教育雑学19 「学校教育」の未来

日本も戦後80年近くが経過して、ここまで学校教育が問題化されるようになると、これを正常化させることは「不可能」に思えてきました。なぜなら、すべてが「金属疲労状態」にあるからです。今は、教師の「働き方」が問題視されていますが、とんでもない。それだけではありません。「PTA活動」も保護者の負担が大きな問題になっており、その会費が学校への「寄付」に回るなど、大きな話題になっています。毎年4月になると、役員を引き受ける人がいなくて困っています。そんなことは、当たり前です。政府が「一億総活躍社会」を目指すと言って「定年延長」「年金受給の引き上げ」まで言っている中で、学校のPTA活動に参加出来るような余裕のある保護者はいません。まして、「部活動」までボランティアで賄おうと企んでいるようですが、何処にそんな「暇な人」がいると言うのでしょう。政治家や官僚の方々は、「日本」という国とは別の世界に住む住人のような気がしてきます。

また、「教育費」の国民負担は増すばかりで、学習塾や予備校、大学の学費など、家庭内の生活を圧迫する事態になっています。主役である「子供たち」も、度重なる文部科学省からの要求で、学習内容は著しく増加し、小学校からの英語の導入やパソコン授業など、もう既に小学生のランドセルは、学習用具で「パンパン」です。そして、不登校、いじめ、障碍児の増加など、どれも対策らしい対策が施されないまま、現在を迎えています。先年できた「いじめ防止対策基本法」なる子供にだけ特化した法律では、その条文に「子供はいじめをしてはならない」と書かれています。「ちょっと待ってください!」それを書くなら「全国民は…」なのではないですか。結局、各学校はその対策に振り回されましたが、単に学校を忙しくさせただけでした。何かあれば、「調査せよ!」「報告せよ!」の繰り返しで、教師は手当も支給されない「時間外」を使って調査結果をまとめ、文部科学省にまで「報告書」を提出しているのです。それも、毎月、毎月…。他にも「調査物」はしょっちゅう学校に依頼という形で「命令」が下されますので、多忙化に拍車がかかるばかりです。こんな状態で、どうして「子供に寄り添う」ことができるのでしょう。学校現場での教職経験を持つ者として、こんな「学校教育体制」では、この先の21世紀を乗り切ることは到底不可能だという気がします。

それに、疑問に思うのですが、国は、「義務教育」を今後、どうしたいと思っているのでしょう。そして、「高等教育」をどのように考えているのでしょう。なんとなく、「世界がこうしているから、日本も遅れてはならない!」といった感覚で、あれもこれもと要求ばかり出しますが、それに伴う予算も人員も増やさず、専門家と称する組織(中央教育審議会)の意のままに動いているような気がしてなりません。正直、「世界ではなく、日本という国を見なさい!」「足下をしっかり見て、考えなさい!」と言ってやりたい気持ちで一杯です。そんな当たり前の議論がされないまま、教師の働き方や給与の支払いの問題だけに特化して議論しても、根本的な解決にはなりません。

今や、幼稚園(保育園も含む)から大学まで、日本の「学校」が批判に晒されていないところは、何処もありません。とにかく、「集団」という営みが行われる場では、常に人権問題が取り沙汰されています。今や「いじめ」は、幼稚園から企業まで「集団」という場では日常的に行われ、どんな指導を行っても、政府がどんな法律を作っても止まる気配すらないではありませんか…?。それ以上に、「〇〇ハラスメント」は、日常生活の何処ででも起きており、国も挙って「人権!尊重!」「差別!廃止!」の大合唱が続いていますが、何か、基本的なことを忘れているような気がします。それは、「日本人らしさ」です。ここでいう「らしさ」とは、「美徳」のことです。「おもいやり」「やさしさ」「笑顔」「心配り」「慮る」「謙る」は、日本人の美徳です。どうして、それを「取り戻そう」という運動が起こらないのかが不思議です。こんなことをしていると、そのうち、日本の多くの企業は、そんな国内に愛想を吐かして海外に逃亡するかも知れません。なんでもかんでも欧米の真似をしても、仕方がないと思うのですが、これも「日本人が劣化」した証なのでしょうか。そして、その一例が、今まさに国会で議論されています。

間もなく国会で成立するであろう「LGBT法案」なる「性自認差別禁止令」は、国としての「あり方」そのものを問う大問題になりつつあります。こんな妙な法律を見ていると、江戸時代の「生類憐れみの令」の方が、まともに見えてしまいます。もちろん、憲法に保障されているように「差別」が許されていいはずがありません。しかし、それと「性の自認」までも寛容な社会を法的に整備しようというのは、違うような気がします。もちろん、「自分なりの性の認識」はあって然るべきだと思いますが、それで差別を受けている人がいるから「法で規制しよう」とするのは、日本人の「内心」まで法律が踏み込むような危険性を感じます。元々、日本国憲法には「あらゆる差別の禁止」が謳われているのですから、それで十分ではないのでしょうか。こうした法律ができれば、日本のあらゆる「道徳」や「慣習」まで法律化することになりかねません。

これを学校に持ち込まれれば、間違いなく、これまでの学校教育は成り立たなくなります。こうした「振り幅の大きい多様な価値観」を学校で指導することなど、だれが考えても「無理!」としか言いようがありません。そもそも、学校には「多目的トイレ」もなく、「更衣室」ですら、空き教室を利用するだけで、「子供専用ロッカー」があるわけではないのです。「私(この子)は、見た目は男ですが、心は女性です!」と子供や保護者から主張されても、物理的に対応ができません。それを教師たちに「何とかしろ!」と命じるのですから、国も怖ろしいことをするものです。まして、そんなことを告白すれば、「いじめ」の対象になる危険性もあるのです。それをコントロールする能力が学校の教師にあるとでも思っているのでしょうか。無茶苦茶です。そして、何か事故でも起きれば、その担当教師は「配慮が足りない!」「性自認差別を理解していない!」と社会から糾弾され、懲戒処分を受けることになるでしょう。こうして、教師集団を益々萎縮させていくのです。

今の学校体制は、「公民的資質を備えた日本人の育成」というひとつの「価値観」を持って指導する体制で行ってきました。ここでいう「公民的資質」とは、「個より公を重んじる資質」と読み換えることができます。そして、「日本人」とは、単なる国籍を取得しただけの日本国民を指すのではなく、「日本の歴史や伝統、文化を尊重して、日本という国を維持、発展させようとする日本国民」を指すのではないでしょうか。もし、これを政府が「否定」するのであれば、教壇に立つ教師はいなくなります。「こんな所で、教育なんかできるか!」といった叫びが全国に谺すことでしょう。要するに、こんな「振り幅の大きい多様な価値観」を国が認めるのであれば、今の学校教育では指導不可能なのです。一度、学校現場で働いている教師に聞いてみればいいのですが、どうも国の官僚も政治家もそんな度胸もなく、ひたすら雲の上から下々に向かって「命令」を発するのみです。それで、失敗すればすべて「現場の責任」となり、官僚や政治家は傷一つ付きません。これでは、戦争中の「ガダルカナル」や「インパール」と何処も違わないではありませんか。これは、敗戦後のGHQによる占領政策下での教育以上に「危機的状況」にあると思います。そうであるならば、この際、これまでの「学校教育体制」を終わらせ、「新しい学校教育体制」に変更する必要があります。今回は、それについての私的な意見を述べたいと思います。

1 「学習指導要領」の廃止

今の学校教育においては、文部科学省の定めた「学習指導要領」に則って教育が行われてきました。もちろん、教科書もこの「学習指導要領」に則した内容で編集され、文部科学省の検定を受けて通った教科書だけが使用できるシステムになっています。国民にとっては、あまり関心のないことかも知れませんが、この「学習指導要領」が、今の学校現場を苦しめてきたと言っても過言ではありません。そもそも、学習指導要領は「10年に一度」改訂が行われ、その時代に応じた内容が加えられていきます。また、「新しい教育課題」がその都度提示され、学校はその教育課題の達成に向けて努力するよう求められているのです。私が知る限りでも、「新しい学力観」「個性化・個別化」「開かれた学校づくり」「生きる力」「自分探しの旅」「アクティブ・ラーニング」「GIGAスクール」…など、次から次に出されましたので、すべてが頭に入りきれません。ところが、期間が僅か「10年」ですから、実際に「新しい教育課題」がどれほどの効果を挙げたかは検証する時間がないのが現状です。実は、新しい学習指導要領が出される度に「3年間」の移行期間が設けられ、その趣旨の徹底と各学年で教える内容の組み替え等が行われます。それが、10年のうちの「3年」ですから、実質は「7年間」の間に成果を出すことになるのです。

実際、学校の教師は多忙のために、そんなことを「研修」して、すぐに期待されるような実践ができるわけではありません。何となく趣旨を理解しているうちに「7年間」は終了し、次の新しい改訂となるのが普通でした。文部科学省は、「中央教育審議会」という専門機関を設けて議論してもらい、その意見を尊重して学習指導要領の改訂に臨むといった形式を採っています。この委員に選ばれる人は、だれもが教育界の著名人ばかりです。教育学者も多く参加しており、優秀な人たちばかりなのでしょう。それだけに、言葉だけを聞けば「さすがに立派だな…」と感心するようなご意見ばかりです。しかし、おそらく、文部科学省から一定の方向性が示され、各委員がそれを忖度して答申しているのでしょう。これは、よくある「有識者会議」の通例です。簡単に言えば、専門家の「お墨付き」をいただいて、「新しい学習指導要領を公表している…」という体裁を取りたいのだと思います。文部科学省は、新しい教育課題については、常に「研究指定校」を設け、一時の予算を付けて成果が出るよう支援をしますが、その予算も研究が終われば「終了」となります。

日本人は何かと権威に弱いために、「文部科学省指定」などと言うと、まるで偉くなったような気がして、文部科学省から送りこまれてきた「教科調査官」なる人物を崇め奉ります。彼らは、元々は同じ教員出身者なのに、その「肩書き」だけで信奉してしまうのですから、日本人の「権威主義」には困ったものです。したがって、かなりの無理をしながら国の意に沿った研究を進め、「こんなすばらしい成果が出ました!」と全国に発表するのです。私も現職の時代に何度もそんな研究会を見に行きましたが、あまりにもすご過ぎて「絶対に無理!」というレベルばかりでした。そのため、こうした研究校のような実践は、通常の学校では到底できません。予算も人員も違いますし、そもそも「カリキュラム」すら変更して研究をすることができるのです。これを「特例措置」と言います。各学校では、それをあからさまに批判するようなことはしませんが、「あれは、特別な学校…」という認識でいますので、文部科学省の官僚たちと学校現場の教師の意識には相当の乖離があったはずです。

また、学習指導要領の改訂に併せて「教科書の改訂」も同時に行われます。これも現場をかなり混乱させる原因になっています。たとえば、最近話題になったのが、中学校の「歴史教科書問題」です。これまで、あまりにも教科書が「左翼的」な内容に偏り、「これでは、日本の子供たちの歴史観がおかしくなる…」と危惧した著名人と某教科書会社が「新しい歴史教科書」を作り、検定に諮ったところ、文部科学省から多くの問題点を指摘され、修正を求められました。修正だけでなく、最初から「不合格」という烙印を押された教科書もあります。これなどは、多くの月刊紙やネットでも話題になりましたので、知っている方も多いと思います。確かに、記述的にこれまでの教科書とは随分と異なる見解を示していた部分もありましたので、「多少の修正」は仕方がないと思いますが、これまでの教科書とまるで見解が異なる記述となると、どちらが正しいのかわからなくなります。これが騒動のきっかけでした。しかし、これほど書かれている内容が違うのでは、学校で子供たちに教えることは躊躇われます。これが、日本の「近現代史」に多く見られる現象です。

文部科学省にしてみれば、政府から指示があり、「近隣諸国条項」なる「近隣諸国への政治的配慮をせよ!」という命令を受けて検定を行ってきたわけですから、今さら、それを撤廃することもできません。やはり、官僚は政治家には弱いのです。結果、日中戦争から太平洋戦争終戦に至るまでの記述は、ほとんどが、中国や韓国の主張に沿うような内容になっています。したがって、世間で話題になった、中国における「南京大虐殺」や朝鮮人の「従軍慰安婦」が中学校教科書に載せられたのです。今では、さすがにこれを「正しい近現代史」とは言えなくなり、その表記も弱められましたが、教育が政治に左右される典型的な例です。私もさすがに「日本軍は、南京市内外で約30万人の中国人を虐殺した」と聞かされたときは、さすがに驚きました。そして、個人的に調べて見ると、多くの異なる意見が出されており、「これは、安易に教えられないな…」というのが実感でした。まして、「従軍慰安婦」となると、とんでもない間違いであることに気づかされました。それは、「従軍」の二文字です。この言葉が付くとなると、当時の日本軍では「軍属」となり、戦場で死ねば「戦死者」として靖国神社に祀られる資格があるということになります。しかし、私は一度も靖国神社でそのような職種の人が祀られている例を知りませんでした。これも、多くの調査と検証を行った書籍が出版され、今では教科書からも削除されています。したがって、その期間、学校で教えられた生徒は、それを信じて疑わなかったはずです。

さらには、「グローバル化」の視点が大切だとばかりに、学習指導要領には「グローバル」の文字が何度も出てきます。これも、今のような時代になれば「本当にグローバル化でいいの?」という疑問が湧いてきて当然です。中国の台頭により東アジアはその軍事的圧力を受け、日本も台湾も「いつ、有事を迎えるか?」といった危機的状況を迎えています。ロシアでは隣国ウクライナへの侵略を開始し、戦争が始まってしまいました。そして、既に1年が経過し長期化の様相を呈しています。アメリカは、それらの世界的規模の危機に対してリーダーシップを取ろうと努力はしているようですが、昔のような力はありません。日本が「理想」のように語っていた「国際連合」は、中国やロシアの常任理事国が勝手な行為をしても何の厳しい対応もできません。常識的に考えれば、国際秩序を守るべき「常任理事国」がその秩序を自ら壊しているのですから、国連から「除名」するべきでしょう。

また、ここ数年間、世界を襲った「新型コロナ感染症」により、外国との安易な関わりは「危険」だということが広く知れ渡りました。それでも、文部科学省は「グローバル化」を諦めてはいないようです。その上、今では「SDGs」なる国連主導の「理想の社会づくり」を学校で指導するようになりましたが、これもいつまで続くかわかりません。そして、これからは「LGBTQ差別」のない社会づくりのために、学校で子供たちに指導するのだそうです。こうして、「なんでも学校!」という姿勢が、学校ブラック化を生んでいるのですが、文部科学省には「糠に釘」状態で、対策らしい対策は出てきません。言われたのは言葉だけで、「早く帰るように!」とか、「時間外勤務はしないように!」というかけ声ばかりです。これまで散々、「あれもやれ!」「これもやれ!」と無理難題を押し付けてきたその口で、「早く帰れ!」「仕事は自宅に持ち帰るな!」では、二枚舌もいいところです。こんな上司がいたんでは、社員が転職して当然です。新入社員だって尻込みして当然です。今は、昭和の時代ではありません。いくら、全国の教師が「仕方がない…」と諦めても、SNSが使われると、あっという間に真実は暴かれてしまいます。もう、嘘や誤魔化しで人を騙す時代は終わったのです。

一般的には、戦前までのような「国定教科書」より、現在のような「検定教科書」の方がいいように思われがちですが、肝腎の「学習指導要領」自体が政治に左右されているようでは、学校教育が政治家の意図のままに行われていることになります。また、教科書会社もかなり思想的な「色」があり、かなり左翼的な記述の多い教科書も見られます。特に高校の歴史教科書は非常に危険だと思います。さらに、教科書採択の時期になると、左翼的な政党や団体から、各自治体の教育委員会やその委員に圧力が加えられるのは常識になっています。つまり、「自分たちの意に沿わない教科書を使用することは罷りならぬ!」とでも言いたいのでしょう。これの何処が「民主的」なのか、私には理解できません。こんな状態が続くのなら、この「学習指導要領」を廃止して、新たな「教科書基本方針」とか「指導基本方針」を定めて各学校に出してほしいと思います。今の文部科学省も中央教育審議会も学校に「あれもやれ!」「これもやれ!」「教師はサービス業だ!」では、教師がいなくなるに決まっています。このままでは、いずれ「校舎」という建物だけが廃墟のように残り、教師も子供もいなくなった無惨な姿を晒すことになります。そうなったときに、「学校の再生」「教育の再生」などと騒いでも、一旦壊した体制は、二度と戻っては来ないのです。

2 「学校教育法」の抜本的改革

日本の学校は、日本国憲法、教育基本法に則って運営されているはずです。しかしながら、その趣旨が十分に国民に浸透されておらず、教育が施される場が「学校」に限定されてしまったような状況になってしまいました。昭和のころなら、保護者の多くは学校での教師の指導を重んじ、「先生の言うことをよく聞きなさい!」とか、「先生に言うよ!」などと言って子供を教育したものです。また、「うちの子が悪いことをしたら、叱ってやってください!」と、「子供は悪さをする…」ことが親の前提でもありました。つまり、当時の大人は「人間の成長」を十分理解していたのです。それだけに、教師も教師なりに「いい先生になろう…」として努力し、家庭と学校の連携は強固でした。そのころの文部省は、けっして「教育はサービス業だ!」などとは言いませんでした。給料は薄くても、社会的には教師の地位は高く、国民が「先生」と聞くだけで、「ほう、どの人が先生なのかな…?」と羨望と信頼の気持ちを持って見てくれたものです。それが、平成、令和と続くうちに、教師の社会的地位は下がり、「先生なんてさ…」とばかにしたような台詞を吐く保護者も増えてきました。これも、マスコミが教師の地位を貶めようとネガティブな情報を流し、国民を煽動してきたことに原因があります。そして、そんなマスコミ情報に惑わされた政府は、「だったら、学校の教師をもっと働かせたらいい!」と次々と要求をし始めました。こうなると、学校で保護者に会っても、「お世話になっています…」の声も聞かれなくなりました。

そのうち、社会全体が、学校や教師を軽視し始め、「学校で起きたことは、学校で解決しろ!」と言うようになりました。子供は親の子供です。学校で起きたように見える「いじめ」も「不登校」も「非行」も、その根っこは家庭にあるのにも関わらず、「学校で解決しろ!」は、理不尽な言い草ですが、それを唯々諾々と応じたのが日本政府だということです。文部科学省も「サービス業」と言った手前、「子供のことで心配なことは、なんでも学校に相談してください」と教師の立場など考慮せずに、社会に阿るようになりました。それでも、マスコミの力は強く、学校批判は止まることを知りませんでした。それなら、「子供の教育は、家庭で見る!」とでも言えばいいのに、やっぱり「学校」に依存していくのです。こうなると、サービス業の教師は「奉仕者」いや、国民の「下僕」として働かされるようになりました。教師の威厳も権威もあったものではありません。それでも文部科学省は、都合良く「教師として毅然とした態度で臨め!」と命じますが、自分たちが毅然とできないのに「よく言うよ!」というのが、教師の本音です。これも立派な「差別(パワハラ・モラハラ)」だと私は思いますが、マスコミや政治家には、都合のいい「差別」が存在するようで、教師がいくらいじめられても、それは正当な意見であり「差別にはあたらない」のだそうです。

教育基本法には、「教育の第一義責任は、家庭にある」と明記されていますが、罰則規程がないために、「そんなことは、知らないよ!」と嘯いても親権が取り上げられるわけでもなく、児童手当が支給されなくなるわけでもありません。たとえ、家庭内での「虐待」が明らかにされても、しばらくすれば子供は児童相談所の保護施設から親元に返され、何事もなかったかのように過ごすのです。だれが考えても、大人が「反省しています…」という言葉だけを信じて「虐待を受けた子供を返す」ばかはいません。それなら、犯罪を犯した容疑者が、裁判で「反省しています」と言えば、無罪になるのでしょうか。たとえ、親であろうと、子供を殴れば「暴行罪」、子供を罵れば「侮辱罪」、子供に御飯を食べさせなければ「養育義務違反」か「傷害罪」が適応されても文句はないはずです。それが、「親」というだけで「免罪符」を得られるのは、どういう理由でしょう。子供にだって「健全に育つ権利」はあるのです。虐待を受けて保護された子供には、「国選弁護人」が付いて親と裁判で争えばいいのです。そして、その親から親権を取り上げ、国民がその子供を養育すればいいでしょう。それくらいの予算をケチってどうするのですか?

つまり、現行では、家庭や親というものには、日本国憲法も教育基本法も適応されないということなのです。そんないい加減な運用をしているから、教育が国民から軽んじられ、教育費が異常に高騰しても、だれも気にならないのです。また、今の時代になると、社会生活自体が大きく変わり「集団生活」が馴染まない人が増えてきました。仕事も個人に委ねられる部分が多くなり、昭和の時代のような「集団指導体制」は何処にも見られません。子供一人一人に「パソコン」(スマホ)が与えられ、仕事も遊びも「パソコン」がなくては何にもできなくなりました。今や、「現金」すら持ち歩かなくなり「カード決済」が当たり前の時代です。それに、「新型コロナ感染症」の世界的大流行以降、働き方も「リモート」中心に変化し、「みんなが揃って働く職場」から「個人の裁量で働く」形になっています。そんな時代に、集団指導体制のままの「学校」が、社会のモデルになるはずがありません。

まして、子供は自由に学校を選択することも許されず、「学区」と称する自治体が決めた学校に入学しなければならないのです。それも「就学年齢」は決められ、ほぼ強制的に学校に集められるのです。昭和の時代であれば、「それが、当たり前」だったことが、令和の時代はそうではないのです。「学校を選択できないなんておかしいじゃん!」「学校に行く義務は私にはないよ!」「教育を受ける権利は私にあるんでしょ!」「だったら、私のやりやすい勉強の仕方を選んでもいいじゃない!」「なんで、6歳になると学校に行かなくちゃいけないの?」「なんで、学校で自分の好きなことをやっちゃいけないの?」…等の声が子供たちから聞こえてくるようになりました。もし、これらの声に子供が「納得」させられる理由が見つけられたら、その人は立派な政治家になれるはずです。

この、だれかに「決められる」進路とか、「強制的」に何かをさせられる…といった前時代的な方法がいつまで受け入れられるはずがありません。もちろん、国の制度ですから、ある程度の「強制力」を伴うのはやむを得ませんが、自分が「勉強する」ことまで、「あなたは、あそこの学校に行きなさい!」とか、「あなたは、〇歳になったんだから、4月1日からは小学生です!」と言われるのに反発を覚える国民(大人も子供も)はいるはずです。学校に入学すれば分刻みに国が定めた学習内容を集団で教え込まれ、それが一教師という大人によって評価され、「あなたは、こうこう…ですね!」というレッテルまで貼られるのですから、自由に生きたい人にはたまったものではありません。まして、今の時代は、国が「LGBTQ法」を作るように、「人は皆、平等!」「差別や強制は絶対に許さない!」「男だって女だって別の性として生きる権利はあるんだ!」と、多様な価値観をこれほどまでに認めてしまっては、「集団指導体制」を維持することはできなくて当然です。それなら、半強制的に行われる「学校」だって「拒否する権利」は国民にあるはずです。

それが、「学校教育法」で許されないとするならば、時代に合わなくなった「法律」を改正すればいいだけのことです。「LGBTQ法」だってできるのですから、政治家がその気になれば、学校教育法の改正などなんでもないことでしょう。できることなら、「制服廃止」「校則廃止」「自由登校・自由下校」「給食廃止」「一斉授業廃止」「部活動廃止」「清掃廃止」…と、今ある学校の制度のほとんどを廃止すればいいのです。そうすれば、本当に風通しの良い「教育環境」が整うことでしょう。そうなれば、今の「学校ブラック化問題」など、あっという間に解消されるはずです。

今の学校教育体制が作られたのは、戦後のGHQによる占領期でした。戦前の日本の教育はもっと「自由」でした。もちろん、戦前と言っても「戦時体制」に入ってからの話ではありません。それ以前のことを指します。日本の教育体系は「複線型」で、公立学校ばかりではなく「私立学校」も認められていました。今の学校教育法では、学校を設立する場合は、「敷地面積」「校舎」「図書館」「特別教室」「グラウンドの面積」など、余程の資金がなければ設立は許可されない仕組みになっています。だからこそ、「中央集権型」の指導が可能になったわけですが、それが今、まさに崩壊の危機を迎えているのです。だったら、この「学校設置基準」を大幅に緩和し、ある程度基準を満たすカリキュラムを実施できるのなら「学校」として認可すればいいでしょう。

たとえば、今の「学習塾」「予備校」と呼ばれる場であっても、申請が通れば「学校」を名乗れるようにするのです。そうなれば、「予備校」の1年間の単位は、大学入学後の単位取得に合算され、事実上は「編入学」扱いになるはずです。こうすれば、親にとっても「授業料」が無駄にはなりません。また、「学習塾」での勉強が単位として認定されれば、通常の学校に登校しなくても「卒業認定」を受けることができます。これなら、「不登校、不登校…」と言った、大騒ぎする必要もありません。場合によっては、アメリカのように「ホームスクール」も認可しては如何でしょうか。教員免許状を持つ人は多いのですから、親が家庭で我が子を教え、ある一定基準を満たせば、やはり「卒業」を認定するのです。これだって、助かる子供や保護者は多いはずです。以前は、既にある「フリースクール」や「外国人学校」に子供が通うことを認めず、日本での「卒業」とは認めてもらえませんでしたが、今では、かなり緩和され、多くの子供たちが通っています。それが、今の日本国民が望んでいる教育の姿なのです。だからといって、日本がこれまで以上に発展する保障はありませんが、現代の国民がそれを望んでいる以上、それは「民意」であり、民意を反映させるのが「民主主義」の原則であるならば、躊躇うことなく日本政府は実行して欲しいと思います。

3 学校教育の自由化

これも、今のような「公立学校教員の公務員化」から、早く脱却するべきです。公務員が「教師」をしている国がどのくらいあるのかは知りませんが、国や都道府県にとって、教師に支払う給与、いわゆる「人件費」はばかになりません。採用したくても、給料を上げたくても、その人件費だけで財政を圧迫するとまで言われています。これで、「残業代」まで支払うことになれば、国も地方も財源の根本的見直しが必要になり、財務省あたりは「ふざけるな!」と文部科学省の担当者を罵倒していることでしょう。だから、文部科学大臣の答弁は「のらりくらり…」と腰の定まらない発言を繰り返し、この問題から逃げようとしているのが見え見えです。そうであるならば、「学校認可基準」を改正し、多くの企業や個人が「学校」を開設できるようにすれば、教員の公務員かは即時に撤廃できます。もちろん、教職員組合や教職員からは猛反発を招くはずですが、それを応援する一般国民は、どのくらいいるでしょう。「いいんじゃない。教師なんか碌な人間はいないんだから…」とか、「あんな、不祥事ばかり起こして、何が公務員よ!」と、教師の「非公務員化」には大賛成だと思います。

そうなれば、たとえば、公立学校で採用する教職員は、すべて「契約」か「派遣」にして、その期間のみ「準公務員扱い」すればいいのです。今でも、学校に配置されている「臨時教職員」はすべて、その期間限定の「準公務員扱い」なのですから、何も新しい制度ではありません。それなら、個人的に教育委員会に申請して「契約」する人もいれば、「派遣会社」に登録しておいて、その会社から派遣される人も出てきます。そうなれば、「民間の働き方」と一緒になります。こうしておけば、「時間外勤務」は「手当」の対象になり、「サービス残業」は消えてなくなります。その代わり、これまで都合よく遣われた「聖職者扱い」もできなくなるということです。つまり、「教員」という少しだけ専門性を必要とする「職業」になるだけのことです。もし、その中で「優秀」な人がいたら、一般で採用した教師の「数倍」の給料を払って雇ったらいいでしょう。これからは、「フリーランス」の時代なのです。もちろん、民間企業が経営する「学校」は、その企業に属する「社員」ですから、その企業の管理に基づいて業績を上げるために努力をするはずです。また、「ホームスクール」の教師はその多くは保護者ですから、「ホームスクール手当」なる制度を設け、児童手当と同じような扱いをすればいいと思います。

こうした「教育の自由化」が日本全国に広がれば、各企業も自社のイメージアップを図るために、パソコンを活用した「リモート授業」に参画できるようになります。どの企業においても、高校くらいの授業が簡単にこなせる社員はいるものです。その社員を使って、授業の「リモート配信」できれば、家庭で教えている「ホームティーチャー」が助かります。また、各学校でも利用されるはずです。費用面が心配なら、自社の「CM」を休憩タイムに流せば一挙両得です。既に、今の段階で、日本国民は「教育の自由化」を望んでいるとしか思えません。学校に多くのクレームが寄せられるのも、不登校が増えたのも、教師の働き方が問題になるのも、すべて国民が「教育の自由化」を求めている証拠ではないでしょうか。そうであるならば、一日も早く、それを実現するのが政治家の役割でしょう。国にとっても、教員の人件費問題から解放されるわけですから、大いに推奨できる話でしょう。

4 「教育の自由化」による日本の未来

既に、今の社会がそれを見せています。昭和の時代と令和の時代を見比べて見てください。これが、同じ「日本」なのか…と思うくらい、何もかも違って見えます。もちろん、日本語で生活することに変わりはありませんが、日本人の意識そのものが変わっているのです。昭和の時代が「家族社会主義」だとすれば、現代は「個人社会主義」だと言うことができます。各企業も社員を採用した以上、その「人生を預かる…」というくらいの覚悟で、社員とその家族を大事にしました。昔は、「社内運動会」や「社内花見会」「社内慰安旅行」「社内クリスマス会」など、社員だけでなくその家族まで仲間に入れるイベントが多く開かれました。これだって、企業としては多くの出費を強いられたはずです。おそらく、会社の「福利厚生事業」として位置づけられ、「社員とその家族は、会社の一員」という意識で会社経営を行っていたのです。そんな社会だったなんて、今の若い人は信じられますか?

今は、それと真逆です。企業に取って「社員」は「戦力」でしかなく、戦力にならない社員は不良債権なのです。当然、リストラ(馘首)の対象にしていますし、その能力に見合わない給料を支払いたくもないのです。この「合理的な発想」が日本にもたらされたことで、日本は「グローバル化」した世界で戦うことができると錯覚したのです。とんでもありません。この合理的な発想によって、日本はアメリカにも中国にも追い抜かれ、いいようにあしらわれているのが現状です。今回の「新型コロナ騒動」のとき、マスク一枚、薬ひとつ、国内生産ができずに国民が大慌てしたではありませんか。台所の給湯器ひとつ「部品がない」という理由で設置ができませんでした。それらが、なんと「外国からの輸入」で賄っていたと聞いたときは「唖然」としました。それに、日本の経済を支えたはずの「半導体製造」が、日本より外国の方が優秀だったなんて…。「ものづくり大国」は、大嘘だったのです。これまで、「食糧」の多くを輸入に頼っているのはわかっていましたが、普段の生活品まで外国に頼る生活に多くの国民は不安に怯えました。今でも「マスク」を外さないのは、それだけ「マスコミ報道」や「政府発表」が信用できないからなのではないでしょうか。

教育が「自由化」されれば、今まで学校に依存していた「教育」が、本来の家庭に返されることになります。それが、憲法や教育基本法の趣旨に叶うのですが、おそらく、家庭はそれを受け止め切れず、児童虐待は益々増加し、少子化はさらに進んで行くことでしょう。学校に子供を通わせていても、午後5時には門が閉じられ、電話も不通になります。学校に行って、たまたまガードマンに出くわしても、「明日の開門は午前8時ですので、それ以降に連絡して下さい!」でお終いです。そして、「必要なら、学校のHPを開き、必要事項を記入してメールしておいてくださいね…」程度でしょう。子供の相談なら、自治体の相談ダイヤルや相談メール、非行なら警察署の少年課か児童相談所と役割が明確化され、「学校なんでも屋」は、過去の歴史とともに消え去っていくのです。これまで、学校に依存してきた各自治体や国の省庁、教育関係団体などの依頼も「ノー!」に決まっています。どうぞ、ご自分で保護者に呼びかけ、子供の参加を募ってください。

そうなると、学校のような「価値」を教えてくれる機関はありませんから、保護者の価値観に基づいて子育てを行うことになります。そして、「自由」をはき違えた国民の多くは「秩序」を守ることもできなくなり、今以上に警察や児童相談所は忙しくなります。そして、「日本人らしさは何処に行った?」と嘆く人は多く現れるでしょうが、民主主義国である以上「民意」を無視した政治はできません。一度壊した社会を造り直すのは並大抵なことではありません。それは、歴史が証明しているではありませんか。「学校」も「昔は良かった」と嘆いても、昔の「なんでもやってくれる学校」は、二度と復活しないのです。そうなると、また、マスコミは大騒ぎをして政府を叩くのでしょうね。

教育の衰えた国に「未来」はありません。政府がどれだけ叫んでも、教育を疎かにした国民の「民度」が高いわけはないのです。そのうち、政治家を志す人間も低レベル化して、「まさか…?」という人が立候補することでしょう。今でも選挙ポスターや選挙演説を聴くと、「まさか…?」の連続です。それでも、定数がある以上議会は開かれます。その結果は想像してみてください。こうして、日本は東アジアの小国として細々と生きていくことになるのです。そうなれば、アメリカがいつまでも「同盟関係」を維持してくれるかもわかりませんし、世界の人々も「日本は、どうなってしまったの?」と呆れ顔で、観光に来てもくれなくなるでしょう。日本人も恥ずかしくて「おもてなし」などと言うこともできなくなるはずです。それくらい「自由」という言葉には「重い責任」が付いてくることを忘れてはなりません。諺に「覆水盆に返らず」があるように、いい加減な政治は、いい加減な社会を作るのです。

5 新しい日本のリーダーが必要な時代

どんな時代でもそうですが、時代には必ず「リーダー」と呼ばれる人々が登場してきます。そして、その人の言動や働きによって、その「時代」が創られてきました。日本の戦中、戦後もそうでした。日本の不幸は、昭和前期に本気になって日本の舵を取るような真のリーダーが不在だったことです。だれもが、その場の雰囲気に飲まれるような発言に終始し、口では「お国のため」といいながら、実は、自分の出世と自分の属する組織を守るために動いていたのです。それは、日本ばかりでなく、世界中に真のリーダーは不在でした。戦勝国になったアメリカのルーズベルト大統領やイギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長、中国の毛沢東主席、同じく蒋介石総統など、歴史に名を刻んだリーダーはたくさんいますが、だれもが「真」に国を憂えた人ではありませんでした。最悪なのがアメリカです。

アメリカは、第一次、第二次世界大戦を主導し、世界の王者になりました。核兵器を保有し、邪悪な日本とドイツを叩き潰し、その国旗を世界中に立てたはずでした。ところが、支援していたソ連とは「冷戦」になり、利権を貪りたかった中国は共産化し、育ててもらった恩も忘れてキバを剝く始末です。それに、第二次世界大戦後、どれだけ多くのアメリカの青年たちが戦場に駆り出されて死んだのでしょう。日本でも東條英機首相、近衛文麿公爵、山本五十六元帥などが名を連ねますが、日本を敗戦に追い込んだ責任者たちです。結局、自分たちは何もできず、最後は昭和天皇の御聖断によって日本滅亡だけは防ぐことができましたが、結果を残せないリーダーは「失格」の烙印を押されても仕方がありません。それでも、山本五十六などは今でも「英雄視」されていますから、マスコミや政治家等の洗脳は怖ろしいものがあります。

今の政治家の中でも、亡くなられた安倍晋三元首相が、リーダーに相応しい人物だったように思いますが、教育に関して言わせてもらえれば、安倍元首相は「教育」がわかっていませんでした。それに、あまり関心もなかったように見えます。もちろん、あれだけの政治をされた方ですから、一分野に精通していなかったとしても責められるものではありませんが、教育に携わった日本人としては、残念だったというのが感想です。しかし、この「教育」が蔑ろにされて国が発展した例しはありません。越後長岡の敗戦(戊辰戦争)後の立て直しを担った小林虎三郎は、戦災に遭った人々への義捐の「米」を人々に分け与えることを拒み、「学校」を再生することにその「米」を使いました。まさに「未来への投資」です。いみじくも、小泉純一郎元首相が演説の中でそれを述べましたが、「米百俵」の精神こそが、日本人が持つ「哲学」でもあったのです。しかし、今の政治家の中にその精神を持つ人は皆無でしょう。常に自分の「保身」と自分の属する「組織」の利益のためにだけ働く政治家では、この国を守ることはできません。やはり、真のリーダーには、「未来への投資」を考えられる「日本人らしい」価値観を持つ人になってもらいたいと思います。

戦後、80年あまり、日本の教育は蔑ろにされてきました。口では「子は国の宝」といいながら、日本の子供たちは、大人たちから大事にされていません。高齢者は子供のその「声」にすら耳を塞ぎ「子供がうるさい!」と学校に苦情を言います。近くの公園で子供が遊べば、「公園なんてなくしてくれ!」と自治体に苦情を申し入れます。その上、子供が家庭で虐待を受けていても、警察や児童相談所は「親権」の壁に阻まれ、保護したくてもできない状態が放置されたままです。国は、やっと「家庭庁」なる役所を設けて、専門的に子供に対する施策に乗り出そうとしていますが、権限の弱い省庁ができることは限られています。多分、「少子化問題」が中心になることでしょう。もし、「子は宝」と言うのであれば、「学校での学びの保障」こそ、第一に取り組まなければならないはずです。教師が疲弊すれば、その影響はを受けるのは子供たちなのです。充実した学校生活を送ろうにも、「教師がいない、教師が足りない、教師が忙しすぎる」では、十分な教育を受けられるはずがありません。それこそ、子供の「権利」の侵害です。子供は「今を生きる存在」です。この一分一秒、子供は学校に通い勉強を続けています。担任の先生が休みを取り、それでも替わりの先生が来ない学級もあります。毎日、自習ばかりでは、この子供たちの「学習する権利」はどうなるのですか。子供たちの「学力保障」はどうなるのですか。

今のままの状態を放置すれば、5年を待たずに日本の教育は崩壊してしまうでしょう。文部科学大臣は、国会で暢気な答弁を繰り返していますが、それを本気になって怒る野党政治家もいません。外国人の人権などの問題になると一生懸命になる野党も、自分の国の子供には興味がないようなのです。あれほど元気な政治家がいるのなら、挙って文部科学省にでも押しかけ、事務次官にでも猛抗議してくれたら、全国の教職員は応援するはずです。一度、教職を離れた教師は、二度と現場には復帰しません。正直、「もう、たくさん…」なのです。なぜ、そうなったのか、政治に関わる人は、なぜ、そうなのか真摯な気持ちで「教師の本音」を聞いてもらいたいと思います。そして、もう一度、戦後教育の歩みを振り返り、再生の道を探って欲しいと願うばかりです。

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です