真説 「昭和史異聞」
~昭和を知らない若者たちへ~
矢吹 直彦
まえがき
今、朝鮮半島は、大きな時代の転換期を迎えています。反日運動が今でも国の政策の一部になっている現状を考えると、過去とはいえ、戦争というものの持つ恐ろしさを実感せずにはいられません。
戦争には、否応なしに勝敗がつきます。それも、双方に多くの犠牲者を出し、国土が荒らされ、莫大な戦費によって国が疲弊することは、勝者も敗者もありません。
負ければ、今までの体制は覆り、新しいイデオロギーが持ち込まれます。
戦争時の国の指導者は、その理由の如何に関係なく粛正され、それまでの施策や教育は、完全に否定され、その時点で、その国の「歴史も文化」も遮断されてしまうような、恐ろしい運命が待ち構えています。
そういう悲劇的な運命に陥った国が、これまでいくつあったでしょうか。
日本も、戦後、70年を超え、昭和の時代も平成を挟み、遂に令和の新時代を迎えました。
そろそろ、先の大戦(大東亜戦争)を総括する運動があってもいいのではないかと思います。しかし、国際情勢を見れば、総括どころか、ありもしない事実が捏造されたり、真実を語ろうとすると「歴史修正主義者」というレッテルを貼り、社会から抹殺しようとする空気さえ生まれています。民主主義国家なら、正当な議論をすべきだと思いますが、真実の歴史を見せたくない人々が、多く存在していることがわかります。
敗戦後、長い年月の間に既得権が生まれ、それによって生活している人々、歴史の真実よりも、今の自分の生活を守ることに必死なのでしょう。しかし、表現の自由が保障されている以上、国民が自分の主義主張を語るのに、何の制限があるのでしょうか。
まして、もし国が、その語ろうとする国民の声を遮ろうとするのなら、それはもう民主主義とは呼べません。戦前の施策を否定した人々が、戦後の民主主義を否定したら、それは国が崩壊するときでしょう。
国民の多くは、国の方針に形上は従いますが、疑念を持ちながら生きている人も実は多いものです。ただ、体制批判をすれば、火の粉が自分に降りかかるから、口を閉ざしているに過ぎません。
今の日本も、残念ながら、戦後のイデオロギーに支配され、戦前の研究も乏しく、「昭和の戦争の真実」を知ろうとしないまま、一生を終える人がほとんどです。まして、これからの若い世代の人たちにとって、70年以上も前の戦争のことなど、近代史の一コマに過ぎません。しかし、それが、今を生きている若者たちに、どれほどの損害を与えているかを知れば、無関心ではいられないでしょう。
実は、今の政治も国際情勢も、隣国との軋轢もすべて、この戦争が原因となっているのです。日本国憲法の改正問題も戦後間もなくから議論され、変えなければならないことがわかっていながら、放置され続けてきました。
そこには、施政者の政治的な思惑があったようですが、占領期に作られた憲法が、国民の総意に基づく、正当な手続きの末に施行されたものではありません。主権がない国に「自主憲法」が制定できるはずはないのです。たとえ、まったく同じ内容の条文であろうと、再度、国民に問うことによって、正式な「日本国憲法」になるのです。
これからの、先行き不透明な時代に生きる者こそ、昭和という時代と、日本が世界と戦った戦争の真実を知って欲しいと思います。そして、そのとき、日本人は、どのような過ちを犯したのか、どのように生きようとしたのか、真実はどこに隠されているのか、自分の眼で確かめて欲しいのです。
ここに書かれていることは、恐らくは、今の日本人には信じがたいことでしょう。だから、「異聞」なのです。
しかし、自分たちが思い込まされきた歴史だけが、本当に真実だと言えるのでしょうか。「歴史は勝者が創る」のたとえがあるように、我々は、勝者の歴史を真実だと思い込まされているとは、思いませんか。
若い人たちには、ぜひ、いつも社会に「疑問」を持ち続けて欲しいと願います。それが、自分が生きている間に解き明かされるかどうかは、わかりません。しかし、その思考を止めれば、自分の人生の思考も止まります。
思考を止めた先に、自分の未来もありません。人が生きるということは、「思考」し続けることにあるのだと思います。
第一章 洗脳は未だ解けず
今年も8月15日の終戦の日を迎えました。
戦後、74年だそうだが、相も変わらず日本は「戦争の総括」もできないでいます。いつまでもマスコミは、「太平洋戦争」と連呼しますが、あれは、日本の歴史では「大東亜戦争」と呼称されたはずです。そのうち、歴史学者と称する人間が、「アジア・太平洋戦争」と言い始めるに至っては、何を研究されているのか、もうわけがわからなくなります。
総理大臣は、隣国に気を遣って英霊が祀られている「靖国神社」への参拝はしないし、挙げ句の果てに、政治家の多くは、
「A級戦犯の合祀は問題だから、分祀して、新しい慰霊施設を作れ!」
だのと叫んでいます。それなら、「A級戦犯」とは、だれを指すのか教えてください。そもそも、国会で「ABC級戦犯」として処刑された人々を慰霊し、「法務死」とされたのではないですか。連合国軍の占領期に実施された「東京国際軍事裁判」は、やむを得ず受け入れましたが、日本の独立後も、不当な裁判で処刑された人々を貶めることだけはやめていただきたいと思います。
それに、そんな英霊の魂も入らない慰霊施設を作って、だれが参拝に行くというのでしょうか。
英霊たちは、皆、「靖国神社で会おう」と言って、戦ったのではないのでしょうか。
戦争に敗れたからといって、祖国防衛に身を捧げた人々は、英霊として祀るのが国際的儀礼です。そういう約束で戦った英霊たちに罪はありません。当時の法律である「徴兵令」に基づいて軍務に就き、兵士として戦場に赴くのは、国民の義務でした。納税の義務があるように、兵役に就くことは、単に国民としての義務を果たしたまでのことで、責められる筋合いのものではありません。それを、今さら反故にして国民すべてが無視し続けることが、日本国として正しい選択なのでしょうか。
現在の「日本国憲法」も、連合国軍の占領期に作られて日本国民に押し付けられた実験憲法には違いありません。
無論、憲法である以上、すべてを否定するものではありませんが、占領が終了した直後に、当然、見直しの議論が国会であって然るべきでした。にも関わらず、それもせずに、放置した時の政治家たちの責任は重いと言わざるを得ません。
あのとき、国会で議論をして、「この憲法を正式に承認する」と決議されたのであれば、文句はありません。しかし、まさか、経済を優先させるために放置したとすれば、目先の利益のために、将来に大きな禍根を残すことになりました。当時の首相は吉田茂ですが、吉田総理にも苦悩はあったはずです。あの時点で「憲法改正」を言えば、アメリカとの関係も懸念されたことでしょう。それに、天皇の名で出された憲法を、早々に改正すれば、天皇の権威に傷がつくとでも考えたのでしょうか。
「歴史のチャンス」というものは、そうそう何回も巡ってくるものではありません。吉田首相は、その絶好の機会を逃してしまったのです。
それにしても、昭和20年から27年まで続いた占領期間は、本当に「大きな問題を日本に残した」と改めて思います。
特に、日本人に、大東亜戦争の真実を隠し、嘘で塗り固めた「太平洋戦史」を創作して、国民に流したことでしょう。これは、GHQ(連合国軍総司令部)の命令で、日本国民に向けたラジオ放送が発端でした。「真相箱」という番組で放送されると、戦時中の大本営発表の嘘が次々と暴かれていきました。
その上、日本軍が中国やアジア諸国で行った様々な蛮行が放送され、「日本兵は酷い」「軍に裏切られた」「お父さんは何をしたんだ」という怨嗟の声が、日本全国から巻き上がったのです。その上、占領軍は「解放軍」と称し、「日本国民を軍の圧政から解放する」という正義の味方を演じたのです。
戦時中、「戦争に勝つまでは」と苦しい生活に耐え、空襲などで多くの家族を喪った日本人にとって、「敗戦」こそが、裏切り行為に見えたのです。このラジオ放送は、一気に日本中を駆け巡り、それを機に新聞なども掌を返すように、占領政策に賛同の意を示す記事が多く載せられました。実は、裏ではGHQの検閲が厳しく行われ、戦後の「言論統制」が行われていたのです。
そのために、日本は、已むにやまれず立ち上がった戦争を、世界征服を企んだ「侵略戦争」だと結論づけられてしまいました。
このGHQの占領政策を「WGIP(ヲー・ギルト・インフォメーション・プログラム)」と言うそうですが、これは、日本人を改造する「洗脳」政策でした。
当時、日本には「侵略戦争」を行う意思などまったくありませんでした。ただ、日清戦争や日露戦争で得た日本の「権益」を守ろうとし、中国にいる日本人の生命財産を護ろうとしただけのことだったのです。それが、蒋介石率いる国民党軍や毛沢東率いる共産党軍と戦うことになってしまいました。
この頃の世界は、18世紀の産業革命以降、帝国主義が蔓延り、強い国が弱い国を植民地化していくことは、権利として認められていたのです。イギリスは、「大英帝国」といわれ、世界中に多くの植民地を持っていましたが、それを国際社会が非難したことはありません。
日本も明治以降、国際社会の舞台に上りましたが、「中国に権益を持つ程度のことは、当然の権利だ」と考えていたのです。しかし、植民地化された国の国民にしてみれば、欧米諸国の理不尽な収奪は、許し難いものでした。反抗することもできず、力で抑え付けられた生活は耐えがたいものがありました。まして、同じアジア人の日本人までもが、欧米人と同じような態度に出ることに、より非難の目を向けたのです。そこに気づかなかったのも、日本人の愚かさだと思います。
日本は、幕末以来、西洋列強の圧力を受け、いつ、植民地化されないとも限らない状況に置かれていたことを忘れてはいけません。明治維新が成功したのも、イギリスが薩摩や長州を応援し、幕府を追い詰めた結果です。それを表からは隠し、西郷や大久保などの、いわゆる勤王の志士たちが、古い因習に縛られ、近代を理解しようとしなかった徳川幕府を倒したかのように物語を創作していますが、そんな嘘がいつまで罷り通るはずがありません。
坂本龍馬や木戸孝允、西郷隆盛たちは、イギリスの指図で動いていた部分が大きかったと思います。もちろん、そこには、日本人としての心の葛藤はあったでしょう。しかし、イギリスの支援なくして、維新がないことは明白なのです。
所詮、志士たちは大半は革命に野心を抱いた者たちです。世界の時流に乗って国内革命を起こし、自分たちの鬱憤を晴らすことが目的で、その後の日本の体制をどう構築するかまでのイメージはありませんでした。
悪くいえば、現代でいう「テロリスト」です。しかし、日本に革命を起こそうとしたのは、彼らだけではありません。
昭和初期は、多くのテロリストが暗躍した時代でもありました。
有名な昭和初期の五・一五事件や二・二六事件も、革命思想家に煽動された軍人たちが、幕末の「草莽の志士」を気取って政府の重臣を殺したテロ事件でした。明治維新から約60年。人々の記憶の中には、幕末の志士の活躍があり、彼らが日本政府の重臣となって、歴史に名を刻んだことを知っていました。「もう一度、昭和維新を起こしたい」という願望は、一度の成功体験があるだけに、現実味を帯びていくのです。
昭和維新計画は、天皇によって寸前のところで止めることができました。もし、あのとき、昭和天皇が止めなければ、日本は、戦争をせずに革命が起こり、共産主義的な思想に基づく国家体制になっていたに違いありません。
そんな評価を、そろそろしてはどうかと思います。
GHQ(連合国軍総司令部)による日本占領は、「間接統治」で、恰も日本政府が国民に命令したかのように装ったために、多くの国民は、裏でGHQがすべての指示を出していたとは、見抜けませんでした。
彼らの植民地経営は、いつも「間接統治」です。間接統治は、実質的な支配者は表に出ることなく、背後からその国の指導者を操ります。そして、その国の統治機関を上手に使って法律や規則を出し、次々と改革を進めていくのです。そうすれば、どんな理不尽な内容であっても、恨みを買うのは、顔の見える政治家ということになるのです。
明治維新のときの「イギリス」もそうでした。
商人のような顔をしたイギリス政府のエージェントが、多額の資金と武器を使って、自分たちの思惑どおりに薩摩や長州の侍を操ったのです。
イギリスにしてみれば、もっと国内に混乱を起こし、フランスが支援する徳川幕府を焚き付けて全面戦争に持っていきたかったのでしょうが、最後の将軍、徳川慶喜は、そんな魂胆を既に見抜き、自分が退くことで日本の植民地化を防ごうとしました。そのために、全面戦争は回避され、東北、北海道での局地戦で終わったのは、彼らにとっては、大きな誤算だったのかも知れません。
本当は、長い全面戦争に明け暮れ、国が分断されて、イギリス兵やフランス兵が上陸し、双方に荷担した戦争になれば、終戦後、日本は、間違いなく植民地になったことでしょう。そのときは、新政府軍も幕府軍も疲弊し、外国の軍隊を追い払うような抵抗はできなかったはずです。
おそらく、西郷隆盛や勝海舟、徳川慶喜には、それがわかっていたからこそ、国内戦にとどめ、西郷は、生き残った古い時代の武士たちと共に、消えたのでしょう。その点は、「さすが、立派な革命家だ」と褒めたいところです。
戦後を見れば、この占領期にGHQが行った最も卑劣な政策が「東京裁判」(極東国際軍事裁判)です。
この裁判は、後にインドのパール判事が指摘したとおり、「国際法を無視した無謀な裁判」でした。
特に、A級(戦争を指導した者)に指定された政治家や軍人の裁判は、すべてが捏造に基づく報復裁判であり、後から法律らしきものを作って裁き、自分たちが犯した、無差別爆撃や原爆投下を無視するといった暴挙に出ました。
日本政府や日本軍は、対米英戦争は望んではいませんでした。また、中国大陸の戦争を早く終わらせ、中国には最低限の兵力を残し、撤退することも考えていたのです。ましてや、ドイツやイタリアと組んで、世界侵略など考えたこともありません。そんな「謀議」など、どこにもなかったのです。
今でも論争になっていますが、第二次上海事変に続いた「南京攻略」時の大虐殺など、計画したことも命令したこともありません。「従軍慰安婦」も同じです。戦地に慰安所を設けたことは事実ですが、それは兵隊が現地で騒ぎを起こさせないための措置でした。軍は、慰安所の安全確保や衛生面での注意はしましたが、運営は民間業者が行い、慰安婦が日本の軍隊や警察によって強制的に連行された事実はありません。もちろん、慰安婦には相応の対価が支払われ、日本の家族に仕送りもされていたのです。慰安婦の中には、苛烈な戦場で避難したり投降したりすることなく、兵隊たちと一緒に戦った話も残されています。多くの慰安婦経験者は、戦後も口を閉ざし多くを語りませんが、彼女たちは、性奴隷などではありません。彼女たちにも日本人としての「誇り」はあるのです。
そんな戦争回避を念願していた日本に、最後通牒を突きつけ、戦争に追い込んだのはアメリカ政府ではありませんか。それを勝者だからといって、一方的に敗者を裁き「侵略国家」の汚名を着せた責任は、いつの日か、問われるときが来ると思います。
当時の日本は、大正時代に起こったロシア革命の影響を強く受け、ソビエト連邦誕生後は、その「共産主義思想」が深く浸透し、日本の国体を蝕むほどの勢いで、国内に拡散されていきました。そのために、ドイツと「防共協定」を結び、日本国内の思想犯を取り締まるため「治安維持法」を作ったのです。しかし、その取り締まりは苛烈を極め、「特別高等警察」や「憲兵」と言えば、日本人の嫌われ者の代名詞のようになってしまいました。
日本の共産主義を信奉する人たちは、高学歴であったり、身分の高い資産家であったりしました。この思想自体のどこに問題があるのかまでは、国民にはあまり知らされず、取り締まりだけが強化されていったことで、「あんなにいい人が捕まった」と言うような事件も多く、政府や軍の信頼を失う結果となったのです。
しかし、「天皇」を戴く日本にとって、「君主制打倒」をスローガンとする共産主義に同調することはできませんでした。そのため、「天皇親政」の共産主義的体制を目指そうとする動きが活発になったのです。「みんなが富を共有し、貧富にない社会を目指す」という理想はすばらしく、国内が不況で喘いでいる時代には、まさに「理想の国造り」に思えたのです。
結局、ソビエト連邦は、共産主義を掲げて国を発展させていきましたが、すべて国営とした企業に発展はなく、富も国民に平等に分配されることはありませんでした。一部の指導者層はさらに富み、一般国民は、皆貧しくなりました。軍事費が突出し核兵器を多く持ちましたが、アメリカとの「冷戦」に敗れ、国が崩壊していきました。
第二次世界大戦では、ソビエト連邦は約2,000~3,000万人の犠牲者を出したということです。ドイツ軍が侵攻すると、ソ連政府は国民を疎開させず、戦闘に参加させました。「敵の盾」になることを求めたのです。また、政府内でも勢力争いが続き、多くの政府の役人や軍人が、指導者スターリンの命令によって処刑されました。こうした内部抗争は「一党独裁」の弊害として、民主主義国では否定されています。
ソビエト連邦が崩壊しても、ソ連の残した共産主義は、中国を飲み込み、朝鮮半島を分断し、東ヨーロッパを疲弊させました。ドイツも戦後、東西に分断され、25年近く国が分断されてしまったのです。
今では、こうした一党独裁政治の恐ろしさを実感していますが、昭和初期の日本人が、それに気づくことはできませんでした。理想は理想として理解できますが、人間は神ではありません。人間に「欲」の感情がある限り、共産主義を現実に受け入れることは難しいと思います。
第二章 恐ろしい共産主義革命論
「近代共産主義」は、残念ながら「悪魔の思想」と言わざるを得ません。なぜなら、これまで「共産主義」を成功させ、理想国家を創り上げた国がないからです。「真の平等とは、何か」ということを考えさせられます。
我々は、民主主義社会の中で生活をしていますが、それでも欠陥は多く、アメリカでもヨーロッパでも、日本においても国民の「不満」が途絶えることはありません。今、民主主義国は「グローバル化」を目指して、経済統合を行い、移民政策にも寛容な心を見せましたが、結局は、経済が行き詰まり、格差社会が拡大し貧困層が確実に増えています。少子高齢化にも歯止めがかからず、幸福度は低いままです。つまり「民主主義」も人間にとって理想の形ではないということです。したがって、共産主義を「悪魔の思想」と断罪する権利はありませんが、民主主義国よりも国民が幸福には見えません。昔の封建社会が形を変えて現代に蘇ったようです。人間は、貧富の差のない「ほどほどの幸せ」を求めているはずなのに、なぜか人類は、そんな幸福感をも国民にもたらすことができないのです。
しかし、共産主義が「人類の夢」であるかのように錯覚し、戦前から戦後のある時期まで、世界中に拡散していった事実を認めないわけにはいかないのです。
日本にも、昭和の初め頃から広がり始め、瞬く間にインテリ階級に蔓延していきました。
共産主義とは、だれもが承知しているとおり、「特権階級の排除」と「富の分配」です。
共産主義は、カール・マルクスが唱えた、いわゆる「平等主義」で、労働者階級の多くに指示されました。確かに、それまでのヨーロッパ封建主義は、特権階級である「王族・貴族」と「民衆」に分けられ、領主である王や貴族にしてみれば、一般庶民など人としての価値のないような差別的な目で眺めていました。
生産者である庶民(労働者)が、飲まず喰わずで働いているのに、王侯貴族は、労働者から搾取するだけで、何も与えてはくれませんでした。
特権階級は、手を汚すことなく、自分たち王侯貴族の世界だけで文化を育み、この世の享楽を満喫していました。それは、努力によって勝ち取った利益ではなく、生まれた時から定められた運命でもあったのです。だからこそ、王侯貴族は、悪びれることなく権利を行使し、一般民衆とは異なる世界で生きていたのです。
労働者から見れば、大きな城や邸の中で、何が行われているのかもわかりません。憧れようにも、知らない世界のことですから、関心を向けることもできなかったのです。貧しさは、人を無口にします。ただ黙々と働き、税を納め、たとえ死んでも、簡単な弔いのみで済ませ、特権階級の邪魔にならないように生活するしか術のない人々でした。
こんな暮らしに風穴を開けたのが、「共産主義」でした。そして、この思想は、多くの人々の共感を得ることになったのです。それは、当然のことでした。封建社会は、身分社会です。特権階級にある者は、楽しく遊び暮らし、労働者は、毎日わずかな賃金で汗水垂らして働き、その利益は、特権階級が奪うという社会構造が、当たり前の時代だったのです。
農民や労働者階級の庶民にしてみれば、「自分働いたものが、王侯貴族に奪われることもなく、みんなが平等に富を分かち合えるなら、どれだけ幸せなことか」と考えました。そして、「そんな理想社会が実現できるなら、ぜひ一緒に戦いたい」と蜂起したのが「ロシア革命」です。
その「ロシア革命」に陰で支援をしていたのが、日本政府だったわけですから、「ソビエト連邦」を設立に日本も加担したことになります。
特に、昭和初期の日本は、世界大恐慌の波をもろに受けて、本当に貧しかったのです。特に、農村は天候不順もあり、米も思うように収穫できず、収穫した米も、地主という特権階級に年貢として納めなければなりませんでした。その上、明治政府による「国民皆兵」制度は、働き手である若い男を兵隊に取られてしまいます。食うに困った農民は、娘を売るしかなかったり、奉公に出して少しでも口減らしをしなければ、生きていけなくなりました。
それを間近で見ていた地主階級の子供たちは、真面目であればあるほど、自分の置かれた境遇を呪いました。作家の太宰治は、青森県の地主の子供でした。彼は、その多くの小説に書いていますが、「特権階級の自分が、何もせずにのうのうと学校に行けるのは、だれのお陰なのだろうか?」と疑問に思うような青年でした。それは、太宰だけではありません。当時の大学生の多くが、そんな感情に囚われていたのです。
「俺は、あいつらの犠牲の上で、のうのうと生活している…」
「俺が、中学や大学に行けるのも、小作たちの犠牲があるからではないか?」
そう思うと、やりきれない思いが胸を締め付けたといいます。
軍隊の若い将校たちの中には、自分の部下である兵隊たちが、自分の田舎を思い、家族を心配しながら軍務に就いていることを知っていました。優しい上官であればあるほど、兵隊の苦しみを理解し、「何とかしてやりたい」という義憤に駆られても、仕方がなかったのです。
そうなると、益々、天皇をいただく日本の国のあり方に疑問を持ち、明治維新に倣って「昭和維新」革命を夢見たのが、先の軍人たちでした。
そもそも、軍人は、国の官僚制度の一部です。軍人の給料は、国民の税金で賄われており、将校になる軍人たちの多くは、中学校を卒業し「陸軍士官学校」で専門教育を受けたエリートたちでした。彼らも、実は、日本の特権階級に属しているのです。
そういう、現場での感覚は、共産主義に傾倒していく原因となりました。
「もし、共産主義革命によって、理想どおりの国造りができたとしたら、どれほど素晴らしいことか」
昭和の初期に、そう考える国民は、インテリやエリート層に確実に広まっていきました。それを理論的に指導したのが、大川周明や北一輝という学者たちでした。最初の頃は、若い軍人たちの集まりであっても、次第に陸海軍の高級将校にも広がり、青年将校たちを応援する将官たちが出てきたのです。
その証拠に、五・一五事件(昭和7年)が起きたときも、国民の多くは、これを非難するどころか、事件を起こした将校たちに熱い同情を寄せました。裁判所には、多くの助命嘆願書が集まり、当時の犬養毅首相が理不尽に殺されたにも関わらず、裁判所も死刑判決は出しませんでした。
また、昭和11年に起きた二・二六事件は、社会主義者北一輝らの影響を受けた陸軍の青年将校が、勝手に第一連隊や近衛連隊などの、第一師団の一部の兵を偽の命令で動かし、高橋是清大蔵大臣、齋藤実内大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、松尾伝蔵陸軍大佐を暗殺し、鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせました。
これは明らかに天皇の統帥権を侵す国家への反逆行為でしたが、それでも、陸軍や国民の間には、彼らの心情を理解しようとする空気があったのです。
彼らは、「天皇親政」を目的とした内閣改造を求めていました。つまり、天皇の側に重臣を置かず、天皇を軍部が補佐し、「勅命」をもって社会を動かそうとする企みでした。そして、軍の力で特権階級や財閥を解散させ、「平等社会」を目指そうとしたのです。しかし、その裏には「軍部独裁政治」が見えていました。これは、共産主義国家の「一党独裁政治」と何ら変わりがありません。こんな事件は、今でこそ、おぞましいテロ事件ですが、共産主義思想は、それすらも許容しようとする空気があったことを、忘れてはならないのです。
彼ら青年将校は、明治維新の志士を気取り、「昭和維新」を叫びましたが、昭和天皇の逆鱗に触れ、首謀者である磯部浅一、北一輝ら19名が死刑に処され、事件は終息しました。
このとき、ただ一人、本気で怒りの感情を見せたのが、昭和天皇でした。
もし、このクーデターが、五・一五事件のときのように、軽い刑で済ませて、昭和天皇に彼らの「決起趣意書」が渡っていたら、どうなっていたでしょ この事件は、陸軍の「皇道派」と呼ばれた「天皇親政」を夢見た派閥の若い軍人たちが起こした事件でしたが、背後には、陸軍大将級の大物が操っていたとも言われています。
もし、昭和天皇の決断がなければ、内閣は、多くの大臣を失い、陸軍皇道派中心の軍人内閣が成立したはずでした。陸軍にしてみれば、事件としては「国家反逆」と呼べる重大事件でしたが、その思想には共鳴する軍人も多く、彼らの願いを聞き届けようとする動きすらあったのです。
もし、このクーデターが成功し、天皇が行動を容認すれば、間違いなく陸軍中心の内閣が誕生したはずです。そうなれば、いずれ、日本から資本家や華族などの特権階級がいなくなり、天皇の下には、軍と国民だけが残ることになります。
当然、すべて国民は「公務員」となり、富が分配される一方で、それを成功させた陸軍の力は強大なものになったことでしょう。
「富の公平な分配」と言いますが、それを行うのも軍部だということを忘れてはなりません。つまり、軍の思うままの政治が実現できるという仕組みです。
そうなれば、軍備はさらに増強され、いずれ、内閣や議会は機能を停止し、アジアに「軍部独裁」の国家が誕生することになります。軍事力が突出した国に、何が待っているかといえば、それは「戦争」しかありません。
軍が強大になるためには、戦争に勝利することが重要なのです。現代の「ソ連の崩壊」を見るまでもなく、様々な紛争を引き起こし、そのたびに軍事力は増大し、アメリカと「冷戦」を戦うことになりました。それは、軍事力増強の戦いでもあったのです。しかし、独裁により税金を湯水の如く軍事費につぎ込んでも、アメリカの資本力には敵いませんでした。
日本がソ連と同じようなことになれば、やはり世界との軍拡競争に耐えきれず、国が破綻したことは明白です。そうなれば、天皇の地位も失われ、国としての体制すら維持することができなくなり、「日本」が消滅するに至ることは想像に難くありません。当時の人々には、それを予言できる人はいませんでした。
「二・二六事件」の一報が昭和天皇に入った直後、昭和天皇は、即座に「討伐」を命じました。その怒りは凄まじく、青年将校たちの意見を聞くような態度は一切示しませんでした。陸軍にも海軍にも、断固とした態度を示し、決起部隊を「逆賊」と非難したのです。
この昭和天皇に怒りは、側近の重臣たちも、これまでに見たことのない「怒り」でした。昭和天皇は、側近の重臣たちを信頼し、昭和初期の大不況からの脱却を模索していたのです。青年将校たちが言うような「君側の奸」などと思ってはいなかったのです。逆に、天皇の軍隊を私し、許しもなく動かしたことが許せなかったのです。社会のルールを勝手に破り、正義を唱える姿を嫌悪し、「天皇親政」などと勝手な言い分を述べる軍人に、同情は一切しませんでした。こうして、昭和のクーデターは未遂に終わったのです。
しかし、共産主義思想そのものが、なくなったわけではありません。この二・二六事件によって、「皇道派」の軍人たちは、陸軍の中枢から追い出されましたが、その後を襲ったのが、「統制派」と呼ばれる軍人たちでした。
彼らも、共産主義を信奉する軍人たちでした。
皇道派のように、あからさまに「天皇親政」は叫びませんでしたが「国家統制」の道を探っていた軍人たちだったのです。彼らは、「民間にあるものすべてを国の管理とし、命令ひとつで、何でも動かせる社会」を目指していました。そういう意味で、彼らの共産主義思想は徹底していたと言えます。
統制派の軍人たちは、皇道派よりもさらにエリートの匂いのする連中で、陸軍大学校で学んだ、高級軍人でもありました。その中心となったのが、軍務局長の「永田鉄山」少将でしたが、二・二六事件の前に、やはり皇道派の相沢三郎中佐に陸軍省内で殺されてしまいました。皇道派と統制派は、同じような思想を持ちながら、ここまで憎しみ合う存在になっていたのです。
その皇道派が事件によって一掃されてしまうと、統制派の軍人たちは、陸軍部内で大きな力を持ち、陸軍そのものを動かすことのできる勢力となっていきました。
当時の軍部は、天皇しか命令権(統帥権)を持たない組織で、政府といえども、軍の動員等に関しては、関与できない仕組みになっていました。この「統帥権」という大権を恣にしたのが、陸軍の統制派だったのです。
結局、大東亜戦争が始まると、統制派の目論みどおりの国家統制による総力戦体制が整えられましたが、戦略思想の過ちで、国を破滅の淵に追い込んだ責任は大きいと言わざるを得ません。
現代日本においても、自衛隊を国防軍とする意見が多いのですが、防衛省が国防省となり、国防予算が肥大化すれば、自ずと、国家統制型を目指すようになることは明らかです。それを憲法で規制するのか、シビリアンコントロールで規制するのか、改めて議論の対象となることでしょう。
この「共産主義思想」は、当時、軍部だけでなく、華族や政府内にも蔓延していました。
元老、西園寺公望の孫の公一や若い頃の近衛文麿、内大臣を務めた木戸幸一、内閣書記官長を務めた風見章、ゾルゲ事件の首謀者で死刑に処された近衛の側近であった尾崎秀実など、国の蒼々たる人物が、共産主義思想の持ち主でした。
対米英戦争直前の総理大臣だった近衛文麿は、尾崎ら共産主義者をブレーンとして抱え込んだために、ソ連共産党(コミンテルン)の意のままに操られ、対米英戦争に突入する「南進論」を採用してしまいました。
このことを近衛は悔い、終戦直前に、近衛自身が昭和天皇に「上奏」し、直接、己の甘さと過ちを認め謝罪しました。
しかし、昭和天皇は、そんな近衛の甘さと弱さを承知していたようです。
近衛文麿は、近衛家という藤原鎌足を祖とする家柄に生まれたために、昭和天皇に対しても、横柄な態度をとり続けました。「私こそが、天皇家に一番近い家柄なのだ」という姿を国民に見せることで、自分の権威を高めようとしたのかも知れません。しかし、裏を返せば、皇室に対する嫉妬心がそんな態度に表れたのでしょう。とにかく、そんな、皇室に対するコンプレックスが、共産主義者に付け込まれた原因なのです。
また、海軍大臣を務めた米内光政や、連合艦隊司令長官だった山本五十六なども、これら、共産主義者と頻繁に連絡を取り合っていたという話が伝わっています。特に内閣書記官長だった「風見章」は、生粋の共産主義者で、米内とも親しく、風見邸には、米内と山本がよく出入りしていたようです。一体、何の相談をしていたのでしょうか。
結局は、そんな共産主義思想の人たちによって大東亜戦争が引き起こされ、破滅していったことを、私たちは、忘れてはならないのです。
第三章 日本海軍は、善玉ではない
作家の阿川弘之や半藤一利が小説に書いたことで、山本五十六を初め、日本海軍の軍人たちが善玉になり、陸軍の東条英機たちが悪玉になるような構図が出来上がってしまいましたが、大東亜戦争の責任の多くは、海軍にあります。 昭和12年8月に起こった、「第二次上海事変」は、その後の大東亜戦争のきっかけとなった戦いでした。
そのひと月前の7月には中国共産党の暗躍により、「盧溝橋事件」が起こり、交戦する意思のなかった日本軍と蒋介石率いる中国国民党軍の間で、戦闘が起きてしまったのです。今では、この事件は、中国共産党による謀略だという説が有力ですが、背後には「日本と中国を争わせたい」という、ソ連の意図が見え隠れしています。この戦闘は、現地部隊でさえ早期に解決したいと願っていましたが、現地の思惑とは異なり、続いて、戦闘は上海へと飛び火し、日本軍は中国国民党軍と本格的に交戦するに至ったのです。
この上海事変の主たる原因は、日本人居留民の保護にありました。そもそも、軍隊は、その国の国民を守るための組織であることは、論を待ちません。
実は、盧溝橋事件の三週間後、北京東部の「通州」という街で、大事件が起きました。
突如、日本の味方であるはずの中国の保安部隊が、通州を護る日本軍守備隊を攻撃し、通州にいた日本人居留民200人以上を虐殺したのです。それは、突然の出来事でした。それまで、この保安部隊と日本軍は敵対関係にはなく、「通州の治安を守る」ことで、協力関係にあったのです。それが一転して、攻撃をかけてくる理由がわかりません。
盧溝橋事件はありましたが、現地部隊は話し合いで和解の道を探っていたときのことでした。そして、その有り様は、「惨たらしい」のひと言に尽きる惨状で、日本国内でも怒りが沸騰し、各新聞社が写真入りで大きく報道をしました。
恐らくは、中国共産党、そして、背後でそれを操るソ連のコミンテルン(共産主義インターナショナル)が指示したことは、疑う余地はありません。
つまり、ソ連や中国共産党は、蒋介石の国民党と日本軍を争わせ、最後には、中国全土を共産党が独裁しようと企んだ陰謀によるものでした。
一般の日本人を虐殺することで、日本国民が「中国と戦え!」というような世論を誘導する謀略でした。
日本人にとって、生活のために、外国に出て行った女性や子供までが残虐な方法で殺されて、我慢できるはずがないのです。
そんなときに、今度は、上海租界の日本人居留民が狙われ、中国との講和は、非常に難しい状況になっていきました。
その頃、国民党軍は、ドイツ軍人を顧問に招き、その軍軍事顧問団の下で、上海にドイツ式トーチカを作っていたのです。その上、機関銃を装備した精鋭を揃えて日本軍を待ち受けていました。
ドイツは、昭和11年に「日独防共協定」を結び、その後、軍事同盟にまで発展させようとしていた頃の出来事でした。
そのドイツが、よりによって日本軍の敵である中国国民党軍に武器を売り、軍事指導までするとは、信義を重んじる日本人には思いもよらない行為でした。その頃のドイツは、武器の輸出が経済の基盤であり、その優秀な兵器を欲しがる国や人間には、高く売りつけるだけでなく、その技術指導まで行っていたのです。
そんな国と軍事同盟を結んでも、日本に利益はありませんでした。
そのわずか2年後には、隣国の「ポーランド」に侵攻し、第二次世界大戦のきっかけを作るわけですから、一番軍事力が増強されていた頃に日本を裏切っていたのです。
それを知っていた、陸軍参謀本部次長だった多田駿中将は、
「これ以上の派兵は、中国との全面戦争になる!」
との危惧を示し、大規模派兵に断固反対の立場を貫きましたが、これを激しく非難したのが、海軍大臣の米内光政中将でした。
米内は、親露派として有名な人物で、ロシアへの留学経験もありました。
もし、第二次上海事変のとき、抑制的な態度で、多田駿が言うように、専守防衛に徹していたら、中国との全面戦争は、一時、避けられたかも知れません。
この上海戦は、海軍が陸戦隊を派遣したり、航空隊による渡洋爆撃が行われたりと、その先に続く、南京攻略戦や重慶爆撃など、戦後の東京裁判で問題視された作戦も多かったのです。つまり、中国との泥沼の戦争に引きずり込まれた戦いのきっかけが、第二次上海事変だったというわけですから、盧溝橋事件、通州事件、第二次上海事変、日中戦争と続いた理由がおわかりになると思います。
その後の、大東亜戦争も、海軍主導で行われましたが、初期の数ヶ月を除き、海軍の立てた作戦は、悉く失敗に終わっています。
最後には、すべての艦艇を失い、戦う能力がなくなって、日本は降伏するわけですから、海軍が「善玉」であるわけはないのです。
最後に、東条英機大将を擁護したいと思います。
最近になって、ユダヤ難民を助けた外交官の「杉原千畝」が有名になりましたが、当時の関東軍参謀長だった東条英機中将やハルピン特務機関長だった樋口季一郎少将らが、
「我が国は、人種差別は行わない!」
という毅然とした態度を見せたからこそ、「ユダヤ難民を満州経由でアメリカに逃がすことができたのだ」ということを忘れないでいただきたい。
杉原の「命のビザ」は、そうした日本政府の指示を受けたものであることを、理解しておく必要があります。
杉原が、日本政府からの命令を無視して、ビザを発給し続けたように美化されていますが、そんなことは外交官としてあり得ません。もし、政府の命令に背いてビザを発給したのであれば、その「杉原」のサインは無効ということになります。そうなれば、たとえシベリア鉄道に乗れても、「満州国」に入ることもできず、即刻、追い返されたことでしょう。
そのビザを「正式旅券」として効力があったということは、日本政府が、「ドイツとの同盟に気兼ねした」話は、怪しいと言わざるを得ないのです。
但し、東条や樋口の言葉が残っているということは、ユダヤ難民の扱いについて検討されたことは、事実でしょう。
確かにドイツは、日本政府に「ビザを発給しないように」依頼してきたかも知れません。しかし、「人種差別撤廃」を掲げる日本政府が、ドイツに気兼ねして「ビザを発給しない」判断をするはずがないのです。もちろん、一部の政治家や外交官の中には「事なかれ主義」者がいるものです。そんな人間が、満州国に問い合わせたり、杉原に注意をしたりすることはあったと思います。しかし、それが日本国政府の決定にはなりません。
満州国にいた関東軍の参謀長だった東條英機や特務機関長だった樋口季一郎は、そんな問い合わせに、毅然と「貴様は、何を言っておるのか!」と怒鳴ったことでしょう。当時の陸軍の将官たちは、小役人ではありません。帝国陸軍のエリート将校であり、その精神は、武士道そのものだったのです。
現代の感覚で歴史の事象を眺め、判断しようとすると、今の価値観が優先されてしまいます。杉原千畝という外交官も、そんな武士道精神を持った人物だったということです。
海軍は、三国軍事同盟に反対し、米英を刺激しないよう努めたことになっていますが、それなら、なぜ、第二次上海事変の時に、陸軍に反対し派兵を決めたのでしょうか。「日中戦争はしたくない!」という陸軍の意向を無視して、軍艦を送り込み、航空隊を使って爆撃をやらせたのは海軍です。もし、海軍が和平を望む組織なら、中国から兵を引き、居留民も一時帰国させるべきだったのです。軍艦を派遣するのなら、その艦に居留民を乗せて帰国する方法があったでしょう。それをむざむざと敵の謀略に乗り、陸軍の意向すら無視し、戦争にのめり込んだ責任は、海軍にあるのです。
特に海軍大臣だった米内光政は、敵の謀略だったと知っていながら、海軍を動かしたのではないかという疑いが濃厚にあります。そして、陸軍は自分たちが望まない戦争に追い込まれ、大東亜戦争の敗戦の責任まで負わされてしまいました。
この日中戦争を開始したことによって、米英との関係は最悪の状態にまで来てしまいました。特にアメリカは、日本の軍事行動を容認することはできず、日本への「経済封鎖」が始まりました。日本は工業国として生きていくためには、外国から原料を輸入しなければなりません。これは、今も同様です。もし、今でも石油が輸入されなくなれば、生活を維持できる日数は「200日」だと言われています。石油がなければ日本のすべての経済活動は停止します。国内にパニックが起こり、暴動や革命につながるかも知れません。それは、70年前も同じでした。「油の一滴は、血の一滴」とまでいわれ、「石油」こそが、日本の生命線だったのです。
それがわかっていながら、「油田開発に全力を尽くした」という話は伝わってきません。今では、中国や満州国内でも、油田は見つかっています。シベリアや樺太にも油田は見つかっており、採掘が行われているにも関わらず、当時の日本政府が真剣に油田開発した事実はありません。なぜなのでしょうか。
要するに、「石油」は、戦争をするための口実であり、石油が見つかっては困る勢力が日本国内にいたと考えるのが自然のような気がします。
「油がないから、油を得るために南に向かう」と言って、米英資本が入っている東南アジアの油田地帯に軍隊を進めたのですから、敵に自ら喧嘩を売ったようなものです。その上、「主敵はアメリカ」だからと言って、アメリカ海軍の本拠地であるハワイ軍港を攻撃するに至っては、「無謀」としか言いようがありません。これも海軍には「勝つ」気などなく、戦争自体に目的があったとしか考えようがないのです。
冷静に考えれば、日本が米英相手に勝てる確率など1%もあるはずはないのですから…。
海軍の指揮官の中でも、連合艦隊を率いた山本五十六大将は、何を考えていたのかわからない指揮官でした。元々、海軍の作戦を担当する「軍令部」は、「ハワイ」などを攻撃する気は全くありませんでした。それに、そんな大がかりな対米戦に対応した訓練や準備など、何ひとつ考えてもいなかったのです。
だからこそ、米内や山本には、「どうしても、ソ連との戦いを避けたかったのではないか?」という疑念が持たれているのです。
そもそも日独伊の三国軍事同盟は、米英を牽制する目的で当時の外務大臣、松岡洋右が結んだものでした。松岡は、今では日本を戦争に導いた「愚かな外務大臣」というレッテルが貼られましたが、彼は日本人には珍しい戦略家でした。松岡は、日本の主敵は「ソビエト連邦」だと考えていました。ヒットラーやスターリンと直接会って話をした松岡にとって、どちらも恐ろしい独裁者には違いありません。
しかし、当時、満州国承認問題で国際連盟を脱退した日本にとって、米英を牽制する同盟が欲しかったのも事実でした。
ドイツやイタリアは、独裁国家であり、日本と真の同盟関係を結べるような絆はありませんでしたが、お互い、「米英を牽制したい」という目的においては、意見は一致していたのです。その上、ソ連は、ドイツとは敵対関係にあります。
この日独伊三国同盟に、仮想敵国である「ソ連」を取り込めば、米英を中心とした国際同盟に対抗する力を持つことができます。ソ連と同盟を結ぶことでソ連を牽制し、その間に「満州国」を初め、アジアにおける日本の立場を強固なものにしたいと考えていました。しかし、歴史はもっと複雑怪奇でした。
実は、ソ連はアメリカとも共産主義者をとおして、密かに通じていたのです。旧ロシアに誕生した「コミンテルン」は、世界中に共産主義思想を広めるための組織でした。世界中の共産主義者たちがモスクワに集まり、最後の国際会議を開催したのが昭和10年(1935)のことです。
ここでは、「ドイツや日本などのファシズムの国に対抗すべく、あらゆる勢力と協力して世界中に人民戦線を構築すること」という命令を発しました。要するに、「共産主義思想に共鳴する勢力を結集して、日本やドイツを叩き潰せ」という指令なのです。
共産主義者にとって、このコミンテルンの指令は絶対でした。日本でどのくらい、この思想に共鳴した人物がいたかは定かではありませんが、内閣書記官長の風間章のように、総理大臣の近衛文麿、内大臣の木戸幸一、海軍の米内光政たちを使って、何かしらの計画を立てていたことは明らかです。それを知った近衛が、終戦間際になって昭和天皇に「近衛上奏文」を提出し、自己反省と自己弁護を行ったのでしょう。近衛は、そんな動きを承知していながら、それを利用して自分の存在感を示そうとしていたのです。
その頃、ソ連の指導者であるヨシフ・スターリンは、コミンテルンの指示が世界中に拡散し、アメリカ政府内部にも多くの共産主義者を送り込むことに成功していました。
日本が、「アメリカとソ連が手を握ることはない」と思い込んでいた隙に、国際金融を操る資本家たちの手によって両国の首脳は、がっちりと握手していたのです。
そこには、思想的な違いなどという理想論ではなく、だれが世界の支配者になるのか、世界の富はだれが手にするのか…といった野心だけがありました。
外務大臣の松岡洋右は、三国同盟締結の頃から、日独伊ソの四国同盟を模索していました。ドイツとソ連は、絶対に交わることにない「水と油」の関係です。しかし、米英との間に溝があることも事実です。そこに松岡は賭けていたのです。いずれ、独ソが戦うにしても、日本にとって脅威なのは、ソビエト連邦に間違いありません。コミンテルンを操り、世界中に共産主義を拡散し、君主国である「日本」を共産化して皇室を倒そうという目的は明白です。それなら、「敵の敵は友」という論理で、四国同盟で対米英に対抗している間に、満州国を完成させ、中国とも平和裏に撤兵させることが目的でした。そのための時間がどうしても必要だったのです。
そのドイツも、昭和14年(1939)8月、仇敵ソ連と電撃的に「不可侵条約」を結びました。ドイツが「ポーランド」に侵攻する一週間前の出来事でした。この条約は、単に「戦争をしない」という条約ではなく、東ヨーロッパを両国で分け合おうという密約に基づくものでした。
その証拠に、ドイツのポーランド侵攻直後の11月、ソ連軍は突然バルト三国とフィンランドに軍事侵攻を行ったのです。ヒットラーとスターリンの世界を欺く電撃作戦でした。仇敵同士でありながら、こうした密約が結べるところに、二人の独裁者の世界征服の野望と真の恐ろしさがあります。松岡は、そんな二人と会談し、「所詮は、水と油。いずれ独ソ戦が始まる」と見ていたのです。
日本にとって、ドイツは遠いヨーロッパの脅威です。それよりも隣の脅威であるソビエト連邦の脅威を取り除く必要がありました。敵が謀略を仕掛けてくるのであれば、こちらも謀略で報いなければなりません。しかし、それができないのも日本という国の純粋さでもあったのです。
ドイツとソ連が不可侵条約を結んだのを見た松岡は、「日本とも結べないか」と考えました。もし、ソ連と条約が締結できれば、対米英に対して大きな力になると考えたからです。
ポーランドに侵攻したドイツに対して、イギリスやフランスは、戦う決意をしました。それは、ヒットラーは次にはヨーロッパ全土へ侵攻してくることは明らかだったからです。そして、その動きは速く「電撃作戦」と呼ばれました。
そのドイツの驚異的な侵攻作戦を見たスターリンは、やはりドイツに対しての疑念を拭うことはできませんでした。お互い独裁者同士です。人を信用することはありません。「ヒットラーは、必ずソ連に攻撃を仕掛けてくる!」と考え、東の脅威を取り除くために、日本側の提案を飲んで、昭和16年(1941)4月、モスクワに松岡外務大臣を招いて調印式を行いました。そのとき、スターリンは、松岡を歓待し、帰国時には駅まで松岡一行を見送りに出たといいます。それくらい、日本が敵になることを恐れていたのです。
松岡にしてみれば、「やはり、スターリンは、ドイツの侵攻を想定している」と自分の読みの深さに自信を持ちました。あの傲慢で有名なスターリンが、満面の笑みで、自分たちを見送るなどあり得ないのです。スターリンが微笑めば微笑むほど、松岡には、スターリンが「恐怖」で顔が歪んでいるように見えていました。
やはり予想どおり、ヒットラーは、その二ヶ月後の6月、「バルバロッサ作戦」を発動してソ連領内に攻撃をかけてきたのです。スターリンにしてみれば、薄氷を踏む思いだったことでしょう。日本と中立条約を結んだということは、当面、日本とドイツの共同作戦はなく、「ソ連軍は、西に集中することができる」と判断していました。
この日こそが、松岡が待ち望んでいた日でもあったのです。
松岡は、政府内の会議で演説をぶちました。
「よろしいですか。遂に好機到来です。今こそ、仇敵ソビエト連邦を叩くときが来たのです。西からドイツ軍が、東から日本軍が侵攻して挟撃すれば、数ヶ月でモスクワは陥落します。そうなれば、日本の脅威は払拭されるのです!」
しかし、松岡はそれまでの間に十分な根回しをしていませんでした。そして、ソ連のコミンテルンが、必死の日本工作をしていたことを侮っていました。政府内では、そんな松岡の演説に、だれも賛同する者はいませんでした。「外務大臣、何を言うのですか?つい先日、モスクワで日ソ中立条約を結んだばかりではありませんか?条約を結んだ以上、信義にもとる真似はできません」
昭和天皇も、「松岡は、勝手なことばかり言って困る…」と嘆かれ、松岡の策は脆くも敗れ去ったのです。近衛首相は内閣総辞職をして、松岡を外務大臣から外しました。それは、天皇の意向を汲んでのことでした。
松岡洋右と陸軍首脳は、ドイツのソ連侵攻を知ると、日本の対ソ連戦が近いと感じ、7月に、満州に、日本陸軍の精鋭70万の大兵力を集めた「関東軍特種演習」を実施したのでした。もし、この70万の兵力がソ連国境を超えたら、スターリンは東西両面作戦を強いられ、破滅は間違いなかったのです。
その頃、日本国内では、日米交渉も行き詰まり「石油問題」も解決できないまま月日だけが過ぎていきました。日本政府にしてみても、石油問題が解消しないまま対ソ戦に踏み切っても、数ヶ月で軍隊が動けなくなることを恐れていたのです。つまり、もう日本は「戦争ができない状態」だったということです。
「南に行けば石油がある」と囁いたのは、コミンテルンに操られたゾルゲや尾崎秀実たちでした。彼らは近衛文麿の側近として、近衛の政治判断に深く関わっていたのです。ゾルゲは、コミンテルンのスパイとして日本に送り込まれ、ドイツの新聞社の記者を名乗っていました。しかし、日本の治安維持法により、特別高等警察の捜査網にかかり、昭和16年の秋以降に外国人4人、日本人16人が逮捕されました。ゾルゲと尾崎秀実は死刑となりましたが、逮捕された仲間の中には、元老西園寺公望の孫の公一(きんかず)、犬養毅の三男の健(たける)たちがいました。
ソ連のスターリンは、ゾルゲから「日本は、南に向かう」という情報を得ると、踊って喜んだと伝えられています。ゾルゲは、日本ではスパイとして処刑されましたが、祖国ソ連では、「戦争を防ぐために尽くした英雄」として、今でも顕彰されています。
こうして、日本は日本が生き残ることのできる最大の好機を逃し、対米英戦争に突き進むことになったのです。
日本政府は、何度も会議を開き、日米交渉に最後まで望みをつなぎました。近衛文麿も、首相としてアメリカ大統領ルーズベルトと直接交渉し「中国からの撤兵」を条件に、石油輸出の再開を頼むつもりでいました。しかし、既に戦争計画が進んでいたアメリカ政府に、日本との妥協の余地はなく、開戦は必至の状況となったのです。
しかし、それよりも、海軍は、なぜ「ハワイ攻撃」を選択したのでしょうか。ここにも大きな疑問が残ります。
なぜなら、日露戦争以降、日本海軍の仮想敵国はアメリカでした。そのアメリカ海軍と戦うことを想定して軍備を整え、シュミレーションを何度も繰り返した結果、日本の国力でできる戦い方は、「暫時撃滅作戦」と決めていたのです。これは、だれかの思いつきなどではなく、国家戦略として明治以降、練りに練った戦略でした。
海軍には、「月月火水木金金」という猛訓練を表した合い言葉が残っています。「一週間、休みなく訓練をする」というものですが、これは日本海海戦時の連合艦隊司令長官、東郷平八郎元帥が「訓練に制限はない!」と言った言葉に由来するものです。東郷元帥は、「たとえ、軍艦の数が少なくても、訓練によってその戦力の違いを補うことができる!」と訓示をしたのです。
それが、戦艦を中心にする「艦隊決戦」でした。日本海軍でも、戦艦中心の海戦を想定し、「大和」「武蔵」などの巨大戦艦を国費を費やして製造してきたのです。それを今さら、「航空機でハワイを空襲する」では、作戦構想が悉く破壊されることを意味しました。それを対米戦の初戦に用いようとしたのが、連合艦隊の司令長官だった山本五十六大将です。
それは、海軍部内で練った案ではありませんでした。山本五十六という一個人の将官の意思によって提案されたものでした。本来なら、即時「却下」されるべきものです。日露戦争直後から練ってきた作戦案が、覆そうと言うのですから、本来は、海軍の戦略を立てる「軍令部」が山本を更迭し、新しい司令長官を立てなければなりません。しかし、そうはなりませんでした。
山本五十六は、米内光政とも親しく、海軍大臣、海軍次官として三国軍事同盟に反対した人物でした。海軍内での人望もあり、キャリアも申し分のない実力者です。その山本の意見ですから、即座に退けることもできませんが、だれがどう考えても、「無謀」な作戦としか言いようがありません。
もし、これが承認されて国の方針に組み込まれれば、これまでの海軍の方針は何だったのでしょうか。十分な審議のないまま、国策として決めていいものなのでしょうか。それも、海軍内の一部の人間にしか漏らさず、密かに実行されたのです。まさに「暴挙」です。
山本は、航空機による一撃を敵の主力に与えることによって、「米国市民に、戦争継続の意思をなくさせる」というようなことを主張しましたが、そんなことは、あり得ません。たとえば、同じように、日本海軍の横須賀基地が、奇襲攻撃で全滅させられたとして、それで、国民は、本当に「戦争をする意欲」を失うのでしょうか。逆に、アメリカ人と同様に「卑怯な攻撃」と敵を罵り、「仇討ち」を考えるのが誇りある国民の姿です。まして、アメリカ合衆国は、アメリカ大陸に逃れてきたヨーロッパ移民が建てた国です。フロンティア精神が旺盛で、これまでもインディアンとの戦い、独立戦争、南北戦争と常に銃を手に、旺盛なスピリッツで開拓した人々です。日本のような農耕民族とは違います。それを「一撃を加えれば、アメリカ兵は怯む」などと、だれが言い出したのでしょうか。これも謀略のひとつだと考えれば、あり得ない話ではありません。
恐らく、山本もハワイ作戦に賛同した海軍の将官たちも、そんなことは百も承知の上で実行に移したとしか考えられないのです。
当時の記録を見ると、
軍令部総長だった永野修身大将は、他の軍令部の参謀たちの反対を余所に、
「山本が、進退をかけるとまで言うのだから、やらせてみようではないか…」
と、消極的な賛成を見せますが、戦争の作戦を担当する責任者が、こんな無責任な発言をするのでしょうか。永野は、兵学校時代から優秀な切れ者として有名だった人物です。それほどの海軍の重鎮が、部下の司令長官に忖度して、「やらせて見たらいいだろう…」的な発言で、開戦を決めたとは到底思えません。その永野修身は、敗戦後、A級戦犯指名を受け、巣鴨刑務所で結核を患い亡くなりました。妻も子も死に、最後は憐れな死に様でした。そんな結末を本人が望んだとは、到底思えないのです。
たかが一司令長官の「進退問題」程度で、国の大方針を転換できるのなら、今までの苦労は何だったのか…、ということになります。
どうやら、この永野と米内、山本の間には、何かしらの共通の「密約」があったような匂いがしています。つまり、「北に向かわせたくない」という、共通した意思があり、そのような態度を採らざるを得なかったということなのではないでしょうか。
そして、その山本の意思は、軍令部をも黙らせ、ときの総理大臣東条英機大将にも、昭和天皇にも知らされることなく、突然、12月8日を迎えるのでした。
その結果、日本が長年かけて整備してきた、戦艦群のほとんどは「無用の長物」と化し、戦艦大和、武蔵、航空母艦信濃の巨大軍艦は、ほとんど活躍の機会もなく、多額の税金だけを費やして海底に沈んでいきました。
こうして、世界に先駆けて「航空機優先論」は、連合艦隊司令長官山本五十六が証明して見せましたが、その後の作戦指導は、単に日本海軍を消耗戦に引き込み、壊滅させただけのことでした。
そのことにより、戦後、山本の悲劇的な最期もあって、彼を名将扱いする論調が盛んでしたが、冷静に分析すれば「名将」どころか、国を滅ぼした張本人と言わざるを得ないのです。
結局、海軍は、第二次上海事変で、戦争拡大のきっかけを作り、対ソ戦の判断を誤らせ、無謀な作戦で艦隊を消滅させ、日本を破滅に追い込んだ本当の「悪玉」だったと言えるのではないでしょうか。
因みに、その山本五十六の最期にも、大きな闇が存在しています。
山本五十六は、昭和18年4月18日、ソロモン諸島ブーゲンビル島上空で、乗機の一式陸上攻撃機が撃墜され戦死しました。これは、山本が主導して行った「イ号作戦」がほぼ終了したことによる前線視察中の事件でしたが、なぜか、かなり無理をして視察を強行しました。
それは、「暗号無電」とはいえ、山本機の予定時刻まで視察先に伝えたり、護衛戦闘機もわずか六機と、日本海軍の最高指揮官を最前戦に出すにしては、準備に遺漏の多い事件でした。周囲の参謀たちが心配していたとおり、山本機は、アメリカ軍機の攻撃を受け、撃墜されました。アメリカは、山本機の行動を無線傍受で把握しており、戦闘機を配置していました。
山本機はブーゲンビル島に墜落し、宇垣纏参謀長の乗機は、海に不時着して参謀長は助かりました。その後、撃墜時、「山本五十六は、生きていたのではないか?」という噂があり、検死を行った軍医の記録にも、不審な点が多く残され、今でも謎とされています。
共産主義者との接触にしても、無謀ともいえる真珠湾攻撃の承認にしても、最後の山本の死にしても、謎だらけの人物だと言えます。
山本五十六は、新潟は長岡の人で、長岡藩士の家柄でした。長岡藩は、戊辰戦時にも徹底抗戦を貫き、長岡侍の意地を見せました。しかし、戦後は、賊軍の汚名を着て、長岡の人たちは本当に苦労をしたと聞きます。そんな中で、山本の出世は、郷土の誇りだったはずです。今でも、山本五十六を尊敬する日本人は多く、「やってみせ、やらせて見て、誉めてやらねば、人は動かじ」という言葉を残しています。
人物としては一流の人物だとは思いますが、あの時代、山本五十六を突き動かした動機は何だったのでしょうか。単にコミンテルンの手先になったとも思えません。その謎が解明されたとき、大東亜戦争が総括できるようになるのかも知れません。
このように考えていくと、「海軍善玉論」という思考は、問題があるように思います。歴史を単純化すればするほど、真実が遠ざかり、自分も自分の祖先も信じられなくなるのではないでしょうか。
第四章 ルーズベルトの陰謀
歴史を少し勉強した人間ならば、アメリカ合衆国第32代大統領、フランクリン・デラノ・ルーズベルトを知らない人はいないでしょう。第二次世界大戦終了間際に、現職大統領のまま亡くなった「アメリカの英雄」ということになっている人物です。しかし、この人ほど、日本にとっておぞましい人間はいません。なぜなら、彼は「人種差別主義者」で、日本人を忌み嫌った人物として有名だからです。彼は、表には出しませんが、間違いなく「共産主義」のシンパでした。そして、彼の背後には国際金融に関わる多くの資本家たちがいたともいわれています。そして、彼ほど、日本を目の敵にして、「日本滅亡」に力を尽くした大統領はいないのです。
第二次世界大戦が勃発する前、イギリスは、ドイツのヒットラーを懐柔しようと試みましたが失敗し、ヨーロッパの秩序を護るために参戦せざるを得ない状況にありました。当時のヨーロッパは、まだ第一次世界大戦の深い傷から立ち直ってはいませんでした。
イギリスを初めとしたヨーロッパの戦勝国は、敗戦国のドイツに多額の賠償金を払わせ、帝政を崩壊させ、ワイマール憲法下での民主国家に転換させたつもりでしたが、誇り高きドイツ人は、その屈辱を忘れてはいませんでした。
ヒットラー率いるナチス党が台頭できたのも、敗戦後のドイツ政府に対して、多くの国民が反感を持っていたからにほかなりません。
ヒットラーは合法的に政権を奪うと、ワイマール憲法を事実上停止させ、独裁政治を完成させました。そして、ドイツ国民に「もう一度誇りを取り戻せ!」と演説したのです。ドイツ人の能力は高く、一度火がつくと、瞬く間に戦後の復興を成し遂げ、近代的な軍隊まで創り上げました。
元々、ドイツ帝国は、ロシア帝国と並んで、イギリスやフランスのライバル国でもあったのです。そのドイツが再度台頭してきたことに、ヨーロッパの人々は恐れおののきました。
ヒットラーが、電撃的にポーランドに侵攻したときも、イギリスは宣戦布告は行い、ドイツを非難しましたが、その及び腰は、昔の大英帝国の面影はありませんでした。ドイツ軍は瞬く間にヨーロッパ全土を掌握する勢いで、軍を進めてきました。困り果てたイギリス首相のチャーチルは、第一次世界大戦の時のように、アメリカの参戦を強く望んだのです。しかし、アメリカ国民もまた、第一次世界大戦の傷を抱えており、他国の戦争への介入を恐れていたのでした。第一次世界大戦にしてみても、四年間に渡る大戦争となり、アメリカの青年が多くヨーロッパで死んだことに、疑問の声も上がっていたのです。
「なぜ、国土への侵略もないのに、他国の戦争で我が子が死ななければならないのか?」
そんな素朴な疑問が、アメリカ中に蔓延していました。
そして、その頃のアメリカも世界大恐慌から立ち直れないままでいました。
前任のフーバー大統領に勝利したフランクリン・ルーズベルトは、大統領選挙への出馬に際し、
「アメリカ青年を戦争に送ることは絶対にしない!」
という公約を掲げて勝利していた関係で、ヨーロッパへの派兵はできなかったのです。しかし、ルーズベルトは、一方で、ヨーロッパの戦争に参戦することで、失敗した「ニューディール政策」を糊塗し、それ以上に戦争特需をアメリカにもたらすことができるのではないかと考えました。
恐らく、それには、国際金融組織の助言があったのだと思いますが、アメリカが富を得るには、戦争は格好の機会でもあったのです。
武器を製造すれば、それだけで内需は拡大すします。もちろん、雇用も生まれます。その上、世界大戦となれば、世界中に戦場があり、高価な武器や弾薬を売りつけることができるのです。そうなれば、国内での政策の失敗など、微々たるものでしかありません。それに、ルーズベルトを含めて、国際金融資本家の面々は、共産主義容認派なのです。
ロシア革命時にも、資本家たちは、革命派に資金を提供し支援したといわれています。帝政が崩壊するには、思想だけで上手くいくはずがありません。豊富な資金力が、ものを言います。日本もかなりの額を資金提供しましたが、世界の資本家たちが、支援し帝政を崩壊させたことで、多くのビジネスが生まれたのです。
彼らにとって一番厄介なのは、「王政を敷く国家」なのです。王政を嫌う人も多くいますが、王政によって国の秩序が生まれ、階級社会は、統制を図る上で非常に都合がいいとも言えます。日本が300年近くもの間、幕藩体制が続いたのも、こうした「社会秩序」が完成していたからです。民主主義国は、議会があり、多様な思想の政党がありますので、単純に政策が決められませんが、「王政」ともなれば、絶対的君主が存在していますので、結論が早く、素早く施策を遂行できるメリットがありました。しかし、逆に絶対的君主は、歴史や伝統を重んじやすく「ビジネス」には不向きです。
金融資本家にとって「戦争」は、確実に儲かるビジネスでもあったのです。戦争は限りない消耗戦です。一機数億円もする戦闘機が一撃で破壊され、次々と補充していかなければなりません。軍艦ともなれば、数千億というビジネスが生まれます。第一次世界大戦は、そういう意味で、資本家たちにとっては、またとないビッグチャンスに見えたことでしょう。人というものは、その立場によって見える世界がまったく異なる典型でした。
要するに、「金儲け」をするためには、王族などの特権階級は邪魔な存在でしかなかったのです。第二次世界大戦を仕組んだのは、だれかはわかりませんが、この大戦によって、大成功を収めた資本家がいたことだけは、間違いありません。そして、そんな勢力がアメリカにも、日本にも、ドイツにも触手を伸ばしていたのでしょう。
その国にとって、権力を手中に収めることのできる手段が、豊富な「資金」であれば、とてもわかりやすいのです。人は、残念ながら、だれでも金の力で動きます。資金を持つ者が権力を握り、その国をも支配できるのです。こんな、わかりやすい構図はありません。ロシア革命もそうでした。
帝政ロシアでは、皇帝以下、一部の特権階級と奴隷しかいませんでした。これでは、富は皇帝と一部の特権階級の者が握り、他の者は手出しができません。もし、皇帝や貴族を倒し、共産主義社会となれば、その国の富は、建前上は平等に分配されることになります。そうなれば理想ですが、ロシアからソ連に代わっても、一般国民に富が分配されることはありませんでした。すべての企業が国営化され、ノルマされ達成できれば、定められた賃金が支給されます。しかし、それは労働者としての当然の権利です。労働に対する「対価」なのです。
それでは、その労働によって採れた作物や工業製品等は、どうなるのでしょうか。それは、内需だけでなく、外国に輸出されることになります。その利潤は、国民すべてに分配されるのでしょうか。そんなことはありません。利潤で得た資金は、党がすべて管理し、必要に応じて分配されますが、それが「公平」に行われるかどうかは疑問です。党に入った資金を党が管理し、党が監査を行うとすれば、国民は何も知らされず、公平な労働対価を受け取るだけに過ぎません。国家に入った収入をすべて公開するような国はないのです。
たとえば、今の日本では政府が税を管理していますが、その管理は財務省が行います。財務省も当然、内部監査を受けますし、会計検査院の監査も受けることでしょう。国会議員の監査もあります。こうした何重ものチャック機関をとおして公正な支出が認められますが、それでも「汚職」の類いは後を絶ちません。それだけ、公正に資金を管理するのは、難しいということなのです。
一党独裁の共産主義国にとって、本当に適正な資金の管理と支出が行われていれば、ソビエト連邦のように国が崩壊することはなかったはずです。党の方針として軍事費が増大し、競争力のない国営企業には、発展や進歩、発明・発見がありません。「ノルマ」を熟すことが仕事になってしまえば、社会の進歩が停滞するのは当然です。しかし、金融資本家にとって、兵器の増産は、一番儲かる商品なのです。「壊しては造り、また、壊しては造る…」まさに、軍事費は、消耗品と同じです。鉛筆を買い換えるような感覚で、新型兵器を製造し、また新たな兵器を開発し増産する…。その繰り返しを行うことで、ビジネスは永遠に途切れることはありません。それが、国際金融を操る資本家たちのビジネスなのです。
そして、そこから得た利益は、当然、国民に分配されるはずなのですが、結局は「党」の利益になり、党の幹部たちは別の意味で特権階級を形成することになるのです。
正直、実態はわかりませんが、現在の格差社会を眺めていると、「1%の富裕層と99%の低所得者層」に分かれるそうです。中流階級の消滅は何を意味しているのでしょうか。世界の富は、どんどん富裕層に流れ、格差は広がるばかりです。こうした社会構造も、資本家たちのねらいだったのでしょうか。
それでは、なぜ、日本が標的にされたかということです。
日本は、欧米諸国から遅れて近代国家として国際舞台に登場してきました。当初は、健気に西洋化しようと必死に頑張っている日本の姿に同情的だった国際社会も、日清戦争、日露戦争に勝利すると、露骨に日本批判を始めました。
つまり、自分たちが上から見下ろし、助けてあげているうちは、ライバルにはなりません。しかし、急速に力をつけ、国際舞台で発言をするようになると、元々の人種差別的な意識が頭をもたげてきます。この当時の国際社会は、欧米中心の白人社会です。有色人種に対する差別は、当然のように行われていました。近代国家として力をつけてきた日本だけが、少し「特別扱い」をされていたのです。
しかし、日本人は、欧米人とは異なる価値観を持っていました。「天皇」という「君主」が統治し、国民は、道徳的で自制的です。人々は穏やかで、治安もすばらしく、欧米諸国が理想としていた国が、ここにありました。
国民一人一人の能力は頗る高く、文字の読めない人がほとんどいません。
西洋の学問や技術を次々と習得し、数年の間に、政治も経済も一流国並に整備されていきました。国内で見ていると、様々な課題も見えてきますが、外から眺めていると、それは「驚異」以外の何者でもありませんでした。
明治維新のとき、イギリスやフランスは、革命軍と幕府軍、双方に支援し、相当に儲けましたが、最後の最後になって、日本という国を奪い、植民地化することができなかったのです。それは、当時の武士たちは「欲」がなく、それよりも「大義」を大切にしていたからです。
もし、日本を植民地化することができれば、いくら投資しても、これからいくらでも搾取することができるのです。特に日本の「金」は、さすが「黄金の国」と呼ばれただけあって、まだまだ、採掘できる金鉱はあるはずだと考えていました。そうなったとき、特権階級である「天皇」がいても、商売の邪魔になるだけです。だから、フランスでも、ロシアでも、革命の先に待っているのは、皇帝一族の抹殺です。
アメリカ大統領のルーズベルトにしてみれば、前近代的な「天皇」など、何の価値もないように見えていました。早く共産主義革命を起こさせ、ソビエト連邦のような体制にすることで、富を一部の資本家たちで独占しようと考えていたのです。
そこで、ルーズベルトは、側近を使って、日本を追い詰める手段はいくつか考えました。最初は、あからさまな「日本人排斥」による人種差別政策でした。アメリカやブラジルなどには、明治以降、多くの日本人が移民して「日本人町」を作っていました。日本人は勤勉で、当初は大変評判が良く、安い賃金で一生懸命働いてくれるのです。文句ばかり言う、アメリカの労働者とは大違いです。しかし、日本人移民が増え、アメリカで成功するようになると、アメリカ人から土地を買い、商売まで行うようになっていきました。その上、日本人は、日本人同士で助け合い、「町」まで作ってしまったのです。昭和初期の大不況がやって来ると、アメリカの労働者は働き場所を失い、貧困層が格段に増えてきたのです。しかし、日本人は、それでもこつこつと貯金をし、慎ましやかに助け合って生きていました。アメリカの労働者たちは、それが面白くないのです。
「日本人の奴らめ、俺たちの土地を奪い、商売を奪い、アメリカで堂々と暮らしている。俺たちは、奴らに仕事も奪われたのだ!」
と、州や国に訴えたのです。本来なら、そんな苦情は、持ち込むことも恥ずかしい案件でしたが、ルーズベルトは、それを認め、日本人排斥運動を煽りました。そして、日系人に対して、様々な制限を加えていったのです。
それでも日系人は、みんなで助け合い、必至にアメリカで生きようとしていました。
「アメリカでどんなに差別を受けようと、日本には帰れない!」
というのが、彼らの信念でもあったのです。
もちろん、アメリカ人の中には、正義感が強く、「酷い法律だ!」と、日系人を庇う人もいましたが、国が率先して差別するわけですから、どうしようもありません。
こんな酷い法律を作っても、国民の支持を受けた大統領は、恥ずかしくもないのです。なぜなら、人種差別は、当たり前の感覚だからです。肌の色が白くない人種は、「劣等民族」なのです。劣等民族は、優秀な白人に従うことが当然なのです。これは、ルーズベルトだけの問題ではなく、その時代の欧米の国の共通認識でもありました。
日本の同盟国だったドイツのヒットラーは、ドイツを純粋なアーリア人の国にしようと、ユダヤ人を虐殺し、世界から消し去ろうとしました。ホロコーストと呼ばれていますが、こんな人種差別が国の政策の柱になるわけですから、日本が、ドイツ人から見たら、どのように見えていたか、わかると思います。
ヒットラーにとって、日本との同盟など、何の価値も持っていませんでした。日本人の一部は、ヒットラーの快進撃に狂喜し、ヒットラーを英雄視した人間もいましたが、彼は、日本人をやはり「下等民族」と、その著書に書いています。
そんな大統領の下にいた日系人は、アメリカの中では、針の筵に座らされていたようなものだったのです。しかし、逆な見方をすると、それだけ日本人を恐れていたと考えることもできます。やはり、日露戦争でロシアを破った日本人の潜在能力は計り知れず、自分たち白人社会に驚異を与える存在という認識があったのです。
大東亜戦争が始まると、日系人だけを隔離し、財産をすべて没収して、砂漠のキャンプ地に送ったのもルーズベルトでした。それでも日系人の若者は、アメリカ国旗への忠誠を誓うとともに、日本人としての誇りを失わないように、アメリカ陸軍に志願していきました。アメリカ陸軍は、日系人だけの部隊を編成し、ヨーロッパ戦線に送り込んだのです。日系人部隊は、アメリカに残る父母や兄弟の幸せを願い、必至になってドイツ軍と戦い勝利しました。その戦い振りは、アメリカ兵を圧倒し、自分の命を省みず勇敢に戦ったそうです。その部隊は、「442連隊」と呼ばれ、戦後、多くの勲章とアメリカ国民から多くの賞賛を受けたのです。しかし、その為に、日系人兵士の多くは差別と誇りのために戦い、戦場に散っていきました。
アメリカ政府が、このルーズベルト大統領時代の日系人に対する非道を正式に謝罪したのは、昭和63年のことでした。第40代アメリカ大統領、ロナルド・レーガンは、
「日系アメリカ人の市民としての基本的自由と憲法で保障された権利を侵害したことに対して、連邦議会は国を代表して謝罪する」
と、強制収容された日系アメリカ人に謝罪し補償したのです。戦争が終了し40年以上の年月が経過していました。
人種差別主義者のルーズベルトは、中国に日本軍が居座っていることに我慢がならなかったのです。それは、中国への進出が遅れたアメリカは、他の列強が獲得したような、中国から搾取できるはずの利益を得られなかったからです。
日本の幕末期に起きた「アヘン戦争」は、イギリスの清国に対する侮辱外交の結果起きたものでした。イギリスは、植民地であったインドで製造させたアヘンを中国で一般庶民に売りつけ、莫大な利益を得ていました。
麻薬が、どんどん国内に入ってくれば、国民にとって有害極まりない代物です。清国がそれを取り締まったことは、独立国として当然の措置でしたが、それに難癖をつけて戦争に持ち込んだのが、当時のイギリスだったのです。
そのとき、アメリカは、大英帝国の前に指をくわえて見ていなければなりませんでした。この頃のアメリカは、まだ建国50年足らずの国で、20年後には「南北戦争」が起こるなど、内政問題で外国に進出するなど、まだ遠い先の話だったのです。結局、アメリカは、ヨーロッパ諸国に比べれば、植民地獲得競争に出遅れ、最後の植民地の場であった「中国大陸」に乗り出そうとしていたのです。
アメリカは、遅ればせながら、中国大陸への権益を求めてアジアに進出していきましたが、日清、日露の戦争で勝利した日本が、中国大陸への勢力を延ばしたために、アメリカが入る余地が残されていなかったのです。
アメリカは、日露戦争後、苦肉の策として「南満州鉄道の共同経営」などを日本に打診しました。しかし、そのとき日本は、その要請を一旦受けようかという寸前に、外務大臣小村寿太郎の猛反対を受け、不成立に終わりました。日本政府にしてみれば、戦争で多くの血を流して獲得した権益です。それを簡単に手放すことはできなかったのです。
これは、アメリカ政府にとって屈辱的な外交だったと言われています。アメリカにしてみれば、日露戦争の講和を仲介したのは自分だという自負がありました。「その恩義を忘れて、依頼を断るとはどういうことか!」という怒りは、後に、日本を「仮想敵国」と見做すきっかけになったと言われています。
実は、日中戦争を終わらせないように仕組んだのも、アメリカ政府でした。 アメリカは、中国大陸から日本を排除し、その隙に、大陸への進出を企図していたのです。そのため、最初は、中国国民党の蒋介石を支援し、日中戦争が始まると、「フライング・タイガース」と称した、アメリカ空軍のパイロットを義勇兵として中国戦線に投入しました。機体は、アメリカのカーチスP40戦闘機に、中国のマークをつけただけです。日本の航空隊も、その機体とパイロットがアメリカ人であることはわかっていました。これでは、アメリカが日本を敵視していることは明白であり、日本の世論も「アメリカ憎し」の気分が蔓延していったのは、仕方がないことでした。
この頃、アメリカは、中国軍の基地から、日本本土への爆撃計画まで立て、既に、戦争状態を作っていたのです。このような執拗なアメリカの対日敵視政策は、日本の政府や軍部を苛立たせました。
「なぜ、アメリカは、こんなにも我が国を敵視するのか…?」
という疑問が日本側には、常にありました。
日本政府は、この頃、まだルーズベルトの意図が読み切れてはいなかったのです。
昭和16年になると、日本の「南進論」が明らかになっていきました。
陸軍は、あくまでもソ連軍を叩くチャンスと見ていましたが、「南に行かなければ、油がない」「中立条約を結んでおいて、ソ連を責めるのは信義にもとる」などの強硬な意見は、天皇が賛成するところとなり、陸軍の野望は、ここで頓挫するのです。
日本は、外交上の手続きを踏むために、フランスの亡命政権であるヴィシー政権の承諾を得た上で、南部仏印(今のベトナム)進駐を行いましたが、これがアメリカ、イギリスを非常に刺激する結果となりました。
東南アジアやインドには、欧米の植民地があり、それに手を出す行為は、当然、許せるものではありませんでした。米英は、この日本軍の南進に対して、さらなる経済制裁を発動しました。これで、いよいよ日本も身動きが取れません。遂にアメリカは、すべての日本向けの資源と石油の輸出を禁止したのです。
日本は、「石油」が絶たれれば、国が崩壊することはわかっていました。陸軍も海軍も、石油が届かなければ、軍事行動ひとつできないのです。そのために、東南アジアに埋蔵される石油は、どうしても必要でした。
北進しない理由は、「北には、石油はない!」という主張からでしたが、実は、シベリアや北樺太からも石油の採掘はできたのです。その上、満州国の大慶、遼河には、戦後、大油田が発見されているのですから、もっと真剣に調査をすれば、発見はたやすかったはずです。それが、予算もつけず、大した調査もしないまま、「油田はない!」では、政府の怠慢と言うほかはありません。
関東軍が調査の上、「油田はない!」という結論が出されたようですが、何となく、隠蔽された可能性も否定できないと思います。
とにかく、日本政府と軍は、「南にしか、油はない!」と思い込んでしまいました。そして、この南部仏印への進駐を口実に、アメリカ政府は、石油禁輸措置等の日本に対する最大の経済制裁を発動したのです。
こうなると日本も「万事休す」です。手詰まりの状態になってしまいました。確かにアメリカは、日本を追い詰め戦争に持って行きたい野望は持っていましたが、日本側がその挑発に乗らなければ、戦争は回避できたのです。アメリカ世論は、戦争を欲してはいませんでした。それに、ルーズベルト本人が数度の大統領選において、「アメリカ青年を戦場には送らない」と公約を掲げていたのですから、日本さえ妥協すれば戦争が避けられた公算は高かったはずです。しかし、残念ながら、日本の情報組織は弱く、有力な情報が政府や軍に入ってきても、一参謀が無視することも度々ありました。結局、日本は、近代国家になり得ず、それぞれ担当の個人が意思決定をしていたのです。
これでは、国の方針は定まることはありません。天皇にさえ、不都合な情報は入れず、調子のいい言葉で誤魔化すことを通例としていたといいます。
手詰まり感で苦悩していたとき、近衛首相は、ルーズベルトとの直接交渉を言い出しました。近衛の腹の中には、「中国からの軍の撤兵」を最後の切り札として持っていました。「このカードを出せば、当面の危機は避けられる…」。近衛は、そんなふうに考えていたのです。しかし、この話は、軍部や他の政府関係者は知りません。近衛は、自分一人で、日本最大の危機を避けようとしたのです。
近衛文麿という人物は、昭和天皇が言うように「弱い人間」です。公家最高の家柄に生まれ、何不自由なく育ち、求められて総理大臣にまで上り詰めました。しかし、野心家ではありません。「公爵」という家柄のせいか、鷹揚とした「殿様」気質なのです。そのため、優秀な側近を集め、自分の政治を助けて貰うつもりが、共産主義者ばかりを集めてしまい、自分の意思とは違う道を選択してしまいました。もう、ここまで来れば、相談する人間はいません。そして、相談すれば潰されることを承知で、「中国からの撤兵案」を腹蔵したのです。
日本政府もここに来て、首相の決断に賭けようと考えましたが、アメリカ政府は、「その必要なし」と回答してきたために、日本政府の譲歩案すら、聞いては貰えませんでした。
そして、昭和16年11月に「ハル・ノート」と呼ばれる最後通牒を突き付けてきたのは、アメリカ政府でした。それも、議会はこの最後通牒のことも、近衛首相が会談を申し込んだことも知らされておらず、最後までルーズベルトに騙され続けたのです。
「ハル・ノート」とは、アメリカ政府の国務大臣コーデル・ハルの名を取ってそう呼ばれていますが、その内容は、「日本が、中国に持っている権益をすべて放棄して、軍民ともに日本へ帰国せよ!」というものでした。「ハル・ノート」には、これまでの交渉についての一片の妥協もない内容が書かれていたのです。これを日本は「最後通牒」と判断し、対米戦争を始める決意を固めたのです。
もし、アメリカ議会がこの内容を知っていれば、「宣戦布告文書」だということに気づいたはずです。議会は、アメリカ国民の代表ですから、国民が戦争を望まない以上、「戦争反対」は、当然の総意なのです。それを大統領権限で勝手に宣戦布告文書を日本に送ったとなれば、議会はルーズベルトを弾劾したはずです。しかし、議会がそれを知ったのは、ルーズベルトの死後でした。
今では、この「ハル・ノートを受託すればよかった」という評論家がいますが、それは、日本の破滅を意味します。
中国からの軍・警察の完全撤兵は、日本軍に敵対し続けた蒋介石の国民党が承認され、日本が支援していた汪兆銘の国民政府を見殺しにすることになります。そして、中国、満州にいる数百万の日本人が帰国するとなれば、大混乱に陥ることは間違いありません。満州国も破綻することでしょう。そして、日独伊三国軍事同盟の一方的な破棄は、国際社会における日本の完全なる屈服を意味します。
もちろん、ソビエト連邦への備えも崩れ、朝鮮半島も維持できなくなるでしょう。国民からの信頼をなくした日本政府や天皇は、多くの国民の支持を得ていた共産革命すらも受け入れなければならない事態を招くかも知れません。
ここまで、侮辱的な扱いを受けて、日本政府も立たないという選択はできなかったのです。
こうして、ルーズベルトは日本を追い詰め、日本軍が、アメリカに対して先に攻撃を仕掛けるよう、用意周到な罠を仕掛けていたのです。
その罠にまんまと嵌まって、ルーズベルトが望んだ「日本からの先制攻撃」を仕掛けたのが、連合艦隊司令長官の山本五十六大将です。
山本が、本当に罠に嵌まったのか、承知の上で、意図的に真珠湾を攻撃したのかはわかりません。しかし、山本の周辺には共産主義者が多く蠢いており、だれかに入れ知恵されたとしても不思議ではないのです。戦前には、こうした謀略が世界中で行われ、日本も破滅の道へと進んでいったのです。
第五章 日本海軍の戦略思想
日本海軍は、日清、日露の戦いで得た教訓を基に、艦隊の整備に余念がありませんでした。ロシアのバルチック艦隊を破ったことは、世界中の賞賛を浴び、連合艦隊の司令長官だった東郷平八郎大将は、世界の海軍の英雄となりました。特に、植民地にされていたような国では、「白人の帝国を破った日本人」ということで、子供に「トーゴー」という名前をつける人が多くいたそうです。外国には、「トーゴービール」や「トーゴー通り」などがあるようです。
さて、ロシア艦隊を破った日本海軍の次の敵は、太平洋に君臨するアメリカ海軍でした。大西洋は、既にイギリスやスペインなどが覇権を争っていましたが、太平洋は未だ手つかずでした。それは、太平洋は格段に広く、南洋には小さな島々がありますが、そこまで航海するのも大変だったのです。しかし、軍艦の性能が向上すると、南洋諸島にも各国が手を伸ばし始めました。その中で、大国といえばアメリカです。アメリカは、太平洋、大西洋に面し、両方に「艦隊」を持っていたからです。日本も同様に、太平洋に面した海洋国家です。日本海は小さく、ロシア艦隊を破った今、そんなに大きな艦隊を配置する必要はありませんでした。しかし、太平洋は違います。着々と軍備を増強してきたアメリカが、遠くから刃を日本に向けてきていたのです。
当然、日本も仮想敵国は、アメリカです。それ以外に、海軍が仮想敵国にする海軍国はなかったし、仮想といえども、太平洋におけるアメリカ艦隊の勢力は、凄まじいものがありました。その上、大正時代は、世界的に「軍縮」の時代であり、日本の戦艦も対米英比率6割に抑えられました。もっとも、景気が後退していた日本にとって、比率6割は有り難いことなのですが、当時の海軍は「アメリカ海軍やイギリス海軍と6割では戦えない!」と強硬に反対し、政府を罵倒したのです。この強硬意見は、海軍の予算獲得という国内の問題でしかありませんでした。日露戦争で勝利した海軍は、「勝って兜の緒を締めよ」どころの話ではなく、鼻息も荒く、どんどん大型軍艦の製造に予算を欲しがっていたのです。しかし、そんな血の滲むような税金を使って、大東亜戦争では、ほとんど役にも立ちませんでした。
アメリカやイギリスにしてみても、日露戦争に勝利するまでは、日本に対して非常に融和的でしたが、日露戦争に日本が勝利し、軍縮条約でも大声で厳しく交渉する日本政府団の姿を見ると、それまでの態度を変え、一気に日本を警戒するようになっていったのです。
それは、米英はじめ、国際社会が日本を脅威と見なすようになっていたからです。しかし、日本政府は、「当然の権利を主張したまでのことだ」と、明治期の日本の態度とは大きく異なる態度で各国の代表に接していたのです。
しかし、国際軍縮会議は、「日本6割」から一歩も譲らず、日本代表もここで妥協せざるを得ませんでした。日本は、戦艦比率は6割でしたが、補助艦艇まで制限されてはいませんでしたので、駆逐艦や巡洋艦、潜水艦などの攻撃力を高める工夫を重ねました。その結果、駆逐艦や潜水艦から発射される「魚雷」の開発に力を入れ、爆発力が強く、射程距離の長い「酸素魚雷」の開発に成功したのです。この魚雷は、酸素が水に溶けやすい性質を生かし、魚雷を発射しても「航跡」が発見しづらいという特長がありました。また、この頃から、航空機の国産化を目指し、三菱飛行機や中島飛行機などが軍の依頼を受けて、戦闘機や爆撃機の製造に乗り出したのです。
特に、航空機はまだ未発達で、強力な兵器として使える目処は立ってはいませんでした。第一次世界大戦中は、複葉の戦闘機は登場してきましたが、速力も遅く、攻撃兵器としては戦艦の足下にも及ばない代物だったのです。
まして、洋上に浮かぶ航空母艦から発艦して、敵の軍艦を攻撃するなどという発想もありませんでした。
飛行機は、戦闘機同士の空中戦はできましたが、洋上を高速で走り回る軍艦に爆弾を当てたり、魚雷で攻撃するなどというのは、相当、飛行機自体の性能が向上しなければならず、日本の工業力では難しいと考えられていたのです。 しかし、四年間に及んだ第一次世界大戦は、兵器の性能を飛躍的に向上させていたのです。
日本は、連合国の一員として参戦したといっても、中国の青島にあったドイツ軍の要塞を爆撃したり、地中海に駆逐艦隊を派遣したりした程度で、本格的な海戦や陸戦を経験することはありませんでした。そのため、実際の戦闘経験が乏しく、飛行機が登場しても、あまり関心を向ける人はいなかったのです。 しかし、ヨーロッパの戦場では、軍隊の兵器が飛躍的に向上し、大型戦車が登場したのもこの戦争からでした。
その時代の流れに乗り遅れた日本は、第一次世界大戦後が、軍縮の時代だったこともあり、大きな予算を伴う兵器の開発まで、手が回らなかったのです。
一部の軍人は、世界の兵器の進歩を見て、「これは、とんでもない戦争になる」と危機感を募らせましたが、平和な時代を迎えていた日本国民に危機感はなく、「そんな軍事予算は、認められない!」と、特に陸軍は、兵員も減らされ、戦術も「白兵戦」一点張りで、日露戦争時の人海戦術しか方法がなかったのです。だから、大東亜戦争末期まで、歩兵の使用する小銃は、明治三十八年型の「三八式歩兵銃」でした。この小銃は、射撃をするとき、必ず「撃鉄」をその都度操作しなければならず、射撃をする速度が著しく遅いという欠点がありました。世界の先進国が、既に連射ができる「自動小銃」を開発していたにも関わらず、日本軍の新兵器の遅れは、致命的でさえありました。
海軍も艦艇の整備には力を入れましたが、航空機の開発は遅れ、飛行機は飽くまで「戦艦の補助兵器」の役割を脱するまでには至らなかったのです。
そして、日本海軍の戦略も、敵艦隊をサイパン島沖合まで引き寄せ、一気に決戦に持ち込むといった、日露戦争時の「日本海海戦」の再現を夢見ていたのです。
この戦略は、戦後「古臭くて使い物にならない」という論評が多く出されましたが、実は、そうでもないのです。やはり、山本五十六を英雄にしたい人たちは、「山本は先見の明がある英雄」で、それ以外の軍人は「先の見えない凡人」にしておきたいのでしょう。しかし、国家戦略というものは、そんなものではありません。その国の規模や経済、国民性、準備できる能力などを勘案して策定されるもので、一人の軍人が自分の意思のままに決められるようなものではありません。戦争は「総合力」なのです。アメリカは、戦争に長けた国です。日本を「仮想敵国」とした時点で、国家戦略を練り、日本を追い詰めて行ったわけですから、非常に合理的です。
確かに、戦争を始めたのは、大統領のルーズベルトかも知れませんが、その後の戦争の指揮は、国家戦略に基づいて有能な軍人や政治家がが行ったものです。そうでなければ、あれほど迅速に政府の指示の下に「総動員体制」が採れるはずがないのです。
ここで、少しだけアメリカの合理性を説明しましょう。
アメリカは資源が豊富で、海外からの輸入で原材料を賄う国ではありません。それだけに、一度戦争に歯車が回り出すと、とてつもない力を発揮するのです。そして、その技術開発力は世界最高でした。たとえば、戦闘機ひとつとっても、日本軍機のように何種類もの戦闘機は作りません。航空機会社もたくさんありましたが、主力のグラマン社は、海軍の「F4F艦上戦闘機」を長く造り続け、日本の「零式艦上戦闘機」のライバルとなりました。その後、零戦の登場で、高馬力の「F6F艦上戦闘機」を製造し、零戦を凌駕するに至ったのです。しかし、零戦に比べると姿形は不格好です。なぜなら、工場での組み立て過程が単純化されているからです。戦法も複雑な操作が必要な「巴戦」は、極力避け、開発当初から「一撃離脱」戦法を採っていました。これなら、若いパイロットでも零戦との戦いに加わることができます。また、戦闘機の部品や機銃弾もアメリカ軍機は統一が図られており、現地で部品や機銃弾の調達が容易なのです。それに機銃弾は日本軍機のように数種類もありません。「12.7㎜弾」で統一され、6門の機銃から大量に撃たれるのです。防御性能の弱い日本軍機は、この戦い方に苦戦し、多くのベテラン搭乗員が大空に散っていきました。要するに、戦争にはこうした「戦略」が必要なのです。たった一人の思いつきで、ばたばたと付け焼き刃のように戦略を変えた日本とアメリカでは、自ずと結果は見えてくるはずなのです。
日本海軍の「対アメリカ海軍戦略」は、さすがに海軍軍令部が、その総力を挙げて、練りに練った戦略だったのです。
日本の国力、技術力、国民性、海軍の兵器の性能、兵隊の能力、輸送力…を総合的に考えれば、「これしかない」という戦略を立てていました。
山本は、「一撃必殺論で、出てくる敵を先手を打って叩き続け、講和に持ち込む」といった戦略を語っていますが、無線やレーダー装備も貧弱な日本海軍が、どうやって「先手を打つ」のか、科学的な証明がありません。それに、広大な太平洋にいくつもの艦隊を展開できるような訓練も計画もありませんでした。山本五十六は、博打が好きだったという話がありますが、山本の作戦には、常に「一か八か」といった投機的な危うさを感じるものばかりです。そして、真珠湾攻撃後も、同じような手を打ち続けたことに、失敗の原因はあるのです。
「奇襲作戦」というのは、織田信長ですら、桶狭間の戦いの一会戦しか行っていません。後は、敵の武将の調略と大軍による包囲戦で、負けることのない戦を行ったのです。
もし、山本が指揮官ではなく、軍令部の意向に沿った指揮官であったら、大東亜戦争は、その様相を大きく違うものとなっていたはずなのです。
少し、説明をすると、
先に述べたように、本来は、北進してソ連をドイツと共に叩き、共産主義国ソビエト連邦を壊滅することこそ、日本の安全保障上必要でした。しかし、その外相、松岡洋右たちが考えた戦略が、内部に蔓延る共産スパイの暗躍によって潰された日本は、南に向かうことになったのです。しかし、それは飽くまで、「石油」等の工業資源の確保が目的でした。この時点で、どうしてもアメリカと戦おうとする強固な意思が日本政府や軍にあったわけではありません。
だれが考えても、世界に君臨している二大大国と戦争をするなど、愚かな行為だと思います。それほど、日本人は無謀でもなく、野心家でもありませんでした。
それでも、南に向かえば、さらに米英との軋轢は増し、小規模ながら戦争状態に陥ることは覚悟しなければならなかったのです。そのためには、主敵をアメリカとするのではなく、イギリスにすることだったのです。
アメリカは、フィリピンを植民地としていましたが、海軍の脅威は、シンガポールを拠点とする、イギリス東洋艦隊です。アメリカ太平洋艦隊は、遠くハワイに拠点を置いていますから、当面の敵はイギリスということになります。
大艦巨砲時代といわれるように、イギリスは、世界の海を海軍力によって制圧し、その実力は、アメリカが台頭してきたとはいえ、まだまだ、侮れないものがありました。もし、山本が言うように、航空兵力で叩くのであれば、イギリスの東洋艦隊であり、アメリカの太平洋艦隊ではないのです。それに、東南アジアは、イギリスやアメリカの領土とはいえ、植民地でしかありません。
植民地の統治のために、フランスもオランダも軍隊を派遣していましたが、本国の領土を侵したわけではありませんので、戦意はそれほど旺盛とはいえないでしょう。
しかし、ハワイは、既にアメリカの州であり、太平洋艦隊は、アメリカ本国を護るための重要な軍事力なのです。それに、太平洋艦隊には、多くの若いアメリカ兵が乗艦し訓練を受けていました。前線の守備隊に派遣されている兵士と、内地で訓練中の兵士では、心構えも違います。要するに、ハワイは、既に「アメリカ本土だ」ということを忘れてはいけなかったのです。それを潰されれば、次は、敵(日本軍)は一気にアメリカ西海岸に迫ってくる危険性が増大します。つまり、真珠湾攻撃は、日本軍が、アメリカの喉先にナイフを突き付けたようなものなのです。
アメリカも民主主義の国です。国民世論の動向が、政治を左右する政治形態を採っています。ナイフを自分の喉元に突き付けられて、おとなしくする我慢しているような国民など、どこにもいるはずがないのです。
普通に考えても、アメリカ人たちは、「早くナイフを捨てさせろ!」と政府や軍に迫ることでしょう。ましてや、フロンティア・スピリッツの国民性です。家の中に銃を供えている国民が、戦いを選択するのは、だれもが想像できる常識だったのです。
こんな当たり前のことを、どうして日本の政治家や軍人たちは、気づかなかったと言うのでしょうか。やはり、何か「裏」があると考えるのが自然な志向だと思います。
そして、当然の如く、アメリカ国民は、ルーズベルト大統領の「リメンバー・パールハーバー」の演説に、熱狂したのです。
このアメリカ国民の恐るべき熱量は、ほとんどが「恐怖」からきたものなのです。そして、恐怖心が大きければ大きいほど、敵を憎み敵愾心が燃え、「戦争反対!」の声など、どこかに消え去ってしまいました。
日本は、開戦初頭に、アメリカ人を恐怖のどん底に陥れた「黄色い悪魔」になってしまったのです。
これが、イギリスの東洋艦隊なら、既に、ヨーロッパでドイツ戦を戦っているイギリス人が、それほどの恐怖を日本に感じることはなかったはずです。それより、ドイツ軍の破竹の進撃に戦慄し、イギリス本国を護る戦いで手一杯だったことは、間違いないありません。
それでも、イギリスは、シンガポールを死守しようと、二隻の大型戦艦を派遣してきました。
日本でいえば、歴戦の「長門」と新鋭戦艦の「大和」を派遣したようなものです。
イギリスも日本と同じように、大型戦艦の巨砲をもってすれば、制海権を奪われることはないと考えていたのです。しかし、シンガポールは、山下奉文大将の陸軍部隊によって制圧され、その東洋艦隊も日本の中型攻撃機によって、戦艦レパルスと戦艦プリンス・オブ・ウェールズを一瞬にして沈めてしまいました。このことは、イギリスだけでなく、世界中の人々を驚かせました。
「まさか、強力な武装を誇り、高速で運動する戦艦が、航空機の攻撃で撃沈させられるとは…」
それは、これまでの戦い方が一変した瞬間だったのです。そして、この衝撃的な事件に、すぐに反応したのが、アメリカでした。
アメリカ軍は、真珠湾で沈められた旧式軍艦を主力から外し、航空母艦中心の機動部隊へと、その主力の転換を図ったのです。と言うより、旧式の大型戦艦を持て余し、ハワイ軍港に並べておくことで、仮想敵国に対しての宣伝効果を狙っていたようにも思えます。大型戦艦は、その建造費が高く、旧式だからといって簡単に処分したり、新しい戦艦を製造したりする予算は、アメリカでも難しい現状がありました。平和なときには、軍事費は無用の支出のように見えるものです。日本でも、自衛隊の装備費等が嵩んでいますが、それでも自衛官の数は定員に満たず、未だに旧式の装備品を使用している部隊もあります。
「防衛力」は、絶対に必要なものですが、限度がありません。これは、どこの国でも抱える問題になっています。
さて、アメリカは旧式戦艦を日本海軍が海に沈めてくれたお陰で、航空母艦を主力とする機動艦隊に衣替えすることができました。残された戦艦は、たとえ新型戦艦であろうと、航空母艦を護衛する補助艦艇として活用したのです。
当然、アメリカ海軍の戦艦部隊は反発しましたが、航空機の優位性をまざまざと見せつけられ、アメリカ政府の方針に逆らうことはできませんでした。
こうして、アメリカ海軍は「機動部隊」という強大な戦力を手に入れることになったのです。しかし、それが、十分機能するまでには、まだ、半年以上の時間を必要としました。
この時点では、日本の機動部隊は世界最強であり、航空兵力は、世界一だったといえます。特に、開戦の前年に正式兵器として登場してきた「零式艦上戦闘機」は、紛れもなく、当時の世界一の性能を誇る傑作機で、それを操縦する搭乗員は、既に中国大陸で実戦を積んできたベテランばかりでした。
あのときの、航空母艦六隻を擁する南雲機動艦隊をもってすれば、インド洋の制圧も夢ではなく、そうなれば、悪夢のようなインパール作戦を行うわずとも、インドの解放は、早期に実現できたはずなのです。また、陸軍機を一式戦「隼」、二式戦「鍾馗」などが開戦と同時に東南アジア方面で活躍していましたので、陸海軍の航空部隊が制空権を確保し、地上部隊を支援すれば、東南アジアからインド方面の制圧は難しくはなかったと思います。また、海軍が東シナ海からインド洋まで制圧すれば、制海権も確保できます。それが、なぜ、太平洋方面を戦いの主戦場にしたかが、理解できないのです。
歴史を見れば、アメリカの植民地であったフィリピンにいたマッカーサー元帥などは、部下将兵を置き去りにしたまま、オーストラリアに敵前逃亡しています。たとえ、本国から退去命令が出ていたとしても、司令官自らが戦場を離脱し、部下将兵を置き去りにしてよいものなのでしょうか。これが日本軍であれば、そもそも司令官に退避命令など出しません。勝手に持ち場を離れれば、「敵前逃亡罪」で軍法会議ものです。
その後、捕虜になった米英の将兵は、灼熱の道を徒歩で移動させられ、多くの犠牲者を出したと主張し、軍事裁判で日本の司令官であった本間雅晴中将が絞首刑に処せられました。これを「バターン死の行進」と呼ばれた事件です。しかし、最近になって同じ道を辿った記者がいましたが、捕虜収容所まで歩けない距離ではなく、日本兵を同じように捕虜に付いて歩いています。当時の日本軍は、多くの捕虜を輸送するトラックもなく、やむを得ない措置でしたが、事情を汲み取る意思は、連合国軍の軍事裁判にはなく、日本の蛮行とされてしまいました。
それにしても、マッカーサーという人物は、戦後、日本占領軍の司令官として、日本統治の責任者になりましたが、フィリピンで戦ったアメリカ将兵にとっては、「敵前逃亡した、信頼できない司令官」というレッテルが貼られ、アメリカ国内で人気を得ることはできませんでした。
マッカーサーは、日本占領の任を解かれ、帰国後、大統領選を目指しましたが、既に時の人ではなく失意のうちに郷里に帰ったと言われています。
フィリピンを脱出する際、アメリカの記者に「I shall return!」と叫んだそうですが、見送った将兵には空しい響きだけが残りました。
もし、日本軍を西へ西へと進めていたら、日本は、一年もかからない間に、東シナ海、南シナ海、インド洋とアジア全域の制海権、制空権を確保し、文字どおり、アジア解放という偉業を達成できたのです。そうなれば、蒋介石支援の援蒋ルートも断ち切れ、中国は日本と和平を結ぶしか方法はなかったはずなのです。
ソ連のスターリンは、対独戦が始まると、いつ日本軍が侵攻してくるかわからず、眠れない夜が続いていました。しかし、日本に潜り込んでいたソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲから、「日本は、南に向かうことが決まった」という報告を受けると、大喜びをしたそうです。
ゾルゲは、日本でのスパイ活動を続けた結果、昭和19年に逮捕され、尾崎秀実と共に死刑となりましたが、戦後、ソ連は、ゾルゲを「ソ連と日独の戦争を防ぐために尽くした英雄」として讃え、「ソ連邦英雄勲章」を授与しています。
ソ連側から見れば、確かにゾルゲは英雄ですが、ゾルゲ事件に関与した共産主義者、尾崎秀実らは、祖国を裏切った人間として、歴史にその汚名を残すことになりました。当時の日本政府の中枢には、アメリカ政府と同じように、ソ連のエージェントが入り込み、政治工作を行っていたのです。
しかしながら、そんな状況の中で、日本軍が南に向かい、アメリカに宣戦布告を行ったとしても、アメリカ世論は、あれほどまでに対日戦争に牙をむくことはなかったでしょう。そうなれば、アメリカ世論をバックに、山本が目論んだとおり、一年でアメリカと和平交渉ができたかも知れません。そうなれば、
その後の、日本が枢軸国に止まるのか、それとも、連合国陣営に加わるのか、主導権は日本にあったのです。
ルーズベルトや彼を支援した資本家たちは、悔しがるでしょうが、日本に共産主義革命が起こることもなく、中国も日本の指導の下、資本主義国家になることができたかも知れないのです。
せっかく、「戦わずして勝つ」戦略が描けたはずなのに、海軍軍令部や海軍省は、なぜ、山本支持に回ってしまったのか、それは、今でも大きな謎のひとつです。
第六章 昭和天皇の決断
昭和天皇は、様々な記録や伝記にもあるとおり、イギリスのような立憲君主制を心掛けたと言われています。しかし、日本は、ドイツ型の君主制を手本として、大日本帝国憲法が作られました。そのために、天皇は、権力を持たない単なる象徴ではなく、陸海軍を統帥する大元帥の地位にあったのです。
もし、これがイギリスのように、権力が議会にあれば、昭和初期の日本も政党政治がなくなることはなく、議会制民主主義が、継続したことでしょう。
先にも述べたように、昭和初期の日本は、共産主義革命を夢想する勢力が跋扈し、多くのテロ事件が起きていました。
昭和7年には、血盟団事件が起こり、大蔵大臣だった井上準之助、三井財閥の大番頭、團琢磨が暗殺されました 同じ年に海軍中尉三上卓らによる五・一五事件が起こり、首相犬養毅が暗殺されました。昭和11年には、陸軍の青年将校らによる二・二六事件が起こり、日本中を震撼させる大事件となりました。
こうしたテロ事件が起こる背景には、共産主義の啓蒙運動が広がっていたことを意味します。
そして、昭和天皇は、二・二六事件に際して、軍部や政府が、これを容認するような気配を見せたために、断固討伐を命じたのです。
この頃の昭和天皇は、まだ若く、軍や政治家の一部には、天皇を軽んじる風潮があったと言われています。元々、長州藩の人間には、天皇を「玉」と呼び、「尊皇」を掲げながら革命運動を楽しむような風潮がありました。要は、革命のための革命がしたくて、幕府を倒したようなものです。彼らに国家的なビジョンはありません。僅かに、吉田松陰がいたために、革命の大義を見出しましたが、松陰亡き後は、まさに下克上を絵に描いたような軽輩の武士たちが藩を牛耳って、倒幕に突き進んだというところが真実です。
こうした長州の思想は、陸軍に受け継がれ、革命好きの青年将校たちは、いわゆる「勤皇の志士」をもう一度、やってみたかったのでしょう。
「謀略」のために天皇を利用しようとする風潮は、昭和の時代になっても変わらず、「祭りの御輿は、軽い方がいい」と嘯く輩が陸軍には多くいました。
一度の成功例が、その後の政治を歪めてしまっていたのです。
ところが、昭和天皇は、人物的に、そんな柔な人間ではありませんでした。
天皇にしてみれば、自分が即位して後、テロ事件で国の重要な人物が、何人も殺されています。社会では、右翼や左翼の人間の動きが騒がしく、治安の乱れを憂慮していました。
五・一五事件の頃は、犬養首相が殺されても、ひたすら立憲君主制の立場を尊重して、自分の意見を言うことを我慢していましたが、さすがに、岡田啓介、鈴木貫太郎、高橋是清、齋藤實といった、自分が頼みとしていた男たちを、これ見よがしに殺傷されては、我慢の限界も極まりました。
特に、重傷を負わされた鈴木貫太郎は、侍従長として、自分を支えてくれている側近中の側近で、貫太郎の妻たかは、自分の子供の頃から愛情を注いでくれた「乳母」でした。
青年将校たちは、天皇にも、こうした人間らしい感情があることすら気づかなかったのです。
「クーデター勃発!」の報を聞いた瞬間に、昭和天皇は、軍服に着替え、大元帥としての顔を見せることになりました。それは、弱々しい御簾の奥の天皇などではなく、「軍人天皇」としての厳しい一面を見せた瞬間でした。
それにしても、青年将校や、それを裏で操った将官たちは、一体、何を考えていたのでしょうか。そんな天皇の気質も知らず、「天皇なんか、所詮、軽い祭りの御輿よ」と侮っていたのです。そして、表面上はへりくだって見せるものの、心の中では、侮っていたわけですから、明治維新が日本にとって、とんでもないクーデターだったことがわかります。
明治を作った男たちは、暫くすると、権力闘争に明け暮れ、汚職も頻繁に行われるようになりました。
西郷隆盛や大久保利通らが生きていた頃までは、「多くの仲間や侍を死なせてしまった…」という負い目が、彼らにはあり、明治初期の改革は、命がけでした。特に生真面目な西郷は、そんな責任を感じる感性を持っていました。
しかし、世の中が落ち着き、次の世代になると、そんな意識も薄れ、「自分たちが革命を成功させた」ような気分になった政治家たちが、昔の大名の如く振る舞い、権力を恣にしていました。
それでも、混迷した国際情勢の中で、日清、日露の戦争で戦った将軍たちは、まだ、真剣に国を憂える気持ちを持ち続けていましたが、大正時代になると、それも消え、元の権力闘争が顔を出してきたのです。
平和な時代になり、学歴が「実力」だという価値観が生まれました。明治政府は、国民に義務教育を施しましたが、その際「学問は、身を立てる根本」だと説いたのです。要するに、「学問をすれば、出世することができる」という誤ったメッセージを国民に与えていました。
確かに、教育を受けることで知識が増え、健全な振る舞いをする国民は増えたと思います。しかし、苦労をして学ぶことを、なぜ、「己の出世の為」という価値としなければならなかったのかは、甚だ疑問です。
「学歴」こそが「実力」と勘違いをした人たちは、国のことよりも、己の出世、自分の属する派閥の拡大が「第一優先」となりました。その証拠に、大東亜戦争に敗北し、軍隊が消滅することがわかっていながら、最後まで派閥争いを繰り返した政治家や軍人たちが如何に多かったことか…。
結局は、そうした明治維新後の風潮が社会を弛緩させ、危険な共産主義思想などが入り込む、温床となっていたのかも知れません。
昭和天皇は、そんな時代を宮中から眺めながら、「これでよいのか…」と、己の無力さを感じていたのでしょう。そして、それを吐露できたのは、鈴木貫太郎など、少数の信頼できる側近だけだったのです。
若い青年将校たちは、確かに心は純粋だったのかも知れません。しかし、自分たちが、欲望に満ちた人間たちの「操り人形」として、踊らされていることに気づかなかったのです。たとえ、気づいていたとしても、「自分の誠意は、必ずや天皇に通じる…」と信じていたことが、あまりにも幼すぎます。
彼らにとって、昭和天皇の「怒り」を肌で知ったとき、やっと、自分の置かれている立場に気がつき、夢が打ち砕かれたことに絶望感を味わったことでしょう。それは、自分たちがしたことの裏返しなのです。人の命を奪い、自分勝手な解釈で社会を変えようとした報いが「逆賊」の汚名と銃殺刑でした。
昭和天皇は、この二・二六事件の後、非常に後悔したと伝えられています。なぜなら、それが「立憲君主」としてのご自身の振るまいとして、「適切ではなかった」と思われたからなのです。
天皇は、何も知らない操り人形ではありません。ご自身の意思を持ち、日本の中で一番国を憂える「国家元首」なのです。だからこそ、自分の感情をできるだけ抑制し、周囲の政治家や軍人たちを信頼しようと努められたのです。
それでも、国家元首として決断しなければならない時がやってきました。
大東亜戦争終戦の「ご聖断」です。
大東亜戦争の開戦に際しても、昭和天皇は、政府や軍部の判断を厳しく諫められました。明治天皇の御製を二度も繰り返して詠んだのも、自らの気持ちを重臣たちに伝えるためでした。
「よもの海 みな はらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」
昭和天皇は、大東亜戦争の開戦に際して、できるだけ戦争は避けたいと願っていましたが、「こと、ここに至っては…」と、消極的な賛成の意思を示したのです。もちろん、平和であって欲しいと願うことは、国民を「我が赤子」と考える天皇にとって、当然です。しかし、これまでの状況を考えると、戦わずして日本の未来がないこともわかりました。
非常に苦しい葛藤の中で、「それでも、何とかならないのか…」という、悲痛な叫びが聞こえるような気がします。
昭和天皇は、開戦の詔書の中で、開戦の理由をこう述べています。
「東亜安定に関する帝国積年の努力は、悉く水泡に帰し、帝国の存立亦正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり」
この最後の、「帝国は今や自存自衛の為、蹶然起つて一切の障礙を破砕するの外なきなり」は、昭和天皇の真意でしょう。まさに、日本は、「自存自衛」の為の戦を行ったのです。しかし、奮戦むなしく、降伏に至る無念は、国家元首として断腸の思いであったことでしょう。それでも、昭和天皇は、だれも責めるようなことは口にはされませんでした。
今や海軍に残された艦艇はなく、陸軍もアメリカ軍と戦える戦力を失い、だれがどう見ても日本の敗戦は必至の状況となりました。それでも軍部は、「本土決戦」に一縷の望みを託し、天皇や政府に迫りましたが、天皇にも政府にも、「これ以上の戦いは無理だ」という判断がありました。しかし、臣下として、だれも、それを口に出すことができません。そこで、信頼の厚い鈴木貫太郎が首相として、天皇とご相談の上、聖断が下されたのでした。そして、この決断も、天皇ご自身でなければ、できない決断だったのです。
軍部の中でも陸軍は、最後まで徹底抗戦を主張しましたが、それもやむを得ないことでした。大東亜戦争が始まる前、ドイツがソ連に侵攻したとき、ドイツ政府から日本に「ソ連戦への応援」を頼まれました。西のドイツと東の日本がソ連を挟撃すれば、ドイツと日本に勝ち目が出てくるからです。まして、日本とドイツは、同盟国です。ドイツが応援要請してきたのは、当然だったと思います。しかし、日本は、ソ連との中立条約を結んだばかりであり、ドイツの要請を断りました。そのため、陸軍は、満州に展開していた70万の軍隊をソ連戦に向かわせることができず、日本へ引き揚げていたのです。
大東亜戦争は、海軍の戦争です。陸軍にしてみれば、中国との戦争が続く中で、対米英戦争は無謀だと考えていました。しかし、それでも「やる」となれば、「東南アジア、中国、インド方面は担当するが、太平洋は海軍に任せたい」というのが、本音でした。しかし、実際は、遠く離れた南太平洋まで進出し、太平洋上に散らばった小さな島々の守備を陸軍に担わされたのです。せっかく、大陸で展開できる準備を整えていたのに、「孤島」での戦いなど、考えたこともありません。そのため、敵上陸の際は、「水際作戦」がいいのか、内部に誘導しての「持久戦」がいいのか、それすらも統一見解がなく、その場の指揮官に判断が委ねられていました。結局は、「持久戦」を選択した「ペリリュー島」や「硫黄島」では、アメリカ軍に多くの損害を与えましたが、その他の戦いでは、水際で徹底的に叩かれ、数日で守備隊は玉砕してしまったのです。
しかし、「本土決戦」となれば、話は違います。本土決戦は陸軍の担当です。そのために一万機以上の航空機を温存し、戦車隊、精鋭部隊も外地から引き揚げさせて訓練に励んでいました。よく、「竹槍で、どうやって戦うんだ!」という声を聞きますが、それは陸軍の主力部隊ではありません。その温存していた兵力は、約100万規模だったと言われています。
「日本が敗れるにしても、ここまで海軍の無茶な作戦に引き摺り込まれ、協力してきたのに、最後は陸軍本来の戦もできないまま軍がなくなるのは、納得できない!」
というのが、陸軍の主張なのです。だから、最後の陸軍大臣阿南惟幾大将は、敗戦の責任をとって切腹する際、「米内を斬れ!」と部下に命じたのです。そして、現地で戦っている兵隊たちは、間近に戦友の死を見ているのです。負け戦を見ているのです。
こうした状況下で陸軍が、「敗戦」を受け入れることは、相当に難しかったと思います。
海軍も艦艇は失ってはいましたが、やはり航空機はありました。本土防空戦でも、新型戦闘機が活躍し、必死の抵抗を行っていたのです。しかし、国民は、度重なる空襲に、厭戦気分が蔓延し、生活の窮乏も我慢の限界に達しようとしていました。
これ以上、戦争が続けば、国民の支持を喪った皇室そのものが、内部から崩壊しかねない状況でもあったのです。皇室内部でも、天皇と弟宮との間には、意見の相違がありました。これが長引けば、弟宮を擁した軍の一部が、クーデターを起こす可能性もありました。
おそらく、あの八月が、「終戦」を決断するぎりぎりのタイミングだったと思います。実は、世界中の王制打倒のクーデターは、このような状況の中で起きているのです。
皇室といえども、その時代を生きている人間にとっては、一種の特権階級には違いありません。日本が経済的に豊かになり、発展している間は、特に不平不満の対象には、ならないでしょう。しかし、政策の失敗によって、国民の生活基盤が揺るげば、特権階級に矛先が向かうのは当然の理屈なのです。
昭和初期に、日本で多くのテロ事件が起きたのも、世界的な大不況の波に飲まれ、日本経済が立ちゆかなくなったからです。現状を打開したい思いが、何かしらの劇薬や特効薬を欲するのは、人間の性のようなものです。「苦しいときの神頼み」という言葉があるように、殺人行為すらも「正義」の名の下に起こしてしまう人間の弱さが、いつ皇室に向けられないとも限らないのです。
戦後、配給制度が破綻し貧困で喘いでいた頃、皇居広場に国民がプラカードを掲げて押し寄せました。それには、「朕は、たらふく食っている!」という物がありました。もちろん、天皇に対する不満の表れです。その頃、昭和天皇は、「国民と同じで良い」と常に質素な生活に徹し、焼けた御殿の代わりに暮らした御文庫という地下壕は、湿気が酷く、天皇ご自身が、戦後の耐乏生活を営んでいたのです。しかし、庶民はそんなことは知りません。これまで敬愛の対象だった天皇を「朕」呼ばわりして、罵ってもそれを咎める国民はいなかったのです。「貧しさ」というものは、人の心まで貧しくさせ、心身を蝕んでいくのです。それは、おそらく「恐怖」に近い感情だと思います。
戦前、日本はその恐怖から逃れるために、後先も考えず大陸に答えを求めたのです。
世界中が混乱している時代に、中国の人々の気持ちも考えず、闇雲に満州国を作り、日本のみの権益を保護しようとすれば、現地の人々が、「日本の身勝手な行動」と映るのは当然でした。その頃の満州東北部は貧しく、日本に分け与える富はありませんでした。
日本人は、それでも「未開の土地を開発し、豊かにしたのは日本人だ」と言うでしょう。現実を見ればその通りです。しかし、結果がそうであろうと、その土地に暮らす人々の許しもなく、軍靴で乗り込んできて、「貴様らのためだ!」と言われても迷惑この上ありません。
昭和天皇は、こんな行為をけっしてお許しにはならないでしょう。しかし、「結果さえよければ、文句はあるまい」と考えた軍人たちは、「日本国民の為」という大義を掲げて、新しい国を創りました。しかし、その夢もわずか13年で消えてなくなりました。それも最後は悲劇的なものになってしまったのです。
昭和20年8月、こうした軋轢が、戦争を生み、今又、降伏という選択を迫られていました。もし、これ以上、徒に国民の犠牲者を増やし、本土そのものを戦場と化せば、たとえ、講和が成立したとしても、皇室を敬う人間はいなくなることは、昭和天皇ご自身がわかっていました。
陸軍は、「本土決戦によって連合国軍に痛撃を与え、講和のきっかけを作り国体を保持する」と主張していましたが、天皇は、「本土決戦になって、数百万の国民を犠牲にすれば、たとえ講和となっても、国体は保持できない」ことを知っていたのです。
国民一人一人を「赤子」と呼んで慈しんできた天皇という存在が、その赤子を徒に殺す行為のどこに「慈愛」があるのでしょうか。それに気づいていた昭和天皇は、心密かに「降伏」を決断していたのです。そして、このタイミングしかないと、ソ連参戦後の御前会議で、鈴木貫太郎首相と打ち合わせ、「聖断」を下したのです。
その席上、天皇は、重臣たちの「国体の保持ができるのか?」という疑問に、昭和天皇は、ただひと言、「自分には、成算がある」と発言したのです。つまり、今なら、国民が理解してくれるという意味での「成算」だったはずなのです。
政府や軍部は、国体の保持の可能性は、敵が握っていると思っていましたが、天皇は、まったく異なる考えをしていたのです。それが、2600年続いた天皇の地位にある者の信念でもありました。
要するに、軍や政府は、敵であるアメリカの方ばかり向いていましたが、ただ一人、昭和天皇だけは、国民を見ていたのです。そして、この決断は、正解でした。
外国人から見れば、国家元首のひと言で、戦いを止め、粛々と矛を収めた軍隊など見たことがなかったに違いありません。
日本軍と戦った経験を持つ、外国の兵隊たちにしてみれば、「自分の命など関係ない」と言わんばかりに、突っ込んで来る日本兵は、ある意味、恐怖の対象でしかありませんでした。たとえ自分が日本兵を殺すことができたとしても、その気迫、恐ろしいまでの執念、全身でぶつかってくる魂は、体験した者でなければわかならい感覚なはずです。そして、それは歴戦の勇士であるアメリカ海兵隊の古参兵ですら、恐れおののきました。
兵隊というものは、勝ったからといって、敵を侮ることはありません。生きるか死ぬかの極限に置かれた人間は、その性根を晒します。その肉体と肉体のぶつかり合いの果てに生死があるのです。
いくら優秀な武器を持ち、相手を全滅させようと、気持ちが既に負けている戦はいくらでもあります。「今、生きていることは運であって、実力ではない」ことは、とうに悟っているのが戦士というものです。
日本でも戦国時代の武士たちは、同様な心理状態に置かれていました。戦国武将の武田信玄や上杉謙信が敬われるのは、そういう悟りを開いた武将たちだからです。
徳川家康は、三方原の合戦で、武田軍に惨敗して浜松城に逃げ帰りました。そのときの姿を、すぐに絵師を呼んで描かせています。そこには、頬がこけ、目の落ちくぼんだ悲惨な姿がありました。家康は、その絵を生涯大切にしていたといいます。なぜなら、「武田信玄と真っ向勝負で戦った己の誇り」がそこにあるからです。戦場で生死を超越して戦う武将が、敵の大将を敬い、敗れても誇りに思える武将としての精神は、哲学的で、まさに悟りの境地だと思います。だからこそ、戦場で戦う戦士たちは、「正々堂々」と正義の旗を掲げて戦いたいのです。
安全地帯に身を置いて、頭だけで考えているような人間には、戦士の心理というものは、到底理解できないものなのでしょう。
戦後、日本軍の特攻作戦を「無駄な作戦で、若い兵を犬死にさせた!」と批判する風潮がありますが、アメリカの海軍兵にとって、連日のように、自分に向かって飛行機諸共に突っ込んで来る戦場に身を置いて、平気でいられるはずがありません。人は、人と戦っているから、まだ、正気を保てるのかも知れませんが、人の顔も見えず高速で飛来する「カミカゼ」は、まさに「悪魔の化身」のように見えたに違いありません。特に、艦隊の輪形陣の外にいる駆逐艦の乗員などは、船体構造が弱いため、特攻機一機が命中すれば、そのまま轟沈してしまいます。
特攻機が来るときになる警報音、そして上空に弾幕を張るための射撃音、そして特攻機が飛んでくるエンジン音。そして、艦内では命令が拡声器を通して飛び交い、次々と襲ってくる飛行機を撃ち落とすのです。特攻機は、装備された機銃を撃ち続け、あわよくば、自分の乗っている艦に爆弾ともにぶつかろうと必死に操縦をしているのがわかります。数機が何度も分かれて飛来し、攻撃をかけてくるのです。その恐怖たるや尋常ではありません。
アメリカ軍は、特攻機による被害を殊更小さく発表し、アメリカ国民や兵士が動揺しないように努めましたが、乗艦している兵隊に与えた精神的ダメージは、計り知れないものがあったと、後に公表しています。そんな戦いを日本兵は四年近く続けていたのです。しかし、そんな戦いも、もう限界でした。
昭和天皇の使命は、自分が助かることではありません。「国体を護る」とは、自分自身を守ることではなく、日本という国の「歴史と大和民族」を守ることに他ならないのです。
昭和天皇だけは、最後まで冷静に戦争を見詰め、分析し、決断をされました。もし、この「聖断」がなければ、日本は、陸軍に引きずられ、本土決戦に突入し、数百万人の犠牲者を出したことでしょう。その後に、待ち受けるのは、ソ連による共産革命しかありません。
北海道は、ソ連軍によって占領され、場合によっては、東北地方北部までソ連軍の侵攻を受けることになったでしょう。そうなれば、戦争が終わっても分割統治は免れません。当然、国内の共産革命勢力のクーデターによって皇室は倒され、皇族の人々は亡命を余儀なくされたはずです。
そんな日本の未来が見えた今、昭和天皇の「ご聖断」が、如何に大きな意味を持つのか、わかって貰えたと思います。
第七章 復讐だけが目的だった東京裁判
GHQが行った日本の占領政策の中で、最悪な政策が、この「東京裁判」です。正式には、「極東国際軍事裁判」というのだそうですが、昭和21年5月3日から、昭和23年11月12日にかけて行われた、連合国軍が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のことです。
そもそも、戦争において「戦争犯罪」が行われたとすれば、国際法に基づく違法行為が証明されなければなりません。そして、それは、勝者や敗者も関係なく、平等に適応されなければ、裁判とは言えないのが、世界の常識です。これは、70年前も現在と同様の概念はありました。しかし、連合国軍は、その根拠が十分に示されないまま、形式上の裁判をもって、「報復」行為に及んだのです。
この裁判の杜撰さは、今でも話題になることが多いのですが、もし、法律学者や現職の裁判官などの法曹関係者で、この裁判が「正当な裁き」だと論理的に説明できる人がいるのなら、ぜひ、ご意見を賜りたいものだと思います。
国会でも、論争になりましたが、いわゆる東京裁判の「判決」を受け入れたと解釈するのか、「裁判」そのものを受け入れたとするかは、議論の分かれるところです。なにせ、一審制で、碌に調査もしないまま、当事者側の判事が、裁定を下すわけですから、そんなものは、だれが見ても、公平性が担保できるとは考えられません。時々、映画化やドラマ化もされますが、どんなに不都合な事実を隠しても、裁判官同士の論争やインドのパール判事の反論などを描くと、無理な裁判だということが、だれにでもわかってしまいます。
事実、アメリカの弁護士が、原子爆弾投下の是非を問うたときも、裁判長は審議を却下しています。「ここは、戦勝国の行為を裁く場ではない!」と言い放ち、戦争史最大の不法行為を話題にもしませんでした。
自分たちにとって都合の悪いことは無視し、日本にとって誤解されていることでも、現地の人間の証言さえあれば、有罪としていくわけですから、詳細を見ていかなくても、間違いなく無茶な報復裁判だったし、選ばれた各国の判事たちも困った表情をしていました。それでも、裁かなければならないとしたら、近代法制も結局は権力には逆らえないという結論になってしまいます。
それを百も承知の上で、命令したダグラス・マッカーサーという人物の人間性も問題にしなければなりません。
今なら、即、罷免されて然るべき人間ですが、アメリカ大統領も、国民を平気で欺くような人間たちですから、あまり批判もできなかったのでしょう。どんな時代でも、リーダーを選ぶということは、本当に難しいものです。しかし、民主主義国には、正当な選挙制度がありますので、国民がしっかり政治家を見て、投票行動をする必要がありそうです。
さて、当時の日本政府は、ポツダム宣言の趣旨に則り、この「裁判結果」を受け入れ、現在も政府として、当時の連合国に抗議を申し入れたことはありません。間違ってはいけないのは、この「裁判」自体を日本政府が受け入れたのではない、ということです。裁判そのものを受け入れてしまえば、こんな国際法にも則らない酷い裁判もある…と日本政府が認めることになり、これからの国内での裁判でも「あり得る」事例として扱われることになってしまうのです。たとえば、被告人の証言ひとつで有罪になったり、若しくは、加害者の自供だけで有罪になったりすれば、「証拠優先主義」が崩れます。そんな裁判が行われれば、司法の信頼は大きく揺らぎ、だれも判決を素直に受け入れることはないでしょう。それと同じことです。
この裁判においては、戦争を指導した政治家や職業軍人の他に、現地で犯罪を犯した疑いで、下級兵隊たちも裁き、約一千人が死刑の判決を受けて処刑されました。戦争指導者以外は、B級、C級に区分され、A級裁判と同じように証言ひとつで処刑されたのです。
例を挙げれば、戦争初頭に、マレー半島に上陸し、マッカーサーをフィリピンから追い出した本間雅晴中将や、シンガポールを攻略した山下奉文大将などは、真っ先に戦犯指名を受け、処刑されています。軍事裁判では、同じ死刑でも、本間中将は軍人としての名誉ある銃殺刑としましたが、山下大将には、それも与えられず、絞首刑としました。一部の人たちは、「マッカーサーをフィリピンから追い出した張本人である山下奉文がよほど憎かったのだろう」と噂したものです。
マッカーサーにしてみれば、祖父の代からフィリピンを統治し、富を蓄えていたのに、日本軍に追い出された積年の恨みは大きく、その恨みを軍事裁判という正義を裁く場で実行したのです。
東京裁判では、「バターン死の行進」とか「南京大虐殺」などと、ありもしない事件をでっち上げてまで、報復をするような、異常な裁判でした。そのために、今でも日本の学者の間では、論争が続いています。そもそも、論争が続いていること自体、怪しいと言わざるを得ないのですが、それらが明らかになるのは、後50年ほど経過し、各国の情報公開が進んだ時か、その当該国が崩壊した時だろうと思います。
もし、「多くの人々を日本軍が違法な方法で殺害した」と主張するなら、広島、長崎に落とした原子爆弾は何なのか。「明らかに、アメリカの爆撃機が原子爆弾を投下し、数十万人の命を一瞬にして奪ったではないか」ということを、声高に主張すべきです。その上、「日本の都市を無差別に焼夷弾で攻撃し、数十万人もの一般市民を焼き殺したではないか」といわなければなりません。
バターン事件や、南京事件を殊更に取り上げるのなら、国際会議の場で、きちんと証拠を取りそろえて、世界中に公開生中継で議論して貰いたいものです。そうすれば、こちらも、原爆と無差別爆撃の証拠を取り揃えて、反論させていただきたい。それが、アメリカの好きな「公正」という意味ではないのかとさえ思います。
大人げないことを言ってしまえばそれまでですが、東京裁判は、間違いなく「報復裁判」だということは、動かしがたい事実です。
インドのパール判事が、当時「日本無罪論」を主張した逸話は有名ですが、所詮、判事もその国を代表してきている以上、その国の意向に逆らってまで、信念を貫き通そう…などという人間はいなかったということです。その中で一人パール判事は、国際法の権威者として裁判官としての矜持を忘れることなく、歴史に真摯に向き合ってくれました。こうした外国人がいたことを、私たちは忘れてはなりません。
第八章 GHQの日本滅亡計画
連合国軍による日本占領は、昭和27年までの7年間続くことになりました。この期間、日本はGHQの指令の下に、これまでの制度を捨て、戦後の日本国として歩み出したのです。一番大きな改革は、天皇の地位に関することでした。
大日本帝国憲法が停止され、新しく日本国憲法が制定されましたが、これは、今でも改正論争が続いています。
政党の中には、「護憲」という言葉で、恰も「憲法改正」が悪いことのように叫ぶ政治家がいますが、時代に合わせて憲法が改正されるのは、当然のことです。
大日本帝国憲法も、昭和初期に改正すべきだったのです。
先に、旧憲法の欠陥をいうと、それは、やはり天皇の大権となる、「陸海軍の統帥権」問題に行き着きます。当時、貴族院議員を務めていた美濃部達吉博士は、「天皇機関説」を主張していました。これは、「たとえ天皇であっても、統治する権限は国家そのものにあり、天皇はその最高機関として、統治権を行使する権限をもつ者」という理論だったのですが、これを「不敬だ!」と一部政治家や軍人が騒ぎ出したのです。
旧憲法の三条には、「天皇は神聖にして侵すべからず」という条文がありますが、これを盾にとり「天皇は、現人神である」といった神がかり的な思想が広がっており、「天皇を機関とは何事だ!」と反対勢力に圧力をかけたのである。昭和天皇ご自身は、「私も機関であると思う」と解釈されていたが、軍や一部勢力にとっては、「天皇は神」である方が都合が良かったのです。これも明治維新の頃の薩摩や長州の陰謀が原因です。
徳川慶喜が大政を奉還したとき、御所の小御所で会議が開かれました。そこに慶喜の姿がありません。そこで、土佐の山内容堂が、会議の席で「ここに大政を奉還された徳川がいないのは、おかしいではないか。幼い帝をいいことに二三の公家が、政治を私する者共の陰謀ではないのか!」と岩倉具視を難詰したのです。そのとき、岩倉は、「天皇は英邁な君主であられるぞ。幼き帝とは不忠である!」と面罵して見せたのです。
天皇を、この「絶対的君主」に仕立て上げたことで、天皇を神の如く扱い、天皇の名を出せば、何でも通るといった風潮を生み出したのです。これは、けっして天皇ご自身の意思などではなく、新政府を創った者共の企みでもあったのです。もし、美濃部博士が主張したように、天皇機関説が通るような常識的な政治であれば、旧憲法もそれほど大きな問題を抱えなくても済んだのかも知れません。
「天皇は、国をも超える神聖な存在だ」となると、人間天皇に、万能の力を与えてしまうことになります。昭和天皇は、戦前から、「自分は他の人と違うところのない人間」であること、「天皇の地位が国の最高機関」であることは、当然のように考えていました。それを政争の具にして、論争をしたがために、一部の政治家や軍部の都合のいいように利用されてしまったのです。
これ以降、「天皇神聖論」が優位になり、本来、天皇を補佐しなければならない重臣たちの力が弱まり、「陛下がこう申された!」というようなデマが、勝手に拡散され、自分たちの都合の良い解釈をするようになったのです。
たとえば、特攻隊の報告が軍令部総長から昭和天皇に上奏されたとき、昭和天皇は、沈痛な表情を浮かべ、「そうまでしなければ、ならなかったのか…。しかし、よくやった」と、仰せになられたのが、この、最後の「よくやった」
が、一人歩きを始め、海軍の上層部は、天皇陛下に特攻を認めていただいた…と吹聴したのです。これを「上聞に達する」と言いました。しかし、昭和天皇にしてみれば、最初の、「そうまでしなければ、ならなかったのか?」という疑問が、先だったはずなのです。そうすれば、軍令部総長は、「申し訳ありません。作戦が至りませんでした」と、恐懼して下がるところが、最後に、戦死した将兵の心情を思い、「よくやった…」と、言ってしまったが故に、その発言を利用されてしまったのです。
昔の軍隊で、
「天皇陛下におかせられては…」みたいな、言葉が上官から発せられると、他の兵隊がみんな直立不動の姿勢をとり、恭しく拝聴するような形になったのも、この天皇機関説以降のことでした。そして、軍部のいう「統帥権」問題は、天皇の地位が神聖なものである以上、それを直接統括する大元帥陛下からの軍への命令も、「不可侵」であるという理屈が罷り通ったのです。 つまり、これも、「政府は、軍への口出しはするな!」という横暴極まりない理屈であったのです。そうなれば、軍の派兵も予算も、すべて天皇が命じなければならなくなり、政府の意向は無視しても構わないということになります。
これを軍部は、自分たちに都合がいいように、何かあると「統帥権干犯だ!」と騒いで、政治が軍をコントロールできなくなってしまいました。
これがために、日本の外交は、外国から「二重外交だ!」と、侮られる結果を招いたのです。だから、最後の「ご聖断」も、昭和天皇自らが下さなければ、また、「統帥権」を持ち出され、国が滅びることより、自分たちの政治的勝利の方が大切と考える思考に陥っていったのです。
しかし、こういった自己中心の思想の下が明治維新にあったとすれば、革命などによって国が栄えることはあり得ないことがわかります。結局、大日本帝国は、薩摩や長州が創り、その薩摩や長州の末裔が壊したのだと考えれば、皮肉なものです。
次に、GHQ作成の「日本国憲法」の問題があります。
そもそも、アメリカは、二度と日本が自分たちの敵となって復活することがないように、あらゆる手段を講じて、封じ込め作戦を行いました。
この日本国憲法は、「平和憲法」と言われるとおり、あの時代では到底あり得ない無理難題を押し付けた憲法でした。特に、指摘されているとおり、第九条の「戦力不保持」と「交戦権の放棄」は、国の憲法としては、致命的でさえあります。ところが、それが、なぜ、今現在も改正できないでいるのかといえば、よく言えば、「できすぎた憲法」だからだと思います。
GHQは、ほんの数週間で、これを完成させたというように、専門的な学者も入れず、素人同然の人間に、これを作らせました。つまり、作成手法としては、素人が故に専門的知識に拘らず、非常に斬新で、今でも、あり得ない内容が盛り込まれているということなのです。それは、憲法概論を学んだ程度の大学生が作成したゼミのレポートだとしたら、大変優れた憲法案として評価されたか、面白いが現実的ではないと否定されたかのどちらかでしょう。
作成に携わった人たちが、最近、テレビの番組で、日本のマスコミの取材に応じ、今でも改正されずに使われていると聞くと、皆一様に、「えっ、まだ、あの憲法を使っているの?」と驚いた様子で話していました。それくらい、まったくフリーに創られたようです。
それにしても、日本人は、言葉を上手に解釈して使い続けたものです。
もし、今、これを改正させるとなれば、相当地位の高い憲法学者や、有識者を集め、長い時間をかけて議論を尽くすことになるでしょう。それは、元号問題以上に難しく、日本の将来をも決める、重大事態になります。だから、その中に、大学生や専門家でもない人間を入れることなど、あり得ないのです。
しかし、もし、そんな若い力で憲法改正ができたとしたら、どうなるのでしょうか?。恐らくは、とても斬新で新しい内容が盛り込まれるはずです。それが、たとえ、無茶な部分があったとしても、もし、実現できたら、本当に日本に平和が訪れるかも知れないではないかとさえ思えます。だから、日本国憲法は、GHQによる「実験憲法」なのです。
学生のレポート作成のような感覚で作られた憲法だからこそ、現実離れした内容が盛り込まれ、世界を見ても、類い希なる特徴を持った憲法となったのです。当時のGHQの上層部の人間は、だれも、この憲法が効果的に運用されるとは、考えてもいなかったと思います。しかし、日本は、この憲法を上手に解釈して国の復興に役立ててきました。それは、国と国との騙しあいみたいなものでしょう。
アメリカは、日本が二度と国際社会の場に立てないようにしようと企みましたが、原子爆弾の効果もそんなには、長く続きませんでした。
ルーズベルト大統領は、自分の大統領の任期中の功績しか考えないエゴイストで、人種差別主義者でした。これは、大統領への悪口ではありません。事実だからです。明治から昭和の初期にかけて、世界中に植民地主義が蔓延し、それを是とする風潮がありました。その中で、エリートとして育てられた人々は、国や人を動かす特別な人間として見られ、その差別感は自然に醸成されていきました。そして、豊かな暮らしの中で、富は集めるもので分配するものではありませんでした。特別な人間が豊かになることを咎める人もいません。経済力とは、そういった一部のエリートが握るものなのです。
これを今の感覚で見ては、歴史を理解することはできないのです。そして、こういう人間は、単純で行動がわかりやすいものです。
性格は傲慢で、自分の利益のためなら、嘘など平気で吐ける図太い神経を持っています。本音と建前の使い分けが上手で、民衆の前に立つときと、プライバシーの時間では、まったく異なる性格にすら見えるものです。
建前では、「アメリカ青年を決して戦場には送らない!」と言いながらも、実際の政治となると、アメリカ人が何人死のうが、知ったことではないのです。まして、日本人や中国人などのアジアが、どうなろうと、利益が上がればそれで満足できる神経がありました。
自分の生きている間だけ、自分が幸せなら、それでいいのです。こうした傲慢さこそが、世界のリーダーに求められる資質でもあったのです。
この時代、ドイツのヒットラー、イギリスのチャーチル、イタリアのムッソリーニ、ソ連のスターリン、中国の蒋介石、毛沢東、そしてアメリカのルーズベルト。皆、よく似た性格の持ち主ばかりです。
だから、ルーズベルトは、共産主義者が上手く使えるとなれば、自分のブレーンにも起用し、ソ連の独裁者スターリンとも仲良くできたのです。
結果、自分の死後に、ソ連は牙を剥き、アメリカに挑戦してきたのではないですか…。
戦後の昭和25年に始まった朝鮮戦争は、ソ連に命じられた金日成が、南朝鮮の共産主義化を目指して侵略を始めたことがきっかけだといわれています。
当然、ソ連とアメリカの支援によって誕生した毛沢東率いる中華人民共和国の人民解放軍が、金日成に協力することは、目に見えていたはずです。
アメリカの保守層にしてみれば、ここに来て初めて、自分たちがルーズベルトに騙されたことに気づかされたのです。
日本を叩き潰せば、世界から侵略国家がなくなり、今度こそ、アメリカが中国に進出し大儲けできるはずでした。そのためならと信じ、大嫌いな共産主義者とも手を結び、多大な犠牲を払いながら、やっと戦争を終わらせてみれば、共産主義は、朝鮮にも、中国大陸にも、東南アジアにも、ヨーロッパにも蔓延していました。
「こんなはずじゃない!」そう叫んでみたものの、アメリカの利益になるものは、何もなかったのです。
アメリカ政府や議会は、慌てて共産主義者を追放する「レッド・パージ」に動いたのは、まさに、朝鮮戦争が起こった昭和25年のことでした。しかし、時既に遅く、日本は壊滅し、ドイツとの「防共協定」の壁もなくなっていました。アメリカは、単に第二次世界大戦に参戦しただけに終わり、ドイツを壊滅させても、残ったのはヨーロッパの都市の残骸だけでした。慌てて日本に再軍備をさせようにも、GHQによって、平和憲法が行き渡り、共産主義者も復活させており、どうにもならない状況になっていました。
思想犯として監獄にいた共産主義者は、GHQの庇護を受け、早速、ソ連の指示の下に政党を立ち上げ、労働組合と結託して、その勢力を拡大していったのです。
当時、アメリカ本国でも「どうも、我々の知らないことがたくさんあるようだ?」と、共産主義に警戒感を持つようになっていました。なぜなら、第二次世界大戦終戦後、原爆まで使用して「アメリカ絶対」を勝ち取ったと思っていたからです。枢軸国のドイツと日本さえいなくなれば、世界に平和が訪れ、アメリカは民主主義の理想を世界中に広め、その軍事力と経済力によって貿易を独占するはずだったのです。
しかし、それはとんでもない幻想でした。ルーズベルトの急死によって、突然大統領指名を受けたハリー・トルーマンは、引き継ぎもないまま、側近の言うがままに原爆投下に承認を与えてしまったのです。このことは、彼の最後までの後悔として残りました。そして、終戦後に落ち着いて周囲を見渡すと、政府内に共産主義者が蔓延っていたことに気づかされたのです。
その頃、日本でも、共産主義者によって支配されていたGHQは、昭和21年早々に「公職追放令」を出し、戦争に協力した政治家、元軍人、教師、学者、出版者などを公の仕事に就けないよう、社会から追放してしまいました。特に大学から、健全な思想の学者たちが追われたことで、共産主義のシンパとなっていた学者たちが、大学の要職に就いたのです。こうして、日本の学問の府は、共産主義革命に成功したと言っても良い状況になりました。
そんな混乱がアメリカでも日本でも起きている間に、スターリンのソビエト連邦が、アメリカに無理な要求を突き付けてきたのです。それは、昭和20年2月に、ソ連のスターリン、アメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチルが、ソ連のヤルタに集まり、密約を交わしたからでした。この頃、ルーズベルトは、脳障害を起こし、正常な判断ができるような状態ではなく、スターリンの意のままに一方的に約束が交わされたというのが、真相でした。今でも、世界地図のあちらこちらに直線的な国境線が引かれていますが、あのヤルタ会談で
勝手に引かれた国境線が生きているからです。こうして、各国の議会にも、国際連盟にも諮ることなく、戦勝国の独裁者三人で、世界地図を勝手に塗り替えてしまったのです。彼らにヒットラーやムッソリーニを責める資格があるのでしょうか。まして、日本人が、東条英機元総理大臣を責め続けるのは、大きな間違いだと思います。日本人が、その責任を追及しなければならないのは、この三人の独裁者だということを覚えておいて下さい。ただし、イギリスのチャーチルは、「この会談はまずい…」と、気がついたらしいのですが、既に、戦力を使い果たし、ソ連やアメリカの支援なしに立ちゆかなくなったイギリスが、この場で何か抗論する手立てはありませんでした。そもそも、この会談の席に来てしまった時点で、イギリス外交の汚点になりました。実は、チャーチルも、隣に座ったルーズベルトを見て、驚いたのです。こんな酷い重病人がアメリカの大統領として、こんな重要な会議に出てくるとは…、チャーチルは、このとき、自分がスターリンの罠に嵌まったことに気がつきました。しかし、時既に遅く、戦後の世界は、ここに定まったのです。
つまり、アメリカは、知らず知らずのうちに共産主義を認め、ソ連を手助けしたために、結局、最後の果実は、すべてスターリンの物になったという物語でした。確かに、原子爆弾の投下を命令したのは、トルーマンです。しかし、トルーマンのために弁明すれば、トルーマンは、何も知らされてはいませんでした。トルーマンが大統領に就任しても、彼ができることは何もなかったのです。唯一、自分の判断が許されたのが、「原子爆弾投下のサイン」でした。
トルーマンは、けっして無能な人間ではありませんでしたが、あまりにも情報を持たなすぎました。もし、正しい情報を得られれば、側近に唆されることなく政治家として、大統領として冷静に判断し、原子爆弾の承認書にサインすることはなかったと思います。
「もし、この凄まじい兵器を使用すれば、日本は、間違いなく降伏する」
「その上、世界を我が物にしようとするスターリンにも一泡吹かせることができる」
そして、一気に「ルーズベルトを超える大統領になれる」とでも考えたのでしょうか。そして、それを囁くソ連のエージェントが側にいたことが彼の不幸でした。しかし、原子爆弾は、アメリカの「永久なる力」とはなりませんでした。既にソ連は、原子爆弾の設計を始めており、日本への原子爆弾の投下後、4年で核実験に成功しました。これは一体、何を意味しているのでしょうか。
既に、ソ連の情報局は、ドイツの科学者を捕虜としてソ連に連行してきており、原子爆弾の秘密は暴露され、終戦前からソ連でも開発が始まっていたのです。したがって、スターリンは、アメリカの原爆投下のニュースを聞いて、ほくそ笑んだに違いありません。なぜなら、原爆投下の汚名は、アメリカ大統領が背負ってくれたからです。それに、もし、ソ連がアメリカの原子爆弾の存在を広島、長崎で初めて知ったのなら、わずか4年で完成できるはずがありません。日本でも理化学研究所の仁科芳雄博士たちによって原爆の理論は完成し、開発に向けて実験が行われていたのです。それでも、莫大な予算が必要となり、戦争中に完成させることは不可能でした。
ここでも、トルーマンとアメリカ国民は、ルーズベルトに欺されたのです。
結局、トルーマン大統領は、「世界初の原子爆弾を日本に落とした男」としてだけ、世界史に名を刻んでしまいました。
こうして見ていくと、あのルーズベルトという男が、如何に愚かで、アメリカと世界に混乱を巻き起こしたかがわかるというものです。それでも、アメリカ国民は、彼を「英雄」と崇めるのでしょうか。
アメリカ議会は、戦後、ルーズベルトの行った様々な政策が、国を裏切るものだと悟りましたが、欺されていた自分たちを非難することもできなかったのです。だから、アメリカ国民は、今でも、「原子爆弾が、アメリカを救った」
とか、「ルーズベルトは、戦争に勝利したアメリカの英雄だ」などという言葉を平気で口にするのでしょう。本当に気の毒なのは、アメリカ国民なのかも知れません。しかし、アメリカ議会は、動きました。
ホワイトハウスに残っていたルーズベルトの側近たちを逮捕し、公職から追放したり、裁判にかけて「国家反逆罪」の罪を問いました。しかし、既に強大になったソ連を初め、多くの共産主義国家と対峙しなければならなくなった事実は変わりませんでした。それが、長く続く「冷戦時代」の幕開けだったのです。
日本を7年間も統治し、一時は昭和天皇すらも下に見下した、マッカーサー元帥は、朝鮮戦争に勝利するために中国への原爆投下を意図し、アメリカ政府に承認を求めましたが、トルーマンはこれを却下し、マッカーサーを解任しました。日本では、逆らう者のない「独裁者」でしたが、帰国してもアメリカ国民の支持は得られず、一人静かに故郷に帰っていきました。
昭和26年5月、アメリカの上院議会に呼ばれたマッカーサーは、証言台に立ち「日本の戦争は、自衛のための戦争だった」と語りました。日本に来日し、朝鮮戦争を指揮して始めて、日本がアジアで共産主義と戦っていたことを理解したのです。アメリカ人は、日本の置かれていた立場も知らず、自国の利益だけで日本を眺め、自分たちで日本人を差別し憎悪しただけのことだったのです。
しかし、このマッカーサー証言が、アメリカや日本で公式に発表されることはありませんでした。マッカーサーは、もう既に、アメリカにも必要のない人間になっていたのです。彼は議場での証言の最後に、ただひと言、「老兵は消え去るのみ」という言葉を残しました。
昭和天皇は、マッカーサーが離日する際、GHQ司令部から見送りの要請がありましたが、一切、何のコメントも送りませんでした。また、戦後、アメリカを公式訪問した際、マッカーサー夫人が故郷のバージニア州ノーフォーク市にある「マッカーサー記念館」に立ち寄って欲しいという依頼をしましたが、近くまで来ていたにも関わらず、足を運ぶことはありませんでした。
昭和天皇にも、マッカーサーという人物がわかっていたのでしょう。
こうして、自分たちの愚かな政策に気がついたアメリカではありましたが、世界に対して、一切の謝罪も弁明もなかったために、アメリカが変わったという認識を各国が持つことはありませんでした。
朝鮮戦争をきっかけに、それまでの方針を180度転換したアメリカ政府は、日本に再軍備を求めましたが、自分たちの部下が作った憲法を「改正しろ!」とまでは言えませんでした。こうなることが予想されていたら、占領政策も違うものになっていたことでしょう。
日本国憲法が、昭和21年11月3日に公布されてから、僅か、4年足らずで「これは無効」だとは、さすがのGHQも恥ずかしくて言えなかったのです。
時の総理大臣だった吉田茂たちは、GHQが、これまでの方針を一気に変えたことは、当然、気がついていました。GHQ内の共産主義のシンパだと思われる人物が、次々と更迭されていくわけですから、アメリカに政変が起こったことは、わかりました。しかし、吉田は、すぐに憲法改正を言わず、このアメリカ製の理想憲法を利用しようと考えたのです。
「おまえたちが、作った憲法じゃないか。何を今更、再軍備などできるはずがない。日本は、経済優先でやらせて貰うよ」と言うのが、アメリカへの回答でした。そうなると、アメリカも戦争直後は、日本を叩き潰し、核兵器の力を持って、世界に君臨するはずが、あっという間に、梯子を外されたのです。そう言われれば、GHQ司令部も二の句がつけません。失敗を認めれば、占領政策そのものを否定することになります。それは、戦勝国としてのプライドが許しませんでした。それでも、日本はアメリカの要請を受ける形で「自衛隊」という強力な軍事力を持つことになりました。
吉田も古くからの外交官です。軍備のない国が存在できないことは、百も承知している政治家でした。しかし、たとえ敗戦国とはいえ、政治は政治として考えなければなりません。それが占領されている国であっても、国民の幸福を願わなければ、政治家とは言えないのです。
政治家や外交官に大切なのは、「交渉力」です。正々堂々とぶつかることもありますが、「白を黒」と言いくるめることも交渉術だということを、吉田はよく知っていました。
自衛隊は創りましたが、これを消耗させないために、「専守防衛」をベースとしたのです。これは、戦前の日本のように、軍拡競争に巻き込まれないための方便でした。今、再軍備を始めれば、確かに防衛力は増し、独立国としての威信を保つことができます。しかし、日本全国が廃墟となった今、途方もない軍事費にかける予算はありません。だからこそ、憲法を盾として「経済優先」を主張したのです。これなら、近隣国からの反発も少なく、世界の脅威にはありません。「再軍備は、経済が十分整ってからのことだ」と考えていました。
そういう意味で、「日米安全保障条約」は、自衛隊ともうひとつの日本防衛の要となったのです。
こうした二重構造の防衛システムがあれば、近隣諸国も易々と日本を手を出すことができません。それに、「日本は、独立してもアメリカの庇護の下にあるぞ」という脅しにもなります。今、日本はアメリカという強大な国の庇護を必要としていたのです。
万が一、日本に危機が生じれば、日本政府お得意の「超法規的措置」で、「非常事態宣言」を出せばいいのです。そうすれば、自衛隊に超法規的措置に基づいて、現地指揮官の判断による敵攻撃も可能となります。それに、日本に敵国からのミサイル攻撃が行われている最中、国会で議論を求めるような、間抜けな政治家はいないでしょう。国民の支持を得られない発言や行動は、民主主義国ではあり得ないからです。
そうなれば、アメリカから矢継ぎ早に、日本政府に「自衛隊との共同攻撃」が打診されるはずです。もし、日本政府がこれを拒否すれば、日本国民が次々と敵の攻撃に無防備に晒され、何万人もの犠牲者を出すことになります。
国民を守ることなく、憲法を守る選択をした政治家は「国賊」です。
おそらく、戦いの終了後、二度と日本の土を踏むことができなくなるのは明らかなのです。したがって、それを容認できる国民も政治家もいないことになるのです。
そういえば、平成7年1月に起きた「阪神淡路大震災」に対して、自衛隊の出動が遅れたことで、非難の声が挙がりましたが、あのとき、自衛隊からの出動要請に「ゴーサイン」を出したのが、兵庫県庁の係長だったという噂を聞いたことがあります。当時は、社会党政権だったこともあり、多くの政治家が自衛隊を要請することに躊躇う空気感がありました。真実はわかりませんが、自衛隊が独自の判断で出動できていれば、助かる命はもっと多かったかも知れないのです。また、平成23年3月の「東日本大震災」のときは、民主党政権でした。
あのときこそ、「非常事態宣言」を出して、自衛隊や消防、警察などの緊急車両を優先的に活動できるように指示すればよかった…と、今でも言われています。
今となれば、吉田茂の計略も理解できます。しかし、その後の国のリーダーが吉田の願いを実現することなく、マスコミ等の批判を恐れて小さくなっているようでは、国のリーダーとは言えません。いつの日か、果敢に行動し、決断できるリーダーが日本には、求められているのです。
とにかく、こうして、GHQによる「日本滅亡計画」は、5年で頓挫しました。日本にとって、「天佑」という奇跡であったのかも知れません。しかし、昭和天皇は、最後まで動じることなく、象徴天皇になられても、国家元首としての威厳はそのままでした。
結局、どの国でも、国民が選んだ政治家が、必ずしも、正しい判断を下せるわけではないということです。
あのルーズベルトのような、冷徹な心を持った人間が、絶大な権力を握り、偏見に基づいた政治を行えば、世界が混乱し、いくつもの国が消滅する危険性があったということを、ぜひ、教訓としていただきたいと思います。
第二次世界大戦における数千万人の犠牲者を生み出した責任は、そうした各国の傲慢なリーダーたちの資質にあったのです。
第九章 反省すべき明治維新
いつも世も、時の権力者によって歴史は作られます。
我々の身近な昭和という時代を考えたとき、「明治」という時代を考えてみなければなりません。そして、江戸から明治に移るときに、一体何があったのか、少し考えてみたいと思います。
私たちは、学校の勉強で、「明治維新によって日本は救われた」と教わりました。だから、維新で活躍した人たちを「志士」と呼び、出身地では「英雄」と崇められていますが、それは、ほとんど信仰に近いものがあります。
テレビドラマや小説の主人公になることも多く、彼らには、夢や理想があり、誇りがある。そして、何ものにも負けない不屈の闘志がある…というように描かれ、時のスターが演じるから、尚更、美化されていきます。これを何度も繰り返されれば、真実もそれに近いものだと思ってしまい、「洗脳」は始まっていくのです。
素直に見ると、明治維新は、革命を志した者たちによる「クーデター」です。そして、志士たちの多くは、維新が失敗に終われば、立派なテロリストとして裁かれる運命にあったのです。それが運良く成功したために、歴史上の英雄になることができました。
当時の政権を担ったのは、徳川幕府であることは常識ですが、それが、日本を代表する政府(行政機関)です。当然、諸外国は、幕府をとおして外交交渉を行い、正式な署名、捺印も幕府の代表者が行うことになります。こうした行政手続きがないまま、各地方行政機関が、単独で、諸外国と交渉をすることは許されないのが中央集権国家としての道理です。
今の日本で考えれば、理解も早いでしょう。外国との交渉権を持つのは、日本政府です。もし、これが、政府と対立しているからといって、大阪府や京都府が単独で外国と交渉し、条約を結んだとしたらどうなるでしょう。
まさか、こんなことはあり得ませんが、幕末の日本は、まさに多くの「藩」という地方政府(行政機関)が、勝手に外国と交渉し、日本全体を窮地に陥れたと見ることもできるのです。
日本の植民地化を狙っている外国(欧米先進国)にとって、小さな島国の、それも、もっと小さな政府が、日本政府を無視して、外交文書を交わすわけですから、日本政府や日本国が軽く見られても、やむを得ないでしょう。
たとえば、イギリスにとって、薩摩藩などは、偉そうなことを言っても、一万人規模の兵力と五隻の近代装備の軍艦でも送れば、数日で制圧できるはずです。それも薩摩藩は全滅、イギリス軍は軽微な損害で済むでしょう。それは、終戦間際の日本とアメリカのような力関係です。
その程度の、国とも呼べないほどの小国が、大英帝国と対等な交渉など、できるはずもないのです。テレビドラマでは、日本側から描くから、さもさも、対等に握手したかのように演じられますが、現実的ではありません。帝国主義とは、「実力主義」ということなのです。
幕末の志士たちが、「尊皇攘夷」の旗印の下に「天誅」と称して、京都で数々の暗殺事件を起こしました。あのとき、京都市民からしてみれば、血刀を下げた凶悪な犯罪者が、京都の町を自由に歩き回っているようなものです。
京都では聞いたこともない、訛りの強い方言で怒鳴り合い、昼間から酒を喰らい、金をよこせと強請り、気に入らなければ刀を抜いて脅す。京都の人にとって、志士だろうがテロリストだろうが、関係なく、恐ろしい侍集団です。
そのことで、よく「新選組」が引き合いに出されますが、新選組は、京都の治安を預かる警察組織であり、攘夷浪士たちとは、立場が違います。
その京都の治安にあたったのが、京都守護職、会津松平家でした。そして、その下で、京都所司代や新選組が実行組織として警邏していたのです。
つまり、京都市民の安全は、会津藩や新選組の双肩に委ねられていました。
それが、なぜか歴史上では「悪役」にされてしまっています。詳細は省きますが、なぜ、幕府は、そうまでして京都の治安を守らなければならなかったのか、冷静に考えてみれば、だれもが理解できるはずです。
京都には、天皇がおわします。
幕府(日本政府)が、朝廷の一機関であるのは、明白なのですから、国家元首(天皇)のいる政府を警察権、行政権、外交交渉権を委任された幕府が守るのは、当然の義務です。それが、勝手に「尊皇攘夷」を名乗って、朝廷の役人(官僚)や、幕府方の役人等を殺傷すれば、当然、指名手配され、逮捕されます。「尊皇攘夷」は、スローガンとしては、立派ですが、そんなイデオロギーだけで、外国との交渉に臨もうとすることの方が、無謀であり、国民の支持を得られるとは、到底思えません。
現代の人々は、江戸時代の日本が、法治国家であることを忘れているようです。武士は、すべての階級の最上位に立ちますが、何でも許される特権階級ではありません。たとえ、身分の低い町人であっても、これを殺傷すれば、厳しい尋問の上、それ相応の処罰を受けることになるのが当時の法律です。
現代のように、不祥事を起こし懲戒免職ともなれば、自分で切腹して自裁することあったでしょう。
親から受け継いだ家が改易(取り潰し)ともなれば、すべて藩から借りたものですから、その日から浪人者となり、親戚縁者からも見放され、路頭に迷うこともありました。それに、浪人は正確には「武士」ではないのです。身分を剥奪された「身分外の無宿者」と同様の扱いを受けることになっていました。ただ、武士の装束と刀を二本差すことは許されており、身分的には町人以下ということになります。したがって、浪人者が罪を犯せば、町奉行所の支配となり、牢獄も罪状も処分も町人とまったく同じです。元武士だからといって、切腹は許されません。こうした厳しい社会の中で、武士は、少ない禄を藩から頂戴して生きていたのです。
つまり、京都で暴れていた浪人者たちは、侍身分を離れた無宿者のテロリスト(凶悪犯)ということになります。もし、そういう人間が、藩に属していることがわかれば、その藩自体が、幕府から相応の処罰を受けることになったでしょう。よく、幕末もののドラマを見ていると、そういう人間が多く登場してきます。
有名な、坂本龍馬は、土佐藩の脱藩浪人です。「郷士」の彼らの土佐での身分差別は、同情に値しますが、それを行ったのは、幕府ではなく、土佐の領主山内家です。龍馬の恨む先は、幕府ではなく、山内家でしょう。
龍馬は、身分階級に属さない人間でしたから、自由に動き回ることができました。それに、龍馬は身分こそ低いが、才谷屋という裕福な商人の家の一族です。それ故、金銭的には恵まれていた男でした。その恵まれた環境を利用して、全国に人脈を作っていったのです。逆に、身分がないからこそ、高位の身分の者は、小者でも使うように、便利に利用できたともいえます。そして、龍馬を一番に利用したのが、イギリス政府から送り込まれたエージェントだったのです。イギリスにとって、日本は、まだ、植民地化していないアジア最後の島国でした。それも、日本には、豊富な金銀の資源もあるし、文化も高い。もし、この国を手中に収めることができれば、大英帝国の版図は、さらに拡大し、世界征服が完成するのです。
そこに飛び込んできたのが、坂本龍馬という得体の知れない男でした。イギリスにしてみれば、歴史も文化も風俗もわからない「ジャパン」という国で交渉しようにも、公式ルートでは埒があきません。そこは、下々に通じた人間が必要だったのです。おそらくは、イギリスの商人を装ったトーマス・グラバーが、龍馬の噂を聞きつけ、接触を図ったのでしょう。龍馬は、商売人の家に生まれた男らしく、商いに通じていました。その上、計算高い。損得勘定が上手く、交渉上手です。それに、封建的な国(土佐藩)の体制にも大いに不満を持っていました。こういう人間は、利に聡いものです。
トーマス・グラバーは、当然、龍馬たちから得た情報を本国に伝え、日本との交渉に役立てたことは明らかです。
武器弾薬、軍艦までも扱う商人を装いながら、だれを支援するのがイギリスの戦略に合うのか考えるのが、使命だったはずです。しかし、だからといって、グラバーが悪人だったわけではありません。イギリス政府から見れば、国家に忠誠を尽くす立派なイギリス紳士であったでしょうから、日本側から見た彼を非難することは間違っています。
ただし、彼は坂本龍馬という格好の日本人を見つけたことで、イギリスに貢献していたのです。もちろん、それは龍馬だけではないでしょう。幕府方にも、長州にも薩摩にも、そういったグラバーのようなイギリスのエージェントから息のかかった人間は多くいたはずです。
こうして、龍馬は、グラバーからの援助とイギリス政府の代理人としての顔を使って、維新の功労者となりました。
おそらくは、西郷隆盛も同じようなものだったはずです。
ただし、龍馬と異なり、西郷は、歴とした薩摩藩士です。そうなると、西郷が動ける範囲は限られてきます。薩摩藩主島津斉彬が、薩摩という日本の南端から見ていると、帝国主義の波が、間もなく日本に襲いかかることは、十分予見できました。斉彬は、凡庸な藩主ではありません。その証拠に、あの保守的な力の強い薩摩に洋式工場を造り、反射炉まで設けて、軍艦まで製造しようとは、恐ろしく先見性のある殿様だったことがわかります。外様大名でありながら、その人脈は広く、幕政にも口を出せる力を発揮していました。しかし、薩摩藩の保守層からしてみれば、これほど危うい殿様はいません。
まずは、金が湯水のように使われていきました。元々、薩摩藩は、他藩に比べて武士階級の者が多いのです。関ヶ原の戦いで敵中突破した話は有名ですが、時局を見る目は乏しく、「薩摩隼人」としての戦闘能力だけが他藩に比べても突出していました。それだけに軍団としての絆は強固で、戦国武士の気風を持っていた特殊なお国柄でした。
武士たちは、西郷家のように、家禄が低い者が多く、そのほとんどは、農村に暮らし普段は、武士と言うより農民に近かったのです。そうでもしなければ、あの軍団を維持することはできなかったでしょう。
西郷は、斉彬にその能力を買われ、各藩の動向を調べたり、斉彬の命を受けて単独で行動できる権限を持たされていました。所謂、藩主直属のスパイです。藩主のエージェント(代理人)の役目をどの程度持たされていたかは、わかりませんが、他藩の藩主とも面談をしていますので、「薩摩藩といたしましては…」といった藩主代理の任も任されていたことが想像できます。
それ故、他藩との交流も、薩摩藩の名を使って自由にできたとも言えるのです。
その西郷を操ったのも、イギリスでした。西郷の場合は、龍馬と違い、操られたというよりは、西郷もイギリスを上手に利用したとも言えます。
薩英戦争で、イギリス艦隊を撃退した薩摩藩は、街が焼かれたとはいえ、侍の誇りは高まりました。そんな薩摩藩だからこそ、イギリス政府は、これを懐柔し、戦略に取り込んだのでしょう。
有名な「薩長同盟」を結ばせたのも、イギリスです。イギリスが表には出られないからこそ、坂本龍馬のような自由に動き回れる男が必要だったのです。
もちろん、龍馬が、薩摩と長州が手を結んだ席に、第三者として同席していたことは事実です。しかし、龍馬の説得で、両藩が動いたわけではありません。両藩ともに、イギリスの支援が欲しくて妥協した同盟だったのです。しかし、この薩長同盟によって、倒幕へと一気に時勢が傾くのですから、龍馬の役割は大きかったと言えそうです。
その頃、イギリスには、薩摩からも長州からも留学生を派遣していました。もちろん、裏の留学生です。
イギリスは、既にフランスについた幕府の体制を転覆させようと、動いていました。彼ら留学生をイギリス本国で面倒をみることで、彼らに恩を売り、資金を援助し、イギリスのエージェントとして教育して、帰国させたのです。
彼ら留学生が帰国すれば、世界を見てきた侍として、優遇されることは目に見えています。その上、イギリス政府からの「密書」を託すこともできます。そして、これが、倒幕に利用されたのです。なぜなら、薩摩や長州には、1600年の「関ヶ原の戦」の恨みが、ずっと続いていたからです。「いつかは、先祖の恨みを晴らしたい」という願望は、その国に生まれた人間なら、だれでも持っている感情です。それに、武士というものは、諦めがとにかく悪い種類の人たちでした。「親の仇は、生涯かけて果たすもの」という教えは、武士たちの精神の支柱でもあったのです。「仇討ち」には、赦免状が必要でしたが、仇が生きている以上、執念で探し出し、仇を討たなければ国に戻ることも許されなかった時代です。「水に流す」などということが、できるはずもありません。したがって、関ヶ原の敗者の恨みが、300年程度で消えるはずもないのです。
この幕末の動乱は、千載一遇のチャンスと捉えた武士たちはたくさんいました。日本国がどうなるか…などという議論は、彼らにとっては小さな問題であって、徳川家を潰せるなら、「悪魔に魂を売っても構わない」くらいの気持ちがありました。もちろん、藩の中でも高位の武士たちは、そんな気分を憂い、「改易」の恐怖が先に立ちましたが、それに与する下級武士はいませんでした。いや、下級武士こそが、下克上を成し遂げるチャンス到来なのです。元々は、家柄も由緒正しく、高い地位に就くことも夢ではなかった武士が、たまたま運悪く廃絶してしまい、他家で下級の武士として生きなければならなかった者は多く、悶々とした生活を送っていたのです。
こうした武士たちの怨念が、徳川幕府に向けられ、自分勝手な「積年の恨み」を倒幕という形で実行しようとしたのです。
それに、イギリスは乗じました。
京都守護職の会津松平家が、必要以上に憎まれたのは、その300年の恨みを晴らす行動を阻止しようとしたからです。彼らには、理屈は通りません。
自分を今の境遇に追いやった徳川家が単純に憎いのです。理由の如何を問わず、先祖の恨みを晴らしたいのです。そのためなら、「テロだろうが何でもやってやる!」というのが、彼らの主張であって、彼らに法や理は通りませんでした。だから、それを邪魔する会津藩は、徳川本家以上に憎しみの対象となっていったのです。
要するに、明治維新のエネルギーは、そんな歪んだ感情から生まれたものであって、彼らが主張した「尊皇攘夷」や「草莽崛起」などの言葉は、知恵のある学者が、後付けで言っただけのことであり、彼らに日本の未来像など描けるはずもなかったのです。だからこそ「尊皇」と言いながら、一方で、天皇を「玉」と平気で呼べる神経があったのでしょう。彼らにとって遠い存在でしかなかった「天皇」を意識したことは、生まれてこの方一度もありませんでした。当然です。主君は「藩主」であり、公儀は「徳川幕府」なのですから、朝廷を意識しなくても、暮らしには何も困ることもなく、朝廷や天皇の影響を受けることなど、ありはしないのです。ただ、幕末になって藩の学者が、国学や水戸学などを講義して、初めてその存在を知ったのです。そんな武士たちが、天皇を「玉」と呼ぶのも、無知故の発言だと思えば、仕方のないことなのです。だから、彼らは真の「勤皇」ではありません。
会津藩の松平容保が、「会津にこそ、本当で勤王があった!」と主張し、孝明天皇のご宸翰を死ぬまで肌身離さず、自分の手元に保管していたのは、孝明天皇が、そこまで容保を信頼していたことを実感していたからです。会津は、真の勤王であったからこそ、似非勤王を語る者共に、滅ぼされてしまいました。誠実で生真面目であるが故の悲劇でした。
こうして、本音と建前を使い分ける政治力が薩摩や長州にはあり、それほど、徳川家に恨みを持たない諸藩は日和見を決め込み、イギリスが薩摩や長州に肩入れしたとわかると、雪崩を打って、味方についただけのことでした。
どこの藩でも、生き残らなければなりません。「お家を守る」ことこそ、武士の務めですから、正義がどこにあろうと、お家を守れさせすれば、悪魔にでも魂を売るのが、武士という身分の悲しさでもありました。
水戸藩のように、徳川家の主筋でありながら、尊皇に傾いたのは、徳川光圀の「大日本史」の編纂事業に、その原因がありました。黄門様と呼ばれた光圀が編纂を始めた「大日本史」では、「日本は、天照大御神を皇祖神とし、代々その子孫が天皇として日本国を治めた」ことが明らかにされていました。そして、「征夷大将軍職は、天皇の名によって与えられた職名であり、幕府を開設して実際の政治、外交を委任した」ことが書かれていました。つまり、征夷大将軍が日本の主ではなく、天皇こそが、日本の元首だということを水戸藩によって知らしめられたのです。これを「水戸学」と呼び、当時の尊皇派の武士たちのバイブルとなっていました。
今では、常識に入る内容なのですが、300年も幕藩体制が続くと、自分たちの国の主が、だれだかわからなくなってしまうものらしいのです。そこで、この「大日本史」を読めば、当然、天照大御神の子孫である「天皇」が正当な主であることは、子供にもわかる理屈だったのです。
幕府は、その「正当な政府」である朝廷から、征夷大将軍職と相応の位を頂戴し、朝廷に代わって政治を執り行うだけの機関でしかないことが、広く宣伝されました。そうなると、幕府の権威は薄れ、「なんだ、それじゃあ俺たちと同じじゃないか!」という理屈が成り立つのです。この理屈があるからこそ、水戸藩は、大きく割れました。
水戸藩は、徳川家親藩の中でも特殊な藩でした。まずは、家格ですが、紀州や尾張徳川家が「大納言」に対して、水戸は「中納言」で、一段低い官位を与えられています。石高も水戸藩35万石に対して、紀州藩55万石、尾張藩61万石
でした。その代わり、水戸藩は「江戸定府」で、参勤交代が免じられています。将軍職は出せませんが、「副将軍」格として幕閣に物を申す特別な待遇が与えられていたといいます。特に徳川光圀や徳川斉昭などは、その典型でした。それだけではありません。水戸藩は、朝廷と非常に強い結びつきがあり、藩主の妻を有力公家や皇室から貰う例が多く、家康は水戸家に「万が一の時は、帝を守れ!」と命じたという説があります。そのため、光圀が始めた「大日本史」も勤皇の志の高い日本史書となっているのです。また、幕末には、幕府が勝手に開国の条約を結んでことで、孝明天皇が水戸家に幕政改革の「密勅」を送られたといわれています。これが、水戸藩混乱の元となり、藩士たちは、保守派の「諸生党」と攘夷派の「天狗党」に分裂し、私闘を繰り広げる結果となってしまいました。そのため、水戸藩からは、明治新政府に送れる有力な藩士がいなかったと言われています。
水戸徳川家は、徳川家の主筋でありながら、尊皇でなければならない運命にあり、朝廷が薩摩や長州と共に倒幕に立ち上げるとなれば、理屈上は、大日本史にあるように、正当な政府につくべきなのですが、同じ一族を滅ぼす側に立つことは、「武士道」としては「不忠」となります。この矛盾と葛藤の末、水戸藩は、維新を迎える前に崩壊してしまったのです。
西郷は、あの時代、唯一の革命家だったように思います。西郷は、薩摩人らしく、熱い情のある男ですが、非常に冷徹な一面も併せて持っていました。それは、西郷自身の苛烈な人生経験がそうさせたのかも知れません。
倒幕がなるや否や、理屈を抜きにして、その矛先を会津藩や長岡藩に向けました。西郷にしてみれば、簡単に革命を終わらせてはならなかったのです。最後まで抵抗する勢力は、殲滅しなければならないと考えていました。
西郷は、革命には「血が必要だ!」と考えていた節があり、おそらくは、外国の革命を勉強していたのでしょう。フランスのナポレオンに心酔していたと言いますから、フランス革命などを勉強し、徹底的に王政を破壊しなければ、革命は覆されると考えても、不思議ではありません。
結局、西郷は、最後まで革命家であり、革命家は革命家らしく死ぬことが必要だと考えていたようです。そのために、国造りは大久保利通に任せ、革命家西郷隆盛は、すべての矛盾を抱え込んで、新しい時代に不要となった薩摩武士団と共に、消えていったのです。まさに、英雄らしい最期でした。しかし、維新の生け贄となった会津藩や長岡藩は、勤王でありながら、革命軍から徹底して国土を蹂躙され、その悲劇は、恨みとなって後生に残されたのです。
こうしたクーデターが、成功したのもイギリスの大きな援助のお陰でした。
フランスは、幕府側につきましたが、当時の大英帝国の力は大きく、アメリカもフランスも、日本に大きな影響を及ぼすことはできませんでした。
最後の将軍だった徳川慶喜は、鳥羽伏見の戦いで、戦場に「錦の御旗」が掲げられたとき、すべてを悟ったのだと思います。「このまま戦いを続ければ、徳川家だけでなく日本が滅ぶ…」そう思った瞬間、慶喜は脱兎の如く大坂城を逃げ出し、江戸に戻るや否や謹慎生活に入ってしまいました。幕府方にしてみれば、総大将が戦う意思を示さないのですから、どうしようもありません。支援していたフランスも手を引かざるを得ませんでした。それより、イギリスに出て来られれば、フランスも全面対決するわけには、いかなかったのです。
幕府の主戦派の旗本・御家人たちは、納得できませんでしたが、「引き時」を見極めた慶喜の決断が、未来の日本を救ったのです。
そんな混乱の中で、もう一人、未来の日本を見据えていた大名がありました。それは、佐倉藩主堀田正睦です。おそらく、余程の歴史好きでなければ、
この名を知ることはないでしょう。そして、知っている人も、優柔不断で大老井伊直弼に罷免された老中…という程度の認識しかないと思います。しかし、彼の努力なくして、「開国後の日本」を語ることはできません。
堀田家は、房州佐倉に領地を持つ、譜代大名を代表する家柄であり、徳川家の側近として大老や老中を出せる名家でした。譜代でありながら、11万石の家格を持ち、佐倉を拠点とした北総地域と山形の鶴岡周辺に領地がありました。
要は、房総の要として佐倉に城を築き、房総半島を北上しようとする敵軍を阻む「江戸の守護」が主な任務だったのです。その佐倉堀田家が、なぜ、明治時代に登場してくるのでしょう。
正睦は、老中職を二度務め、安政3年には「外国事務取扱」を兼務しています。幼少の頃より世界を学び、藩主になってからも、外国の知識を得ることに余念がありませんでした。若い頃から老中職に抜擢されたのも、その豊富な外国の知識を買われてのことでした。大老となった井伊直弼とは、五歳下の年齢になりますが、家督を相続したのは正睦の方が20年以上早く、直弼が彦根藩の家督を継いだ頃には、既に幕府の老中職を務めていました。年齢は近くとも幕府内でのキャリアは正睦が抜群に長く、彦根(井伊家)と佐倉(堀田家)の関係もあり、ライバルというよりは同志に近い関係だったといわれています。
それが井伊直弼が大老となると、正睦は日米通商条約締結の勅許問題で責任をとり、老中職を罷免されてしまいました。その頃、十五代将軍職の継承問題もあり、井伊直弼とは、そのまま別れることになってしまいました。直弼は、正睦の外国掛としての教養を高く評価しており、再登用の機会をうかがっていたとも言われています。
正睦は、幕府の中でも積極的な開国論者で、早い段階から、日本の「貿易立国」を主張していました。諸大名たちからは「蘭癖」と呼ばれ、特に水戸の徳川斉昭には嫌われていましたが、その幅広い教養と知識は、他の大名を圧倒し、幕閣の旗本たちにも負けない情報を持っていました。
「蘭癖」などと書くと、偏った西洋主義者のように見えるかも知れませんが、幕末期の幕府は、そんな悠長なことを言っているような状況ではなかったのです。明治以降、徳川幕府の政治を否定したい人たちによって、幕府老中や幕閣の旗本たちを「時代遅れ」と蔑む傾向にありますが、それは大きな間違いです。幕府の中枢には、長崎をとおして欧米の情報が逐一入ってきていました。薩摩藩が密貿易等をとおして情報を得ていたのと違い、幕府には、中国(清)、オランダ、朝鮮などからも情報がもたらされ、正睦は「外国事務取扱」として、外国からの情報を一元管理する大臣職でもあったのです。だからこそ、他の武士たちには見えない未来の日本が見えていたのかも知れません。
そして、正睦は、領地である佐倉で、着々と開国に向けた準備を進めていたのです。正睦は、明治を迎える約30年前の天保4年から「日本の開国」に向けた藩政改革に着手し、正睦の死後も後を継いだ正倫によって、改革は続いたのでした。
維新というと、西国諸藩が中心となったため、幕府方に注目が集まることはありませんでしたが、元佐倉藩士たちの開国後の活躍は、目を見張るものがあったのです。
正睦は、藩政改革に異を唱える者共を排すると、藩校「成徳書院」を充実させ、藩士たちの徹底的に西洋学を学ばせました。そして、同時にフランス式に軍制を改革したのです。関東諸藩で、完全な洋式軍隊を揃えていたのは、佐倉藩くらいなものでしょう。
正睦は、藩士木村軍太郎らを佐久間象山塾や高島秋帆塾に派遣し、西洋軍学を学ばせました。特に軍太郎は優秀で、佐倉藩の兵制改革を一人で担った人物です。そして、木村は吉田松陰とも同門となり、お互いに切磋琢磨した時代があったのです。
正睦は、藩政改革にあたり、今でいう「個性教育」を重視しました。それは、藩士たちの意欲を喚起するものでした。これは、正睦の師である儒学者、渋井太室の教えによるものではありましたが、それを自分の藩政改革に生かして見せたのです。渋井は、
「学問の道とは、徳を成すこと、用を作すにあり。けっして、学術の深い、浅いのみを考えることではない。舌を振るい、唇を太鼓のように鳴らし、人と考えを言い争うような者を私は認めない。私は、平生、人材を育てることとは、農夫が野菜を養い育てることが如くであると考えている。野菜を育てることに、美は関係ない。たとえば、大根は、美味しく食べられることが大切であって、美しく形を整えることではない。野菜を育てる者は、その特長に合わせて、伸びようとする個性に従うのみである。私は、学ぼうとする学問に区別はないと考えている。人をして、その好むところに従って学び、その後、徳を成すこと、用を作すことが大切なのである。私は、常に、野菜を養う者でありたい」
正睦は、この渋井太室の教えに従って藩士を教育し、開国後の日本もそうありたいと願ったのでした。この教育論は、当時としても先進的な考え方で、個性教育の先駆けでもありました。
若い藩士たちは、武士とは言っても、必ずしも武道だけが得意とは限りません。武道より、算術が好きな者もいます。絵を描くことが好きな者もいます。武道は武士としての嗜みかも知れませんが、その人間の能力はだれも決めることができないのです。正睦は、
「自分の長所を究めよ。それを伸ばし、国のために役立てよ。好きなことを磨け。その分野は、何でも構わぬ!」
「己の能力や個性を見極め、必死になって勉学に励め!」
と、藩主自らが「蘭癖」であることを誇りにするように、藩士たちに、その道を究めることを望み、それを「誇り」とするよう、諭したのでした。
また、一方、藩政改革のシンボルになる人物を江戸から佐倉に招き入れました。それは、江戸の西洋外科医として高名だった佐藤泰然です。泰然を佐倉に招き、医学塾「順天堂」を開かせたのです。時の老中、水野忠邦の「天保の改革」は、財政の引き締めと新田開発が主な改革でしたが、思うような成果を挙げることはできませんでした。その上「蘭学」を厳しく取り締まり、高野長英ら、一流の蘭学者を弾圧するなど、西洋学を異端視した政策が採られるようになっていたのです。それは、「西洋の学問などを学ぶから、幕政を批判するようになるのだ!」という、偏見から来るものでした。
そこで正睦は、佐藤泰然を助ける意味もあって、佐倉に招いたのでした。
もちろん、それに異論を挟む家臣もいましたが、譜代筆頭の家格があり、老中職を務める堀田正睦に面と向かって異を唱える者はいませんでした。江戸の町奉行風情では、手出しなどできるはずもなかったのです。当時、泰然は、高野長英などを匿い、身辺に危険が近づいていることを予測していました。それに、堀田正睦といえば「蘭癖大名」と呼ばれるくらい西洋かぶれの変人として知られていましたので、泰然もその招きに応じることにしたのです。
しかし、泰然は、堀田家の家臣となることを拒み、客分として医学塾、順天堂を開くことになりました。泰然は、「日本の遅れた医学を改革したい」という強い信念を持っていたのです。
泰然は、正睦と面会すると、「申し訳ありませんが、自由にやらせていただきたい」と申し入れました。正睦も泰然の人柄は、十分承知の上のことです。快く泰然の申し出を許可し、順天堂を開かせたのです。
開設に際してのすべての費用は、泰然が用意し、その経営に佐倉藩が口出しすることは一切ありませんでした。「順天堂」は、総合化された病院としての性格を持ち、塾では、全国から「西洋医学をびたい」と願う若者なら面接の上入門させると、最新の医学を学ばせたのです。それは、薩摩藩だろうが、会津藩だろうが区別をするようなことはありませんでした。能力があり、優秀な人間なら広く門戸を開いたのです。学んだ塾生は一千人を超えましたが、その多くは、その後、自分の出身地に戻り、地域の医療の発展に尽くすことになりました。それは、明治になって、大きな成果となって表れることになったのです。
実は、明治政府は、近代医療制度の整備には熱心ではありませんでした。政治や軍事、外交に手一杯で、国民となった人々の生活のことなど考えている暇もなかったのです。そこが、正睦の凄さでもありました。開国後、日本が近代国家として国際社会から認められるためには、政治や軍事、外交だけではだめなことを十分承知していたのです。一流国になるためには「豊かな文化」が必要なのです。その国の人々が幸せに暮らしていくためには、何気ない日常の中の「安心」が必要であり、江戸文化のような教養も必要だと考えていました。それを「佐倉」がリードしようと、人材を育成していたのです。
正睦が予想していたとおり、明治政府には、「文化」を考える余裕などなく、形ばかりの「鹿鳴館」などを創り、西洋の真似をしただけで、外国人からは余計に侮られる結果を招いてしまいました。
医療制度も同じです。泰然は既に外国の医療制度も承知しており、その制度を真似て「順天堂」を総合病院化していたのです。今でいう、総合病院と大学病院を併せたような施設が、「順天堂」と言うことができます。
明治政府が手をつけずにいる間に、順天堂の医師たちによって、着々と日本の医療制度が整っていったのは、なんとも皮肉な結果でした。実は、明治政府は、医療より医学を重視し、「国際社会に日本人の優秀さを知らしめたい」と考えていたのです。しかし、順天堂の医師たちは、それを拒否しました。 「日本には、日本の人々を救う医療が必要だ!」として、全国各地に「医院」を開いていったのです。この順天堂の功績が、あまり世に知られることはありませんでしたが、今の日本の医療制度の基は、佐倉の順天堂にあったことを、日本人は、知っていてもいいのではないかと思うのです。
そんな佐倉藩の教育を受け、開国後の日本に貢献した人は、たくさんいました。日本道徳論を著した思想家、西村茂樹。順天堂大学医学部の創始者、佐藤尚中。日本工業の父西村勝三。洋画界の巨人浅井忠。日本人初のドクター佐藤進。新選組・徳川家茂の主治医、松本 順。日英同盟を締結した外交官林董。
日本近代農業の父、津田 仙。彼らは、皆、佐倉藩で学んだ武士たちです。
他にも、森鴎外の師依田学海。女子教育の母津田梅子。日本近代書道の父、香川松石など、明治維新以降、活躍した佐倉の人たちはきら星の如くでした。
明治を創った人は、何も新政府の人間ばかりではありません。武士階級の人間ばかりではなく、農民や町人からも新しい時代を担った人物は、多く輩出された時代でもあったのです。そういう人物たちの功績を後生の私たちは、忘れてはならないのです。
ところで、「開国」とは、一体何だったのでしょうか。歴史では、政治や戦争史が主で、文化史に目を向ける人は少ないと思いますが、文化面で民度の低い国が一流国の仲間入りをすることはできません。政治家や軍人として活躍した人は、確かに立派には違いありませんが、それだけで国が発展するはずもなく、国民の生活を豊かにしてこそ、本物の近代国家になれるのです。
堀田正睦という人物は、日本の百年後が見えていた類い希なリーダーでもあったのです。
結局、明治維新は、イギリスの支援を受けた薩摩や長州の手によって成し遂げられました。しかし、その成功を必要以上に輝かしいものとするために、徳川幕府の時代を徒に貶めたのも事実です。だから、未だに日本人の多くは、幕府の功績を認められないでいます。ここに、歴史の断絶があるのだと感じます。
明治政府は、クーデターで成立した政府です。そして、その底辺には、多くの不定浪人たちが蠢き、天皇をも欺し、際どい謀略の結果、やっとの思いで造った新政府なのです。もちろん、そんな明治政府の行った数々の政策が、間違っていたというつもりはありません。しかし、数多くの失敗があったことも事実として認めなければならないでしょう。そうでなければ、薩摩や長州が造った国が、わずか、80年足らずで崩壊するとは、あまりにも情けないではありませんか。
因みに、やはり革命によって成立したソビエト連邦も約70年で崩壊しました。所詮、革命で国を建てても、過去を断絶した国は、そう長くは保たないのかも知れません。中華人民共和国も、共産革命によって成立した国です。これも70年の年月が経過し、さて、後どのくらい保つのでしょうか。
「中国四千年の歴史」と言われますが、中国は王朝が何度も変わり、連綿として歴史がつながっているわけではありません。
日本は、皇室を戴いて、約二千七百年になろうとしています。さすがの明治維新も、皇室を軽んじはしましたが、朝廷を倒したり、自分たちが皇位に就こうとは、考えたこともないに違いありません。国とは、たとえ、権力闘争があったとしても、その歴史や文化を引き継ぐ国でなくてはならないのです。
そういう意味で、歴史の怨念だけで国を変革しても後に続く者はおらず、最後は、元に還る作用が働くのだろうと思います。
今の私たちの暮らしも、GHQによって変革された「敗戦革命」によって為された政治によって創られています。それが70年が経過し、あちらこちらに齟齬が生まれ、多くの矛盾を抱えています。戦後、GHQは、日本に「真の民主主義を教えるのだ」と日本の歴史や文化を顧みることなく、傲慢な態度で共産主義を解放し、アメリカ民主主義を教え込みました。彼らはそれが「絶対」正しいと信じていたからです。しかし、そのアメリカも経済が落ち込み、ソ連との冷戦に勝利したものの、中国の台頭を許し、未だに混迷から抜け出せずに藻掻いていでるではありませんか。要するに「絶対的な政治思想」などありはしないのです。
今の日本も、あらゆる制度が金属疲労し、歪みや軋みが見え始めました。そろそろ、まっすぐな目で日本の歴史や文化を見直し「正す」時が近づいて来ているのかも知れません。
第十章 特攻隊は「テロ」ではない
平成13年9月11日に起きた「アメリカ同時多発テロ事件」は、世界中を震撼させました。旅客機をハイジャックし、乗客を乗せた飛行機諸共高層ビルに突っ込むなど、正気の沙汰ではありません。この事件以降、日本の大東亜戦争末期に行った「特攻作戦」が、その原点であるかのような言い方をする人がいますが、同じ日本人として、よく、そんなことを平気で言えるものだと、驚く次第です。そもそも、目的が違います。
9・11のテロリストは、何の罪もない一般人を対象に、大量殺人を意図して、人質諸共、高層ビルに突っ込んだのです。しかし、大東亜戦争中の特攻隊は、完全武装し、何の罪もない一般人を殺戮しようとする敵の攻撃を阻止しようとして、脆弱な飛行機に爆弾を括り付け、搭乗員諸共軍艦に突っ込んだのです。
遠くから見た状況が似ているからといって、軽々に同質であるかのように、論じて貰っては困ります。
テロリストは、平和な時代に「悪意を持って無辜の民を殺戮しようとする犯罪者」を指す言葉ではないのでしょうか。大東亜戦争中の日本兵が、敵意を持って向かってくる敵兵に、敢然と向かって行く行為のどこが、テロと同じなのか、理論的に説明をして欲しいと思います。それでは、特攻隊員として戦死された兵士の遺族が気の毒です。そして、彼らは「英霊」として靖国神社に祀られているのです。同じ日本人が、それを深く考えもせずに口にするかと思うと、情けなくて仕方がありません。
日本の「特攻作戦」の始まりは、真珠湾攻撃時の五隻の「特殊潜航艇」にあります。それ以前にも「特攻」のような任務で戦死した英雄的行為はありましたが、それは、現地でやむを得ず判断した結果であり、「作戦」ではありませんでした。
この小型潜水艇は、大型潜水艦を母艦として、隠密裏に敵軍艦の停泊地に侵入し、頭部に取り付けた二本の魚雷によって、敵艦を攻撃しようとする兵器でした。しかし、昭和16年末において、既に特殊潜航艇の活躍する機会はなく、戦争は、この兵器を不要なものにしていたのです。それでも、当時の連合艦隊司令長官、山本五十六大将が許可したのは、搭乗員たちの熱意にほだされた以外には考えられません。
日本軍は、こうした「情」によって、作戦が決まられることが度々ありました。日本人が情緒的な思考を好むことは、承知していますが、「死」を伴う効果のない作戦を採用することが、本当に合理的なのか、考えて欲しいものです。
この特殊潜航艇を発進させるためには、五隻の大型潜水艦を使用しなければならず、その費用は莫大なものです。それに、それに乗り込む搭乗員は、何年もかけて養成した海軍の優秀な兵士だとすれば、もっと、効果的な使用方法があったはずなのです。そして、案の定、特殊潜航艇は、真珠湾口の防潜網に引っかかり、湾内に侵入することが叶わず、自沈したか、敵駆逐艦に発見され、沈められました。その上、座礁した特殊潜航艇の艇長がアメリカの捕虜となり、苦難の道を生きることとなったことは、本人の戦後の証言が明らかにしています。
海軍やマスコミは、この作戦を壮挙として全国紙に掲載して、国民の戦争熱を煽りましたが、新聞紙上に載せられた戦艦アリゾナ爆沈の記事は、特殊潜行艇の戦果ではなく、航空機による攻撃の戦果だったそうです。これには、機動部隊から不満の声が漏れたと聞きます。確かに「戦果の横取り」のようなもので、誤解というより、特別攻撃隊を宣伝に利用したかった海軍の思惑が見えます。そのとき、新聞紙上には、
「特別攻撃隊」の文字と「九軍神」の文字が躍り、真珠湾攻撃成功のニュースと共に、国民は、熱狂したのです。この話は、有名作家によって「海軍」という小説になり、映画化されると大ヒットとなりました。
それだけ、アメリカに虐げられてきた鬱憤が、ここにきて爆発したということなのでしょうが、この熱狂が、政府や軍当局の人間の冷静な判断をも狂わせたことは、間違いありません。たとえ、無謀な作戦であっても、「国民の支持を得られれば、戦争が継続できるのだ」と、甘い判断をしてしまったのです。
この「九軍神」に祭り上げられた兵士たちは、その意思に関わらず、軍人の鑑となり、「特攻」を容認する空気を作ってしまったのです。
本当は、この作戦は、やる必要のない作戦であり、やってはいけない作戦でした。この無謀な作戦を許可した、山本五十六の責任は大きいと言わざるを得ないのです。
海軍の指揮官たちは、このときから「必死作戦」が、いずれあり得ることを察知していたのではないでしょうか。その後も、作戦ではありませんが、自己犠牲に徹して、飛行機諸共自爆した航空兵や、味方を守るために敵艦に突っ込んで行った兵士は賞賛され、「軍神」として、新聞紙上を美辞麗句で飾ったのです。その上、「二階級特進」「金鵄勲章」まで貰えるとなれば、兵士たちの目の色は変わります。「どうせ、死ぬなら、英雄となって死にたい…」という感情が芽生えても、おかしくはありません。軍神とまではいかなくても、金鵄勲章が貰えれば、高額な年金が遺族に支給されることになるのです。
必死に戦っても、生きて捕虜にでもなってしまえば、末代まで、その汚名が残り、家族にも迷惑がかかることを、兵士たちは、みんな知っていました。だからこそ、生きることより死ぬことを選び、それも、英雄になる死を求めたのです。ここに、日本軍の致命的な欠陥がありました。
短期決戦なら、「美しく花と散る」思想は、あり得るでしょう。しかし、長期の持久戦となれば、「生き残った者」が勝者となるのです。潔く散ってしまえば、その補充がきかず、いずれは駒がなくなり敗北は必至です。そんな思考にならなかったのが、日本人だということです。想定のない戦をすると、あちらこちらに矛盾が吹き出てくる典型でした。
さて、航空機による特攻作戦は、唐突に始まりました。
昭和19年10月に、フィリピンで「捷一号作戦」が発動され、マッカーサー率いるレイテ島上陸軍を殲滅する作戦が始まりました。これが、日本海軍、最後の総力戦となったのです。
海軍は、このとき、航空母艦を囮に使い、戦艦大和、武蔵を中心とする艦隊の砲撃によって、アメリカ上陸軍の輸送船を悉く海の底に沈めてしまおうという大作戦を決行しようとしていました。この作戦は、連合艦隊にしてみれば、従来の発想を転換した奇抜な作戦で、これにより戦局の打開を狙っていたのです。そして、もし、これが失敗に終われば、もう海軍に残された戦力はありません。実は、この時点で、降伏を考えなければならないほどの重大な決戦だったのです。
名将と謳われた小沢治三郎中将率いる空母部隊は、日本に唯一残された正規空母「瑞鶴」以下四隻の航空母艦を揃え、機動部隊を編成していました。これを、なんと「囮」に使うとは、アメリカ軍でも考えない、画期的な運用だったのです。 空母「瑞鶴」といえば、真珠湾以来の海戦に武功を挙げた新鋭航空母艦です。それを敵を誘導するための「囮」にするには、小沢長官の強い意志が働いていました。小沢は、「ベテラン搭乗員がいない今、航空母艦だけがあっても用を為さない。それなら、最後の決戦に航空母艦を有効に使うべきだ!」と主張したのです。そして、小沢の意思を汲み、これを作戦として立案した参謀は、なかなかの知恵者だということがわかります。なぜなら、艦隊決戦のために作ってきた戦艦群を、輸送船撃滅に使おうとするのですから、平時なら勿体ない話で、軍令部からも反対の声が上がりました。しかし、冷静に考えれば、もうこの作戦しか戦局を挽回できる策はありませんでした。そして、「大和」「武蔵」という「日本が誇る二大巨大戦艦を沈めても構わない」という決断は、当時の豊田副武連合艦隊司令長官にしかできなかったでしょう。
この作戦を考えた参謀、そして、それを決断した小沢、豊田の二人の長官は本物の軍人であり、日本を救おうとした真の日本人でした。
後は、作戦を実施する現場指揮官の強い意思にかかっていたのです。
作戦は、予定どおりに進み、多くの軍艦を敵の飛行機に沈められながらも、大和と武蔵は、着実にレイテ湾に迫っていたのです。そして、突入前に、武蔵は敵の飛行機の攻撃によって沈みましたが、まだ、大和は健在でした。武蔵が敵の攻撃を一手に引き受けたため、大和には大きな被害を与えてはいませんでした。
囮の空母部隊を率いた小沢中将も、その任を全うし、ハルゼー提督率いるアメリカ機動部隊を北方に誘い出すことに成功していたのです。搭載した飛行機を全機攻撃に回すと、小沢は、ほっとしたかのように「後は、天佑に任せるのみだな…」と微笑みを浮かべました。そして、武勲艦瑞鶴は、フィリピンの海に沈んでいったのです。
栗田健男中将が率いる突入部隊は、もう、後は、がむしゃらにレイテ湾に突入し、その巨砲を撃つだけのところまで、艦隊を連れてきたのでした。しかし、なぜか、このレイテ湾突入作戦は、失敗に終わったのです。なぜなら、最後の最後に、レイテ湾を目の前にしながら、主力の第一遊撃部隊が反転してしまったからです。これを指揮していたのが、栗田健男中将でしたが、戦後、ことの真相を明かさないまま、栗田は一人静かにこの世を去りました。そのため、「栗田艦隊謎の反転」といわれ、「謎」は深まるばかりだったのです。
実は、最近になって、証言する元軍人が現れ、ようやく「謎の反転」の真実がわかってきました。それは、栗田艦隊の反転は、最初からの取り決めだったということです。
栗田中将が率いる第一遊撃部隊は、この戦いの主力部隊であり、戦艦大和、武蔵、長門を擁し、他にも重巡愛宕、高雄、鳥海、摩耶、妙高、羽黒、軽巡能代、そして、駆逐艦九隻を率いていていました。それが、このレイテ湾に辿り着くまでに、栗田艦隊は、戦艦武蔵を初め、愛宕、摩耶、高雄、妙高などが戦線を離脱、若しくは、海の底に沈められていたのです。
栗田健男中将は、魚雷戦の専門家であり、駆逐艦を率いて、敵艦隊に突入する訓練を専門的に受けてきた軍人でした。そのためか、近代の航空戦に対しては知識も理解も乏しく、このレイテ湾突入についても、艦隊決戦を夢見ていた海軍軍人としては、納得できなかったようでした。
栗田艦隊の司令部では、
「輸送船如きに、戦艦を使うなどとは、連合艦隊も何を考えているんだ!」
という不満の声が聞こえていたのです。しかし、制空権のない海上で、艦隊に何ができると言うのでしょうか。近視眼的な軍人には、未だに戦況の理解が不十分でした。それでも、連合艦隊から命令を受け、渋々それを受託しましたが、最後にひと言、確認をすることを忘れませんでした。それは、
「もし、敵主力艦隊と遭遇した場合、そちらと戦うことは許可していただけるか?」
という内容の質問だったようですが、そのとき、連合艦隊の担当参謀は、
「やむを得ない」
と、許可したと言うのです。
連合艦隊としてみれば、まず、あり得ない事態ですが、艦隊決戦を志向して作られた艦隊を、輸送船撃滅に向かわせるのは、本心としては、忸怩たる思いがあったが故に、そう答えたのでしょう。まして、階級上は上の人間からの質問です。そのくらいのサービスは、戦局に影響はしないだろうと、参謀は考えていました。しかし、それが、まさかこんなところで齟齬が生じるとは、神のみぞ知る皮肉です。
この「気持ちがわかる」という心情こそが、戦いには不要だということなのです。戦いの命令は、単純な方がいいのです。余計な忖度を入れると、現場では、自分の都合のいいように解釈することができます。
このレイテ湾突入作戦の場合、実は、偽電報が受信されたことになっているのです。
「栗田艦隊の北90キロメートルに敵大部隊あり…」
この電報を受けたのは、栗田艦隊の作戦参謀でした。発信は、南西方面艦隊司令部からということでしたが、そんなところに敵艦隊がいるとは、想定できません。艦隊司令部内でも疑問の声が上がりました。そして、それは、後に調べても、そんな事実はなかったのです。では、いったい、だれがそんな電文を打ったというのでしょうか。
電文を見せられた栗田は、幕僚たちと相談し、首を縦に振りました。その声は、同乗していた宇垣中将や大和艦長の森下少将には、聞こえませんでした。
すると、突然、栗田中将が命令を発したのです。
「これより、我が艦隊は、敵主力艦隊攻撃を目指して、反転する!」
それは、だれもが驚くの命令でした。
「なにっ、レイテに行くはずではないのか?」
「敵は、目前にいるのだぞ!」
同乗していた宇垣中将も再三、栗田に迫りましたが、指揮権を持つ栗田は、これを無視しました。同乗していた、他の乗組員からも非難の声が挙がりましたが、指揮権は栗田にあり、海軍の規則ではどうしようもありませんでした。 栗田艦隊の参謀長小柳少将は、平然と、
「敵が北方にいることが、わかった以上、これに向かうのは当然だ!」
と、言い放ち、だれの助言も聞かなかったそうです。
結局、今になって、あの通信文は、栗田の作戦参謀が書き、みんなに示した狂言だったということがわかりました。
その作戦参謀と「電文を見せろ!」と怒鳴り合ったことを大和の航海長が、後に証言しています。
その騒然とした雰囲気の中で、指揮官の栗田は、命令違反を犯す自分に対して、どのように思っていたのでしょうか。
艦隊の全員が、レイテ突入を念願し、ここまで多くの戦死者を出しながらも、もう一歩で「成功」が見えたそのとき、なぜ、嘘を吐いてまで敵前逃亡をしなければならなかったのか、栗田の心の闇は、未だに明かされはいません。
それは、ひょっとしたら、栗田個人の意思ではなく、栗田にも「そうせざるを得ない」圧力が事前に加えられていたのかも知れないのです。
アメリカ軍を叩いては困る勢力が、まだ、国内にあったとすれば、もう、勝敗は明らかです。
みんなが、予想していたとおり、栗田艦隊が反転し北上を続けても、敵の主力艦隊は、影も形もなかったのです。その間にも、小沢治三郎率いる囮の機動部隊は、飛行機を攻撃に向かわせると空船になっていました。そこをハルゼーの敵機動部隊に捕捉され、瑞鶴以下の艦隊は、撃沈破され、日本は、二度と機動部隊を編成することはできなくなりました。
日本に戻ってきた栗田中将は、その後、海軍兵学校長となり、レイテ戦の責任を問われることは一切ありませんでした。通常なら、明らかな命令違反が特別な調査もなく、罰を受けないとしたら、既に海軍は、その正常な機能を失っていたことになります。ミッドウェイ海戦の責任を取らなかった山本五十六大将、南雲忠一中将、フィリピンで捕虜になった福留繁中将、そしてレイテ沖海戦で命令違反を犯した栗田健男中将と、海軍は責任の所在を曖昧にしたまま戦争を続けていたのです。これが海軍の「統率」なのですから、一体、本気で大戦争を行っているとは、到底思えません。その謎は、未だに解明されていないのです。
もし、この突入作戦が成功していれば、マッカーサーの生死も定かではなかったでしょう。そして、アメリカ上陸軍も壊滅し、日本も講和の機会を得ることができたかも知れないのです。
話は長くなりましたが、この作戦において誕生したのが、「神風特別攻撃隊」でした。当時、フィリピンに基地を置く、第一航空艦隊の司令長官だった大西瀧治郎中将は、少なくなった戦闘機を有効に利用しようと考えました。それが、戦闘機に250㎏爆弾を取り付け、「体当たり」攻撃をさせることだったのです。大西は、これを限定的な作戦として、自分の一存で行おうとしていたようですが、既に海軍軍令部においても特攻作戦は、計画にありました。
大西は、実行部隊の責任者として、特攻作戦を推進した張本人ですが、大西には、大西なりの信念があったのだと思います。
大西に直に接したことがある、元搭乗員は、このように大西の心情を推察しています。
「特攻は、統率の外道だ。あってはならない命令だ。しかし、このことが、天皇陛下に耳に届けば、或いは、終戦を決意していただけるかも知れない…」と。確かに、大西が特攻作戦を指揮したレイテ決戦は、日本にとっての最後の総力戦でもあったのです。「もし、ここで講和に持ち込めるのなら、敵の航空母艦を叩き、戦艦群のレイテ湾突入を支援するべきだ…」と考えたとしても、不思議ではありません。しかし、手元には、戦闘機や攻撃機の数が少ない。
もし、少数の飛行機で最大の戦果を上げるとすれば、確率の高い体当たり攻撃をかけることが、一番有効な方法だと考えたのでしょう。それに、何も敵艦に体当たりして、撃沈しなくてもよいのです。甲板に穴を開け、一時的にでも航空母艦が使用できなくなれば、いくら飛行機を積んでいても作戦には使用できません。そうなれば、互角の勝負ができます。そこで、大西は自分が死ぬ覚悟で命じることにしました。だから、大西は「統率の外道」という言い方で、己を諫めたのかも知れません。しかし、予期せぬ仲間の裏切りにより、奮戦むなしく、戦艦部隊のレイテ湾突入は失敗し、日本は、講和の道を探ることができなくなりました。
その頃、昭和天皇は、ローマ教皇にお願いして、講和の仲介に立って貰いたいという希望を持っていましたが、政府の反対にあい、実現することはできませんでした。これは、けっして現実味のない話ではなく、天皇とローマ教皇との間には、太いパイプがあったといわれています。やはり、そこには戦争を終わらせたくない勢力の邪魔が入ったと見るべきでしょう。こうして、日本は益々孤立していったのです。
そして、その後も、続々と特攻作戦は続きますが、大西の期待したような方向には進むことは二度とありませんでした。
結局は、陸海軍共に終戦のその日まで、特攻作戦は行われ、数多の若い命を散らせたのです。
大西瀧治郎は、終戦の翌日、軍令部次長官舎で割腹自殺を遂げますが、部下の介錯を拒み、「俺は、できる限り苦しんで死ぬのだ!」と言って、最後までその痛みに耐え、絶命しました。そして、残された遺書には、特攻隊員たちへの感謝の言葉が書き残されていました。
それは、「貴様たちだけを死なせはしない。俺も、最後の飛行機に乗って突っ込む!」と言って、激励した多くの指揮官を代表して腹を切ったのかも知れません。
生き残った指揮官たちは、「ここで死んでは、本当の犬死にになる。特攻で死んだ者たちの慰霊をする義務が、俺たちにはあるのだ…」と、言い訳をしましたが、元特攻隊員たちに、その言葉が耳に届くことはありませんでした。ただ、特攻を始めた大西を責める声は、生き残った特攻隊員たちからは、一切挙がらなかったということが、せめてもの慰めとなったのです。
特攻を「テロ」と呼びたがる人は、特攻隊員たちも「テロリスト」であったと本音では、思っているのでしょう。ただ、それを言えば、全国の遺族や保守系の政治家、学者から叩かれるのがわかっているから、口に出さないのかも知れません。最近上映された映画にも同様の場面が出てきます。
ある新聞記者が、元特攻隊員に浴びせる台詞に、「私たちは、特攻隊員もテロリストと同じ心情を持った殉教者だと考えています」という言葉があります。そのとき、元特攻隊員の老人は、こう言います。
「私たちは、何も狂ってはいない。戦局がどういう状況かもわかっていた。しかし、私たちの攻撃によって、日本の人々が、父や母や妹たちが少しでも助かるのであれば、喜んで死のう…と誓い合ったのだ。けっして、殉教的精神で無辜の人々を殺すようなテロリストなどではない!」
その顔には怒りとともに、理解されない虚しさが描かれていました。
戦後70年が過ぎ、もうその心情を慮る人もいないでしょう。しかし、同じ日本人の子孫が、特攻隊員たちを蔑むことだけは、どうか止めて欲しいと思うのは、やはり傲慢な考え方なのでしょうか。
アメリカ軍が当時、兵士たちに見せた「日本」の映像には、かなり偏った狂信的な兵士像が描かれています。そして、一般国民も「天皇陛下万歳!」と死んでいくことを喜びとするような人間に描かれていました。
アメリカ軍当局は、兵士たちに、「おまえたちが戦う敵は、こんなに恐ろしい悪魔のような連中なんだ!」と、教え込んでいたのです。これは、まさに、戦後の日本人が見せられたプロパガンダ映像です。
今でも、アメリカや中国映画に出てくる日本兵は、いつも威張っていて、怒鳴り散らします。そして、追い詰められると、すぐに自爆したり、大声を上げて突っ込んでいきます。思考は単純で、死を恐れず、獰猛な姿に描かれることがスタンダードになってしまいました。
「これが、日本兵だ!」と洗脳を受け続ければ、否が応にも、勝手に日本人像や日本兵像が出来上がってくるというものです。そして、最期は「天皇陛下万歳!」で締めくくられます。
恐らく、そういう人たちの日本人像は、「狂信的で、天皇を現人神と信じ、洗脳されたまま、特攻機に乗り込む悪魔に魂を売った人間」なのでしょう。
ドイツのヒットラーも、ラジオ放送や映画を媒体として、国民を洗脳していったと言われていますが、ヒットラーを例に挙げるまでもなく、戦争当事国は、このような手法で国民に恐怖心を与え続け、敵を憎むように洗脳していったのです。
「まさか、本気で、そんなことを信じているのか?」と驚く人がいるかも知れませんが、国家ぐるみで洗脳計画を立てられれば、どんな客観的で冷静な人でも、洗脳される可能性があるということです。
それは、アメリカばかりでなく、日本でも「鬼畜米英」と敵国人を憎むような施策は行われていました。学校でも「非国民」や「国賊」などの言葉が使われ、すべての国民に、有無を言わせず戦争に協力することを求めたのです。しかし、それは飽くまでも「建前」でしかありませんでした。夫婦だけになれば、「一体、なんでこんなことになったのかね?」とか、「赤紙が来たら困るね…」などと本音を吐いていたのです。しかし、みんなの前に出れば、そんな言葉は一切飲み込み、協力する態度を示していたのです。そうしなければ、仲間はずれに遭い、酷い目にあわされることを、だれもが知っていたからです。
日本人は、今でもそうですが、本音と建前を上手に使い分ける民族です。
命令する側も、それに従う側も、建前を優先させます。
「天皇陛下の御為に…」と言われれば、それは、「国のために…」とか「家族のために…」という言葉と同義語に遣われたのです。
外国人なら、ストレートに、「愛する妻のために…」とでも言うのでしょうが、体裁や恥を重んじる日本人は、そんなストレートな言い方はけっしてしません。よく使われる、「天皇陛下万歳!」という言葉にしても、天皇陛下の時代が続くということは、日本が国として存続し、家族が幸せに暮らせる…と思うからこそ、公に叫べる言葉なのです。
そんな忖度もできずに、「死を前にした人間が、そんなことを言うはずがない!」という人こそ、日本人の心情を理解していないのだと思います。
だから、特攻隊の遺書には、自分のことは書かず、家族や周囲への別れの挨拶を淡々と記したのです。そして、出撃を前に、だれが人前で取り乱した姿を晒せるというのでしょうか。当然、人前では笑顔を見せ、自分の心に母や恋人の顔を刻み込み、出撃して行ったのです。
そんな人間が、無差別に一般市民を殺すようなテロリストであるはずがありません。それよりも、原子爆弾を落とし、日本の都市に無差別爆撃を行ったアメリカ軍の方が、もっと卑劣で、心は「テロリスト」に近かったのではないのかとさえ思います。
「勝てば、何を言っても許される」と思ったら大間違いなのです。
第十一章 マスコミ報道の功罪
新聞記者は、今でも、「自分はジャーナリストとして…」と発言しますが、そもそも、ジャーナリストとは、何なのか教えて欲しいと思います。一般的な定義としては、「新聞や雑誌など、あらゆるメディアに報道用の記事や素材を提供する人、または職業」をいうのだそうですが、昔も今も、報道にはかなりの偏見があるように思います。そして、記者のどこかに、「一般人とは違う」とか、「真実を伝える人間」という傲慢な態度が染みついているのではないでしょうか。
特に「真実を伝える」という点において、日本に限っていえば、それを実現できている記者は、どこにいるのかよくわかりません。
戦前から戦中にかけて、いや、日露戦争のときも、日本の新聞社の多くは、戦争を美化し世論を煽る存在でした。そして、戦後、GHQの支配を受けると、その意向に沿った記事を書き、戦争中とは、真逆の記事であっても、素知らぬ顔をしていたのが、日本の所謂「ジャーナリスト」です。
新聞社も民間企業ですから、新聞が売れなければ、会社として存続できないし、今のようにテレビやインターネットまで、メディアが広がれば、スクープネタが欲しいのは、よくわかります。だから、マスコミを責めるつもりはないのですが、時折見せる傲慢な態度だけは、国民すべてが納得していないと思います。政治で言えば、8月15日に政治家が靖国神社を参拝されたとき、一様に「公人ですか、私人ですか?」と質問をぶつけますが、その記者は、本当にそんなことを質問したいのでしょうか。それとも、上司に言われ、渋々質問しているのでしょうか。おそらくは、後者だと思います。一流大学を出て憧れの新聞社に入社すると、自分の思想信条に関わりなく「社の方針」にしたがって記事を作り紙面を飾るわけですが、そこには、記者個人の意見を出す場はありません。それでは「ジャーナリスト」は、名乗れないと思います。
最近のアナウンサーも新聞記者も、人に誇れる職業ではなくなってきました。捏造記事を何年にもわたって書き続け、周囲からの指摘を受けても訂正をせず、挙げ句の果てに隣国から圧力をかけさせ、最後の最後に、社長が記者会見をして謝罪、退任する場面を見せられると、残念でなりません。
「新聞」という情報手段は、確かに有り難いと思います。どんな地方に行っても、新聞紙は、毎朝届き、日本中のだれもが、新しいニュースを知ることができるのですから、瓦版の時代から新聞は、国民の大切な情報源だったのです。昔なら、文字が読めない人でも、読める人に読んで貰い、世の中のことを知ることができました。そして、学校で学んだことが、すぐに生かされたのも新聞の効果だったのです。しかし、それも政府や軍の検閲が厳しくなると、許可を貰えるような記事になり、「おかしい?」と思っても、政府や軍の意向に逆らってまで、記事にしようとする記者はいませんでした。それも、民間企業としては、仕方がないことです。だから、戦後、GHQが、「こう書け!」と命じられれば、新聞各社は、その意向に沿って書いただけなのでしょう。そのご苦労はよくわかります。
ただし、問題なのは、「ありもしない話を、さもあったかのように捏造して記事に書き、それが誤りだと気づいても、謝罪もできない体質」があることなのです。
東京裁判では、「南京大虐殺」が取り上げられましたが、当時の裁判においても、中国が主張するような30万人を虐殺したような事実は出てはきませんでした。それでも事実は認定され、松井石根大将は、指揮官としての責任を問われて絞首刑になりました。松井大将は、中国人を理解した中国通の人物だったのです。
占領期間中は、GHQの意向に沿った記事を書くことも、やむを得ないとしても、占領が終了後も、新聞社の多くは一貫して、その態度を変えることはありませんでした。そして、南京大虐殺事件は、今でも論争が続いています。
なぜ、新聞社は、この問題を証言者がいる間にしっかりと調査し、真実を明らかにしようとしなかったのでしょうか。事実、「あった」という証拠があるのなら、出せばいいのです。それは、国民を素直に認め、調べて記事にした記者と新聞社を讃えたことでしょう。
「当時は、日本軍の軍規が乱れ、一般市民の大量虐殺が行われた事実は、これだ!」と、反論できない資料が出てくれば、たとえ、学者や政治家が何と言おうと、新聞社として闘えたはずなのです。しかし、未だに、そんな話は聞こえてはきません。それでは、日本の新聞記者が「ジャーナリスト」になることは、一生涯ないでしょう。また、某大手新聞社は、「従軍慰安婦」を大きく取り上げ、何年にもわたって記事を掲載し続けたましたが、結局は、ある男の「いい加減な作り話」であることがわかって、社長の謝罪会見になりました。
この問題は、一度は、中学校教科書(社会科歴史)にまで記載されたことを思えば、マスコミだけでなく国の検定もいい加減なものだということが、暴露されてしまったのです。
隣の韓国では、この従軍慰安婦問題や、ありもしない徴用工問題を政治問題化し、日本に謝罪を求め、反日教育を煽っていますが、かの国の新聞社も、ジャーナリストとは、到底呼べません。しかし、外国は外国の国内事情があり、一概に否定することもできませんが、日本は、そんな国ではありません。「あるなら、ある!」「ないのなら、ない!」と明言し、嘘偽りのない記事を求めます。
ところで、戦時中、最初の特攻隊に「敷島隊」という部隊がありました。隊長は、関行男大尉です。
当時の新聞記事を紹介しますと、
「神鷲の忠烈 萬世に燦たり 敵艦隊を捕捉し必死必中の體当り 機・人諸共敵艦に炸裂 殊勲を全軍に布告」
と美辞麗句で文字が躍っていました。
この記事が新聞に出ると、愛媛県西条市にある関行男大尉(戦死後中佐)の実家の前には「軍神関行男海軍大尉之家」と記された標柱が建てられたと言います。関大尉は、新婚で、母親と妻を残して特攻で戦死しましたが、戦時中、家族は「軍神の家」として持て囃され、妻も母も、「軍神の家族」としての振る舞いを要求されたそうです。
少しでも、恥ずかしい行いがあると、周囲の人たちは、「軍神の母のくせに…」などという心ない言葉を浴びせ、ひそひそと陰口を叩きました。これは、日本人の心の狭さをよく表しています。今でも、「○○のくせに…」という、人にレッテルを貼ることが大好きな国民です。嫉妬心というか、目立つものを許さない「横並び思考」かはわかりませんが、報道にもよくみる手法です。
しかし、戦後は一転して、誰も彼も、関の家族を心配する者もなく、妻は離婚して実家に戻り、母親は一人、学校の「小遣い」をして暮らしたそうです。
その苦労たるや、戦時中に持て囃された分だけ、辛かったことと思います。
関大尉は、出撃に際して、
「僕は、最愛のKA(女房)の為に死にます!」そう言って、爆装された戦闘機に乗り込みました。しかし、その心境を思いやるような記事は、一行もありませんでした。あるのは、「神鷲」「忠烈」「燦たり」などの美辞麗句だけです。戦時中となれば、これは、これで真実なのでしょう。しかし、その心情を思いやり、大西が言うように「統率の外道だ!」と書ける記者がいたとしたら、それこそ、本物のジャーナリストに違いないと思います。
そもそも、国民が新聞を煽ったのか、新聞が国民を煽ったのかはわかりません。しかし、日本人は、相当に情緒的な国民だと言わざるを得ません。それは、なかなか、論理的な思考にならないからです。
昔から、「根性論」が大好きな国民ですが、オリンピックが近ければ、必ず「メダルの数」に拘り、数が少なければ非難し、多くても叱咤激励しますが、それは、その熱気があるときだけで、地道な取材を嫌います。
大きな事件や事故が起きても、取材ソースがあれば、多少の不法行為は、記者の勲章なのか、強引で傲慢な取材をしてでもスクープを狙うのが常のようです。本当に、取材される側は、迷惑なのですが、日本人特有の「お愛想」で、仕方なく付き合ってしまうのが、よく見て取れます。
取材相手が弱いと見るや、記者たちの傍若無人な振る舞いは、論を待ちません。日本には、「惻隠の情」とか「武士の情け」といった言葉があるのに、どうして日本の記者の皆さんは、揃って傲慢に見えるのでしょうか。それとも、そうするように上司が命令しているのでしょうか。
本当なら、報道機関は、今の十倍くらいあって国民が取捨選択できればよかったのです。そうすれば、各新聞社も、テレビ局も、同じニュースを同じ論調で流すことはなかったでしょう。こうした「横並び体質」が、取材する記者の取材力を弱め、偏った会社の報道姿勢が、記者を育成できなかったのです。
それでも、これからは、インターネットの時代です。嘘は瞬時に見破られます。記者の傲慢な態度が逆にネット上で報道され、取材を受ける側の厳しい評価が下されれば、大きく変わるきっかけになるかも知れません。
戦中、戦後、現在と日本のマスコミが、変わらずに済んだのは、それ以外に国民が情報を得る手段がなかったからです。この独占された閉鎖的な社会が、今、大きく変わろうとしているのです。これからは、国民一人一人が賢くなり、マスコミにも、厳しい目を向けなければならないでしょう。
第十二章 日本の兵隊は、よく戦った
日本軍の外国人からの評価は、「下士官、兵隊は、超一流の軍隊だが、士官以上は、三流と言わざるを得ない」というのが、定まった評価です。
日本の兵隊は、主に農村部から徴兵で集められた者たちでした。農家の次男や三男は、いずれ家を出て行かなければなりませんでした。当時の民法では、「長子相続」が基本でしたから、財産の少ない農家は、ほかの子供たちに分ける物など何もないのです。そうなれば、長男以外の男たちは、余所の農家の婿養子に入るか、街へ出て商家に奉公に入るか、それとも、工員になって工場で働くか、どれにしても、苦労は尽きないのです。その中でも体が丈夫で、頭のいい者は、軍隊を志願しました。軍隊に5年もいれば、一番下の下士官くらいにはなれます。優秀であれば、幹部候補生試験を受けて、幹部(士官・将校)も夢ではありませんでした。たとえ、徴兵で入隊しても「甲種合格」組は、選抜された優秀な兵隊たちでした。
兵隊は、原則としては2年軍務に服すれば、招集が解除され、家に戻れるのですが、こうした甲種合格組からは、そのまま軍隊に残り、技術を磨いて出世していく者も多かったのです。それに、軍隊は麦飯とはいえ、三度、三度腹一杯、ご飯が食べられるわけですから、貧農の家の男にとっては、恵まれた環境ということもできました。家にいれば、兄弟や家族も多く、ご飯も遠慮しながら…のところがありましたが、軍隊は、みんな平等です。いくら殴られるとはいっても、要領さえ掴んでしまえば、一年も経てば、新兵の頃のように殴られることもなくなるし、勉強だってしっかり教えてくれます。しごかれると言っても、それは、みんな同じだったし、上級の兵も下士官も同じように訓練を受けているわけだから、不公平感もなく、そこそこ満足できる暮らしがありました。つまり、気持ちの持ちようひとつで、軍隊は、けっして悪いところではないということです。
陸軍の場合、日本は、地域で招集することになっており、東京の第一連隊なら、東京出身の兵が集められました。だから、古参の兵に、同じ村の先輩がいたり、知り合いがいたりと、郷土意識が強く、その分、団結力も強かったのです。要は、軍隊といえども、村の延長上にあり、ふるさとの情報も入ってきたし、こちらの情報も村や家族に伝わるのも早く、軍隊に入ったからといって、社会と遮断されるようなことは、ありませんでした。
こうなると、兵たちは家族のためにも恥はかけません。「○○村の某は、もう上等兵になったそうだ…」とか、「○○は、いつも隊長さんに褒められているらしい…」などという些細な情報も、家族には伝えられ、喜んだり、悔しがったりと郷土部隊の絆は、さらに深まっていったのです。
この団結力が、下士官、兵の強さの秘密なのだろうと思います。
兵たちが一番嫌うのは、弱音を吐くことでした。
中国の戦地では、行軍が当たり前で、連日、20㎞、30㎞と歩き続けました。背には、30㎏の背嚢と銃を肩に背負い、ひたすら歩き続けるわけです。
戦闘ともなれば、いつ、飯が食えるかもわかりません。アメリカ軍のように、空中から食糧が投下されるようなことはありませんでした。
飯盒で飯を炊き、それができなければ、乾パンをかじりながら、耐えなければ、戦争には勝てない…と教え込まれていたのです。
日本は、長期戦を想定していないために、「兵站」が弱い組織でした。
昔から、陸軍では、一番威張っているのが歩兵科で、輸送を担当する輜重兵は、軽んじる風がありました。戦闘も「白兵戦」中心で、いつでも「突撃!」と銃を持って敵陣に殴り込みをかけることが、「散兵戦の花」と謳われました。これもまさに、精神論です。
「死ぬ気で頑張れ!」とか、「根性を見せろ!」などの叱咤する声で、教育が行われていましたが、こんな根性論だけでは、どうにもならない戦いが、アメリカとの戦争でした。
アメリカ軍なら、そんなことを言う前に、栄養価の高い食糧を持たせるだろうし、不足すれば、空から物資を補給したでしょう。要するに、準備ができないから、根性論になっているだけなのに、そのうち、根性論が優先してしまい、やはり兵站が疎かになるといった矛盾を孕んでいたのです。
乏しい予算では、飯のことより、大砲の弾が欲しかったのでしょう。しかし、戦うのは、所詮、人間だということを忘れて貰っては困ります。それに、多くの兵隊は、農業経験者です。年中、自然を相手に格闘し、60㎏の米俵を背負えなければ、一人前と言われないご時世です。
日本兵は、体は小さいが、筋骨隆々、顎は強く、何でも飲み込める強い胃袋を持っていました。だから、彼らに「へこたれる」という言葉はありません。どんな事態に陥っても、歯を食いしばり、最後の最後まで戦い続ける体力と気力が備わっていたのです。
日本陸軍の戦いで有名なのが、ビルマ戦線の「拉孟・騰越」の戦いやパラオ諸島「ペリリュー・アンガウル島」の戦い、小笠原諸島「硫黄島」の戦いなどが有名です。これらの戦闘においては、兵隊としては、アメリカ兵が完敗した戦いでした。少ない兵力で、何日も戦い続け、アメリカ兵は、戦闘を行うたびに出血を強いられ、戦場から逃げ出す兵が続出する有り様だったのです。
日本軍は、ひたすら要塞化した洞窟などに籠もり、時を見ては攻撃に転じました。アメリカ軍は、陸と空から猛烈な攻撃を繰り返しましたが、日本兵は、それに怯むことなく、何度でも攻撃を繰り返しました。
水も食糧も弾薬もない。それでも戦う姿勢を見せる日本兵に、アメリカ兵や中国兵も恐れおののいたのです。もし、敵に大量の武器弾薬、そして食糧がなければ、これらの戦いは、日本軍の完勝に終わったことでしょう。
大東亜戦争中、どこの戦いにおいても、日本兵は精強でした。
陸に、海に、空に、日本軍は精一杯の力を振り絞って戦い、敗れたとはいえ、世界の戦史に燦然とその名を刻んだことは、誇りに思ってもいいのではないか…と思います。
アメリカの日系人部隊も、多くの犠牲を出しながら、ヨーロッパ戦線で活躍しました。特に442連隊の活躍は、昭和19年10月、フランス戦線で、212名のテキサス大隊救出のために、日系人部隊が800名もの戦死傷者を出して成功したことが、アメリカの新聞で報道され、アメリカ世論を変えたと言われています。
こうした活躍が、戦後の日系人の名誉回復につながったのです。
しかし、反面、戦略的に日本軍は、大変お粗末でした。
そもそも、日本軍は、陸軍にしても海軍にしても、局地戦で勝利するように作られた軍隊で、長期戦を戦えるような軍隊ではありませんでした。よって、指揮官である参謀や将校たちも、「戦術」は知っていましたが、長期的な「戦略」思考はありません。
戦争の勝敗は、オセロゲームのようなものです。当面は白と黒が交互に引っ繰り返り、戦局の動向は見極め難いものですが、最終的には、すべての駒をひっくり返されて、圧倒的な差でゲームが終わります。このオセロ思考がないと、戦争には勝てないのです。
日本の将校は、常に「局地戦の勝利」を得ようと必死になるので、損害が大きくなっても、なかなか撤退しようとしません。負けるのが嫌いなのです。その上、自軍に大きな被害を被ろうとも、目の前に戦いに固執してしまう傾向にあります。それは、兵士も同じでした。「戦友を見捨てて、撤退はできない!」という心理は、日本人には、よくわかります。歯を食いしばって、やっとの思いで小さな勝利を得ても、結局は、各個撃破され、玉砕していくことになりました。
これが、アメリカ軍なら、自軍が一旦不利になると気がつけば、最小被害で、さっさと退いたはずです。それを見た日本軍は、「勝った、勝った!」と喜んで、進軍を続けてしまいますが、そのうち、敵の懐に入り込み、周囲を取り囲まれて殲滅されてしまうのが常でした。その上、捕虜になるのも「恥」と考える日本人と、たとえ、捕虜になっても、そこまでよく戦ったという「名誉」が与えられるアメリカ軍とでは、戦い方が根本的に違うのは当然です。
もし、日本軍に「捕虜」についての学習が徹底されていれば、無理な戦い方をすることなく、もっと合理的な思考が生まれたような気がします。「捕虜になるな!」というだけの教育では、捕虜になる恐怖のために、捨てなくても良い命を、簡単に捨ててしまったような気がします。
それに、日本の将校(指揮官)の多くは、高等教育を受けた者たちでした。
陸軍であれば、陸軍士官学校、海軍であれば海軍兵学校が、将校養成機関でしたが、入学するには、大学のトップ校に入れる学力が必要でしたし、体も頗る健康な者にしか、門戸は開かれていませんでした。
アメリカなどでは、専門的な知識を持つ者は、短期間の訓練で陸海軍将校に登用したし、大学も多かったことから、必ずしも、士官学校を出なくても、将校に進む道はありました。それに、軍隊は、職業のひとつの選択肢でしかなく、多様な人材が軍隊に出入りしたという柔軟さは、日本軍にはなかったのです。
日本軍の将校養成は、画一的、管理的で柔軟性に乏しい教育が行われていました。
軍隊組織を運用するためには、忠実な下士官や兵は必要でしたが、指揮官は、忠実なだけでは務まりません。戦場で一番大切なのは、「柔軟性」と「臨機応変」な対応力です。
日本軍でも、戦闘機のベテラン搭乗員は、若い航空兵に、こう教えたと言います。
「いいか、戦場では、貴様たちが学んだ教科書は必要ない。教科書通りに戦えば、すぐ死んでしまうぞ…」
そう言って、教科書とは真逆の操縦法を教えたと言われています。この「教科書通り」が、間違っていることを、戦場経験の豊富な兵には、わかっていたということです。つまり、日本の将校養成方法は、間違っていたのですが、それを改善するリーダーが登場することは、ありませんでした。
エリート将校が、教科書通りであれば、作戦も、その教科書を手に入れて分析すれば、簡単に行動が読めることになります。だから、日本の軍隊は、いつも同じパターンで攻めて来るので、アメリカの指揮官は、簡単にマニュアル化することができ、自信を持って作戦を立てることができたといわれています。 これが、日本の軍隊教育や学校教育の問題点なのです。
この思考は、戦後も残され、学歴偏重社会へと移っていきました。
学校で使う能力は、そのほとんどは、記憶再生能力です。どんな発想の素晴らしい学生でも、ペーパーテストで高得点を取らない限り、高学歴を得ることはできません。「発想力を鍛える」という教育思想がないため、最近のコンピュータ技術やAI技術においても、日本は、欧米諸国の後塵を拝することになっているのです。だから、日本軍の将校は三流であり、今でも、日本のリーダーは三流の評価なのだと思います。
第十三章 日本の特殊兵器
しかしながら、下士官や兵の資質は、やはり一流です。特に日本人は、好奇心が強く、手先が器用という特長を持っています。そして、歴史や文化を重んじる気風があるため、ものづくりの「職人」を尊敬して遇します。
今でも、一流の職人には、国から勲章が与えられ、「日本の名工」として、尊敬を受けるだけでなく、「人間国宝」に指定される職人も多いのです。
これは、世界中を見渡しても、なかなか、あり得ない感性だと思います。
戦争中も、日本人は、本当に多くの発明品を作ってきました。特に戦艦大和や零式艦上戦闘機は有名ですが、他にも新発明のオンパレード状態になっているのです。ここに、日本人の「ものづくり」に対する拘りが見えます。
「戦艦大和」は、確かに戦争においては無用の長物になってしまいましたが、使い方によっては、もっと有効に使えたはずです。たとえば、機動部隊の旗艦として、航空母艦に随伴していたら、そのレーダーシステムや通信機能を使って、敵の情報をいち早く掴むことができたし、敵機発見の報せが入れば、得意の「三式弾」を、その大砲から撃ち出し、攻撃前に敵を混乱に陥れることだって容易だったはずなのです。そうすれば、敵の攻撃機も爆弾や魚雷の投下圏内に入ることができず、大切な航空母艦を守る体制ができたのです。
それに、もし、大和が、ガダルカナル島への戦艦部隊の砲撃戦に参加していれば、十分態勢が整っていないアメリカ軍に甚大な被害を与えることもできたはずです。
仮の話をしても仕方がありませんが、大和級の大戦艦を製造する技術は、戦後、大型タンカーや日本の造船業の発達に大いに寄与したことは、間違いありません。大和に取り付けられていた大型レンズは、歪みが少なく、かなり遠くまで鮮明に見ることができたそうです。それが、現在のニコンというカメラメーカーの発展に寄与しました。戦後、ニコンがカメラのレンズを発売したところ、「何だ、日本製か?」とばかにしていた外国のカメラマンが、一度試しに使ってみたところ、とんでもない性能に驚いたという逸話が残っています。それに、大和の艦首にある球状の「バルバス・バウ」は、船が海面を進むとき、波を小さくする画期的な発明だといわれており、現在も大型船に採用されています。こういった技術を生み出した戦艦大和は、やはり日本の「ものづくり」の象徴なのかも知れません。
次に「零式艦上戦闘機」を紹介します。
零戦は、日本が大東亜戦争初期から、終戦のその日まで活躍した日本を代表する戦闘機です。この飛行機は、何にでも対応できる傑作機といわれています。「何にでも対応できる」というのは、海でも陸でも、どんな用途にも使える飛行機ということです。
三菱の堀越二郎技師が、無茶な海軍の要請に応えて完成させた飛行機でした。その航続距離、武装、旋回性能、操縦のしやすさ、故障の少なさ…と、どこを取っても一流でした。ただ一つの欠点は、防御力の低さにあります。そして、人間が操縦する機械だということを忘れているのが欠点ですが、それは、技師の責任ではありません。海軍は、自分たちの欲しい要求を出して、「無理なら、あきらめよう」という程度の心積もりで、設計を堀越技師に委ねたのです。それに、防御性能は、当時の海軍の要請にはない項目でした。もし、それを採り入れるとなると、900馬力程度の発動機では、その要請に応えることは、無理ということです。
この三菱製の「栄」エンジンは、暑さにも寒さにも強く、砂地でも草地でも故障が少なく抜群の安定性を誇りました。また、他の機体とエンジンだけを取り替えることも可能で、最前線のラバウルなどでは、壊れた機体を大事に保管しておいて、故障した零戦のパーツを取り替えるだけで、今までどおりに稼働したといいますから、本当に、合理的にできた機体ということができます。それに、この軽量さは、防御力が弱いといて点では弱点でしたが、その運搬時には、非常に効率がよく、その軽快感は、搭乗員に好まれた原因のひとつでした。
零戦が約2500㎏に対して、アメリカ海軍の主力戦闘機であった、グラマンF6F戦闘機は、約5800㎏もあったのです。長さも零戦の9mに対して、グラマンF6Fは、10m。こうした重量と長さは、航空母艦のサイズに関係してきます。つまり、日本でいくらF6Fのような大型戦闘機を作っても、日本の航空母艦には、その重量の関係で、何機も積めなかったということになります。その上、零戦の丸いフォルムは、非常に空気抵抗が少なく、さらに、「枕頭鋲」という頭の出ない「鋲」を使っているので、空気抵抗をさらに軽減することができました。
こうした技術は、戦後、日本の新幹線や自動車に応用されていることにお気づきでしょうか。しかし、最大の特長でもあった航続力は、海軍の戦略を誤らせた原因にもなりました。
零戦が長い時間飛行できるために、搭乗員に長い時間、操縦を強いることになり、その疲労回復が十分にできなかったこと。
敵の近くに飛行場を設けるなり、航空母艦を派遣するなりの措置が採れなかったために、結局は、搭乗員に無理を要求し続け、彼らの力を十分に発揮させてやれなかったということ。
機体にガソリンタンクを多く積まなければならず、敵の攻撃に、あまりにも脆弱だったこと…。
など、戦争の後半になると、用兵上の問題が浮き彫りにされてしまいました。
どちらにしても、それが、日本の限界だったのかも知れません。
戦後、GHQは、日本に飛行機の製造を禁止する命令を出しました。
また、零戦のような恐ろしい飛行機を開発されたのでは、たまったものではないからです。そうなると、飛行機の技術者は、職を失うことになります。そこで、鉄道会社や自動車会社に転職したというわけです。
新幹線には、あの零戦の空気抵抗を減らす曲面を応用した車体とし、高速で走行しても揺れないよう、零戦で使用した振動抑制用のバネを応用しています。
こうして、日本の飛行機産業は、戦後の鉄道事業や自動車産業に大きく貢献することになったといわれています。
海軍は単座戦闘機だけでも、他にも紫電、紫電改、雷電、震電、烈風、橘花、秋水などを開発しましたが、実際に活躍できたのは、局地戦闘機雷電まででした。
陸軍も、海軍に劣らず、開戦当初には「隼」戦闘機が活躍しています。その後も、鍾馗、飛燕、疾風、五式戦などの戦闘機を開発し、主に中国大陸や本土防空戦で活躍しました。しかし、これら多くの戦闘機を開発しましたが、陸軍と海軍では、「鋲」ひとつ交換することができないだけでなく、「銃弾」も共用することができなかったのです。
アメリカなどは、どの飛行機でも基本の部品は共有できたし、銃弾は統一された「12・7粍弾」と決まっていて、それ以外の機銃弾は、どの飛行機にも採用してはいません。それに比べて、日本の飛行機は、20粍弾、7・7粍弾、13粍弾と様々で、それも同じ口径の銃弾でも、陸軍と海軍では、使用する機銃が違うため、交換はできなかったのです。つまり、「空軍」という思想がなかったために、統一した「空中作戦」が採れなかったという欠陥があったということになります。これでは、あの巨大なアメリカに勝つのは、やはり難しいと言わざるを得ないのです。
他にも、特攻専用として作られた兵器がありました。
海軍では、まず、映画や漫画でも有名になった「回天」があります。これは、日本の「酸素魚雷」という、世界の魚雷の中でも飛び抜けた性能を持つ魚雷を改良して作った兵器です。
酸素魚雷は、空気を燃焼させてエンジンを動かすのではなく、純粋な酸素を使うという点に、その特長がありました。
酸素は、水に溶けやすいため気泡が見えにくく、敵から発見されにくいのだそうです。その代わり、扱いが難しく、ベテランの整備員が必要でした。しかし、魚雷は、主に駆逐艦や潜水艦に整備される物で、艦隊決戦が少なくなった戦争末期には、用途が減り、工場に山積みになっていたのを、それに目をつけた若い海軍将校が、一人乗りに改造して、「体当たり兵器」としたものです。 しかし、この回天という人間魚雷は、操縦が難しく、命中率も芳しくはありませんでした。また、その特性を理解しない作戦が実行されたため、戦果は乏しい結果に終わっています。
海軍は、いつまでも「艦隊決戦思想」から抜け出すことができず、この回天も当初は、「泊地攻撃」に使用したため、敵艦隊が集まっている停泊地に攻撃をかければ、すぐに駆潜艇や駆逐艦が飛んできて、爆雷攻撃の餌食となってしまうのは、明白だったにも関わらず、真珠湾攻撃の夢が忘れられないでいました。また、洋上における攻撃も、周囲の護衛艦に発見され、母艦とともに沈められるケースが多かったのです。
これに志願した搭乗員には、申し訳ないと思いますが、このような性能の未知数な兵器に人間を乗せ、「敵艦に突っ込め!」というのは、見た目は勇壮ですが、冷静に考えれば、非常に効率の悪い戦い方だということがわかります。
母艦となる潜水艦にしても、本来なら、単艦で自由に太平洋上を動き回り、機会を捉えて、敵艦に魚雷を発射するのが、潜水艦運用の原則だったはずなのに、回天を積んでいるため、重量過多や潜水深度の関係で、身動きが取れなかったようです。
日本の潜水艦は、性能は申し分ありませんでしたが、その用兵に問題があり、ドイツのUボートのような活躍は、できませんでした。
他にも、海の特攻兵器としては、特攻用ボート「震洋」があります。これは、簡単な兵器で、ベニヤでできた小型ボートに爆薬を積み、そのまま、敵艦に体当たりさせようとする特攻兵器でした。そのエンジンは、自動車のエンジンを転用したと言われています。ベニヤ造りなので、大量生産ができ、搭乗員も一人か二人乗せて、突っ込ませるというものでした。これも戦果は不明ですが、実戦に投入された兵器です。しかし、ベニヤ製では、大きな波には耐えきれず故障も多かったはずです。その上、敵艦に発見されれば、機銃を撃たれ、すぐに沈められてしまいます。敵艦の警戒網を潜って接近することは至難の業です。これでは、残念ながら、戦果は期待できません。
真珠湾攻撃時に使用した特殊潜航艇も、シドニー湾やマダガスカル島の攻撃にも使用されましたが、やはり戦果は不明です。そして、この特殊潜航艇の発想から、本土決戦用に、蛟龍、海龍という小型潜水艇が量産されました。
もうひとつ、空の特攻兵器として有名になったのが、ロケット滑空機「桜花」です。これも、一海軍士官が、発想して実現した特攻兵器になります。
一式陸上攻撃機という中型爆撃機に、この桜花を吊り下げ、敵艦上空で切り離し、ロケット推進機を使って、高速で敵艦に体当たりしようとする特攻兵器でした。これは、沖縄戦に投入されましたが、戦死者が多かったわりに戦果は少ない兵器でした。
鈍重な攻撃機に、そんな重たい運搬物をぶら下げ、威風堂々と進軍したのでは、敵機の餌食となるのは、わかりきった作戦なのですが、何故か、海軍の上層部は、情緒的に、「今、使わなければ、二度と使う機会はない!」という、迷言を残して、優秀な爆撃機の搭乗員を見殺しにしてしまったのです。
「使う機会がない」のなら、何故、「使用できない!」と言えないのだろうかと思います。本当に人の命が軽い時代だったと思います。
戦艦大和の水上特攻もそうですが、兵隊を成算のない戦に駆り立てても、その悲壮感は残りますが、だれの為にもならない戦で死んでいく若者が気の毒でなりません。作戦とは、本来、勝てる見込みがあるからこそ、意味があるのであって、ただ「死ぬこと」に意味などはないはずです。
他にも、人間機雷「伏龍」という兵器とは呼べない、特攻兵器がありました。これは、兵士が重い潜水服を身につけたまま、海底にひたすら潜り続け、敵艦が来たら、槍の先に爆雷をつけた棒で、船の底を突き、敵艦諸共自爆する兵器だそうです。実戦には、使われなかったようですが、その訓練中に多くの犠牲者が出たという記録があります。
ここまで来ると、「気は確かか?」と聞きたくなるほど、お粗末な次第です。
とにかく、日本は、あらゆる工夫や発明をしながら、最後まで戦う姿勢を見せましたが、起死回生の兵器を誕生させることはできませんでした。
そういえば、中島飛行機が、本気になってエンジン六基の「富嶽」という爆撃機の設計を手がけていました。
これは、社長の中島知久平が考案した、大陸横断爆撃機の試案です。発想はすごいと思います。
日本から偏西風に乗って、アメリカ大陸まで飛行し、アメリカの都市に爆弾の雨を降らせようという計画だったようですが、当然、日本の工業力では、完成は覚束なかった新兵器です。当時の日本の工業力では、エンジン四基の爆撃機を製造するのもやっとで、飛行機自体はできましたが、高性能は期待できませんでした。それが、いきなり六発のエンジンを搭載する爆撃機は、結局、幻に終わっています。しかし、この中島飛行機は、零戦の生産では三菱航空機を抜いて日本一だったのです。
戦後、中島飛行機は、自動車会社を興し、今でも「スバル」の名で、優秀な自動車を生産している企業になりました。
こうした特殊兵器の発明や工夫は、本当に日本人らしいのかも知れません。
アメリカなら、工場で大量生産できるように、パーツを少なくし、簡単にできるようにするはずですが、日本は、いつも職人芸を求め、構造を複雑にしてしまうので、大量生産ができにくくなってしまうようです。その代わり、細部まで手が行き届き、たとえば自動車なら、高性能エンジンでありながら、燃費効率はよく、排気ガスも少ない。その上、内装にも拘り、乗り心地も抜群という代物を作り上げるのです。最近では、環境だけでなく「安全・安心」に進化した自動車造りが進められています。こうした「こだわり」が、日本人なのだと思います。
第十四章 戦後の日本人の勘違い
戦後、「日本は豊かになった」と言いますが、これほど大きな勘違いはないでしょう。「戦前は貧しく、戦後は豊か」という図式で考え、「戦後の日本人の方が、戦前の人たちより優秀だった」かのような錯覚をして、物事を捉える人が多いようですが、それは、まったく逆ではないかと思います。
戦後、日本が発展したのは、日本が世界を変えたからに他なりません。
日本という国を俯瞰してよく見て欲しい。
世界地図を広げれば、アジアの端に、小さな弓形の島国が描かれている。これが「日本」です。
世界地図は、どの国においても自国を中心に描きます。そのとき、ほとんどの国の人は、日本の方まで目が届くことはありません。少しだけ、マニアックな人間が、「ああ、あんなところにも国がある」程度の認識をするだけのことでしょう。それは、大東亜戦争が終わっても続いていました。
特にヨーロッパ諸国にとって、第二次世界大戦は、自分たちの戦争であり、アジアで展開された戦争まで見ている余裕もありませんでした。それに、アメリカも、その後、次々と海外に派兵し、朝鮮、ベトナム、中東と休む暇がないほど戦争が続いたのです。だから、日本との戦争のことなど、忘れてしまっている人も多いのではないかとさえ思います。
日本人は、原爆投下や空襲の酷さ、沖縄戦など、忘れがたい記憶として残りましたが、勝者であるアメリカにとって、その痛みを強く感じたことがないだけに、あまり加害者意識はないのでしょう。
だから、いつまでも、「戦争を早く終わらせることができた…」と、原爆投下すらも容認できるのです。
自国から見れば、加害者というものの心理はそんなものだということを、日本人は、しっかりと認識しなければなりません。
さて、この戦争は、実は、世界中の植民地政策を終わらせるきっかけになりました。
ルーズベルト大統領が、人種差別主義者とか、共産主義者であるかのように論じましたが、それは、この大統領に限ったことではありません。当時の、欧米のほとんどの国の指導者層は、同じようなものだったと思います。
簡単にいえば、「人間に種類がある」というのは、当時の常識だったのです。だから、平気で他国を侵略し、植民地として、その国の貧しい人々から搾取しようとも、相手を自分たちと同じ人間と見ていないわけですから、特に痛みを感じることなく、奪い続けることができたのです。
ルーズベルトは、「日本人は、白人に比べて脳が小さい」とまで言い切り、マッカーサーは、日本人は「12歳の子供だ」と発言しています。
真珠湾攻撃を受けた後も、アメリカ政府の中には、「あの飛行機は、ドイツ人が操縦しているに違いない!」と本気で考えていた人もいたようです。日本人などは、端から人間扱いされていないのです。だから、戦争が始まると日系人の財産を没収して、アリゾナなどの砂漠地帯に強制収容しても平気だったし、「ハル・ノート」のような卑劣な外交文書を、予告もなく、平気で送りつけるような態度を取ることができたのも、「人間扱い」していない証拠です。
都市空襲も原子爆弾の投下も、同じ論理です。この差別感覚は、おそらく、当時の日本人にもわかっていなかったと思います。
世界の歴史は、彼ら「白人種」が作ったという歴史観を覆すことは難しく、今でも、そんな人種差別の感覚が、世界には強く残っていることを、忘れてはならないのです。しかし、大東亜戦争は、その「劣等民族」である日本人に、あれほどまでに手酷くやられ、アメリカの威信は崩れました。だから、あれほどまでに怒り、マスコミが「KILL JAP!」と国民を煽ると、アメリカ人は本能のままに熱狂していったのです。それは、ある種の熱病に魘された病人のようでした。
日本でも、同じように「鬼畜米英」と叫んでいたわけですから、お互い様ですが、真珠湾攻撃は、アメリカ国民の誇りを相当に傷つけたことだけは間違いありません。
ルーズベルトにしてみれば、「戦争の口実さえ与えてくれれば、数ヶ月で片付く、大したことのない戦争」になるはずだったのです。日本が戦争を仕掛けてくれれば、すぐにでもヨーロッパに派兵できるわけですから、アジアなど簡単に片付けてしまいたい戦争でした。それに、「碌な兵器も作れない日本人が、強大なアメリカ軍に敵うわけがない」と信じてもいました。それは、自分たちが行ってきた植民地戦争と同じだったのです。
インディアンでも、ハワイでも、フィリピンでも、メキシコでも、難癖をつけて戦争に持ち込み、徹底的に殲滅してしまえば、もう文句のつけようがありません。正義だの真実だのは、どうでもいいことです。後は、勝者が歴史を作るだけのことです。
こんな、傲慢な意識は、帝国主義時代の欧米の指導者層の共通の価値観であったでしょう。ヨーロッパの戦争は、所謂、同族戦争です。ドイツ人は、確かに優れていますが、他国にしてみれば、忌々しい存在でした。彼らは野心家で、常に領土拡大を狙い、その上、尊大でした。ドイツ人は、「白人の中の白人」を気取っていたのです。だからヒットラーは、「アーリア人が支配する第三帝国を作る!」と宣言し、ユダヤ人を滅ぼそうとしたのです。
ユダヤは、キリスト教徒にとって、許しがたい裏切り者でした。それは、イエス・キリストを売った人間が、ユダヤ人だからです。だから、ユダヤ人には、国を持たせないし、持つ権利もないと考えることができたのです。しかし、そのユダヤ人が世界の金融を支配していることも事実でした。
ユダヤ人は賢く、勤勉で「金融」という国際的な富を握っていました。だからこそ、人種差別主義者たちは、それを妬み、ユダヤ人からその富を奪いたいと考えていたのです。この歪んだ心理は、同じ民族が肩を寄せ合って暮らしてきた日本人には、想像もできない感情なのです。
その人種差別を根底からひっくり返したのが、大東亜戦争でした。
ルーズベルトは、日本をみくびり、たとえ、謀略によって、ハワイが攻撃されたとしても、大規模な機動部隊による航空攻撃とは思いもしませんでした。
それより、「潜水艦か、小さな軍艦程度で攻撃してくるのがせいぜいだろう…」と考えていた節があります。それが、とんでもない事態となり、ほくそえむどころか、青ざめたに違いありません。なぜなら、もし、この謀略の秘密がが暴露されれば、「アメリカを見殺しにした大統領」というレッテルと共に、アメリカ社会から葬り去られることは間違いないからです。野心家のルーズベルトには、それだけは耐えられませんでした。事実、ハワイ太平洋艦隊司令長官ハズバンド・キンメル大将には、何の事前通知もなく、アメリカ政府は、ハワイを見殺しにしたのです。「どうせ、損害は軽微なはずだから、通告する必要もない」程度に考えていたのでしょう。しかし、それは大きな過ちでした。被害が大きすぎたために、ルーズベルトたちは、この秘密を絶対に表に出してはいけなかったのです。日本を徹底的に潰すしかありませんでした。間違って「講和」でもすれば、いつ、自分たちの悪事がばれるかも知れません。隠す方も必死の戦いだったのです。
その後。キンメル大将は、日本軍の攻撃を防げなかった責任を取らされ、少将に降格後、昭和17年3月には、海軍を追われてしまいました。海軍に残しておけば、何を言い出すかわからないからです。しかし、あのとき、キンメルに何ができたと言うのでしょうか。
彼は、ハワイ太平洋艦隊の責任者として、必死に防戦に努めたことは間違いありません。それよりも、日本の大機動部隊の動きを察知できず、ハワイまで来させてしまった責任は、だれにあると言うのでしょうか。それは、当然、アメリカ政府にあることは明白でした。にも関わらず、「現地の最高指揮官が無能だった!」と決めつけ、言い訳もさせずに罷免したのは、ルーズベルト一味の恐怖心からです。
平成11年、キンメル大将の名誉回復運動が起こり、連邦議会は、キンメルの「名誉回復決議」を採択しましたが、大統領は、未だにそれを承認していないのです。もし、それをアメリカ政府が認めれば、真珠湾攻撃そのものが、アメリカの謀略によって為されたことが暴かれ、大統領の権威失墜になる可能性があるからではないか…と、想像しています。そうして、日本軍の攻撃の責任を現地指揮官に押し付けた後、ルーズベルトは、鬼気迫る演説を行い、国民を扇動しました。それは、ルーズベルトの政策に反対していた議員たちも欺される演説だったそうです。
あのときの、ルーズベルトが叫んだ、「リーメンバー・パールハーバー!」
は、真実を見破られないための、彼の必死の叫びだったのかも知れません。
その後、ルーズベルトは、精彩を欠き、高血圧症の病を進行させていくのです。「万が一、日本軍の快進撃が続き、講和にでもなれば、自分の嘘が白日の下に晒されるかも知れない…」。それは、ルーズベルトにとって恐怖でしかなかったことでしょう。必死の思いで、軍を督促し、アメリカ軍が勝利することを祈り続けましたが、体は、ストレスで蝕まれ、昭和20年4月12日、ホワイトハウスの執務室で、突然倒れ息を引き取りました。 一説によると、その頃の彼の血圧は、上は260を超え、下も160以上だったと言われています。現代で考えても、いつ死んでもおかしくない状態だったのです。ルーズベルトは、執務室にいながら襲ってくる頭痛に脂汗を流し、天井がぐるぐると回る恐怖の中で死んでいきました。彼の野心は、自分自身で見届けることができないまま、終わりを告げました。そういう人物が、あの戦争のアメリカの最高指揮官だったということを、世界の人々は、忘れてはならないでしょう。
戦後、前大統領ハーバート・フーヴァーは、自著『裏切られた自由』の中で、ルーズベルトについて、「日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人の欲望だった」と書いています。
戦後、連邦議会の議員たちも、ルーズベルトが日本に突き付けた「ハル・ノート」の存在を知り、ルーズベルトに欺されていたことを知ったのです。因みにルーズベルトの死因は、「高血圧性脳出血」だったそうです。
結局、日本の戦いは、日本を防衛するための自衛戦争でしたが、結果としては、人種差別主義者と戦う戦争になっていきました。日本軍が、欧米軍と戦う姿を見た世界の人々は、きっと、日露戦争の再現を見る思いだったでしょう。 日本海海戦で勝利した日本を見たとき、世界中の差別を受けていた国の人々は熱狂しました。
「有色人種でも、白人に勝てる!」
この思いは、その後も、世界の人々の心に刻まれていたに違いありません。
その数十年後、「また、日本が、欧米と戦っている。そして、目覚ましい勢いで、アジアから欧米軍を駆逐していくではないか」。もう、それは伝説などではなく、現実の姿だったのです。自信を失っていたアジアの人々は、そんな日本人の姿に勇気を貰ったといいます。日本人にしてみれば、したくない戦争です。謀略によって嵌められた戦争ですが、一度火が付いた炎は、容易に消すことはできませんでした。日本軍には、「生き残るため」に、欧米の軍隊と戦うしか道はなかったのです。
こうなると、日本の敗戦は問題ではありません。「日本が、やれるのなら、俺たちにだってできるはずだ!」そう考えた植民地の人々は、日本軍に追い出された欧米軍に、二度と負けようとは思いませんでした。「もう二度と植民地にはならない。俺たちは、俺たちの国を取り戻すのだ!」それは、東南アジアでも、インドでも巻き起こった独立運動になりました。
戦争裁判も終わり、日本に帰国できるようになった旧日本軍の将兵に、現地の指導者は、頭を下げて頼んだそうです。
「我々に、戦い方を教えて欲しい…」と。
帰国を夢見ていた将兵たちの中から、何人もの志願兵が現れました。そして、アジア諸国の開放のために身を犠牲にして戦い、遂に、独立を勝ち取ったのです。それは、日本の国策などではありません。日本人一人一人の判断で行ったことなのです。帰国できる資格ができたのに、現地に残り、また戦う選択をすることが、どれほど辛い決断だったか、日本兵一人一人の気持ちは複雑だったでしょう。しかし、目の前に手を合わせて頼む人がいるのです。正義があるのです。多くの日本兵が、彼らに同情し、再び銃を取りました。そして、多くの日本兵が亡くなったのです。一緒に戦ったアジアの人々は、そんな日本兵の姿を忘れることはありませんでした。戦後、暫くして、日本の政治家たちが、それらの国々を訪問し、謝罪して回ったことがあります。それを現地の人々は、どんな思いで眺めていたのでしょうか。
「この人たちは、同じ日本人なのに、元日本兵たちが、独立戦争を一緒に戦ってくれたことを知らないのか?」
と、考えた人もいたでしょう。
「日本人は、謙虚だから、こうして頭をさげるのだろう…」
と、考えた人もいたでしょう。
しかし、それでも、あのとき日本軍が来なかったら、独立戦争に協力してくれなかったら…と思う人は、たくさんいたのです。
日本が、GHQによって「侵略戦争」の汚名を着せられ、反省と謝罪を繰り返している間に、アジア諸国では、その独立戦争の歴史を忘れず、日本の復興と発展に改めて敬意を表しているとすれば、何とも皮肉な話です。
そして、アジアの独立戦争は、アフリカにも飛び火し、世界中から植民地がなくなる時代を迎えることになりました。
何も、そのすべてが日本の功績だとは言いませんが、日本が立ち上がることによって、今の時代を築く原因になったとすれば、亡くなった300万人の同胞も、少しは報われるというものです。だから、日本の戦後は、「戦後の日本人だけで作ったものではない」ということだけは、同じ日本人として知っておくべきです。
日本の戦後は、GHQによって7年もの間、占領されてはいましたが、重い鎧を脱ぎ捨てたような開放感があったことも事実でした。戦前の日本は膨張しすぎていたのです。
日清、日露によって勝ち取った満州や朝鮮半島の権益は、日本の同化政策のために、国内からの持ち出しが多すぎ、欧米諸国のような植民地政策は採れませんでした。それに、共産主義思想の蔓延を防ぐために、治安維持法などの法律で国民を管理しましたが、その評判は最悪でした。
軍事費は、国家予算の半分を超え、軍隊の維持のために国民が働くかのような、本末転倒の政治が長く続いたお陰で、国民は疲弊していたのです。その上、今度の大戦争です。
確かに、300万人の犠牲と国土が焦土化された損失は大きく、「日本は二度と立ち上がれないのではないか」とまで言われましたが、敗戦国となり、無一文から再出発を切れたことは、それまでの負債をすべて白紙に戻したことでもあったのです。そうなると、日本人は非常に強い力を発揮します。日本の歴史が証明しているように、100年にも及ぶ戦国時代であっても、日本人はしっかりと文化を刻み、江戸時代になると世界が羨むような繁栄を見せました。その遺伝子は、しっかりと後生の日本人にも受け継がれていたのです。
農耕民族の血が沸々と沸くかのように、知恵を出し合い、工夫を重ねて戦後を生きようとする逞しさを見せ始めたのです。それは、国による管理や統制の下で行われたものではない、国民一人一人が、生きようとする本能に導かれるように、復興が始まりました。
それでも、街中には浮浪者が溢れ、飢えで死んでいく者も多くいました。
戦前の地位や経歴も通用しない。強い者が生き残り、弱い者は死んでいく。
そんな時代でもありましたが、まったく希望がなかったわけでもありません。昭和21年になると、復員が始まり、海外からどんどんと帰国する人々が増えてきました。どこの郷里でも悲喜こもごもの風景が見られました。
満州国にいた人々は、ソ連の突然の参戦により、追われるように逃げ、帰国できた人は僅かでした。中国各地や朝鮮半島にいた人々も、何とか引き揚げ船に乗り、帰国してきました。それには、中国政府の蒋介石の配慮があったことは事実です。
蒋介石は、「これで、中国全土を自分が統一できる」と考えての温情だったのでしょうか。ソ連のように、捕虜として労働力として使われるということもなく、無事に引き揚げてきました。中国人の懐の深さなのかも知れません。しかし、その蒋介石は、すぐに自分がアメリカによって騙されていたことに気づかされるのです。
アメリカは、蒋介石を日本軍と戦わせるためだけに利用しました。ソ連のスターリンと密約を結んだアメリカ政府は、戦時中は蒋介石が日本と和平を結ばないように「援蒋ルート」を維持し、武器弾薬を蒋介石の元に送り続けていたのです。それと同じ頃、ソ連は、中国共産党の毛沢東の元に、アメリカから援助された武器弾薬を送り続け、日本の敗戦後の中国統一に向けた準備を進めていました。ルーズベルトたちは、蒋介石を追い出した後は、ソ連と手を組んで、中国大陸での貿易を一手に握ろうと考えていたのです。既にイギリスは、その戦力を失い、大英帝国は過去のものになっていました。しかし、この企みもスターリンに騙されていたのです。
中国統一を進めようとした蒋介石の前に、国共合作で手を結んでいた毛沢東の共産党が蒋介石軍に攻撃を始めたのです。蒋介石は、「しまった。共産党に騙された!」と気づいたのは後の祭りでした。アメリカに支援を要請しても、アメリカ政府は、援助を打ち切りました。アメリカは、裏で毛沢東支援に回っていたのです。ソ連とアメリカの支援を受けた共産党軍が負けるはずはありません。それに、日本との戦いの主力は蒋介石の国民党軍でしたから、共産党軍は、兵力を温存しており、だれの目にも勝敗ははっきりしていました。
蒋介石は、ここにきて、「日本との同盟が如何に重要」だったかを悟ることとなったのです。そして内乱の後、蒋介石は、負われるように「台湾」に逃げていきました。中国に共産党政権が誕生し、「中華人民共和国」として新しく建国されたのが、昭和24年10月1日のことでした。
日本に戻ってきた人々は、政府の斡旋を受け、鉄道の復旧と整備に就く者、多くの飛行場跡を開拓し、農地として払い下げを受ける者、石炭の需要が盛んになったために炭鉱夫として全国の鉱山で働く者など、それまでの小銃を鍬に持ち替え、全国各地で、復興作業が始まっていったのです。
そして、昭和25年。朝鮮戦争が勃発しました。あのアメリカ政府が、ルーズベルト以来、共産主義容認の政策を執り続けてきたために、ソ連を強大な国家にしてしまっていたのです。その上、中国の共産化に成功したソ連は、一気に世界に共産主義を拡大しようと行動を起こしたのが、朝鮮戦争でした。ここにきて、アメリカの人たちは、今まで「欺されていた」ことに、やっと気がついたのです。
「共産主義は、民主主義と相容れる思想だ…」と信じていたアメリカ政府は、それが、とんでもない間違いであったことに気づきます。このままでは、アメリカ自身が共産化され、ソ連の言うがままの国になってしまうことに、恐怖心を抱きました。「日本さえやっつければ、世界平和が誕生する」と信じていたアメリカ国民にとって、日本以上の敵が目の前に立ちはだかったのです。
そこで、始まったのが「レッド・パージ」と呼ばれる、共産主義排斥運動でした。アメリカ政府もGHQも、ここに来て方針を大転換することとなったのです。あのマッカーサーすら、朝鮮戦争を戦ってみて、当時の日本の役割を理解し、日本が果たしていた「防共体制」を、今度は、アメリカが担わなければならなくなったことに気がつきました。本当に歴史とは、皮肉なものです。
その頃、日本は、重たい鎧を脱ぎ捨て身軽になった体で、「経済」一本槍の政策で、世界に再び出て行こうとしていました。
日本は、朝鮮戦争による軍需景気で、復活しました。あらゆる産業が息を吹き返し、都市の復興もみるみると進み、昭和30年代に入ると、戦争の影すら、探すことが難しくなっていったのです。当時の総理大臣吉田茂は、アメリカの方針転換を逆手に取り、日本の再軍備を承諾せず、憲法の改正すら手をつけずに放置しました。それは、「もう二度とアメリカの手先にはならない!」という宣言だったのかも知れません。しかし、それから半世紀後、その憲法が未だに改正もされず、放置され続けたとは、あの世の吉田も、驚いているに違いありません。こうして、日本は、「経済優先国家」に舵を切り、今に至っているのです。しかしながら、今の日本を築いたのは、一体だれなのでしょうか。
占領期の日本は、本当の日本ではありませんでした。いつもGHQの顔色を伺い、何があっても逆らわない姿勢は、まさに飼い犬のようでした。
マスコミも、GHQの検閲を受けると、反論記事を書くことを止め、自分で調べて「真実を書こう」というような記者はいなくなり、どの新聞社もGHQの御用新聞社と成り果ててしまったのです。
それも占領が終わるまでの我慢だと思っていましたが、GHQが作った体制は、元に戻すこともなく、現在に至っています。
軍の解体、財閥解体、帝国憲法の廃止、公職追放、農地解放、民法の改正、教育改革、共産主義の復活…と、それまでの日本の文化や歴史を覆し、アメリカ民主主義を置き土産のようにして、GHQは去って行きました。それが、今の日本を作ったのですが、あれから70年が過ぎ、日本は、本当に過去を反省し、立派な国に生まれ変わったのでしょうか。単にアメリカ民主主義に洗脳され、GHQが計画実行した「WGIP」(ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム)の罠に嵌められただけのことではないのかと思うこともあります。今の日本を本当に心から愛することができる日本人が、どのくらいいるのでしょうか。
最近の事件や事故のニュースを聞くたびに、日本という国が壊れて行きそうで、絶望感に苛まれることがあります。これから50年後、世界中で情報公開が進み、GHQが残した「WGIP」の呪縛から解き放たれたとき、今の日本人の姿を、未来の子供たちは、どう見るのでしょうか。間違っても、「誇れる日本人像」でないことだけは、確信できるような気がします。
第十五章 本当の日本人論
やはり、「革命によって作られた国が長持ちすることは、どうやらないらしい…」。もちろん、世界の国で、理想を実現したような国は存在します。貧しくても人々が仲良く、寄り添いながら心豊かに生きていく国はあります。
それはアジアの山岳地帯の国であったり、南洋の小さな島国であったりします。残念ながら先進国で、理想の国造りに成功した国は、今のところなさそうです。アメリカやヨーロッパの国々も、どうやら、人々の心を育てることはできなかったようです。
どんなに歴史を改竄しようとも、先祖が犯した過ちを消し去ることはできません。侵略によって他国を奪い、他国の民を奴隷として繁栄していった旧宗主国は、未だにその歴史を反省し、旧植民地の国民に謝罪したことはありません。そんなことをすれば、国家賠償を請求されるかも知れないし、日本と韓国のように、公然と批判される可能性だってあるからです。だから、みんな口を噤み、自国の歴史には、一行たりとも、そんな汚点を残すようなことはしないのです。しかし、旧植民地国は、それを表沙汰にはしませんが、心の中では、憎み、蔑み、信用することは金輪際ない…といった心情を抱えています。
それは、個々の人間同士でも同じです。大人になれば、子供時代のいじめなど、話題にすることもなくなりますが、その「心の痛み」を忘れる者などいないのです。もし、復讐する機会があれば、いつでも、その人間を社会から抹殺するでしょう。こうした恨みの連鎖は、いずれ、自分に跳ね返ってくるものと覚悟しなければなりません。
日本も、合法的に朝鮮、台湾、満州と、日本の権益を守るために統治した歴史があります。統治した側の日本人にとって、それは痛みにはなりません。日本は、その国々から資源や資産を奪ったわけではないからです。しかし、「誇り」は奪いました。人間にとって一番大切な「尊厳」が奪われたのです。
日本人も敗戦により、誇りを奪われること以上の屈辱を舐めました。しかし、権力に逆らう術はありません。従順に従い、機会を窺うしかなかったのです。「誇り」を奪われた国にとって、その誇りを取り戻すことは、けっして簡単なことでないのです。「おまえたちの国の先祖は、臆病者だ!」と言われて、だれが喜びますか。「おまえの親父は、勇気もない男だった!」と言われて、相手を憎まない子供がいるのでしょうか。感情というものは、そういうものなのです。残念ながら、戦前の日本人は、他国に対して傲慢でした。もちろん、日本人一人一人を見れば、そうではない人間も多かったことでしょう。しかし、空気は変えられません。「日本人が血を流し、必死の思いで得た土地は、どこの国の土地であろうが、そこは、日本の土地なのだ」「恨むなら、おまえの国を恨め」「お前の先祖を恨め」
何人もの日本人がそう言って、満州や朝鮮に渡ったに違いないのです。もちろん、それは非合法ではありません。そのときの政府間で話し合った結果のことでしかないのですが、当事者は、そうは思いません。「俺の土地を勝手に奪う権利がどこにあるのだ!」「なぜ、外国人が、ここにいるのだ!」
それは、現地の人間にとって耐えがたい屈辱であり、人としての尊厳を踏みにじる行為であったでしょう。それが、「帝国主義」の時代だといわれれば、そうなのかも知れませんが、「人の道」として許されないのは、万国共通ではないのでしょうか。
今更、それを謝罪し、賠償金を払ったところで、奪われた国の人々の傷は癒えないし、火に油を注ぐだけのことでしょう。そんなことは、だれもが、知っていることなのですから…。だったら、どうしたらいいのでしょうか?
それは、それぞれの国の人たちが、自分たちの原点に帰り、自分の国の歴史や文化を見直すことでしかないと思います。
今、日本人は、経済的な豊かさを手放すことができないでいます。豊かな国のはずなのに、貧困層は多く、いくら働いても、満足な生活ができません。豊かさを追求してきた結果が「格差社会」になっています。
「おもいやり」と言われた「情緒」も、外国人が思うほど、残されていないのが現実です。これからの50年で、日本人は、もう一度「日本人らしさ」を取り戻す必要があるのです。
戦後、70年が過ぎました。GHQによる占領も既に過去の歴史です。もう、そろそろ、GHQが残した「WGIP」の呪縛から解放されてもいいのではないかと思います。既に、外国人旅行者からは、戦前、戦後の日本人のイメージは払拭されているように見えます。来日する外国人が、求めているのは、豪華に飾ったホテルでもないし、金をかけた煌びやかな御馳走でもありません。懐かしい人の思いやりと、美しい自然と人間の調和なのです。
食事は、そうした環境が整った上にあるもので、卑しい心根の人々の中で、御馳走を振る舞われても、だれも喜びはしないのです。
いくら、予算をかけて表面を取り繕うとも、そこに暮らす人々の心根は、透けて見えます。形ばかりの接待も、そこに傲慢さが見えれば、人は、気分を害することでしょう。日本人は、「農耕民族」です。それも、八百万の神々と共に暮らし、田畑を耕し、収穫された作物を神に捧げる、美しき民族なのです。
その誇りを取り戻したとき、日本人は、本当の日本人に還ることができるはずです。そのためには、歴史の真実から目を逸らしてはなりません。見たくないことや、聞きたくないこともあるでしょう。でも、それも「先祖の物語」なら、敢えて、知る努力をしなければ、人は変わることができないのです。
だれも、傲慢になったり、独善的になったりすることを望む者はいません。
これからの50年を生きる、若い人たちには、歴史の真実を知り、「本当の日本人」らしく生きていって欲しいと願うばかりです。
あとがき
この、真説「昭和史異聞」は、今まで、あまり語られてこなかった昭和史の「異説」を書いたつもりです。もちろん「正史」ではありません。しかし、「異説」には、意外と真実が隠されていることが多いものです。我々が真実だと思わされていることが、何者かの陰謀によって、欺かれているのかも知れないのです。それでも、多くの読者は、ここに書かれたことを疑いの目を持って、読むことでしょう。「本当にそうなのか?」「勝手に、そう思い込んでいるだけではないのか?」「何が真説だ?ふざけるな!」と、思われても仕方がありません。しかし、今、少しずつ「大東亜戦争」の情報が、各国で公開されてきています。それでも、まだ、「極秘ファイル」に閉じたまま公開を渋る国もあります。それも、やむを得ないことです。それを公開してしまえば、今まで、施政者が自信を持って伝えてきた歴史が、悉く、覆ることを恐れるからです。しかし、私たちは、そうした捏造された歴史を知っているではありませんか。どんなに世間的に高位の者でも、有名大学の学者であろうと、人が保身に走るのを止めることはできません。日本が滅亡の淵に立っていることがわかっていても、昭和の高級軍人たちは、自分の保身や組織を守るために、国民に、さらなる犠牲を求めたではありませんか。
あのとき、昭和天皇のご聖断が下されなければ、本土決戦の後、たとえ、講和の道が開かれたとしても、国民は、軍も政治も皇室も信じることができず、日本国は、事実上崩壊したでしょう。
施政者は、何のために人の上に立つ権利を与えられているのか、考えてみたらいいのです。民の暮らしが立たないのに、皇室が存続できるはずがないのです。 人間とは、こうした愚かな思考しかできなくなるときがあります。それを、もう一度、ここで立ち止まって考えて欲しいと思います。今、日本に必要なのは、何なのか。経済的な豊かさなのか。日本人らしい生き方なのか。世界との競争力なのか…。
たとえ、経済力で世界一になったとしても、また、戦後のように、世界の人たちから「エコノミック・アニマル」と揶揄され、後ろ指を指されるのが落ちなのです。それより、東日本大震災で見せた東北人のような、我慢強さ、思いやり、謙虚さ、仲間との強い絆…などを大切にして生きていく方が、何倍も幸せではないかと思います。人間は、所詮、一人で生きていくことはできません。どんな肩書きも、名誉も、経済力も、人を豊かにしてはくれません。
もし、人が「笑って死ねる」日が訪れるとしたら、それは、温かな周囲の人々の涙を見たときでしょう。
現代の若者は、戦争当事者ではありません。GHQの洗脳を受けてきた時代の日本人でもありません。冷静に、客観的に「昭和」という時代を検証できる立場の人たちなのです。
「畏れることはない。若者には、若者の目がある」
その曇りのない目で、真実を炙り出して欲しい。それができたとき、きっと美しい日本の未来が開けるはずなのです。
完
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