真説「日本歴史講座」初級編
~日本の「歴史」の真実を知りたい人たちへ~
矢吹 直彦
序 歴史を知る
小学校高学年になると、子供たちは日本の歴史を学びます。しかし、それは、断片的な事実の羅列です。よく、「歴史は暗記」だと言う人がいますが、それは、あくまでも学校で勉強する歴史のことです。歴史は、学校の勉強や受験のために学ぶものではありません。今、私たちが、今の時代を生きていますが、それは、たまたまこの時代に生を受けているだけに過ぎません。古代に生まれた人にも、戦国の世に生まれた人にも、間違いなく「今」がありました。その時代を生き延びた人々によって「命のバトン」は引き継がれ、現代の私たちが存在しています。私たちに、命のバトンを渡してくれた人は、いったいどのくらいの人数がいるのでしょうか。父と母、祖父と祖母、曾祖父と曾祖母というように、遡れば、膨大な数の人たちが、バトンをつないでくれたことがわかります。そんな大切な命のバトンを、粗末に扱っていいわけはありません。そのためには、歴史の疑問を少しでも解決し、学んだことや知ったことを次の世代に遺したいものです。
今を生きる子供たちは、未来に生きる存在です。曇りのない目で、自分のルーツである日本の歴史を学び、その時代に生きた人々の息づかいを感じて、歴史を知って欲しいと思います。そして、歴史の勉強を知識として覚えるだけでなく、自分の先祖の「物語」として学び、その物語を、いつか、将来、次の世代へと伝えて欲しいと思います。
一 「日本人」のルーツ
それでは、早速「日本人のルーツ」にについてお話しましょう。
地球という星は、宇宙の中でも不思議な惑星です。人間や動物のような生命体が存在できるためには、多くの奇跡のような偶然が重なり合わなければなりません。
地球は、太陽系に属する惑星ですが、太陽とはほどよい距離に位置したために、人類が生存できる太陽エネルギーの恩恵を受けることができました。これが、遠くても近くても、肉体的に弱い私たち人類は、生存することはできなかったでしょう。それに、地球は、生命に欠かせない「水の惑星」でした。誕生当初は、生命が生きられる環境ではなかったはずです。それが、長い年月を経て、陸地と海を隔てました。そして、その大きな海から、様々な生命体が誕生したのです。
人間は、水、空気、温暖な気候、豊富な食糧がなければ、生きることはできません。こんなに薄く弱い皮膚では、何かを纏わなければ、体温を維持することもできないのです。
しかし、人間には、他の生物と大きく異なる「脳」を持っていました。その脳の発達が、人類を地球の支配者にしたのです。
さて、人が生存できるようになった太古の時代、日本列島はアジア、ユーラシア大陸と陸続きでした。
石器時代と呼ばれた頃の遙か昔、地球上に暮らす人類は、生きる糧を求めて地上を彷徨っていました。獣を狩り、魚介類を獲り、木の実や穀物を採取しては食べ、必死に生きようとしたはずです。人間は、動物種の中でも強い生き物ではありません。強力な爪や牙も、丈夫で堅い皮膚も持たず、生まれてもすぐに立つことすらできません。しかし人間は、脳が発達したお陰で、「火」を克服することができました。一人では生きられない人間も、火を用い、集団で生活すれば、その知恵と工夫によって生き延びることができたのです。
ある日、地球上を彷徨い歩き、日本列島に辿り着いた部族がありました。それは、長い旅を続けた結果でした。おそらくは、温暖な土地を求めて歩き、陸を伝ってたどり着く者、海を小舟を漕いでたどり着く者など、方法は様々ですが、北から南から多くの種族の一部が、日本列島にたどり着きました。それが、私たちの先祖です。だから、どんな種族の人が一番先に日本人になったかは、関係ありません。それでも、私たちの姿は、アジアに似た人が多いので、やはり近くのアジアの種族が一番多く日本列島に辿り着いたのでしょう。まだ、国としての「日本」という意識はなく、それぞれの部族は、海辺や川辺、山間部などに生活の拠点を置き、食料を探したり、狩りをしたりして「生きるため」に、必死に足掻きました。もちろん「労働」という概念はありませんが、「生きるために働く」ことは、人間古来の本能でもあったのです。
それでも、まだ、日本列島が大陸とつながっているうちは、人の行き来もあったことでしょう。しかし、長い年月の間に、日本列島は大陸から離れ、本当に「列島」を形作りました。それに、日本は火山活動が活発でした。地震が多く発生し、不安な夜を過ごしたのは、昔も今も同じです。そのうち、地殻変動が起こり、人々が気がついたときには、どこからも大陸に渡る手段はなく、このいくつもに分かれた島々で暮らすことが余儀なくされたのです。
それは、「国」というような概念が生まれるずっと以前のことでした。それでも人々が混じり合えば、人口も増えていきます。小さな島の集まりではありますが、人間にとっては、生活に困らない程度の大きさはあります。その島のあちらこちらで、家族が寄り添うように「ムラ」を作って生きていたのです。
日本列島という限られた地域での生活は、生活環境が似通っているため、長い年月の間にその生活習慣も似通ってくるのは当然です。そうなると、他のムラとの交流も進み、さらに混じり合っていったのでしょう。こうして、「日本人」の原型が誕生してきたと思われます。
二 「日本」の成り立ち
どのくらいの人々が、大陸から日本列島に渡ってきたかはわかりません。人間は冒険心の旺盛な生き物です。脳が発達したおかげで、新しいものを見たり、聞いたり、触ったりすることが大好きです。この好奇心は、人間の文化を著しく高めていきました。その上、冒険心が強いので、多少の犠牲を払ってでも未知の世界に行きたい、見てみたいと憧れを抱きます。日本列島に渡ってきた人々も、そんな冒険心と好奇心に満ちあふれた人々だったことでしょう。そして、その種族も様々でした。中には、今のヨーロッパの白人種の部族もいました。大陸の人々はもちろん、北方のアラスカ方面からも来たし、暑い東南アジアやインドの方からも遙々やってきたでしょう。お隣の朝鮮半島の人々もいました。それらが、いつの間にか混じり合って、多くの「ムラ」が形成されていったのです。
ムラができれば、当然、「縄張り」争いが生まれます。他のムラの存在を知り、人と人との交流が始まります。しかし、長く付き合うようになると、良心的な物々交換だけで済まないのが人間というものです。少しでも、多く食糧を確保したい。暮らしやすい土地を得たい。部族の数も増えてきたので、ムラの支配地を増やしたい。この動物本能とも言うべき「欲」が、争いを生みました。
こうして、近隣のムラ同士の争いが、人々の中に「身分・階級」を生み出していきました。ムラの争いに勝利したムラが、小さなムラを併合して大きくなります。勝利したムラの指導者が高位に就き、小さな国の「王」となります。その王に従う家来が生まれ、ムラの指導者層とそれに従う兵士、そして一般のムラ人と次第に階級が生まれ、区別されていきました。そうして、「権力」が生まれます。
最初の頃の権力は、体の大きい者や力の強い者、智恵のある者など、明らかに目に見える「強さ・力」によって、人々の上位に立ちました。古代は、それだけでなく、自然をコントロールできる者も、その権力の側に立つことができたのです。もちろん、自然をコントロールなどできるはずはありません。しかし、「予知」することは、ある程度可能です。
たとえば、雲や風、湿気などでも天候の変化などには気づきます。昔の船乗りは、レーダーなどの電子機器はありませんので、何事も「経験」が頼りでした。知らない者にとって「経験」は、神のお告げのように見えたことでしょう。他にも、「占い」があるように、偉大な自然を「神」と考え、神に仕える「巫女」の存在がありました。つまり、占いの力によって吉兆を呼び込むのです。もし、そんなことができたら、人々は、その占いの力を偉大なものと思い込み、自分たちのムラの「王」にと祭り上げられることもありました。有名な邪馬台国の「卑弥呼」も、その一人です。
古代の日本列島で力を持ったのが、九州地方や山陰地方の「国」でした。九州や山陰地方は、朝鮮半島や大陸にも近く、大陸の情報がいち早く入ってくるような地理的条件が整っています。山陰には、今でも日本中の神様が集まる出雲大社のある出雲地方です。
有名な「邪馬台国」のあった場所は、特定されていませんが、おそらく九州地方という説が有力なようです。地理的に考えれば、朝鮮半島や大陸に近い国が、真っ先に大陸国家と交易しても不思議ではありません。まして、中国大陸には、既に何代にもわたる王朝ができていたのですから。
有名な「三国志」の時代は、日本は、まさに「邪馬台国」の時代です。邪馬台国や卑弥呼も記述は、「魏」の記録書である「魏志倭人伝」に書かれていますが、日本がやっと中国の王朝に貢ぎ物を持って使者を送ることができたのでしょう。それでも、東の田舎の小国であることに変わりはありません。
魏は、三国志に出てくる「曹操」が建てた国ですが、約40年程度で滅んでいます。
中国の皇帝にとって、日本のような小国の王など、取るに足らない存在ですが、貢ぎ物を持って使者を送ってきたわけですから、一応、形だけでも国として認めました。その証拠が、「親魏倭王」の金印と銅鏡百枚だったのです。最近、「その一枚が発見された」とう報道がありましたが、さて、古代の謎がさらに深まりそうです。
当時の中国の王朝は、「中華思想」と言って、世界の中心は、中国だと考え「中華」を名乗っていました。そして、遠い国は、野蛮な国として差別的に見ていたのです。そのために、当時の中国人が「やまたいこく」や「ひみこ」という音で聞いたのを、漢字に当てはめたのが、「邪馬台国」であり、「卑弥呼」という文字なのです。「倭国」もそうですが、すべて、相手を卑しめる文字が遣われています。それは、中国とは対等の国ではないからです。「邪」(よこしま)、「卑」(いやしい)「倭」(ちいさな)などの文字は、中国に使者として渡った日本人が遣った文字ではありません。
おそらく日本からの使者は、「大和国」「日御子」「和国」と言うような意味で、説明をしたのだと思います。しかし、大帝国の中国にとって、朝鮮半島の国よりもさらに東の果てにある「島国」など、小さすぎて相手にもならない地域だったのです。
それでも、当時の日本にとって、「国」と呼べるような体制ができてきたことがわかります。おそらくは、小さな「ムラ」が、争いの後に少しずつ大きくなり、ひとつの国として、まとまっていったと考えられます。
三 日本の統一
邪馬台国が大和朝廷の先祖であったかどうかは、わかりません。大陸から様々な文化や政治、軍事などが入ってきたことは間違いありませんが、それは、九州地方や出雲地方だけではありません。陸運や海運が発達してくれば、情報は、一度に多く入ってきます。確かに、日本海は荒海です。しかし、絶対に船で行き来できない距離ではありません。その証拠に、日本は遣隋使や遣唐使を何回も派遣して、中国から多くの文化を吸収しています。特に国レベルでの交流だけでなく、一般の人々も中型の船を建造し海に漕ぎ出して行ったことでしょう。台風で難破し、失敗した例も多いと思いますが、それでも「見たい、知りたい」という欲求には勝てません。少し大きくなった国では、少しでも力をつけようと独自で大陸に渡ったと思います。その中心となったのが、大和と出雲の「王」だったようです。出雲地方では、今でも多くの武器(鉄器)が発掘されていますが、あちらには製鉄の技術が伝わり、鉄製の武器が登場してきます。今でいう最新兵器です。いつの頃かはわかりませんが、近畿地方に勢力を持つ大和王朝と山陰地方に勢力を持つ出雲王朝の間で、決戦が何度も行われたようです。その結果、「大和王朝」が勝利し、日本を統一しました。日本最古の歴史書である「古事記」には、「出雲の国譲り」というお話が出てきますが、大和の王と出雲の王が話し合いによって、出雲の国を大和に譲ってもらったことになっています。しかし、事はそんな単純な話ではありません。要するに、古代の「関ヶ原の戦い」
ですから、お互いに総力を挙げて決戦に挑んだのでしょう。しかし、最後は、徹底的に敵を滅ぼすのではなく、大和王朝に出雲王朝を併合したのです。その証拠に、出雲には、「出雲神社」が築かれ、天にも昇るような大社が建造されています。これこそ、出雲に巨大な王朝があった証拠だと言われています。古事記では、「大国主神が、出雲を譲る代わりに、大社を創って祀るように」と大和王朝に求めたと書かれていますが、おそらくは、「大国主神の祟り」を怖れて、あのような巨大な社になったという説が有力でしょう。この「祟り」という考え方は、現代では馴染みにくい考えですが、古代では、自然災害等の災厄は、何かの「祟り」によるものだと考えられていました。そして、それは、「滅ぼした敵」などに対して抱く怖れがあったからなのだと思います。
邪馬台国で、卑弥呼が占いによって吉兆を予言したように、古代の日本では、この「占い」が、政治に大きく関わっていました。その証拠に、現代の皇室でも、多くの神事が行われていますが、「占い」による伝統儀式も残されています。神事には、占いが欠かせないものでもあったのです。
この出雲王朝は、大和王朝にしてみれば、本当に恐ろしい敵だったのです。それでも、出雲に勝利した大和は、名実ともに、日本列島を統一した王朝となりました。そして、その王が、「大王」そして「天皇」を称して、今の「皇室」の先祖になりました。
それにしても、大和王朝が、その建国の歴史を「神話」という形でまとめたことは、見事でした。生々しい戦いの歴史を、「神様のお話」としてまとめ上げた手腕は、すばらしい見識です。こうすれば、大和王朝の先祖が、天照大神という神様となり、地上界に君臨する「天皇」は、神様の子孫になるわけですから、だれも、それを侵すことはできません。
大和王朝が、出雲王朝を併合した後も、神武天皇を初めとする多くの武人たちが、日本統一のために活躍をします。特に、「日本武尊」は、日本統一の英雄として描かれています。実像はわかりませんが、そのような天皇に仕える武人たちが活躍し、大和王朝を創り上げたわけですから、建国の歴史も壮大なドラマになっています。
年数で数えれば、遙か昔のことですが、天皇歴で言えば約2700年くらいになるはずです。今は、だれも「大和王朝」などとは言いませんが、令和の時代になり、徳仁皇太子殿下が、皇位につかれた一連の儀式を見ると、「やはり、大和王朝は続いているんだ」ということがわかります。
こんなに長い歴史を持つ王朝は、世界では日本しかありません。日本の皇室は、日本の歴史そのものでもあるのです。
四 大和王朝
日本を統一したと言っても、今のように日本列島すべてを統一したわけではありません。古事記や日本書紀といわれる政府刊行の記録書が残されたことで、日本の成り立ちがわかっていますが、それは「神話」という形式を採りました。日本の建国の物語は、この「神話」によって綴られているのです。しかし、統一とは言っても、今の北海道や東北地方などは、まだまだ統一までには時間が必要でした。
「古事記」によると、日本の皇室の先祖神は、「天照大神」ということになっています。日本の神々は、「高天原」という天上界におられました。その高天原の主が天照大神です。日本の神様は、八百万の神々といわれるように、外国のような一神教ではありません。「森羅万象神が宿る」という言葉があるように、日本の神は、「自然界」そのものなのです。 八百万とは、無限を意味し、私たちの生活そのものの中に神はいると考えています。その天照大神を初めとする神々を祀る中心が、天皇に他なりません。だからこそ、天皇は、毎日、皇居内で日本の神に詔を捧げ、国の安らぎと国民の安全を祈っているのです。つまり、日本の天皇の地位は、外国のような「王」ではありません。外国の王は、政治、軍事、財産を握り、国王としてその国の絶対者になりますが、天皇には、政治も軍事も財産といった、いわゆる「権力」はありません。あるのは、長い日本の歴史の中で、その国の象徴としての「権威」だけです。そして、天皇の位に就いた者は、日本最高の神官としての務めが定められています。
明治維新によって「大日本帝国憲法」が定められ、日本の天皇は国家元首として、すべての権力を持つことになりましたが、それも長くは続きませんでした。やはり、天皇は「王」ではないからです。
大和王朝は、武士が政権を取るようになって以降、実際の権力を行使することはできなくなりました。しかし、どの武家政権においても、武士が天皇になることはできませんでした。なぜなら、武士が朝廷における「令外の官」という低い身分であることが、日本国内に知れ渡っていたからです。古事記や日本書紀に書かれている天皇だけが、神の継承者だということをみんな知っていたからです。だから、どんな計略を持ってしても、天皇の直系以外の人間が皇位に就くことはできませんでした。そのために、武士は、平清盛のように「太政大臣」の位に就いたり、豊臣秀吉のように「関白」になったりしましたが、それ以上の位を得ることはできませんでした。
だからこそ、徳川家康は、源頼朝と同じように源氏の棟梁として、「征夷大将軍」に甘んじたのです。朝廷の位から言えば、「征夷大将軍」などは、所詮「令外の官」のひとつでしかなく、敵を征伐するための最高指揮官でしかありません。軍隊で言えば、「陸軍大将」くらいなものでしょう。その一軍人が、日本の政治を朝廷から一任され、権力を行使したわけですから、世界の歴史から見れば不思議な状況なのです。
しかし、権力をすべて武士に委ねてしまったために、大和王朝(朝廷)は生き残ることができたのです。江戸時代になると、徳川家康は、朝廷を管理するために「禁中並びに公家諸法度」という法律を定めますが、下位の武家政権が、上位の皇室や貴族を管理監督するわけですから、実際は、どちらが強かったかがわかります。それでも、徳川幕府は、朝廷を重んじ、「権威者」として丁重に扱いました。皇室や貴族(公家)は、収入も抑えられ、家来も少なく、貧しい暮らしを強いられましたが、武士たちに「官位」を授ける権利だけは、幕府から委ねられていました。しかし、これも、朝廷が勝手に武士たちに官位を授けることはできません。あくまでも、幕府の意向を踏まえて官位を授けるのです。したがって、たとえ、100万石の大名であろうと、天皇のお顔を直接見たり、話をしたりすることはできませんでした。ひたすら、下を見て、頭を下げているだけです。そのくらい、天皇の地位は、「神の位」として信じられ、権威があったのです。
朝廷は、明治時代なると「王政復古」の大号令を発して、その形を変え「明治政府」となりました。これは、「もう、武士政権は終わりだ」という宣言です。そして、太古のように、朝廷が直々に政治を行うという宣言でもありました。
そうなると、これまで奥の奥に隠れていた天皇が、国民の前に出てきて、「命令(勅)」を発するようになりました。これが、軍服を着て、立派な髭を生やした「明治天皇」です。
皇室の人々は、「天皇が武人になった」と、その姿を嘆き悲しんだと言います。皇室や貴族たちは、やはり天皇が権力者になることを望まなかったのです。しかし、明治政府は、ドイツのように、天皇が「皇帝」として、国民の上に立つことを欲しました。そして、それが近代国家だと勘違いをしたのです。そして、朝廷に仕えた人々(公家)は、華族(公爵、侯爵、伯爵、子爵、男爵)として残りました。全国の300にも及ぶ大名たちも東京に集められ、武士から華族になりました。
しかし、昭和20年8月の敗戦と同時に、アメリカ占領軍(GHQ)の指令により、その華族制度もなくなり、朝廷の仕組みは現代に引き継がれてはいません。しかし、天皇の地位はなくなりませんでしたので、大和朝廷から引き継がれてきた皇室の行事や儀式などは、今でも継承されています。
今は、○○王朝ではありませんが、「天皇」という存在が憲法上に明記され、継承されているということは、天皇を中心とする日本の歴史に断絶がなかったということになります。この日本独特の歴史が文化と共に継承されることで、「日本」の独自性が表れています。
世界中に「王制」が残る国はありますが、日本のような長い歴史と伝統はありません。この日本の歴史と伝統を大切に守っていくことが、日本という国を大切にすることでもあるのです。
五 天皇
日本の初代天皇は、「神武天皇」だと言われていますが、本当はよくわかってはいません。大和王朝が日本を統一する前は、天皇もやはり地方豪族の一人だったはずです。最初から「天皇」を名乗るはずはなく、最初の頃は、やはり「王」と呼ばれていたのでしょう。 今でも、日本全国に「前方後円墳」などの大きな古墳(古代豪族の墓)が残されていますが、あれは、大和朝廷の権力が日本国内に広く行き渡った証拠だといわれています。その頃になると、当然「天皇」という名称を使用し、日本がほぼ統一されていました。
全国に誕生した「ムラ」が、次第に実力をつけ、近隣のムラと争うようになるのは、どこの世界でも同じです。いわゆる「縄張り」争いです。全国にも「環濠遺跡」と呼ばれる大きなムラの痕跡が見つかっていますが、ムラを取り囲む濠と土を盛った堡塁でできています。中世のヨーロッパや中国では、大規模な「要塞都市」が造られていますが、「王」が、自分の領土や領民を守るために、こうした壁を造るのは、古今東西同じ発想です。 まして、大陸から、製鉄の技術が入ってくると、争いは一気に血生臭いものとなりました。鉄の剣や鏃などは、殺傷能力が高く、敵を一撃で倒すことができます。銅剣や石斧などでは太刀打ちできません。製鉄には、「踏鞴(たたら)」という技術が必要ですが、今でも日本刀などの伝統工芸の場では、この技術を見ることができます。
こうして、より質の高い鉄加工の技術を持った王は、強力な軍隊を率い、多くの家来を従えて他の王と争い、支配下に置いていったのです。
「蝦夷(えぞ)」とか「熊襲(くまそ)」「隼人(はやと)」などと呼ばれた地方豪族は、それぞれが、やはり強い軍隊を持ち、なかなか大和の王に従おうとはしませんでした。
それも当然です。たとえ、強い力を持っていたとしても、易々と屈服したのでは「王」としての権威が保たれません。戦争にはならなくても、それなりの地位を得たり、服従する代わりに支配地を安堵されるといった駆け引きが行われていたはずです。それは、戦国時代を見ればよくわかることです。古代にも信長や秀吉のような武将が多くいたのでしょう。
「大和の王」が、どこが発祥の地かは、定かではありませんが、やはり奈良盆地なのでしょうか。九州地方から勢力を拡大しながら近畿に移動してきた豪族なのかも知れません。
大和の王は、神話などから見ると、九州地方から、関東地方にまで支配が及んだようです。やはり、出雲を制したことで鉄加工技術を独占し、強力な軍隊を持って地方を制圧していったと考えるのが、自然なのかも知れません。
昔から、日本武尊(やまとたける)の伝説が有名ですが、熊襲征伐とか、草薙剣を振るって戦う場面などは、まさに英雄伝説です。大和の王ゆかりの家来として、日本を統一するために戦ったのでしょう。まさに織田信長が天下統一のために、羽柴秀吉や柴田勝家などの家来を使って縦横無尽に戦場を駆けた物語と同じです。そう考えると、今の天皇にも「武人」の血が流れていることになります。天下を統一した日本最大の武人ですから、古代天皇は、周囲の人間がひれ伏すような威厳を持った英雄だったと思います。
確かに明治天皇は、髭も濃く豪傑風な風貌をされています。やはり、昔から強い者に従うのが世の倣いですから、天皇という人物も、弱々しい姿では、だれもついてきません。人一倍体も大きく、度胸も据わっていたのでしょう。全国の豪族を従わせるのは、並の器量でできることではありません。神に仕えるようになるには、もう少し後の時代になります。
初代は、「神武天皇」といわれていますが、初代から6代くらいまでは記録もなく、存在が確認できないようです。しかし、大和の王に当たる人物がいなければ、「大和朝廷」はできなかったわけですから、記録がなくても存在を否定することはできません。そして、その直系の男子が、今の天皇につながっています。
六 日本の神話
「歴史の記録」というものは、そのときの権力者が中心となってまとめたものです。したがって、ときの権力者に都合の良いように書かれるのが普通で、それが歴史の真実かどうかはわかりません。しかし、当時の時代背景や政治状況は判断できます。そういう意味で、現在残されている「歴史書」は、ある程度は「疑問」を持って見る必要があります。
さて、大和王朝の誕生により、いよいよ、国が統一されたわけですから、その歴史を残しておく必要があります。それは、中国から入ってきた文化から学んだともいえます。当然、文字として「漢字」が入ってきていますので、漢文で記録を残すことは、当時の日本人でも十分に可能でした。そこで、国の成り立ちを「神話」という形で表しました。しかし、これも不思議なことではありません。世界でも、神話に基づく建国の物語を持っている国はたくさん存在します。その方が、「英雄伝説」を創りやすいのでしょう。日本は、建国のお話を「神々」の物語としました。
神話ならば、生々しさが和らぎます。血みどろの争いの結果、国を建てたというより、「高天原からの神が、地上界に降りられた」という方が、神秘的で、生々しさがなくなります。それは、きっと似通った出来事はあったのだと思います。例えば、天照大神が須佐之男命の乱暴狼藉に困り果て、天の岩戸に隠れる物語がありますが、これを実際の世界に当てはめると、「姉弟が相争った結果、一回は姉が敗れ、山の奥に逃げ込んだが、弟の政治があまりにも酷く、姉を復権させようとする一団があり、密かに企て蜂起して弟を国から追放することができた」ということが真実なら、「天の岩戸伝説」になっても不思議ではありません。この頃、卑弥呼のような女王が存在していたわけですから、大和王朝の王も最初は、「女王」だった可能性があります。今で言う「予言者」「巫女(みこ)」であれば、神に仕える尊い女性ですから、人々も信頼して服従していたのかも知れません。それが、強い武人を率いた弟が、姉である女王を攻め、一旦は国を奪ったが、勝手気ままな振る舞いに、人々が元女王を先頭に蜂起した可能性があります。
次に有名な、「八岐大蛇伝説」があります。山をも越えるような八つの首を持った大蛇が村を襲う物語ですが、これを想像すると、恐ろしい山岳地帯に本拠地を置く豪族が、大和王朝に対して敵意をむき出しにして攻撃してきたと考えられます。女王の軍隊は、それほど強力ではありませんでした。大和王朝も、当初は脆弱で、いつ滅んでもおかしくないような状態だったのでしょう。そうでなければ、八岐大蛇は、あれほどまでに恐ろしい大蛇には描かなかったと思います。いくつもの山をまたぐような大蛇でありながら、八つの首を持つ恐ろしい姿からは、とてつもなく強大な王がいたことを暗示しています。大和の王は、恐れおののき、生け贄を差し出し、酒でもてなすような弱い王朝でした。その弱い王を助けたのが、高天原から追放された「須佐之男命」だったのです。つまり、大和の王は、一度は争った弟に救われることになりました。そして、八岐大蛇を退治した後、その尾から見つかったのが、皇位を継承するために必要な「三種の神器」の一つである、「天叢雲剣」だったのです。
八岐大蛇に準えた「王」は、だれだったのかはわかりません。そして、その王を倒した後、手に入れた剣が、今なお、皇室に継承されているという事実は、神話が現実になったかのような錯覚すら覚えます。こうして、建国神話は、その物語と共に語り継がれ現在にまで至っています。
もし、建国の記録を難しい文書として残されたとしたら、正確に記されていても、専門家以外が読むことはありません。それでは、多くの人々に知らしめることにはならないのです。こうした智恵が、古代の日本人にはあったということです。
このほかにも、たくさんの神々が日本の神話には登場してきますが、必ずしも立派な神様ばかりではありません。意地悪な神様や、ずる賢い神様も登場してきます。つまり、日本人は、神様を「絶対神」とはしませんでした。神様でも欠点の多い、人間臭さが出てきます。だから、貧乏神や疫病神も日本では、「神様」の一柱なのです。
七 聖徳太子
「聖徳太子像」といえば、昭和中期の一万円札が有名です。今の物より一回り大きく、重厚な造りで、当時の物価から見れば、今の十万円くらいの価値があったように思います。その高額紙幣の肖像画が聖徳太子ですから、子供心にも、さぞや立派な人なのだろうと強く心に刻まれました。
さて、歴史の中で「大和朝廷」が誕生したとされるのは、西暦300年代の頃と言われています。もちろん、正確に「○○年」という記録がありませんので、不確かです。しかし、この頃、大きな古墳が造られ、今の近畿地方を中心に大きな豪族が「王」として、勢力を持っていたことは明らかになっています。聖徳太子が活躍するのは、600年代初頭の頃だと言われています。大和朝廷創立から200年くらい後の時代になります。
近畿地方を中心に、その勢力を拡大していった大和朝廷ですが、最初から整った国の体制ができていたわけではありません。朝廷の内部でも天皇の家来たちの勢力争いがありました。やはり人間ですから、みんな仲良く話し合いで、というわけにもいかないのです。
第33代の天皇になられた推古天皇は、女性天皇でした。皇位は、当初から男子が即位するきまりになっていましたが、政治的な混乱があり、次の天皇の中継ぎとして即位したと伝えられています。
推古天皇は、第31代の用明天皇の子である厩戸王(後の聖徳太子)を皇太子として政治を任せました。いずれ、天皇の位を譲る考えがあったのでしょう。皇太子となった聖徳太子は、新しい政治を次々と成し遂げました。「十七条の憲法」、「冠位十二階の制」などを整えました。
聖徳太子は、摂政として天皇に代わって政治を司る責任がありました。このころの天皇は、後の「象徴」的な役割ではなく、政治の実権を握って、どんどん改革を進めていく存在でした。そうしなければ、まだまだ国はまとめられなかったのです。
聖徳太子が、十七条の憲法や冠位を定めたのも、国の運営には、「秩序」が欠かせないと考えていたからなのです。憲法は、国の最高法規です。どんな法律も憲法の趣旨に従わなければなりません。そして、冠位は、朝廷での役人の位を定め、「上下の区別」を明確にしたのです。そうしなければ、上位者からの指示を下位の役人に徹底できないからです。そして、賞罰を明らかにして、朝廷内部の秩序の安定を図ろうとしました。
今でも、人々は「平和」を口にしますが、平和を保つためには、秩序が必要です。みんながルールに従い、上位の人の指示をよく聞き、褒める、叱るがはっきりしていれば、気持ちが安定します。要するに、「まじめな人が損をしない」社会づくりです。聖徳太子は、そんな社会を望んでいました。
また、新しく中国から入ってきた「仏教と日本の神道を融合」する考えを広めました。今でも、日本の家に仏壇と神棚があり、仏様と神様が一緒に祀られています。これは、外国の人から見たら、すごく不思議な光景だと思います。ひとつの家に別の宗教があるなんて、考えられないからです。
聖徳太子は、「異なる宗教であっても、人々にとって大切な教えとなるなら一緒に祀ってもいいではないか」という柔軟な発想の持ち主でした。それは、聖徳太子が、十七条の憲法に、「和を以て貴しとなす」と書かれたことからもわかります。
日本にとって、仏教の教えも、日本の神様の教えも、どちらも大切だと考えていたからです。
仏教は、今では日本にしっかり根付いていますが、「人間は、亡くなれば、皆、仏となる」と言って、善人も悪人もありません。亡くなった方に手を合わせて供養するのに、善悪は関係ないのです。こうした考え方の元は、聖徳太子の「和」の精神にありました。
中国の王朝は、日本からの使者が「わ」の国といった発音を聞き、「倭」と漢字で表記しましたが、「倭」とは、「和」ではなく、「小さな人」という意味になります。邪馬台国や卑弥呼のように、あえて、差別的な文字を遣い、上下関係をはっきりさせようとしたのです。しかし、当時の日本は、やはり「和の国」だったのです。
中国から伝わってきた仏教は、けっして悪い教えではないと考えた聖徳太子は、天皇にも勧め、日本の神々を祀る「神道」と仏教を融合させたのです。だから、日本人は、宗教に寛容で、キリスト教も行事としてのクリスマスを祝うことができるのです。
「お正月」は、神道に基づく行事ですから、わずか数日間の間に、二つの異なる宗教行事が入り交じって来ますので、日本人には当たり前でも、世界から見れば、大変面白いと考え方だと思います。この、宗教に対して柔軟な姿勢を示したことで、日本人は「寛容」の精神を育むことができたのではないでしょうか。
また、聖徳太子が、中国(隋)の皇帝である「煬帝(ようだい)」に、「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。恙なきや」という書を遣隋使に託した話は有名です。当時の中国は巨大な帝国です。その国に対して小さな東の小国だった日本の皇太子が、「日没する処の天子」と、中国の皇帝に挑戦するかのような文書を手渡したプライドが、その後の日本の有り様を決めました。
つまり、「日出る処の天子」(天皇)と「日没する処の天子」(中国皇帝)は、対等だと宣言したのです。これ以降、日本は、中国に支配されたことは一度もありません。こうして、聖徳太子は、日本という国と日本人の生き方を決めた人物だと言えるのです。
八 天皇家(皇室)の継承
初代神武天皇は、紀元前660年も前に皇位に就かれたとの神話が残されています。そこから現在の天皇まで126代にわたり脈々とその遺伝子を受け継がれています。それでは、どうして、こんなに長い間皇室は続くことができたのでしょうか。それは、どうも日本の神話に関係がありそうです。日本の神話が書かれているのは、「古事記」「日本書紀」といわれる朝廷の公文書です。今でいえば、日本政府が正式に国の成り立ちをまとめる際、「神話」として記録したということなのです。この日本神話によると、日本を創られたのは、高天原の神様たちです。そして、地上界を治めるために、高天原の主人である天照大神が、自分の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を遣わしました。そして、天照大神の子孫が、正式に日本の国を治める正統な継承者となったのです。これが、「天皇」です。
こうした記録書が、当時の朝廷(政府)に正式に受け継がれてきたわけですから、天皇以外の者が、国を治めることはできません。この記録書の継承が行われている限り、日本を治める権利は、天皇にしかないことがわかります。
日本の歴史を見ると、「天皇になろうとした人間」がいなかったわけではありませんが、天皇の制度を変えようとした人はいません。それくらい、天皇は「神の継承者」という認識があったということです。ですから、天照大神、瓊瓊杵尊に連なる子孫が、皇位を継承することについては、異論が出ることはありませんでした。
古代の人々の考え方には、非科学的な要素がたくさんあります。卑弥呼の時代は、まさに「占い」「予言」「祈り」の時代です。人間が人間らしい営みができるようになったと言っても、家屋は粗末で、寿命も短く、自然災害にはひとたまりもありません。それでも、生きるためには、その場所に固執し、逃げ出すこともできなかったのです。
日本列島は、南北に長く、中央は急峻な山岳地帯です。また、河川の周辺は湿地帯で、人が暮らせるような場所ではありません。そうなると、人間は、乾燥した土地を求めます。しかし、食糧の収穫が期待できる河川や海の近くにも居たい。山の木の実も欲しい、となれば、安心して暮らせる場所は、わずかです。
だからこそ、山の麓で畑ができたり、小さな川が流れているような場所を好みました。
それでも、自然災害の猛威は人々を苦しめました。その上、疫病もあります。見えない力によって家族や仲間が死んでいくのです。そうなれば、人間にできることは、「占い」によって、吉兆をあらかじめ知ることです。この「神のお告げ」と言うべき、予言があたる巫女は、神の如く扱われ、卑弥呼のような女王にもなったのでしょう。それでも、叶わぬ時は、「天に向かって祈る」ことです。今も続く、五穀豊穣の祭りなどは、この「祈り」を儀式化したものだと考えられます。
この日本人の感性は、おそらくは、私たち自身にも受け継がれているものです。それは、「畏れ」というべき感性なのです。
そう考えると、天皇という存在は、「神に一番近い存在」であり、「人々の安寧を祈る唯一無二の存在」だということがわかります。
もちろん、御仏に仕える位の高い僧や、神官はいます。しかし、天皇を超える存在は、地球上には存在しません。だからこそ、人々は、天皇を敬い、畏れ、その地位を襲おうなどという恐ろしい考えを持つ者はいなかったということです。
この「畏れ」について、もう少しお話しすると、大和王朝が出雲王朝を倒したとき、その死者の怨霊が祟らぬように、出雲大社を造営し、大国主命を祀りました。
平安時代に、上級貴族たちは、菅原道真を計略によって九州に流してしまい、その地で道真が亡くなると、道真が怨霊になるのではないかと恐れ、「太宰府天満宮」が造営されました。また、同じ平安時代に、平将門が関東で乱を起こし、朝廷軍がこれを滅ぼした後、その祟りを恐れて、江戸に「神田明神」が造営されています。
このように、日本人は、「祟り」とか、「怨霊」をとても恐れていたのです。そして、その魂を丁重に弔い、祀ることで祟りを鎮めようと考えました。
現代人には、とても非科学的な行為に見えますが、それなら、病気の回復を願って神様にお願いをしたり、受験で合格できるように神社の絵馬に託すのは、どういう理由でしょうか。
結局、日本人は、そんな「畏れ」を抱くと共に、「祈る」ことで心の安らぎを得ようとする人々なのです。また、大和朝廷のすごいところは、「天皇」という存在が、地方の豪族のひとつであったものを、「王」を名乗らず、「天皇」を名乗ったことにあります。
中国にも皇帝はいますが、「天」という文字は遣われていません。言葉の響きにおいても、天皇は皇帝の上位にあるような気がします。
「天上界におわす神々の子孫だから天皇を名乗るのに、何ら不都合がない」という解釈は、子々孫々まで、この血筋の者が国を統括するという宣言に他なりません。
本来、「皇」は、「すめらぎ」と読み、天下を治める者を指す言葉です。また、「帝」は、「みかど」と読み、やはり皇と同じ意味を持ちます。また、帝には、「北極星」を示す言葉とも言われます。北極星は、北の空にあり、動くことはありません。つまり、天下は、北極星を中心に回っているという意味になります。ですから、中国の「皇帝」は、まさに絶対的君主という意味になるのです。
この「皇帝」は、英語では「エンペラー」という発音になりますが、「天皇」そのものを表す英語はありません。しかし、今、現在、「エンペラー」と呼ばれる君主は、日本の天皇陛下しかおられないのです。
中国でも、ヨーロッパの国々でも、「権力をもった人間が、国を治める」といった考え方が一般的でした。だから、力が弱まり、国が滅ぼされ、次の強い権力者が登場すれば、その人物が「皇帝」となるのです。したがって、中国は、何回も皇帝が交替し、国名が変わっています。現在は、「中華人民共和国」という国名ですが、これも建国は、1949年(昭和24)のことです。しかし、こうした権力者が建国した国の多くは、滅んだり、体制が変わったりしました。たとえば、隣の朝鮮半島には、「李王朝」がありましたが、今はもうありません。ロシアには、「ロマノフ王朝」がありましたが、それもありません。日本のように、体制は変わっても「大和王朝」の流れが、現代まで続いている国は、日本以外にはないのです。だから、世界の人々は、そんな日本の歴史や伝統に敬意を抱いているのです。そして、日本を「歴史や伝統を大切にする国」として、評価しているのです。
今では使われなくなりましたが、戦前までは、「天皇暦」がありました。この暦で見ると、現在は、2670年を超えています。もちろん、神武天皇が存在していたという仮定の下で作成されていますので、不確かな部分はありますが、「暦」というものは、そういった曖昧なものです。私たちが日常的に使う「西暦」も、イエス・キリストの誕生をその紀元にしています。キリストの誕生そのものが神話に彩られており、聖書には、「モーゼの十戒」や「ノアの箱舟」など、不思議な物語が書かれており、人々の関心を高めています。このような不思議な神話や伝説に彩られているからこそ、宗教には神秘性があり、人々の心に響くのだと思います。そういう意味では、日本の天皇暦(皇紀)は、西暦を優に超えていることになります。それは、それだけの長い歴史があった証拠でもあるのです。
ただし、キリスト教は、「イエス・キリスト」という「神の子」の教えがキリスト教という宗教になっていますが、日本の天皇は、違います。
天皇は、確かに「神の子の子孫」ではありますが、「神」としてその像を造り、崇めるようなことはしていません。なぜなら、「神」ではないからです。明治時代以降、「現人神」という言われ方をして、恰も「神」であるかのように政治利用された一時期がありましたが、天皇の行う儀式を見ても、ご自身が神となってはいません。むしろ、日本の神々に国民を代表して「祀る」神官としての役割が求められています。地上の世界を任された神の子孫である故に、天上界の神々に祈りを捧げているのです。
つまり、天皇及び天皇家(皇室)には、人々を、神の力によって命じるような「権力」は、そもそもなかったということです。
歴史に中では、時々、天皇の名で、「勅命」が出されることはありましたが、それは、天皇自身の「命令」というよりも、周囲の政治家たちが天皇に願い出て出して貰うという性質のものです。
有名な物として、1936年(昭和11)2月26日の二・二六事件と際の勅命がありますが、あのときは、天皇親政を夢見た陸軍の過激派青年将校が、天皇の重臣たちを暗殺したことによって、昭和天皇ご自身が怒り、反乱軍の討伐を命じました。それは、当時の軍幹部や政治家たちが、反乱軍の鎮圧に躊躇しているため、その混乱を鎮めるために、昭和天皇が命じられたものですが、後に、昭和天皇は、この「命令」を深く反省されています。
昭和天皇は、自分の怒りの感情のまま、勅命を発したことに深い後悔の念を抱いたことと、天皇という地位にある者が、「独裁」になってはいけないことをよく理解されていたのです。また、太平洋戦争(日本では、大東亜戦争と呼ぶのが正式)の終戦の決断をされたとき、終戦の判断(聖断)が下されましたが、これも、時の総理大臣に促され、最後の最後に、自分の意見を話されたものでした。
このように、昭和天皇は、自分の感情を抑制し、自分行動が、誤解を与えないかどうか厳しく戒めておられたのです。
この「権力」の行使を厳しく制限してきたことが、皇室を存続させる原因ともなりました。もし、皇室が、日本の絶対王者となり、大きな権力を使って国民を服従させていたとしたら、いつか、敵対する勢力と争い、滅ぼされることになったかも知れません。
「権威」は、歴史と伝統の中で、唯一天皇だけが持てるものでした。しかし、「権力」は、時の将軍家や有力大名家など、時代によって大きく変わります。歴史を見ても、今の時代に平氏や源氏がどこにいるのか、わかりません。織田家や豊臣家も同様です。辛うじて、徳川家が宗家を継いでいることが、わかっている程度です。こうした、権力者は、いずれ、時代と共に消えていく運命にあるのです。
しかし、日本唯一の「権威者」である天皇と皇室は、「日本の神々の子孫」という神々しい尊厳と、神に仕える最高位の位と、冠位を与えることのできる特権を持つことで、権力者のだれもが侵すことのできない存在となっていったのです。
九 武士と貴族
日本でいう貴族は、朝廷に仕えていて官位を得ている人を言います。武士の中でも平清盛、豊臣秀吉、織田信長などは、武士の中でも特に高い官位を持った人たちです。大きな軍事力を有し、本人も武将として生きてきた人たちですので、貴族の官位はありますが、武士として区分されます。
そもそも、日本が国として統一された頃、豪族たちは、身分の区別をしていたわけではありません。ムラの有力者がリーダーになり、他のムラとの戦いを指揮しました。神武天皇もそうした戦う武人だったことは、錦絵にも描かれています。それが、大和朝廷によって「国」としてまとまってくると、朝廷に仕える者と地方にいてムラを守る者たちに分かれいきました。朝廷の支配を受けていたとしても、地方は地方の政治がありました。まして、今のように情報機器が発達した時代とは違います。地方のムラは、税を朝廷に納めることで、その地の支配が許された豪族という扱いだったのです。「国人(こくじん)」という言い方もあります。
その朝廷の支配が進んでくると、富を持つ者とそうでない者との差が大きくなっていきました。奈良時代や平安時代には、「荘園」という貴族の領地が各地方にありました。朝廷に仕えた上級貴族は、富を蓄え、荘園を経営していたのです。そして、そこに代官を置き、その代官が、貴族の代わりに荘園を治めました。そこに自衛団としての「武士」が誕生したのです。
地方の武士たちは、貴族に代わって荘園という領地を治めるわけですから、日常的に武装し、荘園の管理を行うと共に、荘園外の勢力からも荘園を守る必要がありました。領地といっても、特にだれが保証してくれるわけでもなく、奪われればそれまでのことです。結局は、力の強い者が支配する構造に違いはありません。そんな地方の中には、平氏や源氏のように、元々皇族出身の貴族がいました。都では、皇族や貴族だと言っても、その中枢にいなければ権力を持つことはできません。藤原氏のように、天皇の側近として長く仕えてきた貴族は、実質の権力を握り、朝廷内に君臨していました。そうなると、天皇ですら、権威者でしかなく、実権はありません。藤原氏に連なることのできない貴族は、それならば、地方に行って荘園を経営した方が、実際の権力を行使し、富を蓄えることができます。そうして平氏や源氏などの貴族は、地方に出て行ったのです。地方に出れば、皇族の末端といっても「貴種」ですから、それなりの扱いを受けることになります。まして、都にも同じ一族はいます。平氏や源氏の一部は、全国に下っていきましたが、一族郎党を率い、それなりの武力を持っていましたので、地方では一大勢力を誇るようになりました。「西の平家、東の源氏」と言われますが、勢力分布として考えると、藤原氏たち有力貴族が、京に居て地方の様子がわからないまま、都から離れたところで、強力な武士団が誕生していったのです。
もうひとつ、大切なことがあります。それは、日本にあった「穢れ」思想です。日本の神話には、「穢れを清める」という場面が出てきますが、日本人は、この「穢れ」を極端に嫌います。それは、神話に基づく思想なのですが、身分の高い者ほど、それは極端に現れます。まして、「血の穢れ」など、おぞましく思ったことでしょう。だから、警察とか軍隊とかを嫌うのです。そんな穢れを扱う職は、高貴な者のすることではありません。したがって、「武士」たちが、その穢れを司る役割を担うことになったのです。
朝廷内では、武士の階級はありません。「令外(りょうげ)の官」と言われるように、「律令」の外になる役職なので、令外の官になります。「律令」は、今で言う「法律」と「法令」になりますが、それは、あくまで京に通じる規則であって、地方にまでは徹底できませんでした。
武士という者は、貴族の中でも低い身分に甘んじ、天皇が直々に声をかけることはありませんでした。後に、源頼朝や徳川家康が幕府を開きますが、武士の最高位である「征夷大将軍」と言っても、所詮は、臨時遠征軍の指揮官という職名です。現代でいえば、日露戦争で活躍した乃木大将くらいの階級でしょう。乃木大将は、第三軍の指揮官で、旅順方面担当軍司令官でした。つまり、階級的に言えば、朝廷の中位の下くらいの役職です。それも「令外の官」ですから、任務が終われば、役職も解かれ、ただの「中の下」くらいの貴族に戻るだけの地位になります。そうなると、身分上は、太政大臣や摂政、関白などは、雲の上の存在で、許されなければ、直接口もきけません。
しかし、世の中の「穢れ」を一手に引き受けてくれる役職ですから、朝廷としても疎かにはできません。その上、強大な武力を持っているわけですから、ちょっと脅されれば、何も言えなくなるのが、貴族というものでした。
この時代は、単に階級だけで判断ができないところが、面白いと思います。
地方に下った武士たちは、荘園を守る傍ら武芸を磨き、家来たちを育てていきました。機動力の要は、「馬」です。日本馬は、小型で今のサラブレッドのように速くは走りませんが、その分、頑丈で長時間酷使しても倒れたり、けがをしたりしませんでした。この馬を調教し、武術に取り入れたのも武士たちです。
皇族や貴族出身の武士たちは、当然、官位がありますから、武士の中でもリーダー的存在になりました。なぜなら、やはり位の高い貴族出身だからです。武士たちにとって、やはり官位は、名誉であり、憧れの地位でもあったのです。こうした感覚があったからこそ、天皇からの「勅命(ちょくめい)」は、自分の命を懸けてもいいと思うくらいの価値がありました。それが、江戸時代末期の攘夷運動に表れます。
武士とは、「名を残すことを名誉」と感じる集団だったということを覚えておいてください。この「名誉」という考え方が、武士としての「誇り」を持たせ、「潔く散る(死ぬこと)」が、武士の本懐といわれました。この思想は、昭和時代にまで続き、昭和の軍人たちが名誉と誇りのために死地に向かったのは、戦争の歴史で知っていると思います。
十 武士の棟梁・平家
平氏は、桓武天皇の血筋ではありますが、朝廷内で偉くなれる立場ではありませんでした。せいぜい都の武士の棟梁として、都の治安を守るのが精々です。身分も高くないので、朝廷内での発言力も弱く、穢れを扱う者として、差別されることもありました。しかし、そんな平氏も平清盛の時代を迎えると、朝廷内での発言力も増してきました。平氏の中でも平清盛の一族を特別に「平家」と呼んでいます。
それだけ、平家の武力が強大となり、源氏と争った「保元平治の乱」に勝利すると、都の貴族たちは、平家を粗末に扱うことはできなくなりました。なぜなら、貴族たちは、都の勢力争いに武士を利用したからです。当初、上級貴族たちは、身分の低い武士など軽く見ていました。自分たちの用心棒でも雇ったかのように、武士たちを扱ったのです。最初の頃は、そんな扱いに「臍を噛む」思いで、我慢をしていた武士たちですが、次第に強い武力を持てば、それを誇示し、自分たちの地位を高めようとするのは、当然のことです。 清盛は、それを実行した武士の棟梁でした。平清盛は、保元平治の乱で源氏を倒すと、
強大な武力を背景に、朝廷に次々と官位を要求し、ついには、貴族の最高位である「太政大臣」にまで上り詰めました。武士たちによる「下克上」の完成です。
都の武士たちは、本当に気持ちがよかったと思います。今まで、散々馬鹿にされ虐げられてきたわけですから、偉そうに振る舞っていた上級貴族たちを見返して、都では大いばりです。清盛は、味方をした武士たちに褒美を振るまい、権力を与えました。こうして、貴族は武士たちに取って代わられたのです。
そうなると、天皇としても、面白いはずがありません。「穢れ」を司る者共に、都を自由に荒らされる気分がしたことでしょう。そこで、平家のライバルである源氏を焚き付け、武士同士で争わせ、漁夫の利を得ようとしたのです。しかし、平家の勢力は増すばかりで、平家を倒すことなど、不可能だと考えるようになっていました。
保元平治の乱で敗れたとはいえ、源氏も、武士の世の中の到来を予感していました。
「平家を破れば、次は源氏の時代が来る」そう考えていたのです。
平家は、いや平清盛は、絶大な軍事力を背景に、朝廷の官位を上り詰めました。自分の子や縁者なども次々と高い位をもらい、「平家にあらずんば、人に非ず」とまで言われるようになりました。
平家も元々は、桓武天皇の血筋ですから、貴族として成り上がっても不思議ではありません。しかし、そんな平家も結局はリーダー次第でした。清盛が病で亡くなると、平家の力は弱まり、ついには、最大のライバルだった源氏に滅ぼされてしまうのです。
平家という武士団が、貴族化していったことで、武士としての本質を忘れ、戦う集団ではなくなっていたのかも知れません。清盛にしてみれば、「征夷大将軍」という位は、所詮、武士の棟梁の地位でしかなく、それでは貴族たちの上には立てないと考えていたのでしょう。その地位においても、権力においても、すべてを貴族の上に立ちたいと欲張ったために、滅びる運命にありました。それを見ていた源氏の棟梁である源頼朝は、地位などは征夷大将軍で構わないと、官位には拘らず、全国の武士団を束ねることに心血を注ぎました。その結果、官位は低くても、実力は、朝廷を凌ぎ、名実ともに日本の王者となったのです。
平家は、「源頼朝(よりとも)」や弟である義経などの活躍により「壇ノ浦の戦い」で滅びました。その最期は、一族郎党、女子供まで瀬戸内海の海に身を投げて名実ともに滅んでいきました。その滅びの美しさが、哀愁を誘い、「平家物語」という作者不明の名作と共に、現在まで語り継がれています。
冒頭の、
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久からず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂にはほろびぬ、偏ひとへに風の前の塵におなじ」
は、特に有名で、もの悲しい響きがあります。この物語は、誕生の頃から琵琶法師という盲目の僧が、楽器の「琵琶」を弾き語りで伝えられました。結局、平家は滅びましたが、平氏自体は、次の時代の戦国武将にも受け継がれ、織田信長も平氏一門だと言われています。
十一 源頼朝と鎌倉幕府
頼朝は、保元平治の乱で敗れた「源義朝(よしとも)」の長男です。当然、後のことを考えれば、子供とはいえ殺しておくほかはありません。それが、清盛の温情で助かり、伊豆に流されたのは、運がいいとしかいいようがありません。
清盛は、母である池禅尼(いけのぜんに)に少年頼朝の命乞いをされて、頼朝を救ったとありますが、源氏と平家という永遠のライバル関係の中で、武士同士が戦うのを苦々しく思っていたのかも知れません。なぜなら、この当時の武士は、貴族の用心棒の扱いしか受けなかったからです。
本来は、上級貴族たちに刃を向けたいと考えていた武士たちですから、清盛の中に「源氏を残しておきたい」と考えても不思議ではありません。
ともかく、こうして頼朝、範頼(のりより)、義経(よしつね)という義朝の子供たちは、生かされました。後に、彼らは、「源氏の御曹司」ということで、源氏の武士たちのリーダーになっていきます。
その中で、一番の問題は頼朝です。頼朝は嫡男です。つまり正統な源氏の嫡流ですから、いつ何時、源氏ゆかりの武士たちが祭り上げないとも限りません。そこで、清盛は、京から遠く、伊豆に流し、罪人として生涯を終わらせることにしました。
伊豆の北条氏に監視を命じ、世捨て人のような暮らしが何年も続いたのです。しかし、
東国は、元々源氏の支配が強かった地域です。
よりによって、源氏の故郷のような地域に流すとは、清盛の腹の底が知れません。
当然、その頃は、東国も平家が支配していましたが、心の中では源氏を慕う武士たちも多くいました。その棟梁たるべき御曹司が、伊豆にいるわけですから、周囲には、それを知って気にかける武将が多くいたはずです。「いずれ、源氏の時代が来れば、俺にも出世の糸口が見つかる…」そんな気分だったことでしょう。後に執権となる「北条時政(ときまさ)」もそんな武将の一人でした。
その頃、朝廷の中で、平家の横暴に耐えかねた以仁王(もちひとおう・後白河天皇の皇子)は、全国の源氏に「令旨(りょうじ)」(皇子が出す命令)を発し、挙兵を促しました。しかし、以仁王程度の皇子の命令で動く武将はいません。しかし、頼朝の運は、ここから開け始めました。
翌年、ついに平家の権力の源であった平清盛が亡くなったからです。そうなると、この以仁王の命令は、いい口実になりました。「皇室を守る」という名目は、挙兵の大義になります。頼朝がどこまで本気だったかはわかりませんが、運が味方したことだけは間違いありません。「源氏の御曹司が立った!」という噂は、四方に飛び、続々と頼朝軍に味方する武将が増えてきたのです。それは、源氏だけとは限りませんでした。平氏の中でも、清盛らに粗略に扱われたような一族は、源氏についたのです。そこに、範頼、義経が馳せ参じました。特に義経が、藤原氏(武士となった藤原氏一族)が支配していた奥州平泉(ひらいずみ)から駆けつけたことは、後の平家との戦いに大きな戦力となっていきました。 義経は武術に長け、柔軟な戦略思想を持っていました。おそらくは、軍略の天才だったと思います。それは、幼少期からの預け先が、京の「鞍馬寺(くらまでら)」と関係がありそうです。ここにも疑問は残りますが、なぜ、源氏の御曹司と呼ばれるような少年を、都に置いておかなければならなかったかと言うことです。流すのなら源氏に関係のない「隠岐島」や「八丈島」などに流しておけば、他の源氏の影響を受けることは少なかったのではないかと思うのですが、その背景はわかりません。
とにかく、義経は、鞍馬寺の山伏(やまぶし)から、山岳武術のような技と智恵を学んでいたようです。それは、普通の武士たちではあり得ない修行の場でもありました。そのため、義経の戦略は、すべて「奇策」です。今で言えば、「ゲリラ戦」を得意としていました。大軍を擁して攻め立てる戦法ではなく、少数精鋭の兵をもって敵の大軍を攪乱し、一気に中枢を突くという戦法です。これが、見事に当たったことで、義経は英雄となり、源氏が平家を滅ぼす大きな要因となりました。
こうして「源氏の御曹司」を生かしておいたために、平家は滅ぼされたのです。
しかし、清盛たちが貴族化することなく、武士として生きようとしていたらどうだったでしょうか。貴族の嫉妬を受けることなく、そして、武士の棟梁として「武士のために」政権を握ったとしたら、源氏が再登場する機会はなかったはずです。その平家の滅亡をつぶさに見て来た故に頼朝は、最後まで「武士」であろうとしました。
そして、朝廷での官位など問題にせず、武士の棟梁たる資格を得るために、「征夷大将軍」の位に就き、鎌倉幕府を開いたのです。朝廷の貴族たちにしてみれば、武士など元々穢れを生業とする卑しい身分の者共です。清盛たちのように、源氏が朝廷に入ってくることを酷く嫌いました。征夷大将軍など、貴族であれば、だれも望まない「令外の官」です。「頼朝が欲しいと言うのであれば、くれてやる」くらいの感覚だったのでしょう。その上、京都に昇らず、関東の鎌倉という辺鄙な地に住まうというのですから、朝廷は万々歳です。「これで、京の都から武士がいなくなるわ」とほっとして気を緩めました。そこに隙が生まれ、武士たちは着々とその勢力を拡大していったのです。
その上、鎌倉は天然の要害です。頼朝たちにとって、鎌倉幕府を開いたと言っても、政権を朝廷から奪えるかどうかはわかりませんでした。また、朝廷は弟の義経を掌中に収め、虎視眈々と幕府打倒の機会を窺っています。朝廷にとっては、武士が政権を担うなどあってはならない事態だったからです。
平家が倒され、源氏も鎌倉に去ったにも関わらず、頼朝は鎌倉から全国の武士たちに檄を飛ばしていました。頼朝にしてみれば、武士の棟梁になったといっても、政権は不安定です。奥州には藤原氏が控え、いつ敵対勢力にならないとも限りません。そこに、義経が朝廷で官位を貰います。「検非違使(けびいし)」という、単なる「警察の長官」程度の軽い官職ですが、何かと朝廷の機嫌を伺う義経に対して、頼朝が、危うさを感じていたことも事実です。弟とはいえ、腹違い。一緒に育ったこともなく、義経は奥州藤原氏に庇護されていました。その上、軍略の天才の名をほしいままにした英雄です。放置すれば、義経の軍門に降る平家の残党や源氏の一族が出ないとも限りません。その上、奥州藤原氏は、莫大な「金」を保有しており、その軍団は侮れません。
周囲を敵に囲まれていると判断した頼朝は、敢えて、攻めにくく守りやすい鎌倉に拠点を置くことにしたのです。
今でも鎌倉の「切り通し」が残されていますが、山側からは大軍に攻められないような地形になっています。また、海側は広く開けており、あれでは、軍船などで攻めてきても、守る側に有利です。要するに、鎌倉幕府は、戦闘態勢のまま、幕府を開いたことになります。
鎌倉幕府とそれに従う武士たちの関係は、「ご恩と奉公」ですが、当時の頼朝にしてみれば、政権基盤は脆弱で、武士の棟梁と言っても、みんなが簡単に従うわけではありません。地方の武士たちは、強い者には靡きますが、一旦、弱みを見せれば、すぐにひっくり返そうと狙っているのも武士なのです。つまり、「自分の味方になって活躍すれば、恩賞が貰えて、一族郎党や領地を増やすことができる」から、従うだけのことです。平家は、それができなかったので、滅んだという理屈です。そのため、頼朝は、常に緊張感を強いられ、弟といえども、心を許すなどということはできませんでした。
「忠義」という思想が出てくるのは、もっと先の時代の話です。
十二 源義経
義経という武将は、軍略の天才でした。子供の頃の京の鞍馬山の伝説や、弁慶との出会いなど、昔から物語として語り継がれるような華のある人物です。とても魅力のある武将だったのでしょう。京の鞍馬山で山伏たちから修験道や山岳武術などを修行した義経は、他の武将と違い、忍者のような身のこなしができました。戦術も大軍をもって正攻法でぶつかるような方法は採らず、相手が思わないような奇策を得意としていました。それは、当然です。山伏たちが山岳地帯で敵に襲われたとき、森や岩、川などの自然を上手に利用して身を隠し、敵に気づかれないように近づき殲滅するのが、山伏たちの技なのです。
鎌倉時代の武将のように、「やあやあ、我こそは、○○の住人、某でござある!」なんて、大音響で叫ぶようなことはしません。軽い武装で、そっと近づき寝首を掻くくらいの戦い方をしたはずです。要は、義経には、そういった奇策しか戦い方を知らなかったともいえます。しかし、実際に平家と戦ってみると、その奇策がまんまと嵌まりました。一ノ谷の戦いでは、「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」と言って、手勢を率いて崖下に陣取る平家の軍を、崖の上から馬で駆け下り、敵陣を混乱させ、源氏軍を勝利に導きました。 屋島の戦いでは、小舟の戦いを指揮し、暴風雨を味方にまっしぐらに屋島に陣取る平氏軍を奇襲で襲い勝利しました。最後の壇ノ浦の戦いでは、小舟から小舟に飛び移り、軍勢を指揮し、平家を滅亡に追い込みました。このように、義経は、常に「奇襲」を得意とし、自分の作戦を強行に主張し成功に導いたのです。鎌倉武士たちは、こんな作戦を見たことがありません。戸惑う者や憧れる者、嫉妬する者と、多くの武将たちが羨望の眼差しを義経に向けました。しかし、この作戦が成功したのは、当時の武士たちが、戦争の仕方を知らなかったからだとも言えます。まして、集団戦にはなれておらず、個々の技量がものをいう時代です。義経のような奇襲戦法は、当時のプライドの高い武将たちには、「邪道」のように見えたはずです。「正々堂々と名を名乗って一騎打ちで戦う」ことを美徳としていた武士たちにとって、「勝てばいい」という義経戦法は、正直、気に入らなかったのだと思います。それは、兄頼朝も同じでした。その上、義経は政治には疎く、朝廷に利用されているのに、無邪気に「検非違使」程度の官職に喜んでしまいます。
頼朝にしてみれば、「あの、ばかが…」とため息を吐いたことでしょう。兄が怒っているという知らせを受けると、義経は、兄に詫び状をしたため頭を下げますが、頼朝は許しませんでした。それは、兄弟の情より、これからの源氏や武士の行く末を考えなければならない立場だったからです。
朝廷に利用された義経を許せば、鎌倉武士たちから「身内に甘い」という批判を受けます。まして、鎌倉武士団に義経の賛同者は少数です。この時代「勝手気まま」は、許されなかったのです。結局、仲間を作れない義経は、やはり育てて貰った奥州藤原氏を頼りました。当主の「藤原秀衡(ひでひら)」は、健在で義経を匿ってくれたからです。しかし、義経の危機はまもなく迫っていました。秀衡が亡くなると、長男の泰衡(やすひら)が後を継ぎますが、「義経を引き渡せ!」という鎌倉からの要請を拒みきれず、ついには、義経とその家来たちを襲い、殺してしまいました。頼朝は、義経を口実に藤原氏を滅ぼしたかったと言われていますが、真相はよくわかりません。わかっていることは、頼朝軍が、奥州平泉を攻め、黄金で彩られた藤原氏の都を悉く焼き払ったという事実だけです。
まさに、「兵どもが夢の跡」になりました。
秀衡は、本当は、「義経を総大将にして頼朝軍と戦え!」と子の泰衡に遺言していたという説もありますが、これもよくわかりません。また、泰衡は偽の戦いをして、義経主従を蝦夷地に逃がしたという説もあります。どちらにせよ、ここで義経は歴史から消えていきます。兄頼朝にとって、弟義経は、大切な身内だったはずです。しかし、政権が盤石でない時代、弟だからこそ、厳しく罰しなければならなかった頼朝の胸中もわかるような気がします。
義経という人物は、子供の頃から武芸に秀で、無邪気に修行を重ねた人物のようです。その無邪気さや素直さは、人としては美徳ですが、それでは、一軍の将にはなれません。まして、幕府の政治に関与するような政治家としての資質はありませんから、兄頼朝にとっても、扱いにくい弟でした。
義経の家来は、弁慶を初め、多くは藤原氏から付けられた者たちでした。これも頼朝には気に入りません。いずれ、藤原氏を滅ぼそうと考えていた頼朝にとって、義経は、やはり藤原方の武将としか見れないのです。
これも、やはり運命なのでしょうか。頼朝は、もう一人の弟の範頼も「謀反の疑い」で、結局は伊豆に流して殺してしまいます。本当なら、裏切らないはずの兄弟を大切にして、源氏の血を絶やさないようにすべきなのですが、幕府の基盤が整わないときに、そんな余裕もなかったのでしょう。伊豆に流されていた頼朝に、譜代の家来はなく、本当に信頼できる武将はいなかったと思います。だから、妻政子の家である北条氏を頼ったのです。
義経は、伝説によれば、奥州藤原氏が頼朝との戦に勝ち目がないと悟り、義経主従を北に逃がしたと言われています。そのルートは、北海道にまで続き、その後、大陸に渡って得意の騎馬戦で、各地の部族を制圧し、モンゴルの大英雄「ジンギス・カン」になったというものです。
それだけ、義経は、ヒーローとして日本の人々に愛された武将だったのでしょう。
十三 執権政治
頼朝は、源氏の御曹司であり棟梁でしたが、この頃の武士たちは、あまり身分に拘らない、実力社会でした。頼朝を「平家打倒」の挙兵に立ち上がらせたのは、北条時政を主とする関東の武士たちです。北条氏は、元々平氏を名乗っていましたので、平氏とか源氏とか、どちらかに属していないと武士社会では発言力がなかったのかも知れません。時政は、流人となった頼朝の見張り役をしていたようですが、あまり中央の眼も東国までは届かなかったのでしょう。結局は、有利な方につくというのが、当時の武士たちの生き方でした。
鎌倉幕府が、「ご恩と奉公」と言われるように、武士たちは損得で動く実利主義者でした。江戸時代のように儒教的な道徳が定着していない時代、武士は「強い者に靡く」ことが、当然だという考え方です。
鎌倉幕府の将軍職は、一応は世襲ですが、源氏は三代で絶えてしまいます。150年もの間続いた鎌倉幕府でしたが、頼朝、頼家、実朝と23年続いた後に断絶してしまいます。
その後は、藤原将軍、そして皇族将軍と続くわけですから、征夷大将軍なんて、だれがやってもよかったのです。幕府の実権は北条家に移り、「執権政治」が長く続くことになりました。それでも、武士たちが反乱を起こさないのは、「武士が政権を執り続けるのであれば、だれが将軍であろうと構わない」という考え方です。まして、天皇家出身の源氏が長く続き、平清盛時代のようになって貰っても困ります。北条氏が執権として上にいても、出自が他の武士たちと同じ土豪ですから、それほどの権威はありません。いつでも倒せる存在でもあったのです。それが、150年も続くわけですから、北条氏には、リーダーとしての資質のある人間が多かったのでしょう。特に元寇(げんこう)のときの北条時宗(ときむね)などは、日本最高のリーダーとして、歴史にその名を刻んでいます。
北条時宗は、若年ながら、このとき「日本」という国を武士に意識させることに成功しました。それまで、「自分の利益」しか考えなかった鎌倉武士が、一心に国のために身命を賭して戦ったのです。この一致団結した武士たちがいたからこそ、日本最大の国難を乗り切ることができたのです。そういう意味で、執権政治は、成功だったと思います。
十四 元寇
「元」は、モンゴル人の帝国です。源義経の死後、大陸では、「ジンギス・カン(成吉思汗)」が活躍しています。日本と大陸の英雄が、同じ時代を生きていたことに興味がそそられますが、このジンギス・カンは、モンゴルの大平原にいた部族をまとめ、大軍団として成長させ、その指揮の下に、中国から東ヨーロッパにまでまたがる大帝国を創り上げました。これが、モンゴル帝国です。今でも、ジンギス・カンは、モンゴルの英雄です。
中国は、漢民族や満州族、そしてモンゴル人などによって統一され、国が変わっています。鎌倉時代の中国は、「元(げん)」という国名を名乗っていました。その初代皇帝がジンギス・カンになります。
ジンギス・カンは、モンゴルの騎馬軍団を率い、あっという間に大陸全土に侵略を繰り返して、大陸を疾走していきました。その勢いは、まるで燃えさかる「炎」のようでした。
日本に遠征軍を送ってきたのは、五代皇帝の「フビライ・カン」の時代です。当時の元は、大帝国でしたから、「日本も元の家来になるように…」と勧めてきましたが、鎌倉幕府はこれを拒絶します。
朝廷は、オロオロするばかりで何もできません。やはり、敵の侵略に対抗できるのは、強大な軍事力だけです。元にしても、まさか日本が拒絶するなんて思っていませんから、驚きです。しかし、日本は聖徳太子の時代から、独立を宣言してきた歴史があります。まして、誇り高き鎌倉武士たちが、易々と降伏を受け入れるはずもありません。総指揮官は、執権北条時宗です。元に立ち向かったとき、時宗は、まだ二十代後半でした。時宗は、徹頭徹尾、元軍の申し入れを拒否し、「日本の独立」を貫いたのです。このとき、日本に鎌倉武士がいなければ、日本はいとも簡単に、元軍に征服されていたでしょう。
元も最初は、穏便に服属を迫りましたが、元が送った使者を殺されるようなこともあって、日本に軍船を派遣してきました。これが、「文永・弘安の役」です。元軍は、約15万の兵力に対して、日本軍は約6万と言われています。 元軍は、その大軍を軍船4500隻に乗せて攻めてきました。今でも、博多などには、そのときの堡塁(ほうるい)跡が残されていますが、近代兵器で武装して、集団戦法で攻めてくる元軍に、日本の武士たちは驚き、退却を余儀なくされました。しかし、こちらは地の利のある国内戦。向こうは、地理不案内な海上からの上陸戦です。まして、軍船は現在のような鋼鉄船があるはずもなく、板を張り付けた箱船です。これでは、強い荒波には耐えられません。日本では、元軍に勝利した後、これを「神風」と称しましたが、荒い日本海の波と、低気圧の発生によって軍船は難破し、二度の戦いに日本軍は辛うじて勝利することができました。しかし、自然条件だけで勝ったわけではありません。鎌倉武士たちは、己の持てる力を出し切り、元軍の兵士たちに命懸けで立ち向かっていったのです。
今でも、そのときの様子が絵画に表されていますが、鎌倉武士たちは、夜中、隙をついて小舟を漕ぎ出し、敵の軍船によじ登って白兵戦を挑み、船を焼き払ったという凄まじい戦いを繰り広げています。
大東亜戦争中の日本兵も肉弾戦で、アメリカ軍を翻弄した戦いを見せましたが、時代は異なっても日本兵の大和魂は、同じなのかも知れません。もし、モンゴル軍が上陸して、内陸まで攻めてきたとしても、鎌倉武士たちは、ゲリラ戦を展開して、降伏することはなかったと思います。そのくらい、鎌倉武士は、豪傑揃いで江戸時代の武士とは、その面構えが違います。
その二度の遠征で多額の費用を使った元は、それでも、三度目の遠征を計画したようですが、再度、海を渡って攻めてくることはありませんでした。
三度目が計画されたとき、元軍は、二回の遠征時の日本兵の戦いを思い出したことでしょう。命知らずの勇猛な戦い方は、再度の遠征をためらわせたのかも知れません。しかし、このことが、鎌倉幕府の力を弱めたことは間違いありません。なぜなら、元寇は、自衛戦争です。勝利したと言っても、元軍から賠償金を得ることもできません。追い払うことが精一杯で、追撃戦もできませんでした。
そうなると、鎌倉武士と幕府の「ご恩と奉公」の関係が壊れてしまいます。幕府にとっても、想定しない事態が起こってしまったわけですが、この元寇によって、日本人が初めて世界というものを肌身をもって知ったのかも知れません。
十五 鎌倉幕府の滅亡
簡単に言ってしまえば、「ご恩と奉公」の関係が成り立たなくなったからです。
この頃の武士は、「自分の利益」をまず考えて行動していました。武士には、一族郎党が付いてきていました。有力武士に従い褒美を貰い、力を蓄えなければ武士は生きてはいけません。当時の農民も当然、自分の身を守るために武装していましたから、弱い領主になどついてくる家来もいないのです。
鎌倉武士が、「やあやあ、我こそは…」と大声で名乗るのも、勝利したときに多くの恩賞にあずかるためでした。ところが、元寇は、侵略戦争に対する防衛戦争です。敵は日本軍の数倍も強力で、勝利したことが奇跡みたいなものでした。いくら元軍を追い払ったと言っても、敵から得られた物は、なにもありません。幕府が恩賞を下すにも、幕府が自分の財布から戦ってくれた武士たちに恩賞を与えるしかなかったのです。これでは、「ご恩と奉公」の約束が、十分に果たすことができませんでした。武士たちが命をかけて戦ったわけですから、少なくとも官位が上がるとか、新しい領地が増えるとか、目に見える褒美が必要です。しかし、幕府はそれもできず、やむを得ず武士たちが商人たちから借りた借金を棒引きにする「徳政令」を出すことくらいしかできませんでした。これでは、商人たちは、何も保証されず、泣き寝入りするばかりです。そして、こう考えました。「もう二度と、武士なんかに金は貸さない」。つまり、武士は借金をする相手がいなくなってしまったのです。そうなると、幕府への不満はさらに高まっていきました。そこに眼をつけたのが、朝廷です。朝廷は、「よし、今こそ政治の実権を取り戻す好機だ!」と考え、朝廷に味方する兵たちに声をかけ、幕府打倒に向かったのです。それが、後醍醐天皇であり、楠木正成や足利尊氏たちでした。
後醍醐天皇は、もう一度天皇親政を夢見ていました。天皇が、朝廷の儀式や行事などの象徴的な存在ではなく、実際の政治を自分で行い、天下に号令をかけることを夢見ていたのです。
後醍醐天皇は、歴代天皇の中でも希に見る武闘派です。その時代にこうした天皇が現れるのも運命なのでしょうか。天皇自らが号令をかけられれば、その臣下である征夷大将軍は、どうしようもありません。
その頃は、将軍自体が皇族ですから、征夷大将軍としての働きは期待できません。執権は、第十四代の北条高時でしたが、同じ源氏の新田義貞に鎌倉を攻められ、なすすべもなく、自害して最期を遂げました。天皇は日本唯一の権威者です。その天皇に弓引くことは「逆賊」の汚名を着ることになります。元寇から日本を守り抜いた鎌倉幕府が、逆賊になるわけですから、歴史の運命が、どう転がるかわかりません。天皇に逆らうような武士は現れず、鎌倉幕府は、滅びました。それは、それで見事な最期だったと思います。
結局、武士たちは、鎌倉幕府や源氏を守りたかったわけではなく、自分の利益を守ってくれる強い勢力に付きたかっただけなのです。
平家が強くなれば平家につき、源氏が強ければ源氏につく。執権が強ければ言うことを聞き、弱くなれば、簡単に背を向ける。それだけのことです。武士とは、そんな集団だったということです。ただ、楠木正成一族だけが後醍醐天皇が行った「建武の新政」に失敗した後も付き従い、自分の一族を滅ぼしても朝廷と天皇に尽くしました。これが、後に日本の英雄として祀られ、皇居に銅像が建てられました。
十六 室町幕府
鎌倉幕府が滅んだ後、征夷大将軍として京の「室町」に幕府を開いたのが、足利氏でした。足利氏も源氏一族です。初代将軍の足利尊氏は、後醍醐天皇に味方して鎌倉幕府を滅ぼし、源氏の一族だったこともあり武士団をまとめることに成功しました。ライバルには、同じ源氏の新田氏がいましたが、これを戦で破り、名実ともに源氏の棟梁となったのです。やはり、鎌倉幕府は滅んでも、源氏の名前は、武士たちの中では「武士の棟梁」としての権威ができていたのでしょう。だからこそ、朝廷も尊氏に征夷大将軍の位を与えることになったのです。
尊氏は、源頼朝の真似はしませんでした。なぜなら、幕府を天皇のいる京の都に開いたからです。ここにいれば、朝廷を監視することができます。勝手に足利氏に敵対する武士たちに命令を出すことを防ぐことができます。おそらく尊氏は、後醍醐天皇の企みを見て、「貴族どもは、目を離すと何をするかわからぬ」と考えていたのでしょう。強大な軍事力で、朝廷を威圧し、武士に政権を取り戻しました。
後醍醐天皇が尊氏や新田義貞、楠木正成らの力を借りて鎌倉幕府を倒したのは、朝廷に政治の実権を取り戻すためでした。しかし、尊氏や多くの武士たちは、そんなことは考えていませんでした。武士にとって、源氏でも朝廷でも、自分たちに有利なような政治をしてくれれば、文句はないのです。
後醍醐天皇は、「建武の新政」と称する新しい政治に取り組みましたが、三年も続きませんでした。なぜなら、貴族たちは、未だに武士を「令外の官」と呼んで、蔑んでいたからです。「武士など、所詮は身分の低い野蛮な者たちだ」と考え、建武の新政で貴族に政治の実権が戻ってきたと喜びましたが、強大な武力を持った武士たちを調整できる貴族はおらず、実際の政治の経験のない上級貴族たちにできる政治は何もありませんでした。
明治維新後、「王政復古の大号令」を発して、形上は、政治を朝廷に取り戻しましたが、「天皇親政」とは名ばかりで、実際は、明治維新を成し遂げた武士たちによる政治でした。
鎌倉時代以降、貴族に日本の政治ができるほど、社会構造は単純ではなくなっていたのです。
しかし、貴族たちは、そんな深い考えもなく、単に武士たちに政治の実権を奪われたのが悔しく、妬ましかっただけのことです。彼らには、将来の展望も、日本国の独立も頭にはありませんでした。
「天皇親政」とは、朝廷に政治の実権を取り戻すということです。それは、昔のように貴族が「荘園」を経営して、武士たちがその下に置かれることに他なりません。そんなことを強力な武士団が許すはずがありません。まして、幕府を倒したのは、武士たちです。貴族は何もしていません。武士たちは、本音では、元寇のとき、戦いを指揮した鎌倉幕府を認めていました。北条時宗が執権として指揮を執ったから勝利できたことも知っていました。しかし、恩賞がない。これでは、「ご恩と奉公」のルールが破られた不満から、幕府を倒しただけのことです。それを自分の手柄にするような朝廷のやり方を認めるわけにはいきません。
一時は、朝廷に味方した武士たちが次々と離れ、建武の新政は瓦解します。その上、朝廷内部にも激しい対立が生まれました。これが「南北朝」の始まりです。
尊氏は、北朝(京)を支持して征夷大将軍となりました。南朝(吉野)は、後醍醐天皇が立てた朝廷です。既に後醍醐天皇は亡くなり、実際の権威は北朝にありましたが、どちらも「こちらの天皇が正統だ」と主張しあったので、決着がつかず60年もの間、日本に二つの朝廷が存在したのです。
尊氏は、征夷大将軍として、全国の武士を掌握し政治を行いましたが、それは平家と源氏の政治の融合策のようなもので、「ご恩と奉公」のルールは改善されませんでした。
しかし、室町幕府前半は、中国(明)との貿易も盛んになり、三代将軍義満(よしみつ)の時代には、「金閣寺」に代表されるような「北山文化」が花開きました。水墨画や狂言、和歌などの文化が発展していきました。また、八代将軍義政(よしまさ)の時代には、「東山文化」といわれる質素ながらも美しい、日本らしい「美」が、磨かれていきました。
義政は金閣寺に対抗するように質素な「銀閣寺」を建立し、能、茶道、華道、庭園、建築、連歌など多様な芸術が貴族や武士たちだけでなく、庶民にも浸透していきました。今でも、これらの文化は受け継がれていますが、この頃完成したものが、時代に合わせて少しずつ変化し、日本の成熟した文化へと発展していきました。
しかし、足利家も長い年月の間には、地方にまで目が行き届かず、地方の管理を委ねたはずの「守護大名」たちが、その地域の地盤を固め、恰も地方に新しい幕府ができたかのような振る舞いをする大名も出てきました。
有名な、甲斐の武田氏や上杉氏などは、そんな守護大名が、戦国大名になった一例です。
そうなると、全国の大名が各自で勝手に力を蓄え、抗争を繰り返すようになりました。
1467年(応仁元)に、11年にも及ぶ「応仁の乱」が起こります。これも、幕府の有力大名同士の争いから、大きな戦乱になったのですが、原因は、つまらない後継者争いが発端です。幕府の権威が弱まったことにより、重しの取れた実力者が、勝手気ままに振る舞い、権力を奪い合っただけの醜い争いでした。
こうなると、社会秩序は崩壊します。それを取り戻そうにも、征夷大将軍の命令を聞く者もなくなり、その後、100年間にも及ぶ戦国時代が始まりました。
そうなると、朝廷や貴族たちでは、どうすることもできません。朝廷も有力大名を頼って、その庇護の下に存在するだけになりました。しかし、どんなに強大な大名であっても、天皇の権威の前では、ひれ伏し、命に従う態度を変えることはありませんでした。そして、
「神話に基づく、日本の歴史と伝統を守る権威者」である天皇の存在を侵すことはできませんでした。
天皇に逆らうことは、日本の神々に逆らうことであり、それは「逆賊」として、子々孫々まで汚名を着るということになります。「天皇は、神聖にして侵してはならない」唯一無二の存在として、認識されていたのです。
結局、足利尊氏も「後醍醐天皇に弓を引いた武将」として、後の世では「逆賊」となりました。征夷大将軍であっても、一度天皇に逆らえば、「逆賊」の汚名から逃れることはできませんでした。それが、徳川幕府においても同じことが起こります。徳川幕府の最後の将軍慶喜は、この「逆賊」の汚名に耐えられず、兵を引いたと言われています。
十七 戦国時代
八代将軍足利義政の後継者を巡って、有力大名たちが争うようになっていました。それだけ将軍の力が弱まっていた証拠ですが、義政の弟に決まりかけていた将軍職が、義政に子供ができたことで、勢力争いは大名たちを二分し、武力で争うようになったのです。足利尊氏は、「建武の新政」のような貴族の政治に戻さないために、幕府を京の都に置いて朝廷を監視するつもりでしたが、やはり、幕府に仕えた武士たちは、次第に京に馴染み、様々な文化に親しむようになりました。それが、「北山・東山文化」です。文化の発展は、国にとってはけっして悪いことではなく、それだけ平和で成熟した国家になっていった証ですから、喜ばしいことですが、政治となると話は別です。
確かに、京では文化が成熟し、茶道や華道、連歌など貴族的な楽しみは、優雅であり、その高貴な身分の者には相応しい嗜みとなりました。そうなると、たとえ官位は高くても、粗野な武士は、京では相手にされません。「田舎者」とか「野蛮」などと蔑まれることも多かったと思います。朝廷は、大和時代の頃から狭い京都盆地で天皇を中心に暮らしているわけですから、人間関係は濃密です。それに、武士のような仕事は、「穢れ」と称して武士たちに任せっきりですから、特に大きな仕事もないのです。だからこそ、優雅な趣味が広がっていったのです。ところが、朝廷の役人は、貴族ですから官位が高く、朝廷内では上席に座ることができます。天皇に拝謁しても、官位の低い武士(大名クラス)は直答が許されません。それどころか、御簾(みす)の奥に隠れ、顔すらも拝見できないようにしてしまいました。こうなると、天皇は、武士にとって神に近い存在になります。将軍といえども、簡単に会うこともできない高貴な身分ですから、地方の大名など、相手にもされない存在です。しかし、人間というものは、欲深い生き物です。力や財力を蓄え、そこそこの官位を得ると、京に上り将軍家や天皇に拝謁できることが名誉と考えるようになりました。もし、拝謁等が叶えば、国に戻ったとき実力以上の権威が備わるからです。「他の田舎大名とは違う」というアピールは、周囲から一目も二目も置かれました。こうして、大名たちは競って京都を目指そうとしたのです。これを「上洛(じょうらく)」と言いました。
何でもそうですが、人は人と比べて自分が上だという差をつけたいものです。こうして、朝廷には、その権威を頼って各地の大名たちが、金銀や名物などを寄進し、貴族の歓心を買おうと努力したのです。
幕府の役人たちも、知らず知らずのうちに、武士でありながら貴族化し、優雅な趣味を楽しむようになりました。こうなると、地方は、力のある大名家の思うままです。勝手に戦を起こし、領地の奪い合いを始めました。小さな小競り合いが、大きな戦になり、取った取られた争いが頻繁に起こったのです。もう、権威では抑えることができません。応仁の乱は、将軍家の後継者争いが発端ですが、そんなことより、「力によって京を支配したい」という欲望が、大きな戦となりました。しかし、既に幕府にはそれを抑える術はありません。将軍は、全国にいる有力大名を頼り、争いを鎮めようとしますが、そこには、やはり戦が起こります。
こうして、いつの間にか、「戦国時代」と呼ばれる乱世が始まったのです。最初の頃は、山名や細川といった大名が力を持ちましたが、いつの間にか、そんな大名家も没落し、越後の上杉、甲斐の武田、尾張の織田など、自力をつけた新しい大名家が、天下統一に動き出したのです。戦国時代は、1500年頃に始まり1600年まで続きましたので、約100年間、全国で大名たちが争い、最後は、徳川家康が江戸幕府を開いたことで終息しました。
結局、最後は、三河の土豪であった徳川が天下を取ったわけですから、始めた大名たちは、何のために戦い続けたのかよくわからない状態だったと思います。とにかく、100年も続いた戦乱の世に日本の人たちみんなが、飽きてしまったのかも知れません。
徳川家康は、織田信長、豊臣秀吉が収めた戦国の世を受け継ぎ、新しい方法で、天下を治めて見せたのです。これは、歴史上の快挙と言っていいでしょう。
十八 織田信長
織田家は、尾張の小大名家でした。信長が普通の大名であったとしたら、おそらく織田家は、今川家あたりに滅ぼされ、今川家の家臣として存続するのが精一杯だったと思います。この尾張地方は、東海道沿いにあり、京や大坂にも近く、日本の経済圏に位置していました。そのため、新しい情報もいち早く手に入れることができます。「日本の経済圏」にいたことが、信長を「経済大名」として覚醒させました。
信長のすごさは、すべてを「経済的思考」で考えることができるということです。そして、小大名であったために、それほど譜代の家臣が多くはありませんでした。今でいう中小企業の経営者です。しかし、老舗の企業ではなく、新興企業の経営者ですから、「新しい商品開発」ができなければ、家は潰れます。
こうしたベンチャー体質の経営者は、既存の考え方を否定しがちです。今でも、日本のIT企業や、ユニークなベンチャー企業の経営者は、ずば抜けた頭脳で、新しい商品を次々と世に出して、日本の若者を中心に社会をリードしています。
信長も、こういった種類の経営者だと思います。そして、信長は、歴史上類い希な合理主義者だということです。歴史上の日本人で、ここまで合理主義に徹した人物は知りません。信長にとっては、神も仏も天皇も、人間が創り上げた偶像のように考えていました。信長には、神仏への畏れとか、天皇の権威などというものを最初から信用する気がなかったのでしょう。
若い頃、父親の葬儀に草鞋ばきで乗り込んで、悪態を吐いた話は有名ですが、無駄な儀式や礼儀の意味がわからなかったのだと思います。つまり、人間の感情や情緒的な部分が薄く、物事を合理的に見て、無駄かどうかを瞬時に判断した人物のように思います。だから、人も「使えるか、使えないか」によって判断し、親族だとか、昔から仕えていたとか、そんな判断基準はなく、使えない人間は、どんどん追放しています。
後に、豊臣秀吉となる農民の「藤吉郎」が、信長に採用されたのも、そんな合理主義者故に、「こいつは使える」と信長が判断したからです。要するに、人間は能力があって初めて評価するが、必要な能力を備えていない者は、評価に値しないのです。
こうした信長であるからこそ、権威に阿らず、自分の軍団を強くすることもできたのでしょう。
信長は、兵を金で雇う方式にしました。この頃の戦国大名は、領地にいる農民が、領主の命令で武器を手に取り、「兵」として戦います。兵として戦で活躍すれば、褒美が貰えます。勝ち戦なら、敵から戦利品を分捕ることもできます。畑や田んぼに出て働くより、大きな収入になったのです。だから、領主である各大名は、稲刈りが終わった秋以降に、出陣することが多かったと言われています。
信長は、そんな風には考えませんでした。金で雇った兵は、毎日を軍事訓練に充てることができます。鉄砲隊、槍隊、足軽隊、騎馬隊と戦がなければ、訓練し、技術を向上させ、戦に備えさせることができます。こうした方が、効率的で、ものの役に立つはずです。
こうして、信長は、いつでも動員できる兵を持っていました。
しかし、それを維持するためには、領内からの「年貢」だけで賄うには、不十分です。そこで行ったのが、「自由経済」です。
大名が、領地経営に「自由経済」を持ち込んだのは、おそらく信長しかいないと思います。家康も商人を管理することはしませんでしたが、それは、信長の自由経済を知っていたからでしょう。
信長は、いわゆる「組合」である「座」を解散し、城下に「楽市楽座」を開かせました。 商売をしたい者は、信長の城下なら、どんどん自由に商売をさせたのです。そして、その儲けの一部を税として信長に入るような仕組みを考えました。だから、商業都市である「堺」を抑え、商人たちから税を取り立てたのです。他にも、関所を通る者たちから通行税を徴収するなど、信長は、厳しい統制下で税を徴収するのではなく、経済を活性化することで、多くの者から税を徴収し、恒常的に織田家の財政を保つように工夫しました。
もちろん、当初は、既得権を持つ商人や寺院などから、反発はありましたが、強大な武力によって、それらの不満を抑え、「自由経済」を推進していったのです。
大名自身が、こうした柔軟で先進的な取り組みを推進することで、織田家は、すべてが、信長の支配下に置かれたのです。
もし、これが、他の大名家のように、殿様自身が飾り物であったら、すべてに目が行き届かなくなり、不正が横行し、その家は、傾いたことでしょう。まさに、織田信長という武将は、新しいベンチャー企業の創業社長でもあったのです。
もし、信長が暗殺されることなく、後十年長生きをしていたら、日本は世界屈指の経済大国にのし上がり、それと同時に強力な軍事大国になったはずです。そして、モンゴルのジンギス・カンのような、歴史的な英雄が地球上に誕生したかも知れません。
最期は、京の本能寺で部下の明智光秀に討たれますが、合理主義者の信長にとって、明智の謀反は、おそらく想定外の出来事だったと思います。「光秀謀反!」の知らせを受けたとき、信長は、「是非もない…」と呟いたと言いますが、「あの合理的な光秀でさえ、人間としての情緒的な感情を持ち合わせていた」ことに、改めて気がついたのでしょう。その情緒的な感情が、合理性を上回ったとしたら、仕方のないことだったのです。その弱さこそが、人間だったということです。
結局、信長を知るものは、信長本人しかいなかったことに気づいて、潔く死んでいったのだと思います。
また、信長の戦略も、非常に合理的なものでした。最初の「桶狭間の戦い」こそ、奇襲作戦でしたが、それ以降の戦いは、相手を味方に引き込む「調略」と、大軍による「持久戦」に徹しています。
信長は、特に「情報」に長けていました。今川義元軍を破った桶狭間の戦いにおいても、
各地に「忍びの者」を配置し、常に最新情報が自分の下に届くよう配慮していました。
敵軍の動向、周囲の地形、天候など、集まった情報を緻密に分析し、「勝てる」計算ができたとき、信長は軍を動かしました。けっして、「天佑」などは、信じてはいなかったのです。
桶狭間を例に挙げれば、どんな大軍でも狭い狭間に入り込めば、隊列は「縦列」になります。そうなれば、たとえ大軍でも、攻撃は点になります。その狭間に入る瞬間を見逃さず、信長は軍を動かしました。それも、奇襲隊は、少数精鋭です。そのとき、雷鳴が轟き、急な夕立になったようです。これこそが、「人事を尽くして天命を待つ」という戦い方です。そんな戦ができる武将が、織田信長だったのです。
十九 豊臣秀吉
豊臣秀吉は、非常に情緒的な人物ですが、戦国時代が生んだ奇跡というべき人物です。
秀吉の出世物語は、「太閤記」に描かれているように、信じられない奇跡の連続でした。しかし、それも、秀吉自身の類い希なる才能が引き出したものです。
能力は、必ずしも身分や地位に比例して表れるわけではなく、どんな環境の中にも生まれ、それを生かす者と殺す者が存在するということは、わかります。そして、秀吉は、まさに「生かす」ことのできた人物です。
秀吉(藤吉郎)の幼少期は、実はよくわかってはいません。尾張の貧しい百姓の子であることは、間違いないようですが、父親が足軽だったとか、織田家に仕えていたとか、伝承はあるようですが、秀吉自身が詳細に明かしてはいないようです。
しかし、事実関係だけを見ても、藤吉郎時代の世渡り上手は、抜群です。なぜなら、藤吉郎自身が、短い期間に着実に出世をしているからです。その中でも、織田信長に仕えて以降は、合理主義者の信長の意に沿う人物だったようです。
信長という人物は、自分の考えが瞬時に理解できない人間を嫌います。首をひねっているようでは、信長の側近は務まりません。
藤吉郎は、当時でも、武士としての素養の少ない人物でした。百姓の出で、体も小さく、ネズミのような風貌、武芸は特に秀でたものはなく、貫禄もありません。刀を二本差しても、小さい体には、持て余すこともあったでしょう。
通常であれば、そんな百姓を武家が雇うはずもなく、最初の面接ではねられます。しかし、藤吉郎は、これまた変人の信長に見出されました。おそらく、信長も、面白半分で藤吉郎を小者として雇ったのかも知れません。
しかし、使ってみると、意外と気が利き、能力の高さがわかってきました。その上、人とのコミュニケーション能力は、抜群です。
信長なら、説明も面倒臭くて、すぐに癇癪を起こしそうなところを、藤吉郎は、相手が理解できるまで、何度でも丁寧に説明する粘り強さがあります。そして、そんな人との関係を大切にする男でした。
試しに、役を与えて使ってみると、どんな仕事も上手に熟す便利な男でした。足軽頭にすれば、部下を上手に鍛えます。足軽大将にそれば、大勢の部下も上手に統率します。大軍を預けても、その明るい性格のためか、部下にも慕われ、強い軍団を創り上げます。それは、藤吉郎の持って生まれた才能と、苦労して磨き上げた能力によって成し得たものでしょう。そして、藤吉郎から秀吉と名を改めた頃には、秀吉は信長に憧れ、信長のような人間になりたいと強く願った武将でもありました。
それは、秀吉の「戦」を見ると、よくわかります。たとえば、若い頃の「墨俣の一夜城」などは、その地域をよく知る蜂須賀小六などの野武士を使い、上流から筏に組んだ材木を流して、下流の墨俣(すのまた)に砦を築きました。地元の専門技術者を使い、成功報酬を餌に自分の頭に描いたものを形にする才能は、尋常ではありません。また、後の備中高松城の「水攻め」などは、現代の土木工事や建築を学んだ人間かと思うほど、完璧に仕上げて見せました。
同じ「水攻め」をやってみた石田三成は、行田(ぎょうだ)の忍(おし)城攻めで失敗しています。頭の良さでは、石田三成も群を抜いていたと思いますが、将としての器量は、秀吉の足下にも及ばなかったと言うことでしょう。
こうした能力を学問ではなく、自分の経験で学んできたことに驚きます。その上、秀吉は、「人たらし」で有名ですが、どんな高い地位についても人心掌握術は、天才的な才能を見せました。
だれもが、秀吉の言葉にかかれば、魔法のように秀吉の頼みを聞いてしまうのです。そして、あらゆる情報を収集して、一番効果的な作戦を考えます。運を天に任せるような戦法は採りません。経験だけで戦もしません。これも、信長譲りです。
頼りとするのは、「情報」と「人」です。それを天性の「人たらし」の方法で集めて見せました。織田家に仕えようとしたのも、その時点で知る限りの情報を集め、「織田信長」という傑物を見つけたからこそ、仕官の道を探したわけで、偶然仕えた主君が天下を取ったわけではありません。すべて、情報による分析の結果なのです。
そうでなければ、信長も、こんな身分も、出自もわからない小者を取り立てようとはしなかったでしょう。「合理主義者だからこそわかる、合理主義者」というところだと思います。
信長と秀吉は、姿形も生い立ちもまったく異なる人間ですが、本質は、同じだったように思います。信長は、生まれながらに日本人特有の情緒的な部分を持たなかった人物ですが、秀吉は、後天的に情緒的な部分を隠し、合理的な思考になろうと努力した人物のように見えます。その分、信長は物言いが直接的で単純明快ですが、秀吉は、一生懸命言葉を尽くします。しかし、中味は、同じ事を言っているのです。
晩年、秀吉は、朝鮮出兵を行い、明国まで攻め込む壮大な作戦を決行しますが、これは、信長の戦略に間違いありません。信長は、強大な軍事力を背景に、大帝国を築こうと夢想していたと思います。それは、信長自身の野望でした。そして、日本の天皇などを超える存在として、世界に君臨しようとしていたのです。しかし、秀吉は、「関白」職に就いた時点で、信長との決定的な違いが見えました。「世界の王」になろうとした人間と、日本の「関白」程度の職に満足している人間の大きさの違いが見えるようです。
二十 徳川家康
徳川家康には、この二人ほどの合理的な思考は見えません。しかし、世の中を俯瞰して見る能力は、だれよりも長けていたように思います。「未来予測」とでもいうのでしょうか。世の中の十年後、二十年後を見据えた戦略を立てられたところに、家康の凄味があります。
おそらく、信長や秀吉を見て、「自分の時代は来ない」と早々に悟ったはずです。二人の合理主義者たちは、人の情をもコントロールしようとする冷徹さを持っていますが、家康にはありません。しかし、「こうすれば、戦国の世は終わる」といった政治思想はありました。信長に最後まで従っていたのも、「信長なら、戦乱の世を収めることができる」と考えていたからではないかと思います。そういう意味で、家康は、現実主義者です。慌てて天下取りの戦いを挑むのではなく、周りの状況をよく確認しながら、自分の進むべき道を見つけ、律儀にそれを守ろうとします。そういうところが、周囲の信頼を得た理由なのです。
家康は、織田信長の人質になっていた時代がありましたが、子供の頃でしたので、信長の遊び相手でもありました。信長の遊びは、実戦的でした。子供といえども、両軍に分かれ、作戦を立てて敵の陣地を攻略するのです。その信長の采配ぶりを間近で見ていた家康は、その的確な采配振りに感嘆し、己の負けを認めたのでしょう。家康は、生涯、この気難しい信長の天下取りの同盟者として、一途に仕えています。人を正当に評価し、自分の負けも潔く認める器量が家康にはありました。
普通なら、プライドが邪魔をして、「自分なら…」と考えるものですが、そうしないのが家康です。
信長亡き後、秀吉が、天下人の地位を得ようと画策していたときもそうです。家康は、それまでじっと、木下藤吉郎という男を見定めていました。そこで気づいたのです。
秀吉には、譜代の家臣がいない。そして、やろうとしていることは、信長の模倣であることを。
確かに秀吉は、金を使って人をたらしこむ術には長けているが、それでは、秀吉の後が続きません。秀吉の親戚や家来たちも凡庸です。一人、石田三成がいましたが、三成も青臭く、人望がありません。これでは、すぐに天下は乱れます。そこで、家康は、持久戦を採り、秀吉亡き後の策を講じ始めていました。
秀吉が、家康の「関東支配」を命じたとき、家康は、これをチャンスと捉えました。だれも手を付けていない関東平野を整備し、江戸に都を築けば、創業者は、家康本人になります。秀吉の大坂では、既に商業地として栄え、家康の勝手にはできませんでした。
信長は、安土に巨大な城を築きましたが、信長にしてみれば、これも前線基地の一つです。いずれ、九州、朝鮮、明、天竺(てんじく・インド)まで征服し、本拠地を中国にでも置くつもりだったのでしょう。
家康は、信長のような夢はありませんが、これまでの歴史にはない「都」を開いて、そこの王者になろうとしたのです。そうすれば、京の都などに気兼ねすることなく、徳川家の都を築くことができるからです。
結局、家康は、秀吉より長生きするために、人一倍健康に気を遣い、節制に心がけ、秀吉が死ぬと一気に豊臣を滅ぼしました。そして、関東の江戸から、日本全国に大号令をかけたのです。
家康は、合理主義者ではありません。それは、生まれながらに家臣を抱えた一家の主だからです。家康に生涯を託した家臣たちが、必死に自分を支えてくれていました。それを冷徹に切り捨てることはできません。できる奴も、できない奴も、家康の家族なのです。
こうした地縁血縁を大切にしたために、家康は、生き残ることができました。そして、新しい土地「江戸」から、天下に睨みを利かせたのです。
二十一 織田信長の「夢」
信長は、本能寺の変で死んでしまったので、わかりませんが、「天下布武」を旗印に掲げ、天下統一にまっしぐらに突き進んだ戦国武将です。そこには、朝廷も官位もなく、日本人が長年培ってきた「常識」では考えられない壮大が夢がありました。
信長という人物を常識的な物差しで測るのは止めた方がいいと思います。常識が通用しない典型的な人物が、信長だからです。
信長は、ヨーロッパの情勢を知りたくて、キリスト教の布教を認めました。しかし、それは宗教として認めたというよりも、宣教師などをとおして、ヨーロッパの情報が欲しかったからです。つまり、相手国、場合によっては敵国としてのヨーロッパを知りたかったのです。
それは、未知な世界への憧れなどではなく、現実に支配できるかどうかを判断するための情報分析でした。既に、信長の頭の中では、「天下」とは、日本統一のことを指していたのではなく、世界征服のことだったのです。武田信玄、上杉謙信が亡くなり、室町幕府を崩壊させ、京を支配した信長にとって、日本が統一されるのは目前でした。今の織田軍団を使えば、柿が熟して落ちてくるように、日本の天下も間もなく信長の手の中に落ちてくるでしょう。
信長の軍団は最強で、もはや地方の大名たちに抵抗する術はありません。明智光秀に「中国地方は切り取り次第」と約束したのも、近いうちに、日本全国が手に入ることが予測できていたからです。
聡明な光秀が、そんなことがわからないはずはありません。信長の命令にさえ従っておれば、光秀は、百万石近い領地を支配することができたのです。
光秀を信長暗殺に動かした主な動機は、日本の秩序を崩壊させないことでした。日本の秩序とは、天皇の権威を守り、朝廷が日本の実質的な「主」であることを維持することです。この秩序を壊し、自分を絶対的な「神」とするよう求めたのが信長だと見えたのです。
しかし、それは、光秀が常識人だから、見えた幻想でした。信長は、日本の「神」になろうとしたのではなく、「世界の王」になろうとしていたのです。
信長にしてみても、天皇や朝廷を破壊することが、日本ではいかに困難か、当然理解しています。そんなことに時間をかけている暇はありません。「人間五十年」と言われる時代です。せいぜい生きても、後十年と考えると、最早、立ち止まっている暇はないのです。
信長は、宣教師や貿易商人をとおして、ヨーロッパの情勢の分析を終えていました。「なるほど、これなら勝てる!」信長には、確信がありました。
なぜなら、信長には、最新式の銃を生産し活用する戦術を持っていました。軍団も百万人は動員することができます。
将兵も百年間の乱世で、戦に慣れています。この武器と軍団を率いて、朝鮮、中国大陸、インド、東南アジアへと侵攻し、アジア諸国を屈服させれば、次は、いよいよヨーロッパです。そんな壮大な侵略計画を実行に移す時期はもう間もなくだったのです。
それに、当時の日本の武器は、ヨーロッパの各国の物より進んでいました。鉄加工技術において日本は、既に世界の最先端を行っていたのです。
京の本能寺に着いた信長は、この後の毛利攻めから四国、九州の平定と、大軍を投入して数ヶ月で決着をつけようとしていました。
そうすれば、次は、「朝鮮出兵」です。
日本国内は、長男の「秀忠」と律儀な家康に任せ、光秀や秀吉らを率いて、日本を離れるつもりでした。それも、数年後には実行できそうだったのです。しかし、光秀には、そんな世界を想像する力に欠けていました。
「日本の秩序が壊される」それは、将軍家にも仕えていた光秀にとって、許されない行為のように見えたのです。
信長は、最後の最後に、光秀の能力を見誤りました。光秀は、最後まで「常識人」だったのです。秀吉なら、「殿、面白そうでございますなあ」と、喜んだろうに、光秀は、信長にとって一緒の夢を見ることのできる男ではなかったのです。
つまり、信長のいう「天下布武」とは、世界を信長率いる日本軍団の力によって征服することだったのかも知れません。これは、もちろん空想の話ですが、信長の実力を持ってすれば、可能だったことは事実です。
二十二 豊臣秀吉の「夢」
豊臣秀吉は、日本史上、一番出世をした人物です。名前もよくわからない百姓の身分から、小さな体と智恵を使って、天下人にまで上り詰めたわけですから、いつの世でも物語になる大出世です。しかし、「夢」となると、自分が天下人になった時点で叶ってしまったのだと思います。いや、そんな大それた夢を見るはずもありません。秀吉自身が、思ってもいない運命に翻弄されたと言った方が正しいと思います。
人間は、自分の身の丈にあった出世は望みますが、それ以上になると、少し恐ろしさすら感じてしまいます。
よく、芸能人が有名になって金銭感覚をなくしてしまったり、薬物に手を出したり、「そんな、ばかな」と言うような失敗をすることがありますが、それもこれも、自分の身の丈に合わない出世をしてしまった報いみたいなものかも知れません。
秀吉も信長の家来として働いていた頃は、出世も嬉しかったと思いますが、自分が関白や太閤殿下などと呼ばれるようになると、昔の秀吉とは、全く違ったような醜さを見せました。千利休を切腹に追い込んだり、跡継ぎの関白秀次を本人だけでなく、女子供まで殺させたのは、「人たらし」の秀吉ではありません。身の丈に合わない暮らしが、彼自身の心まで蝕んでしまったのでしょう。
秀吉は、信長の家来ではありましたが、学問としての知識は浅く、深く考えることができません。
主君である信長の真似をして明国の征服を企みましたが、ビジョンがないために中途半端な結果となって失敗してしまいました。
それに、若い頃から酷使してきた体と脳は、急速に衰えを見せ、晩年は、家康に翻弄された人生でした。
信長は、常識人ではありませんから、豪華さとか、煌びやかな装飾にあまり興味を示しませんでした。最後に築いた安土城は、金銀を惜しみなく使い、煌びやかな装飾に彩られていますが、あれは、「天下人」としての象徴的な城であって、豪華さを売りにしてはいません。
信長は、どちらかというと、実用的な機能美を喜び、ヨーロッパ貴族の甲冑やマントなど、「かっこいい」スタイルを好んだようです。日本の甲冑より、動きやすく、軽量でもあったのでしょう。
また、書画や茶道具にも歓心を示しています。目に鮮やかな装飾より、「わびさび」と言われるような、美の奥深さにも高い関心を示した人物でした。
それに比べ秀吉は、金銀財宝や原色系の煌びやかな美しさを好みました。大坂城に造らせた「金の茶室」などは、千利休の「わびさび」の世界とは、真逆の発想でした。要は、秀吉には、実用的な道具を使うことしか経験がなく、教養と言われるような「美」を学ぶ余裕はなかったのです。
それは、信長や家康とは、生まれや育ちが違い、育った環境が違いすぎました。
秀吉は、夢中になって信長の背中を追いかけることに夢を懸けました。しかし、太閤殿下と呼ばれ、大坂城に君臨すると、もう、その先はありません。
源頼朝や足利尊氏のような、武家の棟梁になる誇りもありません。「天下人」が、見果てぬ夢の到達点だったのです。
結局は、政治のビジョンを持たず、目先の権力欲だけに気を奪われている間に、家康に着々とその地盤を削り取られ、豊臣家崩壊を招きました。しかし、それも仕方がありません。信長という目標がなくなった時点で、秀吉も、武将としての輝きは失っていたのですから。
二十三 徳川家康の「夢」
信長、秀吉と異なり、家康が一番庶民感覚は備わっていた人物だと思います。つまり、家康は、「常識人」なのです。
信長は、一種の天才であり、普通人とはかけ離れた発想の持ち主でした。神や仏を敬うような感性もなく、常に合理的で、人間すら使えなければ、「無駄」だと考えてしまうような人物です。もし、同時代に生きて付き合うとしたら、余程、こちらが変わり者でなければ、友達にはなれません。そのくらい偏屈で気難しく、職場においても仕えづらく、緊張を強いられる社長になります。
そして、秀吉は、立身出世にのみ夢をかけ、天下人へと駆け上って行った人ですから、周囲のことが目に入りません。秀吉の軋轢の多くは、彼の「無神経」なところです。秀吉は、出世の糸口を掴むと、何としてでも自分の手柄にしようと、猪突猛進に突き進むところがあります。周囲から言わせると、「遠慮」というものを知らない無礼者になります。しかし、秀吉は、「わしは、百姓上がりなもんで、許してちょー」などと、調子のいいことを言って、人の仕事すら取ってしまいます。これでは、「猿」と、ばかにされても仕方がありません。これも、秀吉の長所なのです。
その点、家康は、譜代の多くの家臣団を持ち、他の武将たちが学ぶ一通りの教養がありました。また、神仏に対しても尊崇の念を持っており、朝廷に対しても、当然のように敬う心を持った平均的な教養のある日本人です。
だからこそ、「乱世を終わらせたい」という願いは、強かったはずです。家康たちは、生まれた時から他国との争いが続き、多くの人々の死や苦しむ姿を見てきました。そして、自分自身も他家に人質として入り、いつ殺されても仕方のない境遇でもあったのです。
平安の頃から約百年間、日本中で戦乱があり、同じ日本人同士が殺し合う日々が続いていました。庶民の暮らしを見れば、戦続きで村も人も荒廃していきます。そんな荒んだ社会を立て直したいと願うのは、政治を行う者として当然の感情でした。
家康が、今川義元に従ったのも、信長に従ったのも、小さな小大名の悲哀です。強い者の庇護を受けなければ、生きられない時代でした。それが、信長という傑出した人物が出たことで、やっと変わろうとしているのです。信長は、天下統一間近に、本能寺で明智光秀の謀反によって暗殺されますが、それは、「社会の秩序を破壊したくない勢力」によって殺されたと見るべきでしょう。それは、光秀だけでなく、家康も気持ちとしては同じです。信長暗殺説には、光秀・家康謀略説すらあるくらいですから、秩序を壊されることは、自分たちの生きてきた社会を壊すことですから、だれもが、許せるはずがありません。そこに気づかないところが、信長の人間性です。とにかく、家康は生きることを選択しました。信長亡き後も、隠忍自重して秀吉に律儀に仕えます。なぜなら、秀吉は、社会に平和をもたらしてくれた人物だからです。
しかし、秀吉は独善的すぎました。家康のように、調整型の武将は、人の話をよく聞きます。聞いて採用するかどうかは別ですが、とにかく話は聞く。この姿勢が多くの仲間を作ることになりました。そして、秀吉が死ぬと、家康は、自分が長生きしたことに大きな意味を見出します。
残念ながら、もう豊臣家に用はありません。これから先の百年後に、今と同じような安定をもたらす力がなければ、それは不要なのです。そう考えると、家康の行動は果敢でした。謀略を重ね、関ヶ原の戦で石田三成を倒し、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼします。これは、徳川が天下を治めたいという野心だけでなく、家康には、「もう、二度と戦乱の世には戻さない!」という強い信念があったからなのです。これが、家康の「夢」でした。
信長、秀吉、家康と三人の夢を並べて見ると、やはり、家康が生き延びた理由がわかろうというものです。
信長は、世界制覇を夢見、秀吉は、己の立身出世を夢見、家康は、人々の平和を夢見ました。やはり、家康は苦労人でもあったのです。そして、その常識人が天下を治めたことで、日本は、長い平和の時代を享受できたのです。
二十四 徳川「幕府」
家康は苦労人です。その生涯において、楽しかったという思い出もないまま、国の安定と徳川家の行く末を案じた天下人でした。そして、発想において信長や秀吉のような、天才型の人間ではありませんでした。しかし、信長や秀吉より、人脈のネットワーク造りにおいては、才能を発揮しています。
子供の頃より苦労して育ってきた家康は、類い希なる体力と、我慢強さを備えていました。「我が儘を言わない」「へこたれない」「辛抱強い」などは、日本人の美徳ですが、家康そのものを指す言葉でもありました。それは、家康の身内ばかりでなく、接したことのある者たちの一致して評価でもあります。信長や秀吉でさえ、そう思っていたはずです。
その上、家康は「律儀者」でした。信長に仕えていたときも、妻や子供を理不尽な罪で殺されても、文句一つ言わず、じっと耐えました。信長にしてみれば、家康という人間を試す意味もあったのでしょう。それに、事実、妻の築山殿や子の信康にしてみれば、信長の思うままにされるのは、我慢できなかったのかも知れません。それでも、大切な妻子を殺されて耐えるということは、並の我慢強さではありません。それほど、家康にとって「家」や「家臣」が大切だったのだと思います。
信長の死後、豊臣秀吉に天下を奪われ、家臣の如く扱われても、秀吉が元気なうちは一生懸命に仕えます。そうしている間に、着々と仲間を作り、若い者たちを助けていました。実力は、秀吉に匹敵する力を持ちながら、逆らうこともせず、関東の地をこつこつと整備していきます。信長や秀吉には、到底できない「我慢強さ」です。時間をかけても地道に基礎を固めていく手法は、家康の真骨頂です。その家康が、最後の最後に、勝負に出たのが「大坂夏の陣」であり、豊臣家を滅ぼす戦でした。いや、本心では、滅ぼさなくても自分に従ってくれれば、十万石程度で大名家として残したいと考えていたと思います。しかし、プライドの高い豊臣家の人間には、耐えられるはずがありません。豊臣家の滅亡は、豊臣家自身が選んだ結果でもあるのです。
家康は、秀吉の子「秀頼」に期待を寄せていました。「もし、自分が豊臣家を預かるなら、家の存続のために何でもするものを…」と。
確かに、家康なら、家を残すためなら自分が死んでもいいと考える人間です。秀頼にしても、太閤秀吉が死んだ以上、生き残る方法は、天下人である徳川家康に従順に従う他はないのです。家康自身が、そうしてきました。それができないと言うのであれば、潔く、滅びるしか方法はありません。それが「秩序」というものなのだと家康は考えていました。
大坂冬の陣、夏の陣と家康は、大坂方を徹底的に叩きました。秀頼も、母淀君とと共に自害して果てました。それが、豊臣家の運命だとすれば、「平和」と「安定」のためには、やむを得ないことです。そして、その大坂方に勝利したことで、家康は、名実ともに天下人となりました。
ここからが、家康の本領が発揮されていきます。朝廷から「征夷大将軍」の位をいただき、江戸に幕府を開きます。
家康は、それまで鎌倉幕府の経営を徹底的に分析していたと言われています。そこで、鎌倉幕府、室町幕府が、なぜ経営に失敗したのかを考えました。そこで、将軍と他の大名(武士)との関係が、対等だと言うことに気がつきました。位は違っていても、武士としては対等なのです。だからこそ、「ご恩と奉公」の関係が成立するのです。
つまり、「将軍のために働いてあげたのだから、褒美をよこすのは、当然だ」という考え方です。これでは、褒美を与えられなくなれば、働く武士はいなくなります。だから、平清盛も源頼朝も足利尊氏も経営に失敗したのです。
あの元寇の時でさえ、武士たちは褒美を要求しました。あんな国難においても、最終的には、「褒美」という損得でしか物事を考えられない武士という人間に、家康も頭を抱えました。それでは、「日本」という国は、成り立ちません。
家康の言う「天下統一」とは、「思想」すらも統一しなければならないというものでした。この思想が統一されて初めて、日本は、「日本」という国になれるのです。
元寇の時の執権、北条時宗は、その頃禅宗に帰依し、ひたすら己の心と向き合いました。
「心を無」にすることで、仏の心と向き合おうとしたのです。そこには、元という侵略者に対する鎌倉武士としての生き方を問うものでした。もし、この時宗の心情が、鎌倉武士に伝われば、「ご恩と奉公」の考え方も変わったかも知れません。武士としての「誇り」が、その後の武士の生き方になったかも知れませんが、それは、楠木正成など、一部の武士たちには伝わりましたが、なかなか全国に広まるまでにはいきませんでした。
家康は、天下人になると、その武士の思想を根本から変えてしまおうとしたのです。これは、日本の歴史を変える大改革でもありました。
それが、「忠義」という思想です。この「忠」や「義」は、儒教の論語に書かれている思想です。もちろん、今から2500年以上前の中国の「孔子」の言葉です。家康が儒教に目をつけた時でさえ、2000年以上昔の教えでした。
この「忠義」を実践して見せた武将が、後醍醐天皇に仕えた「楠木正成」一族です。
鎌倉時代、「ご恩と奉公」が、武士の信条であり、幕府と鎌倉武士は、この関係でつながっていました。しかし、元寇を迎え、日本人全員が危機感を持って戦い、やっとの思いで侵略者を撃退した後に、待っていたのは、やはり、「ご恩と奉公」の要求でした。
しかし、これを当時の武士たちが欲深いとも言えない事情がありました。それは、武士たちは、多くの借金をして武具や馬を揃え、幕府の命に従ったのです。決して、いやいや参加したわけではありませんが、国に帰ると、この借金問題が武士たちに残されたのです。
分け与える物がない幕府は、これを「徳政令」を出して凌ごうとしましたが、それでは、金を貸した商人たちがたまりません。結局は、この関係がすべての原因のなったのです。
そこで、家康は、まずは、幕府の法律とも言うべき、「武家諸法度」を定め、全国のすべての武士が、幕府の管理下に置くことを命じました。もし、これに逆らうような家は、即刻取り潰しか、幕府軍の強大な軍事力によって大坂城のような末路を辿ることは明白です。
日本には、信長も秀吉もいません。もう、家康に逆らえる武将は、どこにも存在しないのです。家康は、この権威を使って幕府の体制を整えました。それは、「家康に逆らえない体制」ではありません。ここが、家康の凄さです。
家康は、将軍の独裁になることを嫌い、法律に基づく「法の支配」によって国を運営しようとしたのです。
今の時代も日本は、「法治国家」です。つまり、どんな人間であろうと「法の下では平等」が原則です。国民は、法によって裁かれますが、それは、既に徳川幕府によって完成されていました。
家康は、天下を統一するに当たって、こうした法を基盤にした「秩序」を作り上げました。さらに、朝廷には、「禁中並びに公家諸法度」を定め、「皇室も法の下に置く」という、大胆な政治を行いました。よくよく考えてみると、「征夷大将軍」が、朝廷から下された官位であるにも関わらず、将軍が定めた法に、皇室が従うというのも不思議な感じがします。しかし、それも、「法に違反すれば、皇室であろうと処罰する」といった法整備は、日本の支配者が、だれであるかを明確にしました。それは、「徳川家でも幕府でもなく、『法』なのだ」という宣言です。つまり、将軍といえども、法に逆らえば、その地位を失うということになります。
家康は、次に武士の思想統一を図りました。それまで、武士には、「道徳」がありませんでした。「ご恩と奉公」は、道徳ではありません。ビジネス関係です。それを、武士に道徳を説くことにしました。それが、儒教です。徳川家康は、儒教の朱子学を奨励し、「親に孝」「主人に忠義」を教えました。そして、武士としての生き方を「武士道」として完成させたのです。
佐賀の鍋島藩に「葉隠(はがくれ)」という武士道の教えがありますが、その中に、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」という文言があります。これは、江戸時代の武士の生き方を端的に表したものとして有名になりました。
意味としては、「武士の道を究め、命を懸けて主君に尽くし、正義のために戦え」というようなことなのかも知れません。ここには、「ご恩と奉公」の考えは、微塵もありません。「忠義のために死ぬ」ことは、名誉なのです。
この名誉という「誇り」を持つことが、武士道だと教えたことで、武士は、日本人の模範となりました。だから、武士は、刀を二本差し、特別な髷を結い、袴をはいて堂々と振る舞わなければならないのです。そして、政治を行い、万民が平和で安心して暮らせるようにするのが、「武士の務め」となったのです。
よく「斬り捨て御免」などと、武士が農民や町人を殺す権利があったかのような噂がありますが、とんでもありません。そんなことをすれば、斬った武士は、間違いなく切腹ものです。「万民を守る」武士として、あるまじき行為として、処罰されるのが通例でした。だから、武士は、刀は差していても、抜くことは滅多になかったと言われています。
家康は、無秩序の乱世を生き抜き、新しい時代への構想を練っていました。それを妨げる者は、けっして許さなかったのです。
もし、大坂の陣で、有名な「真田幸村」に首を落とされていたら、日本の戦国時代は、後100年は続いたことでしょう。
徳川家康という人物は、日本や日本人にとって、とても大きな存在でもあったのです。
二十五 江戸時代(武士)
江戸時代は、「法と秩序」が整った時代でした。今の時代のように、社会が定められた法律を守ることで、不安なく生活を送ることができた時代です。
日本全国には、約300もの大名家がありましたが、各大名家も幕府が定めた法律によって規定され、勝手な行動は許されません。朝廷も同じです。天皇の名で、勝手に「幕府を倒せ」などという手紙を各大名家に出せば、出した人間も受け取った人間も処罰されます。おそらくは、「死罪」でしょう。
謀反を起こすということは、社会の秩序を破壊する行為ですから、社会の安定を求めている幕府には、絶対に許されない反逆行為です。こうした行為を犯罪とすることで、日本は、戦乱の世から平和の世へと変わっていくことができました。
武士は政治を司り、他の身分の者たちに「教える」側の人間ですから、一般の庶民以上に「規律」が求められました。話し方、服装、清潔感、礼儀、潔さなど、「武士道」と呼ばれる道徳観は、他国には見られないほど厳しいものでした。
人気テレビドラマで、八代将軍吉宗に斬りかかる身分のある武士たちが登場しますが、そんなことはあり得ません。将軍に刃を向けただけで、武士は斬首(切腹もさせて貰えない)、家は断絶、場合によっては親類一同同罪という厳しい処罰を受けなければなりません。そんな恐ろしいことを、だれがしますか。たとえ、殿様が「やれ!」と命じたとしても、家来たちは、即刻、殿様を縛り上げ、幕府に引き渡すはずです。一緒になって謀反に加担すれば、本人だけでなく親戚縁者すべてに類が及び、その武士の先祖に対して申し開きもできない、というのが、当時の武士の心情なのです。
当時の武士にとって、「家を守る」ということが一番大事な仕事です。主人である殿様が乱心すれば、それを取り抑え、次の跡継ぎに換えるのは、武士として当然の責務です。だから、殿様は、厳しく法を守り、幕府から預かった領地の経営に邁進しなければならなかったのです。
戦国時代は、武士は「力」を誇示しました。
腕を磨き、戦に強くなければ仕官ができなかったからです。そのため、宮本武蔵のように、自分で流派を立てる剣術家が多くいました。
見た目も豪傑を装い、髭を蓄え、威風堂々と歩く姿は、相手を威圧する効果があったのです。ですから、武士は、粗野で乱暴で、庶民から嫌われる者も多く、大名家に仕官できない者たちは、戦場で働きを見せようと必死に戦いました。
ところが、江戸時代になると、最早、剣術は過去のものになっていきました。武士は嗜みとして武道は必須でしたが、それは戦のための剣というより、武士道を全うするための「心得」のようなものになりました。
生涯、一度も真剣を抜いたことのない武士もいたはずです。
それに、幕府は、そんな荒々しい武士は望んではいませんでした。その頃は、幕府の命令が厳しく、もし、家来にそのような粗暴な人間がいれば、その罪は主人である殿様にまで及びました。見つかった場合は、厳しい咎めを受けることになりました。そうならないように、どこの藩でも、武士道の教育は、徹底されていたのです。
武士は、刀は常時二本差していますが、それは、武士という身分を象徴するための装飾の扱いです。武士が刀を抜くときは、「命」を懸けるその瞬間だけだったのです。そして、刀を抜いたが最後、自分の死を覚悟して戦い、相手を倒すまで、戦いは終わらないものなのです。それだけに、刀は「武士の魂」として、大切に扱われました。
武士の能力は、戦で活躍する豪傑などではなく、学問があり、政治や経済に長けているかどうかで判断されるようになりました。たとえ浪人しても、学問のある人間は、他家から誘いがあり、仕官できましたが、そうでない武士は、長い期間浪人し、貧しい生活を強いられたのです。
こうして、徳川家康は、それまでの社会通念を悉く変え、武士の刀を「そろばん」に変えてしまったのです。これは、明治維新などよりも大きな改革でした。
二十六 江戸時代の農民
農民は、年貢(税)を納めるための「米」を生産する大事な役割を担っていました。
日本は、神話にもあるように、神様が地上界に降臨する際、「稲穂」を持って降りられたという「米中心の国」です。これは、日本人の生活の源は「稲作」だということを教えています。
米は、縄文時代後期に、東南アジアより日本にもたらされた穀物です。しかし、それが、日本社会を変革したことも事実です。日本人は稲作によってムラを作り、共同体を作ることを学びました。そして、それが「国」の基になったのです。まして、米は、主食となるだけでなく、少量なら持ち運びに便利で、他の物品と交換することもできます。
食べてみると、甘味があり玄米なら、ほとんどの栄養素を含んでいるという完全健康食品です。この「米」を手に入れたことで、日本人は、長い歴史を刻むことができたのです。
そのことを実感として知っていた大和朝廷は、神話の中に取り入れ、未来の日本人の考え方の基礎を築いたのでしょう。
このことは、将軍だろうが、一般庶民だろうが、変わらない価値となりました。そのため、どの地方でも農民は大切に扱われ、武士以外の身分の最上位とされたのです。
外国では、国によって農民を差別する人がいるようですが、日本人の八割以上が、先祖が農民なので、差別の対象にはなり得ません。まして、武士が農民になることは恥ずかしいことではなく、「帰農」と言って、「土に帰る」といった言い方をします。そうした元武士も農民の中には、たくさんいました。
江戸時代の日本は、金銀はあっても「米本位制」ですから、米相場によって金銀の価値が決まります。つまり、豊作であっても、米の値段が下がってしまえば、米を金銀に換える基準も下がります。まして、災害等で米不足になれば、交換できる金銀が不足することになり、「米」は、日本の経済に大きな影響を与えたのです。
武士が仕える大名家は、幕府によって石高が決められ、大きく発展することは望めませんでした。そして、米本位制の中で、農民と武士は、米によって強く結ばれていたのです。
「百姓は、武士に支配されていた」と言われますが、それは形式上のもので、「武士は農民に気を遣っていた」というのが、本当のところでしょう。確かに、農民を規則で管理し、簡単に離農させないようにしていましたが、それが間違っていたとは言えません。当時の農業は、天候に大きく左右され、米不足で飢饉に陥れば、それこそ藩の一大事です。したがって、担当役人は、村々をよく巡回し、農業指導を行っていました。役人は、単に「働け、働け!」と命令していたのではなく、農業の専門家を招聘し、農民たちに農業指導を行い、少しでも米が収穫できるよう努めていたのです。その中の一人が、有名な「二宮尊徳(金次郎)」です。尊徳は、各地の農業指導に従事する傍ら、「農民道」といった人としての生き方も指導しました。
「キュウリを植えれば、キュウリと別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである」
尊徳の言葉です。これは、農作物のことだけを言っているのではなく、自分の行いを反省しなさいという諭しです。
「自分がやってしまったことなのだから、その結果は、自分が受け止めるしかない」
という人生訓です。もし、自分の欲しいと思うキュウリを育てたいなら、汗をかいて土を耕し、よい種を求め、よい肥やしを与え、天候を考えながら、丁寧に育てるしかありません。そして、その結果、美味しくて立派なキュウリができたとすれば、それは、自分自身の努力の賜なのです。
それを大した努力もなしに安易に「美味しい立派なキュウリ」を欲するのは、自分勝手で我がまま以外の何ものでもないのです。
こうした道徳感は、日本中に広まり、武士道と併せて日本人の道徳心を高めていきました。
江戸時代に税を納める義務があるのは、農民だけです。「年貢」は、税ですから「五公五民」が一般的でした。十万石の中規模藩でも大名家の収入は、五万石です。その年の取れ高も違いますし、相場も変わります。そうなると、米の収入だけでは、いかにも心細かったと思います。そのため、全国各地に漆器や陶器、工芸品などの特産物が生まれました。これは、米以外の特産品を売って、金銀に換えようとした努力の賜です。
たとえば、藩の財政難に喘いでいた山形(米沢藩)の上杉家では、一時、藩そのものを幕府に返上しようという動きすらあったのです。それは、藩の収入以上に多くの藩士を抱え、名門としてのプライドから、格式を重んじたためと言われています。それを改革したのが、「上杉鷹山(ようざん)」ですが、鷹山は、米沢藩に産業を興すことを試みました。それが、今に残る「一刀彫り」の民芸品や「鯉の養殖」「米沢織」「漆の栽培」などです。
こうした地域の特色を生かした産業は、その藩の財政を支え、豊かな藩へと変貌していきました。今でも、「塩と言えば赤穂塩」と言われるように、酒、砂糖、塩、醤油、味噌、絹織物など日本の「伝統工芸品」と呼ばれるような品物は、江戸時代に多く誕生しました。
武士たちは、農民以上に知恵を働かせて、生きる道を模索していたのです。
農民は、特に贅沢はできませんでしたが、畑で作物を育て、町に「特産品」を売りに行く算段もありました。川魚や魚介類など、米以外の収穫物もあり、それぞれが工夫を凝らして生きていたのです。
武士といっても、藩から支給される「禄(ろく)」は、昔から変動がありません。もちろん、能力があり、藩の役職にでも出世すれば、役職手当などがつき、収入が増えることはありますが、藩も慢性的な財政難であり、収入が増えることは、あまりありませんでした。
農民は、本百姓でも小作人であろうと、年貢を納めてしまえば、後は自由です。その村が豊かになるかどうかは、農民たちの努力もさることながら、村長や庄屋と呼ばれる「地主」たちの経営手腕にかかっていたのです。
単に米を作るだけでなく、土地の改良や、その土地にあった稲の選定、灌漑用の水路の整備など、村長たち村の幹部ができることはたくさんありました。つまり、村が貧乏なのは、村のリーダーに経営能力がないからです。豊かな村では、村民みんなが家族のような経営をしていました。村長は、全国の情報を「薬売り」の商人たちから聞き出し、「よい」となれば、自分で現地に赴いて調べ、その作物や特産品を採り入れるなどの努力を欠かしませんでした。また、飢饉に備えて、年貢の一部を蔵に貯め、万が一に備えるなど、危機管理もしていました。つまり、地主や村長は、その村の経営者だったのです。
それに、村社会は、運命共同体という宿命があります。農作業等は助け合いの精神が働き、村長の言うことをよく聞き、地道に生きていれば、なんとか生活することはできました。
その村に生まれ、村の寺子屋で学び、村人同士で結婚し、村で子育てをして、村で死んでいく、そんな人生設計ができたのです。
確かに飢饉が襲い、米不足で、一揆を起こすこともありましたが、それは、その土地の村長や大名家の政治のあり方に問題がありました。備蓄米を備え、天災の時にそれを放出して農民たちを助けた藩もあれば、備蓄米さえ金に換えてしまい、農民の怒りを買った藩もありました。やはり、政治を司る人間の器量によって、人々の暮らしぶりを違うようです。
それに農民は、強かです。全国の八割を超えるような農民たちが、武士たちに搾取されるだけで、数百年も我慢を強いられているはずがありません。
ヨーロッパの奴隷制度と日本の農民を混同する人もいますが、「奴隷」が、武士のすぐ下の身分だということを考えてみてください。
町人が農民を見下すようなことは、許されません。きちんとした商人たちは、農民が野菜や米を売りに来ると、言葉遣いは丁寧に扱い、「おい」「おまえ」などという態度はとりませんでした。それに、農村に町人が自由に出入りすることはできませんでした。見知らぬ人間は「立ち入り禁止」が原則です。したがって、農村に出入りする町人は、馴染みの小売りの商人か、薬売り、許しを貰って庄屋の家に出入りする者など、皆「顔見知り」でした。それくらい、農村は神聖な場所でもあったのです。
要するに、農民にしてみれば、武士などいなくても、暮らしは立つのです。年貢を納めてしまえば、畑で作物を育て、近郊の町に野菜を高値で売り捌くことも、農民の裁量でした。その他にも内職で「機織り」や「養蚕」「酒造り」など、武士や町人にはできない産業がありました。つまり、土さえ肥えた良質な土地であれば、米も野菜もいくらでも栽培し収穫できたのです。
日本も昭和30年代頃までは、農家は自給自足で「物を買う」こと自体が少なく、機織りや養蚕で現金収入を得られれば、そんなに食べるに困ることはありませんでした。
ただし、江戸時代と異なり、学校に通ったり、工場に出て働いたり、娯楽が増えたりすると現金が必要になっただけのことです。
幕末の戊辰戦争の頃、会津若松は戦場になりました。会津藩が、新政府軍に攻撃された戦です。しかし、この戦いにおいても、主役は会津藩の武士たちです。会津若松では、戦争の噂は農村にも聞こえてきましたが、農民は、いつもどおりの農作業に従事していました。そして、農民たちは、積極的に戦いに参加しようとはしませんでした。先祖代々、その土地に土着している農民にとって、大名家は、所詮はよそ者です。よそ者の戦いに進んで参加する義務はありません。なぜなら、その大名家が潰れても、また、次の大名家が入り、地域を治めるだけのことだったからです。
それより、自分たちの土地を土足で踏み荒らす新政府軍の兵士(武士)たちに反感を覚え、武器を手に取った農民兵もいました。それは、忠義ではなく、農民の「誇り」でもあったのです。
忠義は、武士の世界だけの哲学です。農民は、「土と生きる」ことを信条に、武士とは一線を画して、身分に関係なく、農民としての役割を果たし続けたのです。
二十七 江戸時代の町人
町人は、最低の身分とはいえ、税を納める必要がありませんから、稼ぎたい放題です。町人の多くは、人の集まる都会に住む者が多く、いわゆる「長屋」で共同生活を送っていました。この時代の暮らしは、一人で全部を賄うことはできません。隣同士で助け合い、大家さんを中心に、よくまとまっていたのです。町人は、藩や幕府の命令で、「お手伝い」に駆り出されることはありましたが、それでも日当を貰い、無理な仕事をさせられるわけではありません。当時の武士たちは、事故が起きると処罰されますので、「安全第一」を心がけて、下の身分の者をいじめたりするようなことは、ありませんでした。それより、責任がある武士たちの方が、限られた予算や、施工の期日などがあり、頭を悩ますことが多かったようです。その上、幕府から監督官が派遣され、あれこれと指示を出すので、命じられた藩と幕府の役人の間でトラブルが起こり、刃傷事件に発展する例もありました。その場合、多くは、藩の役人が責任を取って「切腹」しました。武士にとって、問題を起こすことは、監督不行届もありますが、多くは自分の武士としての「名誉」の問題が大きかったようです。武士は、名誉のために死ぬことを恐れないよう、子供の頃から教えられていたのです。
それに比べれば、町人は、悪いことをしない限り、罪に問われることはありませんでした。そのため、江戸時代の日本の文化は、そのほとんどが「町人文化」として、発展していきました。町人の中でも、商売が成功した人間は、大名に金を貸せるほどの豪商となりました。税金を払う必要がないのですから、今のように、税金の滞納や申告のごまかしなどが、あるはずもないのです。大きな邸に蔵を建て、千両箱が何箱の積まれていたというのは、その通りです。有名な、紀州(和歌山県)の「紀伊國屋文左衛門」は、紀州の「みかん」を船に積み込み、冬の太平洋を渡って江戸で大もうけをしました。それも、幕府から咎められることはありません。そうなると、商人たちは、商才さえあれば大もうけができたのです。その蓄えた金銀を使って「両替商」などの商いを行い、武士たちにも金を貸したのです。飢饉などで、藩の財政が逼迫するなど、各大名家も領地の経営は大変でした。そうなると、身分は高くても、武士たちは、商人に頭を下げてお金を貸して貰うしかないのです。こうした両替商人は、江戸にも大坂にもいました。
ただし、これらの豪商たちが、目に余る贅沢をしていると、幕府(藩)の「質素倹約令」に背いたといって処罰され、財産が幕府(藩)に没収された例もあります。豪商たちもあまり露骨に有り余る金をばらまき過ぎると、幕府に目をつけられるわけです。しかし、それだけ自由経済が許されたことは、明治以降の日本の経済界に大きな貢献をしたことになります。
新しい時代に西洋化の波が押し寄せましたが、日本がいち早く近代工業化ができたのも、こうした商人たちが、経済の基礎を築いておいてくれたお陰なのです。歴史では、武士だけで明治維新ができたかのような記述がありますが、そんなことはありません。国内の物資の流通にしても、為替制度にしても、金融制度にしても、江戸時代に基礎ができていたことを忘れてはならないのです。
また、芸術も江戸時代の作家に秀でた人物は多く、たとえば、浮世絵は、ゴッホやモネの作品にも模倣が見られます。また、有田焼は、陶磁器のマイセンに大きな影響を与えたと言われています。
他にも、歌舞伎、落語、俳句、短歌、文学、茶道、華道、書道、日本画など、武士から町人まで幅広く楽しんだ芸術も多く、その日本人の感性は、世界を驚かせました。
こうした町人文化が発展していたお陰で、日本は、早々に世界の仲間入りができたのです。
二十八 江戸時代の身分外の人々
江戸時代の身分制度は、教科書に書かれているほど単純なものではありませんでした。 実は、「士農工商」という他にもたくさんの身分があったのです。たとえば、僧侶は、士農工商には入りません。僧侶は、寺社奉行の管轄に属しましたが、寺や神社は、町役人(町奉行の配下)は入ることはできません。ここはあくまで、寺社奉行の管轄なので、自社奉行所の役人が調べることになります。そして、寺院は、農民すべての「戸籍」を管理していますので、各村人は、村の寺の管轄に属することにもなります。僧侶の位は、朝廷から授かるもので、高位の僧侶の中には、「天海大僧正」や「隆光大僧正」など、将軍の側近になった者もいました。また、天皇を退いた後、仏門に入り、「法王」「法親王」の位に就くなど、僧侶の地位は、武士などと比べものにならないほど高いものでした。
また、貴族(公家)も別格です。
公家は、あくまでも朝廷で天皇に仕える役人ですから、江戸時代は「お公家さん」と呼ばれ、幕府による「公家諸法度」によって管理されていました。平安時代のような荘園もなく、幕府から下される予算によって賄われており、朝廷全体でも五万石~十万石程度だったと言われています。そのため、下級公家は貧乏で、内職に精を出す公家もいたほどです。それでも、官位は高いので、その辺の大名では、頭を上げることもできません。
「お金があるから位が高い」わけではないのです。
他にも、商人は、身分は最低でしたが、大名以上の財産を持ち、全国に支店を置いた商人もいたくらいです。しかし、貧乏な足軽身分の武士よりも、身分上は下になります。
全国の有力な大名家は、京都に「藩邸」を置き、江戸とは異なる外交を展開していました。京都の監視は、幕府の京都所司代の役割でしたが、江戸よりは規模も小さく、京都所司代も、あまり各大名家の外交には、口を出さなかったようです。そのため、公家と各大名家は、交わりが深く、親戚関係になることもありました。公家にとっても、大きな大名家と親戚になれば、多額の援助が期待できます。まして、天皇の側近の公家であれば、官位を上げることを口添えして貰えるなど、大名にもメリットがあったのです。また、朝廷の作法は厳しく、なかなか覚えられるものではありません。「有職故実(ゆうそくこじつ)」と言って、実に細かく作法や規則が定められていますので、幕府内にも専門の「高家(こうけ)」という職が設けられていたほどです。
そこで、各大名家は、深い関係のある公家に、朝廷内での作法を教えて貰うなど、良好な関係を築くよう努めていました。
幕末に、薩摩藩や長州藩が活躍できたのも、昔から、公家衆との付き合いがあったからです。そのため、京の都は、幕末の舞台となりました。
僧侶や公家は、士農工商に入らない特権階級ですが、身分に入らないみじめな人々もいました。それは、「元武士」の浪人者です。
刀は二本差していても、「浪人」となると、身分上は、「武士」ではありません。正式な武士とは、各大名家や幕府などに仕える武士のことで、「○○家中の○○でござる」と名乗らなければなりません。それに、武士なら犯罪の取り調べを受けるのも「評定所(ひょうじょうしょ)」という幕府直轄の機関となりますが、元武士は、町人と同じ「町奉行所」になります。したがって、牢屋も町人と一緒です。
元武士は、正式に所属する大名家(藩)もなく、自分の力だけで生活をしていかなければなりません。元々、高い地位にいた武士なら多少の蓄えもあるでしょうが、下級武士では蓄えなどあるはずもありません。その上、武士は特殊技術がありません。それでも、剣術を教えたり、寺子屋の師匠になったりできれば幸いです。それもなければ、町人と一緒に日雇い労働が関の山です。姿格好は、武士なので、町人たちからもばかにされてしまいます。結局は、長い貧乏暮らしをして、他の大名家に仕官するために、親戚縁者を頼って、就職運動をする生活を送るのです。
江戸時代になると、幕府は、元豊臣方の大名家を取り潰そうと考えていました。やはり、元は敵軍にいた者たちです。いつ、謀反を考えるかも知れません。「親藩、譜代、外様」という言葉がありますが、「外様大名」は、関ヶ原の戦いの後に、徳川家に臣従を誓った大名たちですから、どちらかというと日和見です。強いうちは靡きますが、弱くなると敵対してきます。それを幕府は、恐れていました。まさに、二百数十年後、その心配は当たりました。薩摩藩や長州藩は、徳川家にとっては、関ヶ原の相手です。徳川家にしてみれば、「早く潰しておけば良かった」と、後悔をしたことでしょう。
他にも、医者や学者なども、身分の範疇には入らない人たちでしたが、それら、「一芸」に秀でた人たちは、かなりの好待遇で大名家に仕官する者がいました。
当時の日本は、町人文化が栄えていましたので、武士も同じように、学問や芸術には、かなり高い関心を持っていました。たとえば、学問に秀でると、それが農民や町人の出身であろうと、幕府や各藩が積極的に召し抱えようとしました。絵師などの芸術家も同じです。蘭学を学んだ医師などは、江戸でも有名になり、幕府の御典医や大名家の藩医になる者もいました。特に「外科」手術ができる医師は少なく、優秀な人物には、出世の大きな糸口になりました。
このように、江戸時代は、士農工商の固定した身分制度はありましたが、運用は柔軟で、能力をしっかり認める風潮があり、日本の発展の基礎ができていたのです。
二十九 赤穂事件(江戸城での刃傷)
現在でも「忠臣蔵」で有名な赤穂事件が起きたのは、幕府が開かれてから百年くらい経った元禄の頃でした。戦国時代を生きた武将たちも皆いなくなり、平和な時代に生まれた人たちの社会になっていました。今の日本もあと、10年もすれば、戦争世代は、皆いなくなります。元禄の頃も戦の荒々しさが消え、武士も戦士というよりも、行政を担う施政官となっていました。剣術よりも学問が重視され、勇ましい男よりも、賢い男が尊敬を受けるようになりました。そんな時代に、江戸のど真ん中で「仇討ち」事件が起きたわけですから、江戸は大騒ぎです。地方は、情報伝達が遅く、「そんなことがあったのか…」くらいの出来事でしたが、とにかく、武装した男たちが戦国時代さながらに敵陣に奇襲攻撃をかけ、白兵戦を行ったわけですから、だれもが驚きました。まだ、武士に戦士としての血が残っていたのだと感心されたようです。
この頃、江戸城内でも大名同士の諍いは、度々起きていました。江戸城内は、作法にうるさく、参勤交代で出仕してくる大名たちにとって、江戸の務めは気を遣うものでした。 田舎にいれば、自由気ままに殿様稼業に勤しめます。気位の高い女房(奥方)は江戸におり、殿様は、寂しいと言うよりは、のびのびと暮らしていました。実際の政務は家老以下の優秀な家臣団がいます。優秀な殿様は、家老たちの話をよく聞き、明確な方針を示せばよいのです。「何事も、公儀(幕府)第一」でした。
既に将軍も五代将軍徳川綱吉の時代になっていました。綱吉は学者将軍で、いつも難しい勉強をしています。能や書も玄人はだしで、それを強いられる大名も大変です。
その頃の大名たちにとって、勉強不足は、自分の出世にも響きますから、一部の優秀な大名以外は、将軍に声をかけられないよう、身を小さくしておくしかありません。そんな窮屈な江戸の暮らしの中で、播州赤穂浅野家五万三千石領主、浅野内匠頭長矩に勅使饗応(ちょくしきょうおう)のお役目が、老中から命じられました。
勅使とは、天皇の使者のことです。朝廷を代表して江戸に下ってくるわけですから、幕府としても饗応(接待)は大切な仕事です。建前上とはいえ、将軍職は、天皇の名でいただく官位ですから、朝廷が幕府の上位にいることになります。つまり、将軍といえども、公には、天皇の名代の勅使に頭を下げなければなりません。
浅野長矩は、その接待役であり、二度目の饗応役の仕事でした。浅野家に二度目の饗応役を命じたのも、それだけ勅使饗応の役目が重要だからです。その指南役には、高家筆頭の吉良上野介(きらこうずけのすけ)が当たることになりました。高家とは、朝廷の有職故実に詳しく、江戸城内においても作法に則り、粗相がないように努めなければなりません。吉良上野介自身も少なからず緊張していたと言います。
赤穂事件の始まりは、その饗応の最中、浅野長矩が、指南役の高家吉良義央(よしひさ)を江戸城中で斬り付けてしまったことにありました。これを「刃傷(にんじょう)」と言います。
天皇の勅使が来ている最中、城内で接待の担当者が刃傷沙汰となれば、幕府の面目が立ちません。単なる喧嘩では済まないのです。浅野長矩は、将軍綱吉の怒りを買って即日切腹、改易(お家取り潰し)の沙汰となりました。
改易となれば、藩士たちは即日浪人となります。他の大名家に仕官できなければ、蓄えを切り崩し、次の仕官先を探すか、農民になるか、町人になるか…とにかく、次の生きる道を探さなければならないということです。これは、本当の「一大事」でした。
殿様である長矩は、けっして無能な人間ではありませんでした。赤穂浅野家は、豊臣家に仕えた浅野家の支藩になります。本家は、広島の浅野家四十二万六千石の大藩です。
赤穂浅野家は、五万三千石の小藩でしたが、武士本来の質実剛健を方針に定め、兵学者の山鹿素行(やまがそこう)を幕府から預かり、藩士たちに教授させるなど、兵学に長けた藩士たちが多くいました。国家老の大石内蔵助も山鹿素行の門人の一人です。
また、赤穂は、小藩ながら新しく城を築き、瀬戸内海に面したその城は、小さいながらも、山陽道の備えともなっていました。
財政面でも、「赤穂の塩」は、良質で生産量も高く、全国にその名を知られており、年貢の他に塩の販売は、藩に大きな利益をもたらしていたと言われています。そのために、出費の嵩む「勅使饗応役」を二度も任じられたのでしょう。
長矩は、純粋に赤穂浅野家の後継者として育った人物です。「刃傷事件」が、どんなことを引き起こすか、知らないはずがありません。生真面目で、妻の阿久里(あぐり)を娶ると、謹厳実直な政治に取り組んでいました。しかし、残念ながら、当時、「痞え(つかえ)」という精神疾患を患っていたことが、わかっています。
この病は、ストレスが起因しているといわれますが、生真面目過ぎる性格が、原因だったのかも知れません。勅使饗応役は、本当に気を遣う役目です。幕府では、綱吉の生母、桂昌院(けいしょういん)に「従一位」という女性では、初めての官位を授けようと画策していた時期ですから、勅使への接待も非常に重要でした。それも、二度目の饗応役を赤穂浅野家に命じた理由でもあります。
当時、それを指南する高家筆頭、吉良義央も多忙で、なかなか長矩と打ち合わせをすることができませんでした。吉良は吉良で、京と江戸を何度も往復し、桂昌院の官位授与に動いていたからです。
勅使が江戸に到着すると、浅野家のこれまでの経験と家臣たちの働きで、何とか滞りなく進んでいました。しかし、最後に落とし穴が待っていたのです。
「忠臣蔵」の芝居では、吉良義央が意地悪なじいさんで、生真面目な浅野長矩をいじめ抜く物語になっていますが、本当のところは、かなり違います。
吉良上野介は、朝廷との交渉を行う「高家職」です。それも「肝煎り(きもいり)」という筆頭職を勤める幕府の重臣です。それに、多忙で浅野に嫌がらせをする暇もありません。一人で気を揉んで、ストレスをため込んだのは、長矩の方でした。
元禄14年3月14四日。この日は、朝からずっと曇天で、低気圧のせいか長矩の気分も優れませんでした。それに、連日の接待で緊張感から夜も眠れないでいました。午前11時過ぎ。いよいよ、勅使が江戸城において将軍綱吉に面会する日です。天皇の名代が江戸城に入るわけですから、幕府にとっても最大級の客人としてもてなさなければなりません。長矩のストレスは最高潮に達していました。
細かなことまで気になり、「上野介に確認したい」と思いますが、上野介も多忙で、それどころではありません。上野介にしてみれば、浅野の疑問など、既に解決済みのことばかりです。経験者にしてみれば、たいした作法ではないのです。まして、長矩は経験者です。作法というものは、時間が経過してといっても大きく変わるものではありません。長矩も昔を思い出せば、そんなに不明なはずはなかったのです。しかし、このとき、浅野長矩は、痞えによる緊張感のため、平常心を失っていました。
そんなとき、やっと、上野介の姿が江戸城「松の大廊下」に見えました。早速、質問に伺おうとしますが、上野介はそれより先に、担当旗本や接待の茶坊主と話し出してしまいました。そこで、長矩は、またも待たされます。もう、このとき長矩の「痞え」の病は、爆発寸前でした。やっと上野介が用を終えたと見えたとき、長矩は、独りよがりの理由で、暴発してしまったのです。
上野介は、長矩の問いに、軽く答えたのでしょう。「浅野殿、今、そんなことをお尋ねにならずとも、委細無用じゃ」くらいのことは言ったかも知れません。
上野介も、間もなく勅使が到着の刻限となり、「つまらないことを聴くな」と、むっとして答えたのでしょう。無碍に答えを返しました。
大名育ちの長矩は、通常、人からそんな態度をとられることがありません。家臣であれば、「無礼者!」と叱るところです。しかし、相手は、官位も上位の高家筆頭です。長矩は、耐えるしかありませんでした。
我慢しようと思えば思うほど、長矩の神経は、耐えきれなくなりました。
遂に、腰に差していた「小さ刀」という細身の短刀を抜いて、上野介に斬りかかってしまったのです。
上野介は、吃驚しました。まさか、長矩がそんな暴挙に及ぼうとは、考えてもいなかったからです。
長矩は、吠えるように何かを叫び、顔面蒼白の上に、こめかみに青筋を立てて、子供のように刀を振り回しました。「これが、武道に親しんだ浅野長矩か?」と思うほどの乱心振りでした。
この日、装束は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)、長袴(ながばかま)という武士の正装だったことが不幸でした。どちらも足を取られ、駆け出すことができなかったのです。
長矩の振り回した刀が、上野介の額に当たり、もう一太刀が、背中を斬りました。そこまでが精一杯です。しかし、江戸城中で刃傷沙汰を引き起こし、大切な日を血で穢してしまったことは、取り返しのつかない不祥事でした。
吉良の傷は、額と背中に少々残りましたが、浅野長矩は、「武士の覚悟」とは思えないような惨めな刃傷でした。
これが、赤穂事件、芝居「忠臣蔵」の始まりとなったのです。
三十 赤穂事件(赤穂藩断絶)
平和な元禄の時代に起きた赤穂事件は、江戸の人々に大きな衝撃を与えました。江戸に幕府が開かれてから百年。徳川家康の力によって大きな戦はなくなりました。それが、江戸城のすぐ側で、約200人もの武士が命を懸けた戦をやったわけですから、庶民も江戸の武士たちも一様に驚き、討ち入った赤穂の浪士たちに喝采を送りました。
その前に、原因を作った浅野長矩は、理由を家臣にも告げないまま、即日、切腹となりました。勅使をもてなすはずの饗応役が、幕府の大切な行事を台無しにしたわけですから、切腹は当然です。しかし、それは、将軍綱吉の怒りが原因でした。そして、この「即日切腹」が、後々、大きな問題になってしまうのです。
この頃の日本は、法が整い、法治国家として、政治が行われていました。ですから、たとえ大名の犯罪行為であっても、評定所でしっかり吟味し、老中に諮った上で犯罪を認定しなければなりません。その手続きを怠り、即日に処罰してしまったのは、たとえ将軍といえども、法を踏み外す行為でした。そのため、長矩の動機も解明されず、上野介の弁明も十分聞き取られることなく、裁定が下ってしまったのです。
結果としては、同じ結果になったとしても、その手続きが不備であれば、非難は免れません。それは、将軍といえども、やってはいけない定めが幕府の法にはありました。
長矩は、「風さそう、花よりもなお 我はまた 春の名残をいかにとかせん」という辞世の句を残して死んでしまいました。刃傷の後、落ち着きを取り戻した長矩は、自分のやってしまった失態を相当に悔やんだようです。
そのときは、精神に錯乱を起こしており、自分で感情をコントロールすることができなかったのです。それがわかっていただけに、長矩は、理由を見つけられないまま腹を切りました。
この頃の大名にとって「家を守る」ことは、絶対的な責任です。これを自分の失態で、家を失ってしまったことに対して、本当に申し訳ないと思っていたことでしょう。それだけに、この辞世の句は、憐れです。
芝居では、長矩が、上野介に対して遺恨があったとか、吉良の生死が心残りだったとか、勝手に解釈していますが、そんなことより、赤穂浅野家五万三千石を潰した責任の重大さを感じ、死ぬまで長矩は、後悔していたと思います。まして、上野介に対しては、さほどの接点もなく、無我夢中で刀を抜いた相手というだけのことで、これが近くに他の者がいたら、別な人間が相手だったかも知れません。上野介にとっては、本当に迷惑な話です。切腹に際して、長矩は、武士らしく落ち着いて堂々と腹を召したようです。最期くらいは、武士として立派に死にたかったのでしょう。
こうして浅野長矩という殿様は死にましたが、残された家臣たちは大変です。
赤穂浅野家は、即日改易、つまり「取り潰し」です。
江戸時代になると、幕府は、問題を起こした大名家を次々と改易にして、直轄領を増やしてきました。それは、譜代だろうが外様だろうが、容赦のない処断でした。徳川家康が幕府を開いた当時は、豊臣方に与した大名家もたくさんいましたが、それらをすべて罰するわけにはいきません。そこで、全国各地に隠密を派遣し、問題を探らせていたのです。 豊臣大名として有名だった福島正則や加藤清正などの有力大名家を改易とし、徳川家に絶対的な忠誠を尽くす大名家だけを残したのです。生き残るためには、それは、涙ぐましい大名家の努力がありました。赤穂浅野家のように、武を誇るような家は、確かに危険でもありました。武士としての誇りを持つことは大切なことですが、それが他を見下すような態度になったり、幕府への不満や批判になったりすれば、いつ隠密の眼に触れないとも限りません。この時代、生き残るためには「慎重」な態度が必要だったのです。
その、赤穂浅野家の本家は広島の浅野家です。浅野は、豊臣家ゆかりの大名で、四十二万石の大藩でした。そんな大藩がバックにいても、あっさりと改易にされるのですから、幕府の力は絶大です。改易となれば、すぐにでも城を明け渡す必要があります。江戸の屋敷も幕府に返さなければなりません。すべて、幕府の管理下にあり、城や屋敷は、すべて幕府の物という扱いなのです。赤穂城は、元々は浅野家が築城した城でした。長い期間、幕府に陳情し、やっと建てた城です。それを、殿様の不祥事で、一瞬にして明け渡さなければならないわけですから、家臣はたまったものではありません。
凶報が届いた後、藩士たちの不平不満が爆発しましたが、それを抑えたのが、国家老の大石内蔵助(くらのすけ)です。大石は、最初は「城を枕に籠城、切腹」を唱えますが、すぐに「家名存続を願い出て、切腹」に切り替えます。こうして、家来たちを篩にかけ、本気で自分に付いてくる者を選んでいきました。最終的には、「殿の屈辱を晴らす」という名目で、「吉良邸討ち入り」を宣言します。
改易となれば、慣れ親しんだ土地から離れ、二度と戻ってくることはできません。内蔵助は、幕府の軍勢に城を整然と明け渡すと、京都の山科(やましな)に引き揚げました。殿様の短慮のために、赤穂浅野家の家臣、家族一同、約500名が散り散りに分かれていきました。
三十一 赤穂事件(吉良邸討ち入り)
実際に討ち入りが行われたのが、元禄14年12月14日と言われています。本当は、翌15日の早朝午前4時頃でした。刃傷事件が起きて一年半後の冬。大石内蔵助を首領に仰ぎ、四十七名の浪士たちが本所の吉良上野介邸に討ち入りました。この間の苦難は、詳細にはわかっていませんが、忠臣蔵の芝居で面白く描かれています。
その軍資金は、大石内蔵助が蓄えていた浅野家の余剰金と長矩の奥方だった阿久里の持参金だったと言われています。内蔵助は、経済にも明るく、余剰金を蓄えるだけでなく、大阪商人たちに預け、利息を受け取っていました。これらも併せて資金としました。
四十七士の中には、下級武士たちがかなり含まれていますので、生活の面倒から武具の用意までしてやらなければなりません。一部には、貧しい身なりで討ち入ったような話もありますが、その後の幕府の対応を見ても、赤穂浪士たちが、武士道に則って準備を整え、組織だって討ち入ったことがわかります。
武具にしても、鉄兜、鎖帷子、徹甲、鉄脚絆など、今、「泉岳寺(せんがくじ)」に残されている装備品も当時としては、最高の戦支度がなされています。「食い詰め浪人」の討ち入りなどではありません。大石は、一年以上をかけて着々と準備を整え、用意周到に吉良邸に討ち入りました。
戦闘は、2時間程度で終わったようです。それにしても、吉良方も赤穂勢も、それまで一度も人を斬る経験をした者はいないのです。赤穂の堀部安兵衛は、「高田馬場の仇討ち」で有名になった武士ですが、それ以外は、本当に未経験だったと思います。それが、いきなり武装をしているとはいえ、真剣で敵の肉体を斬るわけですから、緊張しないわけはありません。双方共に、本当に死闘を演じたわけです。幕府も、もう、そんな戦のような仇討ちなど起こらないと考えていました。それが、現実となり、狼狽した様子が記録に残されています。
それにしても、討ち取られた吉良義央は気の毒でした。高家肝煎りとして、忠実に職務に邁進したところが、精神を患っていた若い大名にけがを負わされただけでなく、逆恨みを買い、その家来たちに寝込みを襲われ、殺されたのですから、だれを恨んでいいかもわかりません。また、天下の悪人として勝手に創作して芝居にされ、罪もないのに吉良家は断絶、我が子も孫も間もなく死んでしまいます。
討ち入りを成功させた赤穂の四十七士は、翌年2月、全員切腹となりました。それは、「主君の敵を正々堂々と、武士道に則って討った」ことが、評価されてのことです。
徳川家康は、この「武士道」を武士の道徳としました。そこには、大きく「忠義」の二文字があります。「主君に対して命を懸けて忠義を尽くした」と言われれば、だれも文句は言えません。大石は、そこを見込んで、同じ装束を身につけ、赤穂軍団として、武士道に則って戦を仕掛けたのです。そのため、火は一切用いませんでした。隣近所には、丁寧に挨拶し、門を固く閉ざした上で、戦いを開始したのです。
終了後も、火の始末、後片付けを行い、正門から堂々と隊列を組んで退去しました。その上、大目付にまで直訴し、上野介の首を亡き内匠頭の墓前の供えると、武装を解いて幕府に恭順の意を示しました。
こんなふうに、何もかも武士道に則った作法で行われれば、罪人として裁くこともできなくなります。武士道とは、まさに「形式美」ですから、江戸の町が、賞賛の声を挙げたのももっともなことでした。それにしても、大石内蔵助という男は、なんと賢い腹の据わった人物なのでしょうか。
平和な元禄の世にも、戦国時代の戦略家のような武士がいたことが、赤穂事件を後生に残すことになりました。
三十二 徳川将軍
徳川家の征夷大将軍は、家康から慶喜まで十五代続きました。有名になったのが、初代家康、三代家光、五代綱吉、八代吉宗、そして最後の十五代慶喜あたりでしょうか。これらの人物は、江戸時代を築き上げたリーダーたちです。
三代将軍家光は、徳川幕府を盤石にした将軍と言えます。家康は、二代将軍に秀忠を据えましたが、実質は、当然、家康が大御所として眼を光らせていました。そして、その威光は、他の大名たちを圧していました。それは、家康の戦歴にも表れています。家康は、信長以降の戦国時代の天下取りには欠かせない武将でした。信長時代も秀吉時代も、政治の中枢にいて重臣として仕えていました。その頃、他の大名たちは、まだ地方の戦いに明け暮れ、天下取りどころの話ではありませんでした。おそらくは、家康の名を聞けば、そのキャリアに頭が上がらなかったことでしょう。したがって、徳川家康は、江戸時代初期の「絶対王者」だったのです。
しかし、二代秀忠になると、若い大名たちも気分は、「同僚」でしかありません。戦歴も同じようなもので、偉大な父親の庇護の下に育てられた武将です。当然、家康のような威光もなく、軽い存在でしかありませんでした。そうなると、三代家光は、戦国の戦場すら知りません。それが、新しい時代の絶対王者として君臨することになったのです。
家光は、自分が戦場経験のないことを逆手にとりました。つまり、「二度と戦争を起こさせない」という宣言です。
家光は、征夷大将軍に就任すると、江戸城に大名たちを集め、こう言い放ちました。
「余は、生まれながらの将軍である。余に逆らう者は、この場から去れ、戦場で相まみえようぞ!」
若い将軍から、思いっきりこう言われては、頭を上げることもできません。大名たちは、平伏して頭を下げました。
これで家光の気合い勝ちです。この後、家光は、武家諸法度、参勤交代など、諸々の法整備を行うと共に、日光東照宮を徳川家の力だけで造営をしました。そのため、日光に続く街道を整備し、拠点には、譜代の大名を配置しました。こうして、幕府の力を見せつけ、天下を治めてみせたのです。この手腕は、家康の再来であるかのように諸大名を恐れさせました。
次に、五代将軍綱吉です。
綱吉は、三代将軍徳川家光の四男です。四代将軍家綱に子があれば、将軍にはなれませんでしたが、跡継ぎがいなかったために、綱吉に順番が回って来ました。
綱吉は、体も小さく武術というよりは、学問が好きな青年でした。「生類憐れみの令」を出して「犬公方」などと揶揄されているので、無能な将軍のように言われますが、徳川家が学問を奨励したことで、地方の武士たちが学問に励んだことは事実です。
綱吉は、戦乱の世が終わったにも関わらず、未だに武力を誇る武士たちを嫌っていました。赤穂の浅野家などは、その典型でしょう。「生き物を大切にする」という法令も、「命を大切にする」と読み替えた方がいいと思います。その頃の江戸では、動物が粗末に扱われ、動物虐待に近いことが平気で行われていました。
江戸の町も粗暴な振る舞いをする武士や町人も多く、町の人々も困っていました。
戦国の世を懐かしみ、「旗本奴」や「町奴」と言われる「かぶき者」が、町を徘徊していました。それに、江戸の町は野犬も多く、野犬に襲われる事件も起きていたのです。その犬を保護し、矯正するのも治安を守る仕事だと考えていたのです。
人々が、いくら自分たちの生活のためとはいえ、みんなで野犬を追い、棒で殴り殺すのが当たり前の世の中では、真の平和はやってきません。それに、家康が広めようとしていた儒教の「仁」の精神は育ちません。綱吉は、そんな社会を憂えていたのです。
「生類憐れみの令」は、単に動物を大事にしろという法律ではなく、江戸の人々が、「命」を大切にする「仁」の心を持つ、優しい人間になれるよう、粗暴な振る舞いを規制する法律でした。
しかし、将軍が直々に法律に関わったとなれば、下々の役人たちが、法を過大に解釈し、小さな事柄でも取り締まり、罰するというようなことも起こりました。将軍の権威が大きかったために、綱吉自身の意図とは違った運用がされていたのです。
赤穂事件のときも、綱吉は、怒りにまかせて浅野長矩を即日切腹させたことを後悔しました。一時の怒りで法を曲げるようなことをしてしまった後悔は、赤穂浪士たちの討ち入り後に現れます。綱吉は、裁定を評定所に任せるだけでなく、将軍自ら寛永寺の公弁法親王に相談までしています。
武士道としては、賞賛できる仇討ちであっても、江戸府内で徒党を組んで、幕府高官を討ち取ったわけですから、法においては、処罰しなければなりません。
幕府内でも助命すべきという意見が多く出されました。それを敢えて「切腹」という罰を与えたのは、荻生徂徠の意見に基づくものだと言われています。
「武士の情においては、助けてやりたいが、法治国家である以上、法に背いた者は、処断されなければ国が成り立たない」
こうした情理を尽くした議論の末、切腹を認めました。さすがに、学問に秀でた将軍です。こうした江戸時代を法治国家として完成させた功績は、ひとえに綱吉の時代だったと言えるのです。ここに、日本の近代が始まりました。
次の将軍は、八代将軍徳川吉宗です。
テレビドラマでも人気を博し、将軍の中で一番人気の高い人物です。
江戸時代も中期になると、社会は安定していきましたが、幕府の財政は厳しくなっていました。それは、やはり「年貢」だけの収入では、物価に追いついていかないからです。
徳川家は、約四百万石と言われていますが、「旗本八万騎」と呼ばれるように、家臣も多く、その支配地も全国に広がっていました。
「五公五民」としても、実際の収入は二百万石程度です。それで、全国を治めるわけですから、けっして裕福とは言えません。もちろん、長崎での海外貿易や各大名家からの進物など、入ってくる収入もありましたが、幕府自体が格式を重んじ、大奥に千人もの若い女性を置くなどしていましたので、出費も多かったのです。
また、江戸幕府は、老中の合議制によって政治が行われていました。基本的に将軍は、そんなに優秀でなくても構いません。昔、聖徳太子が「和を以て貴しと為す」と言ったように、日本人には、この合議制が一番性に合っていたということです。
今でも、長期政権が続くと、すぐに「独裁だ!」と言って騒ぐ人がいますが、独裁というのは、信長のような政治を言うのであって、みんなで話し合って決めたことには、それほど無茶な法令出すことはできません。
五代将軍綱吉の「生類憐れみの令」にしても、老中が合議で決めたのなら、それほど大きな力は持たなかったはずです。「将軍の法」という権威が、必要以上に権力を持たせる結果になったのです。
吉宗は、紀州和歌山藩の出ですが、紀州藩の跡を継ぐべき人間が、次々と亡くなり、血筋によって運良く将軍になった人物です。
こうした運を持った人間が、歴史上度々登場してきます。人間は、努力も大切ですが、「運」を持っているかどうかも、人生を大きく左右します。
吉宗自体は、元々、大名家の跡を継げるかどうかもわからない立場でしたから、子供の頃は、自由にのびのびと育つことができました。そのため、庶民感覚を持って将軍になることができたのです。
将軍になって江戸城に入ると、老中たちから幕府の財政状況が厳しいことを聞かされました。そこで、吉宗は、まずは「質素倹約」を徹底して幕府の財政を立て直そうと考えました。
毎日の食事を「一汁二菜」にしたり、着る服を絹から綿に替えたり、大奥の人員整理をしたりと、幕府改革に大なたを振るいました。
吉宗にしてみれば、若い頃はいつも質素で、贅沢をしたくてもできない立場でしたので、当たり前のことをしたまでのことでした。しかし、周囲は、吃驚です。
格式を重んじる幕府で、将軍自らが質素倹約に励むのですから、文句も言えません。
特にお金のかかる大奥の出費を抑えるために、美しい女性を解雇し、故郷に帰しましたた。
「美しい女性なら、すぐに嫁にも行けるだろう」
というのが、吉宗の考えでした。
その上、新しい水田を開発し、米の収穫を増やそうとしたり、サツマイモ栽培を奨励し、飢饉に備えたりと、その庶民感覚と実行力は、合議制の幕府にとって驚きだったことでしょう。
確かに、徳川家内の改革は、徳川家の主である将軍にしかできません。その上、目安箱を設けて庶民も意見を聞いたり、「小石川養生所」を開いて、貧しい江戸の町人を看てやったりと、その改革は、「享保の改革」と呼ばれました。
この改革は成功し、徳川幕府の財政難を一時的ではありますが、安定させたのです。
ただし、吉宗は、家康が定めた徳川家の継承のために創った御三家の他に、自分の子供に清水家、田安家、一橋家を立て、「御三卿」としました。これでは、紀州、尾張、水戸から将軍が出しにくくなります。結局、紀州や水戸からは将軍を出しましたが、尾張家からは将軍を出すことができませんでした。そのためか、幕末になると、尾張家は、早々に新政府軍について、徳川本家を裏切ってしまったのです。
「将軍を出せなかった」という恨みは、尾張徳川家に残り、吉宗以降、尾張家は、江戸の本家とはうまくいかなかったと言われています。このときから、徳川家は分裂し始めたのです。やはり、初代家康の遺言を守るべきだったのかも知れません。
最後に、十五代将軍慶喜のことです。
慶喜は、水戸藩、徳川斉昭の子として生まれました。水戸藩は、御三家の一つですが、参勤交代のない藩です。江戸と水戸(茨城県)は近く、殿様は江戸在府でした。しかし、尾張や紀州は、「大納言」の位がありましたが、水戸は「中納言」で、二つの親戚より格が低く、余程でなければ将軍職を出すことができませんでした。その代わり、「天下の副将軍」として、幕府のご意見番という役割を担っていました。
水戸藩で有名なのが、五代将軍の頃の殿様である「水戸黄門」です。「黄門」とは、中国の王朝時代の「中納言」の別名だそうです。「黄門様」と言われた「徳川光圀(みつくに)」は、漫遊はしませんでしたが、日本の歴史書である「大日本史」の編纂事業を行った人物です。この「大日本史」は、完成までに260年ほどかかったとされており、完成を見たのは、明治後期のことでした。この史料作成は、日本にとって大変重要な記録であり、こうした歴史書が後生に残されたことが、日本の文化の高さを物語っています。
さて、幕末の徳川慶喜ですが、非常に優秀な人物で、「家康の再来」とまで噂されるような将軍でした。慶喜は、一橋家を継いで、一橋家から将軍職を継ぎましたが、日本が開国に向けて多難な時代でした。水戸藩は、徳川家の親戚ではありましたが、天皇家に近く、
「勤皇」を旗印に掲げた藩でした。そして、大日本史にあるように、「日本の主は、天皇である」ことを明確に示したのです。この水戸の学説を「水戸学」と言いますが、外国が開国を求めて、日本に迫ってきた時、水戸藩の徳川斉昭(なりあき)は、「尊皇攘夷」を掲げ、「開国」に大反対を立場を貫いていました。
慶喜は、幕府の将軍として、開国問題に立ち向かいますが、実家の水戸と本家の幕府の間に挟まれて苦悩しました。しかし、状況を考えると、開国に進むしか方法はありません。しかし、薩摩藩や長州藩を中心とする西国の雄藩は、「攘夷」を叫び、英仏と戦争まで起こしてしまいました。
それでも、大老井伊直弼(なおすけ)は、幕府の力で武士たちを抑え、アメリカ等と開国の条約を結びます。そして、それに反対する勢力を弾圧したのが、「安政の大獄」です。
もし、このとき、幕府があくまでも鎖国をとおし、アメリカ、イギリス、フランス等の連合軍と戦争になれば、日本は間違いなく軍艦からの艦砲射撃で江戸は火の海となったことでしょう。そして、最新式の銃器で装備した敵の上陸軍によって、武士だけでなく、多くの庶民が犠牲になったはずです。
つまり、第二の「元寇」がやってきた時代でした。
鎌倉時代の執権北条時宗は、徹底抗戦を貫きましたが、慶喜は、「外交を求めてきた諸外国に対して、こちらから攻撃は仕掛けられない」という判断をしていました。「外交には、外交で対応する」というのが、幕府の方針だったのです。
しかし、攘夷運動は各地に飛び火し、当時の孝明天皇自身が「外国人を神聖な我が地に入れるな!」という強い態度を示されたこともあり、水戸藩自身も意見の対立が起こりました。そして、無理強いをするように開国を進める幕府に対して、西国藩の下級武士やそれを支持する浪人者たちは、京の都を中心に、攘夷テロを起こしたのです。そして、その暴動が、ついに「倒幕」運動につながっていくのです。
慶喜は、国内で戦を続ければ、外国につけ込まれると考え、「鳥羽伏見の戦い」で幕府軍が有利だったはずにも関わらず、一人、敵前から逃亡し江戸に戻ってしまいました。
この鳥羽伏見の戦いから、函館五稜郭の戦いまでを「戊辰戦争」と言います。これが、幕末の日本の内乱です。
大坂城から側近の数名を伴って幕府軍艦で江戸に逃げ帰った慶喜が、家臣たちの信頼を得ることは、もうできませんでした。慶喜は、「自分の存在を消す」ことで、国の内乱を防ぎ、外国の侵略から国を守ろうとしたのかも知れませんが、そのことを慶喜は、ひと言も弁明しないまま、大正2年に亡くなりました。
こうなると、幕府軍の大将はいません。大将なしで戦うことができなくなった幕府軍は、京、大坂から撤退し、それぞれ自分の領地に戻っていきました。
江戸では、「新政府軍が攻めてくる」と大混乱になりましたが、幕臣の勝海舟と薩摩藩の西郷隆盛の会談で、戦を止めることができました。江戸城は、慶喜が不在のまま、新政府軍に明け渡し、長く続いた江戸時代が終わりを迎えることになったのです。
慶喜は、自分が江戸城にいれば、また、戦になると考え、早々に実家のある水戸に引き揚げ、邸に閉じ籠もっていました。だれが訪ねてきても会おうともせず、武器を置き、天皇に対して、ひたすら恭順の意を示しました。
この将軍慶喜の姿は、幕府軍や幕府に味方する藩からは、「裏切り者」と見られ、徳川幕府崩壊の道を、将軍自らが開いたのです。
この後、戊辰戦争は、東北、北海道と続きましたが、外国の軍隊を入れた戦いにはなりませんでした。
慶喜の生き方は、批判もありますが、結果として、外国に侵略されなかった事実は残りました。戊辰戦争という内戦もありましたが、慶喜が徹底抗戦をして、外国軍を味方につけて大戦争になれば、開国どころか、日本も中国やインドのように、外国の植民地になったことでしょう。
日本が、建国以来守ってきた「独立」を慶喜も守ったと言えます。そして、身を捨てて、新しい時代に移行する決断をしたことで、日本の未来が開けました。
三十三 会津戊辰戦争
倒幕運動は、戊辰戦争の終結によって成し遂げられましたが、会津藩の悲劇を忘れることはできません。会津藩は、徳川家の親藩の一つです。もちろん、御三家ではありませんが、藩祖は、徳川秀忠の子である「保科正之(ほしなまさゆき)」です。正之は、秀忠の子ではありますが、正室の産んだ子ではなく、秀忠が奥女中にこっそり産ませた子供でした。そのため、徳川を名乗ることができず、信州高遠藩に養子に出されました。真相がわかると、秀忠の子供である家光や忠長は、正之を受け入れ、幕閣の重要な要職に就けて、将軍の子として遇したと言われます。
正之は、保科家を相続すると、高遠藩主から会津藩主に移り、二十六万石の大名となりました。正之は、家光が亡くなると、その意思を継いで、四代将軍家綱を補佐し、徳川幕府の基礎を固め、名君と呼ばれました。
そのとき、正之は、会津藩の家訓を定め、歴代藩主に、徳川家の忠誠を誓わせたのです。
これが、戊辰戦争では、会津藩を滅亡の淵に追いやろうとは、藩祖保科正之も思いも及ばぬことでした。
幕末の京都は、「尊皇攘夷」を掲げた若い武士や浪人たちが屯する騒乱の場となっていました。幕府の「開国」の方針が、武士たちのプライドを傷つけたことが原因でした。当時の武士たちは、世界の情勢も知らず、ただひたすらに、「神国日本に外国人を入れるな!」という思想にかぶれていました。これは、当時の孝明天皇の意思でもあり、それを政治利用した向きもあります。その思想を裏付けたのが、国学であり、水戸学でした。
国学や水戸学では、日本の歴史を紐解き、真の日本の主が征夷大将軍ではなく、天皇であることを明らかにしました。それは、当然のことでしたが、改めて、「天皇の命令が絶対である」ことに、武士たちが気づかされたのです。幕府も、開国を行うための条約を結ぶため、天皇の勅許を貰う必要があると考え、幕府老中堀田正睦を遣わしましたが、長州藩の朝廷工作が進み、勅許を得られない事態となっていたのです。
尊皇攘夷を掲げる武士にとって、天皇の命令に逆らう幕府こそが、「逆賊」なのです。しかし、幕府は、「外交権を朝廷より委託されている」という論理で、不穏な動きをする武士や浪人たちを取り締まりました。
幕府では、京の都の治安を回復するために、新たに「京都守護職」を新設し、親藩であり、武門の誉れ高い会津藩に、その職を命じたのです。その当時の会津藩主は、「松平容保(かたもり)」でした。
容保は、この職がどういう職か、よくわかっていました。今、京に入り、長州藩を初めとする攘夷派の武士たちを権力で取り締まれば、彼らの恨みを一身に買い、後々、面倒なことになるのはわかりきっています。会津藩の家老たちも反対しますが、容保は、藩祖保科正之の家訓を示し、引き受けざるを得ないことを告げます。
その家訓には、
「大君の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず」
とありました。つまり、「徳川家に対して忠誠を尽くせ」という藩祖の教えです。
この一条が、会津藩を苦しめます。
容保は、京都守護職として、騒乱の京に乗り込み、不逞浪士や過激派の武士たちを取り締まりました。会津藩だけでは、手が足りず、近藤勇たちの「新選組」を会津藩所属として認め、京の治安に努めました。
一時は、長州藩が京都御所を攻撃するなど、長州藩は益々過激になり、「関ヶ原の恨み」をここで晴らすかのように、過激な攘夷運動の中心になっていました。その長州軍を追い払ったのが、会津藩や薩摩藩でした。
これに孝明天皇も大変喜ばれ、容保に拝謁を許すと、陣羽織や宸翰(しんかん・天皇の手紙)を渡し、大きな信頼を会津藩に寄せてくれました。京の人々も、会津藩が治安を守ってくれると言うことで、大変喜び歓迎したのです。しかし、情勢はいつまでも会津藩に味方はしませんでした。
孝明天皇が急な病で亡くなると、会津藩に対して幕府も冷たい態度をとるようになりました。幕府の重役にとっても、面倒なことは引き受けたくありません。老中の一部には、「会津藩はやり過ぎた」と、容保たちを非難する声すら上がっていたのです。
その頃、当初、会津藩味方をした薩摩藩が、密かに長州と手を結んでいました。元々、敵対関係になった薩摩と長州が「同盟」を結ぶなど、考えられないことでしたが、「倒幕」という一点で、思惑が一致したのです。これに、有名な坂本龍馬が活躍したと言われていますが、龍馬の考える倒幕と、薩摩の西郷隆盛や長州の桂小五郎(後の木戸孝允)らが考える倒幕の思想は異なり、龍馬は、密かに暗殺されてしまいました。
こうなると、もう戦しかありません。京の鳥羽伏見の街道で、京に入った薩摩藩、長州藩などの軍勢と、京に入ろうとする幕府軍が衝突し「戊辰戦争」が始まりました。しかし、新政府軍は、公家の岩倉具視(ともみ)らと謀り、新政府軍に「錦の御旗」を掲げさせたのです。これは、「錦旗(きんき)」とも呼ばれ、天皇の軍、つまり「官軍」の証でした。
孝明天皇の後は、少年の明治天皇が継いでいましたが、実権は、過激派の公家と薩摩、長州の武士が握っていたのです。
この戊辰戦争は、新政府軍にとっても大きな賭でした。なぜなら、薩摩や長州以外の各大名は日和見で、勝ち組につこうと、戦備を整えて眺めていたからです。その点、幕府軍は戦力もあり、動員できる兵力も新政府軍を上回っていました。しかし、大将である将軍慶喜は、朝廷に手向かうことをためらっていました。「天皇に弓を引く」ことは、一時的であっても「逆賊」となるからです。そのうち、「錦旗が出た!」という情報が入ると、慶喜は、この戦をあきらめました。なぜなら、慶喜は、水戸藩の出身です。水戸藩は、徳川家綱の時代から「大日本史」を編纂している「勤皇」の藩だからです。
この子供の頃からの教えに逆らうことができるほど、慶喜は、戦を望んではいませんでした。「天皇の軍隊を倒して、幕府を存続させても、逆賊の汚名は免れない」とでも、考えたのでしょう。そのとき、慶喜は、会津藩の松平容保たちも連れて、江戸に逃げ帰りました。容保が、戦場に残れば、今度は、容保を大将にして戦が続くと考えたからです。
しかし、会津藩の武士たちは、自分の主君に置き去りにされ、惨めな思いで江戸に引き揚げてきました。
こうなると、会津藩の主君と家臣の関係は、壊れたも同然でした。藩士たちからは容保に不平不満の声が上がります。容保は、藩士を前に手をついて謝罪をしました。そして、側近の「神保修理」という若い武士が、その責任を取って、一人「切腹」をしたのです。
江戸に戻った慶喜は、もう容保を側に置いておく必要がありません。容保を遠ざけ、江戸城からも出て、天皇に逆らわない態度を示すために寛永寺に籠もりました。
容保を初め、会津の主従は、黙って会津若松(福島)に引き揚げたのです。
慶喜が謹慎したことで、江戸は戦場にならずに済みましたが、新政府軍は、その勢力を拡大していました。なぜなら、日和見の各藩が味方についたからです。
そうなると、朝敵は、会津藩を初め、幕府方の各藩になります。新政府軍は、いよいよ、東北諸藩を攻撃しようと北上してきました。そこで、東北諸藩は、これに対抗すべく「奥羽越列藩同盟」を結びました。会津藩、庄内藩、仙台藩などの各藩に越後(新潟)の長岡藩などです。
東北諸藩は、これまでの経緯を謝罪し、新政府に許しを求めますが、新政府軍はこれを許さず、どうしても積年の恨みを晴らそうと攻めてきました。それが、東北における戊辰戦争です。
新政府軍は、まずは北陸道を進み、越後長岡藩を落としました。しかし、長岡藩は、家老河合継之助(つぎのすけ)を首領として徹底抗戦し、新政府軍を苦しめました。次いで、東海道、東北道を進んだ新政府軍は、官軍として東北に攻め込み、平藩、二本松藩などを落城させ、遂に白河で大合戦となりましたが、同盟軍はこれに敗れると、会津の籠城戦に備えました。
会津若松では、鶴ヶ城を拠点に周囲を固めましたが、同盟の他藩の多くは降伏し、孤立無援の状態で一ヶ月の籠城戦を戦い抜きました。このとき、後に有名になった白虎隊(びゃっこたい)の少年たちが飯盛山で自刃しました。
容保は、これ以上の戦いは無益と判断し、一ヶ月後に降伏の白旗を城に掲げ、会津戊辰戦争は終わりました。
孝明天皇に信頼され、御宸翰までいただいた容保が、朝敵となり罰せられるわけですから、会津の人々も、時代の流れに翻弄されたようなものだったと思います。
その後、会津藩は取り潰され、下北半島の北部で「斗南(となみ)藩」として再興しますが、明治政府の廃藩置県とともに、会津藩の歴史を閉じました。
東北戦争の後は、幕臣や一部の脱走兵たちが幕臣の榎本武揚を首領に、函館五稜郭を拠点に共和国樹立を目指して、官軍と戦いましたが、大きな戦力の違いは、どうしようもなく、遂には降伏し、ここに戊辰戦争が終わりました。
明治の世になっても、賊軍となった人々は、世に出ることは難しく、それでも、必死に新しい時代を生き抜いたのです。
三十四 江戸時代の功績
「江戸時代」とひと口に言っても、260年も続いたので、様々な問題や課題、そして功績があります。その功績を見てみたいと思います。
功績として、まず挙げられるのが、平和な時代を三世紀近くにわたって維持したことでしょう。そのためには、徳川家康が、征夷大将軍として天下に号令をかけ、全国の武士を幕府の家臣として扱ったことです。
武家諸法度を定め、その中で「参勤交代の制度」を創り、全国の大名が一年おきに領地と江戸を往復しなければならないように定めました。当然、各大名家からは反発もあったことと思いますが、幕府の権威と権力で強行しました。こうすることで、地方での反逆を防ぐことができます。
江戸の町は、全国の武士で溢れ、世界有数の大都市になりました。武士は、単純に消費しかしません。地方から殿様について江戸に出てきた武士にとって、大都会の江戸は、華やかな楽しい町でもありました。
全国からの特産品が江戸に送られ、次々と消費されるわけですから、経済が活発にならないはずがありません。江戸が今の東京として発展したのも、この参勤交代の制度の賜なのです。
明治維新を迎えて、江戸に将軍がいなくなっても大都市としての機能は残りました。確かに廃藩置県で参勤交代もなくなりましたが、数百年続いた首都機能がなくなるわけではありません。「東京」と名を変えた「江戸」にいれば、多くの仕事もあり、出世の糸口を見つけることができたのです。特に地方の元武士たちは、東京に出て、警察官や軍人になる道を探りました。他にも優秀な人材は、帝国大学などに入り、学者や官僚の道を進みました。その上、外国からの情報や物資も、その多くは東京に入ってきたのです。
新政府は、やはり京ではなく、東京にいなければ政治ができないことに気づくと、天皇ご自身を東京に移すことを考えました。そして、江戸城を「皇居」として、日本の首都として内外に広く周知したのです。
徳川家康が入った頃は、湿地帯の殺風景な土地でしたが、苦労の末、利根川の流れを変えたり、上水道を整備したり、湿地帯を埋め立て土地改良を行ったりと、江戸は、まさに人工都市になりました。そして、その江戸を守り発展させていったのが、歴代将軍と言うこともできます。
もし、幕末の混乱期に江戸の町が戦によって焼かれてしまえば、現在の東京の賑わいはなかったかも知れません。
その後、東京は関東大震災、東京大空襲と何度も被災していますが、それでも必ず復興し、今の姿を見せてくれています。
次に長い平和な時代が続いたことで、庶民の生活にも潤いが出てきました。
室町時代に栄えた茶道や華道、能や歌舞伎、落語、浮世絵などの華やかな文化も、平和な時代だからこそ繁栄することができたのです。今の日本に残る文化の多くは、室町時代に誕生したものばかりですが、それを長い時間をかけて熟成させ、多くの人々に愛されるまでになったのは、江戸の平和の暮らしが続いたお陰です。
この日本文化も、今では、外国人に関心を持たれているようです。近代都市と昔ながらの歴史の町が融合している日本の姿は、新しい未来の姿を予感させるのかも知れません。
それに、日本の「食文化」は、見た目の美しさだけでなく、自然の食材をふんだんに使い、味も繊細で外国からも高い評価を得るようになりました。それも、江戸時代に各地域が、それぞれの知恵を出し合い、特産品を生み出したことと深い関係があります。日本の食文化は、現代だけのものではなく、歴史に育まれた日本人の知恵の結晶なのです。
三つ目は、学問の発展です。
なぜ、学問が発展していったかと言えば、それは、「平和」な時代が続いたからです。 武士たちも天下が治まり、法整備がなされ、徳川幕府の支配下に置かれるようになると、次第に生活も安定し、将来を考える余裕が生まれてきました。
各藩の大名も、領地を広げることより、家を存続することに腐心するようになったのです。幕府は、豊臣方の大名の監視を怠らず、失政でもあれば、改易しようと待ち構えていました。そのためには、藩内をよくまとめ、領民にも安心して暮らせるよう、目を配らなければなりません。万が一、「一揆」でも起これば、幕府から呼び出され、最悪の場合、「領地召し上げ」となる可能性がありました。そうなれば、「家」を守ることができなくなります。そのためには、殿様といえども、新しい学問を学び、これまでの「武」優先の政治から、「文」優先の政治への転換が求められました。
武士は、子供の頃から漢詩、算術、論語を学びました。もちろん、武士ですから剣術も習います。しかし、賢くなければ、出世することはできなかったのです。もう剣術で身を立てる時代は終わりました。
学問は、新しい時代に必須のものとなりました。江戸時代には、幕府の命令で多くの公共事業が行われています。家康は、利根川の流れを変えるために、川を曲げ銚子の海に流すように大規模な土木工事を行わせました。また、尾張地方の木曽川、長良川、揖斐川の三川の治水工事を薩摩藩に命じました。このあたりは、低地で雨が降る度に堤防が決壊する難所です。その工事は、難工事に次ぐ難工事で、薩摩藩士が何人も命を落としています。
しかし、これらの治水工事は、人々の暮らしを向上させ、水田を開き、米の収穫高を上げたのです。
今のようにコンピュータがない時代、これらの作業はすべて手計算で行われ、精密な図面が引かれました。こうした数学の技は、やはり、子供の頃からの学問の賜だったのです。
また、中期以降になると、「蘭学」が広まり、西洋の医術や化学、物理学など、長崎をとおしてヨーロッパの学問が日本に入ってきました。そのために、明治維新後、多くの西洋の学問が入ってきても、日本人は、それを素直に受け止め、真摯な態度で学んでいったのです。
一般庶民も、瓦版や絵双紙、往来物などの書物をとおして、文章を自在に操る技術を習得していました。今でも、「読み・書き・そろばん」という言い方をしますが、学習の基本は、寺子屋で学び、その後は、「塾」と呼ばれる専門校に入り、門弟として修行をしたのです。
有名な塾として、吉田松陰の「松下村塾」、広瀬淡窓の「咸宜園(かんぎえん)」、シーボルトの「鳴滝(なるたき)塾」、緒方洪庵の「適塾」、佐藤泰然の「順天堂」などがありました。
日本の「塾」は、地方の村にもあり、学ぼうとするなら、農民や町人の子供でも学ぶことができました。こうした、学びの意欲は、日本の近代化を支えたのです。
最後に、日本は江戸時代から既に「法治国家」だったということです。武士のための法律だけでなく、江戸の町も様々な「御触書」が度々出されました。農村も町も、必ず町(村)役人といわれる人がいて、戸籍のない者、無宿人などを見張っていました。正式な町人や農民は、「名主」に届け出るのと、寺にも「戸籍」を届けておかなければなりませんでした。そうすることで、「○○長屋の○兵衛」であることを、役人が証明してくれるのです。この届がないと、「手形」が発行されず、旅に出ることもできません。
江戸時代は、五街道が整備され、大名の参勤交代ばかりでなく、町人や農民も始終、全国各地を旅していました。有名なのが、「お伊勢参り」です。江戸の人は、一生に一回、伊勢神宮にお参りしたいと願っていました。
やはり、日本の建国の話を知っていて、「天照大神様」に手を合わせたいと考えていたのです。
この頃は、手紙でもお金でも、何でも全国各地に送ることができました。今も使われる「駅」という名前は、荷物を運ぶ馬や飛脚が休む「停留所」だったのです。
こういった仕組みは、必ずそれを監督する役人がいて、幕府や藩は、その交通や運輸の状況もすべて把握していたのです。
それに、江戸時代の刑罰は厳しく、今では考えられないような罰もありました。そのために、江戸時代の人々は、「罰を受けないように」注意して生活をしていました。村では村の掟があり、町でも五人組と言って、みんなで助け合う組織がありました。助け合いながら、みんなで注意し、監視する組織です。これに反して、村や町から逃げ出した者は、「無宿人」となり、社会の恩恵を一切受けられず、裏の稼業に身を落としていきました。
明治時代になると、一気に日本も近代化していきましたが、こうした組織がしっかり残っていたお陰で、日本人は一丸となって近代化事業に取り組むことができたのです。
三十五 鎖国
徳川家康は、信長や秀吉と違い、海外との交易を禁じ、特にキリスト教が日本に入ることを厳しく制限しました。それは、宗教をとおして思想だけでなく、軍隊が入ってくることを知っていたからです。
当時、ヨーロッパでは、文明の未発達な国を侵略する口実として、キリスト教の宣教師を派遣してから、徐々に軍隊を派遣する方法で、植民地化していきました。「新しい文明を教えてやる」というのが口実です。
日本にも戦国時代から多くの宣教師が上陸してきました。そのために、キリスト教に改宗する人々や大名も大勢いました。キリスト教という宗教そのものが悪いということではなく、それを侵略に利用した政治家たちがいたということなのです。
信長も秀吉も、長く付き合ううちに、「これは、侵略の手先だ」ということに気がつきました。当然、家康も気がついていました。しかし、海外との貿易は、利益を得る手段としては、とても効果的な方法でした。それを家康は、敢えて遮断することで、日本を守ろうとしたのです。
それでも、海外からの情報は必要です。そこで、長崎にだけ門戸を開き、キリスト教国ではないオランダや中国、朝鮮との交易は行うことにしました。そして、情報を一元管理し、幕府にだけ入ってくるようにしたのです。
それは、政治を司る人間にとっては、大事なことでしたが、情報が漏れないように管理しすぎたため、幕末になっても、各藩では、世界情勢に疎く、無闇に「攘夷」を叫ぶ口実となってしまいました。情報と認識の不足が、お互いの誤解を招き、幕府の「開国政策」が、受け入れられない原因となりました。
しかし、日本の最南端に位置する薩摩藩や中国地方の再西端に位置する長州藩などは、外国に近いため、密かに海外貿易をとおして、情報を得ていました。知っていても「知らぬふり」をするのも、政治の駆け引きなのでしょう。
キリスト教の弾圧の経緯は、三代将軍家光の時代に起きた「島原の乱」を見れば、よくわかります。信者たちは、宗教によって、信じるもののために戦うわけですから、非常に強く、簡単に倒すことはできませんでした。
幕府にとっても、たかが農民兵と侮っていたところ、頑強な抵抗に遭い、大きな犠牲を強いられたことに驚きました。宗教戦争の恐ろしさを、改めて実感させられたのです。
その後、キリスト教の弾圧はさらに強まり、信者たちは、「隠れキリシタン」として生きなければならなくなりました。キリスト卿に帰依した人々の信仰心は、簡単に無くせるものではありませんでした。幕府は、徹底的な取り締まりに奔走しますが、「隠れキリシタン」の歴史は、現在にまで受け継がれています。
こうした宗教が、日本に入ってくることを幕府は、本当に恐れたのです。海外貿易には、魅力を感じながらも、鎖国政策を進めた原因がここにあります。
仮定になりますが、もし幕府が鎖国政策を採らず、海外貿易を積極的に行う国であったら、日本はどうなっていたのでしょう。
既に戦国時代に軍事大国であったわけですから、海外からの情報は各地にもたらされ、幕府が大名を管理することが難しくなったかも知れません。武器の進歩は、日進月歩です。 それに、キリスト教とともに、外国の軍隊が入ってくれば、やはり日本は、江戸の初期に対外戦争を起こしたかも知れません。
鎖国は、海外からの物資や情報を遮断しましたが、代わりに「平和」をもたらしたことは、否定できないようです。
こうして、日本は、「鎖国」の時代に入っていきました。しかし、二百数十年、日本が鎖国をしている間に、世界は大きく変わっていました。江戸時代後期に入る頃、ヨーロッパでは、「産業革命」が起こり、蒸気機関という凄まじいエネルギーを手にしたのです。この蒸気機関を使えば、鉄の大きな軍艦も動かすことができます。大きな工場を作って鉄を加工した製品を作ることができます。そうなると、ヨーロッパの各国では、大砲や軍艦などの新しい兵器が増産され、さらに強い軍隊を持ち、世界中に進出していきました。
アジアにも、インド、中国、東南アジアに次ぎ次ぎと軍隊を送り、植民地を広げていきました。人種差別も甚だしく、肌の色で能力を測り、有色人種が奴隷のように扱われたことは、世界史の汚点でもあります。
幕府には、オランダや中国から、様々な情報が入ってきました。特にオランダ人からは、「日本に、各国の艦隊が来航する」ことを告げられていました。しかし、幕府は、状況は把握していましたが、これという対策が採れないまま、「黒船」を迎えることになったのです。
それは、幕府が「鎖国」という政策から離れられないでいたからです。江戸幕府の致命的な欠陥は、徳川家康の方針を「祖法」と呼び、「絶対に変えてはいけない大方針」だと大名家に言い続けてきたからです。
鎖国が、もう時代に合わないことはわかっていましたが、「祖法」だと言われてしまえば、反論できる老中も官僚もいませんでした。幕府が、自信を持って対策が採れないと見るや、各藩の大名たちは、こぞって意見を言い合うようになりました。それまで、絶対的な存在であった幕府に弱点が現れたのです。
そうなると、各藩では、その幕府の弱みにつけ込むように、「攘夷運動」が盛んになってしまいました。
それは、徳川家康の祖法の問題とともに、時の天皇である孝明天皇が、「異人を日本に入れるな!」と厳命したからでもあります。
孝明天皇は、日本の神々に仕える立場です。その神聖なる日本に、外国の野蛮人を入れるようなことがあっては、「先祖や日本の神々に申し訳がない」という思想の持ち主でした。そして、この考えは、「国学」という、日本古来の考え方でもあったのです。
攘夷運動は、こうした様々な要素が絡み合って激しくなっていきました。しかし、現実的には、日本の国力では、列強の軍隊を追い払う力はありません。外国との交易を極端に狭めていた日本は、既に、近代化に取り残されていたのです。
もちろん、戦力としては、武士が存在していましたが、刀槍や弓では、新式鉄砲や大型大砲に勝ち目はありません。
遂に、アメリカのペリー艦隊が、黒船で神奈川の浦賀沖にやってきました。もし、交戦となれば、軍艦に積まれた大型大砲が火を噴き、江戸城は焼け落ちることは必定です。必死に抵抗すれば、あるいは、敵に相当の被害を与え、追い払うことができたかも知れませんが、その先のことを考えると、やはり戦うことはできませんでした。
全面戦争になれば、勝ち目はないのです。もし、それでも「戦う」という選択をすれば、幕府は持ち堪えたかも知れませんが、鎌倉時代の元寇の時のように、それを強く指揮する将軍はいませんでした。
こうして、長く続いた日本の「鎖国」も解かれ、新しい時代に向かうことになったのです。
三十六 明治維新
今の時代では、「明治維新」は、高く評価されていますが、本当にそうなのでしょうか。
徳川幕府の功績は先に述べたとおりですが、あのとき、どうしても幕府を倒さなければならなかったのか、その必然性はありません。
幕府が「開国」を目指したように、明治政府も、それ以上の「開国政策」を採用し、日本を近代化させたのですから、目指すべきところは、同じだったのです。それを「攘夷」などと多くの若者を焚き付け、尖兵として使ったのは、紛れもない明治の元勲たちです。 大久保利通、西郷隆盛、桂小五郎らは、若いエネルギーで革命を起こし、日本の社会を変革したかっただけなのではないかと思います。そもそも、幕府は、新しい政治形態を模索していました。坂本龍馬が「船中八策」を書いたと言われますが、龍馬程度の頭脳は、幕臣には大勢いました。徳川家の人間にも、「民主主義」を理解した人間はいたのです。 幕末に起きた「戊辰戦争」は、やらなくてもよかった戦争でした。幕府は戦をするつもりはなく、一時敵対した会津や東北諸藩も、謝罪さえ受け入れて貰えれば、戦いたくはなかったのです。それを無理矢理、戦に持ち込み、一方的に蹂躙したのは新政府軍なのです。 明治維新には、外国の影響が強く見えてきます。イギリスは、日本に来る前に、中国(清国)に対して、大量の「阿片」を売りつけ、中国人を麻薬中毒にしてしまいました。日本が、「麻薬」を極端に嫌うのは、その麻薬で滅んだ国の末路をよく知っているからです。清国は、阿片が国に入ってくることを嫌い、イギリス商人を捕まえますが、それを知った本国のイギリスは、それを口実に戦争を始めました。「イギリス邦人の保護」が、名目です。そして、一方的に清国を破り、不平等条約を押し付けました。
隣国の騒動を間近で見ていた幕府や西国諸藩が、危機感を抱いたのは当然のことです。 江戸時代の武士は、学問に励んでいたために、感情よりも頭で物事を考える人間が多かったと思います。テレビドラマ等で「尊皇攘夷」に雄叫びを上げるシーンが多く描かれますが、それは一部の若者と、それを煽動するリーダーだけです。多くの武士たちは、社会の動きを冷静に見ていたはずです。
確かに、長州藩や薩摩藩は、過激な異人斬りやイギリス、フランスの艦隊と一戦を交えていますが、それにも政治的な匂いがします。おそらくは、「二百年以上も続いた政治を変えたい」、「政治に対する不満をぶつけたい」といった動機が大きなエネルギーを生んだのでしょう。
長州藩も上層部は、幕府へ恭順を示し、公武合体で協力したいという意見を持っていましたが、吉田松陰ら過激思想の若者たちが、上層部を批判し、死ぬ覚悟で立ったために、上層部が内部抗争に敗れ、倒幕に向かうことになったというのが、冷静な見方です。
薩摩藩も、一部の過激な若者たちが突出して行動を起こそうと企んでいました。身分制度の厳しい社会で、若者たちが不満をぶつけられるとすれば、「外国人」は、都合のよい標的となったのです。
不思議なもので、車もそうですが、止まっている車輪を動かすには、相当の力が必要です。しかし、一旦動き出した車輪は、今度、止めようとしても止まりません。それと同じように、「攘夷運動」や「討幕運動」も、簡単には動きませんでした。しかし、何百人という若者たちの死によって、車輪は回り始めたのです。それは、だれも予想をしていない「時代のうねり」みたいなものだったのかも知れません。
その大きなうねりは、日本全体を包み込み、遂に徳川幕府は、倒れました。これが、明治維新です。
三十七 明治時代の文明開化
結局のところ、あれほど「攘夷、攘夷」と叫び、幕府を「腰抜け!」と罵倒していた人たちが、政権を奪った途端に「開国」に転じたわけですから、「攘夷運動」が、いかに詭弁だったかがわかります。だれが考えても、日本の採るべき道は、「開国」しかなかったということです。
それでも幕府は倒れ、王政復古の大号令の下に、「文明開化」が叫ばれ、日本は一気に近代化を進めていきました。その舵取りをしたのが、薩摩の大久保利通、西郷隆盛、長州の木戸孝允、公家の岩倉具視たちでした。他にも佐賀の江藤新平や長州の前原一誠、土佐の板垣退助などが新政府に参加しましたが、倒幕は果たしたものの先の見通しもなく、新政府ができたわけですから、意見が一致しません。ついには、内部抗争を繰り返し、最後は、大久保と岩倉だけの政府となってしまいました。
国民にとっても、江戸時代よりはるかに、いい政治が行われることを期待していましたが、税が重くのしかかり、四民平等を説きながら、士農工商に代わって、「華族、士族、平民、新平民」という身分制度ができました。
特に特権階級となった「華族」は、元の大名家と公家、維新に功績のあった武士たちでしたので、国民の多くは、その結果に失望を隠せませんでした。
確かに、わずか十年足らずの間に、「版籍奉還」「廃藩置県」「廃刀令」「徴兵令」など、明治政府の根幹となる大改革を進めたことは評価できますが、その急激な改革が、国民の反感を買ったことも事実です。
「華族」となった元大名たちは、苦労の多かった領地経営から解き放たれ、安堵する者も多く、明治政府の改革を受け入れました。しかし、「士族」は、それまでの「家禄」がなくなり、一時金で社会に放り出されたわけですから、何のために幕府を倒したかがわからないと、不満の矛先を政府に向けました。
元武士たちは、警察官や軍人、地方の役人などへの就職を期待しましたが、ほとんどの元武士たちは、その希望を叶えることはできませんでした。
「平民」と呼ばれた「農民」と「町人」は、同じ扱いになり、元町人は、税を納めなければならなくなりました。その上、「徴兵令」で、若い働き手を軍隊に取られるのでは、「何のための維新か?」と嘆きました。
こうした国民の不満が爆発したのが、各地方での反乱です。
佐賀で起きた江藤新平の「佐賀の乱」、熊本で起きた「神風連の乱」、福岡の「秋月の乱」、山口で前原一誠の起こした「萩の乱」、そして、最後は、薩摩で西郷隆盛が起こした「西南戦争」などがありました。
その多くは、戊辰戦争で「官軍」となった藩の武士たちが中心でした。幕府を倒して、自分たちの政府ができれば、今度は、自分たちの「幕府」ができると信じたのです。そうなれば、立身出世も思いのままです。
そんな期待が大きかったために、廃藩置県や廃刀令などは、元武士にとって「裏切り」行為でしかありません。失望が怒りに代わり、新政府打倒に立ち上がったのです。
しかし、新政府は、それを許しませんでした。強い「中央集権国家」を目指していた大久保や岩倉は、近代兵器で武装した兵を動員して、元武士たちの反乱を鎮圧しました。 兵たちは、「徴兵」で集められた農民や町人の出身者が多く、武術の心得のない者がほとんどでした。もちろん、元武士たちで編成した警察官の部隊(抜刀隊)などは、白兵戦に強く、元武士たちと対等以上の戦いを見せましたが、それより、一般兵たちが、新式銃で十分に対抗できたことは、元武士たちにとって驚きでした。
国民も「農民や町人が武士に勝った」ことに驚き、武士の権威をなくす原因ともなりました。
薩摩の西郷隆盛は、大久保たちの近代化に不満を持っていました。西郷は、「日本はあくまで、農本主義でいくべきだ」という考え方をしていましたが、大久保たちは、「富国強兵政策こそが、日本の進む道だ」と対立を深めたのです。結局、「征韓論」といわれる朝鮮への使者の派遣問題を契機に、西郷は新政府と対立して薩摩に戻ってしまいました。 西郷は、倒幕の中心となった薩摩武士と共に兵を挙げましたが、抵抗むなしく、薩摩に戻って戦死しました。こうして武士の時代は、終わりを迎えたのです。
「東京」と名を換えた江戸は、近代西洋建築の建物やら、馬車、人力車、洋装と、西洋の導入に一番熱心な都市となりました。地方では、髷を結って着物を着ていても、東京では、髪を短く切り、洋服を着て、牛鍋や洋食を食べることが流行しました。
しかし、短時間での無理な西洋化でしたから、外国人からは、嘲笑の対象となり、まだまだ、世界が日本を認めるようになるまでには、相当の時間と努力が必要だったのです。 西南戦争後、間もなく大久保利通は、石川県の元武士数名に襲われ、暗殺されてしまいました。明治維新後、わずか十年足らずで、維新の功労者たちは悉く亡くなり、その後を長州の伊藤博文や薩摩の西郷従道たちが、担うことになったのです。
明治時代というと、日本の近代化が富国強兵政策によって進んだと言われますが、政治の力だけで、近代化が進んだわけではありません。経済が発展したのは、渋沢栄一を初めとする民間の実業家たちの努力がありました。もちろん、江戸時代の商人たちの多くが実業界に転身し、金融や工業、商業を盛んにしていきました。鎖国政策が解かれ、自由貿易が可能になれば、商人たちにとって商売をする世界が無限に広がります。そのようなチャンスに手をこまねいている商人はいません。積極的に新しい産業に着手し、日本の近代化を後押ししました。
また、洋画、彫刻、建築とこれまで日本が培ってきた技術の基礎の上に、文化もさらに発展していきました。
厳しい管理や制限がなくなり、「自由」が謳歌できたことで、日本の近代化は一気に進むことになったのです。
その中で、特筆すべきことは、日本の医療改革です。今の日本の医療システムは、幕末時に佐倉(千葉県)に設立された「順天堂」が基礎となっています。江戸で名医の評判の高かった蘭医佐藤泰然が、佐倉藩主堀田正睦の招きに応じて、佐倉に「病院兼西洋医学塾」を設けたものですが、ここで学んだ学生たちが、故郷に戻り、日本の近代医療を広めていきました。また、二代堂主佐藤尚中(たかなか)は、大学投東校(帝国大学医学部)校長、明治天皇の侍医頭を務めた人物ですが、尚中の進言により日本に多くの「医院」が設立されることになりました。これは、政府が進めた施策ではなく、民間の医師たちの強い願いによって実現したものなのです。こうした国民の力が結集して、日本の急速な近代化が為されたことを忘れてはなりません。
明治維新は、一見、素晴らしい革命であったかのように宣伝されますが、動機も目的も、方法も矛盾だらけでした。そして、徳川幕府の功績を貶めることで、新しい歴史を創っていったのです。
「文明開化」という言葉の響きは美しいと思いますが、江戸時代にも日本独自の高度な文明はあり、明治維新後は単に日本を西洋化しただけのことなのです。
そんな矛盾を孕んだ近代化でしたが、日本人は、己の知恵と工夫によって日本独自の近代を創って見せました。それは、革命を行った政治家たちには、思いも及ばなかった日本人の底力でもあったのです。
明治維新の失敗を挙げれば、それは、歴史を改竄し、江戸時代を貶めたことにあります。もし、明治政府が、徳川時代の功績を素直に認め、感謝の意を表した後、改革に着手していれば、日本の歴史は断絶することなく、現代にまで続いたはずです。しかし、心の狭い明治の政治家たちにそんな器量はありませんでした。野心はあっても教養のない人々は、所詮、過去を否定することでしか、己を保てない典型的な政治でした。
三十八 明治政府
日本の「開国」は、幕府だろうが、明治新政府だろうが、避けられない道でした。もしあのまま「攘夷戦争」に突入していれば、日本全土が焦土と化し、完全に欧米の植民地となっていたことでしょう。それが、わかっていただけに、明治政府は、手のひらを返したように西洋化に突き進んだのです。
要するに、「攘夷論」は、幕府を倒すための詭弁だったということです。だれもそんなことを信じてはいないのに、政権を倒すために詭弁を弄し、幕府を困らせ、「何もできない政治」という烙印を押したかった宣伝工作に、日本人の多くが乗せられました。
政権を奪った明治政府は、岩倉具視や大久保利通などを「欧米使節団」として、二年あまりも多難な国内を留守にして、欧米旅行に行ってしまいました。その留守政府を預かったのが西郷隆盛、板垣退助、江藤新平たちでしたが、新しい国の枠組みを作らなければならず、次々と新しい制度を整えていきました。面倒なことを西郷たちに押し付けて、岩倉や大久保は、幕府の結んだ「不平等条約撤廃交渉に望む」と意気込んで旅立ちましたが、欧米諸国からは、まったく相手にされず、すごすごと帰国する結果となりました。
それは当然のことです。やっと開国し、外国と外交関係を持つようになった日本が、欧米列強と対等な関係を結ぼうと考える方が、どうかしているのです。「攘夷」の考えが抜けきらないのか、幕府より上手にできるとでも考えたのか、まるで無邪気な子供のようでした。逆に、欧米の有様を見てきた明治政府の高官たちは、その凄まじい近代化に目を奪われ、「日本もああなりたい」と強く願うようになったのです。欧米の近代化された街並みと強力な軍隊を見て、これまでの日本が古くさく、すべてが遅れて見えたのです。そこには、冷静な判断も分析もありませんでした。
当時の日本人は、情報量も少なく、どんなインテリでも、本当の近代を知りません。そのためか、外国の高層ビルや鉄道列車を見ただけで強い憧れを抱き、日本が同じように西洋化できると考えたのです。
しかし、この思想は危険で、子供じみた幻想でしかありませんでした。不幸なことに、そんな幻想を抱いた日本人が政府の高官たちだったのです。
明治政府が、西洋化を目指して唱えた不可思議な政策を列挙すると、「廃仏毀釈」「英語国語論」「断髪・廃刀令」「鹿鳴館外交」など、富国強兵の名の下に一気に西洋化に突き進もうとする明治政府に、国民の多くはついて行くことができませんでした。
「廃仏毀釈」は、一時のブームで終わりましたが、歴代天皇が帰依し、国民のほとんどが寺の檀家になっている現状も無視し、「仏」を壊すなどという乱暴な政策は、明治政府の知性と教養のお粗末さを露呈しました。
「英語国語論」は、日本語を廃止し、日本の国語である日本語を英語とする案でしたが、それを唱えたのは、森有礼という文部大臣です。森は、薩摩の人間ですが、自分が外国語を学び、得意の絶頂にいました。そのためか、西洋にかぶれ、その国の「歴史と文化」そのものである日本語という国の言語すらも、換えられると信じたのです。まったく愚かな政治家でした。
「断髪・廃刀令」は、まさに外国と同じような「平等社会」の実現を目指したものですが、実際は、「華族・士族・平民・新平民」という妙な身分制度を創っただけのことでした。「華族制度」はやむを得ないにしても、他は、「族称」を持つべきではなかったのです。そのため、日本人が真の民主主義を理解することはできませんでした。
最後に、外交の恥部として「鹿鳴館外交」があります。西洋に遅れまいと、洋館を建築し、毎日のように、舞踏会を開いたそうですが、実際の舞踏会を知らない日本人が、同じようなドレスとタキシードを着て、覚束ない足取りでステップを踏んでも、外国人には笑われるだけのことでした。今の歴史では、「積極外交」の努力と解釈していますが、外国人の評価も聞かず、洋行帰りの高官の意見で始めた舞踏会は、数年間で消え去り、今では、その足跡は何も残されていません。単に、日本人の卑屈さだけが強調された惨めな外交でした。
そんな明治政府に失望した元武士たちが各地で反乱を起こしましたが、それが国民運動にならなかったのは、やはり「武士の喧嘩」というように、庶民は見ていたということです。
徳川幕府でも、「積極開国論」を唱えた高官は存在していました。佐倉藩(千葉県)の堀田正睦です。正睦は、老中を三度務め、阿部正弘に代わって老中首座を務めた人物です。 条約勅許問題で失脚しますが、これも、長州藩などの討幕派の謀略によるものでした。しかし、正睦は、単に失脚しただけでは終わりませんでした。佐倉藩は、天保4年(1833)から、藩政改革に取り組み、開国に向けた準備を始めて行ったのです。その期間は、30年にも及び、佐藤泰然の医学塾「順天堂」の創設、藩校「成徳書院」の設立、フランス式西洋軍隊の編成など、藩士たちには西洋学を勧め、開国後の人材育成に励みました。
その結果、明治維新後、各分野で活躍し、新しい日本をリードしていきました。
例を挙げれば、日本の近代医療の基礎を築いた佐藤泰然、佐藤尚中、佐藤進らの「順天堂」、日本の近代工業を担った西村勝三、「和魂洋才」の大切さを説いた思想家西村茂樹、日本に近代農業を紹介した津田仙、日本人初の女子留学生津田梅子、日英同盟を結んだ政治家林董などは、皆、佐倉ゆかりの人物たちです。他にも多彩な人材を輩出していますが、これこそが、正睦が開国に備えて育成していた人たちなのです。
こうした努力は、歴史上クローズアップされることはありませんが、明治政府の至らない部分を多くの日本人が補ったからこそ、曲がりなりにも明治維新が成功したかのように見えたのです。その後、次第に明治政府は、近代政府として少しずつ育っていったのです。
三十九 日清・日露戦争
日本が開国に至る最も大きな原因が、産業革命以降の世界情勢の変化でした。18世紀にイギリスで産業革命が起こりますが、それは、「蒸気機関」の発明によるものでした。この蒸気機関は、もの凄いエネルギーを生み出しました。燃やした石炭の熱エネルギーを使って動力装置を動かし、石炭を燃やし続けることで、鋼鉄の船までもが永遠に動き続けるわけですから、とんでもない大発明でした。しかし、これが製鉄技術と組み合わせることで、巨大な軍艦も建造され、世界は、一気にその距離を縮め、あらゆる海に乗り出すと共に、非文明国を飲み込んでいきました。
アジアもその餌食になった地域のひとつです。当時、日本も朝鮮も中国もインドも、まだまだ後進国でした。日本は、鎖国政策もあり、外洋に漕ぎ出す船を持つことが禁じられていました。外洋の航海には、「甲板」が必要でしたが、日本の船には甲板がありません。甲板があれば、船は樽のように、中に空気を溜め込み、復元力も高まりますが、甲板のない船では、嵐にでもなれば、水が船内に入り瞬く間に沈んでしまいます。したがって、日本の船は、沿岸しか進めることができませんでした。
そんな欧米の外国船が、次々と日本近海に出没するようになったのです。欧米では、軍艦以外にも外洋船は造られ、捕鯨用として太平洋上で多くの船が漁をしていました。
蒸気船が、遠洋航海をするようになると、太平洋は広く、船が休息して必要な燃料や食料を補給する基地が必要です。そこで目をつけたのが、「日本列島」だったというわけです。
こうした産業革命の余波が日本に及んできたということは、日本が日本だけで生きられる時代は終わったことを意味していました。ロシアにとって日本列島は、太平洋の入り口を塞ぐ堤防のように見えました。ここを自国の領土にしてしまえば、太平洋をロシアの支配下に置くことも夢ではありません。そして、念願の「不凍港」を手に入れることができるのです。
アメリカにとっても、日本は、アジアへの入り口になります。太平洋は既にアメリカの支配地域のようなものでした。ハワイを自国の領土に組み込めば、その先に進出を邪魔するものはありません。要するに、日本は、アジア進出の拠点になり得るのです。
そして、イギリスは、無茶なアヘン戦争に勝利し、中国(清国)進出を果たし、アジア大陸を支配しつつありました。最後に、日本を落とせば、世界を支配することになります。そうなれば、「大英帝国」は盤石です。
それぞれが、自国の利益を優先に、「日本」に狙いを定めていたのです。それは、明治維新後も変わりませんでした。
通商条約を結んだ国々は、日本の産物を手に入れ、商人たちは大儲けをしました。特に、日本の「金銀」は、欧米との取引価格が異なり、日本の金を安く買い、自国で高く売るという「利ざや」を稼ぐことができました。単純ですが、かなり悪どい商売です。こうして、日本の金銀は、海外に流出していきました。それでも当時の日本は、我慢強く外国と交渉を重ね、不平等な関係を修復していったのです。それは、幕府も明治政府も同じです。
たとえば、幕臣の小栗忠順(ただまさ)は、日米の金銀の交換比率交渉や横須賀ドックの建設、幕府の財政再建など、幕府の重要な施策に関与し、「明治の父」とまで呼ばれました。しかし、小栗は主戦派であり、陸軍奉行並という役職からも、新政府軍の勝利する作戦を立てていたことで、その能力を新しい時代に生かすことができず、新政府軍によって裁かれることなく、その場で斬首されてしまいました。能力がありすぎたための悲劇です。
明治維新には理想がなく、ただの権力闘争に終始したことで、このような悲劇が生まれたのです。そして、その悲劇は勝利したはずの武士の滅亡によって閉じられました。しかし、この小栗の残した「横須賀ドック」は、日本造船の拠点となり、現在にまで引き継がれています。
こうした江戸時代の遺産によって、明治政府は、近代化を進めることができたのです。
明治政府が、政権を奪ってみると、自分たちの考えがいかに「稚拙なもの」であったかがわかりました。徳川幕府は、圧倒的な外国の圧力と粘り強く交渉していたのです。
おそらくは、実際に政治を担当してみて、「攘夷・倒幕」と叫んでいた自分たちの愚かさが身にしみたことでしょう。そうなると、薩摩も長州もありません。「挙国一致体制」で対外交渉に向き合う必要を痛感しました。このとき、多くの幕府方の要人を殺してしまったことを後悔するのです。
既に欧米列強は、アジアを侵略し次々と日本に難題を要求してきます。その圧力に屈しないためにも、有色人種であるアジアがひとつにまとまる必要があると考えました。それは、政府の指導者ばかりでなく、国民の中からもそういった考えが出てきたのです。
朝鮮との交渉もそのひとつでした。しかし、朝鮮は中国(清国)の意向を気にして、日本との交渉を行おうとはしませんでした。西郷隆盛たちの「征韓論」が出たのも、このときのことです。この征韓論がきっかけに、大久保利通らが仕掛けた謀略に、西郷や板垣たちが屈指、政府を離れていきました。これが、士族の反乱につながっていきます。
しかし、朝鮮半島で「東学党の乱」が起きると、その鎮圧を口実に朝鮮に出兵したのは、中国(清国)と日本です。それは、この東学党の乱をきっかけに朝鮮の王朝が瓦解し、その隙にロシアや清国が朝鮮半島を侵略する恐れがあったからです。
朝鮮半島を清国やロシアに奪われれば、日本の鼻先に強大な軍事大国が刃を突きつけることになります。それは、日本にとって死活問題となります。その頃のロシアや清国は、日本にとっての最大の脅威でもあったのです。そして、起こったのが「日清戦争」です。
もちろん、日本が清国のような大国と戦争をして勝てる保証はどこにもありません。イギリスとのアヘン戦争で敗れたとはいえ、「眠れる獅子」の異名は、だれもがたじろぐ威厳を持っていました。しかし、そんな獅子も近代化したばかりの日本軍に敗れたのです。それは、清国軍兵士の士気の問題でもありました。どんなに優秀な兵器を装備しても、それを扱うのは人間です。士気が衰えれば、命を懸けて戦う者はいません。戦況が不利と見れば、すぐに逃げ出してしまうような兵隊では、踏ん張りが利かず、ひとつの綻びから戦線は破綻します。そんな戦い方しか清国軍はできなかったのです。その点、日本軍は必死でした。もし、朝鮮半島を奪われれば、日本はいつでも敵国の攻撃を受けることになります。それを防ぐためにも、日本兵は必死に戦い、清国軍を撃退したのです。
対外戦争を経験していない日本軍が、こうした近代戦を戦うことができたのも、西南戦争を初めとする内戦が、軍や兵士を次第に強い軍隊にしていったのでしょう。
こうして、明治時代の当面の危機は去りましたが、朝鮮半島を巡る争いは、益々激しくなっていきました。
日清戦争を終えると、清国は、急激に弱体化していきました。それは、欧米列強が、日清戦争を見て、「清国弱し」に気づいてしまったからです。当時、清国海軍は、「定遠(ていえん)」「鎮遠(ちんえん)」という二大戦艦を保有し、日本海軍を圧倒していました。しかし、日清戦争で定遠は沈没、鎮遠は日本海軍に捕獲されてしまいました。
そんな清国の弱体化を確認したかのように、今度は、朝鮮半島にロシアが手を伸ばしてきたのです。ロシアは、何としても「不凍港」を欲していました。そのために、中国の属国化していた朝鮮をこの隙に支配しようと考えていたのです。そこに、動いたのが日本でした。
明治政府にとって、予想していた事態が起こりました。いよいよ、大国ロシアと対峙することになったのです。ロシアも、清国を破った日本軍を侮れない敵だと感じていました。 年々軍備を増強し、国の近代化とと共に、陸海軍も相当に力を付けてきている日本を早く叩かないと朝鮮を支配できないという危機感もありました。
ロシアは、シベリア鉄道の敷設作業を行っており、これが完成すれば、満州(中国東北部)や朝鮮に、強力な軍隊を汽車で運ぶことができます。そうなれば、日本は「万事休す」です。
日露は、それでも何度か交渉を重ねますが、ロシアの強い主張は、日本は到底受け入れられない内容でした。ロシアは、「満州の実質的な支配を求め、日本には、朝鮮半島に止まれ」という主張です。しかし、そんなことをすれば、満州までロシア軍は南下し、その勢力が整えば、朝鮮半島に進出することは明らかでした。
そんな緊張感の中で、日露両軍が衝突し、日露戦争が始まりました。今度の敵は、陸軍においては世界最強と謳われたロシア軍です。海軍も旅順艦隊とバルチック艦隊を持ち、その戦艦群は、恐ろしい敵でした。しかし、日本としても、このまま放置すれば、シベリア鉄道が完成し、続々と兵士や武器が満州に送られれば、日本の兵力では戦うことは不可能になります。
海軍も、まずは、旅順艦隊を叩き、次いでバルチック艦隊を叩くというパーフェクトゲームを夢見ていました。そのためには、日本は国力のすべてを懸ける必要があったのです。
明治維新から、わずか30年後に、このような国難が襲ってくるとは、思っても見ませんでした。幕末に「攘夷」を叫び、刀で斬り合っていた武士たちが、30年後には、銃を操り、大砲や軍艦で戦う近代戦に突入しようとは、思ってもいなかったのです。
明治維新後の貴重な最初の10年を、無駄な内乱に費やしたことが悔やまれました。
幕府が言うように、将軍慶喜を首班とした新政府を創り、挙国一致体制で近代化を図るべきだったのです。
あのときの時代に活躍した坂本龍馬、土方歳三、近藤勇、横井小楠、大村益次郎、橋本左内、吉田松陰、小栗忠順、河合継之助、江藤新平、西郷隆盛などが生きていれば、新しい日本の力になったはずでした。明治維新は、本当に愚かな革命だったのです。
その日露戦争も、旅順攻略戦、奉天の大会戦、日本海海戦と薄氷を踏む思いで勝利しました。それには、日本の若者の夥しい血が流れたのです。しかし、この日露戦争の勝利の陰には、支援者の存在がありました。「イギリス」です。イギリスは、ロシアの強大化を防ぎ、世界中の植民地を守ろうとしていました。ロシアという国は、元々領土の拡大を狙う国です。北極園に位置するロシアにしてみれば、南の暖かい地域は、どうしても手に入れたいと考えていました。それは、どこの国も同じです。すべてが、北海道より北にあり、極寒の地をいくら領土としても得る物は少なく、不毛地帯は、開発をしようにも手に負えるものではありませんでした。ロシアは、ロシアなりの問題を多く抱えていたのです。
そんな中で、イギリスは、幕末からの交渉をとおして、中国や朝鮮より、日本と同盟を結ぶことが得策だと考えました。そうすれば、遠いアジア地域に大きな味方を得ることができます。それは、日本にとっても同様でした。イギリスは、幕末からの付き合いもあり、その上、強大な大帝国です。そのイギリスが支援についてくれれば、ロシアを牽制することができます。こうして「日英同盟」は結ばれましたが、日本とイギリスが同盟を結んだニュースは、世界中を飛び交い、日本の戦時国債の信用も増しました。
国に戦争を賄うだけの資産がなく、日本は、戦争に勝利することを条件に、「戦時国債」を外国人に買って貰って戦争をしたのでした。
そして、もうひとつ。
この日露戦争の裏には、ロシア革命の火種が燻っていました。日本軍は、明石元二郎大佐を使って革命組織に金銭を渡し、密かに援助をしました。このことが、日露戦争勝利に貢献したと言われていますが、革命組織は、単に帝政を倒しただけでなく、国全体を共産化し、「ソビエト社会主義共和国連邦」を建国したのです。日本にとって、いや、世界にとって帝政ロシアより、後の「共産ソ連」の方が、また何倍も恐ろしい国となって、世界中の国々の前に立ちはだかることになりました。それに気づくのは、もう間もなくのことです。
四十 大正デモクラシー
明治天皇が崩御すると、旅順攻略戦を指揮した乃木希典(まれすけ)大将が、後を追うように自刃しました。乃木大将は、西南戦争から日露戦争まで、常に第一線で戦った将軍でしたが、二人の我が子だけでなく、多くの部下将兵を失い、その責任をとったと言われています。
大正時代になると、ヨーロッパでは、「第一次世界大戦」が始まりました。そして、間もなくロシアでも「ロシア革命」が起こり、世界中に戦争と革命の嵐が吹き荒れたのです。しかし、日本は、一人蚊帳の外に置かれ、軍需景気で経済が好調になりました。
要するに、近代国家で無事なのは、日本ぐらいですから、日本への注文が殺到するのは当然でした。競争相手のいなくなった日本社会は、好景気に浮かれ、世界情勢を分析することを忘れてしまったのです。しかし、その「つけ」は、後に大きな問題として日本にのし掛かってくるとは、そのときの日本人には、思いも及びませんでした。
それでも、大正時代前半は、日本は平和を享受し、軍縮へと向かっていきました。アメリカを中心とする欧米文化が根付き始め、「モダンガール・ボーイ」や「ショッピング」「パーマネント」「デモクラシー」などの外来語が、人々の口に上るようになりました。江戸時代の終わりから約50年で、日本は急速な西洋化を達成したのです。
今でも当時の銀座や日本橋の写真を見ても、それほどの違和感はありません。特に、「デモクラシー」は、「民本主義」と訳され、欧米のような「自由化」や「議会制民主主義」など、現在の民主主義に近い思想が流行しました。明治時代後半は、日露戦争があったこともあり、軍人が威張っていましたが、大正時代になると、軍人が活躍する場は少なく、兵隊の数も減らしていったのです。この「軍縮」は、その後、第二次世界大戦時において、極端な指揮官不足に陥る原因となりました。
ヨーロッパで血みどろの戦いをしている間に、日本は一応、連合国軍として第一次世界大戦に参加しました。ドイツは、中国の遼東半島に租借地を持っていましたので、「青島(ちんたお)要塞」に航空攻撃をかけたり、地中海に駆逐艦部隊を派遣したりしました。しかし、それも日本では大きく報道されることもなく、終戦後は、連合国の一員として、ドイツの租借地であったミンダナオ諸島などの統治を任されることになりました。こうして、日本は、太平洋にも大きな力を持つようになったのです。しかし、この第一次世界大戦は、人類が初めて戦争においての「総力戦」を体験した戦いでした。兵器も日露戦争の頃よりも格段に進み、航空機による爆撃、艦隊による砲撃戦、戦車の登場、毒ガスなどの化学兵器の使用、機関銃による攻撃など、それまで想定していなかった数の兵士が戦死しました。戦いは4年間も続き、ヨーロッパは、どの国も疲弊し、膨大な戦費を費やしたのです。
ヨーロッパ各国は、「二度と戦争をしたくない」と、敗戦国となったドイツに高額の賠償金を求め、あまりにも理想主義的な「ワイマール憲法」などを押し付けました。このことが、引き金となって第二次世界大戦が起ころうとは、このとき、だれも想像すらしていなかったのです。
日本の外交官や軍人たちも、この戦争に派遣され、つぶさに観戦したはずですが、結局は「総力戦」の実態や「新型兵器」の登場にも危機感を持てず、陸海軍の改革がおざなりになってしまいました。
太平洋戦争(大東亜戦争)時、日本陸軍が、明治三八年式の小銃を使っていたことは有名ですが、軍縮のため予算が確保できず、「自動小銃」の開発が遅れたためと言われています。したがって、戦い方も「白兵戦」が中心で、人海戦術の思想から脱却することができませんでした。
日本軍が「精神主義」に走らざるを得なかった理由がここにあります。また、日清、日露の戦いにおいて、白兵戦で勝利した歴史が、陸軍首脳の脳裏から離れられなかったのでしょう。ここにも、第一次世界大戦の教訓を学ばなかった問題点がありました。
大正時代、天皇も体調が優れないことが多く、国内でも摂政問題、皇位継承問題、皇太子妃問題と皇室に関わる課題が山積し、それに政治が関与するといった様相を呈し、先行きに不安を感じさせました。特に、大正時代後半は、欧米での経済も立ち直り、戦争で、日本に依存していた貿易も正常化すると、日本の好景気は陰りが見えてきたのです。
そして、大正12年9月1日、「関東大震災」が起こりました。この未曾有の自然災害は、人的、物的な被害より、日本人の心理面に大きく影響した災害でした。
前半の好景気で明るかった日本が、10年後には、暗く澱んだ世相になり、震災の復興もままならないとき、大正天皇が崩御されました。昭和は、誕生した時から「多難」が予想されたのです。
四十一 昭和の始まり
大正12年の関東大震災以降、日本には明るい日差しが差し込むことはありませんでした。昭和に入ると、第一次世界大戦の影響が大きく日本にのし掛かり、「戦後不況」と呼ばれました。この頃の日本の経済は脆弱で、銀行が倒産に追い込まれても、政府が援助できる体制もなく、資金もありませんでした。この不況を挽回する手立てもなく、多くの企業が倒産し、社会不安が増加していきました。世界経済も第一次世界大戦後、復興事業で一時好景気を見せましたが、それも終わりを迎えると、景気は一気に冷え込んでいきました。「復興バブルの崩壊」です。昭和後期のバブル期もそうでしたが、人間、儲かるとなると過剰に投資を始めます。手元に資金がなくても、銀行から資金を借り、儲かりそうな株などに投資し、それが永遠に続くかのような錯覚を覚えるのです。
昭和前期のバブル崩壊も、後期のバブル崩壊もまったく構造は同じでした。
いくつもの有名な企業や銀行が倒産し、就職難となりました。国内需要も冷え込み、人々は、生活することもままならなくなったのです。そこで、この問題を解決しようと政府が企んだのが、「満蒙開拓」です。
中国東北部の満州やモンゴル地区は、日清、日露の戦争で日本が勝ち取った「権益」です。国土は広大で、まだまだ発展が期待できる土地でした。入植者も年々増加し、「新天地」という言葉が流行しました。そのほかにも、食べられない農家の次男や三男は、自作農を夢見て、やはりハワイやブラジルなどに渡り、「移民」として外国で暮らすようになっていました。しかし、この「移民」問題も、現代の移民問題同様の軋轢を生んだのです。
当時の日本は、解決できない国内問題を海外に目を向けることで解決しようとしました。これは、国際的な問題でもありましたが、世界では「人種差別」も露骨に行われ、先進国と後進国との格差が大きかった時代、弱い者が損をしても仕方がないといった「差別感」は、当然のように受け止められていました。
もちろん、日本人も国際社会では、いつも弱い立場にいて、対等な関係ではありませんでした。軍縮条約でも、国際連盟でも、日本人は有色人種の中では優遇されましたが、何かを取り決めるときには、日本外しが行われ、国際社会が「白人優先」であることを、再認識させられたのです。
ここまで、日本は、国際社会の優等生であろうと努力していました。日本人は、西洋人を敬い、日本人特有の「謙譲の美徳」の態度で外国人に接し、いつも笑顔を絶やすことはありませんでした。物言いも物静かで、声を荒げることは無作法と承知していました。しかし、そんな日本の外交官や政治家が、外交の場で尊敬を受けることはありませんでした。 後に、イギリスの首相チャーチルが、日本人のことをこう評しました。
「日本人は無理な要求をしても怒らず、反論もしない。笑みを浮かべて要求を呑んでくれる。それでもう一度、無理難題を要求すると、これも呑んでくれる。無理を承知でもっと要求してみると、今度は笑みを浮かべていた日本人がまったく別人の顔になって、『これほどこちらが譲歩しているのに、そんなことを言うとは。ここに至っては刺し違えるしかない!』と言って突っかかってくる。英国はマレー半島沖合で戦艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを日本軍に撃沈されシンガポールを失った。日本にこれ程の力があったなら、もっと早く発言して欲しかった」と。
日本の武士が、日本国内でするような態度で外交の場に臨んだのが失敗だったのです。日本人だけしか通用しない儀礼を、だれもが理解できるだろうと甘く考えたところに、日本外交の失敗がありました。
世界全体が不況に見舞われると、各国も余裕をなくしてきます。それぞれが自国優先の論理で相手を責めるような口調になってきました。日本も、国内問題を大陸に求めようとして、辛亥(しんがい)革命で滅んだ清国の後の中華民国政府と交渉を重ねました。しかし、中国は、清国滅亡後、中国各地に軍閥が蠢き、どこが代表する政府かよくわかりません。とにかく、孫文(そんぶん)や蒋介石(しょうかいせき)が交渉相手でしたが、他方に毛沢東(もうたくとう)率いる中国共産党もソ連の援助を得て、着実に勢力を拡大していました。
日本は、満州に多くの権益を持っているといっても、その範囲は限定的でした。「南満州鉄道」を敷いた日本は、その線路周辺が租借地でもあったのです。そして、この南満州鉄道と日本から移住した人々を守るために「関東軍(かんとうぐん)」が置かれていました。関東軍は、陸軍の部隊です。関東軍は、当初一個師団程度の部隊だったそうですが、最大で75万もの兵力になりました。それだけ、満州やソ連国境の防衛は、日本の死活問題だったのです。
こうした世界情勢の中で、国内でも大きな社会問題が起きました。それが「政治テロ」です。
「テロ」という言葉は、今では、「無差別に人を殺傷する犯罪行為」として社会から憎まれていますが、昭和初期では、犯罪行為ではあっても心情的に許されるような雰囲気がありました。それは、おそらく幕末から明治にかけてのテロ行為(天誅)が容認されたからに違いありません。幕末の頃は、自分たちの思想に合わない人間を「天誅(てんちゅう)」と称して、「天に代わって不義を討つ」的な思想が蔓延していました。初代総理大臣の伊藤博文も暗殺集団に与し、多くの人を殺傷しています。明治維新という革命が成功し、テロ行為を行った人間たちも「志士」として賞賛されれば、テロ行為は「純粋な正義」となります。明治政府を担った政治家たちは、自分の出自を否定できないまま、「あの時代は、やむを得なかった」として、政府が公認してしまったのです。こうした、気分が多くの日本人には、残っていました。
明治維新から60年後に「昭和」が誕生しました。その間に、日本も多くの戦争を経験し、「戦争は正義だ」と教えられ、国際情勢も知らされないまま、周囲から若者たちを戦場へと送ったのです。そんな多くの犠牲を払いながら、経済は不況に喘ぎ、国際社会からは差別され、農村は益々疲弊していきました。国民の多くは、「話が違う」と感じていたことでしょう。「暮らしがよくなる」と信じたからこそ明治維新を受け入れ、戦争を受け入れたのです。しかし、現状は、幕府時代の方が何倍も平和で穏やかでした。
こうした国民の不満は、元武士や過激な思想を持つ者たちの背中を押すきっかけになりました。国内で、多くの要人たちが暗殺されました。首相の浜口雄幸(おさち)や大蔵大臣の井上準之助らが殺され、海軍の青年将校たちは、五・一五事件を起こして、首相の犬養毅(いぬかいつよし)を殺しました。陸軍でも二・二六事件を起こし、大蔵大臣の高橋是清(これきよ)、内大臣の斉藤実(まこと)らを殺したり、重傷を負わせたりしました。しかし、世論は、これを「義挙」と叫び、助命嘆願が多数政府に届いたそうです。
国民は、事件を起こした軍人たちが言うように、「天皇に仕える側近の重臣たちが私腹を肥やしているから、国は貧しくなったのだ」と信じていたのです。
これは、とんでもない宣伝でした。そんなことは、国際情勢を見れば一目瞭然です。しかし、マスコミ報道などでしか知りようのない国民は、その言葉に騙され、テロを起こした軍人たちを賞賛したのです。しかし、ただ一人、烈火の如く怒り、「ばかもの!」と叫ぶ人がいました。それが、昭和天皇です。昭和天皇は、重臣たちが、必死にこの大不況から逃れる術を模索し、苦悩していたことを身近に知っていました。その「忠義の臣」を悉く殺されて、黙っていることはできなかったのです。昭和天皇は、断固討伐を命じました。テロ軍人たちを「逆賊」だと断じたのです。
こうしたテロ行為を起こしても、「世直し」なら容認されるという感覚は、現代でも理解不能です。いかに明治維新の残像が残っていたかがわかります。よって、陸軍の青年将校たちは、「昭和維新」「尊皇討奸(そんのうとうかん)」を旗印にしたのでした。「尊皇討奸」とは、「天皇を敬い、悪い人間を討つ」という意味です。
国内にこうした恐ろしいエネルギーを蓄えながら、だれもが望まなかった「大戦争」への道をひた走る結果になりました。それは、日本だけのことではなく、世界も同じ病の中にいたのです。
四十二 日中戦争
陸軍の軍人たちは、こんな苦しい不況を打破しようと、昭和6年、関東軍参謀石原莞爾(かんじ)と司令官の板垣征四郎(せいしろう)らの謀略により、「柳条湖(りゅうじょうこ)事件」を起こしました。これは、自作自演の鉄道爆破事件を中国軍の仕業に見せた企てでした。石原たちは、この事件をきっかけに満州全土を軍の力で抑え、「満州国」建国を企てたのです。日本は確かに満州に権益を持ち、多くの日本人が生活していましたが、日本領土になったことはありません。日本の権益の多い土地だからといって、謀略によって奪っていいはずはないのです。しかし、関東軍は、国内問題を解決する手段として戦争を起こし、中国軍との混乱に乗じて「満州国」を建国してしまいました。石原たちは、「満州国が軌道に乗ったら、満州人に政治を任せる」と言っていましたが、そんなことができるはずはありません。たとえ動機はそうであっても、それを司る日本人全員が、そんな理想を信奉するはずもないのです。結局は、「日本のための満州国」でしかありませんでした。関東軍は、清朝最後の皇帝「愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)」を満州国皇帝に迎え、国家元首としたのです。
当時の中国は、清朝滅亡後、全国の統一ができておらず、孫文、蒋介石の国民政府、毛沢東の共産党、張作霖などの馬賊など、地域によって代表者が異なり、だれと交渉をしていいのかわからない状態が続いていました。関東軍は、その隙に満州全域に軍を進め、「満州国」を作ってしまったのです。そうなると、中国の首領たちも黙ってはいません。国内では、満州は「化外(けがい)の地」として扱われ、放置されたような地域でしたが、一旦、日本が手を出すと、「俺たちの領土だ!」と、「排日・反日運動」を焚きつけました。これも、当然と言えば当然です。日本で考えれば、どんなに過疎地域や無人島であっても、外国人に持って行かれては、我慢ができるはずがないのです。
要するに、日本人は、だれでもわかる理屈が、あまりわかってはいませんでした。「満州だから、いいだろう…」くらいの感覚です。日本人も外国人と同じように、未発達の国や地域の人を差別していたのです。
それに、自分の正義だけを振りかざしても、文化や言語が異なれば、理解し合うのは難しいものです。それが、朝鮮人でも中国人でも、白人でも同じです。日本人だけの理屈だけで、「満州国」を作ってしまったのは、とにかく失敗でした。ここから、日本の中国での泥沼の戦争が始まりました。
国際社会は、日本の野心を見て取ると、これを抑えにかかりました。日本からしてみれば、「帝国主義のおまえたちに、言われる理由はない!」と言いたいところですが、中国の非難を受けて、国際連盟も日本を非難しました。日本には、日本の理屈はありましたが、それを容認できるほど、国際社会は、成熟してはいなかったのです。
その後、中国にいた日本人は、「通州(つうしゅう)事件」などで、惨い殺され方をしました。それも、味方だと思っていた中国の部隊にやられたわけですから、いかに、日本人が憎まれていたかがわかります。
日本国内では、外国に暮らす日本人が、「差別や虐待」を受けることに我慢できないでいました。たとえば、明治時代の後期から、アメリカ移民は始まり、貧しい農家の次男や三男が働ける土地を求めて海外に出て行きました。これが、「日系人」です。最初は、受け入れてくれたアメリカも、次第にその数を増やすと、「アメリカ人の仕事を奪う!」と、現地のアメリカ人は、日系人に厳しい目を向けるようになりました。それが、日系人の排斥運動になったのです。それをアメリカ政府が追認し、アメリカに渡った日本人は、苦難の道を進むことになりました。
要するに、どこの国であっても、「異文化は受け入れられない!」という現実を忘れてはなりません。客として招いているうちは穏やかですが、それが、日常の仕事のライバルになれば、エゴが出てきます。人間とは、所詮、そういう心の狭い生き物だということを知らなければならなかったのです。
したがって、日本が日本の主張をしても、中国の人々は、異文化が入ってくることを嫌い、日本人が自分たちの土地や仕事を奪うことが許せませんでした。こうして、日本の大陸進出の夢は、崩壊していったのです。
昭和12年、北京の「盧溝橋」で、中国軍と日本軍の発砲事件をきっかけに、日中戦争が始まりました。これも今では、「中国共産党の謀略ではないか?」という疑いがありますが、それくらい緊張感が高まっていたことは事実です。
日本軍の進撃は、中国の奥へ奥へと続き、都市と鉄道を奪っても、それは「点と線」だけの支配でした。結局は、「面」の部分をどうすることもできず、日本は戦いに勝利していながら、「敗戦」を迎えることになったのです。もちろん、それには、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党が手を結び、日本と戦ったこともありますが、欧米諸国やソ連が、武器や弾薬、医薬品まで中国側に援助していたからに他なりません。白人社会は、日本人が自分たちと同等の権利を主張し、国際会議の場に出てくることを嫌いました。そして、日中戦争は、「日本が、中国を支配しようと企んだ戦争だ」と考えていました。
日本は、世界恐慌の波を受け、やむを得ず、大陸に生きる道を求めましたが、その考えは甘く、日本は、日本国内で必死に生きる術を考えるべきだったのです。
四十三 太平洋戦争(大東亜戦争)
戦後使われるようになった「太平洋戦争」という言葉も、日本は、天皇の開戦の詔勅により、「大東亜戦争」という名称が正式に使われました。この戦争の大義は、「アジア解放」にあったのです。イギリスの産業革命以降、欧米列強は「帝国主義」の政策を採用し、世界各地に植民地を作っていきました。「植民地」とは、「他国を侵略し、その国の資源や財産、人民までも奪う」政策です。なぜ、こんな犯罪行為が許されたかといえば、それは「下等文明しか持たない民族に啓蒙を図り、文明国にしてやることが大義」だという無茶な理屈を作って世界の国々を一部の国が支配していったのです。既にアフリカ大陸の民族や、南北アメリカ大陸、オーストラリア大陸など、有色人種が暮らす土地は、白人種の欧米諸国の植民地になっていました。今の時代から見れば、恐ろしいまでの「人種差別主義」です。そんな時代が、100年以上に渡って続いたのです。したがって、「大東亜戦争」は、そんな欧米列強の支配からアジア諸国を開放する目的で、戦争に入りました。しかし、昭和20年8月15日に、日本が降伏を受け入れると、アメリカ軍を主力とした連合国軍が日本を占領し、7年間に渡って統治しました。そのとき、GHQ(連合国軍総司令部)が、命令して使われるようになったのです。
日本の大東亜戦争は、アメリカだけを敵として戦ったわけではなく、中国、イギリス、オランダなどともアジア地域で戦っており、アメリカとは太平洋を戦場に戦いました。この太平洋戦争という名称は、アメリカ側から見た戦争である「パシフィック・ヲー」を訳したものです。
日本が、アメリカを初めとする連合国軍と戦うことになったのは、深い理由があります。
「満州国建国」問題で、国際社会から非難を浴び孤立した日本は、国際社会の承認を得ることができなかったために、国際連盟を脱退しました。孤立した日本は、まず、ドイツと「防共協定」を結びました。防共協定とは、ソ連の共産主義が拡散しないように、その防波堤を造り、ソ連を封じ込めようとする戦略でした。その頃、ドイツも共産主義を嫌い、その広がりには大きな懸念を抱いていたのです。
大正時代の初め、ロシアは大混乱に陥っていました。日露戦争を戦ったロシアには、日本との戦争を継続したくても、国内に革命の動きが見られ、日本との戦争を続けられない理由があったのです。もちろん、日本軍もそれを察知し、スパイを革命組織に接触させ、資金援助をしていたことは有名です。そんな事情もあり、ロシアとしても日本との長い戦争はできませんでした。だからこそ、ロシアはアメリカの仲介で、ポーツマス条約を結ぶときも横柄な態度で、日本と和平を結んだのです。
しかし、その「ロシア革命」によって、300年続いた「ロマノフ王朝」が倒され、最後の皇帝ニコライ二世は、家族共々すべて処刑されてしまいました。そして、民衆による「共産主義」を掲げる「ソビエト社会主義共和国連邦」になっていたのです。
この共産主義は、当時、世界中でもてはやされ、「王様や皇帝にような絶対的な君主がいない民衆のための国家体制」だと考えられていました。その領土も人々のものであり、すべてが「国営事業」として、富をすべての国民で平等に分かち合うという思想でした。
一見すると、とても「平等」な社会が実現しそうです。しかし、結果としては、そうはなりませんでした。今でも共産主義を掲げる国はありますが、中華人民共和国や朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)など、少数になりました。なぜなら、ソ連が、平成三年に崩壊してしまったからです。
北朝鮮は、「金氏」が、三代にわたって国を支配し、国の指導者として世襲で君臨しています。中国は、中国共産党の一党独裁が続き、幹部たちは、特権階級を形成しています。
要するに、共産主義の理想は高邁なものでしたが、現実的には、一部の指導者層の幹部が富と権力を握り、特権階級として君臨していることから、国として発展していくことができなかったからです。今の中国は、一党独裁は変わりませんが、一部に「自由経済」を採り入れてから、国が大きくなっていきました。
日本が、なぜドイツと「防共協定」を結んだかと言えば、日本には、「天皇」「皇室」の存在があるからです。共産主義の考え方では、「君主制」は認められません。しかし、日本において、皇室を滅ぼすことは、国を滅ぼすことになります。日本人の言う「国体の護持」とは、皇室を中心とする国の体制を守ることに他なりません。
共産主義思想は、日本人には、到底受け入れられないものでした。しかし、それでも、日本には形を変えて、共産主義の思想が広がっていきました。それは、「天皇親政」による社会主義体制の構築です。つまり、君主制を認めないのではなく、皇室は残しつつ、社会体制をすべて「共産化」することなのです。日本の特権階級である貴族(華族)階級をなくし、財閥や企業、地主制度等を解体し、すべて国営化しようと考える思想家たちがいました。特に軍人たちはそれを望んでいたのです。天皇の「勅命」が下れば、面倒な議会などに諮ることもなく、即応体制を採ることができます。これからの戦争は、「総力戦」だと考えていた軍人たちは、国の予算を軍事費につぎ込み、いつでも戦争のできる社会を創りたいと念願していました。彼らには、いちいち議論を必要とする「議会」や「政党」などは、無用の長物でしかなかったのでしょう。
要するに、「民主主義」や「自由経済」などは、特権階級と差別を産むだけの、意味のない政治形態だと考えていたのです。
しかし、残念ながら、今の北朝鮮を見ればわかりますが、「金一族」が、すべてを支配し、首領の命令一下、すべてが動いているかのように見えますが、経済活動はないに等しく、農民も軍人も、飢えに苦しんでいます。軍備だけは着々と増強しているように見えますが、兵器の質は古く、近代戦を戦える代物ではありません。
もし、この体制を日本が採り入れたとしたら、「天皇親政」という独裁的な社会主義体制になりますが、国民は重い税負担に苦しみ、軍隊のためだけの国家になったと思います。
実際、日中戦争以降、日本は議会も政党も機能しなくなり、軍事優先の体制で戦争に臨みましたが、生活すべてに「統制」が敷かれ、今なお、これを評価する日本人はいません。
そんな愚かな夢を見て、戦争を欲した軍人たちが憐れでなりません。
それでも、現実を知らない当時の日本は、そんな共産主義思想が蔓延し、その影響力は、軍部だけでなく政界や貴族たちの中にも浸透していったのです。
日本が対米戦に向かうきっかけになったのも、国際社会から孤立し、やはり独裁体制で孤立化していたドイツ、イタリアと「三国軍事同盟」を結んだことが要因として挙げられますが、これだけではありません。
日本は、北にソ連の恐怖に怯え、南に連合国の経済封鎖がありました。国際連盟を脱退した日本に対して、国際社会が下した罰は、「経済封鎖」でした。つまり、「日本が中国から撤退しなければ、経済封鎖という制裁を科す」という厳しいものでした。日本のように、近代国家になってからの年数も少なく、農業国から工業国に転換したと言っても、資源のない日本は「加工貿易」でしか生き残ることはできません。そのための原材料が外国から入ってこなければ、国の経済は破綻することになります。欧米諸国は、それを承知の上で、日本に厳しい対応を迫ったのです。
どちらにしても、このまま推移すれば、国内の「石油」や「金属」の備蓄はなくなり、軍隊を動かすことができなくなります。この時代は、現代のように代替エネルギーもなく、省エネ構造もありません。経済活動を行うにも、途方もない量の石油が必要だったのです。
それまでは、石油の多くをアメリカに依存していましたが、そのアメリカが中心となって「中国からの撤兵」を強く要求していました。
「日本が日清、日露の戦争で得た権益をすべて捨てろ!」と言わんばかりの理不尽な要求を当時の日本政府は、どうしても飲むことができなかったのです。
明治時代には、「三国干渉」で遼東半島を中国に返したように、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」して条件を飲むことも可能でした。しかし、当時の政治家や軍人たちには、なかなか、その決断ができずにいました。
最終的には、当時の近衛文麿首相が、アメリカのルーズベルト大統領と直接会談し、「中国撤兵」を条件に、経済封鎖の解除を求めようとしましたが、時既に遅く、アメリカは、日本を戦争に追い込み、第二次世界大戦に参戦する意思を固めていたのです。
昭和14年にドイツのポーランド侵攻で始まった「第二次世界大戦」に参戦することを強く望んでいたアメリカ大統領ルーズベルトは、日本がアメリカ領に攻撃を仕掛けて戦争が始まることを企んでいました。
ルーズベルトのアメリカ政府は、日本を徴発するように、様々な要求をぶつけてきました。時には、妥協できるのではないかと期待を持たせるような言葉も弄し、少しずつ日本を追い詰めていったのです。
日本政府は、このとき、「北に進むべきか?南に進むべきか?」迷い、大激論を交わしていました。陸軍は、「宿敵ソ連を倒さなければ、日本を守ることができない!」と主張しましたが、海軍は、「南に向かわなければ、石油を確保できない!」と南進を主張しました。
実は、戦後明らかになったことですが、満州からシベリアにかけて大油田が地下に眠っていたのです。ろくな調査もせずに、「石油が南にしかない」と思わせるような謀略があったとも言われています。
海軍や政府首脳は、「連合国と戦うということは、アメリカを主敵とすることだ!」と主張し、南進論とアメリカを主敵とすることに決定します。この知らせを聞いたとき、ソ連のスターリンは、狂喜したと伝えられています。もし、日本が主敵をソ連と定めれば、東に日本、西にドイツの挟み撃ちに遭い、ソ連の崩壊は確実にやってきたのですから…。そして、日本が南に向かってくれたことで、ソ連は対ドイツ戦に集中することができました。このソ連とドイツは、ヨーロッパの覇権を争った宿命のライバルでした。その為に、東ヨーロッパ諸国は、両国の間で翻弄される運命が待ち受けていたのです。
ソ連にしてもドイツとは、いずれ決着をつけなければならなかったにしても、両面作戦では勝ち目がありません。日本が「南進」を決定したとき、日本の敗北は決定したと言っても過言ではないのです。
その上、日本にもうひとつ大きな不幸が待っていました。それが、海軍の「真珠湾攻撃」です。主敵がアメリカであったとしても、アメリカ太平洋艦隊をハワイに襲うなどというのは、あまりにも無謀で愚かな作戦でした。成功するはずがありません。それを、よりによって、海軍の主力である「連合艦隊」が言い出した作戦なのです。
戦争全体の作戦を考えるのは、「海軍軍令部」の仕事です。日本軍は、陸海軍に分かれていますが、陸軍省、海軍省は「政務」を担当する部署ですので、陸海軍の予算や人事を担当します。そして、戦争指導は、陸軍は「参謀本部」、海軍は「軍令部」が行うことになっていました。それを勝手に連合艦隊の司令長官が言い出し、「予定にない作戦をさせろ!」と迫ったわけですから呆れるばかりです。だれが考えても、作戦の成功は見込めません。それが、なぜか軍令部総長も同意し、正式な作戦になったのです。
これには何か「裏」があると考える人もいましたが、連合艦隊司令長官山本五十六大将と軍令部総長永野修身(おさみ)大将の一声で、実施となりました。
こうして、昭和16年12月8日、太平洋戦争(大東亜戦争)は始まったのです。
不思議なことに、真珠湾作戦は大成功に終わり、山本五十六大将は、英雄と崇められるまでになりました。しかし、翌年のミッドウェイ海戦で海軍が大敗北を喫すると、その後は、長期消耗戦に引きずり込まれ、多くの兵員と兵器を失い、昭和20年を迎えました。 昭和20年に入ると、本格的な都市空襲が行われ、アメリカ軍は、無差別爆撃により、多くの住民を殺傷しました。全国の都市空襲での死傷者は、80万人に及ぶと言われています。
3月末に「沖縄戦」が始まると、陸海軍共に必死の抵抗を示しました。地上では、沖縄県民も軍と一体となってアメリカ軍と戦いました。空からは、陸海軍の航空機が、爆弾諸共自爆する「特別攻撃隊」が編成され、連日、アメリカ軍の艦船に攻撃をかけました。海上でも、日本を代表する軍艦「大和」が、片道燃料で沖縄に向かいましたが、アメリカ軍の攻撃により撃沈されました。しかし、こうした抵抗もむなしく、6月には沖縄本島は、アメリカ軍の手に落ちたのです。
そして、8月には二発の原子爆弾を広島と長崎に落とされ、約20万人の命が奪われました。
戦争は、陸軍が考えていたように、まさに「総力戦」となりました。これまでのように、局地的な戦いで勝敗が決まるのではなく、「100か0か」といったオセロゲームのように、すべてのものを奪い尽くすまで戦う戦争に、世界中の人々は震え上がりました。
ヨーロッパでも最後まで戦ったドイツは、首都ベルリンまで連合国軍が攻め込み、街は廃墟となりました。指導者のアドルフ・ヒトラーは自殺し、その死体は火を放って燃やされたと言います。同じ同盟国のイタリアは、早々に降伏し、やはり、その指導者だったムッソリーニは、市民の手によって縛り首になりました。
ヒットラーは、戦争だけでなく、占領地のユダヤ人に迫害を加え、その多くを強制収容所で惨たらしく殺しました。
ソ連でも、指導者であるスターリンは、ソ連国民をドイツ軍との戦いの最前線に送り、数千万人が亡くなったといわれています。
「戦争は狂気」だといわれますが、それでも日露戦争の頃までは、相手国の兵を敬うような武士道精神や騎士道精神が根底にはありました。第二次世界大戦のような、敵国人を無差別に殺すような戦はしませんでした。それが、数十年の間に、武士道も騎士道もなくなり、ただひたすらに敵国人を殺し合う、理性をなくしたような野蛮な戦争になってしまったのは、なぜでしょうか。
四十四 敗戦
日本における太平洋戦争(大東亜戦争)は、総力戦を戦うような準備は、何一つされてはいませんでした。確かに、陸軍内部では、統制派と呼ばれるエリート軍人たちが、国家統制における総力戦を研究してはいましたが、アメリカを殲滅するような計画は、そもそも日本の国力では無理だったのです。対中戦争においても、中国大陸全土を支配できるなどとは、考えてもいませんでした。ただ、日本は、中国の租借地から得られる物資や、満州国との交易で、少しでも日本経済の立て直しができればよかったのです。
日本が明治維新を起こしたのも、欧米の植民地支配を免れようと、必死に考えた結果であり、日本が「独立」さえ保つことができれば、他に望むものはありませんでした。
たまたま、日清、日露の戦争で勝利したために、中国大陸の一部に権益を持つことになっただけのことです。多くの兵士の犠牲によって得た権益をみすみす手放すことができず、満州に渡り、日本人社会を作って日本経済を支えようとしただけのことです。
それに、日本人は外交が下手でした。中国に対しても、欧米諸国を真似て圧力外交をしたりしましたが、逆に中国人民の反日感情を高めるだけでしかありませんでした。
そんな動機で行った戦争が、いつのまにか消耗戦に陥り、徹底的に潰されたのは、歴史が証明するところです。
アメリカは、戦争前も戦争中も、日本には非情でした。日本が妥協点を見出そうと必死に行った「日米交渉」も、最初から交渉にはならず、日本を戦争に引き摺り込んだのです。戦争が始まってからも、徹底的な「殲滅戦」を行い、残虐な「原子爆弾」や「無差別爆撃」を繰り返し、日本そのものを殲滅しようとするかのような戦争でした。そのため、日本は、講和の糸口もつかめず、「最後まで徹底抗戦するしか道はなかった」とも言えます。
アメリカ軍の戦い方は非常に粘り強く、一度や二度の失敗も苦にすることなく、徹底的に押してきました。日本軍が根負けして引き始めると、そこを物量で徹底的に叩き、二度と反撃されないようにしてしまいます。多少の犠牲は厭わず、新型兵器を駆使して攻撃を仕掛け、苦しい戦況に陥っても、敵を冷静に分析し、弱点を突き続けるのです。
日本人が初めて遭遇した最大の強敵が、アメリカ軍でした。
戦争を始める前に、連合艦隊の山本司令長官が、「ハワイの太平洋艦隊を徹底的に叩き、アメリカ人の戦意を挫く」と言いましたが、とんでもない。アメリカ人は、「やられたら、倍にしてやり返す」ヤンキー魂を持つ、開拓者たちだったのです。
日本は、それを完全に読み間違えました。日本兵は、「アメリカ兵も中国兵と同じように、不利と見れば、すぐに逃げる」と教えられていたのです。
その点、アメリカは日本人をよく分析していました。日本人を「モンキー」と侮蔑して呼んでいましたが、これは、「猿のように機敏で、隙を突いて攻撃してくるから油断するな!」という教えでもあったのです。以前、アメリカ映画に「猿の惑星」というSF映画が大ヒットしましたが、あれは、まさに「戦時中の日本兵」をイメージしているという噂があったほどです。それほど、アメリカ軍は、日本兵の強さを恐れてもいたのです。
しかし、陸海軍の作戦には、「戦略」がありませんでした。日本軍は、局地戦を戦う軍隊として育成されていました。そもそも、日本は、長期の戦略を立てたことがありません。戦略思想が、そもそもない軍隊に、第一次世界大戦のような、国民すべてを動員した「総力戦」など、できるはずもなかったのです。
たとえば、今の日本の自衛隊を見ても、基本は「専守防衛」です。敵が我が国の領土を攻撃してきたときのみ、防衛のために反撃ができますが、こちらから攻撃をすることはできません。したがって、憲法を変えても、その体制は覆ることはないでしょう。なぜなら、そういう教育を自衛隊員に施し、専守防衛の装備を整えているからです。
それでも、戦争が始まると日本兵はよく戦いました。特に陸軍は、研究したこともない孤島での防衛戦に死に物狂いで立ち向かい、ペリリュー、硫黄島、沖縄とアメリが軍に大きな損害を与えました。特に最後の沖縄戦は、「総力戦」になりました。沖縄県民、陸海軍がその全兵力をもって戦いました。海では、戦艦大和を初めとする最後の連合艦隊が出撃し、空からは、陸海軍の特攻機が連日出撃し、体当たり攻撃をかけました。陸上では、沖縄県の中学生や女学生まで動員され、強大なアメリカ軍と戦ったのです。
結局、日本は帝国主義を知らず、植民地経営も知らず、白人中心の国際社会に堂々と出て行ったばかりに、袋だたきにされました。しかし、日本が米英を相手に互角以上に戦ったことで、これまでの白人主義の秩序が壊れ、帝国主義も終焉を迎えたのです。
四十五 占領
昭和20年8月15日、日本は「ポツダム宣言」を受け入れて、連合国軍に降伏しました。そして、連合国軍総司令部(GHQ)の管理下に置かれることになったのです。連合国軍の最高司令官は、「ダグラス・マッカーサー元帥」です。マッカーサーは、日本軍とフィリピンで戦い、太平洋方面の指揮官でもありました。
日本は、軍隊は解体となり、明治維新により創り上げた陸海軍は、70年あまりで、その幕を閉じました。
この占領政策は、「日本解体」を目論む第二の戦争でした。挙げればきりがありませんが、「財閥解体」「農地解体」「身分制度の廃止」「アメリカ式教育改革」「日本伝統の破壊」「新憲法の制定」「民法の改正」など、日本の歴史や伝統を否定する大改造が行われました。軍隊は解体後、新憲法によって軍備を整えることもできず、「戦う権利」すら奪われたのです。これは、ほとんど「生存権」を奪う行為でした。
日本人の精神的ダメージが大きかったのは、戦前の政治家や軍部が、如何に非道であったかを裁く「極東国際軍事裁判」いわゆる「東京裁判」でした。これは、マッカーサーの指令により作られた裁判で、国際法を無視した「報復裁判」でした。そのため、日本人を貶め、罪のない多くの元軍人たちが処刑されました。
「戦争」は、政治の一手段であり、外交の一部だと考えていた日本人は、まさか、報復のような裁判が開かれ、新しい規則を定めて処罰されようとは考えてもいませんでした。
ここにきて初めて、戦争に敗れるということは、どんなことでも受け入れる「報復」が待っていることに気づかされたのです。
こうして、7年間に及ぶ占領政策は、日本人の自尊心を粉々に砕き、アメリカの意のままになるしか、選択の余地はなかったのです。結果としてアメリカの占領政策は、失敗でした。この独善的な支配は、一見、成功したかのように見えましたが、その後の世界の混乱を招いたのもアメリカの独善的な政策によるものでした。日本を二度と国際社会に出て来られないように、江戸時代のような「農業国」に戻すつもりでしたが、ソ連との冷戦が始まると、日本の復興を助けました。アメリカは、日本の協力なくしてアジアの安定を図ることができなくなっていたのです。
確かに、広島と長崎の原子爆弾投下により、アメリカは一時的に、世界の優位に立つことができました。アメリカは、愚かにも「核兵器」さえ持っていれば、国際的な優位は揺るがないと考えたのです。しかし、よく考えてみれば、原爆を開発したのは、ドイツから連れてきたユダヤ人の科学者たちで、基礎研究は既にドイツにあったのです。そうなれば、核開発が拡散されるのに時間はかかりません。ソ連は、ドイツの科学者を捕虜としてソ連に連行し、核兵器開発を着々と進めていたのです。
そんな一時的優位の中で、アメリカは、アジアで邪魔をしていた「日本」を潰せば、「アジア進出に邪魔をする者はいない」と考えました。そして、GHQ内部に、共産主義者を多数入れて、日本に「共産革命」を起こさせようと企んだのです。
しかし、世界情勢は猫の目のように変わります。昭和25年の朝鮮動乱を境に潮目が変わり、アメリカは、ソ連・中国との対立が深まったのです。
第二次世界大戦中、ルーズベルト大統領は、ソ連のスターリンの言いなりでした。ルーズベルトは、脳に腫瘍ができており、その上、高血圧が酷く、晩年は思考すらままならなかったと言います。結局は権力欲にのみ支配された愚かな大統領は、終戦を待たずに死んでしまいました。その跡を継いだトルーマン副大統領も、出世欲しかない男でした。
「原爆投下」という歴史に、自分の名を刻みたいという名誉欲の魔力にかかり、投下命令を出した他は、何もできませんでした。自分の名を歴史上に残した業績が、「原爆投下命令」とは、情けない限りです。
しかし、アメリカの残した占領政策は、占領終了後も、日本人の心を蝕んでいきました。
四十六 戦後
日本の戦後は、7年間の連合国軍による占領期間が終結し、交戦国と講和条約を結んだ昭和27年以降になります。
戦後の日本は、占領政策の影響もあり、他国には関心を示さず、日本の復興に全力を傾けていました。この太平洋戦争(大東亜戦争)は、結果的に、欧米の帝国主義を終わらせ、各国が対等な付き合いができるきっかけとなりました。
確かに、日本は無謀とも言うべき大戦争を行いましたが、それによってアジア諸国が立ち上がり、「独立」していったのです。それは、一時とは言え、日本軍が植民地軍を圧倒し、追い払ったことが原因でした。こうした独立運動は、世界中に広がり、もはや植民地と呼ばれる国はありません。
日本国内では、朝鮮戦争をきっかけに、経済が好転してきました。今までのように軍事に多額の予算を取らなくてもよくなった日本政府は、それをすべて「経済発展」に回したのです。ここから、日本の「高度経済成長」が始まりました。
実は、日本は、アメリカやイギリスと戦争ができる国力を持っていました。それは、見方を変えれば、「技術」を持っていたことになります。たとえば、軍艦の製造技術は、「造船業」に回され、大型貨物船や大型タンカーを次々と国際市場に出すことができました。戦闘機や爆撃機などの飛行機産業は、「自動車産業」や「鉄道事業」に回されました。日本の飛行機技術は、世界最高レベルでしたので、それを自動車の開発に応用しても、何の問題もありませんでした。また、鉄道では、「新幹線」を東海道に走らせるなど、超高速鉄道が誕生したのです。
また、戦地から帰還してきた兵隊たちは、軍用地跡の開墾や、線路の敷設など、日本復興に大きな力を発揮しました。戦後は、空襲による「焼け野原」状態でしたが、技術を持った日本の人々は、そこに道路を通し、以前よりも立派なビルディングを建てました。こうして、みるみると、日本は復興していったのです。
昭和三十年代に入ると、人々の生活にもゆとりが生まれてきました。大人の人たちにとって、戦争をしていた数年間は苦しい生活を強いられ、戦後も十年ほどは我慢もしました。しかし、若い頃には、楽しく豊かだった時代も知っているのです。
大正時代が、平和で豊かな時代だった記憶が蘇ると、外国の情報を採り入れ、ファッションから料理、生活用品まで、新しい物を求めました。ラジオからテレビへ、電車から自家用車へと、新しい商品が次々と生み出され、生活も洋式化していったのです。
映画も再び活況を呈し、街の映画館はいつも満員でした。子供向けのアニメーションやSF映画など、次々と娯楽が生み出されていったのです。そして、昭和39年10月10日、東京で「オリンピック」が開かれました。
戦争が終わって、わずか19年後に日本にオリンピックが誘致できるなど、だれも考えませんでした。日本は、二度と戦争にできないように、江戸時代のような「農業国」になるはずだったのです。それが、国際情勢の変化により「冷戦」が始まり、日本は否応なしにアメリカ陣営に組み込まれ、工業国として発展していくことができました。
それにしても、アメリカは気紛れです。占領期間は、「日本を共産化し、農業国として二度と自立できないように企んでいた」ものが、アメリカとソ連の対立が深まると、今度は、一転して共産化を阻止し、工業国に転換しようとしました。つまり、アメリカには、そもそも国家戦略がないのです。そのときの大統領の考え方や思想が、そのまま政治となるのです。民主主義の理念はありますが、一面、権力闘争の色合いが強く、政権を取った者が、すべての実権を握るという独裁的な政治になりがちでした。そのくらい大統領の権限は強大なのです。
日本は、不幸なことに、その共産主義の色合いが強い「ルーズベルト大統領」の時代に戦争に追い込まれてしまいました。あろうことか、ルーズベルトは、ソ連のスターリンと手を結び、世界をソ連と二分する考えを持っていたのです。大統領の側近にも共産主義者が多く入り込み、ソ連の敵である「日本」を叩こうと謀略を仕掛けてきたというのが、歴史の真実でしょう。
その後、アメリカは、「レッド・パージ」を強行し、政府から共産主義者を追い出しました。戦後、数年して、アメリカ政府や議会もルーズベルトに騙されていたことを知ったのです。今後、アメリカの政治、外交の文書が公開されてきます。このルーズベルト時代の秘密文書が公開されたとき、日本の汚名も必ず晴れるはずなのです。
四十七 負の遺産
戦後、七十年が過ぎて、太平洋戦争(大東亜戦争)も歴史になりつつあります。
後、三十年もすれば、すべての真実が明らかにされ、世界史に組み込まれていくことでしょう。各国の情報公開は避けられず、自国にとって都合の悪い情報も公開しないわけにはいかなくなります。そして、それが一番困るのが欧米諸国なのです。
戦争に勝利した欧米諸国は、すべての責任を敗戦国に負わせ、自分たちに都合の悪いことはすべて隠蔽してきました。日本で言えば、「日米交渉」や「真珠湾攻撃」、「原爆投下」などです。これらの真実が明らかにされれば、日本が如何にアメリカに追い詰められ、自衛のために立ち上がったかがわかります。それを一方的に裁かれ、すべての責任を負わされた欺瞞は、修正しなかればならないのです。
そのために、日本人は、戦前の歴史や教育、文化までも否定され、「戦後民主主義こそが正しいあり方だ」と信じ込まされたのです。しかし、戦後七十年が経過し、本当に日本人は戦前よりも幸福になったのでしょうか。
年間30万人もの人が自殺する期間が続きました。今の凶悪犯罪は、想定を遥かに超えています。学校教育も既に崩壊の兆しを見せ始め、手を付けてこなかった家庭では、子供への虐待が急激に増加し、信じられない事件が多発しています。
経済も、平成の時代のバブルの崩壊を境に急激に落ち込み、経済格差は広がるばかりです。貧困家庭も増え、「食事のできない子供」への支援が必要になっています。
非婚率も増加し、将来に夢が持てない若者が増加しています。若者の雇用の悪化は、少子高齢化を招き、日本の街中を見ると、子供がいなくなり、高齢者ばかりになってしまいました。そして、その高齢者は、「子供が嫌い」です。
日本人全体が、我儘になり、自己中心的な思考しかできません。「世のため、人のため」という道徳心は不要なのでしょうか。
占領政策の後、日本人は、経済優先社会を創り上げました。家庭より地域より、すべて「経済」優先。教育は学校任せ。そのうち、地域コミュニティも崩壊し、次いで、家庭教育も崩壊しようとしています。
これでは、残念ながら日本に明るい未来はありません。いよいよ、日本崩壊の秒読みが始まりました。
日本人全体が、己の生き方を見直し、政治、経済、教育等、すべての分野において「日本」を取り戻す努力が必要だと思います。
四十八 日本の未来
今、社会では「AI革命」という言葉が真実味を帯びてきました。10年ほど前までは、ロボット社会と言われても、あまり切実感はなく、「そのうちにやってくる未来のことだろう」と考えていましたが、技術革新の進歩は、私たちの想像以上の速さで進んでいます。そうなると、社会のあらゆる分野に「AI」が導入され、「無人化」が当たり前の時代になってきます。駅もコンビニもスーパーもレストランも、人に代わってAI搭載ロボットが活躍します。そうなると、益々人間は不要になり、少子化に歯止めはかかりそうもありません。おそらく、人間は、そのロボット群を管理、操作する存在であり、そのうち、それらの管理業務もロボットが対応できるようになるはずです。そうなると、人間は何をすればいいのでしょうか。
ここに新しい「産業革命」が進んでいるようです。さて、それでは、日本の未来はどのように展開されていくのでしょうか。冷戦後、世界は「グローバル化」して、「国境のない物や人の交流が盛んになることで、世界中が幸せになれる」という神話が、世界中に拡散されました。しかし、実際はどうなったでしょうか。ヨーロッパでは既に「EU」が破綻の危機を迎え、「移民受け入れ政策」も失敗に終わろうとしています。日本も行った「自由経済」「規制緩和」の政策は、極端な格差社会を生み出し、「中流」を消滅させてしまいました。少子高齢化は加速度的に進み、年金制度や医療制度も見直しを求められています。世界は、「1%の富裕層と99%の貧困層」を生み出してしまいました。そうなると、「グローバル化」思想は、失敗に終わったと評価せざるを得ません。
実は、これと同じことが、戦前の日本でもありました。「共産主義」思想の拡散です。世界中の指導者や学者が、共産主義思想に憧れ、アメリカも日本もヨーロッパも、共産主義の虜になって政治を進めましたが、結局は破綻し、その実態を曝け出してしまいました。それと同じことが、今、まさに起こっているのです。
これからの日本が生き残るためには、グローバル化などではなく、もう一度素直に歴史を見直し、「日本文明」を信じることから始めなければなりません。日本が数千年の間、どのように国を造り、独自の文明を発展させてきたか、考えてみることです。
今、世界の人々は度々日本に訪れ、日本の素晴らしさを満喫しています。それは、他国にはない独特の「美しい文化」があるからです。
しかし、昭和40年代、日本人で「日本文明は素晴らしい」といった人はいませんでした。「古くさい」「汚らしい」「貧乏くさい」「つまらない」など、自分の国の文化をこき下ろすことが文化人であるかのような錯覚も生まれました。来日する外国人も少なく、日本に仕事で訪れても、日本文化などには興味も示さず、「和食」など、「味がない」「生臭い」「旨くない」と散々悪口を言い、自分たちの文化を誇りました。
それが今では、「和食」は世界文化遺産に登録され、世界の食文化をリードしています。日本の歴史建造物や大自然も「美しい」と絶賛され、何万にもの外国人が来日するようになりました。それも、「日本文明」のお陰なのです。
これからの日本人は、何でも外国の真似をするのではなく、日本文明を誇り、歴史や文化を大切にした「人間らしさ」「日本人らしさ」を世界に発信していかなければなりません。しかし、残念ながら日本人も変質し、日本人独特の「穏やかさ」や「優しさ」が、陰を潜めています。
AIは、これから世界中で活用され、人間の労働力を奪っていくことでしょう。しかし、これを活用しないで生きていくことはできません。このAIを最大限に活用しつつ、「日本文明」を取り戻すことができれば、日本は、世界をリードする「文明国家」として発展していくに違いありません。
日本人が日本人としての誇りを取り戻すことができれば、世界をリードするときが、もう間もなくやってきます。「AI革命」の先にあるのは、「人間らしさ」の追究です。
人間は、常に「個人の幸福」を求めて社会を発展させてきましたが、その結果、手にした物は、「便利さ」と「エゴ」だけでした。どんなに社会が便利な世の中になっても、個人の権利を主張し実現しても、人間は幸福にはなれませんでした。逆に、孤独に苛まれ、個人主義のエゴに固まった軋轢社会を生み出しただけなのです。
今、世界は、それに気づき始まっています。これからの社会は、グローバル化を捨て、「ローカリズム」に戻っていくことでしょう。そのときに、手本となるのが、「日本文明」なのです。「AI」と共存し、日本人らしい「謙譲の美徳」に彩られた日本は、世界が憧れる「道徳国家」になっていくはずです。
そうした未来を夢見て、生きていければ、日本文明は未来永劫輝いていくことでしょう。
コメントを残す