「日本兵」というと、今の人たちはどんなイメージで捉えているのでしょうか。テレビドラマや映画などで登場して来る日本兵は、粗野で乱暴で、何となく「薄汚れた集団」といったイメージで描かれています。確かに外見上は、そんな風に見えるのかも知れませんが、その「強さ」は抜群でした。日中戦争や大東亜戦争(太平洋戦争)時の日本軍は、装備も貧弱で、欧米軍に比べれば「科学」で相当に遅れをとっているようにも見えます。確かに、昭和の時代になっても陸軍の歩兵の使う小銃は「38式歩兵銃」という明治38年式の「小銃」でしたから、「遅れている…」と言われればそのとおりです。しかし、この「38式」は世界の小銃の中でも「名銃」のひとつと言われ、その性能は、他国のそれと比べても優れていました。特に「弾道」が直線的で命中率が格段に高いのが特長でした。そのため、経験の浅い兵隊でも操作が比較的楽な兵器だったのです。そのために、新しい小銃の開発が遅れ、対米英戦争にも使われました。他にも「戦車」の装甲板が薄く、「米英軍の戦車とは戦えない」代物で、欧米軍のような「機甲師団」の発想がありませんでした。本来なら、大陸での戦闘が想定されていたのですから「戦車」の開発は急務でしたが、「機械化」より「人海戦術」を採用した陸軍は、この分野に於いても後進国だったのです。そんな貧弱な装備しか持たない日本兵が、米英の兵隊たちから「怖れられていた…」というのも不思議な気がしますが、それは事実です。また、莫大な予算を費やして整え、「世界三大海軍国」と称された日本海軍も、数年の間にその艦艇のほとんどを沈められ、最後は航空機しか持たない「海軍」になってしまいました。その上、日本は主な都市を徹底的に破壊されて戦争に敗れましたので、「日本軍(兵)は弱い」と考えられがちですが、「意外とそうでもない理由」がありますので、ここで考えてみたいと思います。それは、今の日本人にも受け継がれているものがきっとあるはずだからです。そうした「教訓」を学ぶことで、新しい時代に対応できる「日本人」を育てるヒントになるかも知れません。
1 なぜ、日本兵は強いのか
ここで勘違いをしないでいただきたいのが、私は「日本兵は強かった」と思っていますが、「日本軍」が強かったかどうかは別問題です。なぜなら、「日本軍」は「アメリカ軍」に完敗しているからです。軍隊で考えれば、日本軍をアメリカ軍と比較するのは乱暴でしょう。そもそも、国力が大きく違う日米を比較しても意味がありません。なぜなら、「国力=資源+労働力+予算+国民性」の合算であって、日本がアメリカに勝るものは何もありません。当初は「大和魂は、ヤンキースピリッツに勝る」と考えられていましたが、アメリカ兵の「スピリッツ」は日本兵以上に強く「勇敢」だったのです。これを「野球」にたとえるなら、「軍」をその母体である「会社(球団)」と考え、その会社から選ばれた「監督」と「コーチ」が現場の指揮を執ることになります。この「会社」自体が、資金力の乏しい「弱小球団」であれば、いくら才能のある「選手」がいても「勝利」は覚束ないでしょう。なぜなら、会社(球団)の資金力が弱ければ、選手が十分に戦えるだけの「環境」を整えてやることができないからです。たとえば、会社が自前の「球場」を持ち、最新設備が整えられていれば、選手たちは整った設備を使って「練習」をすることができますが、「球場」が借り物であれば、その持ち主側の制約の中で練習するしかなく、自分が「納得できる練習」ができません。それに、選手が使用するバットやグラブ、履くスパイクに至るまで、その選手の力を支援する道具はたくさんあります。それらの「装備品」が貧弱では、選手個々の能力がたとえ秀でていても、勝利(ペナントレース)を掴めことは難しいと思います。また、「兵は優秀」だからといって「指揮官が優秀」かどうかはわかりません。プロの野球でも「名選手=名監督」はあまりいません。これと同じで、日本軍は、アメリカ軍に比べて「予算」が乏しく、兵隊に十分な力を発揮させる「環境整備」ができていませんでした。また、日本は指揮官になるための「参謀教育」を失敗し、「勉強ができる=指揮官になれる」と信じていました。それは、今の「官僚制度」や「政治家」を見ても一目瞭然です。明治以降、こうした日本人の「勘違い」が、国の将来を左右する場面において「露呈」してしまいました。そして、それは、その後も修正されることなく「令和」の時代になっても続いています。
それでは、なぜ「日本兵」は強かったのでしょうか。それは、日本の歴史と関係があります。日本は、神代の時代から「稲作」を中心とした「農業」を産業の中心として国家経営を行ってきました。日本列島のような狭い国土で暮らしを維持するためには、「稲作」は欠かすことはできませんでした。そのため、日本人は「農耕民族」と呼ばれるように、その自然環境に適応しながら歴史を紡いできたのです。日本神話にも描かれたように、「稲作・米文化」は、日本そのものなのです。日本人なら承知されているとおり、「稲作」は一人ではできません。集団で多くの「苗」を植え、半年間管理を欠かさずに育てる「優しい植物(穀物)」なのです。その稲穂から収穫できる量は少なく、1俵(米60㎏)収穫するために、どのくらいの苗が必要か想像してみてください。そして、その「管理」は「米」という文字が表すとおり「八十八」の作業を伴います。集団で、それも「88」もの作業を続け、天候にも気を配りながら「水田」を維持し続けるのは、大変な苦労があります。それを日本人は、神代の時代から続けてきたのです。そうした「民族」ですから、だれもが「我慢強く」「体力に優れ」「協調性に富んでいる」民族になりました。ここに「日本兵」の秘密があるのです。
この「稲作」を指揮するのは、村の長老たちでしたが、彼らは学校でそれを学んだわけではありません。子供のころからの「経験」によって、その年の「耕作」を指導したのです。当然、日照りや大雨、台風の年もありますが、何にもない年など滅多になく、そうした「災害」も長老たちには「想定内」でした。そうして受け継がれた「経験」が、日本人を強くしていったのです。これは、「戦」も同じです。「戦」を指揮するのも、そうした経験のある者が選ばれて「軍」を組織し、同じような「ムラ」と戦い、支配地を拡大して行ったのでしょう。それが、生活の向上と共に「武器」も発達し「戦国」と呼ばれる時代になりました。日本も「戦国時代」になると、経験値ばかりではなく、先進地域である「中国」からの書物も多く入り、支配者(戦国大名)たちは、自らそれらの書物をとおして「軍学」を学ぶようになりました。今も残る「孫子の兵法」などは、「軍事学」を学ぶ者のバイブルになっています。
こうした学問は、単に「学問」として学んだのではなく、実戦をとおした学問でした。「戦いながら学ぶ」という、今でいう「OJT(On-The-Job Training)」という学び方になります。しかし、これは「命がけの学習」であり、失敗すれば、即「死」につながるわけですから、暢気に構えているわけにもいきません。常に「戦場」は「真剣勝負」の場なのです。こうしたトレーニングを積んだ者が、何万という軍団を率いて戦うわけですから、学校などで「合格点」を目指す学習とは自ずと異なります。だからこそ、「経験を積んだ上で、兵法を学んだ者」が強いのです。有名な武田信玄、上杉謙信、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などは、みんな「実戦型OJT」の戦国武将たちなのです。もし、彼らの「兵法」が、明治以降の日本の軍隊に受け継がれていたら、日本軍はもっとましな戦争ができたような気がします。特に日中戦争以降の日本軍の戦いは、「官僚型の兵法」でしかなく、「学校学問」で戦ったようなものでした。したがって、「日本軍」は「軍団」としては戦国武将のだれにも及ばなかったのです。
こうした経験をしてきた日本人には、その先祖の「遺伝子」が受け継がれていました。農耕民族の「我慢強さ」「協調性」「体力」などに優れた兵士は、何処の国の軍隊にも見られない「集団としての力」を発揮して見せたのです。その一番最初が、明治10年の「西南戦争」でした。西郷隆盛が率いた「薩摩武士団」に対して、徴兵で集められた「兵隊」たちが戦った内戦です。当初、だれもが「あの西郷大将率いる薩摩隼人に徴募兵が勝つわけないじゃないか?」と笑っていましたが、実際の戦闘になると、意外にも、その「徴募兵」がしっかりと戦うのです。もちろん、小銃や大砲は装備されていましたが、実際の「白兵戦」となると、薩摩武士と一対一で対峙するわけですから、怖くないはずがありません。しかし、隊列を整えた「集団での戦い」になると、徴募兵でも十分に戦えました。もちろん、「兵器の差」というものはありますが、それだけでなく、「軍律を守る」ことや「上官の命令に従う」など、軍隊としての基礎は、徴募された兵隊でも十分に理解して行動できたのです。日本人は、これを「当たり前」と思うのかも知れませんが、この「組織」として行動できるのは、相当に「知能の高い」証拠であり、それに耐え得る「体力」「気力」「忍耐力」、そして「経験」が備わっている証拠でもあるのです。おそらく、実際に武士以外の兵隊を指揮した軍人たちなら、その能力の高さに気がついたはずです。「日本人は、兵隊に向いている」という結論は、この西南戦争で確かめられました。
しかし、その優秀さが後の「日本軍」の進歩を止めた理由でもありました。西南戦争で味を占めた日本軍は、日清戦争、日露戦争という外国との戦争をとおして、日本軍は「歩兵を中心とした白兵戦で勝利を掴める」と思い込んでしまったのです。確かに、戦闘の最後は「白兵戦」によって敵の陣地を奪い「白旗」を揚げさせて初めて勝利が得られるからです。日本の対米戦争も、アメリカ軍はそんな「決戦」を想定していました。アメリカ軍は「日本も最後は陸軍によって首都東京を落とさなければ、この戦争は終わらないだろう…」と考えて、九州と関東への上陸作戦を計画していました。しかし、昭和天皇による決断によって日本は「本土決戦」をしないままに「白旗」を揚げたのです。これは、日本にとっては賢明な判断でした。もし、本土決戦となり、日本各地で連合国軍との陸上戦闘が行われれば、後、数百万人の死者が出たことでしょう。そうなれば、日本の「復興」はなくなります。日本の陸海軍の幹部たちはそれで気が晴れるでしょうが、国が消滅して「名誉」だけが残ってもどうしようもありません。それを避けた昭和天皇の「御聖断」は、日本人だけでなく「世界」をも救ったのです。最後の最後に冷静な判断ができたのは、世界で唯一「昭和天皇」だけだったのです。
2 死ぬまで戦う強靱さ
戦後、「日本兵は、捕虜になることを教えられていなかった…」とか、「日本兵は、洗脳されていた…」などという評論を耳にします。確かに、大東亜戦争中に「戦陣訓」なる「兵士心得」が当時の総理大臣だった東條英機大将の名で出されていますが、それは、当時の日本兵なら「まあ、当たり前だろうな…」と思えるような内容ばかりでした。有名な「生きて虜囚の辱めを受けず…」という文章がありますが、日本兵にとって「捕虜」というのは、敵兵に「虐殺」されることを意味しており、「捕虜になるくらいなら、死んだ方がましだ…」という気持ちを持っていました。なぜなら、中国兵に捕まれば、どんな酷い目に遭わされるかわからず、「捕虜になると、酷い拷問を受けるぞ…」というのが、兵たちの常識だったからです。昔の「元寇」の際にも、日本人捕虜は酷い殺され方をしており、それは老若男女関係なく、彼らが上陸した「対馬」などでは、住民が皆殺しにされていました。また、近代においても、中国大陸では、日本人居留民が惨殺された「通州事件」や「尼港事件」などが起き、当時の国民の怒りを買っていたのです。それがために、「外国人は怖い…」という意識は、日本人全員が持っていました。実際、アメリカ兵も捕虜にした日本兵に対して酷い殺し方をした例も多く、実際の「戦場」を経験した兵士なら、それが「当たり前」だったのかも知れません。もちろん、アメリカ軍に余裕があれば、それなりの処遇をしましたが、必死に戦っている最中に捕虜になっても、その場で処置する例は多かったことでしょう。それは、日本軍も同じです。ただし、戦後の東京裁判で取り上げられた「南京事件」や「バターン死の行進」などは、ほとんどが創作による「宣伝工作」によるものでした。こうして、一方的に「日本人は残虐な行為をする人間たちだ!」とすることで、自分たちの犯した罪を逃れたのです。
対米戦争が始まると、日本軍は否応なしに「太平洋戦線」へと投入されて行きました。ガダルカナル、パラオ、マキン、タラワ、サイパン、硫黄島、沖縄と、太平洋に点在する島々にアメリカ軍は上陸し、これを攻略。そこを守っていた日本軍は、すべて「玉砕」して果てました。しかし、敗れたとはいえ、日本軍はそう易々と全滅させられたわけではありませんでした。特に、パラオのペリリュー島と硫黄島の戦いにおいては、死傷者数は日本軍より米軍の方が多かった戦いで、日本軍がその島へ物資を補給する方法があれば、逆転することも当然可能だったのです。私も実際にペリリュー島に足を運びましたが、遠浅の海が広がっており、干潮時にはパラオ本島からペリリュー島まで歩いて渡れるのではないか…とさえ思えるような地形でした。その戦いも「地下要塞」を掘削して築き、神出鬼没に地表に現れては、米軍兵士を攻撃していったのです。それは、硫黄島も同じでした。「硫黄島」は、アメリカ映画にもなりましたので、ご覧になった方も多いと思いますが、実際は、映画の何倍もの壮絶な戦いが繰り広げられたそうです。ある記録によると、食糧も尽きて痩せ衰えた兵士が、いざ「斬り込み」となると、闘志を燃え上がらせ、眼をランランと光らせて敵陣に突撃した…と書かれていました。何処にそんな「底力」が残っていたのかわかりませんが、日本人にはこうした「炎」のような闘争心が体のどこかに潜んでいるのかも知れません。
どの戦いにおいても、アメリカ軍は物量にものを言わせ、何隻もの戦艦や航空母艦を使って、上陸前の数日間は「艦砲射撃」を行い、砲弾の雨を降らせる如く、島全体を焼き払いました。もし、地上に少しでも顔を出せば、その場で吹き飛ばされ、数日で日本軍は全滅したことでしょう。しかし、日本軍は、敵の艦砲射撃の間は地下に身を潜め、敵が上陸してくるのを手ぐすね引いて待っていたのです。アメリカ兵に言わせれば、「これくらい叩けば、奴らはビビってすぐに手を挙げるさ…」くらいに軽く考えていたのでしょう。司令官もマスコミに対して、「こんな小さな島、三日もあれば落としてみせるさ…」と余裕のコメントを残しました。しかし、現実はそんなに甘くありませんでした。日本軍はたいした武器も持たないのに、次から次と地下から湧き出してくるようにアメリカ兵を殺しに来るのです。それは「身の毛もよだつ」ような怖ろしさだったと言います。これが、ヨーロッパ戦線なら、イタリア兵やドイツ兵は、自分で戦えるかどうかを計算し「無理だ…」と判断すれば、ある程度のところで手を挙げたことでしょう。実際、「ノルマンディー上陸作戦」も日本軍なら、もっと執拗に食らいつき連合国軍を悩ませたはずです。こうした戦いは、日本本土に近づくにつれて激しくなり、特に「沖縄戦」は、軍民一体となった怖ろしい戦いになりました。
今でも、少年少女で編制された「ひめゆり隊」や「鉄血勤皇隊」は有名ですが、本土決戦となれば、それ以上の凄惨な戦いが日本本土で展開されたはずです。確かに、昭和20年に入ってからの「都市空襲」や広島、長崎への「原子爆弾」の投下、ソ連の参戦は、日本にとって致命傷になるくらいの痛手ではありましたが、それでも、ドイツのように首都が陥落したわけでもありません。「戦争の決着は、陸上部隊の白兵戦によって決まる」の原則からすれば、日本本土への上陸作戦は当然行われる作戦だったはずです。しかし、賢明にも、日本はそうなる前に「降伏」しました。だからこそ、アメリカ軍は、日本を怖れたとも言えます。なぜなら、日本国内には、まだ、数十万の精鋭部隊が残されており、航空機も一万機が温存されていたといいます。もちろん、燃料が枯渇していましたので、それらが有効に働いたかどうかはわかりませんが、「一億総特攻」を叫ぶ政府や軍部に引き摺られれば、後、数百万人の日本人と数十万の連合国兵士の死によって、日本は壊滅し「国が滅ぶ」結果に終わったかも知れません。しかし、そうなれば、世界中の国々とって「最大の悲劇」になったはずです。
3 アメリカ兵が尊敬する日本兵
戦後、第二次世界大戦で生き残ったアメリカ兵の多くは、終戦後「退役」するか、軍に残ったとしても一兵士として戦う者は少数でした。5年後には「朝鮮戦争」が始まりますが、これに参加した兵士の多くは、第二次世界大戦に参戦できなかった兵士たちでした。何度も死線を潜り抜け、多くの戦友の死を見て来た兵士たちに、また、同じ過酷な戦場に出ることは本人ばかりでなく、国民が許さなかったでしょう。アメリカにだって「家族」はいるのです。その家族が、やっと生き残って帰還した兵がまた戦場に出ると聞けば、だれでも反対するはずです。もちろん、幹部である上級将校たちは違うのかも知れませんが、一般兵士の家族にとって父や兄、息子に戦死は身を切られるように辛いのです。それは、戦勝国だろうが敗戦国だろうが関係ありません。政治家や高級軍人たちは、戦争を「ゲーム」に見立て、兵士を「数」としか見ませんので、たとえ、多くの兵を失おうとも「心の痛み」を感じることはありませんが、兵士の家族はそうではないのです。私たちは「歴史」として「戦争」を勉強しますが、それは、当時の政治家や高級軍人と同じ見方をしているだけのことです。もちろん、役割としてそういう仕事をする人間は必要かも知れませんが、一方で、「人間としての感情」で考えることも必要なのです。
第二次世界大戦が終わると、国際関係は別にして日本とアメリカの間では、人の交流が盛んに行われるようになりました。それは「元兵士」たちも同じです。どちらの国にも「戦友会」や「遺族会」が作られ、交流が盛んに行われました。実際に戦場で戦った者同士が顔を合わせて「仲良く」できるのか…と思いますが、彼らは、同じ兵士として「同じ戦場」で戦ったことを誇りに思い、打ち解けた交流が続いたと言います。それは、勝ち負けよりも、その場にいた者だけがわかる「心」の問題があるからです。だれもが戦場に立つ前は、神に祈り「生きて帰りたい」「死にたくない」「愛する者に会いたい」と思うものです。そして、もの凄い緊張感の中で敵に銃を向けるのです。人間は、常識では考えられないような「緊張感」を強いられると、一種の「興奮状態」に陥り「アドレナリン」が大量に分泌されるそうです。そして、その「興奮状態」の中で命のやり取りが行われ、痛みや苦しみを感じないまま死んで行きます。しかし、生き残った者には、その「反動」がやってきて、苦しむことになるのです。それは、傷の痛みだけではありません。その「怖ろしい瞬間」の一部は脳に刻まれ、それが何度も何度も夢に現れ、その元兵士は、生涯にわたってその「恐怖」と戦い続けなければならないのです。そのストレスは、私たちには想像もつかないでしょう。マスコミも何も言いませんので、平和な時代に話題になることもありませんが、体と心に大きな障害を持った元兵士は、戦勝国にも敗戦国にも等しく存在しているのです。
戦後、日本でもアメリカでも、そんな過酷な体験をした元兵士たちがたくさんいました。アメリカなどでは、社会問題になり「ドラッグ」と呼ばれる薬物が蔓延する一因になったそうです。そうでなくても「戦争神経症」という精神病を患い生涯治療を続ける人もいました。「平和」な時代がやってくると、そんな病を抱えている人のことなどだれも考えず、世間は戦争があったことさえ忘れてしまいます。いや、「忌まわしい記憶」として持っているからこそ「早く、忘れてしまいたい…」と思うのでしょう。そうしないと、頭も心も耐えられなくなるからです。つまり、戦場での「怖ろしさ」は、体験した人でなければわからないのです。ある記録を読むと、復員してきた元日本兵は、夜な夜な、眠ると「あの戦場場面」が夢に出てきて魘され続けたそうです。高齢になった今でも、夢の中で「突撃命令」を聞き、飛び起きる…ということがあると書かれていました。そして、そのことはだれにも告げず、じっと自分で抱えて死んで行くのです。口に出したところで、だれも本気で心配してくれる人もおらず、「忌まわしい体験をした人」という奇異な目で見られ、同情されるのがオチです。だから、「経験のない者には、わからぬ…」という言い方で、口を閉ざすのです。それは、アメリカの兵士も同じでした。だからこそ、同じ戦場に立った者同士だからこそ「わかり合える」ことがあるのです。
学問や政治の世界では、「勝った国が世界のリーダーになり、敗れた国はその勝利者に隷属することになる」という理屈で考えられ、そう教えられますが、それは「その世界」だけのことであり、一般国民には関係ありません。確かに、第二次世界大戦で勝利したアメリカやイギリス、ソ連や中国は国際社会で大きな顔をしていますが、国民はどうでしょう。アメリカはその後も数々の戦争にアメリカの若い兵士を戦場に送り続けました。イギリスは、アメリカの参戦で辛うじて戦勝国になりましたが、経済は破綻し「大英帝国」の看板を下ろす嵌めになりました。ソ連は、アメリカとの「冷戦」に敗れて国が崩壊し、それを引き継いだ「ロシア」は新たな戦争で「世界の孤児」になりつつあります。その中で、国民は常に「圧政」に苦しめられているのです。中国は、アメリカの支援を得られたお陰で戦勝国の仲間になることができました。しかしながら、戦後は新に「共産主義国」に変貌し、今や支援してくれたアメリカを裏切り対峙しています。国民は「共産党」に支配され、酷い差別や虐待を受けている人々もいます。この何処が「幸福」なのでしょう。要するに「国」という体制と「国民」は、違う世界で生きているということなのです。国民の真の「思い」というものは、眼に見えないだけに表に出て来ることはありません。旧ソ連や中国のような専制国家では、「口は災いのもと」とばかりに、自分の心の内を曝け出すことなど絶対にできません。日本でも国ばかりでなく、周囲に対して常に「忖度」し、本音で話すことなど2割もないはずです。まして、「戦争当事者」の思いなどだれが気遣ってくれるというのでしょう。だからこそ、「兵隊の気持ちは、兵隊にしかわからない」のが当然なのです。
4 アメリカ兵が恐怖した「カミカゼ」
今でも「カミカゼ」と言えば、あの「特別攻撃隊」を想起させます。昭和19年末にレイテ沖海戦の支援攻撃として行われたのが、250㎏爆弾を装着した零戦で敵航空母艦に体当たりする「特別攻撃作戦」でした。これは、フィリピン方面の司令長官だった大西瀧治郎中将が立案して決行した作戦だったと言われていましたが、最近の研究で、日本の「大本営」が既に計画に着手しており、「いつ実施するか…」だけの時期に大西中将がその決断を下した作戦だったことがわかってきました。それを戦後、その責任のすべてを大西中将に負わせて口を拭った大本営の幹部たちは、本当に武人にあるまじき「卑怯者」と言ってもいいでしょう。その元大本営の幹部たちの中には、自衛隊に入り将官に上り詰め、挙げ句に国会議員になった者や日本を代表する商社の大幹部に納まった者もいます。ある男は、戦友会に出席し昔の将軍を迎えるラッパが奏でる中、部下を従えて偉そうに入場してきた…という話が残されています。元兵士たちは、「あいつ、中佐だったくせに、将軍になった気でいやがる…」と囁き合ったそうです。本当に「恥を知らぬ」振る舞いの人間が、元軍人の中にいるということを知っておくべきでしょう。
それにしても、人間の命を軽んじた「特別攻撃作戦」は、これまでの「戦史」にはない、無謀な作戦でした。そのために、今でも「テロ事件」などが起きると、マスコミなどはすぐに「カミカゼ」の名をつけた見出しで世論を煽ろうとします。最近は、一般の新聞社もショッキングな見出しをつけて少しでも売り上げ部数を増やそうとしていますが、これでは、報道機関とは呼べません。その会社自体が自らの「無知」を世界に知らしめたようなもので、国民の一人として恥ずかしい限りです。一般市民を狙った「テロ」と、「巨大戦闘兵器」を狙った攻撃が「同じ」だという神経は、余程、捻くれて考えなければ交わらない議論ですが、日本には、それを「よし」とする勢力がある…ということなのでしょう。「思想・表現の自由」とは言いながらも、その思考には「怖ろしさ」さえ感じます。
日本軍が採用した「特攻攻撃」は、戦争の手段としては「邪道」であり「あってはならない作戦」でした。しかし、第二次世界大戦は「戦争の究極点」だったように思います。第一次世界大戦後、日本国内でも「これからの戦争は、軍民一体となった総力戦になる…」という予測が唱えられるようになり、石原莞爾中将などは「世界最終戦争論」を著し、国内に警鐘を鳴らしましたが「満州事変」を引き起こした中心人物の意見は中央から遠ざけられ、開戦まえに予備役に回されていました。石原中将は、「満州国は日本防衛の要だが、アメリカとは絶対に事を構えてはならぬ…」と主張していました。それは、「日本は、今の段階ではその準備が整っていない」というのが理由です。確かに、石原中将が言うように、冷静に考えれば「米英」を敵に回した「総力戦」など戦えるはずがありません。山本五十六の真珠湾攻撃も「局地戦」をイメージした戦略であり、最初から「世界最終戦争」を起こす気などなかったのです。それが、いつの間にか戦争は「総力戦」になり日本は崩壊しました。
「戦争の窮極点」というのは、戦争の終末期のあり方でした。日本政府や日本軍は、敗戦が色濃くなっても「アメリカ軍をどこかで叩けば、講和のチャンスが生まれる…」などと言っていましたが、それはあり得ない判断だったのです。確かに、日露戦争時のような「局地戦」であれば、最後の「日本海海戦」や「奉天の会戦」などの勝利で、講和に持ち込むことができましたが、第二次世界大戦は、そうではありませんでした。既にソ連や中国は、一千万人に及ぶ国民を犠牲にしており、国土は戦場と化して混乱していました。ソ連や中国にしてみれば、「ドイツや日本を徹底的に破壊しなければ、戦争は終われない」と考えても不思議ではないのです。事実、ドイツは首都「ベルリン」が陥落し、指導者だったヒットラーは自らの命を絶ちました。講和をしようにも、相手となる「ドイツ政府」はなく、ベルリンの防衛の任に当たったドイツ陸軍の将官と交渉せざるを得なかったのです。日本も主要都市は度重なる空襲で都市機能は麻痺しており、二発の原子爆弾とソ連の参戦で悲鳴をあげていました。大本営は、そのまま「本土決戦」を行い、「国土を焦土と化し国民全員が死のうとも降伏はしない」と意気込み、天皇を松代に移す計画を進めていたのです。もし、「昭和天皇」自らが、「ポツダム宣言の受け入れ」を表明しなければ、日本はドイツ以上に壊滅したはずです。これが、「総力戦」の姿なのです。
しかし、幸いなことに日本は、最後の最後に踏みとどまり、政府も陸海軍も残されたまま「降伏」しました。そのために日本は政府として連合国軍に降伏し、戦後の「日本」を築くことができたのです。それでも、昭和天皇の「玉音放送」が流れる8月15日の午前中まで「特攻機」は出撃し、アメリカの機動部隊目がけて突入して行きました。そして、本土上空では、日本軍機のアメリカ軍機への迎撃は行われており、幾人かの日本兵とアメリカ兵は「終戦」を目前にして戦死しました。それは、日米双方の「家族」にとって悲劇でしかありません。「もうすぐ平和が訪れる…」というその日に、敵と戦って死ぬなんて…、本当に辛い出来事でした。そして、戦争が終わり平和が訪れると、興奮していた「熱」も冷め、日常が戻って来ました。そのときなって戦場で戦ったアメリカ兵が思い出すのが、「日本兵の怖ろしさ」でした。
陸上戦を戦った兵たちは、「これだけ叩けば、降伏するだろう…?」と思っていても、日本兵は絶対に降伏しないのです。昼間のみならず、夜間でも雨天でも、どこからともなく陣地に忍び込み「斬り込み」と称する攻撃を繰り返すために、ほとんどのアメリカ兵は睡眠不足に陥りました。その上、仲間が一人、また一人と殺されていくのですから、常に神経が休まるときがありません。勝敗は既についていても、現地の兵たちにとっては「生きて」還らなければ意味がないのです。そんな日が何日も続くと、神経を冒される者も出てきました。そして、心に病を得た兵だけが後送され帰国できるのです。それを見ていた補充兵などは、「俺たちは頭をやられるか、重傷を負うか、それとも死ぬかしないと国に還れないんだ…」と諦めに似た気持ちを抱えて戦っていたといいます。これは、日本兵も同じでしょうが、そんな過酷な戦場で戦う兵たちに、国が十分に報いることはありませんでした。酷い戦いが終わり、やっとの思いで生き延びて帰国しても、ただ、兵役を免除され一般人に戻されるだけのことです。確かに、わずかな補償金や勲章をもらっても、心と体は元には戻りません。日本兵もアメリカ兵も、戦後、戦争による「神経症」に苦しめられ、その多くはまともな仕事に就けず薬物に依存するような者も多くいたようです。アメリカの「薬物依存」は、こうした戦場からの帰還兵の問題でもあったのです。日本でも、戦後は闇市などで「ヒロポン」などの覚醒剤が売買され、復員兵などに売られたようです。そうした問題は、アメリカでもあまり報じられることはなく、その後も多くの若者が戦場に送られました。だからこそ、アメリカ兵と日本兵は、同じ戦場で戦った者だけがわかり合える「共通点」が見出せたのかも知れません。この「カミカゼ」という言葉は、ある意味「愚かな作戦」の象徴ですが、アメリカ兵から見れば、「日本兵への敬意」にも見えてきます。
5 黙して語らぬ「元日本兵」たち
戦後になって多くを語るのは、一般兵士よりも、むしろ指揮官として戦った上級軍人たちの方が多かったようです。マスコミも、戦争中の実相を知ろうと、そうした指揮官たちに取材を申し込みましたので当然と言えば当然ですが、彼らの多くは「自分に都合のいい解釈」をして取材に来た記者たちに語ったようです。インパールの牟田口中将やレイテ海戦の栗田中将、陸軍特攻の富永中将などは、敗戦の責任を感じてもいないようで、自己弁護に終始した記事を読みました。あの特攻作戦を計画した中央の将官たちは、「あれは、大西がやったことだ…」とか「自分は死ぬ係じゃない…」とか言う者もいたようで、部下たちが呆れています。ドキュメンタリーと称して書かれたものの中には、「若い隊員たちは、自ら進んで志願した…」とか「彼らは、生きている神のように神々しかった…」などと美辞麗句で飾り、自分の責任を認めようとしない人物も多くいたのです。ある指揮官の娘は、父親のやってきたことを知ると「お父さんは、自決するべきだったのよ…」と亡くなった後も父親を非難したそうです。もちろん、当時の指揮官たちがみんな「平気な顔」をして何も感じなかった…かと言えばそうではないでしょう。しかし、肩書きは立派でも、所詮は「小さな人間」でしかなかったということでしょう。大きな組織の中で軍服を着せられ、階級章を付ければ、それなりの「人物」に見えますが、それらが剥ぎ取られたとき、人間として何が残るのでしょう。
そうした指揮官たちとは別に、一般将兵たちは「敗戦の責任」を十分に感じていました。今の日本人に多くの記録が残されなかったのは、そうした兵士たちが戦場での自分を語らなかったからです。おそらくは、「どうせ、話したってわかるはずがない…」とか、「自分も戦場では酷いこともした…」といった諦めや悔悟の気持ちがあったからだろうと推測します。まして、戦後の7年間はGHQの支配下にあり、敗戦国民であり元兵士である自分が、社会に対して何かメッセージを残せるはずもないのです。この「7年」という時間は長く、元兵士たちはその日の暮らしに明け暮れ、「戦争のことなど、思い出したくもない」心境になっていたのだと思います。敗戦国の人間が、そんな話を自慢気にする場などなく、話せば、周囲から非難されるだけのことだからです。それでも、彼らは「戦友会」を作り、年に一度仲間同士で集まって語り合ったといいます。そのとき、上官として呼ばれた人は、本当に「部下思い」の人たちだけだったのでしょう。軍服と階級を笠に着て理不尽な命令を平気で出していたような上官は、非難されることを怖れて「戦友会」に顔を出すことができませんでした。それは、アメリカでも同様だったと思います。人間は、その地位や肩書きで評価されているわけではありません。地位や肩書きがなくなったときこそ、その人の「人間性」が問われるのでしょう。
長く戦場で戦い続けた「元日本兵」は、戦後の社会で一生懸命に働き、日本の高度経済成長を支えました。私は昭和30年代前半の生まれですが、その当時の大人たちは皆戦争体験者ばかりでした。彼らは職場では「戦争」については、語らなかったようですが、家に帰り、仲の良い友人と酒でも酌み交わせば、自然と「戦場」の話になりました。表に出ては言えないことでも、家の中で酒が入れば饒舌になるのは自然なことです。まして、日本政府はひたすら外国に「謝罪」するのみで、ひと言でも弁明しようものなら、マスコミに叩かれて役職すら失いかねない時代ですから、だれも「無口」になるしかありませんでした。学校でも組合系の教職員が「東京裁判」で出てきた話を疑いもせずに子供たちに教え、国旗の掲揚もできず、国歌を歌えば校内で「吊るしあげられる」時代です。どこの学校でも「卒業式」で「国旗掲揚」をするかどうか、「国歌斉唱」を行うかどうかの職員会議が開かれ、校長は職員の意見に従わざるを得ない状況が長く続いたのです。そうして、そんな「戦後体制」に従順にしたがったエリートたちが、平成、令和の政治や教育を行っているのですから、日本が「おかしく」なって当然です。そして、外国人たちは、そんな「日本人」を見て笑っていることでしょう。もう、これからの時代は「謝罪外交」や「いいなり政治」では、どうにもならないところに来ています。
そろそろ、戦後80年を迎えるわけですから、日中戦争から大東亜戦争を総括して、きちんと検証する作業をするべきです。アメリカや中国に「遠慮」した政治は、もう今の国民は望んでなんかいません。国民の大半が戦後生まれの人たちです。「80年前の戦争責任を感じろ!」と言われても、「俺たちは、関係ない!」というのが道理です。祖父さんたち世代は、もうずっと「敗戦責任」を感じながら生き、多くの賠償も国として行ってきました。韓国の元大統領は、「恨みは千年続く!」と叫んで、今は監獄に入っています。千年も続く「恨み」なら、帝国主義で世界を植民地化した欧米諸国を真っ先に恨むべきでしょう。日本だけを恨むなどという都合のいい「発言」は、笑われるだけです。私たち日本人は、自分の国の歴史を軽んじ過ぎました。「未来」を見るのであれば、「歴史」を知らなければ前には進めません。80年前の歴史を歪んだ形で捉えていても、未来が見えるはずがないのです。今さらではありますが、「兵士の声」にもう一度耳を傾けるべきでしょう。特に若い人たちは、けっして「国」の言う「歴史観」のみを信じてはなりません。大学教授の語る「歴史観」を信じてはなりません。自分の眼で確かめる努力をしてください。それができたとき、あなたにも明るい未来が待っているはずです。
コメントを残す