「泣き虫、主税」ー忠臣蔵外伝ー
矢吹直彦
序章 寒い朝…
寒い…。
部屋の中に遠慮なく入ってくる外の風は、殊の外冷たい。そろそろ、小さな虫が地上に顔を出してもよさそうなものだが、今年に限っては、まだ深い土の寝床から出たくはないのだろう。
間もなく暖かな春が来ようとしているのに、なぜ、この時季が一番冷えるのだろうか。
まあ、よく夜明け前が一番暗いと申すから、一旦寒くしておいてから暖かくなった方が春の有り難みが増すというものだろう。変な理屈だが、そうとしか考えられん。
しかし、俺は瀬戸内の赤穂の生まれだ。関東の冬は、やはり好きになれん。
主税は、お預け先の伊予松山松平家の離れの縁側で、ぼんやりとそんなことを考えていた。考えるのはいいが、綿入れ半纏を着て、厚手の足袋を履き、首には毛の襟巻きまで巻いている。思案もいいが、見た目はどう見ても勇ましかった若大将のようには見えない。
先ほどまでは、綿の帽子ですっぽりと頭を覆っておったが、さすがに武士としてこれは恥ずかしい。
そう思った堀部安兵衛が、綿帽子だけはムンズと掴んで取り上げてしまった。
主税は、「あっ…」と声を上げたが、相手が安兵衛だと知ると、仕方ない…という顔をして、また丸まってしまった。
よく見ると、小さな懐炉まで腹の中に抱いておるのだ。
後見を自認する安兵衛も、
「こりゃ、昔の主税に戻ってしまったわ…」と嘆いたが、他の者たちは、そんなのとっくに知っておる…とばかりに、クスクスと笑っている。
まあ、特に何をするでもないお預けの身なれば、やむを得まいと皆も諦めている。
討ち入りが首尾よく終わり、すぐにでも切腹の沙汰が下るものだと思っていたが、案外長引いていた。
主税も、腹を切れば痛いかな…。痛いに決まっているなどと、取り留めのない空想を巡らしていたが、こうのんびりと過ごしていると、つい、自分たちが咎人だということすら忘れてしまう時があった。
世間では、日が経つごとに赤穂浪士が評判になり、今や歌舞伎役者顔負けの大人気になっているらしい。四十六士の錦絵まで売り出されているそうだ。しかし、当の本人たちは、高い塀の中で、何にも聞かされてはいない。時折、松平家の用人が町の噂話を持ってきたが、外に出られない身としては、話を聞いたところで、人ごとのようだったし、特に感慨もないし、嬉しくもなかった。
まあ、一種の流行だろう…と思ったくらいで、その後、数百年も評判になろうとは、夢にも思わなかった。
さて、ここからは、俺、赤穂浪士大石主税の独り言である。俺は、赤穂浪士の最年少16歳で討ち入った。それも、裏門隊の大将である。表門は、親父殿。ああ、親父殿と言うのは、俺の父、大石内蔵助良雄のことだ。独り言なので、敬称はつけない。親父は親父と呼ばせてもらう。言葉をぞんざいだが、独り言故、勘弁してもらう他はない。
それでは、俺の知る限りの赤穂浪士を語ろう。いざ、出陣!でござる。
第一章 切腹
泉岳寺に引き上げた俺たち所謂、赤穂浪士は、四十六人で寺坂吉右衛門だけが、赤穂や親戚への報告もあって寺に入る前に、内蔵助の親父殿が逃がしていた。
吉右衛門は律儀を絵に描いたような男で、吉田忠左衛門殿の足軽だったが、その生真面目さを買われて同志に加えたと聞いていた。
確かに、うちの屋敷にもよく訪ねて来たが、出された茶ひとつ飲まず、用が済むまで縁側先に立っているのをよく見かけた。
小柄で愛想はないが、俺とは真逆の人間のように見えた。この男なら、間違いはあるまい。
親父殿の見立てどおり、吉右衛門は、南部坂の瑤泉院様に報告を済ますと、その足で広島の浅野本家に報告、その後も浪士の遺族たちを見舞い、親父殿から預かった銭を遺族たちのために遣ったそうだ。
最後は、大目付仙石伯耆守様に自首したそうだが、既に処分も済んでおり、お咎めはなかった。こういう律儀な人間だからこそ、最後の役目を与えたのであろう。
そんなわけで、親父殿や吉田忠左衛門殿らは、吉右衛門を逃がすために、軽輩者だとか、侍身分ではない、とか言って手配が及ばないようにしていた。世間では、逃げたのではないか…という噂もあったようだが、逃げた侍が、何故関係者の前に現れるというのだ。ばかばかしい。
公儀も、それで一応納得したらしく、お預けは四十六人に決まった。
泉岳寺に入って、亡君、浅野内匠頭長矩公、戒名は、「冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士」様に報告後、休息を取っていると、その間に吉田忠左衛門殿と富森助右衛門殿の二人が、大目付の仙石伯耆守様に討ち入りの報告に向かった。
公儀は、既に上杉からの報告で承知していたが、取り敢えず直訴を受け付け、同志たちを大名家にお預けの上、取り調べることにしたのだ。
上杉は、当主綱憲公の実父である吉良上野介が討たれたと聞き、色めき立ったが、江戸家老色部又四郎という切れ者が殿様を押しとどめ、上杉十五万石を護ったという話が聞こえてきた。
そんなことは露も知らず、夕べから一睡もせずに戦ってきた同志の面々は、既に疲労も困憊となり、泉岳寺の広間に寛ぐと、武装を外し横になる者も多かった。
寺では、取り敢えずと言って、味噌汁や粥を提供してくれた。懐には、糒を持参していたが、寒い冬場のことである。温かい汁と粥は、俺たちを生き返らせる効果があった。俺も、粥を三杯お替わりをすると、しばらく、親友の矢頭右衛門七の横で寝てしまった。
右衛門七、すまない…。
いや、何の。それより主税様、裏門隊大将のお役目ご苦労でござった…。
と、俺を褒めてくれた。ああ、なんていい奴だ。やはり友はいいものだ。
ふと気がつくと、門前の方が騒がしい。どうやら、町衆に気づかれ、ちょっとした騒ぎになっているようだった。
何でも、同志を裏切った高田郡兵衛が清酒を持って祝いに駆けつけたようだが、だれかが追い払ったようだ。
郡兵衛許せ…。皆気が立っておるのだ。
俺は郡兵衛…殿から槍を習ったことがあるので、人柄はよう知っておる。熱血漢で、優しい男だ。その優しさが脱盟する原因だったようだ。
昼頃になると、公儀の役人がやってきて、それぞれに話を聞いて回っていた。俺のところにも、大目付配下の役人が聞き取りに来たが、特に罪人を扱うような口ぶりは見せず、言葉遣いも丁寧だった。
俺たちの想像では、捕まれば町人と同じように、町奉行支配の牢に入れられ、取り調べの上斬首だと思っていた。まあ、よくて切腹。それが、大名家へのお預けだけでも、有り難かった。
夕方には、泉岳寺の周りもさらに人が増え、見物人や、取り締まりの奉行所の役人たちでごった返していた。
「噂、千里を走る」のたとえは、本当だと思った。確かに、吉良邸から回向院を回り、泉岳寺まで歩く道すがら、町衆が出てきて、俺たちに拍手喝采を送ってくれた。
まあ、親父殿を先頭に火事装束に身を固めた武装集団が隊列を組んで歩く姿など、元禄の世に見ることもなかろう。
ちょっと芝居がかってはいたが、町衆からの賞賛の声と、酒や餅の振る舞いは、本当に嬉しかった。特に俺や右衛門七は酒が飲めんので、蜜柑の差し入れが有り難かった。何せ、喉が枯れてひりひりしておったので、蜜柑の果汁は甘く、旨かった。
俺たちは、昨日からほとんど一睡もしていない状態で激しい合戦をしてきたわけだから、泰平に慣れた江戸の町衆には、驚きであったろう。黒の武装集団は、血と泥に汚れ、切り傷、擦り傷はあちらこちらにあった。出血を包帯で止血している者もいる。それに、戦闘後の姿だ。普通を装っていても、眼だけがぎらぎらとしていたらしい。
人間、興奮状態が長く続くと、どうも獣に近くなるようだ。本能だけが研ぎ澄まされるのだろう。だから、眠いという感覚はない。夜になると、雨音が聞こえて来たが、泉岳寺でしばらく休めたので、疲れはそれほどでもなかった。
そして、公儀の裁定が下されるまで、大名家にそれぞれ身柄を移されることが告げられた。
「あれ、ここで切腹ではないのか…」
という声も挙がったが、親父殿は、
「まあ、よい。ご公儀に届けた以上、その裁定を待つのが我々の義務じゃ。しばらく休養しておれば、間違いなく沙汰はある」
そう言って、四家に預けられることになった。仲の良かった右衛門七とも、ここで今生の別れとなった。
右衛門七は、別れ際にやってきて、
「主税様、これまでのご厚情忘れません。ありがとうございました」
と涙を見せるので、
「よせやい、右衛門七。俺こそ、世話になった。おぬしがおらねば、俺などどうしようもなかったわ…」
そう言って、しっかりと手を握り合った。
右衛門七は、後ろを振り向きながら水野家の家来たちに連れられていった。
最後に、親父殿のところに挨拶に行ったが、親父殿は、表情も変えずに、
「最期の日まで、体に気をつけよ」
たったそれだけの別れの言葉だった。まあ、親父殿は、いつもこんな調子だ。右衛門七とまでは言わんが、手ぐらい握れよ…。
だから、俺も仏頂面で、「はっ!」とだけ言って別れた。親子と言っても、こんなもんだ。
お預け先は、細川越中守、松平隠岐守、毛利甲斐守、水野監物の四家だった。
討ち入りまでは、首尾よくいけば、吉良邸で上杉勢を迎え撃ち、討ち死にするはずだった。しかし、その上杉勢は来なかった。
不破数衛門殿なんかは、
「なんだ上杉侍、父親が討たれたと言うに、敵討ちもできんのか!」
と罵っておったが、こちらも青息吐息で、上杉勢が来たところで、もう戦う力も残ってはいなかった。
親父殿は、上杉勢と一戦交えて、あわよくば上杉十五万石を潰してやろうと考えていたようだったが、さすが名門上杉にも知恵者はいたと言うことだ。
吉良上野介と我が殿の争いも、喧嘩両成敗にしておけば、何もこんな面倒なことにはならんかったのに、我が家だけ改易となれば、不満が残るのは必定。幕府も余計な仕事を増やしただけのことじゃないか。まったく、迷惑な話だ。俺は一人で怒っていた。
しかし、俺たちを預かる大名家にも迷惑な話だろう。こんな大事件は滅多にないことだし、預かると言っても、罪人なのか、そうでないのか、よくわからない話で、困惑しているようだった。
取り敢えず俺たちは、罪人並の扱いで、網をかけられた駕籠に乗せられて各大名屋敷に収容されたと言うわけだ。
松平家でも、最初は「あれはだめ、これはだめ!」と煩かったが、当主定直公が直々に謁見され、親しく苦労話などを披露すると、涙を流して頷かれ、
「さすが、赤穂義士じゃ。天晴れである!」
と褒めるもんだから、家来たちの空気も一変してしまった。
時々、用人がやって来ては、仲間に話を聞いて回っている。何でも、定直公が「細かく話を聞いて、まとめよ!」と命令されたらしい。
それに、万が一ご赦免になれば、「本家で召し抱えたい」とまで言っているそうだ。
これは、益々不味いことになった。俺など、裏門の大将ということで、散々持ち上げられ、同志たちもいい加減なことばかり申すので、顔が赤くなることが度々だった。
ばかやろう…。そんな法螺ばかり吹くんじゃねえ!。と叫びたかったが、お預かりの身ともなれば、そうも言えず、仕方がないので、知らんぷりを決め込むことにした。
取材に対応したのは、主に堀部安兵衛殿と若い岡野金右衛門殿だった。だって、堀部安兵衛殿と言えば、高田の馬場の仇討ちですでに有名人だし、金右衛門殿は、錦絵に描かれるような美形なわけだから、取材する方も嬉しかろう。
時々、「大石様は、…」と寄ってくる家来もおったが、俺ときたら、若いだけで男振りは今いち。背は高いが、子供の頃に疱瘡を患っているので、顔には痘痕もある。喋り出すとおかしなことを言い出すので、同志たちからも箝口令が敷かれていた。
だから、松平家の者たちも、敢えて俺には聞かず、安兵衛殿や金右衛門殿に集まったというわけだ。それに、他の同志の面々は、みんな中年親父で、終始難しい顔をしておったから、それはそれで煙たかろう。
それでも、九分九厘は「切腹の沙汰が下るであろう」という想定の下に、各預け先でも、赤穂浪士たちの切腹の準備に余念がなかった。
関ヶ原の戦から約百年。
戦場の話ができる者もいなくなり、世は泰平、武士が刀を抜くなど考えられなかった。
俺も一応、東軍流は習っておるが、武士の嗜み程度で、人を斬ることなど考えてもおらなんだ。
右衛門七ともよく稽古で、剣を交えたし相撲も取った。右衛門七は、俺より二つ年上になっているが、実際は一つ違いだ。
まあ、武士としての身分や家柄は違うが、父親の長助殿と親父殿との関係もあり、我が屋敷によく父親のお供で来ていた。だから、子供の頃は俺の遊び仲間だった。歳が一つでも違うと、剣も相撲も右衛門七の方が強かった。
学問では、とんとんの積もりだったが、右衛門七は、俺に遠慮していたのかも知れん。
だから、俺は立場上「右衛門七」と呼び捨てにし、右衛門七は、「主税様」と敬語を遣っておった。
これは、終生変わることはなかったが、それでも俺は、右衛門七を軽輩者だと思ったことはない。矢頭家は家格は低くても、赤穂浅野家の直参だ。そんな分別は俺にはある。だから、右衛門七に仕事を言いつけたことはない。
右衛門七は、「主税様、私がやります…」と言ってくれるが、それでは俺の武士の一分が立たん。
「そんなことを言うな右衛門七。俺たちは、家格は違えど、赤穂浅野家の直参としては同格なのだ」
と意地を張った。そんな俺を見て、母のりくだけは褒めてくれた。
「主税殿のお心がけ、嬉しく思いますよ」
けっして口数の多い母ではなかったが、俺のことをよく見てくれた母親だった。
そんな我が子が、十六歳で切腹の座に着くことを考えれば、辛く悲しいことであろう。
しかし、それは仕方のないことだ。俺も侍の子だ。腹を切る覚悟ぐらいはできているさ。
それはそうと、幕府が開かれて百年も過ぎているのだから、各大名家とて、切腹の作法や場の造り方など、わからないことが多かったに違いない。
やれ庭先でよいのか、いやいや部屋を拵えるべきだとか、はたまた、それよりご赦免になるかも…などと、各家の留守居役は、情報収集に大童となった。それより、一番困っていたのが、討ち入った俺たちだ。
松平家などは、当主松平隠岐守定直公自ら、俺たち浪士を慰労し、「丁重にもてなすように…」などと言うものだから、困った困った。
食事も三度三度、一汁五菜も出る。最初の頃は、「おお、今日も御馳走でござるな…」と喜んでいたが、我々同志は、中高年が多いものだから、「胃が苦しい」だの、「便が詰まる」だのと、腹を抑え厠に日参する始末となった。
浪人時代は、一汁一菜がせいぜいで、それも麦飯だったから、体調は頗るよかった。
これでは、切腹前にみんな倒れてしまう。そう皆で話し合い、穏やかで交渉上手な貝賀弥左衛門殿が、代表して申し入れることになった。
「いやあ、用人殿。こう毎日御馳走では、我々恐縮してござる。何せ、長年の貧乏暮らし故、麦飯や鰯の干物が懐かしゅうてならん。御馳走になっておいて申し訳のうござるが、一汁一菜で結構でござるので、少し考えていただけぬか…」
と、低姿勢でお願いしたところ、確かに飯には少し麦が混ぜられるようになった。菜も三菜にまで減ったが、それでも最後まで鰯の干物は出なかった。
どうやら、定直公が食事の吟味までされ、「儂も同じ物を食す」と仰せのようで、赤穂浪士贔屓も困ったものだ。
まあ、武士道の権化みたいな殿様だから、意気軒昂、自分でも討ち入りしたかった…などと仰せになっているようだ。
そうそう、俺の預け先の松平家には、俺、大石主税良金、堀部安兵衛武庸殿、木村岡右衛門貞行殿、中村勘助正辰殿、菅谷半之丞政利殿、千馬三郎兵衛光忠殿、不破数右衛門正種殿、大高源吾忠雄殿、貝賀弥左衛門友信殿、岡野金右衛門包秀殿の十名が預けられておった。
皆を簡単に紹介すると、
安兵衛殿は三十二歳。新参者だが義父の弥兵衛殿の跡を継いで馬廻役二百石。江戸詰の侍だ。高田の馬場の仇討ちで有名になった豪傑で、俺の後見役を自負されておる。いつも気合い十分で、俺には少し煙たい兄貴分だ。
岡右衛門殿は四十四歳。譜代の馬廻役そして絵図奉行を務めていた。陽明学を学んだ知行合一の人物で、普段は穏やかだが、筋の通らないことには断固意思を貫く侍だ。俺には、主税様、主税様と立ててくれ、よく気がつく人格者だ。
勘助殿は、木村殿と同じ四十四歳。元は越後の人だが、婿に入って赤穂に参った。石高は百石。祐筆役でとにかく文書が達筆で上手い。討ち入りの口上書も、中村殿の筆によるものだ。いつもは物静かだが、この一挙にはかなり積極的な過激派で、親父も時々「中村がなあ…」とぼやくのを聞いたことがある。
半之丞殿は、四十一歳で百石取りの譜代。確か赤穂で郡代を務め、領地では百姓たちに随分慕われていたそうだ。山鹿流兵学の免許皆伝で、俺たちの中では、参謀と呼ばれていた。親父も随分世話になった人だ。
三郎兵衛殿は、いやはや硬骨漢。殿様も恐れぬ侍の中の侍だ。優柔不断な俺とは違う石部金吉とは、こういう人を言う。歳は五十。馬廻役百石で、とにかく思ったことは腹に溜めておけぬ性格で、内匠頭様とは度々衝突し、今度の刃傷前に浪人になる覚悟をしておったそうだ。しかし、今考えれば、この千馬殿の言うとおりだった。
内匠頭様のことは嫌いだったはずだが、やはり武士の一分とやらで同志に加わったのだろう。俺もあの鋭い眼でギロっと睨まれれば、萎縮するしかない。
数右衛門殿は、確かに豪傑だが、とにかく気が短い。譜代の百石取りだが、浜奉行をしておったとき、不破家の家の者が盗みを働いたとかで、その場で斬り捨ててしまった。本来なら、詮議の上何かしらの処分をするところ、いきなりだったから殿も大層怒られ、即日追放となってしまった。それでも、親父殿はその罪を赦し、同志に加えたというわけだ。
源吾殿は三十歳。新参だが名門の生まれで二十石五人扶持だった。元々は二百石の上士だったから、いずれ元に戻すつもりだったのだろう。俳句が上手く、俺もよく大高殿に手解きを受けた。江戸の有名な俳人、宝井其角様とも昵懇で、吉良の在宅日を知ったのは、この宝井様からの情報だったそうだ。やはり、持つべきものは、己の芸と言うことか。
弥左衛門殿は、二石十両三人扶持という低い身分に置かれていたが、親父の手足となってよく働いていた。家にもよく来て、俺の愚痴も親父殿に代わってよく聞いてくれた。五十二歳という年齢も、親父殿よりずっと上で、人間的には立派な人だった。
最後に、金右衛門殿だが、俺には九十郎の方が馴染む。確か、討ち入りの三ヶ月ほど前に父上が亡くなり、金右衛門を名乗った。九十郎殿は、歳も二十二歳と若く、その上美形なので、引き上げの時なども娘たちに騒がれておった。吉良家を建てた棟梁の娘と親しくなり、絵図面を持ち出させたという噂があったが、真偽のほどは確かめたことはない。まあ、とにかく歌舞伎役者より美形だったと思う。
これが、松平家に預けられた同志たちだ。
俺は、今回の討ち入りの首領である大石内蔵助の長男だったから、裏門の大将を務めることになった。俺の場合は、まだ家督を継いでいるわけでもなく、大石内蔵助という親父殿がいたことで、大役を任されたが、やってみると、充実感はあった。やはり、俺も侍なんだと悟った。
しかし、討ち入りまではよかったのだが、その後は、気の抜けた風船のようになり、この有り様だ。元々が、人見知りで一人本を読むことの好きな男なのだ。根は親父殿と同じ昼行灯で、みんなの中にいても特に目立つようなことはない。
子供の頃も、道場や塾で師範代が、
「あれ、今日は大石松之丞はおらんのか?」と尋ねられる始末で、そうすると必ず右衛門七が、「あ、ここにおられます」と叫んでくれた。そのくらい陰が薄い。
周囲の大人たちには、「まあ、昼行灯様の息子だからなあ…」と言われるくらい、親父殿に似ておったそうだ。
それに、皆、討ち入り当初とは違い、興奮した戦闘話にも倦いたし、家族への遺書も認めたようだ。
ただ、俺は遺書は書かん。何を書いてよいのやら見当もつかんのだ。
そうこうしているうちに松平家の聞き取りも終わり、あとは、沙汰を待つだけなのだが、いったいどうなっているんだ。
だれも口には出さんが、「ひょっとして…」と微かな望みを抱く者も出てきた。それも仕方あるまい。
赤穂浅野家の改易以降、親戚縁者、友人、知人までもが全国に散り散りになった。僅かな縁を頼って四散するのだ。この同志たちも同じだった。赤穂や江戸には、愛する妻や子がある者もいる。あの晩、覚悟を決めた者も、すべてを成し遂げ、張り詰めていた緊張の糸も切れた。そして、こうしたもてなしを受け、温々とした生活を送れば、当然、生への執着心も出てくる。
俺だけでなく、みんなが本来の武士としての魂を失った抜け殻なのだ。もし、もう一度武士の魂を取り戻せるとしたら、切腹の沙汰しかない。その時だけが、武士らしく死ねる瞬間であろう。
安兵衛殿などは、「あの、弱虫主税が泣かないだけましだ…」と、俺の不甲斐なさを案じておったが、己自身の心を持て余しているようにも見える。豪傑は豪傑なりに苦しいのだ。
それは突然に訪れた。
二月の中旬。寒い朝が続く毎日の中で、何となく春の息吹を運んできたような穏やかな朝だった。久しぶりに気持ちよく目覚めると、千馬殿が、みんなを集めた。
「おい、来てみろ。主税様もお出でくだされ」
俺たちが幽閉されていた屋敷は、松平邸でも奥の離れになる部屋だった。ここならば、外からの出入りもなく、監視もしやすい。
普段は、客間にでも使っておるのだろう。
内部は、十畳ほどの部屋が三間拵えられており、ちょっとした庭があった。
本当は、俺が一人で一番奥の部屋を使うよう指示があったが、そんな窮屈な暮らしより、仲間と一緒の方が気が楽だった。
周りは大人たちばかりだったが、安兵衛殿弥左衛門殿、九十郎殿たちが話し相手になってくれた。
俺が一人でぶつぶつ言っておっても、あまり気にする風もなく、手前の二部屋を十人で使うようになった。特に手荷物もなく、体ひとつの気楽な身上である。幽閉された身としては、広すぎるくらいだ。
千馬殿に促され、一番奥の間に入ると、床の間に珍しく花が生けてあった。
すぐに弥左衛門殿も気がついたようだ。
「主税様、いよいよ、本日、切腹でございます…」
その生け花は、武士の世界では「切腹」の予告だそうだ。確かに、朝から不意に「切腹でござる」とは言いにくい。
弥左衛門殿は、俺の隣に来ると、そっと耳打ちをするかのように声を落として、囁いた。
切腹…。俺の心臓がどきんと鳴った。
切腹か、いよいよか…。
この二ヶ月、何をするでもなく、この日を待っていたと言うに、体が緊張して強ばるのがわかった。
すると、松平家の用人がやってきた。
「本日、五つ半より、皆様方に切腹申しつけられます。朝餉が済み次第、ご用意くださるようお願いいたします」
と、平伏するとそそくさと立ち去っていった。この侍、名は山田四郎兵衛と申した。定直公の若年の頃より使える直臣であり、武道の達人でありながら、生来陽気な男で、何くれとなく面倒を見てくれたが、この日ばかりは、終始下を向いて。俺たちに眼も合わせなかった。
先日も、
「ここまで、ご沙汰がないと言うことは、意外とご赦免なのではないですか…。世間じゃ、赤穂の皆様は、殿様の仇討ちをなされた武士の鑑と持て囃しております」
そんな調子のいいことを言うので、不破殿が、「用人殿、めったなことは申されまい!」と注意をしたくらいだった。
その時は、「いやはや、これは大変失礼をいたしました」と下がっていったが、微かな望みと聞いた者が多かった。
俺自身は、親父殿から言われていたこともあり、「そんなことはあるまい」とわかっていたが、動揺は隠しきれなかった。
それに、切腹の作法が失敗しないかという心配が先に立った。
父、内蔵助は、山科にいるとき、こう話していた。
「よいか、主税。討ち入りとなれば、成功にしろ失敗に終わるにしろ、断罪は免れぬ。よくて切腹、場合によっては斬首もあり得る。公儀に反旗を翻す以上、その覚悟はゆめゆめ忘れるでない。よいな…」
そう語る親父殿の眼には、怒りの炎がめらめらと燃えているのがわかった。その怒りが何に向けられていたのか、気がつくのはもっと後になってからだったが…。
親父殿は、内匠頭様がどうのではなく、自分の怒りが収まらないのだ。昼行灯と呼ばれていても、大石の血は戦国武将の血だ。その隠されていた先祖の燃えたぎる炎の血が、親父殿を戦いの場に引きずり出さずにはおられんかったのだろう。
俺とて同じなのかも知れん。いや、俺だけじゃない。討ち入った四十七人全員の先祖の血が、皆を合戦の場へと駆り立てたのだ。
だから、俺たちは死なねばならんのだ。この燃えたぎる炎の血を見てしまった以上、平穏な生活には戻れまい。本来であれば、戦場で骸となった身ではないか。骸が現世で生きてどうする。所詮、骸は骸なのだ。
そんな考えが、終始俺の頭の中にはあった。だから、生き延びることなど、考えたこともない。しかし、他の同志の中には、そんな炎も消え、安穏として暮らしに戻れる希望を抱く者もおるだろう。それは未練というものじゃ。未練を残しては、死ぬこともできぬ。たとえ、助けられたとして、我々に何ができる?。何もできまい。俺たちは、もう自分の生涯を生ききったのだ。
朝飯は、最後の食事らしく、また一汁五彩に戻っていた。
朝から、豪勢な料理であったが、砂を噛むようで、味もわからなんだ。しかし、残すのも癪なので、無理をして食った。
周りの者も、そんな俺に驚いた様子で、「さすが、主税様。いざとなれば、なかなかの胆力でございますな…」
と眼を丸くしていた。九十郎殿なんかは、汁しか飲んでおらぬ。
朝食が終わると、山田四郎兵衛殿たち家来衆がやってきて、浅葱の裃に、純白の小袖を恭しく運んできた。いよいよ死装束だ。
髷も後ろに垂らした茶せん髪にし、呼び出しがあるまで座敷で控えることになった。
寒いが、春の日差しが少しずつ部屋の中にも入ってきている。間もなく梅もほころぶだろう。
しんと静まりかえった離ればかりでなく、
今日ばかりは、松平邸全体が緊張に包まれているように、物音ひとつしない。
切腹の座とは、こういうものか…。
知らん顔をして座っていると、隣の安兵衛殿がチラチラと俺を見るので、
「堀部殿、心配ご無用でござる」
「見事、腹を掻っ捌いてご覧に入れる」
などと顔を向けもせず、言ってやった。
安兵衛殿は、驚いたような顔を一瞬見せたが、大丈夫か…?と顔も白くなったり、赤くなったりと、相変わらず落ち着きがない。
ひょっとしたら、一番落ち着きなく見えたのは、安兵衛殿だったかも知れん。
松平家中の者にしてみれば、天下に勇名を轟かせた堀部安兵衛の最期だ。興味シンシンだろう。それが、顔を赤白に変えているようでは、格好がつくまい。
「臆したか安兵衛!」
まあよい。安兵衛殿は、最後まで俺を気遣って死んでいくのだろう。すまないな、安兵衛…。
そんなことを考えている間に、周りの空気が一変し、いよいよ呼び出しの声がかかった。
「お、大石主税殿、お出でなされい…」
大声ではあるが、なんとなく緊張感の漂う、まったりとした呼び出し方である。
それでも、俺は、
「畏まりました…」と小さく呟くと、すくっと立ち上がった。
俺が、切腹の座一番である。
よかった、後からじゃ、血の臭いがして、よけい緊張しそうだわ…と思い、皆の衆を見渡した。
弥左衛門殿、先に参る…。そう心配されるな。源吾殿、後で俳句をな…。千馬殿、そんな恐い顔しないで…。ああ、九十郎殿、あなたが一番顔色が悪い…。
俺は、一瞬、みんなに声をかけたつもりで一言、「それでは、皆様、お先に参ります」
丁寧にそう言って頭を下げた。
すると、いつもの山田四郎兵衛殿が、案内をしてくれた。
おお。山田殿。世話になり申した…。
俺は、少しだけ眼で合図を送った。すると、一瞬、山田殿の眼が動いた。きっと、何かを堪えているのだろう。
俺は山田殿に先導されて庭先へと向かっていった。すると、なぜか、俺より先導の山田殿の方が足下が覚束ない。
あれあれ、大丈夫かな…。そこは階段だぞ。山田殿転ぶなよ…。もう危ないなあ…。緊張し過ぎだよ。
そんなこんなで、庭先に拵えられた切腹の座が見えた。
また、大勢いるなあ。何人いるんだ?。おや、定直公直々に検分されておられる。まあ、いいかさっさと済ませるとしよう。
切腹の座は、玉砂利の上に拵えられていた。 畳二枚に白い布団と晒の布を敷き、屏風も白のみである。脇には、介錯人が控え、その時を待っておる。
前方には、公儀からの検死人、定直公、家中の侍、公儀の役人と総勢三十人ほどもおったであろうか。
皆の視線が集まって、嫌でも緊張を強いられる。内匠頭様は、こんな場で辞世を詠まれたということだが、言葉など浮かんでくることはあり得ん。だから、あの辞世は、意味がよく伝わらなかったのだ。
そう考え、内匠頭様の辞世を思い出していた。
「風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとかせん」
だったが、結局は自分のしでかしたことの意味もわかぬまま、切腹となり、お家を断絶に追いやった責任だけを感じて死んだのだろう。
「如何に問かせぬ」では、禅問答である。何を考えておられたのか…。今以て、理解に苦しむ。
三十二歳の分別があれば、何故、我慢ができなかったのか。痞えがあると言うなら、なぜ側にいた者共が、細心の注意を払って対応しなかったのか…。この場に座ってみるとようわかる。後悔先に立たずじゃ。
今頃、親父殿も同じ場所で、俺と同じことを考えておるのだろうと思った。
しかし、もう時がない。最期くらいは、立派に身を始末せねばなるまい。
俺は白い屏風に覆われた中に入り、介錯人にきちんと挨拶をした。
「大石主税良金にござる。お願い申す」
大丈夫だ、声はうわずってはおらん。
この際だからと、キッと介錯人を睨んでやった。すると、介錯人も緊張した面持ちで名を名乗った。
「松平家家臣波賀朝栄でござる」
声が低く、肩が盛り上がっている。なかなかの剣を遣うようだ。
それでも、俺は、心の中で、おい、波賀殿しくじりめさるな…と命じておいた。
切腹の作法は、一応完璧に進めたつもりだった。千馬殿によく教わっておいたから、恥はかくまい。
着物の前をはだけ、肌を開くと後は、短刀に和紙を巻いて腹に突き刺すだけである。
よし、できたわ…。その時だった。
なんと、涙が勝手に溢れて来るではないか。
いかんいかん。なぜ、こんな時に涙が流れるのか。俺にはわからなかった。
特に悲しいわけではない。恐ろしいわけでもない。いつものように淡々と進めただけなのだ。
いかん。これでは、泣いているように見えるではないか。
いかん、いかん。かと言って、涙を拭くわけにも参らん。しかし、涙は止めどもなく流れ落ちる。堪えようにも勝手に流れ出した涙は頬を伝い、顎から首筋、そして着物を濡らした。ついでに鼻水まで垂れてきた。
すると、頭に母りくや妹くう、るり、最後に吉千代の顔が浮かんだ。
「母上…」つい、言葉が口から漏れてしまったではないか。いかん、未練じゃ。
この場において嗚咽を漏らすわけには参らぬ。俺はやにわに短刀に手を伸ばした。
くそっ…。最後の最後に無様な姿を見せてしまった。俺は、赤穂浪士、大石主税だぞ!
そう心の中で叫んで、短刀を腹に突き立てようとした瞬間、背中に刀風を感じると、首筋に焼け火箸を押し当てたかのような、猛烈な熱さを感じた。
「うっ…」
声が漏れた。
そのまま、俺の意識は深い闇の中に吸い込まれ、体は前に倒れ込んだ。
きっと、介錯は成功し波賀殿の面目も立ったに違いない。
俺の骸は、小者の手によって下に敷かれた布団と晒にくるまれて、棺へと運ばれていった。
波賀殿は作法として、俺の首を前に掲げ、検死人に見せる。その時、きっと涙の筋がくっきりと頬に残っているはずだ。これも公式の記録に残されるのか?そう思うと、無念である。
しばらくすると、また、あのまったりとした大きな声が闇の中に聞こえてきた。
「お、大石主税殿、お終いなされましたあ…」
俺は、一体その声をどこで聞いたのだろうか。闇は果てしなく、どこまでも続く暗い世界に俺は誘われていった。しかし、苦しくはない。むしろ、今までで一番安らかな気持ちだった。
さて、こうして大石主税は、赤穂浪士の一人として立派に切腹して果てた。ところが、ひとつだけ主税の最期を見届けた波賀朝栄の家にだけ伝えられた逸話があった。それは、朝栄が介錯を済ませ、主税の首を持とうとしたそのときだった。前屈みに倒れた主税の胸元からポロリと何かが落ちた。ハッと気づいた朝栄は、それを黙って拾い、己の胸元に隠し持ったという。本来、それは作法としてあってはならない行為だったために、朝栄はずっと口を噤んでいた。そして、ほとぼりが冷めたころ、その匂い袋を母であるりくの元に届け、りくにことの顛末を語って聞かせたという。それは、主税たち赤穂浪士の死から十年という年月が経っていた。
第二章 討ち入り
俺は、寒いのは元々苦手だ。瀬戸内の温暖な気候の中で育った身にとって、東国の江戸は寒い。
しかし、かと言って、暑いのも苦手だ。
俺が、我慢というのを知らんのも、国家老などとという身分の家に生まれたせいかも知れん。その俺に比べれば、右衛門七のなんと我慢強いことか。
あいつは、そもそも、俺のように愚痴を言わん。俺の屋敷に来ても、二人っきりになった時でさえ足も崩さず、常に正座をしておる。
俺が、
「右衛門七よう…。俺と二人の時くらい、ゆっくりしろよ」
と促すが、奴は笑顔を見せるだけで、絶対に姿勢を崩したことがない。まあ、武士とは本来そういうものなのだろう。
じゃあ、俺は一体何者なんだ。
子供の頃は、よく泣いておった。まだ、松之丞と言っていた頃は、暑いと言っては泣き、寒いと言っては泣き、いつでもピーピーと泣いてばかりいた。そんな俺だったから、周囲の者からもばかにされ、「大石家の跡取りが、あれじゃあ…」と噂もされていた。
そんな俺が、変わったのは、十二歳の頃だった。俺には好きな娘がいた。名を加代と言ったが、出入りの商家の娘だった。その家は、
播磨屋を名乗った大坂の両替商だった。
大石家にも足繁く番頭を送り、時には主人自らが赤穂の屋敷に来ていた。
その時、一緒に連れてきていたのが、加代だ。加代は、俺と一つ違いで十一歳。えくぼの可愛いきれいな娘だった。加代とは、もう三年前から知り合っていた。屋敷に来ると、妹のくうやるりの遊び相手となって、大石家にもすっかり馴染んでいた。
母上とも親しく交わり、時には台所仕事を手伝うこともあって、母上は、娘がもう一人できた…と愛想を崩している。
加代は、頭も良く、よく播磨屋の主人が、「私は、この加代に播磨屋の跡を継がせたいと考えております。我が家には、弟の定吉がおりますが、定吉は分家して、この加代に身代を任せとうございます」
と、親父によく言っていた。だからこそ、主人自ら一緒に連れ歩き、商売のイロハを仕込んでいたのだろう。
そんな加代に出会ってからの俺は、見違えるように学問や剣術に励むようになった。それは、ある日の加代のひと言からだった。
「松之丞様、私は、お父様の言うように跡を継がねばならぬのでしょうか。私は嫌でございます。私は、こちらの母上様のように、奥向きをしっかり束ねることのできる嫁になりとうございます。主税様、お願いいたします。大石様に、私の本心を話してください。そして、お父様に言ってあげてください」
「それに、私、松之丞様みたいな方なら、お武家でもいいなと思います…」
そんな自分の心の内を俺なんかに打ち明けてよいのか?。そう思うと、俺の胸は高鳴った。俺も、加代のような娘と結婚できるなら、どんな稽古も厭わないと思うようになっていた。
しかし、そんな話もできないまま、加代はその一年後、流行病で逝ってしまった。
その時の播磨屋の嘆きは、慰めようもなかったと親父殿は言っていた。
昨日まで、あんなに元気で屈託のない笑顔を見せていた娘が、あっという間もなく死んでしまう。俺は、人の世の無情を感じた。
それでも、俺は加代が好きだった。最後に会ったとき、加代が俺にそっと渡してくれた匂い袋があった。
「松之丞様。これを…」
と、そっと襟元から取り出した匂い袋こそが、加代そのものだった。
俺が泣き虫松之丞から、無口で我慢強い松之丞に変わった瞬間だった。
周囲の大人たちは、そんな俺の心境の変化も知らず、単純に喜んだ。ただ一人、右衛門七だけは、そんな俺の悲しみを理解してくれた。
「松之丞様、お辛いですね…」
「でも、いいではないですか。私は、とても羨ましく思っております。私には、そのような女性はおりませぬ。松之丞様のこれからのなさりよう、きっと空の上から加代殿が見守っておられますよ…」
と慰めてくれた。そして、それっきり、右衛門七から加代の話が出たことはない。そして、この秘密は、俺が死ぬまでだれにも知られることはなかった。ただ、加代からもらった匂い袋だけは、どうしても手放すことができなかった。
それでも、俺は親父殿同様、普段はやはり昼行灯だった。いつも暑いだ、寒いだとぼやき、侍らしくない姿も見せるが、剣術は東軍流に真剣に向き合い、学問もかなり上達した。 元々、読書好きだったこともあり、学問はかなりの力をつけたと思う。
それに親父殿は、山鹿素行先生の最後の門人だったから、俺にも山鹿流軍学を手解きしてくれた。その時の親父殿の顔は、昼行灯どころではない。嬉々として軍学を語る親父殿は、まさに素行先生そのものだったのではいかとさえ思えるほど、熱くなっていた。
俺や一緒に聞く右衛門七も、その熱意に引き込まれ、時間も忘れて親父殿の語りに聞き入っていた。
しかし、それが終わると、さっと立ち上がり、元の昼行灯に戻るのだから面白い。
ただ、やはり俺は、根がぐうたららしく、用がないときはぼんやりしているのが、唯一の楽しみだった。
だから、数年後に本気で真剣交えて命のやり取りをすることになろうとは、思いもよらなんだ。今でも不思議でならない。
時の勢いというものは恐ろしい。父の内蔵助と一緒に吉良邸に討ち入ったのは、今から二ヶ月前のことだった。
同志四十七人もそれぞれの事情を抱えており、毛利小平太のように当日になって来なかった者もいた。きっと毛利殿にも行けない事情ができたんだろう。
俺も親父殿に言われたから同志に加わったわけじゃない。同志に加われば、こうなることはわかっていた。侍の意地と言えば聞こえはよいが、そんな綺麗事でできることでもない。
確かに加代の死は、俺が同志に加わる動機付けにはなっている。
俺は、自分の生きた証が欲しかったのかも知れぬ。たった十五年足らずだったが、侍の子として生まれ、それも赤穂浅野家の国家老の家にだ。それでも、こんな大事件が起きなければ、俺も親父殿同様に昼行灯家老の人生を送ったのは間違いない。
しかし、事態は急変した。親父殿が国家老として殿様と自分の鬱憤を晴らさんがために、吉良上野介様を討とうと言うのだ。無理は承知のことだろうよ。それでも、やる。やりたいと思う情熱が、あの親父殿にもあったといことに、俺は少し驚いていた。
いつもはぼんやりしているくせに、金銭勘定に聡く、いつも合理的に物事を考える男だった。内匠頭様とも折り合いは悪く、年中小言を言っては叱られ、よく、
「内蔵助、下がれ!」
と勘気を蒙っていた。俺から見れば、いつも金勘定で物を言うから、武辺者の殿様には嫌われるんだ。せっせと節約し、裏金、いや余剰金を作っていたのも俺は知っている。
しかし、親父殿は、それを軽輩の侍や困っている領民、そして、赤穂に産業を興すために遣っていたことも知っている。だから、人が言うような吝嗇ではない。
その金があるからこそ、この討ち入りをやろうと決心もしたのだろう。
そんな親父殿を見ていたからこそ、俺も同志に加わろうとしたのだ。
だって、内匠頭様には、数度目通りしただけで、そんなに世話になった覚えもない。
高家の吉良様に切りつけたんだって、殿様だろうし…。改易になったのだって、自業自得と言えばそれまでだが、親父殿も国家老として、お家を潰した責任の一端は免れまい…。
まあ、親父殿にしてみれば、すべてを失った男の一世一代の大博打を打ったと言うところだろう。これで、親父殿の名は、永遠に歴史に刻まれたというわけだ。
あっ、俺もか…。
きっと後生の劇作家は、立派に書いてくれるだろうよ。ただし、切腹の時に涙を零したのは、不味かったな。なんでだろ…、勝手に涙なんか出てきやがって。はあ…。
まあ仕方がない。最年少だし、「子供だから…」って許してくれるだろう。それにしても、右衛門七は、きっと立派に腹を切ったんだろうな。あっちで遭ったら、聞いてみるとしよう。
さて、そろそろ、安兵衛殿も仕舞いかな…?
これで、堀部安兵衛殿は、宮本武蔵以上の天下無双になったわけだ。
ところで、討ち入りの様子は、どんなだったかな。俺は裏門にいたので、表門の様子や屋内の様子がよくわかってはいない。ただし、時折、伝令が走ってきたし、声やざわめき、戦っている侍同士の刀と刀がぶつかり合う金属音や叫び声が聞こえたから、ある程度の戦況はわかっていた。
それに、戦場の空気というものは、実戦を経験した者にしかわからん。あの血生臭く、殺伐とした空気感は正常ではない。風が体に触れるたびに、敵の刃の切っ先が触れたようで、神経という神経がすべて研ぎ澄まされ、心臓は小さな鼓動を早鐘のように打ち続けるのだ。
最初は、それを恐ろしいと感じたが、次第にそれにも慣れ、戦いを楽しむような感覚に陥るから不思議である。
戦国時代の武将たちは、そんな異常な世界の中で生きておったのだ。だから、常に血を求め、女を求めたのか。男の本能を沈めるには、これしかない。そんな感覚が俺にもあったことに驚きを隠せなかった。
当夜は、俺も右衛門七も、そして同志の皆も異常に興奮していた。
討ち入りに際しては、四十七人が一カ所に集まったわけではない。
本所の吉良邸は、両国の運河近くにあった。
俺や親父殿、本部付きの同志は、舟で播磨屋の支店である日本橋の両替屋が用意した蕎麦屋「楠屋」に集まった。
他にも堀部安兵衛道場や神崎与五郎の米屋にも集まり、時刻を見計らって吉良邸前に集合した。
討ち入り装束は、播磨屋に頼んで親父が用意したものだ。刺子の黒の小袖、鉄脚絆や手甲、鎖帷子まで、本格的な完全武装だ。それに、鉄砲こそないが、刀や短槍まで、よく磨き込まれた業物が用意されていた。
その金額は、これだけで数百両はかかったであろう。頭には銘々の鉄兜を被り、一人重量は二十㎏にも及んだ。これだけ堅牢な武装をさせる以上、討ち入りは冬場しか考えられなかった。確かに重いが、動きにくいわけではない。それにしても、致命傷にならないよう、肝腎な部分は徹底して防御できるようになっていた。
特に俺には、白い采配が渡された。もちろん、裏門隊を指揮するためにだ。
黒い小袖の装束に、白い袖口は深夜にはよく映えるはずだ。その袖口には「播州赤穂 大石主税良金」と墨痕鮮やかに書かれている。
刀は備中の業物らしい。これにも滑り止めの白い晒が巻かれていた。
どうやら俺たちの支援者は、播磨屋だけではないらしい。赤穂からの付き合いの深い商人たちは、だれ一人として大石家の世話にならない者はいなかった。
親父殿は、金銭には細かかったが、必要な情報はすべて商人たちにも流していた。それは、商人にとって貴重な?情報であり、北は蝦夷地から南は琉球に至るまで、親父殿の情報網は蜘蛛の巣のように全国に張り巡らされていたのだ。
だから、赤穂の屋敷には、いろいろな商人たちが出入りしていた。まあ、そのお陰で全国の旨い物を俺たちが頂戴していたわけだが、
赤穂五万三千石が、実際は、十万石を超えるほどにあったのは、間違いない。
しかし、このことは、大石家だけの秘密であり、家来衆で知る者も、右衛門七の父親ら勘定方の数人だけだと思う。
財政担当家老の大野九郎兵衛殿は、実は親父殿が推挙した男だ。
親父殿と対立して逃亡したことになっているが、とんでもない。大野殿は、全国を回って貸し付けていた金を回収していたのだ。それで、形だけは逐電したことにしたわけだ。
親父殿も大野殿には、すまないことをした…と詫びていたが、それも大野殿が言い出したことで、二人の会話も俺は聞いていた。
「大石殿、それでよかろう」
「いやいや、大野殿、それでは貴殿が悪者になってしまう…」
「なに、事を起こすとなれば、必要なのは金子じゃ。武士の意地だけで仇討ちなどできるものか。それに儂がいても家来衆からは嫌われておるし、剣も遣えん」
「じゃによって、儂は、全国を回って貸した金を回収するとしよう」
「いいですか、大石殿。金は、儂から勘定方の岡島八十右衛門にお送りいたす。あの男は、元は上杉侍。義に厚く嘘はつけません。それに、儂と大石殿との関係を知っている数少ない同志です」
「それに、岡島とは芝居とは申せ、この一件で犬猿の仲となっております故…」
「大野殿…。申し訳ない」
「いや、何の何の…。これもお家のため、赤穂のためにござる。お気になされるな」
そんな会話だった。
親父殿も大野殿も、俺には一切気にする風もなく、さすがに我が子を疑うような真似はしなかったということだ。
ひょっとして、親父殿は、俺が同志に加わりたいと言い出すのを待っていたのやも知れん。そうだとすれば、本当に「狸親父」だ。
それにしても、親父殿は用意周到な男だ。昼行灯のくせに、こういう計算は緻密だ。武将と言うより、名軍師といったところだろう。
時は、既に元禄十四年十二月十四日になっていた。十四日は月こそ違え、内匠頭様のご命日。この日の決行は、願ったり叶ったりだった。
この晩は、十二月というのにやたら寒く、午後から雪が降り始めた。積もることはないだろうと高を括っていたが、何のことはない、道にも雪が積もり、白く雪化粧になった。
「ああ、雪か…」
俺はだれに言うともなく、呟くと忠左右衛門殿が側に来て、
「はい、主税様。これで舞台は整いましたな…」
と微笑みながら囁き、俺の肩をポンと叩いた。
忠左右衛門殿は、裏門隊の副将だった。つまり、俺の補佐役として親父殿から頼まれていたわけだ。
忠左右衛門殿は、最初からの親父殿の同志で、親父殿も一番信頼している仲間だったと思う。
親父殿はああ見えて、理屈に合わないことは大嫌いという人間だった。だから、今回の刃傷事件も、吉良方にお咎めがなかったことが、一番納得できない理由だった。だから、吉良様が憎かったとか言うのではなく、公儀の判断の誤りを正したいというのが、本心だろう。
それを忠左右衛門殿は、うんうんと頷きながら聞き、親父殿の怒りを静めながら冷静に計算していたのだ。さすがは、策士。戦国の世なら、五千石の侍大将にでもなれた人物だ。
その冷静さが、忠左右衛門殿らしかった。
実際に戦闘が行われたのは、寅の刻(午前三時過ぎ)は過ぎていた。
本所の吉良邸前に集合した俺たち四十七人は、表門二十三人、裏門二十四人に分かれた。
表門の総指揮官は、もちろん、大石内蔵助。そして裏門の指揮官は、俺、大石主税である。
俺の側には、小野寺十内殿、吉田忠左衛門殿、間喜兵衛殿の年寄り組が待機していた。戦闘力の高い二十代から四十代は、三人ひと組となって吉良邸内に斬り込んでいった。
俺も敵と切り結んで戦いたかったが、戦況を把握し、指示を出す任務もあり、やむを得ない。しかし、掛矢で裏門を叩き壊し、喊声と共に突っ込んでいく同志たちの姿を見ると、きりきりと胃が痛んだ。
忠左右衛門殿が、吉良邸内の絵図を広げて、戦況を確認している。十分、二〇分と経過するに従い、伝令が走り込んでくる。その都度、小野寺殿や間殿が、絵図に朱で状況を書き込んでいく。しかし、まだ吉良様は見つからない。
大丈夫か…?。ぐずぐずしていると夜が明けるぞ…。
寅の刻から始まった戦闘は、間もなく一時間を経過しようとしていた。親父が予測した戦闘時間は二時間だ。すると、裏門をコツ、コツと叩く音がする。
すると、播磨屋日本橋店の手代の顔が見えるではないか。思わず、
「おお、喜作か…。かたじけない」
それは、荷車に積んできた、握り飯と酒、湯などの食い物だった。他にも五人ほどの若い衆がいた。どの顔も誇らしげで、眼を潤ませているではないか。
早速、間殿たちが荷台を中に入れ、伝令を走らせた。
伝令として、若い間新六殿が邸内を縦横に走り回っていた。間殿は、息子の新六殿に、
「兵糧の用意ができたと触れ回れ!」
と命じると、新六殿は、「はっ!」と返事をするや否や、脱兎の如く走り去って行った。
この頃になると、屋内、屋外を問わず激しい戦闘が続いていた。
大勢の男たちの大声が響く。その間に、鉄と鉄がぶつかりあう金属音、肉を斬る音、恐らくは、阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されているはずだ。
俺の興奮は、既に極限に達している。
まだ、飯や酒を取りに来る者はいない。
その時だ、隣の吉田忠左右衛門殿の奇声が聞こえた。「キィエーっつ!」と同時に、グザッ!という肉を刺し貫く音が鳴った。
すると、そこに着流しの侍が、抜き身の刀を振りかざして俺の前にいるではないか。
「しまった…」、俺はすぐに刀を抜いた。その時だ、すぐ横から無言で、金属の光が燦めいたかと思うや否や、侍の腹に深々と刀が差し込まれていた。
俺は驚いて、脇を見ると、表門隊の右衛門七が腰を沈めて刀を敵の脇腹に深々と刺し貫いているのが見えた。
その時の右衛門七の眼は、人間の眼ではなかった。狼のような獣の光る眼をしていた。
右衛門七…。そう思った瞬間。
「右衛門七、ようやった!」
忠左右衛門殿の大声が響いた。
そうだ、首領の俺がやられては、俺たちの企ては終わる。俺や父、内蔵助は、けっして死んではならんのだ。
俺は、徐に、「忠左右衛門、右衛門七、ようやった…」と労いの言葉をかけた。
「はっ!」と頭を下げる二人は、まさに戦国の世の武将の姿だった。
しかし、右衛門七は、表門隊だったはずだ。恐らく敵を求めて邸内に乱入し、敵と切り結ぶうちに裏門にまで出てきたのだろう。
「右衛門七…」
そう声をかけると、奴はにやっと笑って、二人の同志と共にまた、邸内に駈け戻って行った。
みんな息も荒く、黒い小袖もボロボロになっている。それでも無事なのは、中に着た鎖帷子や手甲のお陰なんだろう。
それにしても、足下で骸となった吉良侍は、気の毒だった。
周りは暗く、顔の判別もできないが、寝間着姿で足も裸足のままだ。恐らくは、寝ているところを踏み込まれ、防戦一方だったに違いない。
正々堂々とは、ほど遠い戦だったが、これが現実なのだと俺は悟っていた。油断した方が負けなのだ。それでも、俺は思わず、その骸に手を合わせ、「おぬしは、立派な武士であったな…」と小さな声で、弔ってやった。 そんな俺の姿を吉田忠左右衛門殿は、じっと見つめていた。
戦闘は、それから約一時間も続いた。間もなく七つ半(午前五時)になろうとしていた。 いかん。時間がかかりすぎている。予定では、戦闘時間は二時間のはずだった。七つ時には、同志たちも組ごとに表門、裏門にやってきては、呼吸を整え、握り飯を食い、酒を腹に入れた。刃毀れの酷い刀は、交換し、草鞋も履き替えた。それでも、疲労の色はありありと見えた。
「大丈夫か?」
俺は奥田殿や三村殿に声をかけたが、皆無言で頷くのみで、息を弾ませている。返り血を浴びている者も多く、戦闘の激しさを物語っていた。
「おらん。吉良がおらんのだ…」
そう呟く磯谷殿の焦りが俺たちのも伝わってきたが、どうしようもない。
その時、表門からの伝令が走り込んできた。それは、親父殿からの伝令だった。
伝令は、若い勝田新左衛門殿だった。表門に休憩に入ったとき、親父から命じられたのだ。
「伝令!」
「吉良は、寝所にはおらぬ!」
「よって、庭にある小屋を隅々まで探せ!」
「以上!」
そう言って、また走りながら命令を伝えていた。もう、疲れなど構っておられない状況にまで、こちらも追い込まれていた。
後、一時間もすれば夜が明けてくる。そうなれば、町の衆が動き出すはずだ。ここまで町奉行も動き出してはいないが、この騒動を知らぬはずはない。
しかし、時が経てば、奉行所だけではない。近隣の大名、旗本家も放ってはおけぬだろう。そうなれば、事はし損じる。
俺は、いてもたってもおられず、吉田殿に命じるように言った。
「吉田殿、私も探索に参る。私は、まだ体力を残しております。まして、探索なら私共の方が向いておる」
「間殿、新六殿をお借りする!」
そう言うが早く、新六殿に目配せをして庭先に走っていった。
新六殿は、元々は間家の人間だったが、浪人をしていて、この企みを知って加盟した男だ。親父殿は、浪人者を加えるつもりはないと突っぱねたが、昔から顔見知りだった俺が、自分の加盟を条件に同志に加えてもらった経緯があった。
俺の一存と言うより、新六殿の父親である間喜兵衛殿からの頼みを俺が引き受けただけのことだったが、そのことを新六殿は、恩に感じたらしく、
「主税様の願いなら、何なりとお申し付けくだされ」
と頭を下げたことがあったので、新六殿に目配せをしたというわけだった。
新六殿も承知していて、
「それでは、手前が主税様をお守り申します」と言ってくれたので、吉田殿も否とは言えなかったのだろう。
俺たちが、庭先に回るとそこは本物の修羅場だった。月明かりではあったが、積もった雪は踏み散らかされ、血の跡が点々と続いている。雨戸が庭にまで飛び、障子や襖はボロボロに切り裂かれていた。
庭にも、屋内にも吉良の侍が倒れ、手や足のない者もいた。頭を割られ絶命している者や、肩を斬られ呻いている者もいた。それでも、俺たちを見かけると、向かってくる者も数人いたが、すべて新六殿が斬り倒した。俺たちは、それでも半時は隅々まで見て回り、怪しい場所は、徹底的に探し回った。
「いない、吉良はどこに行った…」
皆の焦りが声になって聞こえてくるようになった。すると、そのとき、俺の眼に、古い井戸が眼に入った。側には、梅の木が植えてある。
「おい、新六殿。あれはなんじゃ?」
「おう、古い井戸のようですな…」
「しかし、かなり前から使っていないようですが…」
と、二人で周りを確認していると、そこに新六殿の兄の十次郎殿や武林唯七殿らがやってきた。
「どうだ、新六、何かあったか?」
「兄上、今のところ何も見つかりません…」
「くそっ、吉良めどこに隠れた…」
その瞬間、俺に気づいたらしく、
「あ、これは主税様、いけません。裏門隊の大将が出てきては…」
そう注意を受けた、その時、井戸の近くの物置小屋から人の呻き声らしきものが聞こえたような気がした。
「しっ、今、何か聞こえ申した…」
「なに?」
俺は、井戸の周りにいる同志を身振りでわざと遠ざけた。そして、小声で、
「すぐそこの小屋に人がおります…。いいから、離れて…」
そう言うと、数歩下がり様子を見ることにした。皆が無言で聞き耳を立てると、やはり人の話す声が聞こえる。
すると、十次郎殿が、
「間違いござらん。主税様、お手柄でござるよ」
そう言うと、十次郎、新六、武林の三人は、小屋の方に足音を忍ばせて進んでいった。
小屋の前に揃うと、十次郎殿が、がばっと引き戸を開いた。
ガタン、ガタン。物音がする。
「だれじゃ、そこにおるのは!」
新六殿の大音響が周りに響き渡った。
その時だ、わーっ!と抜刀して三人の侍が斬り込んで来た。
しかし、体勢の整わぬ剣ほど弱いものはない。三人とも迎え撃った三人に瞬時に斬り倒され、井戸の前に横たわることになった。
十次郎殿が、真っ先に小屋の中に踏み込むと、数秒間の争う声が聞こえ、中から白い寝間着を着た老人の男が引きずり出された。
俺は、思わず「吉良殿だ!」と叫んでいた。新六殿の声を聞いた同志たちが、わらわらと集まってきた。
龕灯でその男の顔を照らすと、白髪を大名髷にして、肩で息をしている。どうやら、十次郎殿の槍を腹に受けたらしい。
「おい、確かめろ!」
その声に、反応して武林殿が額と背中の傷跡を見つけた。
額の傷は薄くなっていて、月明かりではよくわからなかったが、背中に負った傷は、縫った跡が深く盛り上がり、確かに内匠頭様が負わせた傷に違いない。
「おい、吉良だ、上野介だ!」
皆が顔を見合わせた。
その時、だれが吹いたか、呼子の笛が闇の静寂に響き渡った。
ついに、悲願の吉良上野介を見つけたのだ。 ついにその時は来た。
親父殿を始め、笛の音に集まった四十七人は、呆然と雪の中にうずくまる老人を見つめていた。
これが宿敵、吉良上野介か…。
そんな感慨を持って、老人を見つめていた。その時、親父殿は吉良の側に歩み寄ると、膝を下ろし、こう言い放った。
「吉良少将殿とお見受けした。我らは赤穂浅野の旧臣。少将殿に恨みはござらねど、主、内匠頭の鬱憤を晴らさんと、本日罷り越し申した」
「これも、武士の習いとお覚悟めされい!」
吉良は、ふっと顔を上げ、親父殿を見上げた。そして、
「そなたが、大石内蔵助か…。なるほど、確かにその方が道理じゃ。儂とて武家の端くれである。いざ、首を刎ねられよ…」
そう言うと、姿勢を正し首を前に差し出した。
その時、ぐっと顔を上げ、俺たちを睨み付けるような眼を見せた。しかし、それも一瞬だった。眼を下げたそのとき、俺と吉良の眼が合った。
顔は青白くやつれてはいたが、その眼は優しげで俺を励ますかのような優しい眼をしていた。けっして恨みがましい眼ではなかった。
その時、俺は、思わず一歩前に出そうになった。
親父殿は、武林唯七殿に目配せをした。
すくっと立ち上がった武林殿は、キラリと白刃をかざし、裂帛の気合いと共に、一刀両断に吉良の首を落とした。
その血は、高く吹き上がり、周囲にいた同志たちの胸に降り注いだ。
それは、恰も吉良上野介という侍の生き様のように見えた。
第三章 宿敵、吉良上野介
討ち入り後、俺には時間だけはたっぷりあった。後は死を待つのみとなった身は、罪人のような諦めも、後悔もなかった。
「侍として為すべき事をしただけだ」
と安兵衛殿は言う。俺もそう思う。しかし、俺にはまだやり残したことがたくさんあったような気がしていた。未練と言えばそれまでだが、十五年の人生が未練でなくてなんなのか…。
そんなことをぼんやりと考える毎日だった。一時の興奮した熱情も冷め、同志の者たちも同じような心境なのだろう。あの安兵衛殿でさえ、いつも本を読んでいる。聞けば、「孫子」だと言うではないか。後は死を待つだけの人間が、孫子から兵法を学ぼうとしている。それが愚かなのか、憐れなのかはわからぬ。
しかし、所詮、人間というものは、そういった生き方しかできないのかも知れない。
ところで、吉良上野介という老人は、俺たちが思い描いていた人物とは、ほど遠かったような気がする。俺たちは、単純に我が主君である内匠頭様が理不尽な虐めを受け、耐えに耐えて刃傷に及んだと思い込んでいた。
しかし、吉良の最期を見た俺は、そんな噂は、到底信じられなくなった。
同志の仲間たちは、口々に、
「吉良は、高家肝煎りの立場を利用して、賄を要求しておるのだ」とか、
「浅野家を田舎侍と侮り、勅使への接待を教えなんだ」とか、
挙げ句の果てに、
「浅野家の塩田の秘密が欲しかったのじゃ」などと、勝手に想像を膨らませ、見たこともない人間を罵り、自分勝手な正義を吠えていただけではないのか。
俺は、それが切腹するまでの大いなる疑問であった。
ひょっとすると、親父殿はそれを知っていて、俺たちを謀ったのではないか…とさえ思うようになっていた。
そのくらい、最期の吉良上野介の眼は澄んでいたのだ。そして、吉良家の侍たちの獅子奮迅の働きは、主君に対する思慕の感情が現れているようにさえ見えた。
もし、これが逆であったら、俺たちは内匠頭様のためにあれほどの戦いができたであろうか。その証拠に、この討ち入りに参加した者の多くは、お目見え以下の者たちばかりだ。
一度も会ったこともない主君に殉じて死んでいくのだ。
それでは、内匠頭様に可愛がられた者たちはどこにいるのだ。親父殿はいつも叱られ、疎まれ、江戸出府にも同行させてもらえず、昼行灯を演じるしかなかったではないか。
千馬三郎兵衛殿は、内匠頭様と大喧嘩して浪人になろうと決心したのに、この企てに加わった。それは、内匠頭様の問題ではなく、自分の武士としての一分を立てるためではないか。
不破数衛門殿も同じだ。家僕を成敗した理由も聞かず、いきなり家禄を召し上げられたのだ。恨みこそあれ、殉じる謂われはない。 この俺とて、数回会ったきりの神経質そうな殿様に、優しい言葉のひとつもかけられた覚えもない。親父殿と共に城に上がり、
「大石内蔵助が嫡男、松之丞でございます」と挨拶したが、「そうか…」のひと言で、下がっただけだ。
鷹狩りの折に、親父殿に同伴しても、初めて見るような顔をし、表情ひとつ変えない殿様だった。これで好きになるはずもなかろう。
それに比べて、吉良…様には、武士としての誇りがあった。人としての優しさがあった人物だと俺は見た。
あの最後の武士らしい佇まいは、やはり高家だ。元は源氏の嫡流の家柄だ。家柄だけ申せば、公儀徳川家より源氏に近い。そんな貴人に俺は初めて会ったような気がした。
内匠頭様は、悪いが所詮、田舎大名だ。あの神経質そうで青白い顔は、相手に苛立ちを覚えさせる。まして、あの横柄さは吉良様にもわかったのであろう。
それに、親父殿によると勅使饗応の予算もけちり、二言目には「ご老中のご命令である」と親父殿の意見を突っぱねた結果、上手くいかず、最後は勘気をもよおして刃傷とは、情けない殿様だ。
それに比べて吉良様はどうだ。貴種でありながら、わずか四千石の旗本でしかなく、それほどの贅沢はできぬであろう。それでも、公儀の朝廷外交を一手に引き受け、高家肝煎りとしての活躍は、だれでも知っている。
徳川家とて、所詮は田舎大名の成り上がりではないか。朝廷の有職故実を知る者がなければ、その田舎大名に官位すら貰ってやることもできない。
皆が、「吉良が謝礼を要求した」と憤慨しておったが、親父殿だって謝礼くらいはいつも受け取っておったわ。大坂の商人たちは、赤穂の屋敷を訪ねてくれば、土産のひとつも持ってきた。それに、金子を預けてやれば、両替商たちはそれを運用して儲け、そのいく分かは、親父殿の懐に入ったことを俺は知っている。
だから、親父殿は遊郭にも出かけ、散々遊ぶことができたのだ。言っておくが、この金は、浅野家の金ではない。大石家の金だ。
大石家は、笠間時代から代々浅野家の家老職を務めた。その間、年貢の取り立てだけでなく、農具の改良、新地の開発、そして地元産業までも興して浅野の家と家臣たちを護ってきたのだ。
ただ、血筋だけで浅野家を継いだ内匠頭様なんぞには、この苦労は絶対にわからぬわ。
吉良様を見ろ。高家筆頭の家に生まれ、幼少の頃から父である義冬様に鍛えられ、京都の公家衆と対等に付き合うことができるまでになったのだ。「剣も遣えぬ偽侍」などと揶揄する声もあるが、それこそ、井の中の蛙じゃ。剣などよりも、もっと大切な知識と教養を身につけた老人なのだ。
吉良様は、領民にも慕われていたと言うではないか。水害の多かった吉良の庄に大きな堤を造り、水の被害から領民たちを守ったという話は、俺も聞いたことがある。何でも「黄金堤」と言うそうじゃ。
それに、国元に戻ると、百姓でも乗るような地元の馬にまたがり、親しく領民たちに声をかけ、或いは、菓子を与え、困っていることはないか…と聞いて歩いたそうじゃ。だから、今でも吉良の庄では、「赤馬の殿様」として、評判なのだそうだ。
恐らくかの地では、俺たち赤穂侍は、憎いお館様の敵といったところだろう。ものの見方一つで、すべてが引っ繰り返るのが道理なのだ。
本当に、皆に慕われた殿様を俺たちは理不尽にも誅殺してしまったのだ。後ろめたさが俺たちにあるからこそ、吉良様を悪し様に罵り、悪評を振りまき、俺たちの勝手な道理を通しただけではないのか。
その証拠に、茶坊主二人が、最後まで戦って討ち死にしているではないか。
奴らは、俺よりずっと年下だったはずだ。そんな子供が武装した侍たちに抵抗し、斬り殺されたかと思うと、正義がどちらにあるのか、俺にはわからなかった。
安兵衛殿は、「戦とはそのようなものだ…」と言うが、俺には納得できん。
世間では、俺たちの騒動を「義挙」と称して、頗る評判がいいそうだ。確かに、侍にとって仇討ちは、義挙には違いない。相手が悪ければ悪いほど、正義は我にある。その正義がたとえ嘘で塗り固められたものであっても、敵討ちは、武士道の華なのだ。
見て見よ、この松平家の当主である定直公も興奮して、俺たちを義士と呼び、賞賛しているではないか。もうその曇った眼を、覚ます手段はない。吉良様には申し訳ないが、未来永劫悪役になってもらうしかないのだ。そう言えば、俺には一人だけ吉良侍に知り合いがおった。名は、確か「清水…」とか申したはずだ。知り合いと言っても、たまたま道場で一度会っただけのことだが、そのとき、吉良家の某…と言っていた。俺は大石の名を名乗るわけにはいかず、変名の「垣見」を名乗ったが、気づかれておったかも知れん。
奴とは、奥田殿たちの堀内道場で初めて会った。と言うより、立ち会ったという方が正しい。
その清水某は、腕が立った。堀内道場には、出稽古で来ていたはずだ。
吉良家にも道場はあったが、腕試しに余所の道場で出稽古をすることはよくあった。俺も江戸に出てからは、右衛門七と一緒に、堀内道場に通っていた。
もちろん、赤穂の話は一切御法度だった。
清水ら吉良侍が、堀内道場に来たのは、秋も深まった頃だったろう。
堀内道場は、江戸の小石川牛天神下にあった。師範は、直心影流の堀内源左衛門先生で、安兵衛殿や奥田孫太夫殿らが師範代を務めておった。
そんな情報もあり、吉良家の腕に覚えのある面々が探りに来たのだろう。
江戸に来て間もない俺は、奴らの顔は知らぬ。しかし、安兵衛殿たちはすぐに気づいたようだ。それでも、「稽古をお願いしたい」と丁重に挨拶をされれば、堀内先生も断る理由はない。
まして、堀部安兵衛と言えば、天下に聞こえた剣豪である。その名を慕って来る者も多かった。
当然、吉良侍の目的は、安兵衛殿や奥田殿の腕前を確かめることだ。しかし、安兵衛殿の剣に刃向かえる者は、だれもいなかった。ただ一人、清水という若侍が、結構粘って見せ、安兵衛殿が「なかなかの腕前だ」と褒めていた。
その時、安兵衛殿が俺を見て、「垣見殿も、清水殿と一手如何か…」と誘うものだから、立ち会うことになったという仕儀である。
俺の剣は親父譲りの東軍流という総合武術で、剣だけでなく、合気道や柔術なども採り入れた実戦向きの剣だった。とは言っても、俺の腕では、安兵衛殿たちに敵うはずもなかったが、師範代を務める安兵衛殿の指名なので、立ち会うしかなかった。
清水某は、正眼で俺に向き合った。そして剣先が触れようとした瞬間に、俺は清水の懐に飛び込んだ。何を隠そう、剣では勝てぬと見たので、俺は胸元に飛び込むと、瞬時に清水を柔術で投げ飛ばし、切っ先を喉に当てた。
よし、俺の勝ちだ…。
清水は、呆然としていたが、その時、
「おいおい、主税殿。それは剣術ではないだろう…」
そう声をかけた瞬間、安兵衛殿は、慌てて、「おお、垣見殿…」と言い直した姿を皆が見てしまった。
赤穂の面々は、安兵衛は本当に頭が悪い…とでも言いたげな顔で睨んでいた。
恐らくは、この清水や他の吉良侍にも俺の名が知られてしまっただろう。
そこで少し休憩に入り、俺は一人縁側で休んでいた。そこに、先ほどの清水某がやってきた。それも茶を入れた大ぶりの湯飲みも持参している。何と気が利く奴だ。
「か、垣見殿、ありがとうございました」
そう言うと、茶碗を俺に手渡してくれた。
「あ、すみません…。では、頂戴いたします」
そう言って、茶を啜ると、ほんのり温かい茶で、香りがよく立っていた。
「お、う、旨い!」
俺は、初めて茶を飲んで旨いと思った。赤穂にいたとき、母のりくや妹のくうが、お茶を入れてくれたが、こんなに旨い茶は初めてだった。
俺が感心していると、清水…殿が、
「そうですか、それはよかった…」
と微笑み、俺の隣にすっと座った。
爽やかな秋風が吹くのと同じくらい、心地よい匂いを漂わせて、美しい横顔を俺に見せた。
なんと美しい男だ。本当に男なのか…?
そんな風に見とれていると、清水殿は、徐に声をかけてきた。
「私は、吉良家家中、清水一学と申します。垣見主税殿ですか。どうぞ、お見知りおきください」
「それにしても、あの技は、凄いですね。本当に実戦的だ。私の習得した小野派一刀流などでは、歯が立ちません。あれは、何ですか?」
そう聞かれたので、
「あ、はい。あれは東軍流の技です。東軍流は、戦国時代に川崎鑰之助という剣豪が編み出した実戦向きの剣法だと聞いております」
「ほう、それでは赤穂で…」
俺は、吃驚して清水一学の顔を見た。
し、知っているのか…。
「ふっ…」と口を歪めると、俺の顔も見ずに、「私どもは、この道場に赤穂の人たちがたくさんいることを承知の上で参りました」
「今日は、垣見、いや、大石主税様にお会いできて光栄です。しかし、今日は感服仕りました。お若いのによく鍛錬されておられる…」
そう言うと、すっと立って道場を秋風のように爽やかに去って行った。
ああ、あれが吉良上野介様の側近の清水一学か…。さすが、高家の小姓を務めるだけのことはある。剣の腕も立つが、何しろ美形だ。
痘痕面の俺など、箸にも棒にも引っかからぬわ。
それにしても、憎くは思えなんだ。
あのお茶の入れ方、立ち振る舞い、剣の腕、そして体から発する汗の香り、どれをとっても優雅だった。
あのがさつな安兵衛殿とは大違いだ。
それが、清水一学との出会いだったが、あの討ち入りの夜、遭い見舞えることもなく終わってしまったが、話によると、獅子奮迅の働きをした美形の剣士がいたと聞いた。
二刀流を遣い、同志たちを散々やり込めたが、こちらは完全武装、そちらは着流し姿では、勝敗は見えている。最後は、二人がかりで斬り倒し、口から大量の血を吐いて死んだそうだ。
機会があれば、ゆっくりと話をしてみたかった。
きっと、あの男も吉良様に惚れ、そして吉良様に可愛がられ、最後まで主人に殉じたのであろう。
そんな主人を理不尽に討とうとした俺たちを、どう思っていたのだろう。
もう、それを知る由はない。それは、清水一学の心の中にあるだけだ。
そう思うと、何故か、空しさだけが残った。
そう言えば、一学は最後に不思議な言葉を残したそうだ。二人の同志に刺され、意識を失う刹那、「ちか…らどの」とか、「おおい…しどの」とか言う掠れた声が聞こえたそうだ。
いや、空耳かも知れん。しかし、もし、俺の名を呼んだとすれば、自分の最期を俺に見てもらいたかったのかも知れん。そう考えると、改めてあの美しい横顔が現れ、俺の眼に涙が溢れてきた。
第四章 首領、大石内蔵助
俺は、自分の心の中や陰では、大石内蔵助を「親父殿」と呼んでいた。それは父親に対する愛情とか、親しみというものではなく、どちらかというと反発に近い感覚があったからだ。
武士は、本音と建前を使い分けるのが上手い。本音では「否」であっても、武士としての立場では「応」となる。今度の討ち入りの企ても、皆、本音では否が強かったと思う。しかし、武士としての正義を叫ばれれば、「応」と答えるしかないのが武士と言うものだ。
大石内蔵助という男は、その使い分けが上手く、自分の燃えたぎる武将の魂に引きずられるように、この企てを成し遂げた。
俺から言わせれば、極悪人の極地だ。
昔から、そんな策謀ばかりを巡らす父親に愛想をつかし、嫌っていたことも事実だった。
しかし、個人の感情を抜きにして、赤穂浪士の首領として大石内蔵助を見れば、歴史上希にみる英雄に違いない。ただ、生まれてくる時代を間違えた。
親父殿は、若い頃に山鹿素行先生に教えを受けた門人だった。素行先生は、謹厳実直な性格で、公儀の学問だった朱子学を批判し、『聖教要録』を著したことで、公儀の怒りを買い、四十五歳で赤穂浅野家に預けられた。
要は、「江戸ところ払い」という程度の軽い罪だった。それでも罪人は罪人だ。しかし、浅野家当主長直公は、山鹿素行先生をけっして罪人扱いはしなかった。
それに、長直公は、名君の誉れ高く、赤穂浅野家を西国の雄藩に育てた人物だ。
長直公は、公儀の沙汰を恐れず、素行先生を十年にわたって優遇し、兵学の教育に当たらせたのだ。
山鹿流軍学は、甲州軍学にその基礎を置き、武田信玄のような軍略を目指したと言われている。そして、「人は石垣、人は城」の如く、武士の士道を説き、領民の安寧を願い領地経営を仁の心で実践することが、武士の使命だと教えたのだ。
親父殿は、そんな山鹿素行先生の信奉者だった。と言うより、大石家そのものが、山鹿流の教義であったやも知れん。俺の祖父の良昭が早く亡くなると、曾祖父の良欽が親父殿の面倒をみて、山鹿流を徹底的に仕込んだ。良欽は、名家老と言われた男で、赤穂浅野家が裕福なのも、この良欽のお陰だと言われていた。
浅野家の士風は、質実剛健、謹厳実直、そんな気風は、当然、当主内匠頭長矩様にも受け継がれていた。
しかし、残念なことに長矩公は父である長友公が早く亡くなったために、わずか九歳で家督を継ぐことになった。確かに、内匠頭様は凡庸な人物ではなかった。しかし、三代目当主として、父や祖父を超えようと焦ったのかも知れぬ。剣の稽古も馬も、武術には殊の外熱心で、山鹿流もよく学んでいた。しかし、短気な性格は、生まれつきで、よく癇癪を起こすことがあった。
歳を重ねると、癇癪が高じ、痞えという心の病を発症するに至ったのである。
この痞えという病は、心因性の神経症で発作が起きると、顔面がひきつり、こめかみに青筋を立てて痙攣を繰り返した。その辛さは、傍で見ていてもわかるくらい悶え苦しみ、尋常な判断ができるものではない。
それが浅野内匠頭長矩という主君だったのだ。
この発作が起きる原因は、一番に心労と緊張だろう。あの時、赤穂浅野家は、二度目の勅使饗応役を仰せつかっていた。饗応役は、出費も多く、特に今度の勅使饗応は、将軍綱吉様のご母堂、桂昌院様に朝廷から従一位の位を頂戴するための重大なお役目であった。
だから、公儀は、経験があり財政的に豊かな赤穂浅野家を指名したのだ。
それをつまらない意地をとおしてぶっ壊したのは、だれであろう我が殿、内匠頭様ではないのか。
これは刃傷事件の後から聞いた話だが、浅野家は、吉良様へのご挨拶も遅れ、その上、進物まで粗末な物で、当初から同僚の伊達家とは差がついていた。
内匠頭様もかなりの偏屈な人間で、恐らくは高家筆頭などという官位だけが高い老人など、武家として認めていなかったのかも知れぬ。そんな行き違いが度々あり、吉良様も相当にやきもきしたようだ。
勅使下向は、公儀にとっても重要な儀式であり、そのための浅野家だったはずが、ものの見事に裏切られたのでは、吉良様も立つ瀬がない。
江戸家老の藤井、安井の両名も取り立てて能力のある人物ではない。それより、内匠頭様に叱られる方が恐かったに違いないのだ。 刃傷後も、この二人は赤穂には戻らず、早々にいなくなってしまったところから見ても、けっして忠義の侍ではない。
こんなことになったのも、内匠頭様が親父殿を遠ざけ、返事ばかりがよい家臣を重用したからに他ならないのだ。
やはり田舎の坊ちゃん育ちは、都会ではものの役に立たない典型だった。
内匠頭様は、結局、何も語らないまま切腹してしまったが、あれは、語らなかったのではなく、語れなかったのだ。痞えの持病が発作を起こし、気が動転した中で、小さ刀を抜いてしまったわけだ。
話によると、顔は青ざめ、眼は血走り、口から泡を吹いて吉良様に斬りかかったそうだ。だから、吉良様はご自身は刀も抜かず、逃げようとしたのだろう。正気なら、内匠頭様の腕を持ってすれば、吉良様を刺し殺すくらい朝飯前だったはずなのに…。何のための鍛錬だったのか、本当に情けない御仁だ。
そんなことは、報告を聞くまでもなく、親父殿にはわかっていた。
「いつか、しでかす…」
この言葉を、屋敷で何度聞いたかわからぬ。それほど、親父殿は、内匠頭様を心配しておったのだ。
しかし、刃傷後の親父殿の行動は素早かった。大広間に家来衆を集めても、終始、自分の意思を貫き通した。大野殿も既に親父殿と同心し、立派に芝居を打ってみせた。
大野殿が、全国から貸した金子を回収してくれなければ、藩札の交換も、家来衆への分配金も渡すことができなかったろう。
我が屋敷に密かに為替が届き、それを見つめる親父殿の眼は、本当に感謝の眼だった。
俺には密かに、
「松之丞、そちも見て気づいておろう。大野九郎兵衛という侍は、刀は使わぬが、本物の武士じゃ。儂が推挙しただけのことはある」
そう話してくれた。
ご家老の大野殿は、親父殿の眼に叶った人物だったのだ。討ち入り成功後の消息はわからぬが、恐らくは名を変え、どこかの田舎に引きこもり、寺子屋の師匠なり、村の相談役なりをして暮らしていることだろう。
大野殿の汚名は、本当に申し訳ないと親父殿も思っているはずだ。
赤穂家来衆は、最初は、城への籠城。それが無駄だと悟ると、次は大手門での切腹。それも無茶だと言うことになり、お家再興へと舵を切ったのだった。それを主導したのは、親父殿と吉田、小野寺などの長老たちだった。
しかし、親父殿は、お家再興など何年かかるかわからぬと考えていた。万が一、再興がなっても、よくて一千石、下手をすれば三百石の御家人だってあり得るのだ。そんな小さな禄で、三百人もいる家臣をどう養うと言うのか。それに、親父殿自身、そんな家に仕えるつもりもない。
つまりお家の再興は、赤穂から侍たちを引かせるための方便だったのだ。それがわかるからこそ、皆は分配金を受け取ると、いそいそと退散して行ったではないか。
だれが本気で切腹などするものか。親父たちは、それを承知の上で大芝居を打ってみせただけだ。
それでも、お家再興に望みを持っていたのは、閉門となった弟の大学様と、内匠頭様の未亡人瑤泉院様くらいのものだったろう。
しかし、親父殿は、大学様はともかく、瑤泉院様には同情していたと思う。親戚の三次浅野家から赤穂浅野家に嫁ぎ、子も為さぬまま未亡人となってしまった境遇は、憐れと言えば憐れだった。それに、瑤泉院様には、結婚の際に持参金として持ってこられた化粧料があった。これは、親父殿が預かり管理していたものだ。この金子も大坂の商人に依頼し、運用してきたから、原本よりかなり増えていたはずだ。それも仇討ちの費用となった。
また、塩田の管理も親父殿が担当し、塩奉行に命じて、良質の塩を京や江戸など、大名家や料亭、遊郭など、なるべく金が落ちそうな場所で売り捌いた。赤穂の塩は純白で、味がいいことから、普通の塩の倍で取引された。その運用資金もばかにならなかった。
親父殿は、こうして運用できる金子を抱え込み、年月をかけて増やしていたのだ。それは、まるで大坂商人のようだった。
それに親父殿の趣味は、遊郭などで遊ぶこと以外は、これと言ってない。そのためなら、小唄も習い、三味線も習い、書画にも精通するまで学んだ。それもこれも、遊郭で女たちにもてたいが為である。そんな遊びだけが、親父殿の唯一の息抜きの場だったのであろう。
まあ、本人に言わせれば、遊郭は秘密の会合をする最適な場所なのだそうだ。
「どこで、だれが聞き耳を立てておるかわからんのが、世の常じゃ。遊郭の女共は、籠の鳥じゃ。何を話したところで秘密は漏れん。よって、儂はやむを得ず、女遊びをして見せるのよ…」
そんな風に嘯くのは、承知の上だが、だれがそんな文句を信用なんかするものか。いや、よいのだ。親父殿だって人間だし、男であろう。何も硬いことは言わぬ。
それに、普段は綿の安い着物で通していたが、そういう時だけは、正絹の上等な着物と羽織を着て、身につける小物だって立派な品ばかりだ。それに、お供の忠左右衛門殿たちも同様だった。親父殿は、
「ほう、松之丞、ついて参るか?」
と尋ねるが、子供の俺が行けるはずもない。「今回は、遠慮いたします」
と言うと、
「何だ、無粋な奴め。まあよい、また今度な…」
と不満気な顔を見せるのだが、いそいそと支度をすませると、迎えの駕籠に乗ってさっさと行ってしまった。
母上は、そんなときは知らんぷりをしている。どうせ、病気だ…くらいに思っていたのだろう。それでも、後年、お軽という若い妾に子ができたと聞いたときは、顔を曇らせ、せっせと赤子のために産着を縫っていた。
俺も、遊びなら許せたが、まだ若い娘を孕ませるとは、親父殿にも困ったものだ。愛想が尽きるわ。
その軽という娘と子供は、討ち入りの前に、親父殿が家来の瀬尾孫左衛門に泣いて頼んだと言う。
孫左衛門は、主人に「面倒を見てくれ…」と頼まれれば、家来として断り切れなかったんだろう。
孫左衛門には、俺も「孫、孫…」と気軽に声をかけて、よく遊んでもらった。人のいい男で、親父殿の言いつけは違えたことがない。
昔、孫左衛門が大坂の商人から預かった大事な金子を無くしてしまったということがあった。確か、五両ほどもあったろうか。
几帳面な孫左衛門にしては、大失態であった。周囲の者は、「孫左衛門が着服したのではないか…」と疑ったが、親父殿は、孫左衛門をけっして疑わず、「もうよい。孫、過ちはだれにでもある。気にするな…」と、それだけを言い、詮索することもなかった。実は、この件には後日談がある。
実は、やはり孫左衛門が盗っていたのだ。しかし、それは孫左衛門自身の為に盗んだのではなく、孫左衛門が懇意にしていた幼馴染みの娘のために使った金だった。
その娘が女郎に売られると聞いて、懐の金に手をつけたとのことだった。娘は、その後、親父殿の口利きで、大坂に奉公に出たそうだ。
これが露見したのは、その娘が母りくに直訴したからに他ならない。
孫左衛門に助けられた娘は、その礼を言おうと、我が屋敷を訪ねたそうだ。すると、他の家僕たちが、孫左衛門のことを疑いの目で見ていたことに気づき、ことの顛末を母上に涙ながらに話したそうだ。
その報告を受けた親父殿は、特に何も言わず、孫左衛門を呼び、
「その娘、儂に預けよ。悪いようにはせぬ」と大坂の播磨屋に預けたのだ。
播磨屋では、店の手伝いをさせながら、「大石様から預かった大切な娘じゃ…」と言って我が子同様に育ててくれた。
後に、孫左衛門の嫁にどうか…という話があったが、孫左衛門は、それを頑なに拒んだそうだ。
娘は、恩のある孫左衛門を諦め、大坂の別の商家に嫁に行った。確か、名を「たえ」と言ったような…。とにかく、瀬尾孫左右衛門とは、そういう男なのだ。
これも、さらに後の話になるが、討ち入りの前日に脱盟した孫左衛門は、その足で山科に戻り、身重の軽を連れ、大坂へと出た。頼るのは、やはり播磨屋だった。播磨屋の主人は、孫左衛門に武家を捨てるように諭し、番頭として分家で雇うことにしてくれた。
何せ、孫左衛門は親父殿の下で、銭勘定を徹底的に仕込まれ、親父殿の雑用を一手に引き受けていた男だ。商人になっても大きな力になると見込んだ播磨屋は、すぐに番頭として雇い入れ、暮らしが立つようにしてやった。
軽は、娘を産んだそうだが、長生きはできなかった。
孫左衛門は、その親父殿の忘れ形見の娘を我が子のように育て、大きな庄屋の家に嫁に出すと、密かに切腹して果てたそうだ。
孫左衛門が腹を切った刀には、大石家の「右二つ巴」の家紋があったそうだ。
孫左衛門は、親父殿が託した刀で、軽とその娘を守り抜き、最期は、赤穂侍として親父殿や俺たちに殉じたのかも知れぬ。
赤穂城が明け渡されてから、一年も過ぎた頃、俺たち一家は、京の山科の奥に一軒家を借りて暮らしていた。京は、知り合いも多く、親戚筋の進藤源四郎殿たちも近くにいて、何かと心強かった。
その頃になると、江戸や赤穂、大坂などから赤穂の侍たちがよく顔を見せるようになった。俺には詳しくは話さなかったが、居間で親父殿に大声で談判しているのを見ると、どうやら仇討ちが迫っているようだった。
特に江戸から来た安兵衛殿や奥田殿は、声もでかく、あの人たちじゃあ秘密裏に事を運ぶなんて上等なことはできないだろうと思った。
親父殿も持て余しているようで、時々、俺を呼んでは茶の用意だとか、飯の支度だとか、とにかく用を言いつけては、話をはぐらかそうと必死だった。
それでも、最後には飯を食い、酒を飲んで上機嫌で帰って行くのだから、何が目的かよくわからん。まあ、そういった単純さが、こういう企てには大切なのだろう。
江戸の急進派が帰ると、ほっとするかのように、風呂に入ると着替えて、橦木町に出かけていった。お供は、いつも吉田殿である。「大石様は、よく金が続くな…」
と言われることがあるが、親父殿は、遊んでいても金が入る仕組みを作っていた。
大石家は一千五百石の大身である。それも一代家老ではない。何代も家老職を務め、普段贅沢をするわけでもなく、質実剛健、質素倹約の山鹿流の信奉者である親父殿が、無駄な金など遣うものか。
親父殿の大坂商人との付き合いは播磨屋ばかりではない。江戸の紀伊國屋とだって取引があった。一度、紀伊國屋の手代だと名乗る若者が我が屋敷を訪ねてきたことがあった。
その日は、たまたま親父殿は不在だったが、代わりに俺が書状を受け取った。裏を見ると、くねった文字で、「文左衛門」とある。
あの紀伊國屋文左衛門だ。
この頃の紀伊國屋は、蜜柑船で大儲けはしていたが、まだまだ若い商人だった。紀伊國屋が赤穂に目をつけたのが赤穂塩だった。
塩は人間には欠かすことのできない食品だが、その精製が殊の外難しい。周囲を海に囲まれている日本では、塩自体は容易くできたが、「旨味のある塩」となると、手間と時間が必要だった。
赤穂の塩田では、浜全体に海水を蒔き、その砂を天日で乾燥させ、何日もかけてじっくり精製するのだ。その手間暇は、炎天下の中でなかなかできるものではない。
赤穂は、瀬戸内に面した温暖化気候が特長である。晴天の日も多い。そして、何と言っても長い海岸線が確保できるのだ。その上、砂浜の砂もきめ細かく、塩の結晶に絡みやすい性質があった。
百姓たちは、塩奉行の指図に従い、海水を何度も何度も砂浜に蒔いては乾燥させ、濃い砂塩を作っていく。そして、その砂塩にさらに海水をかけて濃い塩水を造り、釜で焚いて塩の結晶だけを残していくのだ。
作業手順は、どこでやっても同じであるから秘密でもなんでもない。しかし、塩は、その土地や気候に左右される繊細な食品だった。
赤穂では、浅野家が笠間から入封するまでも塩作りは行われていたが、量も少なく、百姓たちが片手間に行う程度だった。それを日本の一大産地に仕立てたのは、大石家の先祖だったのだ。そして、その塩を高値で取引できるよう考えたのが、俺の親父殿だったと言うわけだ。
親父殿は、塩田に何度も足を運び、海水を舐め、砂塩を口に入れ、味を確かめながら赤穂塩の質を高める努力を欠かさなかった。
親父殿は、できたばかりの赤穂塩を持っては、京都の九条家にも出入りしていた。無論、朝廷で赤穂塩が使われれば、「天皇様御用達の塩」として、最高級の値がつく。
大石家の縁者を頼って、京都の九条家を始め公家の台所に入り込むと、今度は、台所役の三村次郎左衛門殿を連れて公家衆に料理を振る舞った。
焼き物、煮物、漬け物、料理に塩は欠かせない。それを実際に食べさせることで、赤穂塩の評判を高めさせたのだ。それに、次郎左衛門殿の料理の腕は、相当なものだったと聞く。
三村殿が、低い身分だったにも関わらず、一人同志に加わったのは、そういう親父殿との深い関わりがあった故である。
台所役とは言え、元々、三村家は備中を支配した戦国大名の流れを汲む家柄であった。 親父殿は、次郎左衛門殿の血筋を承知の上で公家衆の料理を任せたのだ。
後に関白となられた九条輔実卿は、次郎左衛門殿の料理を殊の外喜ばれ、「我が家に…」とまで親父殿に懇願されたという話もあった。 それでも、次郎左衛門殿は、赤穂に残り親父殿と共に生涯を全うされたのだ。
そして、その赤穂塩を江戸で売り捌くよう依頼したのが、紀伊國屋だった。
紀伊國屋は、赤穂塩の関東での販売を独占し、親父殿との約束を守り、高級料亭や吉原、大名屋敷など、売り惜しみをして高級感を演出したので、さらに評判を呼び、「塩なら、赤穂の天塩」と呼ばれるまでになったのである。
しかし、残念ながら、浅野家が立ち退くと、その塩田の塩も少しずつ質を落とし、販売網の確保ができないまま、衰退していった。
やはり、上に立つ者の器量が試される見本のようなものだろう。
そんな親父殿だったので、綿屋善右衛門や播磨屋義兵衛など、多くの両替商や廻船問屋と交流を欠かさなかった。
親父殿は、よく内密で勘定方担当家老の大野九郎兵衛殿と連れだって大坂に出向くことがあった。供には、岡島八十右衛門殿と矢頭長助殿の勘定方を連れていた。
この四人が、赤穂の財政を握っていたのだ。 親父殿は、親しげに暖簾を潜ると、いつも奥座敷に案内された。そこで、湯茶の接待を受けている間に岡島殿と矢頭殿は、番頭や手代から情報を収集するのである。
店の者も心得たもので、今の相場や仕入れの状況、各藩の経済状況まで調べ上げ、報告を寄越した。
親父殿と大野殿は、主人と内密の話をし、商人には知り得ない西国諸藩の大名家の内情や主の性格まで教えていたのだ。
時には、柳沢吉保を初めとした幕閣の裏情報も取引の材料とした。江戸の様子は、江戸藩邸のみならず、紀伊國屋からの情報が大きかった。
紀伊國屋文左衛門は、既に大名家の江戸藩邸にまで食い込み、様々な情報を得ていた。これは、武士身分では到底手に入らない下働きの者からの情報もあり、場合によっては、その家が引っ繰り返るほどの内容が含まれていた。
大店の商人にとって、だれと結びつくのが得か、判断せねばならぬ。いくら浅野本家のような大藩であっても、財政状況は別だ。
下手に大名貸しをして、回収に失敗し、倒産するような下手は打ちたくなかった。
そして、事実、薩摩藩のような大藩に金を貸して踏み倒された店は多かったのだ。
大坂の大店の商人は、必ず江戸にも支店を出していた。大坂がすべてを取り仕切る本店であり、江戸は、政治の情勢を把握するための情報基地の役割をしていた。
この頃の大坂は、日本の経済の中心地だった。それは、大坂には全国の大名家の蔵屋敷が置かれ、年貢米が送られてきていたからである。
米にも相場があり、投機の対象になった。米は、収穫が多すぎては安値がつき、少なすぎれば確かに高値はつくが、量が少なく品質も悪いのでやはり安く叩かれる。その相場を操っているのが大坂の米問屋であった。
大名家の中には身分の低い商人を軽んじ、領地で採れた貴重な年貢米を、米問屋と交渉もせず、いい値で売り、大損をする家も多かったが、赤穂浅野家は、そんなばかな真似はしなかった。
親父殿は、岡島殿や矢頭殿に申しつけ、常に米相場を見張らせていたのだ。播磨屋や綿屋といった商人の商売は、米から海産物、はたまた武器弾薬に至るまで、取引の内容は多岐に渡っていた。
やり過ぎれば、公儀からお咎めを受けるが、それは取引を止めるための算段でもあった。
大坂一の商人だった淀屋辰五郎は、公儀に食い込んだ大商人だったが、俺たちの討ち入り後間もなく、闕所処分となり、店はお取り潰しとなった。
表向きには、「身分も憚らず、贅沢な暮らしが不行届きである」といった難癖をつけられてのお取り潰しだったが、実は、大名貸しに失敗し、上手く店を畳んだというのが真相である。
貧乏な大名家は、そんな大店になりふり構わず借金を申し込んできた。一万両、二万両と増えてくると担保にもらう物も無くなってくる。そのうち、米も抑えられ、商人の自由にされてしまうのだ。
大名家は、最後は公儀に泣きを入れ、闕所という現代版「徳政令」を出してもらい、借金苦から逃れるのである。つまり、公儀の力を借りて、新たに借金ができる体勢を作るだけのことなのだ。
武士の世が、米相場で回っている以上、大坂の商人が潰れる心配などなかった。商人たちは、望んで最低の身分にしてもらう代わりに、税を納めずに済むよう、その昔、徳川家康公に働きかけたのだ。
家康公は、すべてを承知で大坂商人と結託して戦費を調達し、天下を奪ったことは、大坂の商人ならだれでも知っている。知らぬのは、呑気な大名家ばかりだと言うことだ。
恐らく、内匠頭様もそんなことは考えたこともあるまい。商いや相場などは、身分の低い卑しいものだと教えられていたからだ。
家康公は、「武士は喰わねど高楊枝」の精神だけを植え付け、天下泰平の世を創るとは、本物の狸親父だ。
だから、強かな大坂商人は、闕所なんていうお裁きは、関係ないのだ。それで侍の気が済めばよい…。それだけのことだ。
武士は名誉を取り、商人は実利を取る。上手い棲み分けではないか。
淀屋は、表からは消えたが、その店の者たちは、培った米相場や裏情報などを駆使して、瞬く間にのし上がり、淀屋以上に大きな商いをするようになったのである。
そして、その蓄えた金が、幕府を倒す軍資金になろうとは、家康公も気づかなかったに違いない。
親父殿は、祖父さんの良欽の時代から大坂商人とは深い付き合いがあった。と言うより、今の主人の多くは、親父殿の幼馴染みである。
子供の頃から大坂に出ては、何ヶ月も居続け、一緒に遊び、そして寺子屋に通い、剣術も習った。武士と町人の身分はあったが、竹馬の友という深い関係があったのだ。
会えば、「おい、貞坊」とか「やあ、松之丞」とか言い合える仲である。
それもこれも、赤穂浅野家の国家老、大石内蔵助良欽のなせる業である。良欽は、この国を牛耳っているのは、公儀などではなく、
大坂商人たちであることを既に見抜いておった。「大坂を知ることが、国を富ませることだ」とは、良欽の残した言葉である。
だから、親父殿には、大坂で肌身をとおして商いを学ばせたのだ。親父殿は、算盤も熟達し、赤穂のだれよりも計算が速く正確であった。
親父殿の頭脳は、まさに算盤でできていたと言って過言ではあるまい。だから、内匠頭様には疎まれるのだ。
そんな親父殿だったからこそ、大坂の商人たちは、密かに金子も工面し、仇討ちも全面的に支援したのだった。
親父殿のもたらす情報は、西国だけにとどまらず、北は蝦夷地から南は琉球まで幅広く、その情報網は、大坂の商人以上だったかも知れない。
だから、赤穂の屋敷には、頻繁に得体の知れない者共が訪ねて来た。
あるとき、物乞いのような男が訪ねて来たので、追い返そうとしたところ、屋敷の中から、「おい、佐吉、よう参った!」と声がする。振り返ると、親父殿が縁側に立っているではないか。その上、手招きまでしている。
男は、「へい!」と笑顔で返事をすると、ひょこひょこと親父殿の座敷に上がっていくのだ。
浅野家国家老の自宅奥座敷に、乞食同然の男が、平気な顔をして入っていく姿は、当時の武家にはあり得ない光景だった。
だからこそ、大石家は面白い。
そんな調子だったから、得体の知れない男でも女でも、
「大石様は、おられるか?」
と尋ねられると、必ず親父殿に通すように心掛けていたものである。
その乞食のような男は、琉球の情報を持ってきた薩摩の者だった。男は、某かの土産物を置いていった。帰り際には、へこへこと頭を下げて出て行ったので、相応の金子を与えたのであろう。
俺が不思議な顔で見送っていると、親父殿が側に寄ってきて、
「のう、松之丞。近いうちにおぬしにも、しかと教えねばならぬな…。今度大坂について参れ」
そう言って、肩をポンと叩くのだった。
実は、刃傷事件の一報も、親父殿の元には江戸藩邸からの早駕籠より先に届いていた。
それは、恐らく忍の者ではなかったかと思う。夜中に眼を覚ますと、親父殿の部屋の灯りが点いていた。何やら、こそこそと話し声が聞こえる。しばらくすると、ふっと灯りが消えた。
明け方、親父殿はいつもより早く起き、身支度を調えて早駕籠を待っていたような気がするのだ。
あれは、昼行灯と言われた男のすることではなかった。
その報せの後の処置は素早く、その動き方は尋常ではなかったことを思い出した。
そうか…。やはり親父殿は、自分の情報網を使って事前に知っておったのだ。ならば、内匠頭様が刃傷に及ぶ可能性があることだって知っていたことになる。知っていながら、なぜ、放って置いたのか。俺の疑問は、益々深くなっていった。
あの刃傷事件が起きたとき、そう言えば親父殿だけは狼狽えることがなかった。近くで見ていた俺には、「やはりな…」とでも言うような納得顔に見えた。
確かにあの事件が予測できていたとは、思わんが、間違いなく心の準備はあったはずだ。 それが、何分の一の確率で起きた。
そうか、親父殿は、山鹿流兵法を試す機会を得たのかも知れん。
人に見せる昼行灯の顔。
大坂商人との信頼関係。
全国に張り巡らせた情報網。
密かに育てた素行一派。
蓄えてきた豊富な資金。
山鹿流兵法の奥義。
戦国武将としての闘争心。
これらが揃った今こそ、親父の血は煮えたぎっていたはずだ。
それが大石内蔵助という男だということを俺は悟った。そして、この俺にもそんな先祖の血が受け継がれていることも知っていた。
第五章 公儀への挑戦
関ヶ原の戦が終わり、長く続いた戦乱の世が終わりを迎えた。徳川家康公の開いた江戸幕府によって、天下は泰平の世となった。
それから約百年の時が過ぎていた。将軍も五代目を迎えており、幕藩体制も整った。しばらくは、この徳川の世は続くことになるだろう。
武士も戦上手な侍より、計算上手な侍が重宝された。軍備を整えるより、領地を堅く守り、収入を増やすことが、各大名家の大きな課題でもあった。
赤穂浅野家は、たかだか石高五万三千石の小藩である。元々は、芸州浅野本家の分家であるが、浅野は、徳川の譜代ではない。
その祖を、豊臣秀吉の妻であった「ねね」様の実家の浅野長政公とされている。そして、芸州浅野本家は、四十二万六千石の大藩である。
しかし、泰平の世となって武士にとっては、それが幸せとも言えなかった。確かに、戦場で命を落とすことはなくなったが、領地支配には、殊の外苦労も多かったのである。
公儀は、常に隠密を各地に置き、藩の内情を調べさせていた。その任務は、伊賀忍者を支配した服部家が担った。
伊賀者は、ただ江戸から派遣されるばかりでなく、草の者となってその土地に土着し、何代にも渡って隠密の任務にあたっていた。 それは極秘任務で、露見すれば即、死を選ばなければならない過酷な任務だった。そこから逃れようにも、執拗な追っ手を振り切ることなどできなかった。
各藩では、隠密を見つけ出せば、密かに始末した。公儀も極秘任務のため、けっして公にすることはなかった。
当然、赤穂にも草の者はいた。侍の中にも草の者はいる。何代にも渡ってその土地に馴染んでいるので、けっして露見することはない。しかし、親父殿は、手の者を使って、草の者を炙り出していた。
親父殿がそれを人に告げることはなかったが、今、考えれば毛利小平太がそうではなかったかと思う。
小平太は、謎の多い男だった。赤穂浅野家の譜代で、大納戸役二十石五人扶持である。 大納戸役とは、城の管理が主な役目であった。つまり、赤穂城内部のことがつぶさにわからねば務まらない仕事だ。これは、新参者には任せられぬ。譜代の家臣が親子代々管理し、次に引き継ぐ役目を担っていた。そういう意味では、国家老の親父殿が、財政管理を一手に握っていたのもわかるというものだろう。
小平太が、草の者であれば、地味な仕事をこつこつと熟し、派遣されてきた隠密に密かに内情を伝えていた…とすれば、討ち入りに加わったのも、当夜の脱盟も説明がつく。
あやつの使命は、討ち入りの状況を公儀に詳しく報告することにあったのだ。そして、報告する相手とは、服部家そして、今、権勢を誇る、側用人柳沢吉保。それ以外は考えられない。
柳沢は、いや公儀は、仇討ちをやらせたかったのだ。小平太は、最後に吉良邸に潜入できた唯一の男だった。商人を装い、邸内に忍び込み、吉良邸の現在や防備の様子などを詳細に親父殿に報告した功績があった。これだって確かめた者はいない。もし、隠密だったら、事前に公儀の者から、吉良家の情報をもらっていたとしても不思議ではない。
吉良邸の絵図面は、九十郎殿や他の同志たちの苦労で、何とかできてはいたが、最新の状況がわからずに困っておった。それを討ち入りの数日前に小平太が潜入できたお陰で、完璧なものになったのだ。
俺たちは、それを喜び有頂天になっていたが、親父殿は、既に承知の上のことだったのだろう。そして、小平太を泳がせ、公儀の動きを掴もうとしていたのだ。
いや、小平太にその気があれば、討ち入りに加えようとさえしていた。なぜなら、公儀が邪魔をしないことを既に知っていたのだから…。
あの晩、俺たちは、小平太が来ないのを訝しんで、「なぜ、この期に及んで、あの毛利が…」と心配もしたが、親父殿は冷静にこう言った。
「小平太には、小平太の事情と言うものがあるのだろうよ…。もうよい、詮索するでない」と、皆を窘めた。
そうか、親父殿は知っていたから、詮索無用と言ったのだ。
この討ち入りは、公儀にとっても都合のよい計画だったに違いない。特に柳沢にとって高家吉良上野介は、目の上の瘤。桂昌院様の従一位が下されれば、それを成し遂げた上野介の立場は嫌が応にも挙がる。ただでさえ口うるさい老人だ。権力を掌中に収めたい柳沢にしてみれば、あの刃傷も、そして俺たちの企ても、自分にとって都合の良い流れとなろう。
だから、奉行所も動かず静観しているのだ。それもこれも、小平太からの情報があればこそ…という訳か。
なんと、狸と狐の化かし合いを俺たちは演じていたわけだ。滑稽、滑稽…。
しかし、親父殿は、その柳沢の意図に気づきながら、ただ易々と乗っただけなのか。
嫌、違う。
親父殿には親父殿の別の意図があったはずだ。それを考えてみたい。
それは、親父殿の性格かも知れん。
あの大石内蔵助という男は、自分の腹の中を人には絶対に見せぬ男だ。息子の俺にさえ、見せたことはない。
時には愚痴も言うが、それも計算ずくの上で言っている。よく、女遊びが噂になったが、あんなもんは気晴らし以外の何ものでもない。
そう言えば、以前、親父殿に連れられて伏見橦木町の笹屋に上がったことがあった。もちろん、俺は元服前の松之丞の頃のことだ。 遊郭など始めてのことだったし、眼を白黒としていると、前髪の侍が珍しかったのか、花魁や太夫が、声をかけてきた。
「あら、ねんねの坊や様が、お出ででありんす…」
俺はむっとして睨みつけてやったが、一緒にいた吉田殿が、
「まあまあ、松之丞様。ここは、世俗とは違う世界でございます。身分の垣根などはござりませぬ。あるのは、金の力とその人間の器量だけにございます。ここの女共は、皆、貧しい家の者ではありますが、武家の娘など足下にも及ばぬ教養がございます」
「もし、明日から御殿に上がろうとも、けっして他の女中になんぞ、引けを取るものではないのです」
「人は、身分によって格が決まるのではなく、その者の品性、教養によって決まるものと、お父上から教わり申した…」
なるほど、そういうものか…。
ただの遊びも見方によっては、人の観察もできるという訳だ。親父殿も上手い言い訳を考えたものだ。
表から見る限り、店自体は、そんなに煌びやかに見えなかったが、いざ、中に入ると、そこは別世界の感があった。
女たちの衣裳も贅を凝らし、白粉と紅の匂い。焚かれた香しい香の匂いが混じり合い、これではどんな男でも籠絡できるだろう…と感心してしまった。
女を知らぬ俺には、刺激が強すぎたが、親父殿が強く命じるので、仕方なく同道した訳だが、母上と妹のくうが、嫌な顔をしていたので、少し気まずかった。
なに、兄者は、親父殿が強いる故、仕方なく同道するだけじゃ…。と心の中で強く強弁したが、どうせ信じてくれることはあるまい。
親父殿は、既に座敷に上がり、浮橋とかいう美しい太夫を侍らせて酒を飲んでいた。
俺が座敷に入るなり、
「おう、松の字よう参った。こやつはのう、儂の倅じゃ。どうじゃ可愛いであろう。気に入ったら、好きにしてよいぞ」
な、なんという戯れか。それに、「松の字」なんぞと呼ばれたこともない。また、むっとして仏頂面をしていると、吉田殿が、「まあまあ、松之丞様。ここは、無礼講、無礼講じゃ」
そう言って、俺の膝をポンポンと叩いた。
それから先は、どんちゃん騒ぎとなり、いつの間にか吉田殿がいない…と見ると、やはり女を侍らして、浮かれておる。まったく、これだから年寄りは、始末が悪い…。
そんな悪態をついているうちに、俺の側にも若い女が寄ってきた。
「あたしは、まだ見習いなの。去年ここに来たのよ。松様、いいでしょ…」
俺の側にしなを作って体を密着させてくるではないか。白粉と紅、若い肌の女の臭いが俺の理性を失わせてしまった。
いかん、いかん。侍として、それはいかん。などと思ってはいたが、酒の力と女の魔力で、気がついた時には、翌日の朝になっていた。
翌日、部屋で朝飯を食っていると、吉田殿が迎えにやってきた。
そして、一通の書状を俺に手渡した。
「松之丞様。お父上様からの書状でござります。眼を通されてから、吉田と一緒に戻るようにとの仰せでござりますので、待っておりました」
俺は、恐縮して頭を下げると、
「まあ、これで松之丞様も、見事元服にござりまするな…。あっ、ははは…」
と高笑いをするのだった。
書状には、俺が帰宅次第すぐに元服の儀を執り行うとある。名は、「主税良金」と書かれてあった。
ふん。今日から俺は、大石主税良金であるぞ…。ちょっといい気分だったが、あることに気がついた。「主税」とは、財政や経済を指す言葉だ。その上「良金」とある。これでは、まるで今の親父殿そのものではないか。よくもまあ、これだけ「金」を付けたものだ。
それに、我が家は代々内蔵助を名乗ることになっていた。俺が親父殿の跡を継ぐと、「大石内蔵助良金」となる。今度は、「蔵」と「金」で、金蔵じゃ。
こんな洒落で大事な息子の名を決めるとは…、俺は呆れたが、逆に親父殿らしくて清々しかった。
やはり、俺は大石内蔵助の息子なのだ!
昨晩のことは、俺の元服祝いでもあったのか…。まったく、親父殿らしい粋な計らいだが、それが読めなかった悔しさもあった。
そんなわけで、親父殿の女遊びは続いたが、俺にはもう、そんな親父殿を責める気持ちは無くなっていた。
それより、俺自身が楽しくもあり、小梅というあの娘に夢中になっていた。
女とは、本当に不可思議なものだ。男の心を蕩けさせる魔力がある。これまでも、女に溺れた話はよく聞いたが、なるほど、女というものを知ってみると、こういうことかと合点がいったのも事実だった。
それから、俺は親父殿にすこしは寛大な気持ちがもてるようになった。いや、かなり…。
そんな親父殿だったが、一度だけ、親父殿から珍しく弱音を吐いたことがあった。それは、赤穂城の受け渡しが終わり、少し落ち着いた頃だった。
その頃、親父殿は床に伏せっておった。
まあ、あの刃傷後の慌ただしさは、尋常ではない。きっと、それを経験した者しかわからぬ苦労があったのだろう。
親父殿は国家老として、四六時中城内を飛び回っていた。恐らくは、寝る時間もなかったはずだ。俺もお供について回っていたが、それでも居眠りする時間くらいはあった。俺が寝ていても叱りもせず、眼を覚ますと、
「よいか、松之丞。よく見ておけ!。これが人間よ。人間という生き物をよく観察しておくのじゃ…。働く者、口だけで何もせぬ者、小心者、頑固者、そして本物の侍、いろいろな人間が見えてくる。それを見抜くことも、上に立つ者の器量というものじゃ…」
そう言って、すぐに次の仕事に向かって行った。遠目からも体が痩せ、疲労の色がありありと見えたが、そんなことに斟酌する余裕すら無くしていた。
刃傷前、赤穂浅野五万三千石は、富裕藩と言われ、近隣諸国から羨ましがられる存在だった。
小藩なので家禄は少ないが、実際の実入りは多い。たとえば、正月などでも城に挨拶に出向けば、藩士全員に「歳玉」なる小袋が配られたし、役に就けば出入りの商人たちからの付け届けは多かった。
それに親父殿は、家禄の少ない若者たちの教育のためにも撫育金を出すことを惜しまなかった。
山鹿素行先生が江戸に戻られてからも、その薫陶を受けた者たちによって、山鹿流軍学は、赤穂に根付いていたのだ。
親父殿は、撫育金と称して城の一角に借りて、山鹿流の講義を行っていた。
当初は、素行先生から免許を授けられた藩士たちを師範として、毎週、講義と実戦訓練を行っていたのだ。
そのため、赤穂の若侍の士気は高く、親父殿の一派を形成するまでになっていた。
撫育金は、公金の運用によって生まれた余剰金で、本来ならば藩の金庫に蓄えられるものであったが、山鹿流では、「人は石垣、人は城」の甲州軍学の流れを汲んでいるため、教育に金を惜しまなかった。
その若侍の多くが、討ち入りに加盟した者たちである。
国とは、なんなのか。俺は、最近よく考えるようになった。赤穂は、確かに瀬戸内の小国である。領地も狭いし、人も少ない。しかし、人から見れば裕福であり、街全体に活気があった。
小商いをする者たちも多く集まり、赤穂の城下に行けば商売ができるとあって、特に市が立つ日は、大賑わいとなった。
しかし、これは自然にそうなったわけではない。気がつかねば、その活気も当たり前の光景になってしまうが、そこまで育て上げた親父殿や、赤穂の先代の並々ならぬ苦労は、あまり語られることはない。
殿様も同じだ。初代浅野長直公が笠間より入封し、幕閣に働きかけて赤穂城を築城した。
よく考えてみれば、外様の浅野に城を築くことを許すなどとは、今では考えられもしない。それも赤穂は、岡山から姫路に至る山陽道の中間に位置する重要拠点である。南には、小豆島、四国高松へと続く海の街道沿いでもあった。
ここに、外様の城とは。それも戦国の世が去り、泰平の世に「城を築きたい」とは、何を考えているのか…という幕府内の声も多かった。
それを長直公は、幕閣を相手にこう申し開きをした。
「仰せのとおり、泰平の世に城とは、言語道断と仰ることも十分わかり申す。しかしながら、浅野は外様とは申せ、大恩ある東照大権現様の家臣にござれば、さらに山陽道の護りを固めると同時に、瀬戸内の海を発展させ、ご公儀の弥栄に、少しでも貢献したいと存じます」
「外様の大名に、築城を許したとなれば、徳川幕府の権威はさらに増し、上様のご威光に皆がひれ伏すことは必定。徳川の御代もご安泰かと推察申します」
当然、長直公には、城を築く莫大な費用を回収する術が既にあったことになる。
築城は、浅野家家臣の近藤三郎左衛門殿と山鹿素行先生の縄張りによって行われた。近藤殿は、甲州流軍学者の小幡景憲先生の弟子で、「小幡門四哲」の一人として有名であった。
赤穂城は千種川と瀬戸内海がぶつかる三角州に築かれたため、井戸水に海水が混じる問題があった。そこで、約一里半の上流の千種川から水を引く「上水道」を整備した。
この上水道は、「赤穂水道」と呼ばれ、城だけでなく、領民の住む町にも整備したことから、赤穂の人口は飛躍的に伸び、生活が潤う原因ともなったのである。
さらに、この築城の請願にあたっては、千両もの金が動いたとも言われている。
長直公は、既に年貢に頼らない政治改革を笠間にいた頃より実験し、商人たちを利用して金を蓄えていたのだ。
年貢は他藩により少ないのに、何故、赤穂は豊かなのだ…?。「赤穂は、富裕である」という噂は、この時から始まったと言っても過言ではない。
実際、赤穂浅野家は、実収入は十万石以上あった。よって、二度目の勅使饗応の大役が回ってきたのだが、それとて、
「思い切って一千両使え!」
と親父殿が命じておいたにも関わらず、常日頃から質素倹約を旨とした生活を送っていた内匠頭様は、「無駄金は、一切使ってはならぬ!」と厳命されたがために、四百両まで削られたと江戸藩邸では嘆いていたのだ。
藤井や安井の江戸家老も、日頃は元気がいいが、いざとなれば、ものの役にも立たん。
よく早飛脚で、親父殿に相談の書状を送ってきたが、内匠頭様を説得することもできぬ。
そこで、「内々に使うように…」と送った五百両も、藤井殿が殿に漏らしてしまい、また、親父殿が叱られる嵌めになったと聞いた。
普段は、武士道を説き、赤穂浅野の武勇を誇る者たちも、いざとなれば、この体たらくだ。だから、親父殿は、「よく、人を見ろ!」と俺に言い置いたのだろう。
俺は、親父の言葉を心にしまい込み、当座は必死になって荷物運びや雑用を熟していた。 国家老の嫡男が、雑用とは…。と言われるかも知れぬが、それもいた仕方ない。
城中には、小者では入れない場所が多いのだ。こういう場所は、身分の定まった者しか入れぬ。だからこそ、俺は、親父殿の側に仕え、同志のだれよりも大石内蔵助という男が理解できたのかも知れぬ。
数日間にわたった大議論の末、無事に収城使の点検と城引き渡しの手続きを終え、その軍勢を見送った。
もし、城明け渡しを拒めば、一戦を覚悟せねばならなかった。そうなれば、武士の一分は立つが、領内は混乱し、領民は塗炭の苦しみを味わうことになる。
国家老として、それだけはやってはならなかったのだ。
俺も相当に疲れていた。ほっとして家に戻ると、その晩から親父殿は高熱を出した。
既に城から赤穂の侍は全員立ち退き、龍野脇坂家の家臣たちが、その管理に当たっていた。もう、この城は、俺たちのものではないのだ。
寂しさもあったが、それより「終わった…」という意識の方が強かった。その直後から、侍たちは次々と荷を背負い、それぞれの立ち退き先に、旅立っていった。
俺たち家族は、屋敷から動こうにも動けず、医者を呼び、毎日看病に明け暮れた。その中心となったのが、もちろん母のりくである。
親父殿の病は、背中にできた「疔」という瘤が原因の発熱だった。背中を見ると、子供の握り拳くらいの大きな瘤が赤く腫れ上がり、痛々しかった。周囲も赤く炎症が広がっていた。熱は数日間続いた。親父の意識も熱のため朦朧としていることが多く、譫言を繰り返していた。
医者は、
「とにかく熱を下げよ!熱が下がらねば、死ぬるぞ」
と、俺たちは必死に患部を冷やし続けた。患部の炎症は酷く、すぐに濡れ手拭いも熱を持ってしまうため、家族みんなで交替で手拭いを交換した。それ以外にも薬草を煎じて背中に塗り、熱冷ましの薬も飲ませた。
そんな格闘の日が幾日か続いた。
城からも、使いの者が度々やって来たが、そんな親父殿の姿を見て諦めたのか、次第に来なくなった。
その間、後始末をしていたのが、大石家の親戚でもある小山源五左衛門殿、進藤源四郎殿たちだった。だから、親父殿はこの親戚の者たちが脱盟してもけっして責めるようなことはしなかった。と言うよりむしろ、積極的に脱けるよう進めた気配すらあったのだ。
この二人は、当初から親父殿に従い、家来たちをまとめる側にいた。親父殿はこの時四十二歳、進藤殿はこの時五十四歳、小山殿は五十三歳の分別のある年齢だった。
子供の頃からの交流もあり、親父殿は二人の意見を聞くことも多かったが、残念ながら仇討ちに関して二人と意見が一致することはなかった。
それに親父殿にとって、この二人は邪魔な存在でしかない。首領は大石内蔵助だ。しかし、高禄で大石家の親戚ともなれば、別の勢力に担がれないとも限らなかった。事実、あの安兵衛殿たち江戸の急進派は、煮え切らない親父殿を見限り、小山殿を首領にしようと画策したことがあった。
本当に単純思考の侍はおめでたい。ただ闇雲に吉良を狙い、上手く殺したとして、何があるのか。ただ、己の鬱憤が晴れるだけのことではないか。
恐らく江戸の人たちも、仇討ちと言うよりは、食い詰め浪人の強盗殺人くらいにしか思わぬだろう。天下の堀部安兵衛ともあろう御仁が、強盗殺人で斬首刑で満足なのか。
既に逃げ腰の小山殿を担いで、どうすると言うのか。情けない…。
しかし、この二人は、同志の意見が仇討ちにまとめると、その日のうちに脱盟した。ここに、大石内蔵助を首領とする同盟が結ばれることになった。
たぶん、親父殿は、逡巡している二人に、こう言ったに違いない。
「我々が皆で討ち入ってしまえば、大石家の跡はどうなる。お二人には、どうか、残された遺族や、大石家の名跡のために働いてもらえぬか…。仇討ちは、儂と息子の主税が行う。おふた方には、苦しかろうが、この内蔵助の私情だと思い、曲げてご了承願いたい」
そう言って、頭を下げたのだろう。こうしておけば、元々仇討ちなどする気もなかった二人は、一応武士の面目は立つ。
「内蔵助殿が存念、しかと承った。儂らは、恥を忍んで脱盟し、後のことを算段するとしよう」
こうして仇討ちには不要な二人を切ったのだ。親父殿の読み通り、律儀な二人は、仇討ち後も連絡を取り合い、遺族たちの面倒をよく見たようだ。
人間、適材適所。よう心得たものだ。
そうそう、親父殿の病のことであった。
疔を患った親父殿は、高熱に魘され三日三晩苦しみ抜いた。一時は、死を覚悟したようだった。その時だ、俺を枕元に呼ぶと、こう囁いた。
「儂が死ねば、すべては終わる。それならそれでよい。おまえは、けっして動くでない…」
「後のことは、忠左右衛門に聞くがよい」
「おまえは、ここを動かず、万が一の場合は、りくの実家を頼れ。但馬豊岡の石束毎公殿は、すべてを承知されておる。おぬしのことも万事うまく取り計らってくれるはずだ…」
「よいか、松之丞、軽挙妄動はならぬ…」
そう言って、深いため息を吐くと、また眠ってしまった。それは、どういう意味だったかは、その時は、よくわからなかったが、そこに親父殿の真意があったのだろう。
その後、親父殿の疔の腫れも次第に収まり、十日ほどで快癒した。
この話は、健康を取り戻した親父殿に確かめることもできず、そのままになってしまった。
俺が、親父殿の真の目的に気づいたのは、実は討ち入り後に、泉岳寺で休養を取っていたときのことだった。
三時間近くにも渡る壮絶な戦いが終わり、泉岳寺の広間で銘々が武装を解き、傷の手当てをしながら休んでいた。
寺側も親切にもてなしてくれた。
近松勘六殿だけが、深手を負い、駕籠で泉岳寺まで辿り着いていた。勘六殿は、三十三歳。我々同志の中核を為す強者であった。やはり山鹿素行先生の門弟で、最初から親父殿に同心して行動を共にされていた。
当日は、表門隊に属して屋外の守りにつき、屋内から飛び出してきた吉良侍と激しく斬り結んだ。数人をなぎ倒したところで、若い二刀流の遣い手と対峙し、池にかけられた石橋の上で足を取られ泉水に叩き落された。
そのまま刺されるところを、味方に救われたということであった。
しかし、それにしても赤穂有数の遣い手に深手を負わせるとは、なかなかの相手だったと語っていた。
勘六殿は、左の太股に傷を負っており、歩行に苦しんでいたが、家僕の甚三郎が、泉岳寺まで付き添っていたので、心強かったであろう。
勘六殿もよいご家来をお持ちだ…。
泉岳寺では、粥の接待の他にも、熱い湯や甘い菓子、火鉢や着替えの襦袢まで用意してくれた。
場合によっては、罪人になろうという俺たちに、親切にしてくれたのも、大石家が代々泉岳寺に多額な寄進をしてきた謂われがあったからだった。
俺の周りには、裏門隊の面々が銘々で車座になって座っておった。
すると、気持ちが緩んだのか、吉田殿が、「ああ、これで大石様もご公儀に一矢報いることができましたな…」
と呟くのを俺は聞き逃さなかった。
「公儀に一矢報いる…?」
体は疲れてはいたが、「公儀に一矢報いる」とは何だ?
俺は、眦を上げて吉田忠左右衛門殿を見た。
吉田殿は、「おっ…」という顔をして周囲を見渡していたが、一瞬、俺と眼が合った。
俺も咄嗟に顔を伏せ、居眠りしている風情を装った。
やはり、吉田殿は狼狽えておる。
そうか、やはり親父殿の宿敵は、吉良様などではない。だから、吉良様の最期の時に、あんな言葉を吐いたのだ。
「…。我らは赤穂浅野の旧臣。少将殿に恨みはござらねど、主、内匠頭の鬱憤を晴らさんと、本日罷り越し申した。これも、武士の習いとお覚悟召されい!」
確かに、親父はそう言った。
「少将殿に恨みはござらん」と…。
宿敵を前に「恨みはない」となれば、何のための仇討ちであったのか。その後、親父殿はこう付け加えた。
「これも、武士の習い」と…。
つまり、不調法をしたのは、主君内匠頭で吉良には落ち度はなかった…と言うことか。
だから、吉良を恨む筋はないということなのか…。やはり、そうだったのか。
しかし、その裁定に問題があったのだ。
そして、その問題を起こしたのは、慢心した公儀と柳沢吉保。そして一時の感情で即日切腹を命じた徳川綱吉なのだ。
だから、親父殿は命を懸けた「抗議」を仕掛けたのだ。
それが、あの瞬間、納得できたからこそ、吉良様は、苦しい体を起こして、泰然と首を刎ねられたに違いない。あの時、吉良様は、狼狽えることなく着物の乱れを正し、雪の上に泰然とした風で正座をされた。
そして、最後に放った言葉は、高家肝煎り、
従四位上、左近衛権少将様の威厳のある言葉だった。
「そなたが、大石内蔵助か…。なるほど、確かにその方が道理じゃ。儂とて武家である。いざ、首を刎ねられよ…」
そう言って、従容として首を差し出したのだ。その高潔さ、凜とした佇まいに俺たちは息を飲んだ。
あの時、だれもが、あの噂が真実でないことを悟ったはずだ。それが真実だったのだ。 吉良様は、確かに「その方が道理じゃ!」と言った。その道理とは何か。それは、親父殿が言った「恨み」などという、ちっぽけな理由ではなく、驕り高ぶった大公儀に対する武士全体の抗議の声だったのだ。
それは、浅野も吉良も、大石もない。日本の侍たち全員の声なのだ。だから、この仇討ちは必要だったのだ。
「武士とは、正義と仁の実践者でなければならぬ」とは、山鹿流の理である。これなくして、武士という存在意義はない。
あの刃傷が正義であったかどうかは、置かれた立場によって異なるであろう。しかし、その後の処断は別だ。
公儀も柳沢殿も、将軍家も同じ武士として、「正義と仁」に基づいた処断であったのか。それを親父殿も、吉良様も問おうとしておるのだ。
己の立場や感情に任せて、長年忠義を貫いてきた侍を、碌な取り調べもせず、原因もわからぬまま一方的に処断した。
そして、世論が一方に偏れば、それに易々と与し、衆に迎合するような態度が、武士の頭領たるべき公儀の有り様でよいのか。正義と仁の実践者であろうとするのは、愚かだと言いたいのか。
立場や身分こそ違え、こんな最後の最後に、親父殿と吉良様は、武士としての心を通い合わせることができたのであろう。
そんな武士の「道理」に拘る二人に、本物の侍を見たような気がしていた。
そうか…、吉良様は納得されて首を刎ねられたのか…。それは見事な最期であった。
しかし、それに気づいた者は、間もなくすべて死に絶える。いや、一人だけ生き残った者がおる。公儀側用人柳沢吉保、その人だ。 柳沢は、内匠頭様の阻喪を吉良様の追い落としの材料にしようと企んだ。だからこそ、吉良邸討ち入りの邪魔をしようとはせなんだ。 大石が失敗しようが、成功しようが、柳沢個人には何の影響もない。それより、上手くいけば、吉良を永遠に葬り去ることができる。
そして、吉良様の子である上杉綱憲が動けば、妄りに兵を動かした廉で、名門上杉十五万石を取り潰すことだって考えたはずだ。
そう考えたとしたら、本当に腹黒い男だ。
しかし、親父は、柳沢なんぞより二枚も三枚も上手だった。
今、巷では、俺たち同志を「赤穂義士」と呼んで賞賛の嵐らしい。将軍家も助命に動くべきか、死を命じるか迷っているとの話も聞く。いずれ、この事件は尾鰭がついて、芝居や読み物にもなることだろう。
親父殿の全国に張り巡らせた情報網は、既に大野九郎兵衛殿が、しっかり握っておる。 大坂の商人も最後まで支援体勢を崩さなかった。商人にも商人の意地も道もあるのだ。
この生き残った者たちが、親父殿の意思を受け継いでいくことだろう。
それは、今後、公儀が権力を以て、どれだけ取り締まろうともけっして消えはしない。何十年、何百年経とうが、人々の記憶から消えることはないのだ。だから、俺たちは堂々と死んで見せねばならん。
そう言えば、親父殿は討ち入りに備えて江戸に出てきたとき、俺を連れて、儒学者の荻生徂徠先生を訪ねたことがあった。
当時、徂徠先生は、確か柳沢吉保の客分として扱われ、相談役になっていたはずだった。 親父殿にしてみれば、恩師山鹿素行先生の門人の立場で、同じ儒学者の徂徠先生にご挨拶をしたと言うことだろう。
それに二人は初対面ではない。まだ、家老見習いの時分、江戸に修行に出ていた頃、素行先生からの紹介状を持って、徂徠先生の塾を訪ねたことがあったと言っていた。
その時、赤穂浅野家の国家老であった祖父良欽の話題となり、長直公、良欽、素行先生と、武士道に深い造詣を持つ三人がおられる浅野家を羨ましがっていたとのことだった。
徂徠先生は、その後、江戸で有名な学者となり、多忙を極めていたが、赤穂とは文のやり取りは続いていたようだ。
親父殿は、律儀な男だ。きっと、その縁を大切にして、赤穂の名産などを進物として贈っていたに違いない。徂徠先生が世に出るまでは、きっと内々で援助をしていたと見た。
我々が、徂徠先生のご自宅を訪ねると、来客が多く、多忙な様子ではあったが、「赤穂の大石…」と名乗ると、他の客を追い返し、すぐさま客間に通されたことからも、よくわかる。
俺は、簡単な挨拶をすませると、親父殿から控えているように命じられ、別室で茶を啜っておった。故に、その時、二人で何を話し合ったかはわからないが、儒教の神髄を語る素行先生とと徂徠先生には、共通する思想があったはずだ。だからこそ、その薫陶を受けた親父殿は、徂徠先生を訪ね、己の存念を話したのであろう。
もちろん、何かにたとえて尋ねるのが常道である。それで、徂徠先生は何かに気づかれた。そうとしか、考えられない。
そして、これは想像でしかないが、将軍家や儒学者の林鳳岡、そして武士を裁く評定所までもが俺たちの助命に傾く中で、一人荻生徂徠先生だけは最後まで「切腹論」を主張したそうだ。
柳沢吉保も、将軍徳川綱吉公のご下問に、さすがに返答に困り、客分として遇していた徂徠先生を自宅に招き、意見を聞いたそうだ。
すると先生は、
「武士としては、主君の仇を奉じるという武士道の本義を貫いた者たちである」
と行動を認めつつ、
「しかしながら、幕藩体制が整った泰平の世に、浪人共が、主君の仇を奉じると称して徒党を組み、許可なく、高家肝煎りの要職にあった吉良上野介殿を、その屋敷に押し入り、理不尽にも討ち取るとは、言語道断。法に照らして厳しい処分を下さねばなりませぬ!」
と言い切った。
そこで、
「侍の情としては忍びないが、法と理に適わぬ行為として、これを罰するがよいと考える。それには、武士の面目が立つよう、大名家での切腹を申しつけるのが、適当と存ずる」
「そうすれば、助命を願う者たちの気持ちを汲むことにもなり、未来永劫、赤穂の浪人共は、武士道の華と称されましょう」
「この武士道を守ることこそ、徳川家盤石の基礎でござりますれば、切腹の後、将軍家自らが、天晴れの者共と褒めてやっては如何か…」
「そして、武士道とは、正義と仁の実践者でなければならぬと、もう一度、将軍家自らが、各大名共に、お命じくだされ!」
そう言うと、徂徠先生は深々と柳沢に頭を下げ、顔を見ずに立ち去ったと言う。
きっと、吉保の顔は青ざめ、背中には冷や汗が流れていたことだろう。
そして、この「情理一体論」が、公儀を動かすことになった。
親父殿は、実際は公儀という真っ白な雪を、土足で踏みにじる暴挙に出ながら、武士の道理を説き、面目を勝ち取ったのである。
一見、吉良様や赤穂浪士の負けのように見えるが、本当の敗北感に苛まれたのは、柳沢吉保本人であった。
柳沢は、この後、早まった処断の責任を問われることはなかった。しかし、独善的で絶対君主のように振る舞った姿は、これ以降、見せなくなったそうだ。
あの男の権力も、間もなく失われるであろう。
将軍綱吉公も、
「あの時、内匠頭に即日切腹申しつけなければ、こんな事件は起こらなかったやも知れぬな…」
と、皮肉めいた口調で柳沢に呟いたそうだ。
吉保にしてみれば、「切腹じゃ!」と厳命したのは、だれであったか。上様ではないか…。と愚痴って見せたが、後の祭りとなった。
この後、赤穂浪士の討ち入り事件は、浄瑠璃や歌舞伎に受け継がれ「忠臣蔵」として、数百年後の世にまで伝えられることになった。
そして、赤穂浪士、いや大石内蔵助の武士道は、全国の武士たちの心に刻み込まれ、それから百七十年後に徳川幕府が倒される原因のひとつとなった。
第六章 残る言の葉
親父殿は、討ち入りが決まると、母りくを離縁した。これは、罪が家族一統にまで及ばないようにするための措置だったが、珍しく母が抵抗を示した。
母上は、必死に親父殿に訴えた。
「なぜですか、なぜ別れねばならぬのですか。私は、貴方様が罪を得て、それに連座しようとも構いませぬ。今、ここで死ねと申されれば、死ぬ覚悟はできております。何とぞ、離縁だけは、為されませぬよう…」
そう言って必死に懇願したが、親父殿はそれを許さなかった。しかし、母をこう諭したのだった。
「許せ、りく。これは、儂の我が儘じゃ。儂の我が儘で、多くの同志を道連れにせねばならぬ。その仲間とて、妻も子もある身じゃ。儂は、何という恐ろしいことをするのだと自分を呪いもした。その上、おまえから主税も奪っていくのじゃ。すまぬ。許してくれとは申さぬ。なれど、武門の倣いなのじゃ。儂は、武士として死なねばならぬのじゃ…」
俺は、こんなに取り乱した親父殿や母上を
見たことがなかった。妹のくうやるりも涙を流して泣いておる。俺の隣で吉千代も泣き崩れておった。しかし、俺は、それを必死に堪えて耐えた。泣いてはならぬ。泣いてはならぬと耐えた。俺まで泣いたら、親父殿の覚悟が鈍る。噛んだ唇が切れて、血が滲んだ。それでも、吉良を倒すまで俺は泣かん。俺は、金輪際泣かぬと誓ったのだ。
こうして、その夜は更けていった。
親父殿にとっても、生涯で一番辛い夜になったかも知れなかった。
それからの親父殿は、もう笑顔を見せることはなくなった。いつも能面にように感情を表さず、何者かに取り憑かれたかのように、ひたすら討ち入りの成功だけを見詰めていた。
数日後、母は、妹のくう、るり、弟の吉千代を連れ実家の但馬豊岡の里に帰ることになった。
くうは、しっかり者の妹で、昔は俺とも喧嘩をすることもあったが、浅野家が改易になってからは、母をよく手伝い、俺にも優しい妹だった。るりは、まだ幼女で何が起きたのかわからなかったと思う。えくぼの可愛い妹だったが、俺との別れが寂しかったのか、兄上、兄上と、いつも俺を探しておった。
そして、吉千代は、もうものの分別がわかる歳になっていたので、俺が同志に加わると聞いて、「私も行きとうございます!」と、何度も親父殿に食い下がったが、さすがに元服もできない少年を連れて行くこともできず、親父殿は、
「よいか、吉千代。おまえの覚悟はようわかる。しかし、主税が出て、おまえまで出てしまえば、この大石家はどうなる?」
「よいか、もう儂や兄のことは死んだものと考えよ。おまえが、大石家の跡取りじゃ。よいな、大石家を、母上や妹たちを頼んだぞ」
そんな風に諭しておった。
俺は、そんな吉千代が不憫でならなかった。 俺は、親父殿の決意もわかったし、この仇討ちの意味もわかったような気がしていた。だから、自分から志願もしたのだ。しかし、吉千代は違う。寂しいのだ。男として一人前に扱ってもらえぬ己が悔しいのだ。
しかし、そんなもののために、命を捨ててはならぬ。そう思い、俺は自分の大切にしていた剣術の道具と数冊の本を吉千代に譲った。
「なあ、吉千代。これは儂が愛用した道具と本じゃ。そちに譲る故、しっかり稽古をして勉強せい。そして、いずれの日か、また大石家を再興してほしい…」
そう言って、磨き上げた剣術の道具と愛読した素行先生の書籍を吉千代に手渡した。
それが、俺たち兄弟の別れの儀式となった。
出立の朝、親父殿は改めて、俺を呼んだ。
数日前に、俺は親父殿に呼ばれ、母上たちを但馬豊岡まで送るよう命じられていた。
「よいか、主税。済まぬが気をつけて参れ。 豊岡の毎公殿や毎明殿には、よく頼んであるでな…」
但馬豊岡までは、子供連れなので五日ほどかかる。俺一人なら三日で歩けるが、くうやるりもいるので、そうは急げぬ。いつも手伝いに来てくれている手伝いの吾作をお供に頼んだ。
さあ、いよいよ出発である。
もう母上も涙も見せず、淡々と別れの挨拶を述べた。
親父殿は、もう一度、俺を呼ぶと、
「じゃあ、主税。気をつけて行って参れ。無事に…頼んだぞ」
俺の眼を見て、そう注意を促した。
「はい、畏まりました。往きに五日、帰りに三日として八日で戻って参ります」
と言うと、親父殿は驚いたように、
「おい、主税、何を申すか。もそっと、ゆっくり参れ。十日ほどかけて戻ってくればよい。それは、そうとこれはお主の路銀じゃ、取っておけ」
そう言って、新たに十両の金の包みを渡された。既に路銀は母上から戴いてある。それに十両と言えば大金。慌てて返そうとすると、「よいよい、いいか主税。もうこの先、ゆっくりする暇はないのだぞ。母と最後の別れじゃ。心するようにな…」
そう言って俺の肩を優しく叩いた。
確かに、親父殿の言うとおりじゃ。親父殿が母上と離婚したということは、もう縁を切ったということになる。それに、江戸に出れば、ここに戻ってくることはあるまい。そう思い、俺は、有り難くいただくことにした。
懐の金子が重く、持ち慣れぬ大金で少し戸惑ったが、これで覚悟も決まろうというものだ…と気持ちを切り替えることにした。
母上は、先日のことはなかったかのように、武家の妻らしく、親父殿に丁寧に挨拶をしたが、親父殿は恥ずかしいのか、あっさりしたものだった。
「うん。りく殿、お世話になり申した。子供らの行く末、頼みいる。豊岡の義父殿にもよろしくお伝えくだされ」
言葉を改めて、そう言うと、くう、るり、吉千代の頭を撫で「達者で暮らせ…」と笑顔を見せた。そして、最後に大声で「さらばじゃ!」ときっぱりと言い放った。それが、親父殿の家族との永遠の別れであった。
その日から五日間は、本当にゆっくりした旅だった。俺も親父殿にもらった路銀があったので、あちらこちらに寄り、兄弟姉妹と最後の時を過ごした。茶店に立ち寄っては団子を食い、汁粉を食べ、美しい風景を見れば、立ち止まってゆっくりと眺め、本当に笑い声の絶えない旅となった。
予定どおり、豊岡には五日目の昼には到着した。屋敷には、祖父の石束毎公殿と祖母のしづ様が待っていた。
「おう、松之丞、いや主税殿、よう参られた」 顔を綻ばせて、待っていてくれる姿は、これからの大事を心配している風でもあった。 俺は、吾作から荷物を受け取ると、大役が無事に済んだ面持ちで、「ふーっ…」と大きなため息を吐いた。吾作は、石束家の家僕に案内されて長屋の方行きかけたので、
「おい、吾作さん。明日は五つには発つでな…。用意を頼みます」
と声をかけた。吾作も、既に承知のことで、
「はい、畏まりました」
と頷き、家僕と話ながら長屋に去って行った。
と、そんな会話が聞こえたのか、祖父の毎公殿が、
「なんだ、主税殿。もう戻られるのか?」
と尋ねるので、
「はい。私共も、そろそろ準備にかからねばなりませぬので…」
と頭を下げると、合点がいったのか、それ以上声をかけて引き留めることはなかった。
夜には石束家の家督を継いだ毎明殿も参られ、楽しい宴となった。弟や妹たちは疲れが出たのか、風呂に入り早く床についていた。
俺も眠くはあったが、これが最後の別れかと思うと名残惜しく、話は尽きなかった。
豊岡の石束家は、京極家三万五千石の筆頭家老である。毎明殿も親父同様、藩の財政を一手に握り、藩政改革を進めているとのことであった。
それでも話題は、赤穂城の引き渡しのことや、今後の身の振り方など、縁者としての心配は尽きないようだった。
しかし、この二人は、既に親父殿に仇討ちの存念があることは承知していた。そうでなければ、母のりくを里に帰らせる訳がなかったからである。
夜も更け、話は尽きぬところではあったが、祖母の計らいで広間に大石家、皆の床を敷いておいてくれた。
家族五人で枕を並べて寝るなど、初めてのことであった。母の右隣には、るりとくう。反対側には、俺、吉千代となった。
俺は、母の隣で寝たことは幼い頃しかなく、気恥ずかしかったが、祖母がどうしても、そうしなさい…との仰せもあり、始めて母上の隣で寝かせていただいた。
母上とは、寝ながら、取り留めもない話をしていたが、そのうち母上の寝息が聞こえるようになった。しかし、俺はなぜか、眠ることができなかった。眠るのが惜しいという訳でもなかったが、この時間を大切にしたと思っていた。
すると、その替わりのように、自然と涙が流れてきた。
俺は、何が悲しいのではない。別れるのが辛いのでもない。そんなことは、とっくに覚悟を決めていたし、泣くことはせぬと決めておった。にも関わらず、涙だけが勝手に流れ出してくる。それは、俺の力でどうなるものでもなかった。
母上も寝ている。この涙に気づく者はおらぬだろう。そう思い、涙を拭うこともしなかった。
灯りを落とした暗い天井を見ていると、様々なことが思い出される。そして、自分の行く末を考えた。
そんな中で、母を思い、弟妹たちを思った。大好きだった加代や、遊郭の小梅の顔も出てきた。それは、皆、笑顔で、穏やかな楽しい日々の思い出であった。
そして、俺たちの行動は、皆に迷惑をかけぬのだろうか。特に、吉千代は大丈夫だろうか。大石家は、存続できるのだろうか。そんな心配が次々と脳裏に浮かんでは消えた。
死んでいく俺や親父殿はいい。しかし、残された者たちが不幸になるのでは、俺の死が徒になってしまう。
俺は、たとえこの身が滅んだとしても、この者たちを護りたい。そのための討ち入りであり、俺の死だと心に誓うのだった。
すると、隣にいる母の匂いがふっと俺の鼻腔に入ってきた。
母上がこちらを向いている。
懐かしい母上の匂いだ。もう、すっかり忘れていたが、何と言おうが、母上の匂いに間違いない。ああ、もっと嗅いでいたい。それに、もう、この匂いを嗅ぐことは二度とあるまい。
そんなことを考えていると、不意に、「松之丞…」という母上の声が聞こえた。
もう寝たと思っていた母上の声だ。
「松之丞、こちらにお出でなさい…」
そう言うと、暗がりの中で布団を捲り、俺を誘ってくれた。俺は、少し恥ずかしかったが、それよりも母上に抱かれたかった。
母上は、俺を愛おしそうに抱きしめると、何も言葉を発しなかった。
俺も無言で母上の胸に自分の顔を埋めた。しばらく、そうしていたであろうか。気が遠くなりそうな心地よさの中で、懐かしい子守歌を聴いた。その声は、途切れ途切れで、声が詰まり、上手くはなかったが、生まれて初めて人の子としての幸せを味わったような気がしていた。
隣の居間では、祖母のしづ様が、嗚咽を漏らしながら泣いておった。しづ様は、最後に母と子の本当の別れをさせてやりたかったのだ。それは、女親にしかわからない感情であったろう。有り難い…。お祖母様、本当にお世話になり申した。
朝を迎えると、母上は既に朝餉の用意に台所に立っており、味噌汁のいい香りが屋敷中に充満していた。
朝食が済むと、祖父の毎公殿が、短冊を俺に示し、何かを書くように促した。俺は、何も考えず徐に筆を取って、思いのままを書いて残してきた。
その歌を、母上は、弟や妹はどのような気持ちで読むのだろうか。山科への帰り道、俺はそんなことを考えていた。
「あふ時は 語り尽くすと思へども 別れとなれば 残る言の葉」
この一首以外に、俺は何も残してはいない。遺書も書かなんだ。所詮、己の気持ちなど、己でわかるはずもない。その時は、様々な思いが去来するが、それは、その時一瞬の感情であり、永遠の思いではないのだ。
そう思うと、俺は、この一首で十分な気がしていた。
俺は、この一首と母の温もりを思い出に、戦うのみだ。
俺の話はここまでだ。
もう、あれからどのくらい経ったのだろうか。長い長い時を過ごしたようだ。
ただ、もう伝説は終わりにしてもらいたい。真実は、物語ではない。そこには、人には聞かせられない悩みや葛藤もある。そろそろ、俺も別の人生を生きてみたいのだ。
親父殿?
あの日以来、会うこともなかった。それは、会いたいとか、会いたくないとかといった感情ではない。それが人の死というものであろう。
人は死によって前世と決別するのじゃ。
そろそろ、俺も大石主税を忘れ、次の人生を歩まねばならぬのでな…。これで終いじゃ。
最終章 忠臣蔵伝説
主税が予想していたとおり、赤穂浪士の伝説は、江戸の町で喝采を浴びるほどの人気となっていった。江戸幕府は、次々とお触れを出し、町人、百姓にも質素倹約を勧め、武士と同じ価値観を要求するようになっていった。
赤穂浪士を描いた「忠臣蔵」も、見方によっては公儀批判と見ることもできる。それを必死になって取り締まろうとする武士たちは、町衆から見れば、滑稽でしかない。
江戸でも大坂でも、質素倹約や贅沢禁止令が頻繁に出されたが、人は少しでも旨い物を喰い、面白い物を見、楽しく暮らしたいと願うものだ。それを禁じたところで、末端の役人自らが、裏で、うなぎを喰っておるではないか。
泰平の世とは、そもそも、そういった人間の楽しみを享受したいという欲求から生まれたのではないのか。幕府を開いた家康は、天下万民を武士にしようなどとは、考えてもおるまい。
武士が天下を治めるとは、領民が豊かに楽しく暮らせる社会を創ることなのだ。
武士道は、武士にのみわかる道でよい。だから、人の上に立てるのだ。こんな理屈もわからなくなった幕府は、既に崩壊の道を辿っていた。
それにしても、大石内蔵助のような経済感覚に優れた武士は、幕府体勢では、なかなか登用されず、幕府の施策は常に年貢ありきの緊縮統制でしかない。
徳川家康は、朱子学を幕府の学問として奨励したが、理想だけを追求したような儒教思想では、現実の社会をまとめることはできなかった。
唯一、後に登場してくる田沼意次という老中だけが経済を理解していた。限りある金を少しずつ使うのではなく、商人のように、金を運用することさえできれば、日本は世界有数の経済国家として発展していくことができたであろう。
田沼意次の政治は長くは続かなかった。
多くの武士は、儒教的な教義に凝り固まり、金銭を穢れた物として見る習慣があった。
だから、内匠頭の刃傷事件の時も、担当老中は、「質素でよい」「贅沢はするな」と内匠頭に申しつけたのだ。
本音では、「いくら金をかけてもよい。公儀に恥をかかせるなよ」と言いたいのだが、武士の建前上、「よい、よい」と抑えるのが上に立つ者の心得であった。
だから、田沼意次が、金銭を有効に使う経済政策を行おうとすると、穢れたものを見るかのように、田沼政治を貶め、「賄賂政治」という誹謗中傷で、政治の中枢から蹴落としたのだ。
田沼の政治は、公金を公儀の勘定方が商人に預け、それを運用して元金を増やす。そして、江戸城の金蔵を豊かにしようとする、徳川家にとって有り難い話だった。そして、それが成功すれば、各藩の経済活動は、あの時の赤穂のように活発になり、日本国全体が豊かになるはずだった。
そうすれば、明治維新も起こらず、日本は堂々と国際社会に門戸を開くことができたのだ。
結局は、いつも儒教的な正義を振りかざす施政者が登場し、失敗を繰り返した。そして、三百年続いた徳川幕府は崩壊したのである。
大石内蔵助という男は、経験的に金の運用の仕方や人間の弱さを熟知した、日本史上希な戦略家だった。
もし、あの時、公儀が大石という人間を見抜き、経済官僚として幕府に召し抱えていたらどうなったであろう。あり得ない話だが、柳沢吉保の敵として、その前に大きく立ちはだかったことは、間違いない。実際に対峙してみて、そんな恐れを、柳沢は感じていたのかも知れない。
大石内蔵助は、首を打たれ社会から葬り去られたが、その思想は永遠のものとなった。そして、内蔵助の予言通り、吉良上野介は、史上希に見る悪人となった。そして、年末には、「忠臣蔵」が、今でも全国のどこかで演じられている。
庶民という者は、こうしたあり得ない勧善懲悪を望み、日頃の鬱憤を晴らす手段としているのだ。
現実の世界では許されない設定でも、芝居なら可能にすることができる。統制する側も統制される側も、忠臣蔵を見ては涙を流した。人の心とは、そういうものなのだ。
大石家は、残念ながら内蔵助や主税の思うような結果にはならなかった。
吉千代とくうは、父や兄たちの義挙の後、間もなく病を得て亡くなった。
吉千代は、石束毎公殿によって、僧にまでなって赦免される日を待ったが、願い適わず還俗しないまま十九歳で亡くなってしまった。
それでも死ぬ間際、りくに、
「母上、申し訳ありませぬ。それでも兄上より少しだけ長生きできました…」
と泣いて詫びたそうだ。
吉千代は、僧となっても、山鹿素行を愛読し、暇を見ては剣を振っていたそうだ。もう一度、大石家の再興を願い、無念の思いで死んでいったのだろう。
主税の妹のくうは、内蔵助や主税の死が相当に堪えたようだった。それでも気丈に振る舞っていたが、切腹した年の冬、肺病を患い、年明けには死んでしまった。まったく加代の死と同じだった。わずか十五年の生涯であった。
残されたるりだけは、成人し、浅野本家の重臣の家に嫁いだ。あの可愛いえくぼは、終生変わらなかったそうだ。
母のりくも、るりを真から頼り、二人になると内蔵助や主税、くう、吉千代の話となり、あの豊岡への旅の思い出が語られることが多かった。
そして、表に出ると、この二人から、赤穂時代の話が出ることは、けっしてなかったそうだ。
そう言えば、りくのお腹の中には、内蔵助の子供がいた。父や兄、姉の顔も知らない弟だった。
あの夜、主税は、母に抱かれながら気づいていたのだろうか。恐らく、それはない。
りくは内蔵助にも話さなかったのかも知れない。
りくは、内蔵助の忘れ形見を大切に育てたが、大三郎と名付けられたその子は、長じても父や兄の名前に勝つことはできなかった。浅野本家に一千五百石という、父と同じ石高で召し抱えられたが、自分を見失い失意の中で生きた。それは、けっして誇れる生き方ではなかった。
常に「赤穂義士の子」とか、「あの大石内蔵助殿の遺児」だとか、「主税様の弟」という声は、大三郎には、受け止められなかった。
仕事も家庭もうまくいかず、りくからは、嘆きの言葉しか出てこない。
内蔵助も主税も、大きな負の遺産を残してしまった。
りくは、その大三郎と共に広島で生きたが、死ぬその時まで、主税の面影を追っていたと伝えられている。それを知った大三郎は、どんな思いがしたのだろうか。
りくは、六十八年の生涯を広島で終えた。亡くなるそのときまで、手元に置かれた文箱には、我が子、主税の「言の葉」の短冊が古びた和紙に丁寧にくるまれ、主税が書いたとき、そのままに残されていた。後、何故かは分からないが、短冊の側には、古びた錦の小さな「匂い袋」があったそうな。それは、よく見ると少しだけ血がついた跡があり、一カ所だけが色褪せ、布が綻んでいたという。そして、包まれた和紙には、ところどころに涙の跡が染みとなって滲んでいた。
最後に残されたるりは、その短冊と匂い袋を眺めながら、母の思いを一人噛みしめていた。そして、るりもあの豊岡への最後の旅を、生涯、懐かしむのだった。
完
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