この声を飲み込んだ瞬間に反応した。そして、無言で袴の腰紐を縛り直し、真田紐で襷をかけた。
腰には、米沢の名刀「義国」の大小を差す。
新八郎は、眼を瞑ると静かに呼吸を整え、音のする方に集中した。
(音は…?、多い。およそ五十…、もっと多いか?)
(戦力とすれば、こちらと同等か?)
(いや、不意を突かれれば、こちらは弱い…)
新八郎はふと後ろを振り返った。そこには、熟睡しているであろう妻の初と、二人の幼子が寝ている。
(無事でいろよ…)
心の中でそう言うと、邸内に向かう戸を静かに開けた。もし、この長屋にも敵が乱入してきたら、おそらく初と子らの命はあるまい。 しかし、敵の狙いは上野介様ただ一人。
新八郎は、そう信じた。そして、長屋を出ると、拳で隣家の雨戸を叩いた。
ドン、ドン、ドン…!
これで、長屋に住む者で、気づかぬ者はいまい。
気づかぬとすれば、それは「怯んだ」者共だ。
戦場に出て怯みは命取りになる。
この場合、腕ではない。勇気だ。気持ちの強い者だけが戦士になれるのだ。
新八郎は、昔、米沢で剣を習った際に師範から幾度となく聞かされた言葉だった。
新八郎は、その足で母屋に入り、自分の主人である左兵衛義周の寝所に向かった。
そのときである。
表門と裏門で同時に喚声が上がった。
それは、静寂の中で急に起こった地響きのようだった。
「ウォ-!」
という雄叫びが吉良邸内に谺し、床がギシギシと揺れるような感覚があった。
「来た!」
新八郎は、雪を一掴みすると手に何度も擦りつけた。そして、刀を抜き奥に向かって走った。
この日が来ることは、予想していたことであり、そのための「付き人」であったのだから当然だが、さすがにこの大雪の日とは、赤穂にもそれなりの軍師がいるようだ。
新八郎は、義周の寝所に入ると、すぐに声をかけた。
「殿、赤穂の者共でござる。お支度を…」
静かにそう言うと、側に仕えている二人の若侍に、
「いいか、お主等は、片時も殿の側を離れてはならぬ。この吉良家の主は殿ぞ。よいな…」
二人の若侍は、闇の中であったが、青白い顔をしているのが見て取れた。一人は、あの川尻新右衛門である。
闇の中で、新右衛門の表情は分からなかったが、その無言で立つ姿から覚悟を決めていることが見て取れた。
新八郎は、心の中で(死ぬなよ…)と呟いていた。
若い二人に比べて、さらに若い義周は、静かに頷くのみである。
眼だけは、真剣を振るときのような鋭さがあった。
(さすが、殿。落ち着いておられる…)
義周は、吉良家に養子に入るとすぐに新八郎に付いて剣術の稽古にも励んでいた。根が好きだったのだろう。
義周は、吉良家の当主の中では背も高く、筋肉も張っている。
色白なのは、吉良家の特長なのだが、これだけの体格の者はそうはいない。
上野介はあまり武芸は嗜まなかったが、馬の扱いは上手かった。そのため、吉良の領内では、赤馬と呼ばれる土地の馬に跨がって巡るのを常としていたくらいだった。
新八郎が、上野介の馬の扱いを見ていると、
(もし、上野介様が武芸を習えば一廉の技は習得できただろう…)
と思わせるくらい手綱捌きが上手かった。しかし、高家という役目柄、武芸は自重したのかも知れなかった。
京で公家衆に応対するのに無骨な手では失礼に当たるとでも思ったのだろう。だが、上野介の跡を継いだ義周は、どうやら武芸に興味があるらしく、身のこなしも優れている。 剣の修行も熱心なので上達も早かった。
上野介もそれを咎めるでもなく、温かい眼で義周を見守っていた。
(やはり、孫は可愛いのだろうな…?)
跡継ぎとは言っても、義周は紛れもない上野介の孫なのだ。
その孫が、武士の表芸である武芸に才能があるのは、やはり嬉しいのだ。それに、意思の強い義周は、世が世なら、戦国武将としても活躍できただろう…と思うくらいの雰囲気を漂わせていた。
だが、今は泰平の世である。
高家である吉良家は、上野介が「高家筆頭」の高い位にあったために、家督を継いだ義周もいずれは、高家の筆頭になることが求められている。
義周は養子とはいえ、上野介義央とは実の祖父、孫の関係にある。その血筋は、間違いなく義周にも受け継がれており、義央以上に義周には文武の才能があった。
有職故実の理解も早く、存在そのものが「雅」な香りが漂うばかりの美形で、義央も自分の若い頃を見るようだった。
それに、いつもにこにこと笑顔を絶やすことのない義周である。
年も既に十八歳になっており、新八郎が仕えてからも十三年の月日が流れていた。そのためか、義周にとって三十を超えた新八郎は、まさに兄のような存在だった。
祖父の上野介も、義周が剣術にも励む姿が愛おしく、周囲の者にも、
「義周は、剣の腕も立つようでな…。さすがは、源氏の流れを汲む孫じゃ…」
と相好を崩すのだった。
上野介にしてみても、今は「高家職」という半分公家のような仕事をしているが、元々は源氏である足利氏の嫡流という自負があった。しかし、江戸城内では、いつ、そういった声が、側用人柳沢吉保の耳に入るかわからず、源氏だの足利だのと言う言葉を発したことはない。
痛くもない腹を探られては、どんな災難が降りかかるかわからない…と、行動は特に慎んでいた。それでも、白髪となり高家職も長くなると、次第に貫禄というものが備わる。
大名の中には、自分の努力不足を弁えず、陰で上野介の悪口を言う者もいた。それが、あの刃傷事件につながったかと思うと、上野介は人との関わりの難しさを実感していた。
(あれは、浅野には気の毒なことをしたやも知れんな…)
隠居した身になって初めて、浅野内匠頭という若者に同情する気持ちが湧いてきていた。
それぞれが、それぞれの思いを抱きながら、赤穂の討ち入りを迎えたのだった。
新八郎は、そこに続々と集まって来た義周付きの侍たちに指示を出した。
「よいか、いよいよ、赤穂の侍との戦じゃ。これまでの手筈どおり、各々の組ごとに敵に当たれ!」
「儂と川尻新右衛門、矢吹直之進は、殿をお守りする。皆、吉良侍と上杉侍の武士道を見せよ!」
そう怒鳴ると、そこにいた十人の侍は、一斉に「おう!」と叫んで二人ひと組になって表に向かって行った。
新八郎と組んだのは、先月、江戸に出てきたばかりの新右衛門と矢吹直之進である。
直之進は、米沢新陰流の切紙まで進んだ若者で、やはり、二十歳をいくつか過ぎた働き盛りだった。
新八郎は、新右衛門や直之進の家を知っており、矢吹家は国元の勘定吟味役を長く勤めた家柄で、父親の源右衛門は、国家老千坂兵部の側近だった。
新右衛門の家は、代々右筆の家系で筆が立つ。いずれ、新右衛門も右筆に取り立てられるであろう。
「おい、新右衛門と直之進。いいか、お主は殿の側を離れるでない。常に殿の側におれ!」
「いいな!」
そう言うと、二人は、引き締まった顔を少しだけ歪めると深く頷くのだった。
義周は、
「新八郎。私は戦うぞ!」
「赤穂の者共に大殿の首はやれん!」
そう言うと、鴨居にかけてあった長刀を取り出した。それは、吉良家に伝わる業物で、五三桐の紋の入った立派な拵えの物だった。
義周は、豪剣は使えなかったが、長刀なら、並の武士と対等に戦えるだけの技量は身につけていた。
新八郎は、それを見ると、
「これは、頼もしい殿じゃ。それでなくては、大将は務まりませぬ。さすがは、源氏の御曹司じゃ!」
そう言うと、新八郎は、襖の前に立ち塞がった。その奥には新右衛門と直之進が義周を守っている。そして、蝋燭の灯りを消し、寝所を暗くして敵の来るのを待ち構えた。
義周の寝所は、上野介の寝所とは反対の位置に置かれていた。これは、「赤穂浪士の討ち入り」の噂があったとき、上野介本人がそう指示したものだった。
上野介は、ああ見えて、なかなかの軍略家である。
表向きは、有職故実に精通した高家職だが、乗馬や剣などの武芸が苦手な訳ではなかった。ただ、それを学ぶ暇がなく、さほどの修練は積んではいなかったが、暇を見つけては、鎌倉、戦国時代の「軍師・軍略」について調べており、ときどき、吉良家の家臣に講義をするほどだった。
その博識は、並の兵法者以上で、鳥居理右衛門や小林平八郎を唸らせた。
その上野介が屋敷の改築工事にあたり、自ら図面に眼を通し、あれこれと指図をしたが、それは、まさに「武田流甲州軍学」に倣うものだったために、吉良家の軍学者鳥居理右衛門も舌を巻くほどだった。そのために、新しくなった本所の吉良邸は、小さな城ともいうような工夫が各所に施されており、易々と赤穂の浪人共に襲撃されるものではなかったのだ。
吉良邸は、元々は江戸城呉服橋御門内にあり高家筆頭としての格式を持った重厚な邸だった。
もちろん、旗本四千石では大大名のような豪壮な邸はできないまでも、京の佇まいを模した雅な造りとして評判だった。それが、赤穂事件後に邸替えとなり、ここ両国の本所に移ってきたのは一年ほど前のことになる。
どうやら、赤穂の討ち入りの噂が吉良家の周辺の大名、旗本家の耳に入り、そんなことが起きれば迷惑とばかりに、柳沢吉保に吉良家の邸替えを訴えたようなのだ。
吉良家の家臣たちにしてみれば、
「あれほど、殿様に世話になっておきながら、迷惑だから他所に移れ…とは、恩知らずにも程がある!」
と怒ったが、公儀にしてみても郭内での騒動となれば、大事件になることを怖れ、易々とその訴えを認めたのだ。
上野介は、後世に言われるような男ではない。
自分が源氏の流れを汲む吉良家の嫡流だという意識は常にあり、先代の義冬からも言い聞かされた吉良家の歴史があった。
心の何処かでは、(世が世であれば…)という思いもあった。
実際、その血脈から言えば、徳川など、しがない三河武士の家系でしかない。それに比べれば、我が吉良家はその祖を源氏の足利長氏に連なる家柄である。
それは、今の世で、けっして表には出してはならない家系ではあったが、高家筆頭であり従四位上左近衛権少将ともなれば、近所が大名家であっても家格は吉良家が上位である。
行列がすれ違えば、吉良家の駕籠を優先するのは当然だった。
その分、吉良家としても近所には気を遣い、何くれと世話をしてきたものが、この一件以来、だれも寄りつかなくなり、挙げ句の果てに「邸替え」を訴えるとは、
「了見の狭いことであるな…?」
と、嘆息するばかりだった。
上野介は、家老たちからその話を聞いたときも、
「やむを得まい…。近所に迷惑はかけられぬ…」
そう言って、公儀からの命令を素直に受け入れたのだ。そして、近所には相応の品を用意して丁寧な挨拶の後、本所へと移っていった。
本所は隅田川沿いにあり、隣は下総国で、まさにここは江戸の「僻地」である。
「両国」という地名があるように、江戸のある武蔵と下総にまたがる湿地帯が本所だった。
与えられたのは、取り敢えず武家地とはいえ、道路を挟めば無縁仏を祀る回向院があり、町家が並ぶまさに町人の町なのだ。その上、この辺りは湿地帯ですぐに水が上がる等の噂があり、建物も一尺ほどは嵩上げしなければならない。
だれもが、あの刃傷事件の責任を取らされたと思うに違いない邸替えだった。しかし、上野介本人がまったく身に覚えのない騒動に巻き込まれたような気分で、聞かれても説明しようもなかった。そのためか、江戸市中では勝手な創作で「噂話」が飛び交っていると聞く。
まあ、庶民とはそういうものだが、旗本や大名たちまでそれに乗った発言を耳にすると、さすがの上野介も腹が立った。
その上、あの事件のけがで、上野介はお役御免になり、隠居して今は義周の養い人に過ぎないのだ。
それでも、何とか、元の旗本松平登之助の邸を修繕して使っているが、これまでの呉服橋の雅な佇まいは、望むべくもなかった。ただ、松平登之助も五千石の大身旗本でもあり、その邸に使われている木材は立派な物で、上野介は、その材料を使って、一回り小ぶりの邸に様変わりさせたのだ。
もちろん、肝腎な部屋にはそれなりの材料も工面したが、家来たちの才覚でそれほど高額な予算にはならなかった。
一説には、上杉家より多額の建築費用を出させた…という噂があったが、とんでもない。
上野介にも意地はある。
ああ見えて倹約家だった吉良家では、そのための費用はこれまでの蓄えの中からなんとか賄えていたのだ。それに、邸の中を相当に手を加えたことで、すぐに上野介や義周の寝所には近づけない工夫もされていた。
簡単に言えば、表門、裏門からの導線をその寝所周辺だけは複雑にしてあり、伊賀の忍者屋敷のような隠し扉なども設けてあった。
いざとなれば、いつでの身を隠す算段はできていた。だからこそ、新八郎も義周の寝所に立て籠もり、敵を迎え撃とうと待ち構えることができたのだ。
義周にしてみても、赤穂の浪人共は、養父上野介義央を傷つけた仇である。
そう思うと、長刀を握る手にも力が入った。
赤穂の者共の討ち入りは、おそらく寅の刻に行われた模様である。
今の時刻で言えば、午前四時ころであろう。
冬の朝は殊の外冷え込むが、この時刻が一番気温が下がるのは今も昔も同じである。
赤穂の軍師菅谷半之丞は、だれもが深い眠りに落ちているこの時刻に勝負を賭けた。
後の世の人の中には、
「間もなく、陽が昇る時刻を敢えて選んだのは愚策だ!」
という者もいたが、半之丞は「戦闘は一刻が限界」と考えていた。
若者ばかりの正規軍なら、もっと長い時間戦えるだろうが、多くの年寄りを抱えた赤穂軍にその余裕はない。それに、それ以上になれば、町奉行や近隣大名家も見過ごすことはできなくなるだろう。そう考えての「寅の一点」だった。
襲撃は、裏門の木戸を掛矢で叩き壊す物音で始まった。
深夜に、
ドン!ドン! ガラッ…ドン! ウォ-!という物音と雄叫びが響けば、周囲の者が気づかぬはずがない。
当然、吉良邸の者だけでなく、周囲の旗本邸でも、「何事か…?」と邸内に灯りを点け、吉良邸を見に行ったのは当然のことだった。すると、そこには、物々しい武装を施した二十人ほどの侍が槍を片手に見張っているではないか。もちろん、彼らは、赤穂の浪士ではない。
堀部安兵衛たちが通っていた堀内源左衛門道場の門弟たちである。
中には、元赤穂の侍だった浪人者もいた。その者たちが、厳しい眼で睨みを利かせ、周囲の邸の者が、
「この騒ぎは、何とした…?」
と尋ねると、
「旧赤穂浅野家の者共の仇討ちでござれば、ご容赦願いたい…」
と丁重に頭を下げるのだった。
多くの邸では、吉良の風聞は聞いており、それに関わって余計な詮索をされても迷惑…と考えたのか、だれもが深く頷くと、
「左様か…?」
と言ったきりどこからも討ち入りを咎めようとする者はいなかった。
当然、正義を振りかざして、争乱を止めるために出動する方法はあったが、外にいる屈強な武装した浪人たちと戦うだけでも犠牲者が出るのは必定だった。
この時代、真剣を抜いたことすらない者も多く、その真剣すら軽い細身の物ばかりで、実戦を想定した訓練などしたこともないのだ。
物見の者が邸に戻り、ことの子細を主人に告げると、どこの邸でも、
「そうか、赤穂浅野の者共か…?」
「必要なら、大目付か町奉行が出張るであろう。それまでは、邸内を厳重に見張るように…!」
そう言って、「高見の見物」を決め込むのだった。
隣の土屋相模守邸では、わざわざ高張提灯を数基を掲げ、赤穂の討ち入りに賛意を示したと言われているが、どちらかというと、警戒を厳重にするために掲げたもので、公儀に対する「中立」を意味するものでもあった。
土屋相模守は家来たちに、
「この邸に逃げてくる者あれば、直ちに追い返せ!」
と命じたが、それは、どちらにも加担しないという宣言のようなものだった。こうしておけば、公儀から問われても言い逃れができる。これも、時代を生き残る大名の知恵なのだ。
そんな中、吉良邸では百年間戦のなかった世で、真剣を用いての壮絶な斬り合いが始まろうとしていた。
第三章 死闘
赤穂の集団は、隊を表と裏手に分け、表には大将である大石内蔵助が陣取り、村松喜兵衛、間瀬久太夫、そして堀部弥兵衛の老人組が周囲を見張り、本部とした。
裏門には、内蔵助の嫡男である主税が副将として陣取った。そこには、実質の副将格の
吉田忠左衛門が主税を補佐し、小野寺十内と間喜兵衛がいた。
この討ち入りに加わった赤穂の老人たちは、だれもが藩の中核として働いた忠義者揃いで、その経験と知恵は、十分戦いを有利に導いた。
他の者たちは、それぞれが三人ひと組となり、割り当てられた攻め口に向かうのだった。 この三人の小隊編成を「一向二裏」という。
これならば、四方を抜かりなく監視することができるのと、敵一人に対して三人がかりで斃せるという効果があった。
これも山鹿流兵法のひとつで、特に奇襲作戦に用いられる戦法なのだ。
この際、大石内蔵助が陣太鼓を叩いたという説もあるが、奇襲作戦に陣太鼓は用いない。それは、正々堂々と正面攻撃をかけるときの触れ太鼓である。
内蔵助が持っていたのは、大石家伝来の「采配」のみである。
内蔵助は、この采配を振って浪士たちに攻撃を命じたのだ。
このとき、真っ先に吉良邸の表玄関に飛び込んだのが近松勘六だった。
真っ暗闇の邸内に一番に飛び込むのは相当な勇気が必要だが、勘六は、内蔵助の采配が振られるや否や、戸を蹴破って邸内に押し入り、片っ端から雨戸を庭に放り投げ、障害物を取り除くのだった。
そして、磯貝十郎左衛門は、予め用意しておいた蝋燭に火を灯すと、次々と部屋の鴨居に引っかけ、邸内を明るくして回った。
これも同士討ちを避けるための菅谷半之丞の計画のひとつだった。
当然、この騒々しい物音に吉良の家来共が飛び起きてきたが、そこを仕留めるのが「一向二裏」の策である。
三人ひと塊で戦えば、一人の時より不安はかなり少なくなる。
どんな手練れの敵が現れようとも、まず、怯むということはなくなる。それが、ねらいなのだ。
防御のための装備のない吉良の侍たちは、薄い寝間着に裸足で飛び起き、刀を振り回すが、完全武装で臨む浪士たちに次々と斃されていった。
最初、双方の侍たちは真剣の切っ先を相手に向けるが、如何にも「へっぴり腰」で叫ぶ声だけはでかい。
オー! オーッ!
赤穂の侍も吉良の侍も、切っ先が触れ合うどころか一間近くも離れて叫んでいる。それでも、眼だけはギラギラと充血し、汗が額に流れ眼に入る。
真冬の夜中だというのに、この空間だけは灼熱の修羅場と化していた。そんな膠着状態の中で、真っ先に飛び込んで来たのが間新六郎だった。
新六郎は、赤穂藩吟味役間喜兵衛の次男である。
この男は、生まれつき気が荒く、兄十次郎がいたことから舟奉行里村津右衛門の家に養子に出されたが、この養父との折り合いが悪く、二十歳になる前に赤穂を出奔していた。しかし、刃傷事件が起こり父喜兵衛と兄十次郎が義盟に加わっていると知るや、大石内蔵助に帰参を願い出て許された男なのだ。
元々、剣には才があり、子供のころから喧嘩三昧だったことから実戦には強い。
だれもが腰が引けて動けないでいる中で、一人、奇声を上げて吉良侍の中に飛び込んで行ったのである。それは、無謀とも言える攻撃だった。
たった一人で、五、六人が刀を向けている中に飛び込み、一人の首筋に己の刃を叩き込んだ。
真っ赤な血潮が舞った。
それをきっかけに、双方が正面からぶつかり合った。
もう、形も何もない。
ただ、ひたすら剣を振り、相手を見ればその刃をぶつけるのみである。
赤穂の刃は、確実に吉良侍の肉体に届き、血があちこちに飛んだ。その血が自分にかかると、その生臭い匂いが、野性の本能を目覚めさせた。しかし、吉良の侍の刃は、赤穂の者共の体に触れても何故か悉く跳ね返され、刀が刃毀れし、鋼の刀が曲がった。
「なに…?」
「奴ら、鎖を着込んでいるぞ!」
そう気づいた瞬間に吉良の侍は、喉元を深々と抉られていた。
このとき、大声で叫びながら、次々と敵と対峙し豪剣を振るっていたのが、実戦経験のある堀部安兵衛である。
安兵衛は、
「鍔元で斬れ! 鍔元で斬れ!」
と絶叫していた。
これは、安兵衛が自分自身が経験したことを基にしており、「実戦では目測を誤る…」と浪士たちに教えていたことだった。
それでも実戦経験のない浪士たちは、真剣を抜き放つと腰が引け、背を丸くして身構えるのが精一杯だった。それを安兵衛や奥田孫太夫などの手練れの浪士が身を以て吉良方の侍の懐に飛び込み、刀を敵に叩きつけるのだ。 安兵衛は、新六郎の突進する姿を見て、大声で誉めた。
「そうじゃあ、あの新六に続け!」
この声に勇気を得た浪士たちは、緊張の呪縛から解き放たれたように動き回り、吉良の侍たちを圧倒していった。
やはり、吉良方の侍たちは、赤穂の浪士たちの奇襲に心構えができていなかった分、興奮して刀を振り回している割には、腰が引けていたために有効な攻撃が出来ずにいた。
既に、侍長屋は数人の浪士たちによって鎹が打たれ、雨戸がすぐには開かないようになった。もちろん、蹴破れば何ということもない程度の「楔」なのだが、軍師の菅谷半之丞は、
「なあに、実戦はときの勢いが必要なのだ。敵に向かっていくのは怖い。その呪縛を解くには勢いしかない。その勢いをこの鎹が食い止めるのよ…」
「見ておれ、吉良の連中は半数も侍長屋から出て来れんようになる…」
「これも、儂が素行先生から学んだ兵法のひとつじゃ!」
そう言うと、内蔵助の方を見てニヤニヤと笑みを零すのだった。
若い浪士たちは、
(そんなもんなのかな…?)
と半信半疑の様子だったが、実際にそうなるのを見て、
「さすが、半之丞殿!」
と感心するばかりだった。
事実、あの鎹一本で動けなくなった吉良侍は二十人を数えたという。
後の大目付の調べによれば、数人の吉良家の侍は、
「雨戸を開けようとするとなかなか開けられず、焦っていると次第に興奮が冷め、足が動かなくなり申した。そのうち、寒さのせいか震えが来て、刀を持つことさえできなんだ…」
「面目ない…」
と肩を落として涙を見せたという。
その後、彼らは特に咎めも受けずに邸を後にしたようだが、もう武士としては生きていくことはできないだろう。この者たちの不忠義は、だれも知らずとも、本人たちの心の傷として、生涯、この者たちを苦しめるに違いない。それが、「武士道」を外れた者の罰なのかも知れない。
ただし、この「鎹」によって、救われた者たちもいた。それは、吉良の侍たちの家族である。
山吉の家でも、初はすぐに新八郎が出て行ったことに気がついたが、声をかけることはしなかった。
それは、武士の妻の嗜みでもあり、夫には夫の考えがあってのことだと信じていたからである。それでも、賊が襲ってくれば、短剣でせめてもの抵抗をしようと覚悟を決めていた。それは、おそらく、どの長屋でも同じだったと思う。
討ち入りの後、無惨に荒らされた邸をきれいに掃除をして目付衆に引き渡したのは、生き残った吉良の家来たちと、この家族たちなのだ。
「忠臣蔵」の脚本にそれが書かれることはなかったが、吉良家には吉良家の武士としての矜持があったことを忘れて欲しくはない。
新六郎や安兵衛たちの働きに勇気づけられた浪士たちは、体が温まるに連れて動きが俊敏になってきた。
外が極寒の寒さではあったが、浪士たちの着込みは厳重で、鎖帷子から手甲、脚絆まで入れると三貫(約十㎏)ほどにもなり、この真冬だからこそ身に付けられる装備なのだ。
そのため、動けば動くほど、体の中には熱が籠もり、動きやすくなる。
逆に、吉良の侍は、ほとんどが寝間着一枚に裸足であった。これでは、一旦掻いた汗がこの寒さで冷やされ、体温を奪うことになる。
戦えば戦うほどに体温が奪われ、手も足も凍えて痺れてくる。これでは、満足に剣を振るうこともできなくなるという悪循環に陥っていた。
闘いが始まって半刻もすると、吉良方の侍の大半は傷つき、中庭や邸内には、体を横たえながら呻く負傷者が目立つようになった。
既に息をしていない者もいる。
それでも、最期の気力を振り絞って浪士に挑む侍も多かった。しかし、それも「一向二裏」の戦法を採る浪士たちに敵うわけがない。
時間が経てば経つほど、その刀傷は大きく、その場で討ち死にする侍が増えていくばかりだった。
そのころ、義周は新八郎たちに守られながら、必死に浪士たちと戦っていた。
しかし、新八郎が別の浪士と刃を交えている間に義周は三人の他の浪士に囲まれていた。
既に側にいたはずの新右衛門や直之進の姿は見えない。
このとき、新右衛門は浪士たちに誘われるように庭先に出て、背中を深く斬られ、庭の池に突き落とされていた。
直之進は、必死に義周の元に戻ろうとしていたが、その隙を突かれて首を斬られ、その場に横たわった。
「くそっ!」
必死の形相で三人の浪士に立ち向かう義周だったが、多勢に無勢の中で最後の力も使い果たそうとしていた。
既に、体中に刀傷を負い、長刀はとうに手から離れていた。それでも、倒れた家来の刀を拾うと浪士たちに立ち向かっていた。
新八郎も満身創痍で、義周の側にあった吉良方の侍の多くは倒れ、義周の近くで戦っているのは新八郎だけになっていた。
義周は、
「し、新八郎、ここまでじゃ。私は腹を切る…!」
そう言って刀を腹に突き刺そうとした瞬間、新八郎は咄嗟に飛び込み手刀で義周の首を叩いた。その一撃で、精も根も使い果たした義周は昏倒し、その場にドサッと倒れ込んだ。
「よし、一人は倒れたぞ。もう一人だ!」
そう叫んでいる浪士たちの間を縫うようにして静かに顔を出したのは、あの原惣右衛門だった。
一瞬、新八郎は「おっ…!」と声を上げた。
「は、原殿?」
「山吉殿、これも武士の倣い。悪く思うなよ…。参る!」
「無論!」
新八郎は、もう一度呼吸を整えて、刀の柄を握り直した。
惣右衛門は、短槍を新八郎に向けると、新八郎は、大きな叫び声を上げて惣右衛門を庭先へと誘うように畳を蹴った。
それに誘われるように、浪士たちが庭先に出た。
(これで、殿は助かるやも知れぬ…)
そう思い、新八郎が改めて刀を正眼に構えると、そこに、脇から飛び込んで来る侍があった。それは、新貝弥七郎だった。
既に弥七郎も相当に傷を負っており、肩で息をしているが、まだ、戦意はいささかも衰えてはいないように見えた。
「や、弥七郎…。何をする!?どかぬか!」
惣右衛門相手では、弥七郎の腕ではどうにもならぬことは明らかだった。すると弥七郎は、新八郎の前に出て、
「ここは、私が戦います。新八郎殿は早く殿の元へお戻りください!」
その声は、強く、厳しく、新八郎に訴えかけるような響きを持っていた。
(そうだ、殿をお守りせねば…)
新八郎は、自分の使命を思い出すと、
「すまぬ、弥七郎!」
そう言うと、体を翻して奥に駆けようとした。
そのときである。
後ろから弥七郎の呻く声が聞こえた。
惣右衛門の槍が弥七郎の脇腹を抉ったのである。
「むぐッ!」
熱い焼けた鉄の棒を腹に押し当てられたような衝撃を受けながらも、弥七郎はその柄をぐっと握りしめた。その力は満身創痍の男のものとは思えない力で、さすがの惣右衛門も慌てた。
「くそっ、槍が抜けぬ!」
そこに浪士の岡野金右衛門が駆けつけ、槍の穂先を残して柄を刀で切り落とした。
弥七郎の意識があったのは、そこまでだった。
弥七郎は、槍の柄を握りしめながらその場にどっと倒れ込んだ。
浪士たちが確認のために顔を覗き込むと、大きく見開かれた眼には大粒の涙が光っていた。それでも、弥七郎は槍の柄を離すことはなかった。
それを見ていた三村次郎左衛門が呟いた。
「あっぱれ、忠義者よ…」
「死んでも敵の槍を離さぬとは、武士とはこうありたいものじゃ…」
そこにいた浪士五人は、弥七郎の骸に黙礼すると、踵を返して上野介の探索に走るのだった。
惣右衛門は、走り去ろうとする刹那、あることを思い出した。
(弥七郎…?)
(まさか、あの新貝弥七郎ではないのか…?)
それは、自分の幼い頃の友であった弥七郎の父である喜兵衛の子であることを思い出した。
惣右衛門は、新貝喜兵衛とは赤穂に仕官した後も文の交換を絶やさず、喜兵衛の子に弥七郎という名があったことを思い出したのだ。
(ああ、喜兵衛…すまぬ。お主の倅を儂が…)
知らぬとはいえ、親友の息子を討ったことに惣右衛門の心は痛んだ。それでも、惣右衛門は赤穂の侍として戦わなければならない。
惣右衛門の眼には涙が光っていたが、夜が明けきらぬ中、それを知る者は惣右衛門本人しかいなかった。
新八郎は、弥七郎の断末魔の声を背中で聞きながらも、後ろを振り返ることはできなかった。
奴はこう言ったのだ。
「早く、殿の元へ…!」と。
それが弥七郎の最期の願いであるなら、この命に替えても義周様を助けなければならないのだ。その間にも、幾人もの赤穂の浪士が新八郎に打ち掛かってきた。
敵の刃を潜り、何度も刃毀れした刀で敵を撃った。しかし、浪士は一瞬怯むが、また、何事もなかったかのように向かって来るのである。それは、どうしようもない無間地獄にいるようだった。
新八郎が義周の寝所まで戻ると、義周の体はそのまま奥座敷に横たわっていた。
赤穂の浪士たちは、それを見ても、だれもとどめを刺そうとはしなかったようだ。
血だらけになって倒れている武士に情け容赦なく刃を向けられる侍は、ここにはいない。それが、せめてもの救いだった。
新八郎は、だれもいなくなった隙に、倒れている義周の前に、その脇に倒れていた屏風を立てた。これで、しばらくは気づかれぬであろう。そして、義周の意識が戻らぬことを願うしかない。
(頼んだぞ、弥七郎。殿をお守りしてくれい…!)
心の中でそう叫ぶと、義周の寝所から改めて庭に出た。
ここで、死ぬまで義周を守るつもりだった。
その間に、戦いは上野介の寝所のある東側の奥に移ったようだった。
時間が経つに連れて、味方が減っていくのがわかる。
とにかく、赤穂の連中の重武装にはまったく歯が立たなかった。これは、準備を命じられていた新八郎の抜かりなのだ。
赤穂の侍たちは、どう見ても手勢五十名足らず。それに、手練れは少なく、年寄りも多い。それなのに、奴らには歯が立たない。
新八郎は、最初に二人の浪士と立ち会ってすぐにそのことに気がついた。
見たところ、若いが剣の腕は左程ではなさそうだった。
剣の修行をした者なら、相手を一目見ればその「腕」は見当がつく。
体の肉づき、鬢の乱れ、その構えなど、剣術家ならだれでもわかる特長があるものだ。しかし、この赤穂の侍たちの多くにはそれがない。
気合いだけは十分だが、修練が足りないのだ。
そんなことを考えていると、また、新たな敵が現れた。
若いが三人組を崩してはいない。
新八郎は、「いざ!」と声を上げて、その三人と対峙した。そして、腰をためて手練の刃を向かって来た若い浪士に向けた。
構えから見て、剣の腕はまだ甘い。それでも、裂帛の気合いだけは、だれにも負けない潔さがあった。
(飛び込んで来れば、斬る!)
それは、一瞬の間合いで決まる。敵が新八郎の間合いに入った瞬間に手練の技が光るのだ。
「よし!」
敵の脇腹を必殺の剣で抉ったと思った刹那、肉を断つ感覚とは違う堅い何かに刃が当たるのがわかった。
ガキン…!
新八郎の耳にはそう聞こえた。
これは、まさに刀の刃が人工物に当たって跳ね返される音なのだ。
次の瞬間、敵の浪士はガクッ…と片膝を落とした。しかし、その浪士は、脇腹を抑えるようにして改めて正眼に刀を構えるではないか。
(な、なんと…。胴を着ているのか?)
そう思ったが、それは木製の胴ではない。間違いなく鋼の胴巻きなのだ。
それに、よく見ると、裂けた小袖の奥に鎖模様が見える。
(ちっ、やはり、鎖帷子か…?)
新八郎は、己の準備の甘さが嫌になるほど、腸が煮えくり返った。それは、赤穂の者共のことではない。己の未熟さに腹が立った。
(儂としたことが、これでは、わが方に勝ち目はない…)
(どうする…?)
そうこう思いを巡らせている間にも、敵は三人がかりで攻めて来る。
斬っても突いても、急所に当たっているはずなのだが、敵は怯まない。
こうなれば、後は逃げるしかない。
そう悟った新八郎は、鍛えた足腰で素早く身を躱し、勝手知ったる邸内を走った。
その速い動きに、赤穂の連中もついてはこれなかった。なぜなら、彼らの重武装は重い。米俵を背に背負いながら戦うようなものなのだ。
新八郎は、それに気づくと大声で叫んでいた。
「走れ!」
「動き回れ!」
「狙うは敵の頭じゃ!」
「首を斬れ!」
新八郎は、吉良邸内を走り回りながらそう叫んでいた。
新八郎の声に励まされるように、吉良侍が動き出した。
あちこちで、バタバタ…と走り回る音がする。
そのたびに、
「あっちだ!」
「そっちに行ったぞ!」
という声が聞こえたが、それも時間の問題に過ぎなかった。
赤穂の侍たちも、それに気づかないほど愚かではない。すかさず、堀部安兵衛が動いた。 安兵衛は、
「敵は上野介ただ一人!」
「向かって来ぬ者には構うな!」
「とにかく、突け!」
「敵の喉元を突け!」
そう言うなり、自分に向かって来た吉良方の侍に渾身の突きを見舞った。
喉元に深く刀の切っ先を入れられたその侍は、動脈を断たれ、噴水のような血を吹きだして雪の中に沈んだ。
それを見た赤穂の浪士たちは、狼のような雄叫びを上げて刀を次々と突き出すのだった。
「突き技」なら、武芸の鍛錬の足りない者でも、何とか凌げる。
新八郎は、それでも奥に走ろうとする赤穂勢を防ぐために戦い続けた。
そんな無謀な戦いがどのくらい続いただろうか。
既に多くの吉良方の侍は倒れ、生きている者でも刀を握れる者は何人も残ってはいなかった。しかし、未だに上野介の居所は不明のようだった。
そのころ、上野介は鳥居理右衛門等数人に守られながら、邸外れの「炭小屋」に隠れた。だが、ここも早晩見つかるに違いない。
理右衛門は、若い二人の侍に、
「大殿を頼むぞ…」
そう言うと、密かに脱出ルートを探しに邸内に戻った。
台所口には、邸の外に通じる地下道があるのだ。長さはそれほどでもないが、そこを通れば、確実に表の道に出られるのだ。
(よし、ここならば、大丈夫だ。まだ、赤穂の者共に見つかってはおらぬ…)
そう思い、炭小屋に戻ろうとしたとき、数人の声が聞こえた。
「どこじゃ、吉良は何処におる?」
「まさか、外に逃げ出したんでは…?」
その声を聞いた理右衛門は、刀の柄を握りしめた。
(如何。ここで防がねば、殿のお命が危ない…)
そう思った理右衛門は、台所の奥からスクッと立ち上がった。
「赤穂の者共、何をしておる?」
「吉良は、儂じゃ!」
そう言うと、台所の裏口を開けて裏庭に飛び出した。
「なにい…吉良じゃと…?」
それは、神崎与五郎、矢頭右衛門七、前原伊助の小隊だった。
このとき、右衛門七はまだ十七歳。義周とさほど変わらぬ若さだった。
理右衛門は、与五郎と対峙した。
与五郎は、赤穂では弓の名手と謳われ、剣も東軍流の遣い手である。だが、右衛門七も伊助も剣は未熟なのだ。
与五郎は理右衛門が只者ではないことを一瞬に悟った。
(うむ…。もの凄い殺気だ…)
(腕は向こうが上、だが、こちらは着込みがある)
与五郎は、じっと待った。
こちらが仕掛ければ、敵の刃は間違いなく自分の首を撃つだろう。
頭には鉢金を巻いているが、首だけは無防備なのだ。
だとしたら、敵の攻撃を待つしかない。それに、脇から右衛門七と伊助が攻撃を仕掛けようと牽制している。
(大丈夫だ。必ず、隙が生まれる)
そう確信した与五郎は、刀を上段に構えたまま理右衛門の眼の動きを追った。
そのときである。
少し離れた炭小屋の付近で、戦う男たちの声が聞こえた。
理右衛門は、驚いたようにそちらに眼を移した。
その瞬間、三人の刀が理右衛門に真っ直ぐに向かって行った。
グサッ…!
正面からは与五郎が、両脇からは右衛門七と伊助が飛び込んで、渾身の「突き」を理右衛門の胸と脇腹に見舞った。
「殿…」
理右衛門は、意識を失う瞬間にそう叫ぶと、雪の中に倒れ込んだ。
吉良家随一とまで言われた鳥居理右衛門の最期だった。
空が白々と明けてくるのがわかる。
新八郎は、戦いながらも西の寝所近くで倒れている義周を気遣い、人がいなくなった隙に覗いてみたが、大丈夫だ…「息はある…」。
いつの間にか、立てておいた屏風が倒れ、左兵衛の体に覆い被さっていた。
(だれかが、やってくれたのだろうか?)
そう思えるくらい自然に倒れ、屏風の下の左兵衛が辛うじて見えるくらいだった。
(これなら、しばらくは大丈夫だろう…?)
「朝日が昇り、大殿が見つからなければ、こちらの勝利だ…」
(もう少し、もう少し…)
新八郎が、刀を握りながら東の寝所に向かおうとしたそのとき、
「待て!」
その声に、ふと後ろを振り返ると、六人の武装した男たちが新八郎の前に立ち塞がった。
既に六人の衣服は血にまみれ、顔にもいくつもの傷があった。
小袖はボロボロに裂かれ、中の鎖が見える。
そして、鋼の胴巻を見た瞬間に新八郎の闘争心に火が点いた。
「上杉家家臣、山吉新八郎。参る!」
このとき、新八郎は「上杉家家臣」を名乗った。
やはり、心の中では「上杉侍でありたい!」と願っていたのかも知れない。
「何、上杉…?」
その名乗りを聞いて出てきたのが、あの原惣右衛門である。
惣右衛門は、仲間の浪士に、
「ここは、拙者にお任せください。この者は拙者に縁のある者故、拙者がお相手いたす…!」
「皆様は、吉良をお捜しください…」
そう言うと、新八郎に刃を向けた。
他の五人は、
「それでは、原殿。ここはお頼み申す!」
彼らにとっても、ここで戦うことよりも上野介を探す方が先決なのだ。
「新八郎。まさか、また、ここで会えるとはな…?」
「弥七郎殿には、すまぬことをした。喜兵衛の倅だったのだな…?」
その惣右衛門の言葉は、新八郎には衝撃的だった。
(あの、弥七郎も死んだのか?)
(あの、弥七郎が…)
そう思うと、もう何の未練もなかった。
できれば、義周の無事を見届けたかったが、それが叶わぬことを新八郎は悟った。
「参る!」
新八郎は、刀を上段に構えると、最後の気力を振り絞って惣右衛門に対峙した。
惣右衛門は、米沢新陰流の遣い手である。さすがの新八郎も今の状態で敵う相手ではないことくらいわかっていた。まして、相手は完全武装なのだ。
(敵わぬまでも、抗うまでよ…)
新八郎は、得意の飛び込み面を奪うつもりで雪の積もった地面を蹴った。しかし、その切っ先は惣右衛門の頭には届かなかった。
惣右衛門は、新八郎の刃を交わすと、そのままつんのめった新八郎の背中を裂いた。そして、振り向き様に顔を払った。
真っ赤な血飛沫が舞った。
(無念…)
さすがの新八郎もそこまでだった。
ドサッ…と雪の中に倒れ込んだ。
意識が遠のいて行くのがわかる。
その意識がなくなる寸前に、惣右衛門の声を聞いた。
「新八郎殿。拙者の分まで生きよ…。お主なら、それができるはずじゃ…」
その声は優しく、自分の背中がふっと温かくなるのを感じた。
惣右衛門は、新八郎の背に己の手を置くと「生きよ…」と新八郎に声をかけた。そして、新八郎に黙礼するとそのまま東に向かって走って行った。
第四章 諏訪高島藩へ
新八郎は死ななかった。
惣右衛門は、新八郎にとどめは刺さなかったのだ。と言うより、惣右衛門の剣は新八郎の急所を外し、背中にも顔にも浅い傷を付けたが、致命傷にならぬように手心を加えていた。それが、惣右衛門が最後に残した「生きよ…」の意味だった。
惣右衛門は、新八郎と対峙した瞬間に、新八郎の肉体は限界にきていることを悟った。
(これでは、いずれ、だれかに殺られてしまう…)
そう思った惣右衛門は、新八郎が意識を失う程度の傷を負わせたのだ。
顔に刀傷を負わせるつもりはなかったが、額を斬るつもりが新八郎が前のめりになったために、刃が新八郎の顔に触れたのだ。
(助かれば、それも侍の勲章であろう…)
そう思う惣右衛門だった。
新八郎が意識を取り戻したのは、既に戦いが終わり、大目付仙石伯耆守配下の侍たちが戦場の後片付けをしているときだった。
真っ暗な深い闇の中で新八郎は藻掻いていた。しかし、それに疲れたのか、ふと上を見上げると、微かな光が見えた。それが、生きる…きっかけになった。
自分で自分の姿はわからないが、おそらく、泥と雪と血で相当に酷いことになっていることは想像ができた。
もう、手にも足にも力が伝わらず、頭の芯も痺れるように痛む。しかし、痛い…という感覚があるということは、まだ、死んではおらぬのかも知れなかった。
頭がぼんやりと覚醒したのは、戸板で運ばれる途中だった。
何かを口走ったようだったが、それは覚えがない。ただ、大勢の侍が働いていることだけはわかった。
すると、男の顔が自分を見ていることに気づいた。その男の眼は見開き、何かに怯えているように映った。
「忝い…」
新八郎は、心からの感謝の言葉を口にした。
そう言うと、今までの猛々しかった心がふっと和らぐような気がした。そして、そのまま深い眠りに落ちていった。
そのころ、義周は吉良家の家老左右田孫兵衛に付き添われて上杉家上屋敷へと移されるところだった。もう一人の家老松原多仲は、このとき行方知れずとなっていた。どうやら、戦いの最中に逃げ出したようだったが、理由を尋ねようにも行方知れずでは、どうしようもない。
事実、多仲はあの台所の地下道を潜って表に出た。それは、飽くまで助けを求めるために外に出ただけである。しかし、助けを求めようにも、既に外は多くの町人が門前に詰めかけており、浪人共が警護のために、武装をして厳しい警戒をしていた。
自分はといえば、寝間着のまま脇差しを一本握っているだけである。
その瞬間、多仲は気がついた。
(しまった。これでは、助けを呼ぶどころの話ではない。ましてや、旗本四千石の侍が町人にでも助けを求めようものなら、後世の物笑いの種ではないか…?)
そう思うと、己の浅はかな判断が愚かだと気がついた。
多仲は、そのまま隅田川の畔に下りた。
もう、覚悟は決めていた。
「殿、申し訳ござりませぬ!」
そう言って泣いた。そして、徐に脇差しを抜くと自分の首に刃を当てた。
多仲は、邸に残した妻にも申し訳がなかった。
(す、すまぬ八重…)
それだけ言うと、首に当てた刀を引いた。
血が宙を舞った。
多仲の体は、そのまま隅田川の中に落ちた。
巷では、
「弱虫家老の松原多仲は、怖くなって逃げたんだぜ…」
と笑ったが、多仲には多仲の忠義の末の最期だったのだ。
孫兵衛は、このとき義周付の家老になったばかりだった。それは、元々上野介付として常に高家職を勤める際には同行し、遺漏の内容に勤めていたのだが、上野介が隠居となれば、今度は、高家職を勤めるのは義周になる。
当然、それを補佐できるのは孫兵衛しかいない。そこで、上野介は、孫兵衛に、
「儂も隠居の身故、これからは、義周殿を助け、万事遺漏のないように勤めよ…」
そう言って、金百両と名物の茶碗を下されたのだ。
それは、孫兵衛などが所持できないような高価な品で、孫兵衛は終生大切にしたという。
そんなわけで、義周の側に侍るのは、間もなかった。それでも、とにかく、義周の側を離れることなく、慣れない刀を取って戦っていた。
義周が新八郎によって屏風の陰に隠されるときも、実は、その傍らにずっと付いていたのだ。
部屋の片隅で息を潜めていたために、手傷を負うことなく最後まで生き残り、義周を守り通した。
一説には、松原多仲と共に逃亡したという噂もあったが、一人残った吉良家の家老としての後始末は見事であり、だれも孫兵衛を「卑怯者」扱いはしなかった。
実際、孫兵衛の刀は相当に刃毀れをしており、着物にもかなりの破れが見られた。
剣の腕がなかったことが幸いし、赤穂の浪士たちも深追いをしてまで倒す敵ではなかったようだ。
孫兵衛は、息子源八郎の死を知ると、ひとつ涙を溢し、
「吉良の庄から出てきた者として、大殿に殉じた倅を誉めてやりたい…」
そう言って、遺体に手を合わせるのだった。
この事件で一番有名だった奥方付の家老小林平八郎は、一説では女物の着物を被り、浪士の前で、
「奥に仕える者でございます…」
と、女言葉を真似て逃げ出そうとしていたところを浪士の一人に気づかれ、
「何、被り物を取れ!この卑怯者が…!」
と、その場で斬り殺されたということになっている。しかし、実際はそうでもない。
平八郎が被り物を被っていたことは、その通りだったが、平八郎は大殿の寝所に向かわんと、その身を誤魔化したに過ぎず、被り物を捨てると、サッと大刀を抜き、浪士三人組と剣を交えている。そして、数カ所に手傷を負わせたが、重武装に阻まれ、最後には奥田孫太夫に頭を割られて即死したのだ。
その遺骸の側に女物の着物が打ち捨てられていたことから、そんな噂が広がったようだった。
その他にも、芝居や講談で有名になった清水一学がいたが、この侍は上野介の小姓として仕えた吉良の庄の侍だった。
細面で切れ長の眼は、昔の上野介によく似ていたことで、「大殿の隠し子ではないか…?」という噂まで流れるほどだった。
この侍も講談に出てくるような活躍はしなかったが、それでも、真っ先に表に飛び出し浪士たちと戦っている。
最期はよくわからないが、数刻戦って討ち死にしたことは間違いない。
ひょっとしたら、堀部安兵衛と戦ったかも知れない。
後に安兵衛が、お預け先の松平家で、
「邸内に入ろうとしたとき、物陰から突進してくる若侍があった。二三手刀を交えたが、胴を払うと無言のままその場に倒れた…」
と供述している。それが、一学の最期だったとしたら、一学も勇敢な侍だったのだ。
このころの堀部安兵衛といえば、江戸で知らぬ者のいない有名な剣豪で、「高田の馬場の仇討ち」以降、各大名家から仕官の誘いがあり、義父になる堀部弥兵衛の熱意にほだされて赤穂浅野家に仕官してこの事件に遭遇した。
安兵衛にとって、浅野家とか内匠頭とかは、関係ない…と言っては言い過ぎだろうが、この侍にとっては「戦場」こそが生き甲斐だった。そんな男に道場修行だけの若者が太刀打ちできるはずがない。
運が悪い…と言えばそれまでだが、後世に有名になった者ほど、その死に様はあっけないものかも知れない。しかし、己の命を賭けて戦った男たちのことを悪し様に言う世間を新八郎には許せなかった。
結局、新八郎は上杉家下屋敷に運ばれ、義周は左右田孫兵衛と共に上屋敷で治療を受けることになった。
新八郎は、それこそ瀕死の重傷を負っており、一時的には意識を回復したものの、下屋敷に入った後はしばらく昏睡状態になり、医師からも、
「いつ、心の臓が止まってもおかしくはない…」
とまで言われたほどだった。
その間、新八郎はずっと長い夢を見ていた。それは、あの米沢での子供時代の野犬退治のことだった。
新八郎も大人になってからは、そんな出来事もすっかり忘れていたが、夢の中では、その後のことがまざまざと思い出させるのだ。
野犬を退治した後、新八郎たちは上杉家の目付の詮議を受けることになった。
なぜなら、江戸では既に「生類憐れみの令」なる畜生を大事にせよ…というお触れが出ており、米沢でもその対応に苦慮しているときであったから尚更である。
上杉家としては、辛うじて御家が守られている立場であり、公儀に対しては遠慮があった。そのために、形ばかりではあったが、犬を殺したことで目付の番所に呼ばれたのだ。
実際の仲間は五人だったが、手を下したのは新八郎だけということで、新八郎は兄の権之丞の付き添いで番所に出頭した。
この兄は、五人兄弟の長兄で新八郎より十も上になる。
城では物頭の役に就いていた。
物頭とは、簡単に言えば「足軽隊長」のことである。
父七郎左衛門は、まだ物頭職を勤めていたが、既に隠居願を重役に提出し、兄に家督を譲る手筈を整えていたために、権之丞も一足早く「物頭見習い」の形で出仕していたのだ。
この兄は、城下でも秀才の誉れが高く、学問所でも一、二を争う存在で、新八郎のように剣一筋とは違い弁が立つ。
権之丞は、この事件の顛末を新八郎から聞いて「上申書」にまとめ、それを目付に手渡すのだった。
それを見た目付衆は、
「ふむ。武士として当然の振る舞いにて、咎めはなしと致す!」
ということになった。
元々、米沢では江戸の「お触れ」など関係ないのだが、一応体裁を整えておかないと、いつ江戸の大目付から問い合わせがないとも限らなかった。そこが、外様大名の辛いところなのだ。
米沢城下では、いつの間にかこの騒動は噂になり、町の瓦版屋が講談風に書いたために、新八郎はちょっとした有名人になっていた。
道場の師範も殊の外喜び、新八郎を誉めてくれた。それ以来、新八郎は、米沢新陰流の奥義に辿り着こうと剣を振り続けた。それが、新八郎の誇りでもあった。
あのとき助けた百姓の娘は、それ以降、度々山吉家を訪ね、野菜や芋などを持参してきた。
母の咲も家の者も遠慮したのだが、どうも「命の恩人」だと言うことで断ることもできず、今でも実家には野菜類が届くようだ。
その娘の名は、初と言った。
新八郎とは、七つ違いの娘であったが、それが縁で新八郎は初を嫁にした。
初は、細身で小柄な女だった。顔立ちもいたって普通で、取り立てて特徴があるわけではない。しかし、芯の強い女で、新八郎が行くところは、何処にでもついて来た。
この吉良邸の長屋に来てからも、その訛りを気にする風もなく、同僚の嫁たちや吉良家の者にも気に入られ、よく新八郎を助けたのだ。
子は二人いて、上は娘の梅、下は男子で新一郎と名付けた。梅は五歳、新一郎は三歳であった。因みに、この新一郎が、後に山吉家の跡を継ぐことになる。
新一郎は、剣の才能は乏しかったが、学問に秀で上杉家中で出世したが、病のために若くして亡くなり、新八郎の孫の新十郎が家を継いだ。
家族だけになると、時折、あの日の雪の夜のことが話題に上ったが、新八郎は、それについては深く語ることはなかった。
妻の初の家は、身分は低かったが本百姓で、
生活にはゆとりもあった。特に初の家の干し柿は絶品で、新八郎の好物になっていた。
米沢では、家禄の少ない武士の子弟が百姓や町人の娘と結婚しても、とやかく言われなかった。
なぜなら、暮らし向きは武士より百姓や町人の方がいいくらいで、山吉のように五人兄弟の下から二番目では、他家にでも養子にでも行かなければ食い扶持が困るところを、吉良家が義周の近習として仕官させてくれたのだ。
義周の傷は思いのほか深く、上杉家が依頼した外科医栗崎道有が治療に当たった。
道有は義周の祖父である吉良上野介を治療した幕府御典医の栗崎道有である。
その傷は、特に背中を斬られた傷がもっとも深く、十針以上も縫うことになった。道有に言わせれば、
「もう少し深ければ、縫い合わせるだけではすまなかった…」
と言うことで、義周は相当に戦ったことがわかる。
持っていた長刀も刃毀れが酷く、柄にも多くの刀傷が見られた。
義周が熱心に剣術の稽古をしていなければ、今ごろは命はなかっただろう。
日頃の鍛錬が、その命をつないだと言っても過言ではない。さらに言えば、この吉良家の当主である左兵衛義周を守るために、多くの側近の者たちが命を落としたのだ。そして、新八郎や孫兵衛も自分の命を賭して主君を守り抜いたのだ。
義周は、その後も熱が続き、ようやく起きられるようになったのは、ひと月もした後のことだった。だが、義周には、それからが本当の災難が降りかかってくるのである。
義周は、取り敢えず上杉家上屋敷で治療を受けると麻布の吉良家の下屋敷に移った。
移ったというよりは、上杉家でもどう扱ってよいかわからず、吉良家に返したといったところだろう。ところが、この麻布の下屋敷は長年使っていなかったために邸内が荒れていた。
吉良家では慌ててこの邸の掃除を行い、殿の戻りを待っていたのだ。これは、生き残った左右田孫兵衛たちの忠義の証でもあったが、忠臣蔵の話に出てきたことはない。
特にあの日、逃げた女たちは行き場を失ったが、吉良家縁の者たちの手引きで麻布邸に落ち着いたのだ。そこで、女たちは義周が生きていることを知り、みんなで邸に戻れるように、連日、自らが雑巾を手に取って働いたのだった。それは女たちの忠義の表れでもあった。
女たちは、涙を流しながら、
「何が赤穂浪士よ。大殿様や若殿様がお労しい。何も悪いことをしていないのに、可哀想でなりません…」
とむせび泣くのだった。
確かに、上野介には、浅野内匠頭がなぜ刃傷に及んだのか、結局最後まで分からなかった。しかし、最期の土壇場で、大石内蔵助から内匠頭の小さ刀を渡され、
「ご自害を…」
と言われたとき、大石の顔を見て、
「そちが大石か?」
「これまでの間、苦労をしたであろうな…」
「浅野殿にも済まぬことをしたやも知れぬ…」
「儂も源氏の武士なれば、覚悟はできておる。さ、…首を刎ねられよ!」
そう言って、武林唯七の刀で首を落とされたという。しかし、後世の芝居では、卑怯未練に描かれているのは、残念としか言いようがない。
内蔵助は、この上野介の立派な最期を見て、
(やはり、我が殿内匠頭様は、あまりにも幼い。もう少し分別があれば、浅野家も吉良家もこのような仕儀にはならなんだ…)
と後悔したそうだが、それはだれにも告げずに従容として腹を切ったそうだ。
麻布の吉良家下屋敷は、義周を迎えるにあたって掃除だけは行き届いたものになっていた。
障子や襖を張り替え、畳は痛んでいる物を張り替えさせた。
庭も取り敢えず、恥ずかしくない程度に剪定をして落ち葉を拾い集めた。
家臣の中には、かなりの手傷を負った者もいたが、それでも使える手足を使って、一生懸命働いたのだ。
討ち入りの報せを受けた吉良の庄の侍たちも急いで江戸に向かい、義周を主人として迎える準備に汗を流した。
彼らにしてみても、今回の騒動は、噂では聞いてはいたが、あまりにも理不尽な所業に悔し涙を流さぬ者はいなかった。しかし、その義周に下された公儀の沙汰は、吉良家に仕える者たちを驚かせると共に落胆させるものだった。
年が明けた元禄十六年二月四日、公儀の評定所から呼び出しを受けた義周は、左右田孫兵衛たち数人に付き添われて評定所へ出頭した。
この日は、大石内蔵助を初めとした赤穂浪士四十六人がそれぞれのお預け先で切腹をした日でもあった。
評定所は、江戸城外辰口にあり、町奉行、勘定奉行、寺社奉行そして老中で構成され、それに大目付、目付が審理に加わる。
義周は、未だに包帯が取れず、頭と腕、背中には幾重にも白い包帯が巻かれていた。
特に背中の傷は治りが遅く、赤く膿み、酷い痛みを感じるほどだった。それでも、裃を身につけた正装で駕籠に乗る義周は、じっと前を見て微動だにしなかった。
噂では、
「吉良家は、どうやら取り潰しになるらしい…」
と囁かれ、吉良家の人たちを心配させていた。
義周は、そうした噂を打ち消すように、
「何を申す。我らは被害者であり、夜盗のような卑怯な振る舞いを見せたのは、赤穂の浪人共ではないか…?」
「ご公儀も、そんなことはせぬ!」
「私なりに、見たままを申し上げるまでじゃ…」
そう言って、駕籠に乗ったが、心中では(世間の評判に流されねばよいがな…)
という心配はあった。
確かに、昨年十二月十五日未明の赤穂浪士の狼藉は、江戸の町では大評判になっていた。それは、義周も知っている。
もし、あれを「戦」として考えるならば、間違いなく赤穂の勝ちであり、吉良の負けであった。
義周は、あの晩の「茶会」を催したことを悔やんでいた。
「あの夜、あのような茶会を開かなければ、家臣たちももっと用心深くおれたものを…」
「私が、大殿を押し止めても茶会は開くべきではなかったのだ…」
それは、若い当主といえども、名門吉良家を継承する立場の者としての抜かりであった。
(私としたことが…。無念じゃ!)
駕籠に揺られていると、そのことが何度も頭を過り、涙が溢れた。
あの日以来、義周は夜になると、あのときの恐怖と後悔の念が頭を襲い、一睡も出来ずにいた。
漢方医の高宮道運が睡眠剤を処方してくれたが、それを飲んでも眠ることはできなかった。
辛うじて、朝方少しうつらうつらするが、それで眼が覚めてしまう。そのために、食欲もなくなり、ただでさえ細身の体が益々痩せ衰えていった。それでも、剣術の稽古で鍛えた体で何とか体を支えていたが、それもいつまで続くか孫兵衛は心配でならなかった。
そのころ、新八郎も上杉家下屋敷で養生していたが、義周が評定所から呼び出しがあると聞いて、こちらも包帯だらけの体で麻布の吉良邸に駆けつけた。
その日はちょうど義周が手入れが終わった庭に出ている時間で、新八郎を見つけると、
「おう、新八…。生きておったか…?」
そう言うと、二人は駆け寄って手を取り合った。
義周の手は、痩せ衰え骨がゴツゴツしていた。
新八郎は、それを見ると涙が止まらなかった。
「と、殿…。申し訳ござりませぬ!」
そう言うと、新八郎は義周の手を握りながらも地面に手を着き、深々と頭を下げるのだった。すると、義周は、
「何を申すか新八…。こちらこそ、すまなかったな…」
そう言うと、その細い手を嗚咽している新八郎の背にそっと当てるのだった。
その温もりに新八郎は、いつまでも涙が止まらなかった。それを見ていた周りの者たちも涙を抑えきれず、邸にいた多くの者が袖で目頭を押さえた。
二人には、主従を超えた熱い男の友情が芽生えていたのだ。
評定所への付き添いに新八郎も、
「私も、ぜひお供させてください…」
と願い出たが、孫兵衛から、
「新八郎、すまぬが、その姿では参られまい…。拙者に任せておけ…」
そう言われて、さすがに包帯姿で評定所に行くのに憚りがあることに気がついた新八郎は、
「そうで…ございますな…」
そう言うと孫兵衛に頭を下げるのだった。
新八郎は、
「このまま、吉良家にいよう。そして、最期まで殿に仕えるのが臣下の道じゃ…」
そう思うと、もう迷いは消えていた。
上杉家からは、
「米沢に戻って養生するように…」
と何度も誘いがあったが、新八郎は首を縦に振ることはできなかった。
今、義周に必要なのは、自分しかいないと確信していたからだった。たとえ、それが貧乏籤になろうと、新八郎は、自分の生きる道を義周に賭けたのだ。
(最期まで、義周様についていけばいい…)
そう考えると、傷も早く治るような気がしてきた。
評定所の裁定は、やはり世間の評判どおりの結果になった。
最悪と言えば最悪だったが、義周には、公儀であればそうするだろう…という覚悟はあった。
祖父上野介に落ち度はない。それは、だれの目にも明らかなのだ。しかし、武士というものは、そう簡単な理屈では割り切れない何かを宿している。それは、「武士道」という道徳なのだ。
この「武士道」なる道義があるからこそ、武士は万民の上に立つことができる。そして、この騒動で武士道を表現して見せたのは、我が吉良家ではない。あの浅野の浪人たちなのだ。
理由はどうあれ、浅野の浪士たちは「主君の仇を討つ」という大義名分を持って邸に討ち入った。そして、遂には大殿上野介様を討ち取ったのだ。
万民にとって、これ以上の「華」はなかろう…。
大石内蔵助という男、なかなかの軍師である。
こちらには、大石たちほどの大義はない。
嘘であろうと、高家職が指南せねばならなかったご馳走役の内匠頭に、あのような不始末を起こさせた責任はある。その責めをあのとき負うておれば、このたびの騒動はなかったやも知れぬ。
吉良家に何のお咎めもなかったことが、今回の裁定となったのだろう。
義周は、素直に大目付の言葉を聞いていた。そして、
「はい。確かに承りました。このたびの不始末、吉良義周がしかとその責めを負う所存にござりまする…」
そう言って、深々と頭を下げるのだった。
大目付仙石伯耆守より申し渡された裁定は、
「このたびの江戸城下を騒がせた一件に付、沙汰を申し渡す。吉良義周、その方の仕方、誠に不行届。よって吉良家は改易、当主吉良左兵衛義周は、信濃国諏訪高島藩藩主諏訪忠虎にお預けと致す」
であった。
義周はいっそのこと「切腹」でも申し渡された方が有り難かった。それでも、納得したのは、祖父上野介を守れなかった一点に尽きる。
結局、義周は麻生の吉良邸にも戻ることは叶わなかった。
諏訪家では、既に義周が預けられることが伝えられており、義周が孫兵衛に付き添われて評定所の玄関を出ると、諏訪家が用意した駕籠に乗せられてしまった。その駕籠は、形式的には旗本の乗る駕籠ではあったが、なんと罪人用の網を掛けた駕籠だった。
側で見ていた孫兵衛は、悔し涙を流したが、それを見たであろう義周は駕籠の中から孫兵衛に、
「孫兵衛、心配致すな。私は大丈夫だ…」
そう言って慰めたのである。
この話を聞いた麻布の吉良邸の人たちは、「殿、お労しや…」と皆で泣いたという。
もちろん、新八郎もそのあまりな扱いに腸が千切れんばかりの悔しさで唇をかんだが、麻布に戻ってきた孫兵衛に、
「それなら、拙者、殿のお供をして諏訪に参りとうございます!」
と訴えた。
評定所からは、「供の人数は二人まで…」という指示があり、手を挙げた新八郎と家老の孫兵衛が行くことになった。
それでも、吉良家家中の者たちは吉良邸を立ち去ることを拒み続けた。
麻布の邸は、古くかなり傷んでいたが、毎日の拭き掃除と手入れによって、最後まで高家旗本四千石の体面を保ったまま目付衆に引き渡した。また、本所の荒れ果てた吉良邸も
大目付の検分改めが終わると、吉良家に戻された。しかし、畳は泥だらけになり、建具の多くも壊され、柱も刀傷で損傷しており、どうすることもできない状態になっていた。
それでも、生き残った吉良家の侍たちの家族は、その荒れた侍長屋に戻ると邸の掃除に余念がなかった。
畳を替える費用もないので、みんなで一生懸命拭くことぐらいしかできなかったが、それでも、だれもがその悔しさをぶつけるように、ひたすら床を拭いた。
そして、麻布の吉良邸が目付衆に引き渡されたとき、本所の吉良邸も幕府に引き渡された。
吉良家には吉良家の武士としての意地があったのだ。それを見届けた目付の多門伝八郎は、
「さすが吉良殿のご一門。理不尽な裁きを受けながらも立派な最後の始末であった…」
と「多門伝八郎日記」に書き残した。
この刃傷事件を最初から最後まで見届けた多門伝八郎にしてみても、世間が噂するような謂われは何一つないことは分かっていた。ただ、公儀の体面を保つために、世間に迎合しなければならなかった裁定に、武士として腹が立って仕方がなかったのである。
結局は、真の原因が究明されないままに元禄の刃傷事件は幕を下ろしてしまった。それ以降は、単に「忠臣蔵」という勧善懲悪の芝居になって後世に残されていくのだった。
評定所から諏訪高島藩下屋敷に送られた義周は、その翌日には信州諏訪に出立することになった。
公儀としては、この事件を早々に解決し、幕府としての威信を回復したいという思惑もあった。
もし、これで義周を軽い裁きで終わらせれば、世間が許さなかっただろう。この場合、世間とは江戸の町人たちのことである。
江戸の治安を預かる町奉行たちは、評定所の審議の中でも強硬な意見を吐いた。
「あれほど、赤穂の浪士共が忠義だ、武士の鑑だ…と持て囃されては、吉良家をそのままにしておくは得策に非ず!」
「もし、吉良を軽い処分で済ませば、今度は町人共が暴動を起こす危険もあり、町奉行としては江戸の治安に自信が持てませぬ!」
などと言う始末であった。
これでは、江戸の法はどうなるのだ…という意見もあったが、結局は、老中の裁定で「改易」となった。
老中にしてみても、今回の騒動は苦々しい限りであり、将軍綱吉も側用人柳沢吉保も、
「吉良家など、この際潰して構わぬであろう…」
という態度だったことから、「仕方不行届」という結論になったようだ。
この「仕方不行届」とは、要するに、当主である義周が大殿である吉良上野介義央を守り切れなかったことが「不行届」ということであり、義周が自ら刀を取って奮戦したことは、微塵も考慮に入れられなかった。
本来、吉良家の当主は義周であり、上野介は既に「隠居届」を出した養い人でしかない。その当主が健在であれば、幾人家臣が死のうとも吉良家は絶えなかったことになる。それを敢えて「改易」にするとは、内匠頭切腹の沙汰以上に理不尽な裁定だった。しかし、吉良家の家臣にしても大半は傷つき、死んでしまっており、目指す「仇」は何処にもいないのだ。
いるとすれば、「将軍綱吉」ということになるだろうが、さすがにそれは憚られた。
義周は、そのすべてを飲み込んで「改易」と「流罪」という処分を受け入れたのだった。
二月十一日、義周を乗せた駕籠は、諏訪藩士「百三十人」という大人数に監視されて江戸の高島藩邸を出て、預かり先の信濃国諏訪高島へと向かったと記録にはある。しかし、僅か三万石の小藩から百三十人の武士を出すことは無理であろう。
記録は記録として読む他はない。
おそらくは、足軽、小者などを含めて百三十人の行列を組んだが、甲州街道に入る内藤新宿あたりで雇い者は帰らせ、後は高島藩士三十人ほどで諏訪に向かったであろうことは、容易に想像できる。
何事も「建前」があり、運用する側にも「方便」はあるものなのだ。
この諏訪高島藩は、所領は僅か三万石の小藩でしかない。
時の藩主は、諏訪忠虎である。
この年、忠虎は年齢が四十歳になり父忠晴の跡目を継ぎ七年になっていた。
義周は十八歳で、忠虎には、我が子を見るような思いでこの高貴な血筋の若者を見ていた。しかし、諏訪高島藩は外様である。外様大名であるが故に公儀からの命令は絶対である。
いつ何時、公儀から難癖をつけられて改易にされるかわからないのだ。
戦々恐々とはこのことで、今回の吉良家の改易も藩主忠虎にしてみれば、他人事には思えなかった。
家臣たちには、
「よいか。吉良家は足利家に連なる名門ぞ…。そのご当主である左兵衛義周殿をお預かりする以上、粗相があってはならぬ。丁重にお迎えせよ…」
と命じてあったが、家老たちは、そうはいかぬらしい。
「万が一、罪人をあまり丁重に扱い過ぎれば、公儀からどんなお咎めを受けぬとも限らぬ。まずは、様子見でござるな…?」
そう言って、城の一番奥の火の見櫓の近くに古材で小さな「座敷牢」を作り、そこに押し込めることに算段したのである。こうしておけば、公儀から視察があっても言い逃れができる…という浅知恵を巡らしていた。
諏訪家といえば、武田信玄に仕えた信濃の名家で武田家最後の勝頼を出した家でもあった。
織田信長の「甲州攻め」で、武田氏は滅ぼされ諏訪家も没落したが、関東に徳川家康が入封したとき、家臣に取り立てられた経緯がある。
家康は、武田信玄の怖ろしさを「三方原」で散々味わった武将であった。そして、そのとき見た武田軍の「赤備え」が、後々まで夢に出てきて魘されたという。だからこそ、家康は武田の遺臣を召し抱えたのだ。
この武田の旧臣たちは、外様でありながら、徳川家に最後まで忠誠を誓い、多摩地方の農民の中から幕末の動乱に活躍した「新選組」を生んだ。
そういう意味では、諏訪高島藩主、諏訪忠虎は間違いなく「武田武士」の子孫だった。
高島藩の家老たちが義周の処遇を巡って右往左往する中で、当の幕府は、特段、吉良家などに構っている余裕もなかった。それに、側用人の柳沢吉保にしても、このたびの吉良家の処置は気の毒に思っていた節がある。そして、将軍綱吉に、
「上様、折を見て吉良家を再興させては如何かと存じまする。特に義周に罪はなく、若年であることを考えれば、十年の後あたりになれば、ほとぼりも冷めましょう。さすれば、五百石程度の旗本に復帰させ、高家職をやらせとう存じまする…」
そう言上していたのだった。
高家職というのは、並の武士では務まらず、代々、有職故実を学び、足繁く京の朝廷に出向き、顔を売っておく必要があるのだ。
そのために官位も高く、雲上人である関白にまで目通りを許される職なのだ。
まして、吉良家は足利に連なる名家。朝廷の貴族共もそれをよく知っている。
吉保にしてみても、その肝心要の吉良家を改易にするのは、幕政を預かる者には痛いのだ。
それに対して綱吉は、
「まあ、よかろう。上野介は確かに少し傲岸不遜の態度が見られたが、ああなっては気の毒であるしな…」
「まして、孫の義周は、その方の申すとおり罪はない。わかった、吉保の申すとおりに致すが良い…」
その言葉に吉保はホッと胸を撫で下ろした。
元はと言えば、将軍綱吉の短慮から出た浅野内匠頭の切腹が引き金になった事件である。あのとき、もっと慎重に内匠頭の刃傷の原因を調べてさえおけば、浅野旧臣の仇討ちはなかったのだ。
そう思うと、公儀の政の難しさを実感する吉保だった。
事実、吉良家は確かに十年後に武蔵吉良家の当主、蒔田義俊が吉良姓に戻す許可を得て吉良義俊として高家職に復帰した。
血筋は、義周で途絶えたとはいえ、高家「吉良家」が再興されたことは、旧臣たちにとっても大きな喜びであった。また、高家職には復帰できなかったが、義央の弟にあたる義叔が事件後、やはり、吉良の姓を憚って東条氏を名乗っていたものを吉良の姓に戻すことが公儀から許されたのだ。
さて、義周が諏訪高島藩に送られるに当たって、評定所から「二人までの同行を許す!」という伝達があり、かねてよりの申し合わせのとおり、家老の左右田孫兵衛と用人の山吉新八郎が供をすることになった。
山吉は、未だ包帯が解けぬままではあったが、義周のたっての願いもあり、同行することになった。
義周は、孫兵衛と新八郎に、
「両名とも済まぬな…」
「もし、辛ければいつでも暇を願うがよい。私はそれで構わぬぞ…」
そう言って笑顔を見せるのだった。
正直、新八郎が同行してくれるのは、義周にとっても嬉しいことのひとつだった。
孫兵衛は確かに実直ではあったが、高齢で話をしても要領を得なかった。こんなとき、新右衛門でもいてくれたら…と思う義周だったが、その新右衛門ももういないのだ。
その悲しみは、一人で耐えねばならぬ。
義周には義周の武士としての意地があった。
第五章 左兵衛義周
その日は、今にも雪の降りそうな雲が空一面に垂れ込めていた。
義周の駕籠は、幸い罪人護送用の網は掛けられなかったが、物々しい警護の中での出立となった。
藩主諏訪忠虎は、本当は見送りに出て親しく声をかけてやりたかったが、公儀の眼を憚って、物陰からそっと見送っていた。それを見た江戸家老の武田監物が、
「殿、何も殿自らが、見送らなくても…」
と囁いたが、忠虎は、
「何を申す。拙者とて吉良様には大変お世話になり申した。忘れたか監物…」
「去る五年前、我が藩も浅野殿と同じ立場ではなかったか…?」
「あのとき、何もできぬ儂の愚かさを吉良様は責めることもせず、懇切丁寧に指南してくれたお陰で、我が藩の面目が立ったのだぞ…」
「確かに、吉良様は官位も高く、尊大に見えるところもあったが、自ら手を取り、よいのじゃ諏訪殿、だれもが初めはできぬものじゃ。儂の言う通りにすればよい…」
「そう言って、何度も指南をしてくれた…。儂はあの恩は何も返しておらぬ。よって、義周殿には精一杯のことをして差し上げたいのじゃ。頼むぞ、監物…」
そう言う忠虎の眼にはうっすらと涙が滲んでいた。
江戸から諏訪への道中は、冬場ということもあって十日近くかかった。
江戸の日本橋から上諏訪まではおよそ五十里、個人の旅なら六日くらいで行けるだろうが、何せ駕籠を担いでの行列旅である。
あまりに急いては、駕籠に乗る義周がたまらない。その上、冬場の坂道は積雪があり、難儀この上ないのだ。
ひたすら甲州街道を歩いて行くのだが、雇い者を内藤新宿で江戸に帰した後も、駕籠を除けば約三十人の行列である。
人数が多いこともあって、その道中は一歩一歩である。さらに、各所の峠を越えねばならない。
見た目はのんびりと進んでいるように見えるが、当人たちには苦難なのだ。
新八郎も孫兵衛も義周の駕籠脇から離れるわけにはいかなかったが、二人とも体が十分に回復していなかったために、苦しい道中となった。
義周も深い傷を負ったままでの道中は、駕籠に乗っているといっても、体は常に不安定で、傷口が酷く痛んだ。それでも、孫兵衛たちには何も言わなかった。
行列は、甲州路の宿場をゆっくり進みながら上諏訪を目指した。それでも、夜になると本陣の湯で寛ぐことができ、三人はせめてもの慰みを見出していた。
本来であれば、罪人が「湯」に浸かるなど以ての外である。これも忠虎の配慮だった。
孫兵衛は、それを聞くと、
「いやあ、有り難い。やはり刀傷には、温泉が一番効くでな…」
と相好を崩して喜んでいる。
新八郎も義周もその配慮が嬉しかった。
新八郎にしてみれば、序でに、
(飯のときくらい、熱燗の一本も出てもいいではないか…?)
と思ったが、せいぜい白湯が出るくらいだった。しかし、諏訪家の藩士たちにも酒は出されていないようなのだ。
これも公儀を憚ってのことだと思ったが、それを命じたのも忠虎だった。
忠虎は、
「道中、酒などを口にして義周殿に粗相があってはならぬ。白湯で良い。白湯にせい!」
と命じていたのだ。
義周は、食事も粗末な物ではあったが、だれもが同じような食事で我慢していることを知ると、
「さすが、諏訪家じゃ。本物の武田武士というものは、こうあらねばならぬのだな…?」
と感心したように新八郎と孫兵衛に話すのだった。
ようやく、十日目にして諏訪に到着した義周一行は、以前諏訪家が松平忠輝を預かった際の「南丸屋敷」に落ち着くことになった。 当初、諏訪家では、火の見櫓下に古材で小屋程度の「座敷牢」を作るつもりでいたが、家老長尾正種たち国元の重臣が、その旨を忠虎に言上すると、忠虎は、
「南丸屋敷があるではないか。そちらを修復し義周殿には住んでもらう故、そう心得よ!」
そう厳しく申し付けたのだ。
そうなると、国元では、
「松平忠輝公は、罪を得たと言っても家康公のお子である。このたびの義周はたかが旗本ではないか。まして、父上野介の悪名はここ諏訪にまで届いておる…。罪人にそのような扱いをしてよいものか?」
「公儀の怒りに触れねばよいがな…?」
と、正種たち重臣の心配は、家臣たちにも広がり騒動になりかけていた。ところが、それを耳にした忠虎の生母誠正院が、正種たち重臣を呼び集めると、
「当主忠虎殿がそう申されておるのじゃ。何を騒がしくしておる。早々に準備致すが良かろう…!」
還暦を過ぎた生母誠正院のひと言は大きかった。
そのころの諏訪家では、国元の政はこの誠正院に伺いを立てなければ進まなかったという。それと言うのも、誠正院は、忠虎の前の藩主忠晴の寵愛を一身に受けた側室で、政にも積極的に関わるような女丈夫だった。
それにもまして、誠正院は、武田家最後の当主勝頼公の血筋を誇りとしていた。
勝頼公と言えば、この信州では今でも「軍神」の扱いを受ける英雄なのだ。
徳川家が諏訪家を大事にするのも、この勝頼について、家康が口にした言葉が諏訪家に伝えられていたからだった。それが、
「四郎勝頼、若輩ながら表裏を心得た油断ならぬ敵に候…」
である。いつの戦を指して家康が口にしたかは定かではないが、徳川政権下で武田の一族が生き長らえているのは、ひとえに信玄公と勝頼公の武勇があったからに他ならない。
その神君家康公から「油断ならぬ敵」と称されたことは、「武人の本懐」というものであろう。
その言葉が徳川家に残されていたことで、諏訪家は先祖の地に三万石とはいえ、転封もなく江戸時代を乗り切れたのである。
故に、その勝頼公の血筋はこの信濃では重い。それが誠正院なのである。
実は、この誠正院は元の名を「久」と言い、若い頃は江戸の吉良屋敷で奉公をしていた経歴があった。しかし、忠虎の父である忠晴に見初められるのは、その後のことであり、だれにも明かすことはなかった。
久は、上野介の妻になる三姫(後の富子)の腰元を勤めており、三姫が義央と一緒になるにあたって、上杉邸から遣わされた女であった。
吉良家には一年ほどの奉公であったために、義周が知る由もない。それでも、この久にとっても「吉良」の名を聞く度に、優しかった三姫のことを思い出すのだった。
その吉良家がこんな不幸に見舞われるとは、誠正院の心はいつまでも痛んだ。そんなとき、富子の孫である義周を預ることなったのだ。
「これも、ご先祖様の采配やも知れぬ。大切にせねばのう…」
表だって面倒を看ることはできないが、ここに来れば、何かと心を配ることもできる。そう思うと、何かしら、生き甲斐みたいなものが湧いてくるような気がしていた。
諏訪高島藩では、藩主忠虎と生母の意見が一致していることもあって、表向きに異を唱える者はいなくなった。そして、早急に「南丸屋敷」の畳を取り替え、襖や障子を張り替え、隅々まで掃除をして義周を迎えたのだった。
国家老の長尾正種は、それでも、
「罪人故、せめて、門を閉じましょうや?」
と国元の忠虎に尋ねた。
この場合の「門を閉じる」とは、いわゆる「閉門蟄居」の形である。
表門を竹の竿で?印にして塞ぎ、雨戸を閉め、常に門前には門番を置いて監視する体制を続けることをいう。
罪人であれば、当然の処置だったが、忠虎からはひと言、「無用!」の返事が返ってきた。
慌てた正種は、再度、誠正院にも尋ねると、
「忠虎殿の言う通りでよいのではないか…?」
とあっさり躱されてしまい、門を閉じることもできなかった。
そういう意味では、義周は恵まれていたと言ってよいのかも知れない。
義周の荷物は、評定所からの命令によって、長持三棹と葛籠一つだけに制限されたが、誠正院の計らいで、生活に不自由がないようにすべてが整えられた。もちろん、鋏や刃物は許可なく使用できなかったが、それもすぐに用意できる準備は整えられていた。
到着して幽閉される屋敷に通された義周は、その行き届いた配慮に驚き、挨拶に来た国家老の長尾正種に、
「長尾殿、これは…?」
「罪人の私に、よいのでござるか?」
と尋ねたが、正種は、
「ははっ、すべては殿とご生母さまの思し召しにござります故、遠慮なく何なりとお申し付けくださるよう、お願い申し上げます」
と平伏するのだった。
これには、孫兵衛も新八郎も眼を丸くして驚いた。
(まさか、こんな待遇を受けようとは思はなんだ…?)
この二人にも別の侍長屋が用意されており、この南丸屋敷への出入りは自由とのことで、忠虎と誠正院には感謝しかなかった。
孫兵衛は、
「最後の最後に、いいこともあるもんですな…新八郎?」
そう言って、涙を袖で拭いた。
公儀としては、「預かり」を命じただけのことで、その処遇について指図をしたことは一度もなかった。
場合によっては、細々とした諸注意を与えることもあったが、この義周の配流については、何の但し書きもなく、どちらかというと「よしなに扱え」とでもいうような寛大なものだった。
義周が諏訪に入って数ヶ月後、江戸城中で忠虎は柳沢吉保に声をかけられた。
「おう、諏訪殿…。ところで、吉良殿はそちらで息災かな…?」
そう尋ねてきたのである。
ドキッとした忠虎だったが、
「はい、少しお痩せになられたようではございますが、息災との報せが参っております」
そう答えると、
「そうか、痩せたか…。それは心配じゃのう」
そう言うと、しばらく考えるような仕種を見せると徐に、
「そうじゃ、後で、滋養のつく物をそなたの邸に届けさせようぞ…」
そう言って立ち去って行った。
数日後、諏訪家上屋敷に吉保からの贈り物が届けられた。それは、甲斐名物の「煮貝」や「軍鶏肉」であったり「燻製した卵」であったりと、大層な品々が届き、諏訪家の家臣たちを驚かせた。
この柳沢吉保も元々は武田家の家臣の流れを汲む家柄で、本人がそれを人に言うことはなかったが、やはり「武田武士の一人」という自負を持っていた男だった。
その食材は早々に諏訪に送られ、義周の食膳を賑わせたことは間違いない。しかし、そのころになると、義周はそんな心遣いも食せぬほどに弱って来ていた。
藩医の山崎清庵によると、
「心身の疲れと、背中の深い傷が影響しておるやも知れませんな…」
と自信無げに呟くのだった。それでも、いくつかの漢方薬を処方し、
「必ず、夕食後にお飲みくだされ…」
と義周に言うと、その薬包を孫兵衛に手渡すのだった。
そんな信州諏訪にも暖かな春が訪れる季節になった。
諏訪は、今でも温泉が豊富に湧き出し、広大な諏訪湖と共に風光明媚な土地柄だった。
高島城にも桜の木が植えられており、桜の花の開花は義周の心を慰めるものになった。そんな折り、一人の娘が南丸屋敷を訪れた。
案内を請う声に促されて新八郎が出てみると、それは、まだ十七、八の娘であった。
既に奥に奉公に入っているようで、武家の娘らしく上品な佇まいを見せていた。
普段、女性の姿を見るとことがなかった平八郎は、どう対応してよいかわからず、思わず、
「どなた様でござるかな?」
と問いただした。
無論、屋敷には一応監視役の足軽もおり、幾人かが屋敷に詰めていたから、何も平八郎自らが玄関まで出て行かなくてもよかったのだが、つい女の声に誘われるように動いてしまったのだ。
以前の平八郎なら、そんなに軽い動きはしなかったはずだが、ここで義周の身の回りの世話をしているうちに、腰が軽くなったのは自分でも可笑しかった。
玄関に出て応対すると、娘は、
「私めは、誠正院様にお仕えする侍女の楓と申します…」
「誠正院様より、これを義周様にお届けするようにとお預かり致しました故、こちらに罷り越しました。どうぞ、義周様にお取り次ぎ願いますよう…」
そう申して頭を下げるのだった。
この日は、暖かな春風の吹く日で、義周も着替えて庭を散策しているところだった。
新八郎が、義周にその旨を伝えると、
「そうか、誠正院様からの届け物とあっては粗略にはできぬでな…」
そう言って、楓を奥に通すことを許した。
楓が持参したものは、黒漆塗りの文箱であった。
それを手に取ると、蹴鞠に興じる貴族たちの楽しげな姿が蒔絵で施され、金箔がふんだんに使われていることがわかる。その上、黒漆が何重にも塗り重ねられているので、光沢が他の物とは比べものにならない。
中は朱塗りで、余程、高価な物であることはすぐにわかる。
義周は、
「はて、これは…?」
その文箱を手に取って眺めていると、義周は「あっ…」と声を上げ、じっとその文箱を見詰めるのだった。
新八郎が、
「殿、どうかなされましたか…?」
そう尋ねると、義周は、その文箱をそっと新八郎に見るように促した。
孫兵衛も近くににじり寄り、「ほう…?」という顔をしてそれを覗いてみると、二人とも「これは…」と義周と楓の顔を見た。
その漆塗りの文箱の蓋の裏には、いくつもの「丸に二つ引」と「五三桐」の家紋が描かれているではないか。それは、紛れもなく「吉良家」の紋である。
すると、楓は懐から一通の封書を取り出し、
「ここに、誠正院様からの文を預かって参りました。どうぞ、お改めください…」
義周は、それを受け取ると丁寧に開いて読み始めた。
読み進めると次第に義周の顔色が変わり、眼をしばたかせるではないか。
読み終えると、義周は「フーッ…」とため息を漏らし、新八郎と孫兵衛にその文を手渡すのだった。
そこには、誠正院が娘時代に吉良家に奉公していた経緯が書かれていた。そして、その文箱は、吉良家を去る際に、結婚したばかりの義央と富子姫から記念の品として手渡された物だったということが記されていたのだ。
そして、その文の最後に、
「この楓は、気の利く者である故、義周様のお側に置き、今後もよしなに願う…」
旨の言葉が添えられていた。
三人は、何故、諏訪家が義周に対して親切だったのか理解した気がした。
間もなく、参勤交代で当主忠虎も帰国するはずだった。その折りに、話も聞けるであろう…。そう思うと、新八郎も孫兵衛もその心遣いに頭を下げるばかりだった。
それからというもの、二日と開けずに楓は「ご機嫌伺い」と称して南丸屋敷に来るようになった。
義周にしてみても同世代の娘が来ることが憎いはずがない。来れば、一刻ほどは一緒に過ごし、仲睦まじい様子が見られるようになった。
「一緒に過ごす…」と言っても楓が遊んでいるわけではない。これまで新八郎が行っていたような義周の身の回りの世話を楓が替わってやるようになっただけのことである。
確かに新八郎では、細々としたことにまで気が回らぬことが多かった。それに、月代を剃ったり、髷を結ったりするのも孫兵衛の手を借りるくらいだったが、この楓は何でも器用にこなすのだ。
そんな楓の仕事の合間に、義周は楓に声をかけ会話も弾んでいた。
最初のうちは、新八郎か孫兵衛が同席したが、そのうち二人とも気を利かして、若い二人だけにするようになっていた。
軟禁状態の暮らしとはいえ、むさ苦しい男ばかりでは気が滅入るだろう…という誠正院の心遣いが嬉しかった。
お陰で新八郎の内向きの仕事が減り、やっと孫兵衛と一緒に庭仕事などもできるようになった。
剣と仕事一筋の新八郎にしてみれば、妻の初がやっていた仕事を替われてほっとしたが、自分がやってみて、妻のこれまでの苦労が分かるような気がしていた。
(そう言えば、初はどうしているだろうか…?)
こちらに来て以来、米沢に帰した初と幼い子らのことを考える余裕もなかったが、初たちもあの日、吉良邸の長屋で怖ろしい思いをしていたに違いないのだ。
初が新八郎の仕事のことで口を挟むことは一切なかったが、あの茶会の夜も邸内に手伝いに入っていたのだ。何処で何をしていたのかも気づかなかったが、初は初なりに忠義を尽くしていたのだろう。
そう思うと、ずっと放っておいた妻が愛おしく、申し訳ない気持ちで一杯になっていた。
新八郎がけがをしたものの生きていたことを知ると、すぐに上杉家下屋敷に来て看病してくれたのも初だった。
けがの治療は医師がしてくれたが、看病は医師の仕事ではない。そんな当たり前のことすら、新八郎は気づかなかった。
傷口を消毒し、甲斐甲斐しく包帯を替え、重湯からお粥、普通の飯を食えるようになるまで、初はあの吉良邸の長屋から毎日上杉家下屋敷まで通ってくれたのだ。
麻布に移ってからも、他の女房たちと一緒に掃除や洗濯、子守りと、それは休む間もなく働き続けたことは想像に難くない。
米沢の里に帰したのは、新八郎が麻布の邸に戻ってからだった。
(すまぬ…初よ…。苦労ばかりかけるな…?)
新八郎は、諏訪から米沢の方角に向かい、一人手を合わせるのだった。
新八郎は、その日以降、この妻にもよく文を出すようになった。
三百年後の現在、山吉新八郎の手紙は、母の咲に宛てた物が数点見つかっているが、初に宛てた文は見つかっていない。しかし、小まめな性格の初のことである。ひょっとしたら、今でも米沢の何処かの蔵にでもしまわれているかも知れない。
春から初夏に季節が移るようになると、義周も次第に元気を取り戻し、庭に出る日が増えてきていた。
楓が来ると、それは殊の外嬉しそうで、まるで若い夫婦を見ているようだった。ところが、夏が過ぎたころ、義周の元に気がかりな報せが入った。
ひとつは、父である上杉家当主の綱憲が「重い病に罹り隠居した…」というものだった。そして、綱憲の跡を継いだのは、義周の二つ上の兄の吉憲だった。
綱憲は、元々体が弱く藩主時代から床に伏せることが多かった。
父上野介の遭難に際しては、自ら赤穂浪士の討伐に向かおうとしたが、江戸家老の色部又四郎に押し止められた。また、大目付からの自制を求める使者が藩邸に来たことで、泣く泣く出馬を諦めたのだ。
もし、家臣たちを武装させ、あのまま吉良邸に向かっておれば、上杉家十五万石も吉良家同様に改易となったであろう。だが、父親をみすみす死なせた負い目は、綱憲終生の悔悟となって綱憲本人を苦しめた。
実父の危難を知りながら助けにも行けず、かと言って、兵を出せば上杉家十五万石を危険に晒すことになる。それは、綱憲にとって苦しい決断だったのだ。しかし、吉良家から上杉家へ入った時点で綱憲には、上杉十五万石を守る使命を負わされていた。数千に上る家臣たちとその家族を路頭に迷わせることはできないのだ。
「私は、浅野内匠頭にはなれぬ!」
それが、たとえ実の父の危難であろうと、見て見ぬふりをせねばならぬ藩主の宿命であった。
理屈ではわかる。
色部の申す通りであろう。しかし、心はそれで納得はしないのだ。
綱憲は、それ以降、江戸家老色部又四郎を遠ざけた。
そのためか、その後の綱憲はずっと床に伏せるようになり、食事も喉を通らなくなっていった。そのため、元々強くない体は、益々衰弱していったのである。
さらに、追い打ちを掛けるように吉良家は改易となり、息子義周は諏訪高島藩に配流と聞けば、生きる気力を失っても仕方がない。
綱憲が身罷ったのは、家督を吉憲に譲って養生をしたばかりの、翌宝永元年六月二日のことだった。
隠居をして一年も経たずに綱憲は死んだのである。
臨終に際して、綱憲は譫言のように、
「春千代、春千代、すまぬ、すまぬ…」
と繰り返していたという。春千代とは、義周の幼名である。
その報せを受けた諏訪では、早速、弔問の使者を立てたが、義周はただ悔しそうに唇を噛み締めるだけだった。
側には、新八郎と孫兵衛、そして許嫁のようになっていた楓の姿があった。
いずれ、この罪が許される日が来ることをだれもが望んでいた。それは、旧吉良家の者たちだけでなく、諏訪家の人々も同じだった。
参勤交代で帰ってきた忠虎は、戻ってくるなり南丸屋敷に出向き、義周を見舞うのだった。そして、祖父である上野介に大恩があることを告げると、これまで以上に義周の制約を解き、領内に限っては自由に移動することまで許したのだった。しかし、それは義周には無理なことでもあった。
既に義周の体は衰弱の一途を辿り、どんな薬を与えても最早飲み込む気力さえ失せているようだった。
四六時中、床に就いていることが多くなり、その看護を行っているのが楓だった。
楓は、まるで自分の夫を励ますように声をかけ、下の世話まで自らの手で行うまでになっていた。
新八郎は、そんな二人の姿を見ては心が痛んだ。
(殿も、もう少し気力を出してもらえればいいのだが…)
そう願うものの、今や新八郎にも孫兵衛にもどうすることもできなかった。
そして、それから二月後、義周の祖母である富子が身罷った。
富子は、既に肺の病を患っており、息子綱憲の後を追うようにして静かに亡くなったのである。この富子にとっても、愛する夫であった上野介をあのような酷い殺され方をしただけでなく、吉良家は改易となり、孫の義周は流罪。そして、頼みの綱憲が死んだとあっては、さすがに生きる気力を失わせた。
昨年末に拗らせた風邪が治らず、ずっと咳き込む毎日だったが、医師に診せても医師は首を振るばかりで、回復の道はなかった。
その死の報せは諏訪にも届いたが、諏訪家では義周には知らせなかった。さすがに、忠虎も誠正院も義周が不憫でならず、新八郎と孫兵衛には堅く口止めをするのだった。
そして、義周はそれから一年半生きた。
ある日、義周は孫兵衛と新八郎にこう告げた。
「孫兵衛、新八、ここまでよう尽くしてくれた。私は感謝の言葉しかない…」
そう言うと、二人は平伏した。そして、
「大殿様、綱憲様、そして富子様がお亡くなりになり、後は母上だけじゃな…」
「母上様に会いたいのう…」
その言葉を聞いて、新八郎はハッとなった。孫兵衛も同じだったろう。
富子の死は敢えて知らせなかったのに、既に義周は知っていた。だれかに聞いたのかも知れないが、風の噂というものは千里を走るものなのだ。それでも、まだ実母が生きていることは、義周にとって救いだったのかも知れなかった。
義周の母は、綱憲の側室で、「要の方」若しくは「為姫」と呼ばれていた。
本名はおそらく、「要」であろう。
側室だったために、義周はあまり親しく接する機会はなかったが、あの江戸の高島藩邸から出立する朝、密かに見送る母の姿を見た覚えがあった。
頭は頭巾を被っていたので、顔を確認出来たわけではなかったが、それが母であることは、義周にはすぐにわかった。その母の隣には祖母の富子姫こと梅嶺院がおられたのだ。
富子は、上野介の死を知ると髪を下ろし上野介の菩提を弔うために尼姿になっていた。
母は、こちらをじっと見詰めながら泣いているようだった。
日頃は、忘れていることが多い母ではあったが、病の床で、思わず口から漏れたのは、「母」のことだった。
おそらく、母のお要の方は、父綱憲がなくなられた以上、剃髪して尼になっているに違いなかった。
「今ごろ、お健やかであろうか…?」
か細い声で孫兵衛にそう尋ねる義周だった。
そこに楓が着替えを持って部屋に入ってきた。すると、義周は、その言葉を飲み込むようにして、ゆっくりと背中を起こし、
「楓、すまぬのう…」
そう言って、ゆっくりと汗を掻いた寝間着を替えさせてもらうのだった。
新八郎と孫兵衛は、富子の死を義周には伝えてはいなかった。しかし、義周は間違いなくそのことを知っていた。
だれが…?とも考えたが、聡い義周のことである。二人の様子からそれを感じ取ったのかも知れなかった。それは、それで仕方のないことなのだ。
それより、二人は、義周の吐いた「母…」の言葉の方を重く受け止めた。なぜなら、義周は未だ二十歳を越えたばかりである。
五歳で吉良家の養子に入り、高家職を継ぐために毎日有職故実を学び、武芸に励み、高家筆頭の身となる己を厳しく鍛えていたのだ。その中で孫兵衛も新八郎も義周から「母」なる言葉を聞いたことがなかった。だが、母が恋しくない男はおらぬ。
新八郎とて、母親の咲のことを考えると胸が切なくなった。
咲は、今でも米沢の田舎で畑を耕しながら働いていることだろう。もう、還暦も近い。 江戸に来てから、新八郎は一度も米沢に帰ることがなかった。それでも、便りだけはマメに送り、母からの返信を励みに頑張って来たのだ。そのことを知りながら、義周の母のことに思い至らなかった自分を恥じた。
(そうだ、殿は、まだ二十歳ではないか…)
そう思うと、義周が不憫でならなかった。そして、その代わりを務めるように甲斐甲斐しく世話をする楓が有り難かった。
自分に初という妻がいるように、今の義周には楓という愛する人がいる。それは、不幸続きの義周にとって何物にも代え難い「宝」であったであろう…。
そう思うと、楓が義周の元を去らないで欲しいと願うばかりだった。
義周が、最期を迎えたのは、宝永三年一月二十日の明け方だった。
前の晩から激しく咳き込んだ義周は、度々発作を起こした。
部屋には、孫兵衛、新八郎だけでなく楓も誠正院も寝ずに介抱に当たっていた。しかし、医師が処方した薬が効を奏したのか、明け方近くに咳も治まり静かになった。そして、しばらくすると義周は指の先を動かし、何かを求めているような仕種を見せた。
楓が「義周様…」と手を握ると、瞑っている眼から一筋の涙が零れた。それが、義周の最期だった。
そのとき、慌てたような足音が廊下に響き、襖が開けられると、そこには藩主忠虎が立っていた。
「義周様が危篤と聞いて、慌てて来たが間に合わなんだか…?」
そう言って、義周の前に跪くと、そっと手を合わせ白い布を義周の顔に掛けるのだった。
忠虎は、周囲の心配を他所に、武田武士としての誇りを持って、大恩ある吉良家当主に接した真の侍だった。
この諏訪家は小藩ではあったが、その後も信濃諏訪の地を治め、明治維新を迎えた。
忠虎と誠正院は、義周のために諏訪大社縁の法華寺に墓を建てて供養した。しかし、さすがの忠虎も公儀を憚って高家旗本として相応しい墓を建てることはできなかった。それでも、密かに法華寺の住職に千両もの寄付をして「吉良義周公木造坐像」を安置し、永代供養をするように依頼したのだった。
この木像を彫ったのは、あの楓である。
楓は、義周の簡単な葬儀が終わると、あの南丸屋敷に籠もり、義周の部屋から見えるところにあった朽ちた古木の一部を切り取り、この木像を彫ったのだ。
その一心不乱に彫り続ける楓の姿を見た新八郎は、思わず手を合わせたほどだった。
三ヶ月、毎日一心不乱に彫り続けた木像は、在りし日の義周の姿そのものだった。
ただ、楓は元気だったころの義周には会ったことがなかったはずなのだ。そこで、新八郎が、それを尋ねると、楓は、
「私には、わかります。聡明で文武両道に秀でた殿様であった義周様が、今でもここにおわすようで、私は眼を瞑るとそんな義周様のお姿が見えるのでございます…」
と涙ながらにそうに語るのだった。
楓は、この木像を誠正院に手渡すと、だれにも何も告げず姿を消した。
誠正院も必死に探したが、その後の楓を見た者はだれもいなかったという。
今でも、本堂の奥に安置された「義周像」は、毎年命日には、歴代の住職によって法要が営まれている。
その日になると、法華寺と吉良家縁の人々が本堂に集まり、義周公を供養するのだった。そして、住職は、義周がこの諏訪でどのように過ごしたかを「物語」として語るのが習わしとなった。
木像は、右手に笏を持った束帯姿で彫られている。その表情は、まさに義周そのものだと伝えられている。
切れ長の眼と細面の顔は、まさに高貴な雰囲気を漂わせていた。それに、大殿の上野介にもよく似ている。そして、だれよりも優しげなのだ。
「ああ、これこそ義周様に違いない…」
それは、義周を知る者すべての人の口から漏れた言葉だった。
そっとその木像を手にした誠正院は、それを愛おしそうに撫でながら、
「楓、何をしておるのじゃ…?」
「もう、よいではないか…?」
「楓に罪はない。義周様は、楓がいてくれたからこそ、ここまで生きられたのじゃ…」
「早く、私の元に帰って来なされ…」
そう呟いて暖かな信濃の空を見上げてるのだった。
そして、誠正院が義周が使っていた部屋を見渡すと、いつもその床の間の飾り棚に置かれていた文箱が見当たらなかった。
(もしや、楓が持って行ったのか?)
そう考えたが、それを敢えて言葉にすることはなかった。ただ、ひと言、
「もうよい。もう、楓は探さずともよい。楓には楓の生きる縁が見つかったのであろう…」そう言って、足早に御殿に戻られて行った。
その誠正院が亡くなられたのは、それから五年後の冬のことだった。
誠正院は、最後まで楓の身の上を案じ、その弟の角田重三郎を忠虎の側近に推挙し百石を与えた。
重三郎は、忠虎から、
「姉上様に感謝するのだぞ…」
「女の身でありながら、忠義を尽くした者であった。儂もああなりたいと思うくらいじゃ…」
そう言って笑ったが、重三郎は、早く城に上がった楓のことは、あまり覚えてはいなかった。それでも、行方知れずとなった姉に対して、主君である忠虎がこのように申すには、それ相当の働きがあったのだと思うと、重三郎は感謝の他はなかった。
重三郎は、その後も忠虎の近習として仕え、後には諏訪高島藩の重役となって藩政を担ったという。
記録によれば、義周の死後、新八郎は孫兵衛と一緒にすべての片付けを終えると、米沢藩に帰参した。
忠虎からは、
「このまま、諏訪家に仕えぬか?」
という誘いがあったが、吉良家の家臣としてそれは許されることではなかった。
米沢藩では、禄高は吉良家時代よりも低かったが、それは米沢藩の財政から考えれば、上杉家としても精一杯の配慮であった。
新八郎にしてみれば、帰参が叶っただけでも有り難かった。
新八郎が米沢を離れたのは、義周が上杉家から吉良家に養子に出たときからだから、十五年ぶりである。
新八郎は、諏訪から中山道を通り、熊谷へ出て、そこから日光街道、そして、会津西街道と歩き、若松城下から米沢街道に入った。 日光街道からの道は、若い頃に何度も歩いた道である。その道中が懐かしく、少しずつ米沢に帰れる喜びで心は満ち溢れていた。それでも、自分がそう思う度に、義周のことを思い出さずにはいられなかった。
「もし、殿の預け先が会津公であれば、もっと楽しいお話を聞かせて上げられたものを…」
と悔やみもしたが、それが叶うはずもなく、ただそう思う新八郎だった。
帰ったときがちょうど米沢にも春が訪れており、もうすぐ桜の花が開花すると言うような季節であった。それは、新八郎の「新たな門出」を祝うかのような故郷の風景だった。
城下から少し離れた村を歩くと、懐かしい藁葺きの屋根が見えてきた。それが初の里である。
新八郎を先に見つけたのは、その初だった。
初が家の庭先で雑草取りをしていたとき、向こうから歩いてくる旅装姿のお武家を見た。
そのとき、初は考える間もなく野良着のまま駆け出していた。それが、自分の夫である新八郎だとすぐにわかったからだった。
新八郎もすぐに初を認めた。
「走る」などというはしたないことをする妻ではなかったが、このときばかりは、新八郎も思わず駆け出していた。
二人は顔を見合わすと、手を取り合って無事を確かめ合うのだった。
今の時代なら、そこで熱い抱擁でも交わすのだろうが、それは夜のことになった。ただ、新八郎は、初の汗の臭いが懐かしく嬉しかった。このときだけは、
「生きていてよかった…」
と、心の底からそう思えるのだった。
翌日には、改めて米沢城下の実家に顔を出した。
家に着くと、母の咲が庭先で待っていてくれていた。
先だって手紙で帰郷する旨を知らせてあったので、母は「今か、今か…」と毎日、外に出ては待ち侘びていたのだ。
随分と会わなかった母だが、文の交換をしていたためか、それほど老けたという印象はなかったが、咲は、会うなり、
「お帰り、新八。おめえ、随分と老け込んだんでねえのか…?」
と顔や頭を撫で回するのだった。それが、この母親の愛情なのだろう。
新八郎は自然と涙が零れるのを抑えられなかった。
あの左右田孫兵衛重次は、
「儂は、義周様の最期を江戸におわす母上様にご報告申し上げてから、田舎に帰るわ…」
「お主も長い間、ご苦労であったな…」
「名残は尽きぬが、儂らとて吉良家の侍じゃ。涙を見せずに別れようぞ…。達者でな新八!」
そう言う側から孫兵衛の眼には涙が溢れていた。
孫兵衛は、懐から紙を取り出すと、涙と一緒に鼻水をかみ、
「いかん、いかん。歳を取ると涙脆くなっていかんわ…」
そう言うと、ひとつペコリと新八郎に頭を下げると、振り返ることなく一人江戸に戻っていった。
その後、新八郎は、孫兵衛の消息を聞くことはなかった。
記録によれば、孫兵衛が言っていたとおり、江戸の旧吉良邸と米沢藩邸に立ち寄って細々とした報告を済ませると、その足で故郷の三州吉良の庄に帰ったそうだ。
孫兵衛には、還暦を過ぎた後も各大名、旗本家から仕官の誘いが舞い込んだ。それは、だれもが口にはしなかったが、吉良家への同情があった証でもある。
諏訪家の忠虎や誠正院がそうであったように、吉良家や上野介に世話になっていた者は多かったのだ。しかし、世間が揃って赤穂贔屓の中、それを口にできる者はいなかった。それ故に、吉良家の最期を取り仕切った左右田孫兵衛という男の価値を高めたとも言える。
新八郎のところにも、同じように仕官の誘いがあったが、上杉家では当主吉憲自らが、
「あのような勇者を手放す大名があろうか?」
「彼の者は、あの赤穂浪士を敵に回し、大石内蔵助や堀部安兵衛が名指しで豪の者と讃えた侍ぞ。上杉家の宝として、子々孫々まで伝えるでありましょう…」
そう言って、各大名家からの高禄の誘いを皆断ったという。
結局、孫兵衛は何処にも仕官することなく三州吉良で余生を送った。
吉良には、華蔵寺という吉良家の菩提寺があり、上野介義央はそこに葬られていた。そして、そこにも義周の墓が造られた。
もちろん、孫兵衛が取り計らったものである。
義周の墓には、義周の遺髪や爪が納められた。それは、新八郎や孫兵衛が義周の世話をしていたとき、本来捨てられるべき髪の毛や爪を孫兵衛が大事に集めて取っておいたものであった。さらに、華蔵寺の本堂には「義央公の木像」が安置され、領内の人々の信仰の対象となった。
吉良家は改易となり、三州吉良の領主もたびたび変わったが、そこで暮らす人々にとって、領主はいつまでもあの赤馬に乗って親しく笑顔を見せた「上野介義央公」お一人だったのだ。
第六章 法華寺の伝説
あれから、約三百年の時が過ぎた。
この事件の顛末は、皮肉にも「芝居」によって後世に伝えられた。それが「忠臣蔵」である。
今の令和の時代になると、「勧善懲悪」や「忠義」といった武士道に由来する時代劇は話題にならなくなったが、それでも歌舞伎の世界では「仮名手本忠臣蔵」が年末には必ず全国各地で上演されている。そのたびに、吉良上野介が敵役で浅野内匠頭や大石内蔵助が主役になったが、新八郎や孫兵衛も必ず登場する大事な脇役である。
新八郎は、やはり吉良家随一の剣豪として描かれるが、孫兵衛は、どちらかと言うと決断力のない軟弱な家老に描かれることが多い。どちらも真実とは遠い虚構の世界ではあるが、自分の名が三百年の後まで日本人に知られていると知れば、新八郎や孫兵衛は、きっと苦笑いをするに違いない。
まして、義周はひ弱な跡継ぎとしか描かれず、吉良家を背負う苦悩など後世に残されるはずもなかった。
しかし、こんな時代になって、改めて「忠臣蔵の世界」を研究しようとする若者が現れた。
東京にある私立明誠大学三年生の山吉新市郎である。
新市郎は、文学部歴史学科で日本史を学ぶ大学生である。
明誠大学は、けっして偏差値の高い大学ではなかったが、明治時代に日本の近代化に貢献した医師の佐藤明誠が設立した学校で、特に医学部が有名だった。
学部には、医学部の他に文学部、商学部、工学部があり、キャンパスは都心ではなく八王子にあった。
八王子といえば、武田家旧臣が徳川家康に仕え「八王子千人同心」という半農半兵の「郷士」集団を思い出す人も多いだろう。
徳川家に危難が降りかかった際は、鍬を刀槍に替えて江戸城に馳せ参じる武力集団のことである。
普段は甲州街道と日光東照宮の守りが主な任務だったそうだが、新選組の話などを読むと、やはり「農民」と言う方が相応しいようだ。
幕末になると、近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎などの剣士が京の都を舞台に大暴れした。その組織が、この八王子から誕生した「新選組」である。
彼らが旗印とした「誠」とは、旧武田家と徳川家に対する忠誠の証なのだ。
創設者の佐藤明誠は、八王子の村医の息子として生まれた。
長崎でオランダ語、蘭学、西洋医学を学び、江戸で「明誠堂」という医学塾を創り、西洋医学で得た知識と技術で、多くの患者を助けたことで有名になった。
一方、蘭学者、西洋医師でありながら、剣術に長け、近藤勇たちの天然理心流の免許を得ている。
「もう少し、早く生まれておれば、儂も新選組に入って正義の剣を振るったものを…」
と晩年まで弟子たちに語っていたそうだ。
その佐藤明誠が、明治二十年に麻布に「明誠医学専門学校」を創った十月二日を大学の創立記念日としている。その後、大東亜戦争を経て大学として認可され、現在に至っている。
八王子のキャンパスは、山ひとつあるくらいの広さを誇っており、管理棟である本館を含めて教室棟が六棟、それに図書館二棟、研究室棟、自然園、グラウンドが三面、水泳場、テニスコート、サッカー場、野球場、体育館三棟などが周辺に点在していた。
山吉新市郎が通う文学部は、教室棟の外れのF棟にあった。そこから先は、自然林で、無闇に立ち入ると迷子になりかねない。
たまに、猪や鹿が出るということで、学生は「立ち入り禁止」になっている。
新市郎は、文学部の歴史学科で日本史の近世を研究しているゼミの学生である。
これでも、山吉新八郎家の長男で、剣道は四段。子供のころから米沢の弘武館道場で米沢新陰流を学んできた。
これは、山吉家の者ならだれもが習わなければならない「家の掟」なのだ。だからといって、新市郎が昔風の侍を気取っているわけではない。
見た目は普通の大学生だし、この「剣」を除けば、山吉家はごく普通の一般家庭なのだ。
新市郎の父新作は、米沢興教館高等学校の英語の教師で、母は地元のスーパーでパートをしている。
姉が一人いるが、既に東京に嫁いでおり二人の子供の母になっていた。名は雪子という。
そんな新市郎が、大学で歴史を学ぼうと思った理由は、単純に自分の家があの「山吉新八郎」の家系だったために、元々歴史好きなこともあって「調べて見たい…」と思ったのが動機だった。
山吉家は、明治時代には福島県令を務めた山吉盛典を出した家柄で、福島の安積疎水の開発に尽力した人物だったようだ。
明治の元勲大久保利通が暗殺される数分前に大久保邸で面会していたのが、この盛典だった。
歴史に「if」は禁物だが、もし、盛典が大久保に同行していれば、むざむざと暗殺剣などにやられるものではなかった。
盛典自身も米沢新陰流の免許である。
そんなわけで、できれば、卒業論文として自分の家のルーツを題材にしたいと考えていたが、正直、これまで出版されている赤穂浪士関連の本を読んでも、赤穂浪士の面々は詳細に調査されているが、一方、吉良家になるとおざなりな調査しかされておらず、山吉新八郎の記事も少ない。
何処でも「吉良家随一の剣豪」的な記述のみで、性格もわからないし、残された手紙もない。
米沢の家には、多少の当時の手紙が残されてはいるが、家族を心配するような内容のものはあっても、歴史的価値につながる貴重なものは見当たらなかった。それでも新八郎は、几帳面で、母や家族思いの優しい武士だったことはわかる。
米沢に戻ってからは、黙々と職務に励んだようで、家禄も最後には二百石という貧乏藩では信じられないくらいの高禄取りに出世しているが、おそらくは、その二百石も名目のみで、実際の手取りは少なかったようだ。
米沢藩が経済的に回復するのは、新八郎のずっと先の上杉鷹山が藩主になってからのことで、新八郎と鷹山に接点はない。
鷹山が藩政改革の先頭を切って藩財政の抜本的改革を行ったことで、米沢藩は幕末を東北の雄藩として生き残れたことは間違いない。 今に残る米沢の多くの地場産業は、鷹山の興した産業が成功した証でもあるのだ。
米沢での新八郎は、米沢新陰流の奥義を究めようと黙々と修練に励んだという。そして、それは次第に米沢藩士の気風に変わっていった。
だれもが、
「赤穂浪士と互角に戦った山吉殿の稽古を受けたい…」
「討ち入りの日の様子が聞きたい…」
と自宅道場には門弟の希望者が殺到した。しかし、新八郎は、あの日のことを多くは語ろうとはしなかった。すれば、あの新貝弥七郎のことを思い出すし、多くの亡くなった吉良の仲間のことを思い出すことになる。それは、何よりも辛く悲しい思い出なのだ。
それでも、藩主吉憲と国家老千坂兵部、江戸家老色部又四郎の呼び出しには素直に応じて、正直な胸の内を語った。
何よりも、吉良家当主左兵衛義周の最期を語らないわけにはいかなかったのである。
新八郎は、語り尽くした最後に、
「上杉家の血を継ぐ左兵衛義周様こそ、真の上杉侍でござりました…」
「病に倒れ、諏訪の屋敷で養生している間も、我らには何の苦情も口に出さず、ひたすら上杉と残された吉良の旧臣たちのことばかりを心配されてお出ででした」
「あの夜、あれほどの傷を負い、死を賭して戦った殿を、世間では卑怯者呼ばわりされ、それでも言い訳一つなさらずに自分の運命に耐えた義周様こそ、真の武士道の体現者でござります!」
そう言うと、大粒の涙を溢して嗚咽した。
それは、その部屋にいた者の涙を誘い、右筆の者までが手が震えて、記録の筆が進まなかったという。
山吉新八郎という侍は、そういう男だった。
だが、三百年の後に我が子孫が、自分という人間を調べてくれようとは、新八郎も思いもよらぬかったに違いない。しかし、それも新八郎の血がそうさせたのかも知れない。
新市郎は、三年生の夏休みを利用して、新八郎が義周に随行して行った諏訪に調査に行くことにした。
この義周の流罪は、その「赤穂浪士関係文書」にも記録が少なく、調べあぐねていたのだ。
「じゃあ、行ってみるか…?」
八王子から上諏訪(旧高島)までなら、特急あずさなら二時間もかからないだろう。しかし、それでは臨場感がない。そこで、得意の自転車で行くことにした。
距離にして約百六十㎞として、自転車の速度が時速十五㎞くらいだから、ノンストップで十一時間程度になる。
ただし、甲州街道は山道が多くいくつもの峠などの難所を越えなくてはならないから、一日五時間走るとして三日もあれば着く…と考えた。
もちろん、宿場をあちこち周りながら取材をするので、もう少しかかるかも知れなかったが、「山吉新八郎の辿った諏訪への道」の計画は、大学のゼミの教授である安西先生にも許可を取った。
安西教授は、
「ふむ…。確かに、吉良義周の諏訪高島での流罪生活はあまり記録がないからな…」
「確か、墓は法華寺という諏訪大社縁の古い寺にあるはずだ。尋ねてみたらいいよ…」
「いい資料が見つかれば、山吉君の先祖への供養にもなるだろうしな…」
そう言って励ましてくれたのだ。
そこに、ひょっこり現れたのが、楓である。
名前は「吉良楓」、こちらは吉良家縁の愛知県の出身である。
「え、それ面白そう…?」
「私も行っていいかな…?」
楓は、一学年下の二年生で、やはり吉良家の赤穂事件を調べている…と言っていた。
「だって、あそこは、私の先祖の義周さんが流されていたところよ。それに、私は一度行ったことがあるの…。案内できるわよ」
楓は、ボーイッシュな女子学生で、テニス部ではインカレにも出場するスポーツマンだった。
新市郎は、剣道しかできないが、大学の剣道部には入っていない。
八王子の「剣友館道場」で天然理心流の居合を習っていた。
天然理心流という剣は新八郎の習った米沢新陰流とは違い、攻め一本槍の剣で、もの凄く実戦的だった。
最初の頃は、いつも「受け」で試合をするので、師範代から、
「なんだその剣道は…?」
「天然理心流は、突きだ!」
「もっと腰をためて、剣を思いっきり突き出せ!」
と怒鳴られたが、師範の堀江稔七段から新市郎の習得した剣の話を聞くと、
「なんだ、おまえは米沢者か…?」
「それなら、そうと早く言えよ。米沢と八王子は、仲間だからな…」
そう言って笑うのだった。
随分昔の話なのに、今でも奥羽越列藩同盟の気分でいるのが可笑しかった。
それにしても、攻撃一本槍の剣というのもなかなか迫力があって面白いが、それだけ欠点も多かった。
逆に米沢新陰流は、守りの剣だけに隙を見せない。
受けて、受けて…最後に相手の隙ができたところを撃ち込む剣である。
新市郎と対戦すると、最初は勢いで相手が優勢に見えるが、なかなか一本を取らせない。 逆に、相手が疲れたところを面や籠手を打って決めることが多かった。それでも、居合になると、振った剣先が速く、気合いがもの凄く入るので、天然理心流を習った者は強そうに見えた。
そう考えると、攻撃的な剣を使った馬庭念流の遣い手であった堀部安兵衛が「剛」であれば、米沢新陰流の新八郎は「柔」というところだろう。
肖像画でも残っていればいいのだが、安兵衛は忠臣蔵のイメージで描かれているので本人の特徴を掴んでいるとは言い難いが、やはり強そうである。
おそらく、新八郎は、柔和な顔立ちをしていたのかも知れない。やはり、「強そうに見えない…」ところが、本物の強さなのだと新市郎は勝手に思っていた。
楓のそんな申し出は、ちょっと困った問題ではあったが、安西教授は、あっさりと、
「いいじゃないか…。そうか、吉良さんは、諏訪に行ったことがあるのか。それはちょうどいい…」
そう言って、すぐに賛成してしまったので、困ったのは新市郎の方である。
「だって、女子学生と一緒じゃあ、噂になったら困りますよ…」
と困った顔を見せたが、楓は平気な顔をして、
「何、言ってんのよ。私は電車で諏訪に行くの!」
「泊まるところも別々に決まってんじゃない!」
「じゃ、諏訪で、会いましょう?」
(あ、そういうことか?)
当たり前と言えば当たり前だが、少し残念な気持ちもあった。
楓は、短髪でテニス焼けをしているので、あまり顔立ちは目立たないが、黒目がちの瞳は、確かに魅力的だった。
背も新市郎と左程変わらないし、足は新市郎よりずっと長かった。そして、その細身の体はしなやかで、白いテニスウエアがよく似合うのだ。
話はトントン拍子に決まり、出発は九月一日ということになった。
大学の夏季休業は七月三十日から九月三十日までで、丸二ヶ月休むことができる。
楓は、インカレなどの大会が目白押しで、八月半ばまでは試合があるのでだめだったが、九月になれば練習がないので同行できる…と言うことで、結局、楓の都合に合わせることになってしまった。
新市郎は、その間、帰省もするので米沢の図書館などで、もう一度、諏訪での新八郎について調べることにした。その上で実際に甲州街道から諏訪に向かおうと考えた。
その日は意外に早くやって来た。
新市郎は、八月に入ると本格的に米沢市立図書館に通い「山吉新八郎文書」を閲覧し続けた。
図書館の山本孝司書にもかなり相談に乗ってもらったが、やはり諏訪での新八郎の動静は、何処も同じようなものだった。
「そうだな、やはり赤穂浪士関連文書にもそこまでは書かれていないんだ…」
「まあ、主役は赤穂の浪士たちだからね…」
「吉良の庄に戻った左右田孫兵衛も日記を書いていたようだが、未だに見つかっていないし、新八郎も日記の類いはないんだよ…」
「ただ、ちょっとここを見てご覧…?」
そう言うと、当時の「諏訪高島藩主諏訪忠虎日録」を広げた。
もちろん複製品である。
この資料は、諏訪市教育委員会が編纂した物だったが、こうした資料は各都道府県や関連の自治体に寄贈するのが習わしで、それで一冊米沢市にも贈られてきたものだった。そういう意味では、公立の図書館には全国の資料が揃っているのだ。
早速それを読むと、高島藩主諏訪忠虎がかなり吉良義周に同情を寄せており、流罪といっても厚遇で迎えたことがわかる。
罪人でありながら、松平忠輝が暮らした南丸屋敷を提供したり、門を堅く閉じなかったり、後になってからは、領内なら自由に行動してもよい…という許可まで与えているのだ。
どうも、忠虎は、義周というよりも祖父の上野介に世話になっていたらしい。
「大恩」という言葉が書かれているところから見ても、忠虎が饗応役を仰せつかった際に、随分と上野介に親切にしてもらったようだ。そこから推理すると、新八郎にもかなりの自由が与えられており、今、世間一般に言われているような過酷な囚人扱いとは違うような気がする。
山本司書は、
「そうなんだよ。この記録は、赤穂関係の文書にはないんだ。また、幕府の大目付や評定所関係の文書にもない…」
「つまり、公式には、やはり罪人扱いをしていた…と報告していたんじゃないかな…?」
「要するにだ。幕府からの命令は罪人としてのお預けなのだが、遠い諏訪まで、それを監視する気が幕府にはなかった…ということじゃないかと思う」
新市郎は、
「そうか…。幕府自身は、この事件は、吉良家の改易で終わりにしたかったんだ?」
「だから、吉良に悪意のない諏訪高島藩を選んだ…とも考えられるね?」
そう呟いた。
山本司書は、
「そうそう…、建前は罪人。だけど、後はよしなに…ってところじゃないのかな?」
「あ、そう言えば、ここを見て?」
そう言って、数頁をめくると、
「ここに、こんな記述があるんだ」
「ほら、何故かは書かれていないが、側用人の柳沢吉保から甲州の名物が諏訪忠虎に宛てて送られているんだが、何か変じゃないか?」
「だって、普通、幕府の最高権力者が、たった三万石の小藩の藩主に、自分の国の名物を贈るものかな?」
「普通は、逆だろう?」
そう言われて、新市郎も「そうか…?」と頷いた。
「つまり、この贈り物は忠虎にではなく、別の人に…ということになるんじゃないか?」
「そうそう、そうなるよね?」
「じゃあ、その人はだれ?」
二人は、顔を見合わせた。そして、口を揃えて出た言葉が、
「義周!」
新市郎は、これまで赤穂関係の文書ばかり探していて上杉家の文書はあまり気にしていなかったが、なるほど、もし、柳沢吉保がそうした品を義周に贈っていたとしたら、すべての諏訪家の行為に納得がいく。
つまり、忠虎にしてみれば、吉保が心配するほどの義周なのだから、別段、厚遇しても咎められることはない…と分かっていたんだ。だから、公式文書には厳しく対応している…と報告されているが、実際はかなりの「自由」を与えて養生させていたんだ。
「なるほど、そういうことか?」
新市郎は、山本司書に礼を言うと、その資料のコピーをもらって諏訪に行く準備を始めるのだった。
八月二十日、いよいよ新市郎は愛用の自転車で諏訪に向かって走り始めた。
新市郎の自転車は、型は少し古いがクロスバイクで頑丈が取り柄だった。
既に二年あまり使っているが、故障知らずで乗っていて安定感がある。
このバイクを自分で整備し直し、この日に備えてタイヤは新しい物に取り替えた。
夏場なので荷物は少なめにしてボストンバックに詰め込んだ。
新たに後部にリアキャリア(荷台)を取り付けたお陰で、背に背負うリュックは小さくて済む。
ヘルメットは、夜間でも目立つようにシルバーの塗装がしてある。それに、ロード用サングラスに自転車用の手袋を嵌めると準備は整った。そして、早朝の八王子を颯爽と出発した。
まずは、八王子の先の高雄を目指し、高雄から駒木野宿に入ろうと考えていた。
もちろん、頼りになるのはネットの「歩き旅」のホームページである。これを使えば、何とか上諏訪まで行けそうだった。しかし、どう考えても山道が続き、ずっと登りっぱなしなのだ。これなら、自転車より徒歩の方が楽かも知れない。
そんなことも考えたが、「自転車で行く!」と決めた以上、やはり相棒のクロスバイクが頼りだった。
八王子の宿場は、昔は「横山宿」と呼ばれており、そこから、駒木野、小仏、小原、与瀬、吉野、関野、上野原、鶴川、野田尻、犬目、下鳥沢、上鳥沢、猿橋、大月、下花咲、下初狩、中初狩、白野、阿弥陀海道、黒野田、笹子峠、駒飼、鶴瀬、勝沼、栗原、石和、甲府柳町、韮崎、台ヶ原、教来石、蔦木、金沢、そして上諏訪へと続く。
八王子から駒木野宿までは約八キロ。
普通、自転車なら一時間もかからないだろう。
新市郎は、晩夏の残暑の中をひたすらペダルを漕いだ。そして、新八郎が見たであろうと景色を眺めながら、ひたすら走った。
今日は、せめて上野原か鶴川くらいまでは行きたかった。
八王子を早朝六時に出発した新市郎は、甲州街道の銀杏並木を見ながら走り、二時間ほどの小仏宿の手前に着いた。ここからは、小仏峠の上り坂である。
さすがにこの勾配は、荷物を載せた自転車で漕ぐのは無理である。自転車を降りて押して登るほかはない。
距離的には大したことはなくても、こうした上り下りが体力を奪うのだ。
おそらく、義周を乗せた駕籠もこの峠には難渋したはずだった。まして、冬の峠道である。暖かい陽のあるうちでなければ峠を越すことは難しい。その上、行列は百三十人と聞いている。
どうして、それほどの大人数だったかは定かではないが、そこに高家旗本四千石という格式があったのかも知れなかった。
若しくは、吉良家の残党が生き残った主君を奪い返そうと待ち伏せしている可能性も考えられる。
これは、後になって知ったことだが、このころの大名行列などは、数百人の行列だと言われるが、その多くは、近くの宿場から借りて来た「人足」で、今でいうアルバイトを使っていたようだ。
実際の供の人数は、その三分の一程度で、米沢藩などの貧乏藩では、実際の藩士は三十人もいなかったようだ。
だとすると、この「百三十人」も怪しい。
諏訪高島藩は僅か三万石しかないのだから、揃えても、二十人くらいかな…と思う。
それに、山本司書に言わせれば、
「江戸に入るときは、人数を揃えたって言うから、この義周の場合、逆だからね…」
「そうなると、内藤新宿、今の新宿駅のあたりで人足にはバイト代を払って、後は二十人ばかりの人数で甲州街道を進んだんではないかな…?」
ということだった。
確かに、この小仏峠の山道を見ただけで、
大人数での行列が進むのは「無理!」としか言いようがなかった。
まあ、吉良家の残党が殿様を奪い返しに来る…と言うのも分からないわけじゃないが、吉良家にそんな指揮を執れる侍が残っていたのかな…という疑問もあった。
実際、小仏峠道を自転車を押しながら登っていくと、かなりの曲がりくねった道が続き、坂の上から襲われたら、たとえ人数は多くても防ぐのは難しいかも知れないと思う。
まして、同行している山吉新八郎は、負傷していると言っても剣の遣い手である。用心に越したことはない…というのが、幕府や高島藩の考えだったのかも知れない。
そう思うと、一応形式的には百三十人の行列で諏訪に向かったという理由もわかる。そして、吉良義周という元旗本が、如何に重要人物だったかがわかるような気がした。
そのまま坂を登っていくと宝珠院というお寺が見えてきた。
臨済宗の寺で義周が通った時代にもあった寺院である。そこから、しばらく登ると峠の頂上に出た。ここから先が小仏宿になる。
小仏宿に着いたころには、陽もかなり高く昇っており新市郎は大汗を掻いていた。
坂道になると自転車に乗って下るのだが、今度はブレーキを掛けながら下りなければならず、神経を磨り減らす。
このアップダウンを駕籠に乗せられた義周も大変だったろう。
けがが治りきっていないので、相当にきつかったはずだ。
左右田孫兵衛は、当時としては初老の武士だったのだから、この坂道は相当に堪えたに違いない。
そんなことを考えながら、坂道を下る新市郎だった。
結局、こうした難所を何カ所も潜りながら上諏訪に到着したのは、四日目の昼になっていた。
本当は三日くらいで着くかな…と考えていたが、意外と寄り道する場所が多く、自転車で走っている時間よりそちらの方が多くなった。
もちろん、一日のロスはかなりできたが、別に急ぐ旅でもないので、新八郎には収穫だった。それにしても、ここを冬場に通るとなれば半端な苦労ではない。おそらく、半日も歩けば、日が傾きそれ以上行列で進むのは危険だったと思う。
やはり一番の難所は笹子峠だろう。
今は「新笹子トンネル」ができているので多少は交通もスムーズになっているが、江戸時代の初めとあっては、難所中の難所である。
山は鬱蒼と繁り、「熊の出没注意」の看板があるくらいだから一人歩きは危険だった。
冬場は木々も枯れているとしても、なかなか骨の折れる諏訪行だったはずだ。
途中、石和の立ち寄り湯に浸かったり、名物の蕎麦を食べるなどをして自転車の旅を続けた。
やはり、想像以上に厳しい行程であり、江戸時代の人間の逞しさを感じざるを得ない。そのころには、新市郎の顔も手足も真っ黒に日焼けし、サングラスを掛けている目元だけが白い「逆パンダ」のようになっていた。
上諏訪は、昔は「高島」といい、諏訪高島藩の城下町である。
ここに義周と新八郎、孫兵衛が来たのだ。
上諏訪の宿場は、上町・中町・本町により形成され、街道沿いには酒蔵が建ち並ぶ賑やかな町である。その多くは現在でも営業を行っており、我々が知る「銘酒」も多く造られていた。
甲州街道は次の下諏訪宿が終点になる。
有名な諏訪大社は、全国に一万社を数え、諏訪湖南側の上社本宮、上社前宮、諏訪湖北側の下社秋宮、下社春宮の四つからなるそうだ。
目指す法華寺には、どんな謂われがあるのだろうか。
先に法華寺についてネットで調べて見ると、「諏訪大社上社本宮の南に鎮座する臨済宗の寺院」とある。さらに詳しく読んでみると、
「創建は八一五年 (弘仁六) で、最澄による開基。もとは天台宗の寺院だったが、鎌倉期に諏訪氏によって臨済宗に改められたようだ。明治期の神仏分離で廃寺になるものの学校として存続し、一九一六年(大正五)に法華寺として復活している。現在の境内伽藍はいずれも昭和期以降のもので、楼門があるほか本堂裏には吉良義周の墓がある」
と書かれていた。
確かに、諏訪大社上社本宮の南にあるとすれば、まさに「神仏習合」の思想にあるように、諏訪大社と一体となっていたのがこの法華寺なのだろう。
明治になって廃仏毀釈の被害を受けるとは、時の政府の愚かな政治の象徴みたいなものだ。まあ、それはいいとして、やはり義周の墓はそこにある。
法華寺に行けば、何かが掴めるかも知れない。新八郎は、まるで「謎解き」をしているようで少しワクワクしていた。
約束どおり、九月一日の十時到着の特急「あずさ一号」で楓がやって来た。
会うなり、
「なんだ、先輩。真っ黒ですね…?」
そう言うが、楓も相当に黒い。まさにテニス焼けなのだろう。
「試合、どうだった?」
と聞くと、
「だめだめ、インカレには出たけど、二回戦負け。仕方ないなあ…」
「まあ、もう少し上まで行ければよかったけど、相手が大会準優勝の選手だから、くじ運も悪いよね…」
そう言って、サバサバしていた。
「あっ、そうそう、もう私これからは東京出身だからね…」
新市郎も急に言われて戸惑ったが、
「何、八王子だって東京じゃないか?」
と聞くと、
「そうじゃなくて、私の実家が東京に移ったの!」
(なんだ、そうならそうと、早く言えばいいのに…)
と新市郎は思ったが、相手が楓では仕方がない。
理由を聞くと、楓の親は、愛知県の豊橋で海産物を商っていたそうだが、東京で会社経営に乗り出したとのことだった。これからは、東京の両国で海産物の卸問屋を手広くやっていくとのことだった。
新市郎は、
「へえ、すごいじゃないか。会社経営か…?」
それは、真一郎にとっても憧れのビジネスモデルに違いなかった。
楓に言わせれば、
「うちの兄貴が、やれ、やれって親をせっついて東京に会社を作ったんだよ…」
「まあ、遣り手なのは兄貴の方で、親たちは渋々だったみたいよ…」
「それに、こじつけるわけじゃないけど、塩だって商っているんだよ…」
「吉良の饗庭塩も赤穂の塩を扱っているの…」
「まあ、やっぱり赤穂の塩の方が売れるけどね…」
そう言って笑って見せた。
まあ、楓の今の吉良家にしてみれば、今さら吉良でも赤穂でもないのだろう。ただ、「海産物卸 吉良」を名乗っていると、必ず客から「え、あの吉良さん…?」と聞かれるので、
「はい。あの吉良家の末裔です。よろしくお願いします…」
と挨拶するのだそうだ。
楓は、そこの長女で兄と二人兄弟だと言っていた。
その兄は名を進と言い、既に社会人として四菱商事に勤務するとサラリーマンだそうだ。
やはり、海産物の輸出入には興味があるらしく、いずれ、実家の会社を「株式会社吉良商会」として、海外貿易にまで手を広げて行きたいと考えているらしかった。
そう考えると、
(吉良の血筋は、結構、積極的なんだな…)と感心する新市郎だった。
万事控え目な米沢の山吉家とは家風が随分と違うもんだと驚いたが、そんな積極的な楓は新市郎には、少し眩しく見えた。
二人は、自転車で早速法華寺に向かった。
楓の自転車は、駅前のレンタル自転車だが、これが「電動」なので、意外に速くて新市郎も楓の後を追いかけるような恰好になった。
法華寺は、JR上諏訪駅から自転車だと南に四十分くらいの距離にある。
IR上諏訪駅前には高島城があり、そのすぐ北には広大な諏訪湖が広がっていた。
九月に入っているので、観光客も少なくなっていたが、それでも、諏訪は温泉もあり、名物も多いので人気スポットなのだ。
高島城は、明治を迎えるまで諏訪家の居城であり諏訪のシンボルだった。
明治の廃藩置県により、城郭と天守閣が一度は取り壊されたようだ。しかし、市民からの要望が多く集まったことで、一九七〇年(昭和四五)に天守閣と冠木門、角櫓が復元され、当時の面影を偲ぶことができる。
城跡は公園になっており、毎年五月には「高島城祭り」が開かれるそうだ。また、諏訪家は、江戸時代を通じてずっとこの諏訪の地を治め続けた。
初代諏訪頼水が入城して以来、その治世は、最後の忠礼まで十代の長きにわたった。それだけ、領民に親しまれ、武田家旧臣の誇りを持っていたのだろう。
外様ではあったが、幕府に於いては譜代の扱いを受けおり、徳川幕府の末期には、忠誠が一時老中職を務めている。
諏訪の名物と言えば、鰻だが、大学生の新市郎にとってはなかなか口にはできない。せめて、信州蕎麦でも…と、腹が空くと蕎麦屋の暖簾を潜っていたので、少し飽きた。
たまには贅沢もしたいところだった。
手軽なところでも、信州味噌を使ったラーメンなどもあるらしい。それに、最近では、信州豚や高原野菜を使ったカレー店もできているらしく、ネットでもグルメ情報は満載なのだ。
自転車を漕ぎながら、先を行く楓にそんな話をすると、楓は大きな声で、
「じゃあ、カレーにする!」
と言って、益々スピードを上げて法華寺に向けて走るのだった。
新市郎は、それまでの疲れもあり、既に足はパンパンでそれどころではない。
それでも、剣道四段が、さすがに「待ってくれ…」とも言えず、無理をしてペダルを踏むしかなかった。だが、この無邪気さも楓のかわいいところでもあるのだ。
新市郎は、そんなことを考えながら楓の後を追った。
諏訪法華寺は、今の中央自動車道路諏訪インターチェンジからほど近い場所にある。
看板を目印に進んで行くと諏訪大社上社がすぐに見える。これも広大な敷地があり、「さすが、諏訪大社だな…」
と感心するばかりだった。そして、諏訪大社が見えると、そこに法華寺までの案内が出ていた。
先に着いていた楓が、笑顔で新市郎を待っていた。
「なんだ。意外とゆっくりね…」
そう言うと、新市郎が着くなり、
「じゃあ、行こうか?」
「こっちよ…」
そう言うと、さっさと自転車に跨がり、法華寺の方に向かってゆっくり自転車を漕ぎ始めた。
ここは、神社の参道だから、自転車の速度を上げることはできない。
鳥居の前からは徒歩になる。
鳥居の前で自転車を降りると、二人で頭を下げて神域に入っていった。
諏訪大社は、日本で最も古い社の一つで「古事記」にも出てくる神様が祀られているそうだ。
武田信玄が信仰していたといわれる社で、信玄の旗印である「風林火山」と共に「諏訪大明神」の旗が本陣に翻っているのをテレビドラマで見たことがあった。したがって、この社の神様は「軍神」なのだ。
法華寺は、その社の奥にあり、思っていたより大きな寺で、庭が大きく美しいのに驚いた。
楓が言うには、
「この寺はね…、織田信長や明智光秀に関わりがある庭らしくてね。本能寺の変のきっかけになった甲州征伐の本陣になったんだって…」
「信長が、光秀の物言いが気に入らず、みんなの前で光秀を打ち据えたのがこの場所だったらしいわよ…」
そう言われて、確かドラマでそんなシーンを見たような気がした。
光秀役の俳優が、頭から血を流し信長を恨めしそうに睨んでいるシーンだった。
(ああ、あの場面がここか?)
そう思うと、せっかくの美しい庭を見ながら、何と無粋なことをするのかな…と思った。
確かに満座の中で恥を掻かされれば、憎く思うのは無理はない。
何か、諏訪という土地は、武田氏滅亡とか、光秀の恨みとか、松平忠輝や義周が流罪になったとか、美しい場所に相応しくない逸話が多いことが気になった。
そう考えると、この庭園の美しさは、どことなく悲しみや憂いを湛えているように感じるのだ。
まあ、それは、新市郎の思い過ごしかも知れないのだが…。
法華寺の本堂の方に進んで行くと、数日前に連絡をしていたこともあり、ここの副住職の庄司正順氏が待っていてくれた。
正順氏はまだ三十半ばの青年僧である。
臨済宗の総本山である京都の華園大学で仏教学を学び、永平寺で修行を積んだお坊さんである。
ここの跡継ぎではないが、希望してここの副住職として赴任してきたそうだ。副住職になって十年と言っていた。
ここには、住職の他に副住職が三人いるそうで、その中で一番若いということで、新市郎たちの案内を引き受けてくれたのだ。
おそらく、二人の名前が「山吉」と「吉良」と聞いて興味を持たれたのかも知れない。それに、義周の話となれば、何かしらの縁を感じても不思議ではない。
新市郎と楓は、挨拶を済ませると早速義周の墓に案内してもらった。
そこは、本堂の裏手にあり、小さな石の階段を上り十mも進むと案内板が見えた。
ふと前を見ると、そこに質素な石の墓と供養塔が並べて建てられていることに気づく。 墓は夏のせいか、緑の苔が一面を覆っており、古い墓石がより古く見えた。
表には義周の戒名が彫られている。
近くによってよく見ると、
「室燈院殿岱巌徹宗大居士」
と彫られているのが辛うじて読める。
副住職に尋ねると、
「室燈は部屋の灯り、岱巌は険しい山を指し、徹宗は大元の意味」
ということだった。想像するに、
「仄暗い灯りを頼りに険しい山に登られ、武士道を究められた侍」
と読むこともできる。
この解釈が正しいのかどうかはわからないが、新市郎のこれまでの研究から解釈すると、この戒名は当然、新八郎も孫兵衛も見たはずである。そして、住職にその意味を尋ねたはずなのだ。
そのとき、罪人として罰せられたとしか読めない戒名であれば、きっと抗議したに違いない。
今でも、江戸時代の被差別身分の人々の戒名は、あまりにも酷いもので、見るに堪えないものが多い。しかし、諏訪高島藩の藩主忠虎が、「この戒名で良い…」としたとなれば、決して罪人扱いの戒名ではないはずなのだ。そう考えると、新八郎は、
「仄暗い灯りを頼りに険しい山に登られた」と読んだ。
義周の人生は、光り輝く道ではなかった。そして、家督を継いだ瞬間に赤穂の浪士に討ち入りされ、大殿は殺され、自分も危うく命を奪われそうになった。その上、理不尽な公儀の裁定によって名門吉良家は改易、御身は流罪となれば、義周の辿るべき道はあまりにも険しい山道ではなかったか。しかし、最後に「徹宗大居士」とある。それは、
「己の心に真っ直ぐに順った武士である」
という顕彰の言葉にしか読めない。それならば、新八郎たちに不満はあろうはずがない。
「己の心」とは、それは間違いなく武士道のことだろう。
赤穂浪士が「武士の鑑」として賞賛されたのとは逆に、吉良家は武士としての汚辱に塗れ、ここ諏訪に流されたのだ。その武士の最期に「武士道」を賞賛する戒名が付けられたということは、何かしらの意味があるに違いない。しかし、わざわざ、戒名に意味不明のような文字を書き連ねたのは、おそらく徳川幕府への配慮なのだろう。
「これ以上、余計な詮索はしてくれるな!」
という忠虎たち諏訪高島藩の無言の抗議だったのかも知れない。それならば、義周の無念の死も「武士としての名誉ある死」となったはずである。
新市郎は、新八郎を思い、
「仄暗い灯り」とは、新八郎だけでなく吉良家の者共全員のことではなかったか…と思う。それを義周が頼りとしてくれたとしたら、新八郎の霊もきっと慰められるだろう。
そう語る新市郎の眼には、うっすらと涙が滲んでいた。そして、それを聞いた副住職は、
「うむ、なるほど。さすがは、山吉新八郎の子孫の方ですな。そうお読みなさったか…?」
としきりに感心していた。
側にいた楓は、腕を組んだまま首を傾げていた。
何か言いたそうに新市郎の顔を見ると、
「実は、私ね。以前もここに来たことがあるの…」
「今日もそうなんだけど、何かしら、このお墓から温かい風が吹いてくるのね…」
「先輩も感じる…?」
今は当然、晩夏だから気温が高いのは当たり前だったが、その「温かい風」の意味が、正直、新市郎にはわからなかった。それは、庄司副住職も同じだったようだった。
「ふむ、温かい風ね…?」
「それは、どういう感じなのかな…?」
副住職が尋ねると、楓は、涙目になってこう告げた。
「うん、あのね。何か、昔懐かしい人に会ったときのような、いえ、違う。恋しい人に会ったときのような疼きを感じるのよ…」
「そう、昔、別れざるを得なかった恋しい人に再び会ったような感情よ…」
「ね、先輩なら分かるでしょ…!」
そう言うと、楓は急に義周の墓を抱きかかえるように頬ずりをするのだった。
それは、ほんの一瞬のことだったが、新八郎は、
(楓は、ひょっとしたら義周の恋人の生まれ変わりじゃないのか…?)
と思った。
それは、副住職も同じ思いだったようで、二人で顔を見合わせるのだった。
それから、持参した線香の束に火をつけ、信州の清酒とリンドウの花を添えて手を合わせた。
楓は、何かお墓に向かって話しかけているようだったが、新八郎は敢えて、そのことは尋ねなかった。きっと、楓には楓にしかわからない何かを感じて、話しかけていたのだろう。
本堂に戻ると、副住職の配慮で中で休ませてもらうことになった。
本堂の中は、少し薄暗く、気温が数度違うのではないか…と思うくらい涼しかった。
扇風機を回してもらい、麦茶の接待を受けながら、しばらく義周や吉良家、新八郎のことを話題にして寛いでいた。
小一時間も話をしたであろうか、
「さて、お暇しようか…?」
と腰を浮かせ掛けたとき、新市郎が思い出したように、
「そうだ、忘れていました…」
「ここに、義周様の木像があると聞いてきたのですが、見ることは可能ですか?」
すると、副住職は、いとも簡単に、
「はい。いいですよ。あまり見に来る人がいないので、奥に安置してありますが、どうぞ…こちらに」
そう言って案内をしてくれた。
そこは、やはり本堂の奥で、廊下の突き当たりのような場所だった。
ここまでは外の光があまり届かないようで、
薄暗さを感じた。そして、副住職が、
「義周公の像は、その扉の中にございます」
そう言われて、眼を凝らすと、そこには、かなり時代を感じる木製の仏壇のような箱が置かれていた。
やはり、仏壇と同じような観音扉が付いており。副住職がそれを開けると、なんとそこには、高さ三十㎝ばかりの木彫りの像が安置されているではないか…。
それが「義周公の木像」だった。
その木像は、何となくはにかんだような笑顔を見せ、こちらに優しく微笑みかけていた。しかし、相当に古い木像で、やはり黒くくすんでおり、所々、木肌が劣化している箇所も見られた。
このまま放置すれば、後何年も保たないだろう。
副住職に言わせると、
「実は、この木像を元に、新しく義周公の木像を制作する計画があるのです。そうなれば、この木像は修繕を施してこの本堂の奥にしまわれてしまいます。ちょうど、いいときに来られました…」
それは、愛知県の吉良町の人々の願いでもあり、かなりの寄付を募って計画されたもののようだった。
それをじっと見詰めていた楓は、黙ったまま、また涙を溢し、その場に座り込んでしまった。
副住職が、「どうされました…?」と声をかけても楓はしくしくと泣くばかりである。
すると、楓は「そ、それ…」と言うように指さす先には、また違う物がそこには置かれていた。
それは、木製の文箱だった。
新八郎がよく見ると、黒漆で塗られ蒔絵が施された立派な品であることが見て取れる。 新八郎が、「これは…?」と副住職に尋ねると、
「この謂われはよくわかりません。ただし、中を開けると吉良家の家紋が入っておりましたので、義周公の遺品だと思われます」
という話だった。しかし、それにしても楓の様子が尋常ではない。
本堂の表に出て少し休むと、楓が少し落ち着いてきた。楓は、
「何かわからないけど、その文箱を見た瞬間に胸が苦しくなって、涙が自然に流れてきたのよ…」
「私にも、わけがわからない…」
そう言うと、注いでもらった麦茶を飲み干し、ホッと息を吐くのだった。そして、楓は何かを思い出したかのように言葉を発した。
「ねえ、副住職さん…」
「あの義周像の底に、文字が彫ってなかった…?」
そう言われて、最初は怪訝な顔をしていた庄司だったが、「あっ…!」と声を上げると、バタバタと奥に駆け込んでしばらく戻って来なかった。
十分ほど過ぎて、また慌てるように一冊の分厚い本を持参してきた。
新八郎たちの前にドンと置くと、
「こ、これは、以前、この本堂を修復したときの記録写真が収められたものなのですが、何冊も作られなかったので、私も以前、ちらっとみただけだったのです」
「実は、そこに義周像の写真も残されています。見てください…」
新市郎と楓が、何頁も捲るとそこにさっき見た「吉良義周公木像」の写真が印刷されていた。
調査のために何枚も撮ったようで、上や下、横からや斜めからも写されている。そして、一枚「底」を写した写真があった。
白黒のために、よく見えなかったが、どうも文字らしきものが写っているように見えた。
庄司が拡大鏡を持って来てくれたので、眼を凝らしてよく見ると、そこには「楓」の文字がみえるではないか…。
楓は、
「ねえ、ここに楓って…。そう読めない…?」
新市郎が改めて拡大鏡で見ると、それはまさしく「楓」という漢字に見える。もちろん、彫られた文字なので判別は難しいが、そう思えば、そう読めるということかも知れなかった。
副住職に尋ねると、
「それは間違いなく楓という漢字であるということに間違いありません。次の頁にそう書かれています」
そう言って次の頁を読むと、それは「楓」と書かれていた。
専門家が鑑定した…と注釈があった。
三人は、ゴクリと唾を飲み込むと、
「だから、楓さんが異常に反応したんだ…?」
「それにしても、よく分かりましたね?」
庄司がそう楓に尋ねると、楓は、
「ううん…。何となくよ。何となく、木像の底に名を刻んだ記憶があったの…?」
「え、記憶…?」
新市郎は、
(記憶も何も、二人ともこの木像を見るのは初めてなんだし、楓さんは何を言っているのかな…?)
と首を傾げたが、それ以上の詮索は止めにした。それより、「楓」の方が気になっていた。
「でも、この楓ってだれなの?」
そう勢いよく楓が庄司に尋ねると、庄司は、「えっ、と…」と言いながら、別の資料を探しに奥に入っていった。また、十分ほどすると今度は、別の本を持参してきた。そこには、背表紙に「諏訪法華寺歴代住職日録」と書かれている。
作成したのは「諏訪市教育委員会」とあった。
庄司によると、
「これは、十年程前に、寺に残されていた古い資料を諏訪市が調査に入りました。そこにあった多くの資料は、寺では保管が難しいので、ほとんどが諏訪市の図書館の所蔵庫に収めてあります」
「諏訪市では、教育委員会が中心になって、その古文書の解読と出版を行い、歴史の記録を保存するようにしているところなんです」
「諏訪市には、諏訪大社を初めとして多くの寺社仏閣がありますので、今のうちに貴重な資料を整理しないと後世に正しい歴史が残されないと考えているようです。そこで、本寺でも市に協力をして資料の提供を行っているところなんです…」
だから、きちんと印刷製本された資料があるというわけだった。
「では、ちょっと、その当時のご住職の日記を見てみますね…」
「膨大な量なので、全部は整理が終わっていないようですが、元禄の時代は大丈夫です」
「巻の五、でしたので、それをお持ちしました」
新市郎はその分厚い本を捲り、元禄期の住職は「光源上人」となっていた。
その光源上人の日記を見ると、確かに義周の名がたびたび出てきた。しかし、「楓」となるとなかなか見つけることが難しかった。そこで、また小一時間探していると、楓がある頁を見つけた。そこには、こう記載されていた。
「義周公室 楓と申す者あり 誠正院の女であり 義周公に遣わされた」
「義周公死後、木像の制作した者は、楓と申す義周公の室である」
「義周公の死後 楓の行方は杳として知れず」
それを見つけると、三人は
「やっぱり…」
とため息を吐いた。
あの義周像を彫ったのは、義周の妻である楓という女性なのだ。その楓は、忠虎の生母である誠正院に仕える女で、義周の世話をするために南丸屋敷に遣わされたのだろう。
「室」とは正式な妻を指すが、義周が妻帯した記録は、他の資料にはないので、内縁関係であったのかも知れない。
まして、義周は幕府にとっての罪人であるから正式に妻を娶ることはできないはずなのだ。ただ、だれかが女性を義周の側に遣わしたとしても不思議ではない。それが、「誠正院」なる藩主の生母なら納得できる。
義周が二十歳、楓もそれに近い年齢であれば、世話をしてもらううちに親しくなることはあり得る話である。ましてや、義周はけがの養生が進まず、苦しんでいる最中であれば、尚のこと楓という女性を頼りにしていたに違いないのだ。それを新八郎も孫兵衛も、そっと見守っていたのだろう。
それで、義周の死後に、一番義周を知る楓が木像を彫ったとしても不思議ではない。
彼女にはその才能があったのだ。それに、そんなことができるのは、楓が義周を愛していたからに違いない。正式な夫婦でなくても、心と体は夫婦同然だったのだろう。
これまでの記録には、楓の話は一切出てこないが、考えてみれば、義周は、まさに青春の真っ只中にいたわけで、新市郎には同じ年代の若者としてそれが痛いほどにわかった。
今の自分が二十歳で、ここにいる楓が十九歳。まさに、義周と楓ではないか。
その自分が今の楓をかわいいと思い、こうして一緒に旅をしていることが嬉しい気持ちになっている。これが、恋に発展するかはわからないが、そんな感情を異性に持つのは、男として当たり前なのだ。そんな感情に時代も身分も関係あるはずがない。
新市郎は、そう考えると義周が不憫でならなかった。
住職の日記には、その他に、
「その木像は、義周が暮らした南丸屋敷の枯れた古木から作られた」
と書いてあった。
きっと楓と義周は、その南丸屋敷の庭で語り合ったり、手遊びをして過ごしたのだろう。だから、思い出深い庭の古木が材料になったのだ。
古木は「欅」の古材だったそうだ。
確かに欅の木なら、信州にはたくさん自生しているし、高島城にもある。そんな木が朽ちて放置されていた物を楓は使ったのだろう。
木像はけっして大きくはないが、一生懸命彫ったであろう跡は見られた。
木肌がそのまま残っていたので、彫刻の技術はわかる。
庄司によれば、けっして上手な作とは言えないそうだ。もちろん、仏師に依頼するという方法もあっただろうが、墓や戒名にもあれほど幕府に気を遣う高島藩が木像の依頼を仏師にするだろうか。いや、しない。
だとしたら、これを彫ったのは楓の意思ということになる。それが、幕府を憚った結果として、この法華寺に預けられた…というのが真相なのではないだろうか。
たとえ、立派な木像ではなくても、義周の「室」とまで言われた楓が作った義周像を無碍にできるほど藩主の忠虎や誠正院は無慈悲な人たちではない。
誠正院にしてみれば、自分が義周の元に送った楓が気の毒だと思わないはずがない。
庄司に伺うと、
「誠正院は、諏訪を代表する女性として敬われ、今でもイベントなどで登場する人気者です」
「多くの記録にも、その名が出ており、慈悲深い御方だったようです」
それは、信州の女性の特徴なのだという。
信州の女性は、その自然環境もあり、皆、無口で慎み深いが、芯のしっかりした人が多く、家の財布を握っているのも、信州では女性が圧倒的に多いということだった。
それを聞いて、新市郎も楓もお互いの顔を見合わせた。
(この楓も、そうかも知れないな…?)
そう思うと、何となく二人の「楓」が似ているように思えるのだった。
だとしたら、供養という意味で、義周の墓と共にその木像の安置を法華寺に依頼したとして、だれが咎めるというのか。
だれもが知っていたとしても、それを幕府に告げ口するような侍は、この諏訪家にはいないという確信が、藩主の忠虎にも生母の誠正院にもあったのだ。
そう考えると、最後にあの義周像を見られたことは、この旅の収穫だった。それに、山吉新八郎もそれを見たに違いないと考えると、自分の先祖が身近に感じられるのだった。
しかし、その新八郎も楓のことは、何処にも書き残していない。だからこそ、今の今までその由来を説き明かす者がいなかったのだ。
そうこうしているうちに、夏の夜も更けて来ていた。
新市郎と楓は、庄司副住職の配慮で、ここの宿坊に泊めてもらうことになった。
さっきまで「カレーが食べたい…」と言っていた楓だったが、そんなことはすっかり忘れたかのように、この話に夢中になっているようだった。
新しい発見ができた庄司副住職も、もっと二人と話したかったのかも知れない。
新八郎は楓と一緒に法華寺名物の精進料理をご馳走になり、風呂に浸かると一遍に睡魔が襲ってきた。
ここ数日間、こんなにゆっくりした夜はなかった。それに、襖を隔てた隣の部屋には楓がいるのだ。
夜になっても気温はあまり下がらなかったが、周囲を森に囲まれた宿坊には、涼しい風が入ってきた。
二人は蚊帳を借りて布団を敷いたが、新市郎が寝ようとするとき、既に隣からは楓の寝息が聞こえてきた。
それを子守歌のように聞いて新市郎も深い眠りに落ちたのだった。
翌朝、二人で食事を摂っていると、楓が思い出したように、
「ねえ、先輩。もうひとつ分からないことがあるの…?」
「ん…、何?」
「ほら、義周の隣に置いてあった漆の文箱よ。あれは、義周の遺品だって庄司さんは言っていたけど、記録にはなんて書いてあるのかな…?」
「ねっ、昨日、私が木像の前で急に倒れたのは、あの文箱を見た後からなのよ…」
「変だと思わない?」
「だって、仮によ。私があの楓さんの生まれ変わりなら、義周の墓の前で温かい気持ちになったのもわかるし、木像を見て涙が出たのもわかる。でも、あの文箱は、それだけじゃない」
「何か、もっと楓の強い気持ちがあの文箱に残っているような気がするのよ…」
「ちょっと、調べて見ない?」
新市郎は、楓の申し出が嬉しかった。
これで、もう少し楓と一緒に旅ができると思うと、心の奥がむずむずと温かくなった。それに、楓の様子もこれまでとは少し違うような気がしていた。
おそらく、それは自分と同じ名前を持つ女性が本当の恋をして、その証を今の時代にまで伝えようとしていることに感動しているからに違いない。だから、楓は「吉良楓」であると同時に義周の妻の「楓で」もあるのだろう。
食事を終えると、そのことを庄司に相談してみたが、さすがの副住職の庄司も困った顔をして、
「なるほど、そうですか?」
「あの文箱ね…?」
「あれは、てっきり義周の遺品だと思ってたので、楓との関係を考えてみたこともありませんでした」
「何か、資料でもあればいいのですが?」
楓が、
「あのご住職さんたちの日記には、何か書いてないの?」
そう尋ねたが、庄司は、
「うーん…」
「昨日もご覧になったように、木像の件はわかりましたが、文箱のことは記載がないんですよ…」
「まあ、私も全部を読んだわけではありませんがね…。少しお時間をください」
それはそうだろう。
あれだけ膨大な資料があるだけでもすごいのに、あれを全部読んだ人はだれもいないはずなのだ。
整理した諏訪市の教育委員会に聞けば、何か分かるかも知れないが、さて、それを知る人がいるのかどうか…。
やはり、庄司副住職が言うように時間が必要だと新市郎も思った。
楓も「仕方がないわね…」と諦めた口調だったが、やはり本人が感じたことなので、一番気になっているのは楓自身だった。
それでも二人は、副住職にお礼を述べて、また自転車で上諏訪の町を走ってみることにした。
この日も天気はよく、暑い日だったが、やはり信州は秋の訪れが東京より早いようだった。
自転車のペダルを漕ぐと、爽やかな風が体を吹き抜けるような気持ちがして、掻く汗も気持ちのいいものだった。
楓と新市郎は、レポートに使用する写真を何枚も撮った。
中には、二人で並んで撮った写真もある。
新市郎は、楓が自転車で走る姿や水筒の水を飲んでいる姿などの自然な楓もこっそり撮っておいた。まるで、「盗撮」をしているかのような罪悪感を感じていたが、楓が、
「もう、先輩…。何を撮っているんですか?」
と聞くので、
「ああ、諏訪の自然をちょっとね…。でも風景だけじゃつまらないだろう」
「だから、少しばかりモデルも入れておいたよ…」
そう言って誤魔化したが、楓は「もう…」と言ったきり、それ以上の詮索はしてこなかった。それに、満更いやでもないらしい。
後で改めて見てみると、それは夏の諏訪に咲く一輪の「ひまわり」のようで、新市郎のかけがえのない「宝物」になった。
第七章 義周と楓
夏が終わり、明誠大学も後期の講義が始まった。
新市郎も楓も、これまでどおりの学生生活に戻ったが、二人の関係には少し変化が見られていた。
新市郎も楓も大学の学生寮で暮らしている。
八王子のキャンパスの一番奥になる学生寮は、男子学生は「明誠寮」といい、女子学生は「山百合寮」といった。
明誠寮は大学の名をそのまま付けてあるが、これは明治時代に医学校として開校したときの「寮」の名である。
当時は男子学生だけだから、創立者の名を取ったのだろう。
女子学生の募集を始めたのは、戦後、この八王子に校舎を移転させた後のことなので、その八王子市の花である「山百合」を冠した名にしたのだそうだ。どちらも十畳ほどの個室で、ちょっとしたワンルームマンション風になっていた。
私立大学なので、費用もばかにならない。
そこで、新市郎は、八王子市内の居酒屋でアルバイトをして小遣い程度は稼いでいた。
八王子市は人口が五十万人を越えており、大学も二十はここに校舎を持っている学生の街なのだ。
だからかも知れないが、何処の店も「学生優待」のステッカーが貼ってあり、通常の「一割引」程度の価格で提供してくれる。
大学にも立派な食堂はあったが、新市郎もバイト序でに町で食べることが多かった。
「明誠大学の学生です…」
と言うと、昔からの店は、
「おう、学生さんか…?」
と言って、割引の他に御飯やおかずの量を増やしてくれるので、それはそれで有り難かった。
値段も二十三区に比べれば、全然安いのが八王子の魅力だった。
二人の変化というのは、新市郎がアルバイトをしている居酒屋「誠」に楓がよく来るようになったことだ。
新市郎は、午後五時の開店から午後九時までの四時間、週三日働いている。まあ、一番客が多い時間帯なので、店長も喜んでくれている。
店長は、酒井正人といい、ここのオーナーの息子なのだ。
この居酒屋「誠」は、流行りのチェーン店ではない。
八王子には、二店舗構えているが、本店は正人の親父の正一がやっている。
正人にしてみれば、自分が社長になったらチェーン展開を考えているらしいが、正一は、
「だめだ。地道に商売をすることが、この世界で生き残る秘訣なんだ…!」
と言って、店舗を増やすことには賛成しないらしい。
店では、やはり魚料理より地元の食材を使った物が多く、猪や鹿肉などのジビエも扱っている。
野菜にしても茸にしても地元の農家から仕入れるので、新鮮で美味い。
時には、店を休みにして山菜や茸を採りに山に入る。もちろん、正人だけでは心配なので正一が仲間を連れてやって来る。
一度だけ、新市郎も連れて行ってもらったことがあったが、なかなか険しい山道を歩き、危険箇所もあった。
やはり、いい山菜や茸を採るのは結構難しいようだ。
春には筍も掘りに出かけると店長は言っていた。
最近では、そんな野菜や肉を使った「誠カレー」が評判で、ランチの客も多くなった。
正人は、
「じゃあ、カレーのチェーン店でもいいかな…?」
などと言っている。
新市郎に言わせれば、ルーはそれほどでもないが、野菜や肉の質がいいので、間違いなく「美味い!」
そんなわけで、バイト終わりころに楓がやって来て、一緒に食事をして帰ることが多くなった。つまり、二人は「恋人」同士になったということだ。
これも、諏訪の義周と楓のお陰かと思うと、二人には感謝しかない。
楓は、ああ見えてよく気遣いができて、いいところのお嬢さんの割に生活は派手ではない。寧ろ、Tシャツに短パン、リュックという出で立ちなので、あまりお洒落には関心がないようだ。
最近、新市郎に合わせてクロスバイクを買った。
最新モデルのその自転車は、ボディがシルバーメタリックで格好がいい。
自転車にしては、なかなかの値段だったが、こういうところにはお金を惜しまないようだ。
本人は、
「まあ、武士の刀のようなものね…?」
「新ちゃんも新しい自転車にしたら…?」
と言う。
そう、新市郎はいつの間にか呼び名が「先輩」から「新ちゃん」に変わっていた。
新市郎も、「吉良さん」から「楓」と呼ぶようになっていたから、お互い様なのだが、みんなのいる前で「新ちゃん…」と呼ばれると恥ずかしい。
これでも仲間うちでは「硬派」で通っているのだ。そんな日常に戻りながらも、新市郎と楓には気になっていることがあった。
二人きりになると、いつもその話題になった。どちらともなく、
「あの文箱どうなったかなあ…?」
「そう、あれの謎を私も早く知りたいのよ…」
あれ以来、新市郎も大学の図書館や八王子市の中央図書館などで「手がかりはないか…」と探してみたが、これまで自分たちが知っている以上の情報は得られなかった。
「やはり、庄司さんが頼りか…?」
「あの法華寺の資料の中に何か隠されているに違いないんだが…?」
しかし、それは簡単に見せてもらえるものではなく、今は庄司からの連絡だけが頼みの綱だった。
ようやく八王子にも秋風が吹き始めた十月初旬、新市郎のスマホにメールが入った。
スマホの音に反応して、新市郎が画面を見ると、それは、「副住職」からのメールだった。
慌てて開いて見るとこんなことが書かれていた。
「ちょっと見て貰いたいものがあります。今度の日曜日に八王子に行きますので、ぜひ会いましょう…。楓さんも一緒にお願いします」
新市郎は、それを見た塗炭、慌てて通話のマークを押していた。
すぐに庄司が出た。
「あ、はい。メール見てくれましたよね。ちょっと、詳しい話はできないので、日曜日いいですか?」
「すみません、大丈夫です…」
「じゃあ、午後一時に大学に来てください。その後のことはこちらで手配しますので…」
「わかりました。午後一時、明誠大学に伺います。じゃ、よろしく…」
そう言って庄司は慌ただしく電話を切った。きっと多忙の中で、知らせたいことがあったのだろう。
新市郎は早速、楓にメールを送った。
「副住職さんから連絡がありました。日曜日の午後一時、大学に来てくれます。都合をつけてください。」
これで、楓は改めて連絡をくれるだろう。
庄司から連絡が来たということは、あの文箱のことが何かわかったに違いないのだ。
新市郎の心は高鳴った。
(これで、あの謎が解けるかも知れない…)
そう思うと、義周の木像の顔が頭に浮かんだ。
(あの切れ長の優しげな眼は、何かを俺たちに訴えていたのかも知れないな…)
義周の身になってみれば、汚名を着たまま罪人として死んでいくのは、武士としての誇りが許さなかっただろう。そして、自分の生きた証を形で遺したいと思っても不思議ではない。それが、楓だったのかも知れないのだ。
そして、その汚名は三百年の時を経て、今、晴らさんとしている。
僅か二十一歳で死んだ青年の無念をこれで晴らすことができれば、義周や楓の霊も慰められるに違いない。そのときがチャンスだ。
「楓にプロポーズをしよう!」
そう決心する新市郎だった。それは、単なる恋とかというだけのものではなく、「運命」という言葉がピッタリと合うような気がしていた。
新市郎にとって楓は、三百年の時を超えた運命の女性なのだ。そして、楓にとっても新市郎が、そうであって欲しいと願う新市郎だった。
遂にその日がやって来た。
日曜日の朝は、秋晴れの清々しい日になった。
朝の九時にキャンパスの庭園で待ち合わせをした二人は、ベンチに腰を下ろしてこれまでのことを話し合っていた。
この明誠大学の庭園は、有名な造園師である東山泰山の弟子が設計して造ったものらしく、元々あった八王子の自然を残した造りになっている。
かなりの広さがあるので、八王子市民もよく散歩に来ていた。
新市郎は、近くの自動販売機で缶コーヒーを買うと楓にそれを手渡し、ベンチに寄り添うようにして座った。
風が楓の体臭を運んできた。
元々化粧をあまりしない娘なので、その香りは石鹸の香りに近かった。
楓が先に口を開いた。
「ねえ、何が見つかったんだと思う?」
それは、庄司からメールをもらってからずっと新市郎が考えていることだった。
「僕はね…。こう考えたんだ…」
それは、義周の死後のことの想像である。
「うん、ねえ、聞かせて。新ちゃんの推理面白いから…早く聞かせてよ」
新市郎は、改めて楓の顔を見た。
こっちをじっと見詰めるその眼は、いつもの楓の眼ではないように感じた。ひょっとすると、この眼が、あの楓さんの眼なのかも知れない。そう思えるような不思議な色を帯びているのだ。
新市郎は、空を見上げながら語り始めた。
「楓は、あの木像を造り終えると、諏訪から黙って立ち去ったんじゃないかな…?」
「どうして?」
「だって、辛いじゃないか。自分の愛した人が亡くなり、その面影を残そうとして木像を彫り上げた。だけど、その後に何が残る?」
「もう、義周のために何もしてやれないんだよ…。それって、悲しいことじゃないのかな?」
「此処にいても、辛いことを思い出すしね…」
「だから、楓は、木像を彫り終えると何かを悟ったように、義周の思い出だけを胸に諏訪を去ったんだと思う…」
「それで、楓は何処に行ったの?」
「多分、仏師になろうとしたんじゃないかな?」
「なぜ…?」
「だって、義周の木像が彫れるくらいの技術を持っていた楓だよ。実際に彫ってみて、その奥深さに気づいたとしても不思議じゃない…」
「そもそも、楓はとても手先が器用な人なんだよ。だから、一人で義周の側で細々とした世話を焼けたんだろうし…」
そこまで言うと、楓は、
「そうか…?」
「私もね、確かに器用なところはある。子供のころから絵は得意だったし、スポーツだってすぐに覚えた。要するに器用貧乏…の方だけどね?」
「仏師か…?」
「私も彫刻なら好きだよ。やってみようかな…?」
「そうだよ、やってみなよ。楓なら、確かにできるかも知れないな…」
そう言うと、楓は嬉しそうだった。
あの日以来、楓は、三百年前の楓に戻っているのかも知れなかった。
「じゃあ、続き…聞かせて?」
そこで、改めて、新八郎は自分の推理を話した。
「信州で仏師の修行をするなら、やっぱり修験者の行く寺か山じゃないかな?」
「修験者?」
「あの、白い装束で山を駆け巡って修行をする、あのお坊さんのこと?」
「そうだよ。今でも修験者は千日の行…と言って、険しい山を千日休まず回り続ける修行があるんだ」
「それを終えると、阿闍梨と呼ばれるようになるそうなんだ。修験者にとっては、とても名誉ある肩書きみたいなものなんだろうね…?」
「僕でいえば、米沢新陰流の免許皆伝…っていうところかな?」
「そうか?免許皆伝か…?」
「それを楓は目指したの?」
「いや、それはわからない…」
「ただ、行方知れずになったとしたら、人の眼に触れずに過ごしたことになるだろう。かと言って、義周と過ごした信州を離れるかな?」
「元々、信濃育ちの楓だよ。他国に行くにはそれ相応の理由が必要じゃないか?」
「それに、女の人が関所を抜けるのは大変なことだし、そんなことをすれば、身元が割れる可能性もあるんだよ」
「行方が杳として知れない…という書き方からすると、当時の忠虎や誠正院は随分と探したんだと思うよ。だけど、見つからなかった…そういう意味に取れるからね」
「へえ、新ちゃんは名探偵ね?驚いちゃった。それで…どうなったの?」
「うん…」
「多分、修験者の山に登って、阿闍梨に頼んだんだと思うよ。場所は、飯綱か戸隠、小菅ってところかな?」
「あの山なら、だれもが勝手に入れる場所じゃないし、死んでもだれも弔ってもくれないだろう…」
「だから、密かに修行をして仏像を造り続けたんじゃないかな?」
「楓には、それが義周への供養なんだよ…」
「楓は、修行をしながら仏を彫り続けることで、自分の生涯を義周に捧げようとしたんだと思う…」
「まあ、僕の勝手な想像だけどね…」
そんな話をしているうちに時間は十一時を過ぎていた。
二人は、大学内の食堂に入りいわゆる「学食」を一緒に摂った。
今日の献立の「日替わりメニュー」は、ハンバーグセット五百円である。
内容は町のレストラン並みの充実度で、この食堂は休日も営業しており、だれでも食券を買えば食べることができた。
食堂の内装もきれいで、ここで終日過ごす家族もいて、休日は賑やかだった。それでも、町外れの大学なので、混み合うことはない。
お金のない学生にとっては、有り難い施設なのだ。
そうこうしているうちに、時計の針が間もなく「午後一時」を指す時間となっていた。
「じゃあ、行ってみようか?」
新市郎が楓を促すと、二人は明誠大学の正門に歩いて行った。すると、門の前に佇んでいる男性がいた。あの法華寺の副住職の庄司正順氏である。
今日は、僧衣ではなく私服なので一般人と何も変わらないが、意外とお洒落である。
「あ、遅れてすみません。庄司副住職さんですよね…?」
そう尋ねると、
「あ、ご無沙汰です。少し前に着きましたので、ここで待っていました」
三人はそれぞれに挨拶を交わすと、
「じゃあ、早速。どちらに行きましょうか?」
庄司は、手に大きな鞄を提げていた。
結構重そうだったので、新市郎が声をかけると、
「いや、これは貴重な本なので、自分で持って行きます!」
新八郎は、この日のために大学のゼミ室を安西教授に頼んで借りていた。
「では、私たちのゼミの研究室を押さえてありますので、そちらにご案内します…」
そう言って、文学部のある棟へ案内するのだった。
文学部は、教室棟の「F棟」にある。
歩くと結構かかるが、庄司は足が達者と見えて、さっさと歩いて行くのだ。
重い荷物を持っているのにも関わらず、その足取りは軽快だった。
楓が、
「庄司さんは、足が速いですね?」
と尋ねると、
「ははは…、長野の寺院の僧は、必ず修験者の山である戸隠、小菅、飯綱の何処かで一年に一ヶ月ほど修行をするんですよ。私も毎年小菅でやっているからね…」
また、こんなところで修験者の話が出てきたので、新市郎と楓は顔を見合わせた。
「どうされました?」
「あ、いや。すごいなあ…と感心していたんです…」
そう言って誤魔化したが、新市郎は、
(やっぱり、楓は、何処かの修験者の山に入ったんだ…)
それは、確信に近いものになった。
教室棟に入るとエレベーターに乗り、ちょうど五階が文学部歴史学科の教室なのだ。
そのフロア全体が歴史学科が使用する教室になっており、その一番奥に会議室が並んでいた。そこで各時代ごとの専門分野に分かれるのだ。
江戸時代は、日本の「近世」に分類され、この大学では安土桃山時代から江戸時代までを「近世」に分類していた。
新市郎も楓も「近世」の研究室の学生である。
その日は、安西明夫教授も同席を申し出ていた。
数日前に、ゼミの教室の借用を安西教授に頼みに行くと、
「ほう、それは面白い。ぜひ私も同席させてもらいたいが、どうかな?」
新市郎が驚いて、
「先生、だって日曜日ですよ。先生にもご都合があるんじゃないですか?」
そう尋ねると、
「いや、私も忠臣蔵ファンの一人でね。吉良家にも興味はあるんだよ…。ぜひ、お願いしたいな…」
そう言われては断ることもできない。まして、研究室を貸してもらう以上、その程度の申し出は喜んで受けることにした。
教授は、既に研究室で待っていてくれた。
庄司には歩きながら話しておいたので、了承は得ていたが、大学教授と聞いて少し驚いたようだった。
「へえ、山吉さんのところの先生は熱心だね…?」
そう言って笑っていたが、迷惑でもなさそうだった。
「ええ、いい人ですよ。還暦前の先生ですけどね。学生ともよく飲みますし…」
「そうなんですか…?」
そんな他愛のない会話で、少し、安西教授を紹介しておいた。
研究室は書棚が多く、専門書がたくさんあったが、もし何かを調べるときに便利だと思って、この研究室を借りたのだ。
四人で挨拶を済ませると、早速、副住職が鞄を開いて書物を一冊机の上に置いた。そして、
「山吉さん、吉良さん。驚かないでくださいよ。ここに、あなた方が知りたがっていた謎を解く言葉が書かれていたんです…」
「見つけたときは、私が驚きましたよ…」
そう言うと、その本を開いた。
それは、あの法華寺歴代住職の日記の書物である。それには、「第七巻」と書かれていた。
楓のことが書かれていたのが「第五巻」なのに、第七巻とは何年も先の話になることはすぐにわかった。
副住職が開いたのは、ちょうど本の三分の二を過ぎたところである。
「いいですか。ここに、あの文箱と楓らしき女性が登場してくるんです。読みますよ…」
庄司は、呼吸を整えるように居住まいを正して静かに読み始めた。それは、諏訪市教育委員会によって現代文に直されていた。
「秋が深まり、寺の景色が美しい 燃えるような紅葉が本堂を彩る」
「夕暮れ時、久しぶりに義周公の墓前に参る」
「そこに、老婆が一人倒れているのを見つけ、介抱する」
「おそらく、古稀を迎えたころであろうか」
「既に息はなく、お香の煙が立ち籠めている」
「今、息を引き取ったように見える」
「着物は粗末だが、巡礼者のような装束で、杖を持ち、背には大きな頭陀袋を背負っていた」
「中は、彫刻用の小刀数本 造りかけの仏の木像、他に日用品、金子少々」
「別に、風呂敷のような布で包むまれた文箱あり」
「身元を示すようなものは何もない」
「ご遺体は寺に安置し、義周公の墓の裏手に葬る」
そこまで読むと、副住職は「ふうッ…」と息を吐いた。そして、
「いいですか、その文箱が、あの黒漆の文箱なんですよ…」
「次を読みますね…」
「文箱は黒漆塗り 禁裏の様子が蒔絵で施されている」
「中は朱塗り 丸に二つ引き 五三桐の家紋があしらわれている」
「高貴な方の物と見ゆる」
日記の朗読は、ここまでだった。
「どうですか、あの文箱に間違いないでしょう?」
「つまり、あの文箱は義周の遺品ではなく、この老婆の遺品だったんです」
「でも、文箱は、間違いなく吉良家の家紋があしらわれています。となると、その文箱は吉良家からこの老婆に渡されたことになりませんか?」
そこまで言われたとき、楓が「ヒッ…!」と言って急に立ち上がった。
顔色は真っ青で、眼が見開いたままになっていた。
すぐに新市郎が抱きすくめると、楓はふっと息を吐いて新市郎にもたれかかった。
呼吸も浅くなっており、安西教授が、
「大変だ、そこのソファで休ませるといい。水を持って来よう…」
そう言って研究室を出て行った。
新市郎も庄司も何が起きたかはわからなかったが、二人にはあの「楓」が憑依してきたんじゃないか…と思った。しかし、それなら大事にはならないはずだ。なぜなら、この謎を解き明かすことが義周と楓の供養になると信じているからだった。
楓は、水を少しだけ口に含むとそのまま眠ってしまった。
三人は、楓をソファに寝かせるとテーブルに戻った。
口を開いたのは新市郎だった。
新市郎は、安西教授にもわかるように、これまでの経緯を簡単に説明すると最後の推理を話し出した。
「それでわかりました…」
「やはり、楓は修験者の山に籠もり仏像を造り続けたのです。それは、義周への供養のためです」
「この時代の女性は、自分が本気で契った相手をそう簡単に忘れるものではありません」
「菩提を弔うために仏門に入る女性も多かった時代です。ましてや、楓は武家の娘です…」
「誠正院に命じられて義周の元に参ったのかも知れませんが、一緒に過ごすうちに二人には強い絆が生まれたのでしょう」
「亡くなるとわかっている人を愛し、短い時間を大切にした二人の絆は永遠のものです。これは、あの時代だからこそ叶えられる心の絆なんだと私は思います」
「楓が彫った仏像は、きっと信濃の人々の心の慰めになったはずです。現物が見つかれば、きっとそのお顔は、義周そのものではなかったでしょうか。あの法華寺の義周像は、本当に優しい微笑みを浮かべてお出ででした…」
「それを自分の生涯を賭けた務めと考えた楓は、仏像を造っては里に下りて人々に差し上げたのでしょう。その代わりに何かを戴くことはあったでしょうが、それが目的ではありません」
「修験者の修行とは、そうしたものなのではないですか…?」
「そして、自分の死期を悟った楓は、最期に義周の元に参ったのです…」
「そこで線香を手向け、手を合わせているうちに心の臓が止まり、楓の修行と義周への供養の旅は終わったのです…」
「そして、あの文箱は、義周が自分と夫婦のなる証として楓に渡したものなのでしょう…」
「それをご住職が、そっと義周の木像の脇に置いたんですよ…」
「日記に残さなかったのは、それを悟ったご住職が敢えて書き残さなかったとも考えられます」
「やはり、夫婦の絆は他人が立ち入るものではありませんからね…?」
そこまで話すと、新市郎も少し疲れを感じて椅子にもたれかかった。
ふとソファの楓を見ると、既に気がついていたようで、こちらをじっと見詰めていた。そして、
「そうね…。私もそう思う…」
「そんな強い絆があればこそ、楓は自分の生涯を義周の供養のために使ったのよ…」
「でも、よかったじゃない。謎が解けて…」
「今度、改めて法華寺の楓の墓にも手を合わせないとね…」
そう言う楓の眼からは、もう不思議な色は消えていた。
次の日曜日、新市郎と楓は、特急あずさ一号で上諏訪に向かった。
季節もすっかり秋めいて、信州は観光客で賑わっていた。
上諏訪駅に着いた二人は、早速、レンタル自転車を借りて法華寺に向かってペダルを漕いだ。
信州の秋の風は冷たく、二人にまとわりついた。しかし、それでも二人の心は温かだった。
新市郎は、ある決心をして上諏訪に来ていた。
諏訪神社の鳥居の前に自転車を止めると、後は徒歩で坂を上がって行くだけである。
その風景は数ヶ月前の夏の風景ではなく、別の世界に来たような美しさと静けさを感じていた。
勝手知ったる道を登ると、そこには副住職の庄司が待っていてくれた。そして、
「楓の墓は、すぐにわかりましたよ。私が掃除をしておきましたので、今日はお二人でどうぞごゆっくりお訪ねください…」
そう言って、線香の束を手渡すのだった。
新市郎と楓は、手を取り合いながらゆっくりと義周の墓所に向かった。
その階段も細い道もきれいに雑草が取られ、清掃が行き届いていた。庄司副住職がやったのだろう。
義周の墓には、菊の花が何本も供えられており、何人かがここを訪れていることがわかった。
二人は義周の墓に手を合わせ報告を済ませると、奥へと進んでいった。
以前は草で覆われていて分からなかった道が、はっきりと現れており、その小道は確かに森の中へとつながっているようだった。すると、その小道がカーブするように義周の墓の方に曲がるのだ。
曲がった小道を数メートル辿ると、そこに小さな石が置かれているのに気がついた。
「これが、楓の墓なのか?」
本当に小さな墓で、草で覆われていれば、だれも気づく者はいなかっただろう。
それくらい小さな敷石のように見える簡素な墓だった。
無論、名前などは書かれていないが、そこにもお線香と菊の花が供えられており大切にされていることがわかった。
二人は長い時間、そこで手を合わせていた。そして、楓は満足したようにその場に立つと新市郎の方を向いた。
新市郎も楓の方に向きを変えると、そっと手をその肩に置き抱き寄せるのだった。
楓は、何も言わず、そのまま新市郎の胸に顔を埋めた。
「楓、結婚しよう…。この楓様のお墓の前で僕は誓うよ!」
「生涯、君を大切にすると…」
そう言うと、楓はそっと顔を上げた。
眼には涙が滲んでいた。
その眼には、もうあの不思議な色は浮かんではいなかった。それを見た新市郎は、
(きっと、楓様も成仏されたんだ…)
と確信した。そして二人はお互いの眼を見つめ合い、そっと唇を重ねるのだった。
そのとき、一陣の風が二人を祝福するかのように落ち葉を巻き上げた。
きっと、あの世の義周と楓も、同じように、今、抱き合っているに違いない。
二人はそう確信し、秋の信濃の空を見上げていた。
最終章 未来への絆と縁
新市郎は、八王子に戻るとそれをレポートにまとめて安西教授に提出した。そして、それは、安西教授を介して日本歴史学研究会で発表され、多くの歴史家や歴史学者から注目されるようになった。
中には、それを基にドキュメンタリー番組やテレビドラマを製作したいという依頼もあったが、新市郎も楓も、
「興味本位で見て欲しくない…」
と、依頼を断り続けた。それに、肝腎の諏訪大社や法華寺、そして諏訪市も取材に難色を示したことで、一時のブームは去って行った。
それでも、時々は歴史雑誌に紹介されることもあり、この物語は「知る人ぞ知る…」話として今でも語り継がれている。
大学四年生になった新市郎は、安西教授からの誘いもあり、卒業すると同じ八王子にある大学の系列校の「八王子明誠高等学校」に社会科教諭としての職を得た。
米沢で同じ高校の教諭をしている新市郎の父新作にしても、同じ仕事に就いてくれるのは嬉しいことでもあった。
母の優子だけが、
「なんだ、地元に帰って来るんだとばかり思っていたのに、残念だこと…」
と寂しがったが、実際、米沢も年々人口が減っており、就職もままならない…と言われていたのだ。
それでも、
「まあ、八王子は、東京って言っても田舎だし…。おめえにはちょうどいいべ…」
そう言って笑ってくれた。
明誠高校では、もちろん、剣道部の顧問になった。
まあ、なった…と言うより、させられた感が強い。なぜなら、今までの顧問をしていた須藤教諭は、今度、教頭職に昇任するため、学校としても顧問を探していたのだ。
要するに、安西教授が新市郎に声をかけたのは、大学のゼミの学生ということばかりではなく、米沢新陰流の宗家の流れを汲む男であり、剣道四段という肩書きがピッタリだったからだ。
それを後で知ると、
「なあんだ…?」
「やっぱり、そんなところだよな…?」
と不満を口にしたが、楓からは、
「いいじゃない。いい仕事先だよ…。剣道もできるしさ…」
そう言って、背中をパシッ…と叩くのだった。
新市郎は、
(なんだ、あの楓様が乗り移っていたときは、少し女らしかったが、やっぱり、楓は楓か…?)
そう思うと、これから先が心配になってきた。
おそらく、昔の山吉新八郎も表では威張っていたが、家の中では妻の初の言うことを聞く、いい亭主だったに違いない。
現代の山吉家も、祖父母も父母もそんな感じだったから、自分もそうだろう…と漠然と考える新市郎だった。
楓は楓で、新市郎の一年後に大学を卒業すると、やはり、八王子に仕事を見つけた。
それは、兄から何度も頼まれて引き受けた仕事だった。
そのころ楓の兄の進は商社を退職して、父親の会社の「株式会社吉良商会」の社員になっていた。
進は、やはり商社時代の経験を生かして、会社を大きくしようと考えているらしい。
父親もそんな息子を社員に採用した以上、以前のような反対はしなかったようだ。
そこで、進が眼を付けたのが、楓の住む八王子である。そして、すぐに、駅前の空き店舗を買い取ると、内装を替えて新しい店を構えたのだ。そして、その店の店長に採用したのが、なんと、自分の妹の楓である。
進は、四菱商事で国内産食品の海外輸出を担当しており、家の稼業である海産物については、よく勉強したようだ。それで、乾物に眼を付けたと言っていた。
確かに、乾物は中国からも干し鮑や干し海鼠、干し海老などが日本にも輸入されてくるが、国内にも干し椎茸、干し柿、干し芋、鰹節、鯖節、干し鰯など、意外に国産品は多く、その上品質がいい。それに、日本ほど飲食店の多い国も少ないのだ。
和食は、世界文化遺産に登録されてからは、世界中に知られるようになり、米でも日本酒でも、味噌でもなんでも「メイドインジャパン」となれば、文句なる売れるのだ。
もちろん、商社時代はそれに眼を付けて、アフリカから中東、南米にまで日本の食品を売りに歩いた。しかし、それらの国で一番受け入れられたのは、なんと「日本の出汁」だった。
進は、行った先々で、レストランや市場を回り、水筒に入れた乾物から取った「出汁」を振る舞った。
言葉は通じなくても、
「グッド・スープ!」
「ドリンキング・スープ、プリーズ、オーケイ!」
これで済む。
なまじ、現地語などを流暢に話すと、それだけで胡散臭く見られ、話も聞いてくれないのだ。それに、なるべく服装も現地人に合わせる。
国や地域によっては、髪も切らず髭も伸ばし、現地の市場で買った古着であちこち回るのだ。
「郷に入れば、郷に従え!」
は、商社マンの基本だと言えば分かりやすい。
退職に際しては、上司から相当に引き留められたが、
「親の会社を継ぐための退社だ…」
と言い張って、強引に辞めたらしいが、実際、そのとおりなので仕方がない。
進は、吉良商会を自分の代で大きな「食品販売会社」に成長させようと考えていたのだ。
八王子に出店したのは、その手始めというわけである。
八王子駅近くに構えたその店の名は、「乾物専門店・KIRA」である。
名を「乾物専門店」としたのは、
「この店は、乾物に拘っています」
という宣言であり、専門店をアピールすることで顧客を獲得する戦略だった。
この話を進から持ち込まれたとき、楓は、
「やだよ…。乾物屋の店長なんて、かっこ悪い!」
そう言って、最初は拒否したが、進から、
「いや、一時のことだ。俺が親父から会社を引き継いだら、おまえを本社に入れて、そうだな、課長にしてやるよ…」
「まあ、そのための実績づくりだと思って、やってくれよ…」
「それにな、乾物っていうのは、日持ちはするし、旨い出汁は取れるし、こういう居酒屋や料理屋の多い町には絶対必要なんだ…」
「意外に、八王子にはそうした乾物の専門店がない。俺なりに調べたさ…」
「いいか、おまえも知っているとおり、肉料理、魚料理、それに、西洋料理や中華まで、絶対に旨い乾物は必要なんだからな…」
「ああ、それに、おまえの好きな赤穂塩や吉良の饗庭塩も扱えばいいさ…」
「おまえの好きなようにやっていいんだよ。どうだ…?」
そう言われて楓も一晩考え、
(それも悪くないかな…?)
と思って引き受けたのだった。
やはり、楓も海産物問屋の娘である。
子供のころから親しんできた商品に愛着がないわけがない。
進の眼は確かだった。
実際、商売をやってみると乾物は奥が深く、味わい深いものだということに気づかされた。それに、兄の言う通り、質のいい海産物の乾物は飛ぶように売れるのだ。
他にも、椎茸や芋の乾物、乾燥野菜や乾燥果物、旨い塩や砂糖、酒などの調味料も国内各地から仕入れていた。
量は少ないが、それが希少価値となって、特に高級料理店からは喜ばれた。
それに、八王子市の主婦も意外と興味を示し、手頃な値段の「インスタント出汁」などを試飲し、喜んで買ってくれるのだ。
特に楓の作る「出汁巻き卵」は、絶品の評判を得て、昼時はそれだけを買いに来る客がいるほどだった。とにかく、楓は何をやらしても器用なのだ。
学生時代からの馴染みの居酒屋「誠」の酒井店長も、しょっちゅう店に顔を出し、
「いやあ、助かったよ。今までは、都内にまで買いに行ってたのが、こんなに近くで買えるんだから、楓ちゃん、また頼むね…」
そんな調子で、売り上げも上々だった。
大学を卒業すると、二人は学生時代と同じように、大学校内の食堂に入ってはデートを楽しんでいた。
ここは、二人が借りたアパートからも近く、環境にも恵まれていたので便利だったからである。それより何より、学生食堂が安くて美味しいのが魅力だった。
既に二人は婚約しており、結婚式の費用やマンションを借りる費用など、将来設計を立てて動き始めていた。それでも、同棲はしなかった。
「何故…?」
と尋ねられてもうまく答えられなかったが、やはり、義周と楓のことを考えれば、そんな安易に結ばれることを、二人とも「よし」とはしなかったのだ。
そんな関係が二年ほど続いた後、二人は正式に結婚をした。
平成十五年十月二日、新市郎と楓は、諏訪大社下社秋宮神楽殿で結婚式を挙げた。
楓の母の渚は、
「わざわざ、長野に行かなくても、東京で挙げればいいじゃない…」
と不満そうだったが、いざ、諏訪大社を訪れると、その表情は一変し、
「わあ、素敵ね…」
「なんて、紅葉が美しいの…?」
「やっぱり、秋は東京より長野がいいわね…?」
そう言っては、挙式の前から大はしゃぎで写真を撮りまくっていた。それに、披露宴では渚の大好きな「松茸」の料理が出されると聞いて、数日前からそわそわしていたのだ。
楓の家は、元々は愛知県の豊橋に住んで商売をしていたが、数年前に東京に本社を置いたために、両国に転居していた。だから、母としては、近くの結婚式場で式を挙げればいい…と考えていたようだった。
ところが、その母も「松茸」と信州の秋に魅了されたらしい。
楓は、新市郎を振り向くと、
「何よ、わざわざ長野に行かなくても…って言っていたくせに…?」
そう言って笑ったが、新市郎が、
「僕たちもそうだったじゃないか。あの日、ここを訪れて、僕たちは新しく生まれ変わったんだから…」
「やっぱり、実際を知ることは大事なんだよ…」
そう言うと、楓も、
「そうね…」
「義周様と楓様がいなければ、私たちもお互いの絆や縁に気づかなかったんだものね…」
そう言うと、楓は、改めて自分の名前にも感謝するのだった。
結婚式は、二人の親族とお互いの友人、安西教授、法華寺の庄司副住職を招いて行われた。それでも、集まった人数は五十人にも満たない。
あの日、この場所で結婚を誓い合ってから、三年が過ぎていた。
諏訪大社での結婚式は、とても厳かで二人にとっても満足できるものになった。それは、二人にとって、あの義周と楓が、すぐ側で見守ってくれているように感じていたからである。
楓は式の間、ずっと頬に温かい風を感じていた。それは、始めて義周の墓に手を合わせたときの風と同じものだった。
その風は、頬だけでなく、体全体を包み込むように肌を撫で、次いで二人を包んだ。
だが、そのことに気づく者は、二人の他にはだれもいない。
それだけに、二人には通い合う感情があった。
式を終えると、近くの料亭「誠正茶寮」で披露宴が予定されていたが、二人は庄司副住職に案内されて義周と楓の墓に報告に出向いた。
因みに、この「誠正茶寮」は、あの「誠正院」縁の料亭として知られ、諏訪家に代々伝わる懐石料理が出される店として有名だった。 ここを紹介してくれたのも、庄司副住職である。
両家の親族や友人たちは、式が終わると、ここに料亭のマイクロバスで移動したが、新郎新婦は、法華寺にも結婚の報告する…ということで、庄司副住職と三人で法華寺に向かった。
法華寺の秋の風景もその庭園と合わせて「見事!」としか言いようがない美しさだった。
楓は、
「ここで式を挙げて、本当によかったわね…」
と、感慨深げにその風景を楽しんでいた。そして、披露宴のために誂えた訪問着を着て法華寺の奥へと進んでいった。
新八郎は、母が実家から持参してきた紋付き羽織袴である。これは、元々は祖父の新吾の着た物だったが、新吾から父の新作へと受け継がれ、祖父も父も正月に袖を通すくらいで、それ以外は、新市郎も眼にしたことはなかった。
母は、その羽織袴を持参してきたのである。
確かに、新市郎がその衣装に袖をとおすと、なぜか誂えたようにしっくりくるのがわかった。
母は、
「ああ、よかった。ほら、ピッタリじゃない…?」
と姉や父に自慢げに喋っていたが、確かに、そのとおりなので、父も姉も感心するばかりだった。
そのとき、父の新作から小ぶりな箱が新市郎に手渡された。
「新市郎。これはな、おまえも知っているように、我が家に代々伝わる新八郎様の脇差しに差してあった小柄だ…」
「この小柄は、赤穂浪士の討ち入りのときに、新八郎様が腰に挿していた脇差しに付けてあったものだ…」
「本来は、米沢新陰流の宗家の証として、宗家が持つものなんだが、俺はこのとおり、宗家と言っても剣は才能がなくて、早々に諦めた口だから、あまり偉そうに宗家は名乗れん…」
「だが、おまえは剣の才がある。いずれ、脇差しはおまえに譲るとして、おまえも家を構えたのだから、この際、宗家の証としてその小柄を持っていろ!」
「俺は、脇差しをおまえに譲るまで大切に保管しておくから、そうしてくれ…」
そう言われて、新市郎が桐の箱を開けると、そこには、にぶい色をした小柄が納まっていた。
そっと手に取ると、一気に三百年前に戻るような気がして背筋に緊張が走った。
(新八郎様は、これを握って、あの赤穂浪士と戦ったのか?)
山吉家では、先祖の「新八郎」のことを敬意を表して「様」を付ける習わしがあった。
それだけに、山吉家の家宝と言える品である。
「まあ、大切にしてくれ…。これと脇差しがセットになったとき、おまえは名実共に米沢新陰流の宗家になるのだからな…」
そう言われると、自然に背筋が伸びるような気がした。そして、その桐箱を大事に懐に収めると、楓の元に向かうのだった。
法華寺の山門を潜り奥へと足を運ぶと、数年前と同じ佇まいの本堂に出た。
法華寺のご本尊は、釈迦如来である。
釈迦如来像の脇には、普賢菩薩像と文殊菩薩像が安置されている。
義周が諏訪に流されたときにも、この仏はあった。
きっと、ある程度の自由が許されるようになった義周は、楓や新八郎らに伴われて、この三尊を拝んだに違いない。そして、楓との縁を感謝し、楓の幸せを願ったのだろう。いや、そうに違いない。
新市郎は、そんなことを思いながら三尊に手を合わせた。
それは、恰も自分自身が新八郎になったような気持ちで手を合わせていた。すると、何か、懐が温かくなったような気がした。それは、父からもらった新八郎の小柄のせいかも知れなかった。
そして、本堂の参拝を終えると、次はいよいよ、あの場所へと向かうのだ。それは、嬉しいと同時に緊張する瞬間でもあった。
本堂を出て左手に回り込むようにして裏に出ると、懐かしい小道が見える。
そのまま真っ直ぐに進み、小さな石の階段を上がる。
ところが、以前とはそこの雰囲気が違うのだ。と言うより、(きれいになっている)と言った方が分かりやすい。
(ああ、庄司副住職が、毎日掃除をされてるんだろう。有り難いことだ…)
新市郎も楓もそう思って副住職を見たのだが、庄司は、笑顔を見せるのみで、(さあ、こちらへ…)と、先を指さすばかりだった。
階段を上がると、そこが義周公の墓になる。
木立に囲まれた静かな場所だが、以前は、人から忘れられたような暗い雰囲気を漂わせていたが、今は、そんな雰囲気はない。
以前と変わらず、墓と供養塔、そして案内板はそのままだったが、周囲の雑草はきれいに刈り取られ、墓石も丁寧に拭かれた跡が見られた。
あったはずの緑の苔も一切見えない。
そこに立つと庄司が徐に口を開いた。
「実は…」
と、首を傾げながら、
「いやあ…、あのとき、お話したかと思いますが、二年前に義周公の木像が新しく製作され、そのお披露目の会があったんです…」
そのことは、新市郎も楓も知っていた。
庄司から誘いの電話があったが、檀家や縁者の集まりと聞いて遠慮したのだ。
「そのとき、私から、あの楓様のお話を集まった方々にさせていただきました。もちろん、住職の許可を得てのことですが…」
「本寺の住職の宗玄も、義周と楓の話にはいたく感じるところがあったようなんです…」
「それで、私が住職に替わってお話をしたところ、集まられたみなさんから、ぜひ、そのお墓に参りたいということになり、ここにお連れしました…」
「以前に来られた方もいらっしゃいましたが、こうした逸話を聞くのは当然初めてです…」
「みなさん、この話には心を動かされたようでした」
「その後、ここの檀家や吉良家縁のみなさんの発意で、こうして義周公と楓様のお墓、並びにその参道がきれいに整備されたのです」
「今でも、ほぼ毎日、だれかしらが来て、掃除をされて行かれます…」
この二人の物語は、今度、諏訪市教育委員会から「諏訪の心温まるお話」の中に収録され、市民や子供たちに冊子が配られるということだった。
二人は、既に花一杯に飾られた義周公と楓様のお墓に線香と清酒を供えると、静かに手を合わせ、感謝の言葉を述べるのだった。
ところで、あの楓が彫ったという義周公の木像と楓の文箱はどうなったのだろう。
新しく彫られた木像は、信州出身の有名な彫刻家である萩原碌山の弟子に当たる萩原照山氏によるもので、元々の義周像が忠実に再現され、彩色が施された。
見る者にとっては、若い義周に会っているような気持ちにさえなったと言われている。
高家らしい雅な装束を着て、優しく微笑むその姿は、まさに楓が見たであろう義周そのままだったに違いない。
そして、楓が彫った義周の木像は、諏訪市教育委員会に委託して、市立博物館に保存されることになった。
住職にしても法華寺の宝だったが、三百年も経てば木も劣化する。それを防ぐためにもきちんと化学処理して、相応の場所に保管する必要があったのだ。
それが可能なのは、十年ほど前にできた諏訪市の博物館しかない。そう考えた住職が決断したのだ。
博物館では、その由来を正式に認定して、年に一度、義周の命日には、一般公開をすることになった。
今年までは修復のために公開はできなかったが、来年の三月四日の命日には、修復を終えた義周公に会えるのだ。
また、楓が亡くなるまで大事に抱えていたあの吉良家縁の文箱は、やはりレプリカが造られ、今でも新しい義周公の脇に置かれている。
レプリカとはいえ、元通りになった文箱の色彩は見事で、
「さすがに吉良家の宝物だ…」
と見る人を唸らせた。
本物の文箱は、木像と同じように市立博物館に保管され、やはり義周の命日に木像と一緒に展示されるそうだ。
現代に生きる新市郎と楓にとってもそうだが、三百年前とはいえ、義周と楓の心温まる恋の物語は、現代人が忘れかけている「絆」と「人の縁」を思い起こさせるに違いない。
数年前にも東日本大震災が起こり、日本中が「人の絆」の大切さを思い知らされた。しかし、時が経つに連れて、そんな思いも忘れたかのように銘々勝手な暮らしに戻っている。
だが、それは新市郎も楓も同じなのだ。
時代は変わっても、人の心は変わってはならない…。
この義周公と楓様の墓所に来る度に、二人は、そう反省させられる。それが、夫婦となったこの二人の絆をより強くしてくれるだろう。
二人は、諏訪大社での結婚式が済むと、八王子の明誠大学近くにできた賃貸マンションで暮ら始めた。
二人の部屋は、そのマンションの十階にある。そこからの景色は、東京とは思えないほどの豊かな自然が見える。そして、遠くを望めば、あの信州諏訪に通じるのだ。
二人は、朝になるとベランダに出て諏訪湖の方に向かって手を合わせた。
ふと、マンションのリビングの飾り箪笥の上を見ると、そこには、小さな木製の像がふたつ、ひな人形のように並べて飾られている。
彩色が施されていないので、来た人が気づくことはあまりないが、二人は毎朝、そこに花を飾り手を合わせるのが日課になっていた。 きっと、子どもが生まれてもそうするだろ…と思う。
それは、二人が結婚を誓い合ったあの日のことである。
楓様のお墓からの帰りに、楓はふと思いついたように、森の中に入って行った。
もちろん、新市郎がついて行ったのは言うまでもない。
楓は、何かを物色するように下を向いて歩いていたが、ふと足を止めるとその場にしゃがみ込んだ。そして、
「新市郎さん。これを持って行きたいの… 」
そう言って指を指したのが、森にあった枯れた欅の古木である。
新市郎は、何も言わずそれを自分のリュックに詰め込んだ。そして、「よっこらしょ…!」と立ち上がると、それを背負ったまま自転車に跨がったのだ。
楓は、
「大丈夫…、新市郎さん。でも、ありがとう…」
そう言って笑顔を見せた。
(何をするんだい?)
そう聞こうとした新市郎だったが、その時の楓は、何かを思い詰めているようだった。なぜなら、その眼には、あの不思議な色が浮かんでいたからである。それに、普段は「新ちゃん」と呼ぶ楓が、「新市郎さん」と呼んだことも気がかりだった。
八王子に戻ると、楓はその古木を使って、見よう見真似で義周と楓の木像を彫り始めた。
それは、新市郎にも何も言わず、寮の部屋に籠もり、黙々と彫り続けたようで、約三ヶ月の時間を要した。
楓も、大学ではテニス部の中心選手だったし、なかなか時間が取れない中で、少しでも時間があれば寮の自室で彫っていた。
もちろん、高さ十㎝ほどの小さな人形である。それも、ネットで「木像の造り方」を調べながらの作業は大変だったようだ。だが、あの楓様の苦労を思えば、「なんでもない…!」と言い続け、遂に完成させた。
それは、確かにプロの造った物でないことは分かるが、何かしら木像に魂が宿っているかのように表情が生気に満ちていた。それに、その顔と佇まいは、間違いなく義周様と楓様だった。
法華寺で義周公の木像を実際に見た新市郎にはわかる。
三ヶ月後の夜、しばらくぶりに楓からメールが届いた。
「今、できた!」
「ぜひ、見せたいから、山百合寮の玄関まで来て!」
そう書かれていた。
女子寮は、玄関以外は男子禁制である。
急いで山百合寮に走った新市郎は、大きな風呂敷包みを抱えた楓を見た。
そこには、満面の笑みを見せる楓の姿があった。それに、もう楓の眼には不思議な色は浮かんではいなかった。
玄関の中で、それを見せられた時、新市郎は、
「本当に、楓が造ったのか?」
と声を上げたが、実際にその木像を手に取ると、木肌から伝わる温かみを感じた。それは、まるで義周と楓本人に触れているかのような錯覚を覚えたのだ。
「ま、間違いない。これは、義周様と楓様だ!」
楓が、あの楓様の生まれ変わりだとしたら、木像を彫る力が楓に伝わっていても不思議ではない。
(ここに、再び楓様が楓に乗り移ったのだ…)
新八郎は、そう確信した。
自分は、義周の忠実な側近だった山吉新八郎の子孫である。それは間違いない。しかし、「楓を守る」という一点においては、自分は義周なのかも知れなかった。そして、その義周を守る新八郎でもあるのだ。
そう考えると、
(人間は時代に生きるのではなく、「人の縁」によって生かされているのだ…)
と思えた。
新市郎と楓は、この時代をもう少し生きるだろう。
子どもも生まれ、その成長を見守り、そして老いてゆく。その先には、静かな死が待っているに違いない。でも、それをずっと見守ってくれる人がいる。
そう考えると、自分たちの未来が明るく開けていくような気がしていた。
今朝も、楓は、
「おはよう、新ちゃん!」
そう言って、新市郎を誘いベランダに出ては、西の方に向かって手を合わせる。そして、リビングに入ると、二つの木像に再度手を合わせ、今日の無事を祈る。
「さあ、朝ご飯、食べようか…?」
その声はいつも明るく溌剌としていた。そして、徐に自分のお腹に手をやると、
「来年の今ごろは、三人で食事だね…?」
そう言って、少し膨らんだお腹の中の子に、「ゆっくり、育つんだよ…」
と声をかけるのだった。
もうすぐ、新市郎も楓も人の子の親になるのだ。
きっと、義周公も楓様も、楓の彫った木像の眼をとおして、二人もいつまでも見守っていることだろう。そして、生まれてきた子も、この二つの木像にまつわる物語を新市郎や楓から聞くことになる。それは、現代を生きる「山吉家」の道標となるに違いない。
新市郎は、そう確信して炊き立ての真っ白な御飯を口に運ぶのだった。もちろん、そのお米は、米沢の、初と平八郎が残していったあの田んぼで収穫されたコシヒカリに違いない。 完
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