老人の独り言12「子供の未来」にもの申す。

今の日本の子供たちは、本当に幸せなのでしょうか。よく、日本の子供は、「衣食住」が足りて平和な時代に生きているのだから「幸せ」だろう…と言いますが、社会の現状を見ていると、最近の日本の大人たちの多くは、「子供」に関心を失っているような気がします。確かに、私たちが子供時代を過ごした「昭和中期」から「後期」は、子供の数も多く、敗戦からの「復興」を目指して社会が成長していた時代ですから、社会が忙しなく動いており、子供心にも「大事にされている…」といった実感はありませんでした。どちらかというと「子供は大人の言うことを聞いていればいい…」といった扱いで、子供は「子供だけの世界」を築いていたのです。それでも、学校に行けば大勢の仲間がいて、ワイワイ、ガヤガヤと騒ぎながら遊んでいたことを思い出します。当時の遊びは、やはり「外遊び」中心で、家の中で遊んでいると親たちから「子供のくせに、外で遊んで来い!」と叱られたものです。家も粗末で、いわゆる「長屋」式の住宅がたくさんありました。そこで、大勢の仲間と過ごすうちに「いいこと」も「悪いこと」も学んだのです。もちろん、「悪いこと」と言っても、「いたずら」程度の悪さですが、それも「遊び」のうちでした。

その中では、子供同士の「いじめ」もあり、いじめっ子に泣かされている子も多く、私もその両方を経験してきました。「いじめ」ているときは、大して気にもせずに「嫌味」を言ったり、「仲間はずれ」にしたりしていましたが、今考えれば、可哀想なことをしたと思います。逆に自分が「いじめ」られたときは、悔しさが先に立ち「いつか、見てろよ…」と物陰で泣いたことを覚えています。そんな経験があるからこそ、「負けるものか!」という反骨精神みたいなものが育ったのでしょう。やはり「悔しい」という思いが、人間を鍛えるのです。それに、大人は「あてにならない」存在で、親や教師を頼っても話が拗れるだけで解決した例しがありませんでした。今と違って子供の「喧嘩」なんかに大人が関わっている暇もありませんから、話を聞いたところで「説教」を喰らうのがせいぜいで、親身になってくれるのは友だちだけです。そのうち「負けん気」が表に出るようになると、いじめられることもなくなり、心に余裕が生まれてくると、人に優しくなれたような気がします。

昭和後期は、まさに「高度経済成長期」で、世の中は、「平和」な時代を謳歌していました。もちろん、戦争世代が創り上げた「新生日本」でしたから、大人たちは夢中になって働きました。それは「戦後復興」という「大義」があっただけでなく、戦時中の「鬱憤」を、働くことで晴らしていたのかも知れません。中には、やさぐれて自堕落な生活に墜ちた人もいたと思いますが、家族の元に無事に帰還した元兵隊たちにとって、「平和」と「愛する家族」は何よりもかけがいのない「宝」のように感じていたのでしょう。それは「死線」を潜り抜けてきた人間にしかわからない心理だろうと思います。その上、昭和25年に勃発した「朝鮮戦争」は、日本の「産業」を飛躍的に向上させ、それまでの極貧生活から脱することができました。まさに「天佑」です。他国の不幸を「天佑」と呼ぶのも如何なものかと思いますが、当時の心境としては国民みんなが「ホッ…!」とひと息吐けたのも事実なのです。

それから先の日本は、戦前よりも「工業」が盛んになり「労働力」はいくらあっても足りないくらいになりました。それに、たとえ、中卒で働いても長く勤めればそれなりの「出世」が約束され、生活が安定してきました。まじめに働けば、給料が「右肩上がり」に増えて行くのですから「夢」があります。働くことが「お金」に換えられることを知った大人たちは、一生懸命働くと同時に「遊び」もそれなりに楽しみました。そのころは、公営ギャンブルの他にも子供の知らない世界があり、近くの外国などに出かけては、大金を使った話などが漏れ聞こえてきましたので、「労働=金=遊び」という方程式ができていたと思います。それに対して女性たちは「家庭を守る」「子育てをする」といった昔からの価値観に縛られ、「良妻賢母」が求められてもいたのです。そのうち、アメリカから「ウーマン・リブ」の思想が入って来て「女性の権利」が叫ばれるようになりましたが、それも一時のブームみたいなもので、母親たちの関心は、やはり「夫の出世」と「子供の進学」「マイホーム」でした。そんな中で、「子供の教育」に関心を向ける人が増えてくると、日本は一気に「学歴社会」へと変貌していきました。それが、きっと「豊かさ」の象徴だったのでしょう。そして、その新しく創られた「文化」が、今の日本の基になっているのですが、それが、ここにきて「破綻」しようとしています。そのこと自体は好ましいことではないのかも知れませんが、依然とした「旧体制」が生き残る道はありません。「産みの苦しみ」という言い方がありますが、そこに、これまでとは違う「未来像」があるのではないでしょうか。

1 「無責任体質」になった大人たち

「令和」という時代を迎えて、日本が「凋落」傾向にあるのは、「昭和・戦後・高度経済成長」という「成功体験」の呪縛から国民が逃れないでいるからに他なりません。今の政府の仕事ぶりを見ていても、「根回し」や「忖度」「派閥」などの「日本式経営」に縛られ、思い切った「新しい選択」ができないでいるのは明らかです。政治家たちも、常に「派閥」の論理にしたがって動いているために、選ぶべきではない「大臣」を任命しては不祥事が暴かれ、首相を苦しめています。企業も、バブル崩壊後の緊急避難措置として行った「内部留保」という「設けた資金を貯め込む」方式から抜け出せず、社員の賃金が上がらず、国内に「お金」が回らなくなってしまいました。いくら、海外に投資しても国内需要が冷え込めば、経済が活性化しないことは素人でもわかります。何十年も労働者の「賃金」が上がらず、雇用も安い労働力に頼るだけの「経営」では、いずれ「じり貧」になるのは眼に見えていたはずです。それでも「お雇い経営者」たちは、「自分の責任じゃない…」と嘯き、さっさと経営から身を引けば、「雇われ会社」など関係ありません。結局、そうした「自己愛」の経営をしているから会社が破綻するのですが、この「無責任体質」は本来の「日本人」の姿ではありません。まるで、近くて遠い国の経営者のように映ります。それが、「日本のトップ」と呼ばれる人の姿なのですから、子供たちが「無責任体質」になるのは当然でしょう。

最近の報道で、有名芸能事務所や有名劇団の不祥事が明るみに出て、その「存続」さえ危ぶまれるような事態に陥っていますが、これも、「昔からの慣習」とか「伝統(裏)」とかで「経営」してきた「闇」が暴かれたために起きた問題です。だれもが「知っていること」でも、その組織を守るためには「口を噤む」のも人間の「知恵」というものでしょうが、そんな「浅知恵」も一旦、明るみに出れば「組織の崩壊」を招くだけのことなのです。経営者たちは見苦しく「言い訳」に終始し、何とか逃れようと足掻いているようですが、その姿が映し出されると、あまりにも弱々しく「憐れ」に見えてしまいます。当事者にしてみれば「何で、俺のときに出るんだよ…!?」と怒り心頭でしょうが、当然知っていたことが明るみに出ただけのことですから仕方がありません。黙って、世間の批判を受け入れて「謝罪」し、その後は、静かに身を引き「表舞台」に二度と出てこないことです。見苦しい言い訳をして「逃げ切ろう」などというのは、世間を舐めている証拠です。そんな組織は「思い切った改革」が断行できなければ、「潰れる」しかないのでしょう。「再生」とは、そうした問題を一切「清算」した後に始まる「新しい動き」であって、「旧体制を維持して逃げおおせる」ことではありません。こうした社会の責任ある立場の人が「無責任」な行動を取れば、子供たちも「言い訳」をして逃げようとするのも仕方がないことです。昔であれば、謝罪する姿を見て「潔し」と評価し、それ以上の問題にしなかったものですが、今は、「とことん追い詰めて、責任を取らせる!」のが主流だそうですから、そんな「武士道」的な道徳はもう古いのでしょう。

文部科学省は、学習指導要領の改訂で「リベート」を採用し、「学校で積極的にリベート学習に取り組め!」と全国の教師に指示を出しました。おそらく、「国際化=自己主張=議論」という図式を想定し、日本の子供にも外国人に負けない「討論技術」を育てようと意図したものだと思います。ところが、実際の授業で行ってみると、上手くいかないのです。なぜなら、子供たちは「議論に負けた方」に同情をしてしまうからです。挙げ句には「そんなことを言ったら、可哀想だ…」と勝っている方の子供が、負けている方の「味方」をしてしまうので、リベートが成り立たないのです。これを教師は、「これは、ゲームだから、議論の勉強をしているんだ…」と説明しても、その後は議論が「盛り上がらず」、リベートは下火になってしまいました。私も実際、授業でこれを採り入れてみて「日本人には合わないなあ…」とそれ以降は、積極的にやることはありませんでした。しかし、賢そうな大人は「とにかく、何でもいいから相手を言い負かそう…」として足掻き、最後は「墓穴」を掘る始末です。有名な評論家たちも偉そうに自己主張を捲し立てて「顰蹙」を買っている姿をよく見かけます。ネット上でも「あいつ、何言ってんだ?」とやり込められて「シュン…」となっている姿は、情けない限りです。これが「無責任体質」の原因かどうかはわかりませんが、「言い訳がましい」態度は、日本では嫌われるということを官僚や学者さんは知るべきでしょう。やはり、日本人には「潔さ」が、似合っているように思います。

2 なぜ「日本人らしさ」では、だめなのか?

今の社会風潮を見ていると、今の日本人は「日本人らしさ」が世界に対して大きな「武器」になると思っていないようです。昭和のころも、何でも「舶来物」が高級品で「日本の物は、貧乏臭い…」と言って、割高の洋酒や西洋料理を有り難がっていました。一般庶民の我が家にも舶来物の洋酒の瓶が恭しく飾ってあり、父親が「あれがワインで、これがウィスキー…」などと言っては、ちびりちびり、舐めるようにしてそれらの酒を飲んでいました。まあ、日本酒は「等級」があった時代ですからやむを得ませんが、何でも「輸入物が高級品」というのも恥ずかしい限りです。それも、「敗戦コンプレックス」があって、そうした意識になっていたのかも知れませんが、今でも「英語が喋れれば…国際人」だとか、欧米の流行を真似れば「お洒落だ…」と言うのも、何か勘違いのような気がします。そのくせ、日本の政治や経済は「忖度」や「根回し」だらけの旧体制のままでいて、外見だけを取り繕うような姿は、同じ日本人として「どうなのかな…?」と首を傾げるばかりです。もちろん、「流行り廃り」はありますので、それがすべて悪いとは言えませんが、もっと「日本人」だということを誇りに思い、「世界に伍して競争していくんだ!」という教育をしてもいいのではないか…と思います。

逆に来日する「外国人」は、日本「らしさ…」を求めていることに気づかされます。未だに「京都」は日本を代表する「文化都市」であり、その歴史的佇まいは「世界遺産」と言うべきものでしょう。確かに、日本は約80年ほど前に世界と戦争をして「敗戦」の憂き目を見ましたが、そんな国は昭和以降もたくさん存在しています。日本だけが、いつまでもその「傷」が癒えないまま卑屈になって、無理して「国際人」になろうとするのは、如何なものでしょうか。文部科学省は、学校教育の体制をそのままにして「個性を伸ばす教育をしろ!」だの「学校の特色を出せ!」などと騒ぎますが、必要な「人員」の配置もなく「予算」もないままに「〇〇しろ!」だけの命令では、なるものもなるはずがありません。どうも日本の官僚は、戦時中の「大本営参謀」によく似ています。自分たちだけは「安全地帯」に身を置き、現場には「命がけの仕事」を命じ、失敗すればすべて「現場の責任」として処理して、自分たちは組織の中で出世していくという図式です。もちろん、「俺たちだって頑張っているんだ!」と言いたいのでしょうが、「頑張り方」を間違えれば、それは「害悪」なのです。日本政府は、あの「敗戦」以降、今もアメリカの「占領政策」のまま思考を停止しているように見受けられます。政府は「国際人」と言うと、先進国の「西洋人」をイメージするようですが、日本だって世界から見れば立派な「先進国」です。この「日本」に憧れている外国人だって多くいるのに、なぜか「政治」は、そうした発想にはならないようです。あの人たちは、「ああ、なりたい…」と心底から思ってるのでしょうか。しかし、残念ながら日本国民の多くは、「日本人のままでいい…」と思っているはずです。何もアメリカや中国のようになりたいとは思わないし、ヨーロッパのように「移民」ばかりの国になるのも御免です。そこに大きな「溝」があるような気がします。

「お国柄」という言葉があるように、「国」には、それぞれの歴史があり文化、風俗、習慣があります。何も「西洋文明」だけが「唯一無二」なものではないはずです。確かに、西洋はこの「地球」という世界の中で最初に「発展」したかも知れませんが、だからと言って「世界の支配者」として統治しているわけではありません。一時はイギリスが、「大英帝国」を名乗ったように、世界中に「植民地」を持ち、他国の人々から「搾取」することで利益を得ていた「野蛮」な時代もありましたが、それも「第二次世界大戦」と共になくなり、世界は、建前上は「対等」な関係になったはずです。何も政府が唱えるような「グローバル社会」を目指さなくてもいいのではないでしょうか。今の日本政府が国民から信頼を得られないのは、「グローバル化」の名の下に「LGBT」などの人の「内心」にまで踏み込んだ「差別化禁止法」を制定するような政治を行うからです。これが、政府の言う「グローバル化なのか?」と思った瞬間に、国民の心は離れていきました。要するに「グローバル化」とは、「国」そのものを消滅させる企みであって、私たちを「幸福」にするための手段ではなかったということなのです。そんな政府や政党に「国の将来」を託すことはできません。

「子供」は、国の未来を担う存在です。「国際化社会」「グローバル化社会」に適合した日本人を育てるとすれば、それは、「日本という母国より世界を選ぶ人間を育てる」ことに他なりません。「いいじゃないか、日本なんてなくなったって…」「世界が一つになれば、みんな幸福だろう…」といった台詞を吐きそうな政治家はたくさんいますが、それを聞いて「?」に思わない人はいないでしょう。それを「学校で教えろ!」とでも言うのでしょうか。おそらく、現役教師の大半は「冗談じゃない。そんな教育は御免だ!」と言うに違いありません。教師たちは「日本という祖国を大事にする教育をしたいんだ!」と考えて教壇立っているのです。だからこそ「日本人らしさ」を国民は求めているのです。私たちは、そのことを改めて「認識」するべきなのでしょう。そして、政治家になる人も、官僚になる人も同じ「日本国民」であるならば、「自分の祖国を大事にする国民」を育てるべきなのではないでしょうか。もちろん、世界が大きな「力関係」で動かされていることはわかります。敗戦国日本が、アメリカの政治に利用されてることもわかります。大国中国の圧力に抵抗することが難しいこともわかります。これまでの「外交」を変えることの難しさもわかります。それでも、「日本国」としての矜持は持っていたいと思うのは、間違いなのでしょうか。私たち国民は、そんな政治を望んでるのです。そんな「教育」がしたいのです。

3 失われた「20年」の教育

平成の半ば頃から、文部科学省も「個性重視の教育」への転換を図ろうとしていました。確かに、世界は「グローバル化」の流れが強くなってきており、まして、「コンピュータ技術」が急速に発展してくると、従来の「集団統制的な教育」では世界の流れに対応できないことがわかってきました。そこで、早い段階からの「個性化教育」へと転換を図ろうとしたのでしょう。そこまでは理解できます。しかし、もし、この時点で「教育予算」を大幅に増加し、いち早く「コンピュータ活用」や「個性重視」の教育を実践していれば、今のような「教育問題」は起こらなかった可能性があります。何の予算も付けず、それに対応する人員配置もせず「かけ声」だけで文部科学省が動いても、学校現場でそれを実現することは不可能だったのです。日本は、これまでの長い期間「集団統制」を最善の教育方法と考え、今の「学校体制」になっていたわけですから、その構造も変えずに「世界標準」に合わせようとする方が無茶なのです。しかし、日本政府にそれを実現する意思はなく、国としての動きは遅々として進みませんでした。

結局、世界の流れがわかっていても、これまでの社会構造を変えるには、政府自身の相当の覚悟が求められます。しかし、当時の日本は、アメリカにいわれたような「構造改革」と称する「アメリカ型資本主義」を採り入れることに躍起となっており、「規制緩和」の名の下に「日本型資本主義」を本当にぶち壊してしまいました。現在のような不安定な社会を作ったのは、間違いなく「日本政府」なのです。本当は、それに合わせて日本人個々の「能力」を最大限に生かすシステムに変えなければならなかったはずなのに、政府はそれを怠り、せっかくの「日本人の能力」を開花させることなく、世界の流れから遅れを取ることになってしまいました。そのことを日本の政治家は自覚しているのでしょうか。戦後、長く続いた「教育軽視」の風潮は、時代の変革期にも拘わらず続き、現在の状況を招いています。「もし…」という話をするのはいけないことなのですが、敢えて申せば、平成の「十年代」が、日本の「教育改革」を断行するチャンスだったのです。

それは、まずは「義務教育」などではなく、「大学教育」から始めるべきでした。日本の大学は、欧米先進国の「大学」と異なり「学問の府」ではないからです。それは、昭和の頃から指摘されていたにも拘わらず放置し、国民が「大学さえ出れば、幸せな人生が描ける…」と勘違いしてしまったために教育方法を改善しないまま放置されました。今でも若者の中には「大学に入ったら、サークル活動やバイトをして学生生活を楽しみたい…」という人がいますが、そんなことを言うのは日本人くらいなものでしょう。本来は、「大学に行ってしっかり研究をして、資格を取りたい」とか、「優秀な成績で卒業して、一流企業で働きたい…」などの「学問を学ぶ」ことに特化した意見を持つものですが、日本では「遊びとバイト」では、高い学費を払わされる親の立場がありません。そんな暢気なことを許しているから、日本の大学は、世界の中でも「一流扱い」されないのです。こうした「勘違い」を利用して、政府は「大学設置許可」を緩め、全国に無数の大学が誕生しました。そして、現在、そんな「竹の子大学」には志願者が減り、大学の倒産が始まりました。最早、日本の大学は子供や親にとって「魅力的」な学びの場ではなくなっているのです。あのとき、大学に「卒業認定試験」を課し、学生には「単位の取得」だけでなく「最終国家試験合格」をもって「卒業認定」とすれば、学生たちは必死になって勉強をしたはずです。政府がやったことは、「独立法人化」を進め、予算を削って「自分たちで何とかしろ!」と「学問や研究」を推進するのではなく、逆向きに「停滞・後退」させてしまいました。これが、「構造改革」の正体です。そのために、日本の学校教育は「高校から小学校」まで、変革の時代に何も為さないまま「無駄」な時間を費やし、世界から取り残されることになりました。それを今さら、「学校ブラック化問題」だと騒いでも、もう取り返しようがありません。政府や官僚たちの怠慢が生んだ悲劇です。

4 「江戸時代の教育」に学ぶ

これまでの政府は、自分の国を見ているのではなく、「国際社会」といった曖昧な一部の「外国」を見ながら政治を行ってきたということです。もちろん、それに対して反論される方もいると思いますが、政府から「日本のよさ」が積極的に発信された政策を私は見たことがありません。特に教育においては、常に「外国の優れた教育を模倣」しようとして失敗を繰り返してきました。それは、「形」だけを真似て、根本的な「学校体制」を見直さないからです。そして、肝腎な「予算」を付けずに「かけ声」だけで何とか誤魔化そうとするから、何も「完成」しないまま「時」だけが過ぎて行ったのです。もう、この「繰り返し」では、日本の教育はどうにもなりません。したがって、賢い保護者たちは、自分の意思で教育を「選択」しようとしています。現在の「不登校問題」も、「学校がつまらないから、不登校になっている」といった誤った認識を捨て、「新しい教育を選ぼうとするから、学校を利用しなくなっている」と考えた方がいいのではないでしょうか。もちろん、それが「すべて」ではありませんが、旧態依然とした学校教育に見切りを付けた「子供」や「親」の中には、進んで「フリースクール」や「通信制」を選ぶ傾向があります。一応、学校に「籍」を置いていますが、それは、飽くまで「卒業認定」が必要だからであって、内容については「時代遅れ」だと考えているようです。

最近、「ギフト」と呼ばれるような「知能指数(IQ)」の高い子供のことが話題になっていますが、日本では未だに、この「ギフト」と呼ばれる子供たちを「伸ばす」システムがありません。この子たちの中には「発達障害」と呼ばれるような偏りのある子供もいますが、その「能力」はすばらしいものがあります。先進国では、既にそれらの「ギフト」の子供たちを特別に教育するシステムが存在し、いわゆる「天才教育」を施しています。それが、成長をして「AI分野」や「研究分野」などで活躍してくれれば、日本はさらに発展していくはずです。それを、いつまでも「横並び教育」に終始し、その中だけで「個性を伸ばせ」と言われても、そんな手法を知る教師はいません。もし、「ギフト」の子供を教育したいのなら、特別の学校を作り、多額の予算を付けた「特別教育」をするべきなのです。これを「不公平」だと諦めるなら、日本は、早々に世界の一流分野から遅れを取り、二流、三流国に転落していくことでしょう。

よく考えてみてください。日本がなぜ「明治維新」を成功させることができたのか…を。それは、「明治政府」が積極的に「近代化(西洋化)」を図ったからではありません。それ以前の「江戸時代の教育」がすばらしかったからです。そこを勘違いしているから、時代を読み間違えてしまうのです。たとえば、「日本地図」を完成させた「伊能忠敬」とその弟子たちは、近代のような「学校」で学んだ人たちではありません。日本全国にいた数学者や天文学者などの「塾」で学び、その知識や技術を習得していたからです。もちろん、徳川幕府の支援はありましたが、今のように「国家プロジェクト」として全国を測量したわけではなく、自分たちの自主的な研究として行ったものです。結果、世界の人々が驚嘆するような「日本地図」が産まれたわけですが、もし、江戸時代にこの地図が完成していなければ、世界が日本という国を理解するまでには相当の時間がかかったはずです。あの「シーボルト」が密かに、この「伊能図」をヨーロッパに持ち出していたという話がありますが、それを見た西洋人は「日本恐るべし!」と覚ったはずです。この他にも「近代医学」にしても「近代産業」にしても、明治時代のその基礎を築いた偉人は、みんな「江戸の教育」を受けた人たちなのです。明治の教育を受けた人たちは、あの「大東亜戦争」を引き起こし「国」を滅ぼしたことを忘れてはなりません。それなら、もう一度「江戸の教育」を参考にした「未来の日本式教育」を創り上げればいいのです。

どうも、戦後の日本のリーダーたちは、よほどアメリカが怖ろしいのか、占領政策が終わっても「日本」を取り戻そうとはしませんでした。アメリカ政府と何かしらの「密約」でもあったのかも知れませんが、その後の日本は、やはり「アメリカ従属主義」の政治ばかり行ってきました。それが、さすがに「令和」の時代を迎えて破綻しようとしています。それは、アメリカ自体が弱くなり、様々な考えが表明され、それなりに「力」を持つようになっているからです。傍で見ていても「共和党」「民主党」「左派政党」「アメリカ軍」「人権派」など、それぞれの主張が異なり、日本に対して求めてくるものも異なります。こうなると、単なる「アメリカ従属主義」では、日本の政治はできません。既に国内でも本来の保守政党であった「自民党」が左派に傾き、野党やその他から真の「保守政党」が誕生しようとしています。もう、「アメリカ従属主義」では日本もやっていけない時代を迎えたのです。ならば、「新しい政府」の下に「新しい日本の教育」を産み出すチャンスが巡って来たのかも知れません。それが、「江戸の教育に学ぶ」ことなのだと私は思います。

5 日本人の「特長」は何か?

これまで政府は、世界が「グローバル化」することを前提に政治や経済、教育を行い、「家庭」や「地域」を壊してまで「グローバル化の道」を闇雲に突き進んで来ました。しかし、頼りにしていた「中国経済」は破綻寸前の状態で、その中国が掲げた「一帯一路戦略」も風前の灯火になってきました。後は、やけくそで「台湾侵攻」などを企んでいるようですが、もし、そうなれば、日本の「中国一辺倒」だった政治や経済は、間違いなく破綻するでしょう。中国が完全に「アメリカ」の敵となれば、日本が中国に従うことは、国民が許しません。そうなれば、「親中派」「媚中派」と呼ばれた政治家は、皆、淘汰され世間の非難を浴びることでしょう。マスコミも中国からの支援を受けていた会社は信用を失い、これも淘汰されます。そうした時代に教育が「旧態依然」のままでいいはずがありません。当然、「文部科学省」も改編させられ、「新しい時代に対応した教育制度」を作らなければならなくなるはずです。そこに、日本人の「潜在能力」が試されるのです。頭が「グローバル化」したリーダーたちを排除し、「らしさ…」を求め、「日本」という国の「魅力」を発揮できる環境を整えることができれば、日本は間違いなく、新しい時代の「リーダー国」として世界の人々を導くことが可能になると思います。

今、日本の若者は大きく「二分」されています。一方は、野球の「大谷翔平選手」に代表されるような「自分の個性・特長」をしっかり分析して、「自分らしく生きる」若者たちです。ネットなどを見ていると、芸術や芸能、スポーツなどの分野では、多くの才能ある若者たちが海外に飛び出し、世界の注目を集めるようになってきました。彼らは、何も「学校教育」で育った人たちではありません。子供のころから自分の興味を大切にして活動してきた人たちです。もちろん、子供ですから親の支援は欠かせませんが、親自身が「この子の力を伸ばしてやろう…」という思いで援助してきたのだと思います。そこには、「学校」も「教師」も日本政府も介在する余地はありません。マスコミは、常に一過性で注目しますが、それに惑わされない人間だけが未来を見ることができるのです。周囲に対しての「忖度」などはせず、「自分の生きる道は、自分で見つける」そして、「自分の感性にしたがって自分を鍛え、夢を実現する」といった強い「意思」こそが、これからの日本人に求められる「生きる力」なのです。

逆に、旧来の体制の中で足掻いてる若者もいます。「大学に行けば、幸福が掴めるんだ…」と信じて「社会の勧めるレール」に乗って走ってきたものの、社会に出る直前に「そうではない…」ことに気づかされた若者たちです。「自分探しの旅に出ろ…って言ったじゃないか!?」と喚いても、それに振り向く大人はだれもいません。逆に「なんだ、それ?」「自分探しなんかしていて、飯が食えるのか!?」と怒鳴り返されてお終いです。そうです、若者たちは「成人」した塗炭に「梯子」を外されたのです。実際には「そのとおり」なのです。学校を卒業して社会人になれば、大人たちはいつまでも「子供扱い」はしてくれません。優しい言葉もないし、体を労ってもくれません。上司が求めるのは、「結果」だけです。子供時代は、「手取り足取り」優しい声をかけて貰い、いつも労って貰って学んで来ました。いやなことがあれば、「無理しないでいんだよ…」と好きなことを見つけてもくれるのです。それが、「子供の扱い方だ」ということを大人はみんな知っています。それを大人になっても求めることはできないのです。

日本社会が、これまで、なんとか「維持」して来れたのは、成人後の社会に厳しさがあったからに他なりません。日本は、不思議なことに子供には非常に「甘い」対応をします。それが、本当に子供のためになるのならいいのですが、その「甘さ」が大人の「無関心」を呼んだとしたら、本末転倒ではないでしょうか。「子供の心に傷を付けてはいけない」「子供には夢を持たせたい」といった「甘い囁き」は、政治家の得意とするところです。しかし、これが過度に過ぎると、「子供を叱ってはいけない」「子供に現実的な話をしてはいけない」といった扱いになり、良心ある教師たちも子供の「指導」を躊躇うようになりました。文部科学省も「子供のよい点を見つけて評価しろ」と言いますので、子供の「短所」を指摘することがなくなりました。それが、たとえ「わがまま」であっても、それが「個性」であれば、指導してはいけないのです。まして、保護者から「苦情」が来れば、その指導した教師は「配慮が足りない!」として、上司や上部機関から「叱責」「注意」「指導」「処分」を受けるのですから、己の「良心」を抑え「気づかぬふり」をすることを覚えるのです。そして、それに「呵責」を覚えた教師たちは、次々と教壇を去って行きました。これが、現実なのです。

最近、怪しい「薬」が若者を中心に広がっているというニュースを見ましたが、これも、若者たちの「閉塞感」を表しているような気がします。「自分の道を自分で見つけて進んで来た」若者なら、こうした怪しい薬物に手を出すことはないはずです。しかし、社会や大人が作った「レール」を走ってきた若者は、あるとき、「自分が何者なのか?」という疑問を持つ時が来ます。そして、大学でもスポーツでも、芸能でも、ある年齢までやれば「才能の限界」に気がつくものです。そうしたときに「何に」将来を託せばのいいのでしょう。もう、自分が大人になってしまえば、周囲の「大人」たちは、だれも自分を「甘えさせて」はくれません。大人になった子供が、ある日「ポツン」と一人になるのです。それは、社会という「荒波が吹き寄せる断崖絶壁」に立たされている気分でしょう。その「不安」を紛らわせるために「怪しい薬」に手を出す心理は理解できます。それが、「特殊詐欺」であったり「闇バイト」であったりするとすれば、成人した塗炭に「人生」を狂わされるのです。いや、自ら「人生を捨てて」しまうのです。それも、現代の「悲劇」なのではなでしょうか。それを飽くまでも「自己責任」とする考え方はあると思いますが、やっと「大人になった若者」には気の毒な気がします。

元々、日本人は「農耕民族」ですから、少しでも多くの収穫を得ようと「知恵」を働かせてきました。その営みは「休む」ことを知らず、何千年の時を経てもその歩みを絶やすことがないのです。今でも、日本の農業は発展を続け、「収穫量の多い米」「美味しい米」「旨い酒になる米」などの品種改良に取り組み、全国には多数の「品種改良米」が誕生しています。今でこそ農業も「機械化」が進み、人の手を借りることが減ったといっても、まだまだ「人の知恵と経験」によることの多い産業だと思います。日本人は、自然環境に恵まれた土地に暮らしているとはいえ「自然の猛威」は凄まじく「地震大国」としても有名です。そんな日本人が、国の「統制」にのみしたがって生きていけるはずがありません。確かに、近代を迎えるにあたっては「中央集権体制」は効果があったと思いますが、それが「永遠の政治形態」でいいはずがありません。既に、日本政府の政策に異論を唱える国民は多く、教育においても「中央集権的経営」は破綻をしています。もう、いわゆる「有識者」なる一部の学者が「国の教育」を左右する時代は去ったのです。明治時代以降、「教育は国が統制する」考え方でここまで来ましたが、そろそろ、「民間」や「個人」に返す時がきているように思います。その方が、国民の多くの「知恵」が集まりやすく、国が目指す「個性の伸長」が可能になるのではないでしょうか。

6 「方程式」に頼らない生き方

少子化が加速度的に進み、将来の「人口減少」が話題になっていますが、それなら、尚更のこと、日本人には大いに働いてもらう必要があります。今でも、国内の数百万人は「働ける世代」でありながら「働かない・働けない」状況だそうです。もちろん、それぞれに事情があり無闇に「働け!」と強制することもできませんが、環境さえ整えば、その何割かの人たちは働くことができるはずです。学校の「不登校」と呼ばれる子供たちも、学校以外の環境の中で「自分らしさ」を見つけて「勉強」をしている子供もいます。最早、何でもかんでも「統一」した制度の中で「管理教育」をする必要はないのです。そして、「学歴信仰」が崩壊した今、昭和時代の「方程式」をかなぐり捨てて「自分らしい方程式」を見つければいいのです。その「お手伝い」を教師ができるのであれば、日本の教師たちは喜んでその「お手伝い」をするはずです。

文部科学省も、いつまでも「不登校調査」などをしていないで、子供自身の「興味関心調査」でもやったらいいのではないでしょうか。全国の教師たちにも「どんな教育がやりたいのか?」といった「新しい教育」のための「意見」を募り、官民一体となった教育を目指すべきでしょう。何度も言いますが、「日本の教育は、江戸の教育にあるのです」「個性を重視した、新しい時代に対応できる教育」がしたいのなら、もっと「子供の意思」を認めてやりましょう。社会から戦後に作られた「方程式」がなくなれば、それぞれが「自分の力」で人生を切り開いて行くしかなくなります。最初は「不安」もあると思いますが、「子供の声」をじっくり聞いてやれば、子供の「才能(センス)」に気づくものです。たとえ幼児であっても「運動の好きな子」「絵を描くことが好きな子」「おしゃべりの上手な子」「とても優しい子」「知能が飛び抜けて高い子」「黙って働く子」…など、子供の「個性」は無限大なのです。それを時の政府にとって「都合のいい国民」を作りたいがために教育を利用するとしたら、それは、人間に対する「冒涜」です。もう戦後は終わりました。アメリカも中国も弱体化し、日本もそろそろ「自立」しなければならない時を迎えているのです。日本の「未来」を担う子供たちには、「日本の歴史を学び、日本人としての誇りを胸に、自分の個性を発揮して、堂々と世界に出て行って欲しい」と願っています。

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