ちょうど、私が大学の1年生のときに映画「八甲田山」が封切られ、私のいた青森県は、一種の「八甲田山ブーム」が訪れていました。主演は名優「高倉健」と「北大路欣也」で、三國連太郎や緒形拳などが出演していたことを覚えています。この映画は、直木賞作家の「新田次郎」が書かれた「八甲田山死の彷徨」が原作となったもので、この本で「冬とは、雪とは、寒さとは…」について知ったと言っても過言ではありませんでした。ちょうど、中学校のころ理科の先生が、授業の冒頭でこの本の「読み聞かせ」をしてくれたこともあり、「青森県」や「雪山」に興味を持ったのも事実です。この映画は、全国的に大ヒットし、後に高倉健が「自分の出演した映画で、忘れられない一本になった…」と語っていました。この映画は、何が「凄い」かと言えば、それはあの真冬の八甲田で長期ロケを敢行したことでしょう。私は、そのころ、青森県の弘前市にいましたので、吹雪の日は表に出られないくらいの風と雪で、「これは、今出て行くと遭難するな…?」と思ったくらいでした。福島生まれの私でさえ、その雪と風、そして寒さは半端ではありませんでした。特に朝晩の吹雪は、雪が下から舞ってくるのですぐに「ホワイトアウト」状態になるのです。実家に戻ったとき、父親に「青森の雪は、下から降ってくる」と言って驚かれました。後で、そのことで自分の身に怖ろしいことが起こるのですが、それは、後で書こうと思います。
昨年から東北地方や北陸地方では、これまで経験したことのない「大雪」に見舞われていますが、雪国の人々は、今でも、自然の猛威と戦って暮らしているのです。私は、日本人は、本来「強い民族」だと思っています。平成の時代に入ってからも多くの「自然災害」に見舞われました。その度に、たくさんの人が犠牲になり、全国各地で毎年「追悼」の式典が行われています。さすがに、ここ80年は「戦争」の被害はありませんが、それ以外の災害は度々起こり、日本人を苦しめています。しかし、それでも簡単に「へこたれない」のが、日本人の性根なのです。昨年は、全国的な「猛暑」が続き、作物に大きな被害をもたらしました。そして、年末から年明けにかけては、北日本から日本海側は「大雪」に見舞われ、何人もの人が亡くなっています。それでも、だれもその土地を離れようとはしません。なぜなら、そこが、自分の「故郷」であり、自分たちの祖先がずっと暮らして来た土地だからです。傍から見たら、「そんなに大変なら、さっさと引っ越せばいいのに…」と思う土地でも、生まれたときから育った土地というものは、家族と同じ位の「愛着」が湧くものです。私は、福島の南部の町で産まれましたが、その後は各地を転々としましたので、父祖の地からは離れてしまいました。しかし、それでも、「自分の魂」は、産まれた場所にこそあると信じています。きっと、何処で死のうと「魂」だけは、父祖の地へ帰って行くのでしょう。
この遭難事件は、日露戦争を目前に控えた明治35年の正月に起きました。日露が激突するとすれば、戦場は「満州」から「日本海」、朝鮮半島が想定されていましたので、当然、冬ともなれば、非常に厳しい戦いが想定されました。満州は、緯度も高く、その上「荒野の地」が大半でしたから、戦場には打って付けの場所だったのです。しかし、当時の日本には「ロシア帝国」を打ち破る能力はなく、できれば戦争は避けたいところでしたが、ロシアが朝鮮半島、そして満州に南下してきており、「日本の生命線」が脅かされていたのです。そして、遂に遼東半島の「旅順」まで手中に収め、堅固な「要塞」を築いているとなれば、最早、猶予はありません。このまま放置すれば、その力は日本軍を遥かに凌ぎ、戦うことすら不可能になってしまうのです、追い詰められた日本は、真に「やむを得ず」開戦を決断しました。それでも、明治天皇や伊藤博文などは、「何とか妥協できないものか?」と、最後まで粘ろうとしましたが、ロシアの意思は固く、ロシア皇帝「ニコライ二世」は、「戦争で決着をつけてやる!」と自信のほどを見せていたのです。それに対して、国際社会は傍観するばかりで、日本を積極的に支援してくれるのは「日英同盟」を結んでいたイギリスだけでした。しかし、イギリスは「支援する」と言っても、ロシアの情報を日本に送ってくれたり、ロシア軍への妨害活動などを行うだけで、それ以上のものではありませんでした。要するに、世界は「日本の実力」を見定めようとしていたのです。
しかし、近代化して間もない日本が、ロシア軍相手にどれだけ戦えるかわかりません。まして、「冬季戦」ともなれば、日本では経験したこともないのです。多くの「内戦」を経験した日本ではありますが、戦は「農閑期」に行われるのが常で、戦場になった場所も、西日本が中心で、最後の戊辰戦争も「冬の来ないうちに終わらせよう…」として、夏から秋にかけて行われました。そのため、「冬の戦」の経験が不足しているのです。それに比べて、ロシアは国土そのものが北方にあり、冬季戦には慣れています。かの、ナポレオンもロシアの「冬将軍」に敗れたことで、その力を失ったと言いますから、絶対的に「ロシア有利」は、だれもが思うことでした。それに、国力の差は大きく、「ロシアが本気になれば、新興国の日本などひとたまりもない」というのが大方の見方でした。そのため、戦費を調達しようにも、負けがわかっている日本に資金を用立ててくれる資本家はいませんでした。同盟国のイギリスでさえ僅かな「国債」しか買って貰えません。当時の高橋是清日銀副総裁は、それでも必死になって世界を駆けずり回ったといいます。余談ですが、その「高橋是清」大蔵大臣は、昭和のテロ事件で暗殺されてしまいました。日本の近代史に燦然と名を残した英雄は、理不尽な「テロ」で殺されたのです。
そんな緊迫した情勢の中で、この遭難事件は起こりました。映画では、無謀な計画を推し進めた「無能な一人の指揮官」によって被害が拡大したかのような描き方をされていますが、実際はどうだったのでしょう。もちろん、この遭難事件については、多くの書籍が出されており、専門家の分析もされていますので「謎」というほどのものは残っていないのかも知れませんが、私自身の「雪国」の体験と知り得る限りの情報を基にして疑問に思う点について考察してみたいと思います。そして、どんなに科学文明が発展しても「自然の猛威」というものを過信してはならないということを、改めて考えていきたいと思います。因みに、このときの「雪中行軍隊」は、弘前の「歩兵第31連隊」と青森の「歩兵第5連隊」がほぼ同時に八甲田山に挑んでいます。それも、弘前隊は「小隊編成」で実施し、期間も10日ほどを予定しているのに対して青森隊は「中隊編成」の上に、期間は僅か2日間です。これほど大きく異なる「雪中行軍隊」の意味するところは何でしょうか。今回は、「青森第5連隊」の行動を追いながら考えてみたいと思います。
1 青森歩兵第5連隊(雪中行軍隊)遭難前夜
遭難事件が起きたのは、明治35年(1902)1月23日のことでした。日露戦争が始まるのが、明治37年(1904)2月9日ですから、ちょうど2年前の出来事になります。いよいよ、日本とロシアの関係が悪化してきて、日本軍もかなりの緊張感を持って新しい年を迎えたころでした。当時、雪中行軍は日本の何処の連隊でもあまり経験がなく、青森第5連隊にしても経験者は少なく、これから計画を練って実施していこうという矢先のことでした。県内の連隊で実績のあるのは、弘前にある歩兵第31連隊で、ここでは、既に「岩木山」への雪中行軍の経験があり、福島泰三大尉を中心にして研究が進められていました。この福島大尉が映画では高倉健氏が演じた「徳島大尉」です。福島大尉は、小隊編成の雪中行軍の実績があり、それは主として「研究」が目的でした。先にも述べたように、日本陸軍としても「冬季戦」の実績が乏しく、まして「積雪」がある場合の戦闘など考えたこともありません。装備も貧弱で、戦闘どころか、兵隊の装備品も用意がないのです。このあたりは、映画でも描かれていましたので、そのとおりですが、兵隊の多くは岩手県や宮城県の者が多く、青森県内の豪雪地帯の者は少なかったようです。
南国の人は、青森も岩手も左程の違いはわからないと思いますが、東北地方でも太平洋側は雪が少なく、日本海側が雪が多いのが特徴です。したがって、出身地によって「雪の備え」が違って来るのです。たとえ、東北の連隊と言っても、連隊長が寒冷地出身者とは限りません。事実、第5連隊の津川謙光連隊長は、鳥取の人ですから、経験に基づいた指導はできません。「研究しろ」と言われても、正直、部下に頼る他はなかったのです。映画の主人公の弘前の徳島大尉(福島大尉)は群馬県、青森の神田大尉(神成大尉)は秋田県の出身です。どちらも「雪」は知っていても、山岳地帯の「冬」の経験がありません。それだけに、研究もかなりの慎重さを求められていたようです。弘前の福島大尉は、研究のために小隊編成で雪中行軍を行っていますが、どれも下士官、見習士官、少尉、中尉の特別な編成で行っていました。これは、飽くまで「研究」が目的の特別編成で、いきなり経験のない兵卒を動員することはできなかったのです。これだけでも、当時の日本軍が「寒冷地」での戦闘を考えていなかったことがわかります。そして、この研究が、2年後の「日露戦争」の戦いにおいて役立ったはずです。事実、明治38年の正月に起きた「黒溝台の会戦」では、厳しい寒さの中で、日本軍はロシア軍の猛攻に耐え、陣地を守り抜きました。そこで、福島大尉は胸に敵の銃弾を受けて戦死しています。おそらく、部隊の中隊長として最前線で指揮を執り、非業の最期を迎えたのだと思います。あの遭難事件から、ちょうど「3年」の月日が経過していました。
そんな「日露戦争前夜」の慌ただしい世相の中で、この事件は起こりました。それは、青森第5連隊の焦りにあったような気がします。第5連隊が所属する第八師団は、日露戦争を予測して「北方の警備」と「冬季戦」の主力となることを想定して創設された師団です。師団長には、戊辰戦争で活躍した桑名藩の名将「立見尚文中将」が就任していました。立見中将は、戊辰戦争では「雷神隊」という部隊を率いて新政府軍と戦った経歴を見込まれて陸軍に入った強者でした。若い頃の戦いぶりは、勇猛果敢、敵の意表を突く知恵者でもあり、西南戦争では西郷隆盛を追い詰めた実績がありました。そのことは、第八師団の将校ならだれもが知っている武勇伝です。そうなると、第5連隊の津川謙光中佐にしてみても、師団長の眼は常に気になるものです。それだけに、同じ県内にある弘前第31連隊に負けるわけにはいきません。そんな「競争心(ライバル心)」が、事の発端だったような気がします。実際には、映画で描かれたような「旅団司令部」で旅団長から、徳島(福島)、神田(神成)両大尉に「八甲田を歩いてみたいと思わないかね…?」などという質問は演出でしかなく、そんな会議が開かれた形跡はありません。まして、「旅団」とは言っても、単に司令部が置かれているだけで「参謀」も配置されておらず、実際の戦場でのみ機能する組織なのです。したがって、特に第八師団や旅団から「雪中行軍実施命令」が出されたわけではないのです。しかし、当時の雰囲気を考えれば、陸軍部隊が「雪山を知る」ことは喫緊の課題であり、そのための「研究」は、日露戦争を見据えた大事な案件になっていました。その「研究」に先を越された津川連隊長が、弘前第31連隊長の「児玉軍太大佐」にライバル心を持つのは当然と言えるのです。
そんなとき、弘前第31連隊が「八甲田山に挑む」という情報が、第5連隊にもたらされました。もし、弘前が八甲田山を踏破すれば、岩木山と合わせて青森県内の二つの最大の山を踏破することになります。それも「冬季」にです。この時代、冬の「山岳踏破」は陸軍においては初めてのことで、「岩木山」のときも、師団長の立見中将から児玉連隊長は誉められたばかりでした。そのときの悔しさを津川連隊長は忘れてはいませんでした。そのために、第5連隊も研究を始めてはいましたが、なかなか、弘前のようなわけにはいかず、考えれば考えるほど「弘前を超える」のは難しかったのです。そこで急遽考えついたのが「中隊編成」での「八甲田山雪中行軍」でした。さすがに、「冬の八甲田山」を踏破するとなると、まったく未知の世界であり、街中でも時に吹く突風で昼間でさえ「ホワイトアウト」になることさえあったのです。私の学生時代も、高校生が自転車で下校途中に帰宅できず、翌日、通学路の橋の上で凍死していたという事故がありました。部活動で遅くなり、雪の中を自転車で自宅に帰ろうとする後ろ姿を学校の教師が見ていたそうです。街中でさえ遭難する危険性があるのに、まして「冬の八甲田山」に向かおうというのは、いくら軍隊といえども無謀といえば無謀でした。それは、実際の「青森の冬」を知っているからこそ言えることです。しかし、鳥取生まれの津川中佐は、雪の本当の姿や怖さを知りませんでした。いや、知ろうともしていなかったのです。ただ、「弘前に負けたくない」一心で思いついた計画でした。
明治35年(1902)1月23日、青森第5連隊は、「神成文吉大尉」(映画では、神田大尉)を指揮官に中隊編成で「八甲田山」に一泊二日の行程で実施することが決まりました。それは、先にも述べたように弘前第31連隊が「八甲田山」に挑むという情報が入ったからです。それも、弘前はいつもの「小隊編成」でした。このあたりは、映画でも描かれましたので、雰囲気はわかるかと思います。軍隊というところは、昔も今も強い口調で主張する者の意見が通りやすいという欠点があります。これは、どんな組織でも言えることなのでしょうが、たとえ根拠は乏しくても、「断じて行えば鬼神もこれを避く」という諺があるように、日本人は得てして最後は「精神論」に行き着くようです。第5連隊でも同じことが起きました。やはり、一番慎重だったのは指揮官の神成大尉だったようです。それはそうでしょう。中隊編成と言っても主力は神成大尉が担当する「中隊」ですから、兵隊の健康や安全に一番気を遣うのが中隊長である神成大尉本人なのです。彼にしてみても連隊長から「やってくれ…」と言われて断ることなどできようもありません。それに準備期間が、あまりなかったようです。正月の23日と言えば、「松の内」が取れてさほど経っていません。それに第5連隊では、正月早々に「軍旗祭」があったようなのです。これは、今でいう高校の文化祭のようなもので、準備は年内から始まっていたようで、落ち着いて「雪中行軍」の準備などできる余裕はありません。
参加する兵隊たちにしてみれば、「一泊の行軍」で、目的地は「田代新湯」(若しくは元湯)と聞けば「温泉に浸かって一杯…」と想像しても仕方がないことです。これでは、気分的には、まるで「小学生の遠足」と左程違いはなかったでしょう。若い兵隊たちにしてみれば、たとえ軍隊とはいえ、「お正月」でお屠蘇を味わい、「軍旗祭」でワイワイと楽しく過ごし、そして「遠足で温泉」となれば、浮かれて当然でした。そんなときに、しっかりと「防寒装備」に気が回る者などいるはずがないのです。あるとすれば、雪山の暮らしに慣れている者だけでしょう。映画では、緒形拳が演じた「村山伍長」(村松伍長)が、一人、唐辛子や油紙を買い、雪中行軍に備えているのが印象的でした。そして、彼一人が目的地である「田代」にまで辿り着いたのです。本来であれば、「雪山への備え」を指示するのが指揮官である神成大尉や部下の将校たちの役割だったはずですが、それをしている形跡はありません。そもそも、当時の陸軍に「冬の装備について」の教本がないのですから、やる兵隊も命令する将校もいないのです。軍隊とは、すべてが「マニュアル」に従って行動するよう教育を受けており、それに背いて行動することは「軍律違反」を問われるのですから、仕方がありません。大東亜戦争中も、そんなマニュアルに従って早々に戦死した指揮官が多かったといいます。
当日、この雪中行軍に参加した将兵は、全部で「210名」でした。そして、そのうちの9割に当たる「199名」が遭難死しています。生き残った村山伍長も凍傷による「腕の切断」という形で描かれていました。昭和40年の初めまで生き「八甲田ロープウェイ」に乗って「美しく紅葉した秋の八甲田山」を眺める場面は、八甲田山という山の怖ろしさを改めて感じさせてくれました。「美しい」ものは、時として「怖ろしい」ものになるのだと感じます。さて、この「中隊」には、神成大尉の率いる下士官・兵卒の他に、特別編成の部隊が随行していました。それが、山口少佐率いる「大隊本部」です。映画では、三國連太郎が「山田少佐」として演じていました。本来であれば、別段、大隊本部が行軍について行く必要はありませんが、やはり、「研究」を目的とするとなれば、中隊とは別に「研究」を主目的とした人員が必要だったのでしょう。ここにも、弘前第31連隊への対抗意識が見えます。おそらく、津川連隊長にしてみれば、(そっちが小隊編成なら、こっちは中隊編成の大人数で実施してやる…)そして、(軍隊を移動させる以上、中隊以上でやらなければ意味がない)とでも言いたかったのかも知れません。所詮は、本当の「雪の怖ろしさ」を知らない人間の見栄や競争心で実施された行軍であり、しっかり練った「計画」に則ったものでないことだけは確かでした。
2 青森歩兵第5連隊(雪中行軍隊)出発
1月23日(第1日目) 早朝の午前 7時00分。筒井村(現青森市)の歩兵第5連隊の屯営を210名が、隊列を整えて出発して行きました。真冬の午前7時と言えば、まだ、やっと夜が明けたころの時刻です。青森の朝は殊の外寒く、210名は、氷点下の中を八甲田山目指して動き出しました。冬の青森は、日中でもお日様が顔を覗かせることはほとんどなく、ずっと灰色の厚い「雪雲」が空を覆っています。こうした毎日を送っていると、人間は次第に無口になり、下を向いて歩くことが多くなりがちです。それが、東北人の性格を創っていったのでしょう。天候は、出発時には穏やかで、風もあまり吹いてはいませんでしたが、次第に風も強まり、歩いている兵卒たちを不安な気持ちにさせていきました。しかし、軍隊では私語は厳禁です。そんな心の中の不安な気持ちを吐露する場所はどこにもありません。それは、指揮を執る将校たちも同様でした。実際、「雪中行軍」と言われても、経験のある者は少なく、まして「八甲田山」そのものを歩いた者も少なかったはずです。彼らにとって「歩く」と言っても、自由散策ではありません。「隊列」を整えて、ひたすら指揮官に命ずるままに歩くだけのことですから、周囲に気を配る余裕すらないのです。もし、一般のハイキングであれば、不安な気持ちを打ち明けて、早々に「引き返す」判断もできたでしょうが、一旦、計画が動き出すと余程のことがない限り「中止命令」が出せないのが軍隊なのです。
しかし、このとき、明治の「気象観測」始まって以来の「爆弾低気圧」が青森県地方に迫って来ていたのです。中隊は、屯営を出るとすぐに南下し八甲田山に直接向かうルートを取りました。そこで、最初の集落が「田茂木野村」になります。そして、ここから「八甲田山」に入って行くのです。田茂木野村に210人の部隊が到着したのですから、村としては大騒ぎです。もちろん、事前連絡はしてあったにしても、当時、軍隊は「天皇の軍隊」というイメージが定着していましたので、場合によっては、警察より強い力を持っていました。それに、村からも多くの若者が第5連隊に所属していましたから、村としても丁重に扱う必要があります。事前連絡では「案内人を頼む」ということでしたので、その準備を整えて待っていました。ところが、中隊が到着すると「案内人は不要」という話になりました。映画では、大隊本部の「山田少佐」が神田大尉の進言を無視したことになっていますが、実際はよくわかりません。確かに「方位磁針」を将校の何人かは携帯していましたので、「地図と磁石があれば、田代くらいなら行けるはずだ…」という思い込みがあったのかも知れません。そう言われて、村人も(こんな大雪の日に八甲田に登ろうというのは、無茶な話だ…)と思っていたと思いますが、下手なことを喋って咎められてもつまらないので、だれもが下を向いてしまいました。映画などでは「山の神様の日だから、やめたほうがいい…」と村人が進言したとなっていますが、実際は、特に信仰上の「山の日」ではなかったようです。それでも、怪しげな空を見れば、雪山の経験のある村人なら「危険」は察知したはずです。
もし、本当に指揮権が中隊長の神成大尉にあり、大隊本部の山口少佐が勝手に案内人を断ったとしたら、それは重大な軍律違反になりますが、それを咎めた記録はありません。したがって、形式上は中隊編成でも上官の山口少佐が随行している以上、本来の指揮権は「山口少佐」にあったと考えるべきです。軍隊の「命令系統」は厳しく定められており、上官であっても他の部署に口出しすることは許されません。海軍では、これを「軍令承行令」と言って、「兵科の将校」にのみ戦闘中の指揮権がありました。そのため、機関科と兵科の間で揉めて、終戦間際にやっと両科が統合されたという話が残っています。まして、同じ連隊の大隊長と中隊長の関係ですから、指揮権がどちらにあったかは明らかです。これは、想像ですが、山口少佐が勝手に判断したのではなく、将校たちが集まって協議した上で「案内人不要」としたと考えられます。だれもが、冬の山岳登山の経験がなく、「冬の八甲田山」を甘く見ていたと言われても仕方のない判断でした。
結局、村人たちは(何を言っても仕方がない…)と諦めて、210人の兵卒の列を見送りました。きっと、心の中では(多分、多くの兵は帰っては来られないだろうな…)と思っていたはずです。今でもそうですが、冬の山岳登山は危険極まりないことは、登山家たちは百も承知しています。そして、現代の科学力で作り上げた装備品を身に付けて雪山にチャレンジしていることを考えれば、八甲田山そのものより、他の雪山であっても「遭難」は必至だったような気がします。確かに、地図を見れば、青森の屯営から田代新湯(または元湯)までの距離は左程ではありません。しかし、正確な地図も持たず「方位磁針」ひとつで210人もの人間を安全に到着させるのは、どう考えても無理と言うものでしょう。記録では、この時代の兵卒の冬服は「木綿製」で軍手には防水加工もされていません。外套も「木綿」で「毛織物(ウール)製」は高価で兵卒用にまでは回らなかったようです。それでも、冬山の経験のある兵は、シャツの下に新聞紙を巻いたり、靴下だけは「毛」の物にしたり、足を油紙と唐辛子で保護したりと工夫をしたようです。彼らは、実家が農家やマタギで「炭焼き」などをしていた経験から、冬山での過ごし方を学んでいたのです。その他の兵卒は、マニュアルもなく、強い命令もなかったことから、普段の「冬装備」だけで、この行軍に参加していました。結局、それが命取りになったのです。
田茂木野村の人たちに、編成外であるはずの大隊本部が、「案内人は要らぬ!」と言ってしまったために、中隊指揮官の神成大尉は驚きました。事前に弘前の福島大尉の「雪中行軍計画」について、第31連隊に尋ねて見ると、小隊編成だけでなく、すべての行程を「民泊」に頼っており、随所で「案内人」を立てていたことがわかったからです。それを見た神成大尉は、最初は(なんだ、民泊と案内人がいたんでは、軍の行軍とは言えんじゃないか?)と思いましたが、詳しいことを調べるに連れて「雪中行軍」がもの凄く大変な難事業であることが分かって来たのです。行軍の途中で猛吹雪に見舞われ、隊員がけがをしたり、凍傷を負った隊員が出たりと、案内人がいなければ全員が遭難していた可能性まで指摘されていました。福島大尉は、日頃から「助け合う」ことを禁じていました。それは、「一人が倒れれば、その一人を助けようとしてさらに次の一人が倒れる。そして、その二人を助けようとして四人が倒れ、隊は全滅するのだ」というものでした。つまり、その「死の連鎖」を防ぐために、特別編成の「小隊」を組んだのです。この隊には、兵卒はいませんでした。参加したのは、志願した優秀な下士官と見習士官、そして将校たちでした。それも、だれもが経験豊富で屈強な兵士なのです。それだけ用意周到に準備をしても「冬の八甲田」は怖ろしいものだったのです。
その事実に呆然となった神成大尉は、急いで田茂木野に部下を向かわせ「案内人の依頼」をしていたのです。それが、将校たちの協議の結果、山口少佐が「不要!」と命じられたことは、神成大尉にとって狼狽えるほどのショックだったのです。(これから先、どうしたらいいんだ…?)そんな思いが、頭の中を何度も駆け巡りました。それでも、決まった以上、最善を尽くさなければなりません。神成大尉は、自分が先頭に立って「地図」と「方位磁針」だけで、目的地である「田代」まで行くことを決意しました。しかし、正確な地図は出来上がっておらず、地図上では「田代」の記載すらなかったと言います。それを調べて、予測を基にして神成大尉は大凡の地点を記していました。しかし、地図上の「田代」は、神成大尉の想定通りでしたが、実際は、道なき道を進み、駒込川に沿って行かなければならず、その「道」は積雪で埋もれているのです。神成大尉の頭の中には、通常の道沿いに「田代」があり、温泉宿らしき建物があると考えていたようですが、いわゆる「温泉宿」ではなく、ほとんど「小屋」同然の家屋が数軒あるだけでした。そして、冬季になると、そこに人はおらず「新湯」と呼ばれる一軒に夫婦が泊まり込んでいるだけでした。そして、その家に連絡する方法がないのです。こんな乱暴な計画で200人以上の男が歩いて「冬の八甲田」を進もうと言うのですから、無謀の謗りは免れません。それでも、命じられた以上、成功させるのが指揮官である神成大尉の使命なのです。もし、しくじれば、彼の今後の出世はなくなるのです。今でもありそうな話ですが、「ばかな上司の尻拭いをさせられる部下」は、本当に気の毒だと思います。幸い、神成大尉の懐には「懐炉」があり、当面、磁石が凍る心配はありません。もし、磁石がだめになれば、それは、この雪中行軍隊の「遭難」を意味するのです。
しかし、天候は次第に悪化するばかりで、田茂木野村の先の「小峠」にやっとの思いで到着しましたが、兵卒の多くは汗を掻き、息を弾ませていました。それに、炊飯用の資材を運んだ「橇隊」が遅れていることに気づきました。橇隊の兵卒たちは、外套を脱ぎ「汗だく」で橇を押し続けていたのです。素人は、「雪なら橇が使えるだろう…」と考えがちですが、それは雪を固めた後の凍った路面などの話で、今、積もっている雪は「綿」と一緒ですから、重い資材を積んだ橇などは、すぐに雪に埋もれてしまうのです。こんな初歩的なことも神成大尉たちは知らなかったのです。まして、福島大尉の「弘前隊」の計画には、橇などどこにも書かれていませんでしたから「新雪で橇は使えない」ことに気づかなかったのです。まさに「迂闊」と言えば「迂闊」でした。「小峠」で休憩を取った行軍隊でしたが、空は暗くなり、暴風雪の気配がしてきました。このとき、将校たちの動揺を見透かしたように「永野軍医」が、意見を山口少佐に述べました。それは、「医官」としての進言でしたから、軍医としての当然の義務でした。永野軍医は「これは、間違いなく暴風雪になる前兆を現しています。兵たちの装備は、この暴風雪には不十分ですので、ここは一旦帰営し再起を図るべきです!」と空を見上げながら具体的に根拠を示したのです。
映画の中でも、この場面はかなり正確に描かれていました。将校たちも(やむを得まい…)とする表情が明らかでしたので、神成大尉も(それしかあるまい…)と考えていた矢先に、それを側で聞いていた「見習士官」や「特務曹長」たちが、山口少佐が決断する前に口を挟んだのです。それは、平時であれば「越権行為」ですが、この場合、士官待遇(見習士官・特務曹長)の意見を多くの将校が聞き入れました。すると、彼らは「軍の演習である以上、たとえ行軍といえども、敵中にあることを想定しなければなりません。ここで退いては、軍の威信に関わります。ご再考を願います!」と告げたのでした。確かに、「軍の威信」と言われてしまえば返す言葉がありません。しかし、それでも、永野軍医は「いや、このままでは遭難の怖れすらある事態だ。引き返すのが賢明である!」と話しますが、見習士官たちも引き下がりません。結局、山口少佐の「もう少し、進んで様子を見よう…」という消極的判断が結論になったのです。これに対して、中隊指揮官の神成大尉は口を挟みませんでした。そして、だれも神成大尉に意見を求めなかったのです。多分、それは、階級が「大尉」であっても、彼が正式な「士官学校」出の将校ではなく、下士官養成のための「教導団」出身だということがあったからだと言われています。それに、彼は「平民」身分なのです。
明治中期になると、既にこうした「序列」ができており、正規将校は「士官学校」を卒業して「見習士官」「少尉」へと進級していきますが、「教導団」出の場合は、下士官である「伍長、軍曹、特務曹長」と進み、将校である「少尉」へと進級するため、余程の努力をしないと神成大尉のような「大尉」クラスに昇ることはできませんでした。そういう意味では、神成大尉は優秀な下士官でもあったのです。そんな負い目が、士官学校出の将校たちの前で意見を言えなかった理由だと囁かれています。ここでの決断が、この後の「生死」を分けることになりました。こうした場面というのは、だれでも生涯のうちで一度や二度は経験しているのではないでしょうか。もちろん、「生死を分ける」までには至らなくても、周りの雰囲気で意見が言えない状態に置かれて、渋々やってしまったことが、後に「大失敗」となることは、いくらでもあることです。歴史を振り返れば、大東亜戦争の開戦にあたり、政治家や軍人たちが協議を尽くし、必死の外交努力を重ねても尚、日米交渉に妥協点が見出せなくなったとき、「清水の舞台から飛び降りる心境で決断した」と言った総理大臣は、敗戦後、欺瞞に満ちた「東京裁判」で戦争犯罪人の汚名を着せられて「絞首刑」になりました。だれが考えても、「清水寺の舞台」から飛び降りれば、死ぬに決まっています。このとき、本当に最善の策を採ったのでしょうか。大半は、日和見的に「やむを得ず…」だったような気がします。「雪中行軍隊」も、こうした「やむを得ず」退却ができなかったとすれば、人間とは如何に「弱い」生き物であるかがわかります。もし、アメリカ人なら、どうするのでしょう。
3 青森歩兵第5連隊(雪中行軍隊)爆弾低気圧
「小峠」で議論の末、進むことを決断した「行軍隊」でしたが、逆に兵卒は休むどころか、さらに体力を奪われる結果になりました。「食事を摂れ!」の命令が出ましたが、持参した「握り飯」も「焼き餅」も石のように固くなっており、食べられたものではありませんでした。映画でも兵卒が「こんなもん、食えるか!」と雪の中に投げ捨てる場面が描かれましたが、これを捨てることは、食べる物がないことになるのです。食糧等を積んできた「橇」も放棄せざる得なくなることは明白でした。やせ我慢しようにも、もの凄い暴風雪の中では体がかじかみ、体温が下がる状態にまでなっていたのです。そのうち、それまでに掻いた「汗」が凍り始め、最早、歩くことすらままならなくなってきました。小便もズボンをはいたまま垂れ流す他はなく、そこから凍傷が始まり、下半身が凍り付きました。それでも、兵隊たちは何とか前の兵卒についていく形で進み「大峠」から「馬立場」まで進みました。早朝7時に出た「行軍隊」は、午後になっても風雪に晒されたまま過ごし、夕方になっても目的地には着きません。そうなると、ただでさえ薄暗かった周囲が真っ暗闇に変わっていくのです。本当は(今ごろは、温泉に浸かって一杯飲んでいるはずが…)未だに右も左もわからない雪の中で喘いでいました。もう、近くにいる仲間のこともわからなくなりました。
そして、遂に「橇」を放棄しなければならないほど橇隊は遅れ、資材はそれぞれの兵卒が背負うことになりました。大汗を掻きながら、体力を使い果たした兵にもう残す力はありません。橇隊の兵から、次々と雪の中に沈んでいったのです。小銃を担いでいるだけでも苦しいのに、それ以上に米や炭、飯炊き釜などを背負わされて歩ける人間はいません。そんなことすら、将校たちにはわからなくなっていたのです。それでも、指揮官である神成大尉は、「斥候」のために10数名を先行させましたが、結局、「田代」への道は見つからず、同じところをぐるぐると回っていただけに終わりました。神成大尉は間違いなく「田代」の方向を示し、命令を下したのですが、夜になって川に下りていくことは恐怖以外の何ものでもないのです。しかし、「田代」に行くには、それしかないのですが、下見をしたことのない神成大尉は、結局「川沿いの道を探せ!」と命じることができなかったのです。そのうち、神成大尉の懐炉の灰もなくなり、頼みの「方位磁針」が用を足さなくなりました。それは、他の将校たちの物も同じです。残るは、「地図」だけですが、これも不正確な地図で、あまりあてにはなりませんでした。それでも、神成大尉は自分が進んだ道を細かくチェックしながら、間違いなく「田代」へ一歩ずつ進んでいたのです。
実は、私も経験があることですが、吹雪の中で「道に迷う」ことは普通に起こることだということを知っておく必要があります。私が大学2年生の冬の夜のことです。時期は、やはり2月頭のころだったと思います。下宿先から30分ほど歩いた家で、私は小学校5年生の家庭教師をしていました。学生には有り難いアルバイトで、1年くらいはやったと思います。2時間の指導を終えた私は、家の人の好意に甘えて、晩ご飯をご馳走になりました。当然、二十歳を過ぎていましたので「お酒」も頂戴して、夜の9時過ぎに家を出ました。その日の夜は、弘前にしては珍しく静かな夜で、空にも星が見えていたのです。空気はキリッと澄んでおり、吐く息はすぐに真っ白になって消えて行きます。酒で体は温まり、気持ちよくなった私は歌を歌いながら、来た道と同じ道を辿りながら歩いていました。すると、ちょうど曲がり角に差し掛かったときです。私はふと、そこで立ち止まりました。左手には「林檎畑」が広がっています。何を思ったのか、私はこの林檎畑を斜めに突っ切ることを思いついたのです。(こんなに穏やかな日なんだから、ここを斜めに渡ればすぐに下宿に着くぞ…)酔った頭でそう考えたのでしょう。私は、躊躇いもせず、トコトコと林檎畑の中に入って行きました。ところが、林檎畑の中に入ってみると、なんと、体が雪の中に沈んで行くではありませんか。冷静になって考えればわかることですが、林檎畑には新雪が降りつもり、林檎の木は三分の一を雪の下に隠していたのです。
私は、驚きましたが、それでも数歩、前に足を出して進みました。本当は、そのとき勇気を出して即座に「戻る」べきだったのです。しかし、酔った頭は、そういう思考にはさせませんでした。「ええい、ままよ…」と、そのまま泳ぐように進むともういけません。目の前が「真っ白」な煙で何も見えなくなったのです。これが、世に言う「ホワイトアウト」現象でした。降り積もった雪は、まさに「パウダー」のように、ふっと息を吹きかけただけで宙に舞うのです。私が動けば動くほど、私の周りの雪は舞い上がり、私の視界を閉ざし続けました。(これは、だめだ…)と後ろを振り返ったときには、同じ現象が起こり、どっちが後ろか、右か左かもわからなくなっていたのです。そして、何かが見えてもそれは「林檎の木」ばかりです。そんなことを繰り返して、どのくらいの時間が経ったでしょうか。最早、歩く気力を失った私は、呆然とその場に立ち竦んでいました。もう、酔いはとっくに醒め、足の指も手の指も感覚がありません。寒さで眠くなって来ました。このとき、私の脳裏には(ここで死ぬのかな…?)ということだけでした。でも、(ここで寝てしまえば、楽だろうな…?)という思いに駆られ、睡魔と戦う勇気もありませんでした。別に「死」は怖くはありません。ただ、みんなに迷惑をかけることだけが気がかりでした。このとき、私には間違いなく「死神」が近づいていたと思います。
しかし、私にはまだ「運」が残されていました。確かに、体は冷え切り、手も足も指先に感覚はありませんでしたが、私の冬装備は、素人にしては「完璧」だったと思います。下着の上にスキー用のアンダーウェアを着て、その上に厚手のセーター(ウール)を着ていました。そして毛のマフラーにダッフルコートです。下は、やはりスキー用タイツの上に冬用の厚手のズボン、そして冬用長靴で、靴下は厚手の二重ばきでした。それにキャップに耳当て、スキー用手袋です。幸いだったのは、ついさっき飲食をすませ、酒も少量入っていたことです。これだけでも、雪中行軍隊の兵卒とは大違いでした。林檎畑の中を歩き回っていると汗を掻きますが、それが、立ち止まると、あっと言う間に汗が冷え体全体を包んでいきます。そして、シャツが凍り始めると体温が奪われ「低体温症」になるのでしょう。それは、実感としてわかりました。もし、後1時間、同じ事を繰り返していれば、私の体力は奪われ「低体温症」にかかり、そのまま眠ってしまったかも知れません。そうなれば、後は「凍死」するのを待つだけです。しかも、深い雪の中に沈んでしまえば、発見は難しく、助かる可能性は限りなく「0」に近くなるのがわかっていました。
その「眠気」は、疲れと共にやって来ます。それは、まるで「雪女の誘惑」のようでした。ところが、そんな眠気の中で、なんと、呆然と立ち尽くす私の眼の前の「白い霧」が一瞬だけサッと消えたのです。おそらく、それは、私が身動きしなかったせいでしょう。私が動かなかったために「パウダースノー」が舞い上がらなかったのです。すると、私の眼の前に、街の灯りと「線路」が現れました。それは、まるで一枚の「絵画」のようでした。黒い空に無数の白い点。ぼんやりした黒い建物と目映いばかりの家の灯り。そして、僅かに周囲を照らす街灯の明かり。そして、真っ直ぐに引かれた梯子状の「線路」。手前には「真っ白な雪」と「林檎の木」。この風景は45年経った今でも、脳裏に刻まれています。因みにその線路は、私がいつも使っている「弘南鉄道」の線路でした。弘前市民にとって「弘南鉄道」は、生活の足であり、貴重な輸送手段なのです。この「線路」に気づいた私は、ハッと我に返りました。そして、眼を見開き、ただひたすら線路を目がけて雪の中を「泳いだ」のです。そして、自分の体力のすべてを使い切って、私はその「線路」に辿り着きました。空は、相も変わらず晴れ上がり、無数の星が煌めいていました。(ああ、助かった…)私は線路上で空を見上げながら、自分を見捨てなかった「神」に手を合わせたのです。そして、雪まみれになった姿で足を引きずりながら、やっとの思いで下宿まで辿り着きました。そのころになると、あれほど晴天だった空が曇り、雪が降り始めていました。本当にチャンスは、この1回だけだったのです。時計を見ると、既に12時を回っており、30分で歩ける距離を「3時間」をかけて踏破したのです。これが、私の「死の行軍」です。私はこれを「林檎畑遭難事件」と呼んで、自分の戒めとしています。下宿に帰り着くと、深夜にも関わらず、下宿の仲間たちが心配して起きていてくれました。当時、こうした街中での遭難事件は度々起きていたからです。それでも、幸いなことに、私は凍傷にかかることなく「しもやけ」程度ですみました。
スケールはまったく異なりますが、あの雪中行軍隊も、こうした一瞬の「判断ミス」が招いた悲劇だったような気がします。組織というものは、大きければ大きいほど、その大きさに目が眩み、何でも「大丈夫だ…」と思いがちですが、それは、飽くまで多くの「知恵」が使えることが前提です。私の遭難は、私一人の判断でした。もし、側にだれかがいて助言をしてくれていれば、そもそも、林檎畑に足を踏み入れることはなかったはずです。この一瞬の「判断ミス」が災いを招いてしまうのです。第5連隊の行軍隊も、田茂木野村で案内人を頼まなかったこと、そして、永野軍医の専門的な助言に耳を傾けなかったことなど、災いを回避する術は何度もありました。そして、多くの人間がいながら、その「知恵」を有効に活用しなかったことが、悲劇を招いたのです。そして、その失敗はさらに繰り返されて行くのです。
結局、指揮官が部下たちの意見に引き摺られるようにして判断したことが、行軍隊をさらに窮地に追い込んで行きました。目的地である「田代」への道が見つからないまま夜を迎えた行軍隊は、やむなく「露営地」を探すことになりました。午後の8時過ぎ、「田代」まで後1.5㎞の「平沢の森」が、露営地と定められました。およそ「20㎞」ある行程をここまで連れて来られたのは、指揮官である神成大尉の努力の賜物でした。目的地の「田代」こそ見つかってはいませんが、ここまでは、間違いなく「正しい道」を歩いてきたのです。しかし、それを知る者はだれもいませんでした。だれもが、心の中では後悔し反省をしていたはずです。しかし、それを言えば、軍隊では兵たちの信頼を失い、組織は崩壊してしまいます。特に将校たちには絶対に言えない言葉でした。軍隊では、有能であろうが無能であろうが「上官の判断」は絶対なのです。ある意味、上官の声は、「神の声」であり「悪魔の囁き」なのです。話が逸れますが、アメリカ海軍では副長規程に「副長は、必ず艦長の命令に反論しなければならない」というものがあるそうです。そして、反論して「納得できる説明ができない命令は聞いてはならない…」ということだと言うのです。もし、日本軍で同じ事をすれば、即座に上官に睨まれ「軍規違反」として罰せられることでしょう。つまり、明治初期から敗戦まで、日本軍は「近代の軍隊」ではなかったのです。
話を戻します。行軍隊は目的地に到達できず、夜間になってしまいましたが、神成大尉は、それでも比較的風雪を避けられる地点を探しだし「露営地」としたのでした。もし、現代のように「衛星」を使って位置を特定できれば、だれもが安心して神成大尉に指揮を任せられたでしょう。しかし、何も知らない将校たちは、予定通りに到着できなかったことで疑心暗鬼になっていました。そして、「温泉で一杯」の夢が破れ、「雪壕を掘っての露営」になったことで、神成大尉への不満が増大していたと考えられます。それでも、やむを得ず小隊ごとに「雪壕」を堀り、朝を待つことにしたのです。しかし、所詮は「雪」を掘っただけの「穴」です。主力部隊に遅れて「橇隊」が到着しましたが、実は、橇に乗せる道具も不足しており、雪壕を掘るのにも相当の時間がかかりました。それでも、「幅2m、長さ5m、深さ2.5m」もの壕を掘りましたが、あまりにも積雪が多く、「地面」にまで到達しなかったようです。「雪壕」は土が見えるところまで掘らなければ、土台が崩れ、釜を設置できないという問題がありました。「温泉で一杯」気分は、こうした資材の不足も招いてしまったのです。それでも、「保温」はできませんが、なんとか「風」だけは防ぐことができたのです。ただ、休息を取りたくても全員が立ったままの姿勢でいる他はなく、体力は既に限界に達していました。
それでも、やっと「雪壕」ができたことは救いでした。しばらくすると、橇や荷物を背負った兵隊たちが到着し、取り敢えずの「炊事」ができたのでした。しかし、雪の中での炊事ほど大変なことはなく、火を熾すにしても、なかなか着火できず担当兵は疲労困憊の中で作業を進めていきました。それに、雪の上に釜を乗せてしまったために、火がつくと周りの雪が溶けて、釜がひっくり返る始末で、何度も土台を作り直して飯を炊きました。結局、炊いた飯は、芯の残った半煮えで、全員に「半煮え飯」が配られたのは、かなり遅くなってからでした。また、全員に配られたかまで確認する術もなく、また、それができる将校もいなかったと思います。昼の飯は凍っていて食べられず、雪の中に捨ててしまった者は何も食べずに夜を迎えていたのです。雪山の経験のある者は、「凍った握り飯」を捨てずに取っておき、熾した火に焼べて食べたそうですから、やはり「経験」がものをいう世界でした。将校たちは、そんな兵卒の苦労を知ってか知らずか、取り敢えず「半煮え飯」を食べることができました。ここにも階級格差は大きく存在したのです。そして、1月23日が過ぎて行きました。暴風雪は、時間が経過しても収まらず、気温は「零下20度」を下回るまでになっていました。兵隊たちは、「眠ると死ぬぞ!」と脅かされ、眼を閉じて「うたた寝」程度で朝まで待機することが命じられたのです。
1月24日(第2日目) ところが、その朝を待たずに「出発命令」が突如下されました。それは、映画にもありましたが、指揮官の神成大尉からではなく、大隊本部の山口少佐から発せられたものでした。だれが考えても、雪山での夜間の行動が危険なことはわかりそうなものです。たとえ夏場であっても、夜間に動けばどんな危険が待ち受けているかも知れません。それは、素人でもわかることでした。しかし、このとき、行軍隊は深夜の2時過ぎに露営地を出発しているのです。それは、「帰営」するための行動でした。おそらく、各小隊の小隊長たちが兵隊の凍傷や凍死の危険性を考え、山口少佐に訴えたのだと思います。この行軍隊の指揮官は中隊長の神成大尉でしたが、最初の協議のときに特に発言をしなかった神成大尉を無視して、直接、大隊長である山口少佐に報告するようになったのです。やはり、「温泉に入れなかった恨み」は、神成大尉に向けられたということです。それにしても、この将校たちは軍人というより、素人のおやじの集まりみたいでした。結局、知らぬうちに「指揮権」は、上官の山口少佐に移り神成大尉は、単なる「先導将校」の地位に落ちたことになりました。それは、軍隊の序列上、習慣として仕方がなかったように思います。神成大尉にしても、上官がすぐ側にいながら、自分で命令を発することに躊躇う気持ちはあったはずです。しかし、どちらが状況を正確に把握しているかと言えば、それは「神成大尉」です。彼の緻密なチェックが、「田代」までの道を正確に辿らせていたのですから、本当に報告すべきは神成大尉だったのです。しかし、それを知る者は「神」のみぞ知る…世界でした。
この深夜に露営地を出たことは、山口少佐の最大の「ミス」でした。おそらく、小隊長クラスの将校たちの報告を聞いて、自分自身がこの寒さに耐えきれなくなったのでしょう。彼は、東京府の出身で、雪山のことなど何も知らずに東北最北端の連隊に配属された軍人なのですから…。それに比べて神成大尉は、秋田の豪雪地帯の出身者であり、もちろん「雪山登山」に経験があったかどうかはわかりませんが、少なくても「風雪」に関する知識はかなりあったはずです。そのために、この「行軍隊」の指揮官に選ばれ、彼が計画を委ねられたのです。しかし、彼の性格なのか、下士官上がりの卑屈さなのか、指揮官としての言動にはかなり疑問が残ります。もし、これが弘前の福島大尉であれば、そもそも「大隊本部」の随行など許さなかったはずです。現場で、上官が知ったかぶりで口を挟まれることこそ迷惑千万だったはずで、たとえ連隊長から命じられても、「それなら、私にはできませんので、代わりを者を立ててください」くらいのことは言ったでしょう。それくらい「我の強い」人間でなければ、前代未聞の「山岳雪中行軍」などできるはずがないのです。平時であれば「いい人」「優しい人」が信頼の基準になりますが、有事では「冷静な人」「決断できる人」「勇敢な人」が信頼を勝ち取るのです。弘前隊の福島大尉は、我の強い、目立ちがりやではありますが、有事の指揮官の条件を揃えていた軍人だと思います。
3 青森歩兵第5連隊(雪中行軍隊)遭難
深夜に露営地を出たことは、たとえ「帰営」するという目的があったにしても無謀でした。山口少佐や他の将校たちは、(ここまで来たんだから、同じ道を帰ればいいだけじゃないか…)と、未だに簡単に考えていた節があります。既にこの寒さと疲労のために頭が十分に働いていないのです。そう言えば、大東亜戦争末期の「レイテ沖海戦」のときに、司令官の栗田健男中将は、この作戦の主目的であった「戦艦部隊のレイテ湾突入」を急遽中止し、主力である「戦艦大和」を反転させた大不祥事を起こしました。当時の海軍は、この「命令違反」を有耶無耶にして栗田を処分することはありませんでした。それが、彼らの長年の「慣習」だったからです。日本陸海軍は、創立当初から、「上の人間(身内)に甘い体質」を持っていたのです。戦後、栗田中将は、マスコミ等の一切の取材に応じることはありませんでしたが、ただひと言「あのときは、一睡もしておらず、頭が働いておらなんだかも知れぬ…」という言葉を残しています。軍人が、命より重い命令を屁理屈で覆し、多くの将兵を失ったことは「万死に値」します。それがわかっていながら、別の思考に陥るのも人間の弱さなのでしょう。このときの山口少佐他の将校の状態は、これに近かったのかも知れません。結局、行軍隊は「帰路」を見失います。時間が経てば経つほど「雪」は降り積もり、周囲の景観を変えてしまうのです。それも夜中に雪壕から外に出された兵たちは、またもや、暴風雪に見舞われ、無理矢理歩かされたのですから「遭難」して当然でした。記録では、帰路を探している途中、「佐藤特務曹長」が「田代への道を知っている」と突然に言い出し、山口少佐がそれを採用して案内させるとなっていますが、それも根拠のない自信であり完全な誤りでした。また、それを止める将校が神成大尉以外にいないのですから、これもまた驚きです。
映画の中でもこの場面は描かれています。映画ではそれを聞いた神田大尉が「いや、違います。私の計算では、田代はそちらではありません!」と強く主張しますが、山田少佐がそれを退けます。実際の行軍隊指揮官の意見が退けられたことで、この行軍隊は完全に「山口少佐」が最高指揮官だとだれもが認める結果となりました。この後、神成大尉は黙々と歩くだけになり、行軍隊の責任者としての行動を放棄したように見えたそうです。確かに、自分の責任で進めて来た計画を思いつきのように上官に否定されては、立つ瀬がありません。まして、命の瀬戸際にいるときまで上官風を吹かされては、神成大尉もほとほと愛想が尽きたのでしょう。結局、神成大尉の言うように、佐藤特務曹長は途中で道がわからなくなり、行軍隊は遭難し始めたのです。しかし、事実は、この時点で「田代」への距離は、500mくらいにまで迫っていたという話もあります。但し、この「田代元湯」という温泉は、行軍隊が迷ったと思われた「駒込川」に沿って歩いた奥にあったようで、佐藤特務曹長どころか、行軍隊ではだれも行ったことのない場所でした。学校の遠足でも、教師たちは必ず「下見」をして、安全かどうかのチェックをしておくのが普通です。若しくは、現地を知っている業者(案内者)に先導してもらっているはずです。こんな「基本中の基本」も行わずに、「雪山行軍」に出ること自体が愚かとしか言いようがありません。
誤りに気づいた行軍隊は、改めて引き返そうとしますが、佐藤特務曹長に従って沢を下ってしまったために、戻ろうにも戻れない状況に追い込まれてしまいました。そのころは、兵卒のほとんどが凍傷にかかり、疲労困憊で隊列を整えることもできず、それぞれが勝手に歩くだけの状態になっていました。そんな状況の中で、「元の場所に戻る」ということは急な坂を登ることになります。来た道は、あっと言う間に「雪」が降り積もり、「道」そのものを消し去ってしまったのです。やむを得ず、行軍隊は、崖をよじ登ることになりました。このあたりも映画で描かれています。隊員たちが必死になって登って行きますが、体力が続かず、次々と滑落して行きます。叫び声を上げながら落ちていく兵卒の姿は、たとえ映画であっても、眼を覆いたくなるような悲惨さでした。現実は、もっと酷い有様だったはずです。ここで小隊長の一人である「水野中尉」が凍死してしまいます。指揮官である将校の死は、多くの兵卒に衝撃を与えました。この水野中尉は「華族」の出身で、元大名家の嫡男だったそうです。彼は、日頃から登山をしたり走ったりする若者で、軍人として将来が期待された人物でした。
兵たちが、やっとの思いで崖をよじ登り、着いた先はさらなる暴風雪の地獄でした。崖下から上がって来たのですから当然ですが、ただでさえ崖登りで体力を奪われた先に「暴風雪」では、よほど体を鍛えていた人でも、体力だけでなく気力が持ちません。小隊長たちの発する命令の声も風の音でかき消され、眼の前の兵について行くのが精一杯の状況になりました。隊員たちは、右往左往しながら少しでも風を防ぐことのできる場所を探して彷徨い歩いたのです。記録では、この日の天候は、風速(秒速)「29m」、気温「零下20度以上」、積雪「6m以上」だったそうです。こんな中で人間が立っていたら、数分で凍傷を負い、低体温症にかかり死を待つだけになってしまいます。このため、この間に将兵の半分以上が凍死したか、行方不明になったと言います。さすがに、体力のある者も、こうした状況の中で将校たちについて行く気が失せたのかも知れません。「行方不明」の中には、後に「炭小屋」を見つけて暖を取り、生き延びた者もいたそうですから、人間の本能として「生きる道」を自分で探し始めたのでしょう。凍死した兵卒の中でも、橇を押し続けていた「行李隊」は悲劇でした。
屯営を出るなり、ずっと橇を押し続け、田茂木野村から小峠に着いたころには、大汗を掻き、休息を取るたびにそれが凍り、体から体温を奪っていきました。そして、その疲労度は、他の隊員の比ではなかったのです。実は、この「橇」は、雪山行軍には絶対に不向きな運搬道具でした。こんなことは、一度でも「雪山行軍」をしてみればわかることなのですが、やはり「素人」の浅はかさです。「雪で橇は滑る」と考えるのでしょう。とんでもありません。新雪で積もった雪は「粉雪」で、その雪自体を固める事が不可能なのです。したがって、橇は深く沈み込み、前に進めるのは至難なのです。そんなことを、この行軍隊も神成大尉も知らなかったのです。結局、橇が動かなくなると、今度は、橇に乗せていた資材を「人の背」によって運ぼうと考えました。その「背」とは、行李隊の兵卒の背のことです。ただでさえ疲労困憊のところに、10㎏以上ある重量物を背負わされるのですから、これは、まさに「拷問」です。ただ、彼らには何の罪もありませんから、罰ではありませんが、徴兵で一兵卒になって鍛えられた挙げ句に、こんな酷い仕打ちが待っているのですから、「軍隊は、地獄だ…」と言うのもよくわかります。そして、彼らは、重い「飯釜」や「生米」を背負いながら雪の中に無言で沈んでいきました。将校たちの計画さえ、きちんとしていたら、こんなことにはならなかったのです。戦場での戦死ならあきらめもつきますが、これでは、何のために死んだのかわかりません。後に遺族が陸軍省に抗議をしたのは、当然のことでした。こうして、行軍隊が「軍」としての機能を停止させたまま兵卒たちは彷徨い歩きました。この日の行軍は「14時間半」にも及んだそうです。そして、夕刻を迎え「鳴沢付近」に見つけた「窪地」に露営することになりました。
ここに何人の兵卒と将校がいたのかは定かではありませんが、山口少佐、倉田大尉、神成大尉等の幹部将校が指揮を執っていたのでしょう。最早、上官がだれとか、序列がどうとか言っている場合ではありませんでした。ここに来てやっと将校たちは本気になって対策を講じ始めたのです。しかし、それは、あまりにも遅く、軍隊としての機能を失って初めて気がついたのです。しかし、兵たちにしてみれば、(俺たちは、命令に従って行軍しただけなのに、お偉いさんたちは、一体何をしていたんだ?)という不満は、全員が持っていたはずです。下の者たちから見れば、将校たちの意思の疎通が不十分であることは明白です。そのうち、特務曹長や見習士官が口を挟む状況になると、将校たちに見限り、(あんな奴ら、あてにならん…)と勝手に動き出す兵もいたはずです。日本軍は、明治維新後に「軍隊」を創設しましたが、既に「上官の命令は、天皇陛下のご命令である」という神話が出来上がっており、それぞれの兵卒が不満を抱えていても、だれも口には出せませんでした。幹部たちは「部下は、命令に忠実に従うのが軍隊だ!」と勝手に思い込んでいますが、社会の一員として活躍してきた兵たちに「意見」がないはずがありません。まして、緊急時であれば、「雪山経験」のある兵もいたでしょう。事実、村松伍長(映画では村山伍長)は、前日から準備に余念がなく、唯一「田代」に到達しているのですから、かなりの「知識」はあったはずです。もし、アメリカ軍であれば、「おい、雪山の経験のある者は出てこい!」と命じて、「済まぬが、教えてくれないか?」と尋ねたはずです。そして、それは「恥ずかしい行為」ではなく、「人間を有効に使う方法」だと割り切っているのです。そして、生還後に「表彰」すれば、兵たちは挙って協力するものなのです。幸い「日露戦争」は勝利しましたが、この日本軍の慣習は近代の軍隊としては「平均点以下」の軍隊だったと評価せざるを得ません。
4 青森歩兵第5連隊(雪中行軍隊)彷徨
ここに至るまでに何回もの挽回のチャンスがありました。しかし、そのどれも将校たちの判断ミスで悉く潰してしまいました。最初は、山口少佐が、田茂木野村の案内人を断ったことから始まり、専門職である永野軍医の意見も採り入れず、見習士官や下士官の意見に左右され、最後は行軍隊指揮官であるはずの神成大尉の意見まで退けました。この遭難事件の最大の責任は「山口少佐」にあることは明白です。しかしながら、本来の指揮官の神成大尉も、ただ、上官である山口少佐に気を遣うあまり、指揮官らしい振る舞いがなく、そのうち兵たちからも見放されてしまうのですから、武人として情けない限りです。そして、大隊本部には多くの大尉クラスの将校がいながら、やはり山口少佐に遠慮があるのか、積極的に意見を述べず、遭難するのがわかっていながら神成大尉に協力しようとはしませんでした。どうしようもなくなって、やっと「倉石大尉」(映画では倉田大尉)が前面に出てきますが、時既に遅く、多くの将兵が雪の中に倒れていました。この時点で軍隊としては「全滅」なのです。200名以上の軍隊が、酷い暴風雪とはいいながらも、飽くまでも「訓練」だったのですから、やり直しができたのです。それを精神論で片付け、貴重な兵の命をこんな場所で散らせた責任を将校たちはどう考えていたのでしょう。彼らの多くは「日清戦争」に参加したと言いますが、戦場でどんな判断を下してきたのでしょうか。
「鳴沢」付近で、ようやく露営をしても、既に雪壕を掘る道具もなく、食糧は凍結したままで食べられず、みんなで団子のようになって風雪を防ぐしかありませんでした。この場面は映画でも描かれ、轟音のような風の音と人間だか雪像だかわからない兵卒の背中が憐れでした。そして、一番外側にいる兵卒から次々と雪の中に沈んでいくのです。最早、歌を歌おうにも、飢えや凍傷に苦しむ中では声も出ません。体をぶつけて温めようにも、だれもが身を縮めているのが精一杯で、人のことなど構っている余裕はないのです。記録では、猛吹雪と気温の低下で、夜には体感温度が「零下50度以下」にまで下がっていたそうです。もう、彷徨う力さえ失われていました。そして、彼らは自分たちが所属する「青森歩兵第5連隊」からも見放されていました。その一番の責任は連隊長の「津川謙光中佐」にあります。この連隊長は、遭難事件が発覚した後も自分の行動を誤魔化し続け、陸軍省に提出した「事故報告書」も嘘で塗り固めていました。そのために、真実がわからなくなってしまい、現在にまで至っているのです。映画でも、すべての責任を大隊長の「山口少佐」に背負わせていますが、この行軍を命じたのは、紛れもなく津川連隊長なのです。山口少佐は、救助された後、病院で自決されたように言われていますが「病死」とする説もありますから、真実はわかりません。もし、「自決」をするのなら、無謀な行軍を命じ、遭難の可能性が高まっても無視し続けた津川中佐こそするべきだったのです。
このころ、青森の連隊では、新任地に向かう将校のための送別会を実施していました。そこでは、連絡がつかない「雪中行軍隊」のことが話題に上っていたそうですが、酒を飲みながら「そろそろ、帰ってくるころだろ…」なんて暢気なことを言っていたようです。津川連隊長も行軍隊のことなど気にもならなかったようで、「あれは、温泉に行ったんだから、温泉で一杯やってるんだろう」くらいな気楽な調子で、心配もしていなかったそうです。こんな調子で軍隊の指揮官が務めるのですから、明治の陸軍は相当に気楽な組織だったのでしょう。中には、「乃木希典大将」のような立派な指揮官もいるのですから、「人」はよくわかりません。ただし、津川中佐は鳥取県の出身なので、おそらく、早々に新政府軍についた大名家の藩士で、うまく世渡りをして士官学校に入り、藩閥を利用して出世をしていったのでしょう。あの時代、この「新政府側」ということだけで偉くなった人間がたくさんいましたから、その一人だと思えば納得もできます。明治維新の「恥部」を見る思いがします。この「津川謙光」という男は、この後も、軽い処分で終わり何事もなかったかのように連隊長職を続けました。そして、日露戦争を生き抜き、少将にまで昇り、大正末期に亡くなりました。それも「畳の上」での大往生です。もし、雪中行軍隊の亡霊でもいたら、呪い殺したいくらいの「怨念」が渦巻いていたと思います。そして、津川謙光は、大東亜戦争の悲劇も知らず、「故郷の英雄」にでも祭り上げられ故郷の墓で、静かに眠っているのでしょう。そういう意味では、本当に「幸せな男」だと思います。ただ、この男の下で働いた部下たちは本当に気の毒でした。今でも、たまにこんな「ばか」な上司はいるものですが、できれば、「閻魔様」に舌でも抜いてもらいたいものです。
1月25日(第3日目) さすがに三日目になると、雪中行軍隊は「遭難」から「彷徨」へと、ひたすら「死」に向かって彷徨い始めました。夜になると、さらに気温が下り、外側にいた多くの兵卒が耐えられなくなり、意識障害を起こしたのか、無言のまま雪の中に倒れ込んでそのまま絶命していきました。彼らの遺体は、固い「氷柱」のようになり、真っ白い無表情の顔だけが虚空を見詰めていたそうです。それでも、兵たちは「30年式歩兵銃」を固く握りしめていました。これも、「小銃は、天皇陛下から下賜された大切な兵器」という教育が徹底されていた証拠です。これが欧米の軍隊であれば、「兵器は道具」でしかありませんから、不用の物はさっさと捨てて身軽になり、「生きるため」に必要な物品だけを担いだと思います。そこが、戦争慣れしている民族と日本人の違いなのでしょう。将校たちは、兵卒に守られるようにして中央部にいましたから、強い暴風から身を守ることができました。それでも、足下から来る寒さは尋常ではありません。そこで、「これ以上、待っていたら、全滅してしまう…」と考えたのか、また、朝を待たずに進軍が始まったのです。そして、午前3時ころ、行軍隊は「馬立場」方面を目指して歩を進めました。この時点で死者・行方不明者合わせて約半数近くがいなかったようです。生きている将兵のほとんどが凍傷にかかっており、足が「棒のよう」になって感覚がなかったと言います。頼みの「方位磁針」は凍りついて動かず、地図は大雑把で信用できず、後は、感覚だけで「帰路」らしき方角へと進むしかありませんでした。
それでも、行軍隊は「鳴沢」あたりまで進んだようですが、もの凄い暴風雪で前も見えず、ひたすら下ばかりを向いて歩いているために、どこをどう歩いてよいのかさえわからなくなっていきました。そして、少し方向を間違えただけで、道が遮られてしまうのです。八甲田山は、複雑な地形の山でした。一応「田代街道」と呼ばれる「道」はありましたが、それは、冬以外の季節に通る道でしかなく、大勢で行軍できるような道ではないのです。ちょっと脇に逸れただけで、険しい山が眼の前を塞ぎ、それを避けようとして迂回すると、そこには断崖絶壁があるという具合なのです。まさに自然の「迷路」のように入り組んだ地形は、人の往来を阻むのに十分でした。その上、冬季は「雪」が大量に降り積もり、真っ白な「地獄」へと変貌を遂げるのです。そんな、地獄の行き止まりに出くわし、先頭を歩いていた神成大尉が頭を抱えてしまいます。そして、ここで、神成大尉は、言ってはいけない「絶望的な言葉」を口にするのです。
神成大尉は、くるりと向きを変え、ついてくる兵たちを見詰めるとそのまま天を仰ぎ、「天は、我らを見放したらしい…。昨晩の露営地に戻って死のうではないか!?」と叫んだのです。この雪中行軍隊の指揮官から発せられた言葉は、ここまで「生きよう」と必死に耐えてきた兵たちに「止め」を刺しました。既に、体力、気力共に限界を超えていた兵たちが次々と倒れていったのです。映画でも、ここがクライマックスのシーンで、象徴的に描かれています。さすがの神成大尉も、度重なるアクシデントに精も根も使い果たしたのでしょう。生真面目な彼は、(この遭難のすべての責任は、自分にある…。部下である兵を死なせて、一人、生き残ることは許されない…)とでも思ったのでしょう。そして、自分が山口少佐に従ってしまったことを改めて悔いたと思います。しかし、指揮官が現実を見失い「天は我々を見放した…」と言うことが正しい選択だったのでしょうか。人間の命を預かる将校が、それを自ら放棄してしまえば、天が味方をしてくれることはありません。米沢藩の上杉鷹山公が言いました。「為せば成る 為さねば成らぬ何事も 成らぬは人の為さぬなりけり」と。神成大尉には、まだ、やれることはあったのです。
そして、ここで行軍隊の「解散命令」が出されたという話がありますが、その真偽は定かではありません。この話は、生還した後藤伍長と伊藤中尉から出ていますが、後藤伍長は「解散命令があった」と言い、伊藤中尉は「そんな命令は出ていない」と証言していることから、あの猛吹雪の中での出来事なので、兵たちの中での認識が「解散」だったのかも知れません。おそらく、伊藤中尉は将校の一人ですから、倉石大尉や神成大尉との中で「解散…」という結論にはならなかったにしても、既に迷走状態であることは間違いなく、「一人でも生還するには、解散もやむを得ない…」とする意見が出されていたとしても不思議ではありません。この場合、既に「軍」としての機能は崩壊しており、後は、「人命」の問題だけなのです。そして、だれも生還できなければ、この遭難事件の顛末を伝える者がいないことになってしまいます。そう考えると、明確な命令は出ていなくても、暗黙の中に(自由に行動しても構わない…、とにかく生きて還ってくれ)というニュアンスが伝えられた可能性はあります。なんでも「ある・ない」の明確な「答え」ができないのが、人間の心理なのだと思います。事実、神成大尉の発した言葉により、多くの兵が倒れただけでなく、パニック状態に陥ったような記録がありますので、兵たちの拠り所がなくなったことだけは確かなのです。
そして、事実上「雪中行軍隊が解散」したことで、さらに彷徨が続きました。大隊本部付で年長者の興津大尉が凍死し、長谷川特務曹長が、自分の判断で隊を離れ、やっとの思いで「炭小屋」を発見して、一緒にいた兵数名と共に避難しました。倉石大尉は意識が混濁した山口少佐と共に駒込川の方に向かって歩き、遂には崖下に追い詰められ身動きが取れなくなりました。そして、神成大尉は後藤伍長他数名と共に田茂木野村方面に向かって歩みを進めていたのです。倉石大尉や山口少佐が救助された原因は、暴風雪が吹く山の上から川に向かって降りたために、風雪を防ぐことができました。また、川縁の方が温かかったのです。そして、身動きが取れなくなったために、無用な行動をとることができず、残された体力を温存することができました。それでも、一緒についてきた兵の多くはここで何人も亡くなっています。ある者は、「川に入って、泳いで青森に報告に参ります!」と言って川に飛び込みました。また、ある者は「川に浮かべる筏を作ります!」と言って、ブナの木に銃剣を刺して死にました。それを呆然と見ていたある兵は「いいなあ、あいつら、今ごろ屯営に着いただろうな…」などと思ったそうです。常識で考えれば、そんなことはできるはずもないことなのですが、寒さで体が凍り付き「低体温」状態が続くと、精神に異常を来たし、そうした思い込みや幻覚、幻聴などに襲われるのだそうです。健常な状態で聞いていれば、「そんなばかな…」と思いますが、それを経験したことのない人間が非難できるものではありません。
倉石大尉は、人事不省に陥った山口少佐を介抱しながら駒込川の方へと避難していきました。それは、「帰路を探す」というより、「死ねる場所を求めた」と言った方が正確だったと思います。倉石大尉も兵たちから見れば、中隊長として山口少佐に意見も述べず「頼りない隊長」に見えていたはずです。それでも、倉石大尉の側には、まだ数名の自分の中隊の兵たちが付き従ってくれていたのです。神成大尉が進退窮まって「天は、我々を見放した…」と叫んで以降、自分が為すべきことは何かを考えたはずです。それは、自分が指揮を執って生き残った兵たちを屯所に帰すことなのです。そして、死んでいった部下たちに申し訳ない気持ちでいっぱいでした。隊の中では「中隊長は、おまえたちの父であり母である…」と言っていたのですから、尚更です。(我が子を見殺しにして何が父か…!?)という思いはあったでしょう。そのころ、倉石大尉は内蔵を患っており、休養が必要な体だったといいます。そのため、雪中行軍隊の指揮官にはなりませんでしたが、本来であれば、彼が、この行軍隊の指揮官であったもよかったのです。そういう意味では、神成大尉にすまない気持ちもあったでしょう。そうした反省と後悔の念は、その後もずっと持ち続けていました。そして、日露戦争に出征すると、「黒溝台の会戦」で、真冬にロシア軍との壮絶な戦いを繰り広げ戦死して果てました。これが、彼の責任の取り方だったのです。
こうして、神成大尉と別れてしまった倉石大尉たちは、その後も「斥候(偵察部隊)」を出して「帰路」の捜索に当たらせましたが、行ったきりだれも戻っては来ませんでした。たとえ、帰路を見つけたとしても「救助要請」に歩けるような体力は残っていなかったのです。斥候に出た兵たちも次々と雪の中に沈んでいきました。軍人にとって「戦場での死は名誉」だと教えられていましたが、「八甲田山」は彼らの戦場ではありません。自分たちの判断で生きることも可能だったのです。その可能性を潰した将校たちを兵たちはどんな目で見ていたのでしょう。そうした証言は残されていませんが、大東亜戦争中は、優秀で経験豊富な下士官がいて、若い指揮官が下した命令に従うふりをして突進せず、その隊長が倒れると、兵たちを集めてすごすごと後方に下がったといいます。経験のある下士官にしてみれば(こんなところで死ぬのはばからしい…。一人で勝手に死ね)という気持ちだったのだろうと思います。たとえ戦場であっても、「生きるか死ぬか」は、兵たちにとっても「最重要課題」でもあったのです。
そのころ、青森第5連隊の屯営において、やっと「これは、少しおかしいぞ…?」という声が上がり始めていました。暢気な津川連隊長にも焦燥の色が浮かび始めました。青森では、天候が次第に回復してきたこともあって、屯営近くの「幸畑」で粥を炊くなどして帰営を待つことになりました。さらに、一部の兵たちに命じて、その先の「田茂木野村」にまで「出迎え部隊」を派遣したのです。言葉では「そろそろ、帰って来るだろう…」と言っていた津川中佐も、さすがに(ひょっとしたら、とんでもないことになっているんじゃ…?)という疑心暗鬼状態になっていました。気の小さい者ほど、外見を取り繕うのが上手く「平静」を装いますが、心の中は千々に乱れているものなのです。多分、夜もあまり寝られなかったのではないでしょうか。彼は、行軍隊の心配より、自分のことを心配するタイプのようで、鳥取県の人が聞いたらがっかりする男かも知れません。ここに来て、慌てだした第5連隊は、各所に「電報」で所在を確認したりしています。そして、どこからも「見た」という報告がなく、いよいよ「救援隊」を組織して動き出すことになりました。それにしても、なんと対応の遅いことか…。もし、これが現在の会社や学校で起きたら、管理職は、すべてが片づいた後に「左遷」か「降格」、最悪の場合「免職」ということもあり得る失態です。しかし、どう繕ったのか、津川謙光中佐は「陸軍少将」にまで上り詰めたのですから不思議です。
5 青森歩兵第5連隊(雪中行軍隊)帰営
1月26日(第4日目) 一泊二日の行程で出発したはずの「雪中行軍隊」が、四日目になっても帰営しないことで、いよいよ「遭難」の可能性が高まってきました。いくら持っていた食糧を食いつないだとしても、さすがに四日は持つはずがありません。つまり、彼らは「飲まず食わず」の状態が続いていることを示唆していました。それでも、津川中佐は「いや、まだ何処かに避難しているかも知れぬ!」と強気の言葉を発していたのです。この人は、物事を自分にだけ都合のいいように解釈する癖があったようで、あまり上官にはしたくない人物です。こうした軍人は、戦場においても敵の勢力を見誤り、自軍に都合のいいように解釈して全滅してしまうのです。要するに「駆け引き」のできない人間なのだと思います。そこで思い出すのが、大東亜戦争中の「ミッドウェイ海戦」です。あのとき、日本海軍はアメリカ海軍を凌ぐ戦力を投入していながら、「敵は来ないだろう…」という思い込みで動いていました。計画では、「ミッドウェイ島を攻めれば、ハワイから慌てて敵機動部隊が出撃するはずだから、これを殲滅して太平洋の制海権を奪う」ことになっていたはずなのに、実際は、「敵は来ないだろう…」では、最初から作戦にはなりません。これも、日本の機動部隊の南雲中将以下の幕僚の「根拠のない思い込み」でしかありませんでした。そして、最初に想定していたとおり、アメリカ海軍の機動部隊が現れると「よし、やったあ!」と喜ぶのではなく、「えっ、まさか、いたのか?」と狼狽えてしまうのですから傑作です。普段、着飾って偉そうにしている男ほど、修羅場に弱い典型です。
こうした性癖は、どうも日本人特有のものなのかも知れません。青森第5連隊の連隊長も惚けていますが、それに従う将校たちも何を考えていたのでしょう。こうした「危機意識」の低さが、災害を拡大させてしまうのです。取り敢えず、津川中佐は、三神少尉に60名の下士卒を与えて「捜索隊」として出動させました。しかし、この時点でもまだ「救援」ということより、「捜索」の方が重点的だったようです。要するに、救援では「遭難した」ことが前提になりますが、「捜索」は、居所がわからないので見つけに行くのが主となります。飽くまでも「軍の面子」を重んじる津川中佐は、第5連隊を総動員して、遭難した部下を「救う」つもりはなかったということです。心の中では、(何処かで難渋していて、連絡が遅れたのか…?)くらいの淡い期待を抱いていたのでしょう。その証拠に、確認の手違いで「弘前隊」が通過したことを「雪中行軍隊が通過した」と聞き、嬉しそうに「ほら、いたじゃないか?」と周囲に話していたそうです。しかし、よく考えれば、弘前隊も八甲田山を反対側から踏破しようと進んでいたのですから、すぐにわかるはずですが、期待が大きいだけに計算も満足にできないのです。こうした「冷静に判断」できない指揮官を「無能」と呼ぶのが常識です。そして、捜索隊も当初は半信半疑で「雪中行軍隊」を見つけようとしていました。ところが、田茂木野村から大峠あたりまで行ってみると、とんでもない事態に陥っていることがわかってきました。
それは、自分たちがこれまで経験したことがないほどの猛吹雪に見舞われたからです。たとえ「案内人」に先導されようと、零下15度にもなる気温と暴風雪は人間が息を吸うのも困難になる状況です。そして、「雪」はまるで「石礫」のように飛んできては、兵たちの体に強く当たります。それが「雪礫」であっても、何度も当たれば、顔は青く腫れあがり前を向くどころではありません。こんな中で三日も四日もいたら、どうなるかなんて言うことは、すぐにわかりました。こうして戻って来た「三神少尉」の必死の報告によって、さすがに暢気な津川中佐も重い腰を上げたのです。この人にとって大勢の部下は、自分にとって都合のいい「駒」でしかなく、「我がこと」のようには考えられないのです。たとえ、部下が戦死しても涙を見せることもなく、淡々と処理できる人物なのでしょう。日露戦争のときの乃木将軍のように、明治天皇の前で戦死した部下を思い熱い涙を流せる将軍とは比べものになりません。「人徳」という言葉がありますが、津川中佐に、そうした人間らしい心があれば、もっと多くの兵が救われたはずなのです。
1月27日(第5日目) 記録によれば、生き残った20数名は、神成大尉と倉石大尉に別れて生還の道を探すことになりました。しかし、実際は、なんとか「生還の道を探そう」としていたのは、神成大尉の方だったのです。倉石大尉は、人事不省に陥った山口少佐を抱えていましたので、神成大尉に「後を託した」というところなのではないでしょうか。そして、静かに死を待つ心境になっていたのかも知れません。それでも、大半の兵卒は、倉石大尉について行きました。神成大尉は、前日に「天は、我々を見放した…」という発言をしたことで、兵たちの信を失い、最後までついて来る者は少数になっていました。おそらくは、彼の中隊の兵卒だったのでしょう。入営のときに「中隊長を父と思え…」という訓示は、何も知らない兵たちには救いの言葉でもあったのです。そして、実際、神成大尉はそうした人物だったようです。自分も「教導団」という下士官の養成機関から努力を重ねて将校になった人ですから、下級兵の苦労がわかったのでしょう。映画の中では、神成大尉の若い従卒が、彼の官舎にまで手伝いに来て「軍馬」の世話や行軍の準備などを行う場面がありました。そして、それを労る神田大尉の優しげな眼と言葉が印象的でした。もちろん、実際はわかりませんが「苦労人」とは、そういうものでしょう。それに対して弘前隊の「福島泰三大尉」は、あまり評判がよくありません。もちろん、研究熱心な軍人ですが、行軍中の案内人に対する傲慢な態度は、たとえ「軍人」とはいえ、民間人に対しての非礼は許されないはずです。案内人の中には、福島大尉に酷い扱いを受けたことが原因で早く亡くなった人もいたそうですから、人間性は疑われるところです。尚、彼も日露戦争の「黒溝台の会戦」で戦死しています。
神成大尉たちは、それでも、なんとか帰路と思われる方向に足を進めていました。しかし、暴風雪は収まらず、一人欠け、二人欠け…と最後に残ったのは、後藤房之助伍長と神成大尉の二人だったそうです。そして、力尽きたのは神成大尉の方でした。彼がここまでなんとか生きていたのは、それは、やはり「雪中行軍隊の指揮官」としての自覚と、多くの兵を見殺しにしてしまった後悔があったからだろうと思います。もし、彼が一人なら、なんとしてでも「田代」に到着したことでしょう。それを遮った者たちがいたことで、彼は軍人としての本分を果たすことができず、八甲田の雪の中に沈んでいきました。一説には「舌を嚙んで自決した」とするものもあるようですが、おそらく、気持ちはあっても、体に力が残っておらず舌を嚙むことすらできなかったと思います。気力だけで進んで来た神成大尉ですが、体は既に死んでいたのです。最後に神成大尉は側にいた後藤伍長に「田茂木野村に行って住民に連隊への連絡を依頼せよ…」と命じたと、後に蘇生した後藤伍長が証言しています。神成大尉は、最期まで指揮官としての責任を全うして死んだのです。そして、後藤伍長は、凍った足を引き摺りながら前進しましたが、「大滝平」あたりで動けなくなりました。ただ、雪が深く、彼は意識を失いましたが、倒れることなく、立ったまま田茂木野村を見詰めていました。日露戦争の翌年、雪中行軍隊の功績を讃え、後世にこの悲劇を伝えようと「馬立場」に兵士の像が建ちました。それは、後藤房之助伍長が「シベリア」を睨んで立っている銅像でした。本人は、「田茂木野村」に向かっていたのですが、なぜか、その眼は、ずっと遠くを見ていることになったようです。
6 青森歩兵第5連隊(雪中行軍隊)救助
結局、「救援隊」の出動は第八師団長の「立見尚文」中将の命令によって行われたようなものでした。最後まで津川連隊長は、本格的な「救援活動」に移ることを渋りました。それは、自分が命じたことで起きた遭難事件だったからです。既に組織として出来上がっていた「陸軍」は、武士の時代から「軍人官僚」の時代へと移行していったことがわかります。明治政府の「富国強兵政策」は、国の近代化に主目的がありましたが、国民を置き去りにしたままの急速な近代化だったために、人々に十分な「意義」を説明する時間がありませんでした。そのため、明治政府は、軍人になることを「立身出世のため」という宣伝で、本来の「国防」という重大な国民の責務を誤魔化してしまったのです。それは、「義務教育」を施行し「学校制度」を創ったときも同じでした。子供を労働力と考えていた国民に「学問は、身を立てる基」だと説明したのです。これも「立身出世主義」に拍車をかけました。要するに、「軍人になったり、学問を修めたりすれば、社会に出て出世し、周囲から認められ、経済的にも豊かになれる」という夢のような人生を描かせたのです。
そのため、多くの日本人は、明治維新の目的だった「国家の独立」や「自存自衛」の精神を何処かに置いてきてしまったのです。国民の思想を本来の「公」から、個人的な「私」にしてしまったことで、武士の時代の「忠義心」がなくなり、名誉欲、そして物欲に走るようになったのです。これでは、幕末から明治初年にかけて亡くなった多くの日本人に申し開きができません。明治政府の人間にとって、「尊皇」も「攘夷」も結局は、天下を奪うためだけの「言葉遊び」だったのです。結果、この「津川謙光」のような下級武士の出身者は、自分の栄達のみを望み軍人になったのでしょう。そして、士官学校というエリート校に入り、順調に中佐にまで昇った津川は、保身のためにこの遭難事件を軽く扱おうとしたのです。それは、津川本人のみならず、日本軍全体に蔓延していた「保身主義」の典型でした。この「国家(公)より自分(私)」という思想は、大東亜戦争の敗戦時まで続き、日本軍や日本政府は負け戦を誤魔化し、国民を欺き続けた結果、最後は「天皇」に頼らなければ、国を救うことができない事態にまで陥ったのです。ここに「明治政府時代」は終わりを告げたのです。
しかし、陸軍は保身に走ろうとも、遺族や国民はそれを許しませんでした。新聞は連日のように、この事件を記事に書き、遺族は抗議の声を上げました。そして、事件は明治天皇にまで届き、皇室から遺族に見舞金が下賜されるなど、戦死した軍人と同等の名誉を以て対応することで決着を見たのです。そして、責任を問われるべき「津川中佐」は、厳しい処分を受けることなく問題を有耶無耶にしたまま日露戦争を迎えました。それは、立見師団長自ら、この遭難の原因を「自然災害(天災)」としたからです。彼にしてみれば、自分の指揮する「第八師団」で、こんな大事故が起きたことは、最大の汚点になると考えました。そして、これが「人災」であるとなれば、それは、師団長である自分にも責任が及ぶ可能性があります。また、「帝国陸軍」という名に傷がつく怖れすらあったのです。それに「弘前隊が同じ八甲田山を無事踏破して凱旋したのに対して、方や青森隊が一日目で遭難したのでは、あまりにもバランスを欠く」とでも考えたのでしょう。こういうことには、よく頭が回る人たちが軍人には多いのです。結局、戊辰戦争時の桑名藩「雷神隊」の名将でさえ、軍という巨大組織の一員になると、真実よりも「軍の名誉」とか「保身」とかに走る姿は、残念としか言いようがありません。
最終的な生存者は、倉石一大尉、伊藤格明中尉、長谷川貞三特務曹長、後藤房之助伍長、小原忠三郎伍長、及川平助伍長、村松文哉伍長、阿部卯吉一等卒、後藤惣助一等卒、山本徳次郎一等卒、阿部寿松一等卒の11名でした。この他、山口鋠少佐、三浦武雄伍長、高橋房治伍長、紺野市次郎二等卒、佐々木正教二等卒、小野寺佐平二等卒の6名が救出されましたが、治療の甲斐なく、入院した病院で亡くなりました。映画の中では、山口少佐が病室で「拳銃自殺」する場面が描かれていましたが、そうなると、だれが拳銃を少佐に渡したかが問題になります。それも記録にはありませんので、確かなことは言えません。ただ、「治療の甲斐なく、心臓が弱っていたために亡くなった」としておいた方が、陸軍にとっては都合のいいことだけは間違いなさそうです。そして、倉石大尉と伊藤中尉は凍傷も治り日露戦争に従軍できましたが、その他の人たちは酷い凍傷により指や手足を切断せざるを得なくなり、その後は「傷痍軍人」として生きることになりました。それでも、この事件が全国に広まると、多くの「義援金」が寄せられ、遺族や生き残った兵たちに配られました。そして、結婚の申し出も各地から寄せられたそうです。戦争前、彼らは日本の「英雄」となったのです。今では、新田次郎氏の小説「八甲田山死の彷徨」がヒットし、映画「八甲田山」が製作され、全国で上映されました。この映画は、数年にわたって冬の八甲田山でロケが行われ、雪中行軍隊が経験した暴風雪の中でカメラが回されました。演じた俳優たちにとっても稀に見る過酷なロケだったようです。そのお陰で、日本映画史上に残る傑作として知られるようになりました。それが、雪の八甲田山で亡くなった兵士たちのせめてもの慰めになれば幸いです。
7 「雪中行軍隊遭難事件」が残したもの
明治中期、日本が近代化を進めている途中にこの事件は起こりました。陸軍では、冬季の戦いを想定した装備や訓練が行われておらず、この「雪中行軍隊」が冬の「八甲田山」に挑んだことは、画期的な出来事だったのです。既に、弘前第31連隊では福島泰三大尉を中心として「雪中行軍」の研究が為されており、青森第5連隊は、その後塵を拝するという状況でした。それが、この事件を引き起こした最大の原因だったのかも知れません。特に「青森県」は、江戸時代には「津軽」と「南部」に別れて啀み合う状況にありました。今では「南部」と言えば「岩手県」を指す言葉になっていますが、実際は、青森県の東部も含まれているのです。そして、西部である日本海側が「津軽」となります。この両者は、領地の争いが頻繁にあり、その気質も違うことからあまり交わることが少なかったのです。現在でも、両者の市民感情には、よそよそしい雰囲気が感じられます。明治中期は、そんな対立が影響してか、「青森市」と「弘前市」はライバル関係にありました。その上、同じ第八師団に属する二つの「連隊」ですから、必要以上に意識したことは間違いありません。
そうなると、この「雪中行軍」は、双方の連隊を競わせる絶好の機会ともなったのです。上部機関の「第八師団」にしてみれば、日露戦争になれば専ら「北方警備」が主任務されるのは必定です。さらに、満州北部は「酷寒の地」ですから、第八師団隷下の連隊が派遣されるのは眼に見えています。そうなると、必然的に主力は「第5」及び「第31」連隊ということになるのです。また、日露戦争の天王山となった「日本海海戦」は、バルチック艦隊の動向によっては、宮城県沖周辺で起きた可能性がありました。それは、もし、バルチック艦隊が敢えて日本海に入らず、太平洋を迂回すれば、当然「津軽海峡」を抜けてウラジオストックに入られてしまいます。「対馬沖」で待ち構えている連合艦隊を避ける方法を採れば、あのような大海戦は生まれません。逆に「ウラジオストック」にバルチック艦隊がいることで、日本海を使っての兵員輸送が困難になるのです。そういう意味で「津軽海峡」は、日本の運命を左右する「海峡」になったかも知れないのです。実際、作戦参謀の秋山真之は「太平洋側に回るべきだ」という意見を東郷司令長官に述べています。もし、津軽海峡をロシア海軍が封鎖すれば、北海道と青森は遮断され、当然、海対陸の「砲撃戦」になったでしょう。それが冬季に起これば、青森と弘前間の交通は「八甲田山系」を使うしかなくなるというわけです。第八師団としては、中央からの要請に応じて「青森ー弘前」間の交通路を確保すべく研究が開始されました。それが、「八甲田山雪中行軍」が行われた理由です。しかし、研究とはいえ、青森第5連隊の雪中行軍は無謀でした。しかし、無謀な計画だったからこそ、後世に残したものは多かったように思います。
人は、なぜか「成功」から学ぶことができません。この「雪中行軍隊」にしても、大成功を収めた福島大尉の「弘前隊」は、青森5連隊の行軍隊が日本中から浴びた「賞賛と同情の声」そして、多くの「人の涙」から見れば、ちっぽけな地方の軍隊の雪中訓練でしかない扱いになってしまいました。人間は、その衝撃が大きければ大きいほど、興味を持つものです。新聞紙上を賑わした「210人中199人の犠牲」は、人の死に慣れている明治の日本人にも衝撃を以て受け入れられました。確かに、当初は非難の声も挙がりましたが、若い兵卒たちの苦難の物語、上官を介抱しながら共に死んでいった看護兵、志願して斥候に出た勇敢な男たち…。物語は次々と創られ、その度に反響を呼びました。テレビやラジオのない時代、新聞に書かれたことはすべて「事実」として受け入れられたのです。そして、その「刺身のつま」として扱われたのが、冬の八甲田山を初めて踏破した「弘前隊」なのですから、世の中はわからないものです。これを日本政府も日本軍当局も上手に利用しました。死んだ兵卒たちを讃えることで、国民の「軍」への支援と信頼を勝ち取ったのです。これでは、事故の責任者である津川中佐や立見中将を処分することなどできるはずもありません。これにより、日本の軍部は、悲劇さえ「宣伝」に使えることを学んだのです。後に、大東亜戦争では、アメリカ軍の猛攻により各部隊の「全滅」が続きました。「大本営」は、これを「玉砕」と言い換え、英雄物語を創って「戦争熱」を煽ったのは、「悲劇が大きな宣伝になる」ことをこのとき学んでいたからです。
そして、現代において小説や映画が作られ、大ヒットしたのも、その「悲劇性」が大きかったからです。そういう意味では、明治の日本人と今の日本人の感性に違いがないことがわかります。そして、福島泰三大尉の「研究」の功績は、その後の日本軍や自衛隊に受け継がれ「冬季戦」が可能な装備の充実が図られました。今でも青森県にある「陸上自衛隊第5普通科連隊」では、毎年、正月明けの一番寒さの厳しい時期に「雪中行軍訓練」が行われています。そして、冬季訓練をとおして、戦う戦闘部隊としての装備品の改良に役立てているそうです。ただ、今でも杜撰な計画によって多くの犠牲者が出る事故は起きています。だれもが「起こしたい」と思って起きる事故ではありませんが、あの津川中佐のように、自分の面子や競争心などの邪な気持ちで作られた「実施計画」は、常に「危険」が伴うということです。現代のように新聞、テレビ、ラジオだけの情報だけでなく、SNSを活用した情報が瞬時に共有できる時代になると、最早「嘘」や「誤魔化し」は、瞬く間に暴かれる時代になりました。それが、「豊かな生活」と呼べるのかどうかはわかりませんが、事故を未然に防ぐ「防波堤」の役割を果たしていることは確かです。最近、よく使われる言葉に「ハインリッヒの法則」というものがありますが、「ひとつの小さな事故が、実は背後にその何十倍の危険を孕んでいる」という戒めに使われているものです。もし、雪中行軍隊が田茂木野村で案内人をつけていたら、もし、小峠で永野軍医の進言を山口少佐が聞き入れていれば…、次の大事故にはつながらなかったということです。ぜひ、覚えておきたい歴史の一コマでした。
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