教育雑学28 「米百俵の精神」を捨てた日本政府

先日、東京の立川市の小学校でとんでもない事件が起きました。子供の母親が呼んだ二人の男が、小学校2年生の教室に乱入し、子供の名を大声で叫び、それを制止しようとした担任教師に暴行を働き、その上、今度は職員室に行ってドアガラスを割り、教職員数名ともみ合い、駆けつけた警察官によって「逮捕」されたという怖ろしい事件です。男二人は、飲酒の上での狼藉だったようで、子供の母親と「友人関係」だったそうですから、昔から付き合いのある地元の「不良仲間」だったのかも知れません。それにしても、白昼堂々と酒を飲んで学校に入り、多くの子供のいる前で暴れるとは、最早、日本も「性善説」で対応することに無理が出てきたように思います。突然、教室に暴漢が乱入して暴行を受けた先生にしてみても、本当に「勘弁してほしい…」事件だと思います。もし、この暴漢が刃物を持っていたらと思うとゾッとします。そして、それが、学校の「保護者」が首謀者であることを考えると、国が進めて来た「開かれた学校づくり」も、本当によかったのかどうか、もう一度再検討する必要があると思います。私たちが思い出す「小学校への暴漢乱入事件」といえば、平成13年(2001)6月に起きた「大阪教育大学附属池田小学校事件」です。犯人は既に死刑が執行されていますが、突然、小学校に押し入った男が、子供を次々と刃物で刺した怖ろしいものでした。この犯人は、裁判でも最期まで「死刑」になることを望んであり、その動機も「生きていることが、嫌になった…」というものでしかなく、それで「無差別殺人」を犯す理由がわかりませんでした。しかし、それから20数年が経過し、似たような事件が度々起こるようになりました。つい、最近、大阪でも、子供を狙った「暴走車による無差別殺傷事件」が起きていますし、千葉市でも中学校男子が、何の縁もない高齢女性を背中から刃物で刺して殺した事件が発生しました。東大前の駅構内でも学生が見知らぬ男に襲われています。そして、どの事件も動機は曖昧で、「生きていくのが嫌になったから、凶行に及んだ…」というのも理解できません。ごく普通の生活を営んでいる私たちは、これを「どう解釈」すればいいのでしょうか。

人間が「自暴自棄」に陥って、とんでもない行動に走ることは、これまでもありました。それは、その立場になってみれば、少しは理解できることだったのですが、今年に入ってからの「事件」は、普通の感覚でいると、本当に「理解不能」なのです。立川市の事件では、この母親が、どういうつもりなのか、子供とは無関係の知人を学校に呼び、何を期待したのでしょう。考えられるのは、教員たちを「脅し」、自分の思うような対応をさせようとしたのでしょうが、これが「犯罪行為」であることくらい、大人ならわかりそうなものですが、日常的に行っている人間ならば、短絡的に動いたのかも知れません。そんなことをしたら、自分だって「ただですむ」はずがありません。小学生の子供も、そんな母親のせいで、この先、どうやって生きて行けって言うのでしょう。まして、不良仲間も40代と20代の大人であれば、相応の罰を受けなければなりません。昔の仲間から電話で呼ばれたからと言って、そんなに簡単に酒を飲んで学校という「教育機関」に乱入できるものでしょうか。まさに「狂気の沙汰」です。おそらくは、「学校」だから、強気になれたのだと思います。他の事件も、多くは弱者を狙った事件ばかりで、「警察署で暴れた」という話は聞きませんので、「弱い学校なら、すぐに謝罪して、警察にも通報されないだろう…」くらいのことは考えたかも知れません。

しかし、一方で、こうした「凶悪事件」が、度々起きるには、何らかの「背景」があるものです。それは、「貧困」なのか、「虐待」なのか、「いじめ」なのか…わかりませんが、そうした「愛された経験」のない人たちが、事件を起こすのでしょう。それにしても、教室で戦い負傷した先生方は、本当に気の毒だと思います。そして、よく戦ってくれた…と思います。「子供を守るため」に必死だったとは思いますが、命の危険を顧みずに暴漢に立ち向かった「勇気」は、讃えられるべきだと思います。もし、子供たちがけがでもすれば、間違いなく、その場にいたであろう「教師」は責任を問われます。どんな理不尽な事件でも、職責を果たせなかった「責任」は、子供を預かる「学校」にあるわけですから、後に「処分」されても、教師は文句ひとつ言えないのです。そして、それは、「安全」を最優先にしなければならない学校では、あってはならない事件なのです。しかし、予算が少ない学校において、安全のために命をかけるのも教師しかいません。そして、ひとつでも「失敗」すれば、すべて「学校」「教師」の責任になるのが、この国の定めなのです。本当に「ないないづくし」の中で、日本の教師は、本当によく頑張っていると思います。

国や自治体からは、学校に対して、事あるごとに「厳しい通達」があり、国民からは過度に期待(同情?)され、マスコミからは事ある毎に叩かれ、保護者からは、毎日のように要望と苦情をもらい、子供は、なかなか指示を聞かず、同僚は次々と辞めていく…。そんな、「四面楚歌」の中で働いているのが「教師」と呼ばれる人たちなのです。その社会風潮的な「侮り」が、立川市のような事件につながっていくのだと思います。国民の多くは、学校を自分が通っていたときのイメージで語ることが多く、現状を知りません。と言うより、「興味がない」といった方が正確だろうと思います。だから、「昔はこうだった…」とか、「先生に殴られた…」などという武勇伝的に語られることが多く、「学校=理不尽な場」というイメージが定着してしまいました。しかし、その裏で、「学校や教師によって助けられた人」もたくさんいたはずです。ただ、そうした話にマスコミは食いつきません。やはり、人々は「先生のくせに、何やってんだよ…」「偉そうにしやがって…」と、学校や教師をネタに憂さ晴らしをするのには、格好の存在なのでしょう。だれしも、他人の対して、自分の弱味を見せたくはないはずです。「教師の前で泣いた子供」も、大人になれば、そんなことは超越して立派な人間に育っているわけですから、あれこれ言う必要もありませんが、そういう「泣ける場」でもあった学校が、「風前の灯火状態」であることだけは、知っておいてもらいたいと思います。教師だって、何も「特別な人間」ではありません。普通に生活して、普通に勉強をして、職業選択の一つとして「教職」を選んだ人たちです。町場のサラリーマンと何の違いもありません。したがって、そんなに言われても「できないものは、できない…」のです。そろそろ、全国の先生方も自分たちの「声」を社会に届けないと、日本の教育に未来はありません。

今、日本政府は、「学校教育を変革」しようとしています。それは、おそらく「AI時代」に対応した教育に変えるつもりなのだと思います。それが、「デジタル化」であり、「リモート化」なのでしょう。そして、外国のように「教育の自由化」を促進することで、学校を「公から民へ」移行させるつもりだと思います。そうなれば、当然、「人」はそれほど必要ではなくなります。今の先進的な働き方が、「在宅勤務」「リモート」「コンピュータ活用」「個別作業」だとすれば、何も、都会の駅近くに「大きなオフィス」も「会議室」も不要です。その上、手作業で行っていた「書類作成」や「処理」も「AI」の独壇場です。そして、工場も、さらに「AI」の活用が進み、ロボット化されていくことでしょう。これならば、「人口減少」だろうが、「少子化」だろうが関係ありません。農業や漁業だって、そうした機器を導入すれば、人の手を使わない「機械(ロボット)化」だってできるのです。しかし、教育には「効率化」は不可能です。所詮、人間が「生物」である以上、「感情」を持つ「生物」であり、それは、けっして「合理的」ではないはずです。「人は、人の手で育てる」のが、基本だと私は思います。「米百俵」の逸話があるように、「教育は、国の礎を築く重要政策」だと言うことを分かった上で、「教育改革」を進めているのであれば文句はありませんが、ただ、闇雲に先進国に倣い「グローバル化に則った教育」を進めようとするのならば、絶対に反対です。もし、近い将来に「グローバル化」が沈静化して、世界の流れが変わったとき、既に「変革」を遂げていた日本は、もう、後戻りはできません。それは、とても危険な「賭け」のような気がします。それに、教育が「AI化」して「効率化」を求めるのであれば、それは、最早、「日本人が日本人であることを捨てる時」だと思います。それを意図しているのであれば、政府は国民に「信を問う」べきでしょう。この国の主権者は、政府ではなく「国民」なのですから当然のことです。

1 教育崩壊の元凶は「日本政府」

今回の立川市の事件のようなことは、今後、全国で度々起こって来ることが予想されます。大阪市の自動車による「子供への無差別テロ」にしても、千葉市の中学生による高齢女性殺害事件にしてもそうですが、「自分の意思を通すためならば、犯罪行為も厭わない」という感覚、そして、弱い存在に対して「暴力」を振るうことを躊躇わない風潮が出てきていることは、国として非常に危険な兆候を現しています。「少子高齢化」が叫ばれている今日でありながら、日本政府は、本腰を入れて「教育」を建て直そうとはしていません。寧ろ、「教育の質」を落とし、学校教育を「崩壊」させる方向に舵を切ってるように見えます。そう考えると、現在の学校現場の状況を予算も付けずに、傍観している政府の動きが理解できます。考えてみれば、今の状況は、数十年前に起きた「国鉄改革」の時と同じような経緯を辿っています。あのとき、日本政府は旧来の「国鉄の役割は終えた」とばかりに、民営化に走りました。しかし、国鉄の「労働組合」は強固で、なかなか、政府の言いなりになるような組織ではありませんでした。彼らは、「民営化反対!」を叫び、徹底したストライキで抵抗しましたが、国民の支持が得られず、労働組合は崩壊し、今の「JR」として新しくスタートしたのです。そのとき、マスコミは「如何に国鉄職員はだめか…」という記事を連日のように書き、テレビも「隠し撮り」までして、「国鉄職員が如何にだめな人間か…」を国民に刷り込むように報道し続けました。その結果、国民の多くは日本政府側に付き、「国鉄改革」の機運を盛り上げたのです。

しかし、この「やり方」は、けっして穏当なやり方ではなく、国鉄職員を貶めんばかりの「卑怯な手」を弄した強引な改革でした。実際、日本の鉄道職員は優秀で、「時刻表どおりに運行」する世界一の「鉄道職員」でした。確かに、戦後の鉄道網の復旧を成し遂げるには、大勢の労働者が必要であり、復員兵を大量に採用して作業に当たらせたことで、復旧が完成すると「人員整理」の必要性があったことはわかります。また、国鉄職員は「準公務員」の扱いでしたので、生活が安定していました。そのため、今のように簡単に「リストラ」もできなかった事情もありました。もちろん、大所帯ですから、中には、不良職員もいたでしょう。しかし、「新幹線事業」を見てもわかるように、あれほどの数の列車を毎日運行させていながら、一度も「大事故がない」というのは、やはり、そこに従事する職員の質が高いことを物語っていました。外国人から見ても、「日本の鉄道は、世界一安全で、時間が正確だ!」と驚かれるほどで、今でも、「日本の誇り」として「JR職員」に受け継がれています。それでも、「民営化する」となると、なりふり構わず、そこに向かってまっしぐらに進むのが、政治というものなのでしょう。それと、今回の「教育改革」は、とても似ているのです。つまり、政府は、「日本の教育は世界一」と謳われたとしても、なりふり構わず「民営化したい」と考えているのではないでしょうか。そうであるならば、これまでの一連の動きはよくわかります。

10数年前まで日本の教育は、確かに「世界一」のレベルにありました。当時は、諸外国の教育関係者が、日本の学校を視察して、「日本の教育」から学ぼうとする人たちが大勢いました。「カリキュラムが整っていること」「挨拶や礼儀などのしつけができていること」「集団訓練ができていること」「学習習慣が身についていること」「同じ食事(給食)を摂ること」「掃除の時間があること」「制服があること」等、自由主義で教育を行ってきた先進国は、既に子供をコントロールできなくなっていたのです。少年の凶悪犯罪が多発し、学力も低下して、学校が機能しなくなっていたのです。特にアメリカなどの「銃規制」のない国では、少年の銃による犯罪も起こり、これをコントロールすることが喫緊の課題でもあったのです。日本でも報道されましたので、気づいている人は多いと思います。そして、それは、まるで「今の日本」のようなのです。不思議なことに、日本の教育は、先進国が「失敗」した後に、同じようなことを導入する傾向があり、そして、やっぱり「失敗」をするという悪循環に陥っているのです。そして、これまた不思議なことに、日本は、自分の国の教育を「誇り」とするのではなく、逆に「欧米諸国の教育」を褒め称え、「日本の教育は、先進国に比べて遅れている…」と嘆いてみせるのです。世界が高く評価する日本の教育を、当の政府が否定しては、本末転倒です。そして、それに便乗するかのように「マスコミ」が、一緒になって騒ぎ出し、欧米の教育の「真似」をしては失敗する…の繰り返しを行ってきました。それは、まるで、「日本の教育を壊すため」に行っているかのようでした。そして、結果、政府の目論見どおり、日本の教育は崩壊し始めています。だれが裏で操っているのかはわかりませんが、「グローバル化」を推進している力と同じ力が、「日本の教育」に働いていると考えるのは、妄想でしょうか。

2 「価値の多様化」を求めた日本政府

平成の時代になったころから、政府は頻りに「世界がグローバル化していく…」ということを言うようになりました。それは、「貿易の自由化」から始まり、政府は、世界の国々が「仲良く手を取り合う関係を築くことだ…」と説明していました。聞いたときは、(何だか、誤魔化されているんじゃないの…?)と疑っていましたが、やはり、今になってみれば、そんな綺麗事で片付けられる話ではありませんでした。当時の「鳩山由紀夫」という民主党出身の総理大臣も「地球市民」という言葉を使い、恰も「最早、国民はいらない。みんな地球市民になればいい…」と言った「絵空事」を語るのが大好きな政治家で、昔から「ソ連通」と呼ばれた共産主義者でした。また、日本海を「友愛の海」と称して「グローバル化」を推進したことは、だれもが知っている事実です。そして、中国や韓国を訪問しては「謝罪外交」を繰り返し、国民からも「この人、大丈夫…?」と疑われるほどに「左巻き」の政治家でした。「鳩山家」は、代々、政治家を生業としている一家で、由起夫という人物は、まさに「金持ちのボンボン」を画に描いたような人でした。今もそうですが、戦後の政治家には、こうした「左巻き」の「グローバリスト」がたくさん存在しています。彼らは、日本国というより、「ソ連、中国、北朝鮮、韓国」の代理人のような言動を繰り返し、国を分断しようとしています。

その彼らが主張してきたのが、「価値の多様化」です。何でもそうですが、物事には「限度」というものがあります。その限度を超えると、思想的にはいくら立派な考えであっても、社会に混乱を引き起こします。たとえば、「共産主義」という思想は、原理的に見れば、これほど人権に配慮した思想はないでしょう。「富は、分かち合う」「差別は許さない」「人間に身分や階級はない」「人は皆平等」…。これらの思想に反対する理由が見つかりません。ところが、その思想で建国したはずの「ソ連」は、凄まじい「差別」が横行し、国民は「党」のために犠牲になっても構わないとばかりの扱いでした。権力を握った「党」は、内部では権力闘争に明け暮れ、外に向かっては戦争を繰り返し、力による支配を強めていったのです。彼らの言っていた「建国の理念」は、一体どこに行ってしまったのでしょう。そして、それとまったく同じことが、他の「共産主義国家」にも起こり、多くの国民が犠牲になりました。その凄まじさは、眼を覆うばかりです。そして、それは、今も残る「中国」や「北朝鮮」でも起こっていることは、だれもが知っている事実です。それでも、日本国内では「共産主義者」であることを堂々と名乗って政治活動を行い、それが「理想の国造り」になると確信しているのですから、また驚きです。何度も失敗を繰り返しているのに、それでも「正しい思想だ!」と言い続ける根拠は何なのでしょう。まさか、敗戦後の占領は、アメリカではなくて「中国」や「ソ連」の方がよかったと思っているのでしょうか。

結局、「共産主義」は、ソ連の崩壊と共にその力を失ったかのように見えましたが、裏では「グローバリズム」と名を変えて生き残り、またもや、世界を「グローバリズム」の下に支配しようとしています。日本もいつの間にか、「グローバリズム」の美名に惑わされ、その仲間入りを果たしました。そして、欧米諸国と同じように国力がどんどんと低下して行ったのです。その間、ソ連は「ロシア」に国名を戻し、共産主義とは異なる「専制国家」として生まれ変わりました。あの国は、どうしても「話し合い」などで進める政治ができないのでしょう。「大統領」に強大な権限を与え、自分たちの仲間で大統領の席を回していけば、同じ「体制」でずっと政権を取り続けることができます。そして、国民や議会も、それを「おかしい…」とは思わないのですから、やはり国民性(民族性)というものなのでしょう。思想は、共産主義ではありませんが、実態は「絶対的権力者(大統領)」が、自分の思うがままに行う政治が続くのです。そして、隣の中国では、「資本主義を取り入れた共産主義らしき…体制」に変化し、「グローバリズム」の盟主として、超巨大国家にのし上がりました。その中国共産党を操る勢力が「ある」とも言われますが、未だに実態は見えません。この勢いに乗った(乗せられた)日本は、その富を世界中に奪われ「失われた30年」と言われる経済の下降期を迎えたのです。

こうした状況にも関わらず、政府は未だに「グローバリズム」の呪縛から逃れようとはしません。いや、できないと言った方が正しいのでしょう。一時、亡くなられた「安倍晋三元総理」が、アメリカの「トランプ大統領」と連携して、グローバリズムではない国際関係を構築しようとしましたが、あのような形で殺されてしまい、盟友だったトランプ大統領も「不正選挙」によって大統領の座を奪われてしまいました。あのとき、「黒い噂」はずっと続いていましたが、日本のマスコミは、グローバリストの意を汲んで、トランプ氏と安倍氏を批判し続けました。これが、日本の指導者層の実態なのです。そんな中で、文部科学省は、グローバリストが好む「価値の多様化」を推進し、学校にそれを求めるようになってきました。それは、「人権重視」だったり、「男女平等」だったり、「ジェンダーフリー」だったりと、形こそ変えて、学校に無理を要求し出したのです。今の「学校体制」に「価値の多様化」は、どうしても限定的にならざるを得ないのですが、国の政策が、その方向に進む度に、学校は、その対応に追われました。学校での「いじめ問題」も、子供を教師がコントロールできなくなったころから激しくなりました。「いじめは、絶対にやってはいけない!」と言いながら、結局は、甘い対応しかできないことを子供も見抜いているのです。それまでは、教師に知られると「厳しく叱られる」ので、陰でいじめることはあっても、教師が加担したり、知らぬふりをしたりすることはなく、「いじめ」た方は、体罰も含めて、厳しい指導が待っていたものです。当然、親を学校に呼んで「家でも厳しく指導するように…!」と親を指導しました。そのときの教師の口調は、今とは違って、やはり厳しいものでした。

それが、「行き過ぎだ!」とか、「体罰だ!」という話になると、最早、教師はいじめの「歯止め」にはなりません。そのうち、教師は子供の機嫌を取るようになり、「対等目線」で対話をするように変わったのです。これは、一見「ソフト」な指導で、子供に配慮しているように見えますが、実は、子供の心に響くことはなく、他の正義感のある子供からも「先生、もっと、ちゃんと叱ってよ!」と不満が出る始末です。こうして、教師が「子供目線」に立った瞬間から、子供は教師の指導を聞かなくなりました。これが「真実」です。マスコミなどは、「子供は大人の言うことを聞いて育つものだ」という神話を信じ込むふりをして記事を書くので、現実とは違う印象の記事になり、子供は「教師の横暴の被害者」になるのです。それは、「親」も同じです。「国民は善意の人(性善説)」という思想に基づいて国が運営されますので、間違っているのは、親ではなく「学校(教師)」だという神話が作られました。そのため、政府も自治体も教育委員会も、親からの訴えは常に「真実」であり、自分の身内である「学校(教師)」は、それを隠蔽しようとする組織だという認識に立っています。これは、まさに「下僕の思想」であり、「教師を貶める思考だ」ということを忘れてはなりません。この理屈は、「役所」はどこも同じ発想で動いており、国民等は何者よりも「尊い存在」として扱われ、苦情が来ると、職員は「平身低頭」で謝罪し、「善処します…」と籾手で腰を屈めるのです。これでは、立派な仕事はできません。本来、共産主義であろうと、人間は「平等・対等の関係」でなければならないはずが、不思議と妙な「上下関係」ができているのです。したがって、「公」は、「国民の皆様」には、もの凄く弱い存在になってしまいました。最近では、学校から発する文書にも「お子様」と書き、病院でも患者を「患者様」扱いするようです。多少謙るのは結構ですが、さすがに学校や病院は違うのではないでしょうか。

3 「価値の多様化」が学校を壊す

だれもが知っているように、学校には「標準学級数」と定めがあり、「40人で一学級」を編制することになります。簡単に言えば、「41人」になると2学級編制となり、各クラスが「20人規模」になるという計算です。しかし、「39人」でも1学級ですので、児童生徒数によって、その年度の学級数に変動が生じるのです。細かなことはさておいて、この「40人」の性差も個性も、家庭環境も能力もバラバラな子供たちを掌握して、「学校のルール」に則って学習し、集団生活を行うことは、けっして簡単なことではありません。小学校では、1年生に入学してきた当初から、この「学習習慣」や「生活習慣」を身に付けさせて、だれもが、仲良く生活し、授業に集中できるように指導するのが「教師の役割」なのです。この千差万別な子供が、そう簡単に指示を素直に聞くものでしょうか。まして、少子化の現代において、子供は家庭でそれほどきちんと「しつけ」られているとは思えません。昭和のころなら、厳しい「親」もいましたが、今では「あいさつ」を教えるだけでも一苦労しています。それに、幼ければ幼いほど、子供の集中力はバラバラで、理解度も大きく異なります。それを、担任教師は、何度も同じ話を繰り返し、子供一人一人に身につくように「手取足取り」で教えていくのです。このとき、家庭での「価値観」が、学校や教師の方針と違えば、どうなるでしょう。子供は、教師の指導に反発しますし、それを聞いた保護者は、もっと学校と教師を批判するでしょう。「うちの子は、こうして欲しい…」という要望が出されても、他の多数の子供たちは、その「特別扱い」を、すんなりと受け入れるものでしょうか。また、子供の保護者たちは、一部の保護者の意見で、「学校や学級の方針」を変えていいと考えるのでしょうか。きっと、「それは、不公平で、我が儘だ!」と不満を学校や担任に言って来ることは間違いありません。それが「普通の感覚」なのです。つまり、「価値の多様化を受け入れる」とは、子供、そして保護者の要望に「一人ずつ応えていく」ことを指すのです。

40人の子供がいれば、「40通りの指導法」があり、それをたった一人の教師に「やれ!」と言うのですから、日本政府の命令は「無茶苦茶」なのです。それでも、これまでは、保護者の多くは学校の指導を受け入れていましたので、一部の保護者が強い要望を出しても、周囲の力で、それらは抑えられて来ました。やはり、日本のような「小さなコミュニティ」で暮らす人たちは、かなり、周囲に気を遣って生きていかなければならないのです。したがって、十分に説明すれば、一部の保護者も理解を示し、それほど大きな問題にはなりませんでした。しかし、この「数」が増えれば、今の学校配当の教職員数では、絶対に対応することはできません。それが「令和」の今の状況であり、これからの学校に予想される事態だということです。そして、学校が「できかねる…」と答えると、今度は、「何でできないんだ!?」と食い下がり、是が非でも無理を押し通そうとするでしょうから、対処する術がありません。また、そういった「声」を取り上げて、学校批判につなげるのがマスコミの常套手段ですから、学校に関係のない人は、一方的な情報だけ入れて、「だから、学校(教師)はダメなんだ…」と判断してしまうのです。こうした「悪循環」は、年々酷くなり、もう何年続いているでしょうか。その度に、学校は、その対応に追われ、しなくてもいい苦労を背負い込むことになるのです。そして、ただでさえ多忙な教師の仕事に限界が来て、担当した教師は静かに教壇を去って行くのです。教師の「精神疾患」による「療養休暇者」や「休職者」は、これまでの「最高値」を示しているそうですが、それ以上の「予備軍」がいることは、だれでも察しがつきます。そして、本来、「子供の教育」に熱心だった人は、そんな現実に幻滅し、二度と教職には戻っては来ません。本当に政府がやろうとしていることは、「教育の破壊工作」でしかないのです。もし、政府が定める「学習指導要領」をそのまま読んで実施するとなると、今の教職員数の「倍」の配置でも難しいのではないでしょうか。それでも「やれ!」というのが、文部科学省であり日本政府なのです。

その上、「個性の尊重」「人権の尊重」「男女平等」…と、あらゆる「理念」が次々と学校に入ってきます。つまり、「社会ではできなくても、学校ではできるだろう…?」「子供のうちに教えれば、大人になったとき、できるようになるんじゃないか…?」という、根拠のない誤った認識が、「〇〇教育」として、政府から各学校に下ろされてくるのです。よく、国会で政治家が議論するとき、「子供のうちから、しっかりと理念を教えて欲しい」という要望が出されるのを耳にします。最近では、「SGDs」や「ジェンダーフリー」などがそうです。そうかと思えば、前任の総理大臣のころから「もっと、投資にお金を使って欲しい…」とばかりに、高齢者に「投資」を勧めるようになりました。おそらく、アメリカ政府の要望に応えたものだと思いますが、政治が何かをやり出すと、きまって学校が利用されるのです。それが、「金融教育」です。簡単に言えば、「子供のうちから投資について勉強させろ…」というもので、政府は日本人を堅実な「貯蓄」ではなく、一種の博打みたいな「投資」に誘導しているのです。これらも、すべて「グローバル化」の一環なのだそうですから、よく考えて行動したいものです。ただでさえ、「英語科の必修」「道徳の教科化」「ギガスクール」など、新しい課題が山積している学校に、さらに新しい「〇〇教育」をやらせようと言うのですから、「有識者」という人たちは、現実を何も見ない人たちだと言うことが、よくわかります。そして、文部科学省の官僚も、政治家の意のままに教育を壊す「愚か者」の集団にしか見えません。それは、文部科学大臣の「国会答弁」を聞けば一目瞭然ですが、「できもしないこと」を「言葉遊び」の如く多用し、社会を混乱に陥れるのは、どういう了見なのでしょうか。そこに、「悪意」を感じるのは、私だけではないと思います。

4 学校には、「価値の統一」が必要

今の「学校体制」の中で教育を充実させたいのなら、「価値の統一」を徹底させる他に道はありません。それは、子供たち、教職員、保護者を含めた関係が全員が、「同じ目標」に向かってベクトルを合わせることです。それには、これまでの学校がやってきたように、生徒指導、生活指導、道徳教育に力を注ぎ、子供を成長させていくことです。今の政府は、「日本の教育は世界一」だということを誇りに思うこともせず、ただ、ひたすらに、それを「破壊する」ことに熱心でした。それは、まさに「グローバル化」した社会が求めている「伝統的価値」への挑戦であり、それらを破壊することにあります。「伝統的価値」とは、日本が長い歴史の営みの中で育まれてきた「教育観」であったり、「慣習」であったりするものですが、特に深く考えなくても、私たちの「生活」全体に見られる「らしさ」でもあるのです。よく、外国人は日本に来ると「日本人は親切…」だとか、「みんな優しい…」とか言ってくれますが、それが「特別」という意識は日本人にはないと思います。外国人だろうが、日本人だろうが「普通に普通のことをしているだけ」のことなのです。それは、日本人の心の中には、論語のいう「仁義礼智忠信孝悌」が根付いているからです。昔、これを亡くした人間は「亡八者」と呼ばれていました。つまり、「人間の心を捨てた外道」という意味です。しかし、それをグローバリストたちは「不要」だと考えているようです。この「八つの心」は、敗戦後「GHQ」によって葬り去られましたが、それは表面上のことで、個々の心の中には、強く残されていました。「弱い者は助ける」「正直に過ごす」「嘘は吐かない」「挨拶をする」「約束は守る」「卑怯者にはならない」「勇気を持つ」…などは、日本人には、大切な「価値」なのです。

「白虎隊」で有名になった会津藩には、「什の掟」があり、子供たちには厳しい約束事として、伝統的に受け継がれていました。しかし、戦後、そうした風潮がなくなると、会津若松市の子供たちは、次第に荒れ始め、特に中学生たちの乱暴な行動は目に余ったそうです。そこで、会津の人たちは、昔の「什の掟」を思い出し、それを柱にした「教育」をすることにしたそうです。それまで、バラバラだった教育方針も、市の呼びかけによって賛同者が増え、各学校も理解するようになりました。そして、「什の掟を取り戻す運動」が展開されたそうです。すると、あれほど暴れていた子供たちが、昔の「白虎隊」や「会津藩」を勉強するようになり、次第に落ち着きを取り戻し始めたのです。「自分たちの郷土で生まれ育った人たちの苦難の歴史」は、今の子供たちの心に響いたのです。今、会津若松市駅に降り立つと、正面に「白虎隊士像」が立ち、お城を見詰めています。そして、その脇には昔風の看板が立ち「什の掟」が「会津っこ宣言」として書かれています。そのいくつかの「宣言文」の最後には、「ならぬものは、ならぬものです」と書かれており、この言葉が、会津の人々に受け継がれて行くのです。今風に言えば「やってはいけないとわかっていることは、絶対にやってはいけないのだ!」という戒めの言葉です。これが、「伝統的価値」というものでしょう。

この「日本的価値観」が共有されているからこそ、日本の学校は「世界一」と呼ばれる教育が実現できたのです。今、「教員不足問題」が社会問題化していますが、それは、若者たちが持っている「価値観」と実際の学校に大きなズレが生じているからに他なりません。教員志望者の多くは、「自分の経験」に基づいて、過去に優れた指導者(先生)に出会い、「自分もあんな先生になりたい…」という夢を持ったから教職を志したのです。それは、本当に困った時、自分を助けてくれた存在だったからです。それは、現代のような「スクールカウンセラー」でもなければ、「精神科医」でもありません。ましてや、親兄弟でもないのです。今の時代は、何かといえば「資格を持った専門職」に多くの期待をかけますが、本当にそうでしょうか。「資格がある」ということは、専門的な知識があることはわかりますので、それ自体を否定しませんが、長年、教師として培ってきた「経験」と「勘」は、それ以上のものがあると思います。それは、資格職を相当に上回る「臨床例」を持っているからです。そして、そうした優秀な教師は、根本的な「優しさ」を持っているものです。確かに、指導は厳しかったかも知れませんが、その根底に流れる思いは「熱く」、一人一人の子供を大切に思う教師としての「信念」がありました。だからこそ、子供たちは「この先生について行きたい…」と心から願ったのです。それが、「成長する」ということなのです。「価値の多様化」も結構ですが、それが行き過ぎると、「個」が肥大化し、家族も学校も社会も壊してしまうことを忘れてはなりません。それが、「グローバル化」と称するのであれば、昔の「共産主義」より怖ろしい思想だと思います。

5 「政府」の考える学校改革とは…

日本政府(文部科学省を含めて)にとって、学校の教師などは、自分たちの政策を実現させるための「駒」程度にしか見ていないのでしょう。「グローバル」を信奉する政治家や官僚にとって必要なことは、「国」という「運命共同体」を壊すことであり、強固な「団結力」や「絆」などは、早々に断ち切りたいと願っているのだと思います。そこに、「らしさ」があろうと、「個人が優先される社会」には、歴史も伝統も家族も必要のないものです。日本は、まさに、その道を進んでいるように見えます。そうなると、「世界一」と称された教育機関である「学校体制」を壊さなければなりません。それが、「民営化」なのです。政府にしてみれば、「教師を何故、国の予算で面倒を看なければならないのか?」という疑問は、ずっとあったはずです。日本では「教育」は憲法で保障された「子供の権利」であり、義務教育を受けさせることは、「保護者の義務」という考えから、教職員を「公務員」として扱ってきました。しかしながら、教職員が、必ずしも「公務員」である必要はありません。当然「私立学校」の教職員は公務員ではないのですから、「教師=公務員」という考えは成り立たないことになります。また、先進国を見ても、「教師」という職業は、けっして地位も高くなく、好待遇の公務員としているわけではありません。そのため、「副業」を認めていますし、子供が休みの期間は、給与を支払わない国もあります。だから、日本のような教育ができなくて当然なのです。その分、社会や家庭が担えればいいのですが、「子供の教育」ほど、面倒で成果が出にくいものはありません。現代のように、AIによって答えが瞬時に出る社会では、「答えの出ない仕事」は、敬遠されますから、何処の国でも「教育」は、三流の仕事になっているのだと思います。

外国の「富裕層・エリート層」の人たちは、当然のように「私立」の設備の整った学校に入学させますし、子供のために高額な教育費を支払うことを躊躇いません。だれも「同じ教育を施してほしい」などとは考えないのです。それに、広大な国であるアメリカなどでは、「寄宿舎」も整っており、お金さえあれば、どんな教育でも受けさせることができるのですから、それで文句を言う人はいません。最近、日本の芸能界で活躍する女性の「子育て」を扱ったテレビ番組が放映されました。女性は有名な音楽家で、子供たちを「アメリカの学校に留学させている」という話です。アメリカの富裕層の子弟が通う「私立学校」は、敷地も広大で、見た目にもすばらしい環境が整い、何の不自由もなく勉強に励むことができるでしょう。日本人であれば、だれもが羨む「教育環境」です。番組では、敢えて「教育費」については、触れていませんでしたが、母親である音楽家は「ものすごくお金がかかる…」とだけ答えていました。アメリカでは、それが「常識」なのです。当然、お金がなければ「それなりの学校」に行くだけのことですから、日本のテレビで取り上げられることもないでしょう。アメリカは、「努力と運次第で夢を掴める国」ですから、「貧富の差」があって当然の国です。夢が叶わなければ、「貧しいまま」でも仕方がないのです。おそらく、日本政府も、このアメリカのような「社会」や「教育体制」を作りたいと考えているのだと思います。そうなれば、教職員の給与を国が負担することもなくなります。現在は、「国が3分の1、地方自治体が3分の2」となっていますが、以前は、「半分」は国が負担していました。要するに「財源の問題」に行き着くのです。財務省にしてみれば、「戦後の復興期なら仕方がないが、世界有数の経済大国の日本が、いつまでも旧体制を維持していくのはおかしい…」と考えているのでしょう。そのためか、学校現場がどんなに要望しても、文部科学省の予算は一向に増えません。そして、口をつけば「民営化、民間人登用、コミュニティスクール…」と、「民に移行させる機会」を狙っているです。

そうなると、学校の教師が頑張って「成果」を出しても、改革派には面白いはずがありません。まして、「少子化の時代」ですから、学校の数を減らし、教職員の数も減らしたくてしようがないのです。そこには、今の学校が抱える「課題」などは関係ありません。何処のだれが困ろうが、それで「民」に移行できるのなら、政府としては万々歳なのです。今、学校の一番の課題は「子供のこと」ではなく、「保護者対応」だと言われています。保護者と呼ばれる「子供の親」の過大な要求に学校は応えられず、四苦八苦しています。そして、毎日、保護者対応に追われた教師は、心を壊され、一人、また一人と教壇を去って行くのです。もちろん、すべて「親」が悪いということはありません。「我が子に少しでもいい環境を…」と願うのは、当然です。教師の中には、指導力の不足している人もいますので、すべてが「クレーマー」と呼ぶつもりはありませんが、先の「立川市」の事件ではありませんが、保護者の一部には、学校や教師に対して、威圧的に接する人がいることは確かです。本来、学校の実態を考慮して、教職員が「働きやすい環境」を整備することは、政府や各自治体の義務のはずですが、政府は、それに対して何の「手立て」も講じようとはしません。相変わらず人員は増えませんし、「カウンセラー」等の専門職の配置もありません。「読書の充実」を謳いながら、「司書」の配置もありません。4月当初に「学校に欠員」が出ても、知らぬ顔。教職員の「療養休暇者・休職者」が激増しても知らぬ顔。「児童虐待数」が増加しても知らぬ顔。「部活動」が問題になっても知らぬ顔。そして、新しい「教育課題」を次々と生み出し、学校現場に下ろしてきます。その度に、教師は「研修」を繰り返し、やっと指導ができるレベルになると、また、新しい課題が下ろされてくる毎日なのです。それでいて、勤務時間は「午前8時から午後5時」と定められており、学校内での会議も研修も教材研究も授業準備も、すべて「時間外」でやらなければなりません。そして、その「時間外手当」は、「給与の4%のみ」。そこに「部活動の指導」が入れば、一人で「二人分以上」の労働を強いられることになるのです。

それでも、政府は動きません。辛うじて、「教職調整手当」が少しずつ「10%」程度まで上げるそうですが、こんなものは「言い訳」にもならない金額です。そして、相変わらず「時間外(残業)手当」の支給は検討されないそうですから、今後も「教員不足」は解消されないでしょう。国会などでは、文部科学大臣等が、適当な答弁を繰り返していますが、具体的な解決策が示されたことは一度もありません。本気で取り組む気など欠片もないのです。なぜなら、これは「チャンス」だからです。今、まさに、「世界一の教育」が壊れたことで、教師の人気は限りなく地に墜ち、だれも教師になろうとは考えなくなりました。「あんな怖ろしい仕事には就きたくない…」とばかりに、若者は教師を目指さなくなりました。「若いうちから先生と呼ばれ、公務員として安定した暮らしが保障されていた」はずの「教師という職」が「ブラック」と言われるのですから、これで、日本の「公教育」は、間違いなく終わります。本当は、国立大学の「補助金」が減らされ、授業料を私立並に取るようになったころから、「怪しい…」と気づくべきでした。いずれ、近いうちに政府内に「教育改革推進本部」とでも言うような組織が作られ、「学校統廃合の促進」「教師派遣事業の推進」「教員免許制度の緩和」「教職員の副業の許可」「教育公務員制度の見直し」等が検討されるはずです。そして、不登校対策を口実に「フリースクールの認可」「大手学習塾の学校認可」「通信制教育の拡大(小学校から大学まで)」「ホームティチャーの認可」などが実施されるでしょう。そうなれば、国は、教育予算を大きく「削減」し、それを防衛費や社会保障費に回せるという寸法です。したがって、教師は、「教職員派遣会社」に所属して「契約社員」として学校に派遣されます。おそらく、「時給2000円」くらいで雇われるのではないでしょうか。当然、「夏・冬・春」の長期休暇中は給与は出ません。不足分は、「副業」で賄うしかありません。当然、ボーナスや退職金の制度もなくなりますので、学校は常に「人手不足」が慢性化し、「公教育」に期待できない家庭は、当然「私立」に流れます。そして、日本社会は欧米と同じような「格差社会」が出来上がるのです。逆に「富裕層・エリート層」の人たちからしてみれば、自分たちで「教育を選択」できる体制の方が有り難いのかも知れません。

6 今の子供の「現実」

子供を学校に通わせていない人には理解できないでしょうが、「子供はゲームばかりで遊んでいる」わけではないのです。その「遊び」自体が、できない状況にあることを知って欲しいと思います。今や、学校は「昭和時代の学校」ではありません。簡単に言えば「託児所兼学校」という存在で、「お子様は、学校でお預かりいたしますので、しっかり働いてください」という発想から一歩も出ていません。そのため、子供が学校にいる時間がどんどん長くなってきました。あの「コロナ騒動」の時でさえ、政府は「学校でお子様をお預かりいたします」と言ったために、学校の教職員は、「コロナ感染」のリスクを背負いながら、出勤し、登校してくる子供たちを預かったのです。「死」が想定された「未知の感染症」に対してさえこれですから、如何に、政府は学校や教師を「駒扱い」しているかが、わかろうというものです。本来であれば、自治体の職員を動員してでも対応するべきことを「学校で預かれ!」と命令されたために、「コロナ騒動」の真っ只中にも拘わらず、教職員は、危険を顧みず、子供を預かり、学校中を「消毒」して回りました。まさに「命がけ」でした。そして、やっとの思いで働いても、命じた側の政府からは、「感謝の言葉」ひとつもありませんでした。この「やって当然」という考え方が、学校を「ブラック化させた」という認識さえないと思います。もし、少しでも「申し訳ない」と思うのなら、「お願いします」とか、「やっていただき、ありがとうございます」の言葉くらいあるべきでしょう。

有名な「ゆとり教育」が潰されて以降、子供の「授業時間数」は増え続けました。教科書も大きく厚くなり、ランドセルは、教材でいつもパンパンです。大きくて軽いランドセルが販売されるようになり、子供たちは「登山」にでも行くような大荷物を背負って登校していますが、国民の中で、それに異を唱える人はいません。あまりにも重くて、苦情が出ると、政府は「学校に教科書を置いていくことも可」としました。だったら、家に帰って「復習」したり、明日の「準備」は、どうするのでしょう。その上、今度は「タブレット」の配布です。この「タブレット」は、最新モデルではありませんから、かなりの「重量」があるのです。そして、「壊れたら、自分で直してください…」ですから、保護者の負担は増えるばかりです。実際、家庭にパソコンの一台くらいはあるものですし、学校で基礎が勉強できれば、高価なタブレットを一人一台貸し出さなくてもよさそうなものです。これで、また、学校の負担は増えました。とにかく政府は、何かしらの「課題」が出て来ると、すぐに学校に持ち込みます。そして、二言目には「成果を出せ!」と教師と子供の尻を叩くのです。教員側から言わせてもらえば、今や、悪名高い「ゆとり教育」が出されたとき、やっと救われた思いがしたものです。教科書が薄くなり、教える内容も限定的になりましたが、その分、学校裁量が増え「子供たちにじっくり向き合える時間」の確保ができたからです。内容が少なくなった分、繰り返しの指導も可能になり、「一時間(45分)」時間をとって「自学の時間」とし、躓いている子供に、もう一度教える時間が確保できました。そして、毎日が「5時間授業」で済むために、午後3時には全員下校できたのです。

あのときほど、子供と教師がたくさん触れ合い、笑顔が多かった時期はありません。それを、単なる「学力調査」をネタに、「このままでは、学力が下がる!」といったキャンペーンを張り、「学力向上」に舵を切ったのは、日本政府でした。そして、「全国学力調査」を開始して「子供の指導の改善に役立てろ!」と命じました。ところが、この「結果」をマスコミに公表したため、各都道府県は、その結果に一喜一憂することになり、少しでも「高い順位」を取ろうと、また、教師の尻を叩いたのです。「もっと、過去問をやらせて、いい結果を出せ!」と発破をかけ、まじめな学校は「自習時間」を設けて、子供たちにせっせと「過去問」を解かせ、準備万端で「調査」に臨んだと言われています。特に「流出」の激しい自治体では、その傾向が著しく、逆に大都会では「私立学校」が参加しない有様でした。結果が悪いと、「やっぱり、あそこに引っ越すのはやめよう…」となるとでも考えたのでしょう。そして、上位県では、知事が嬉しそうにマスコミの前で「うちは、教育県です!」と勝ち誇り、笑顔を振りまきましたが、人口減少は相変わらずでした。これも、学校の負担を増やす元で、既に「子供の学力把握」は十分できているのに、政府の命じるままに対応させられる教員は本当に気の毒です。

政府は、実施して僅か数年の「ゆとり教育」を理由も定かでないまま叩き潰し、教育を政治利用し始めました。本来、教育には「中立性」が求められるはずですが、そんな指摘をした評論家はだれもいませんでした。これまでも、政治の教育への介入は度々ありましたが、さすがに「中央教育審議会」をとおった「学習指導要領」の内容に政治家が口を挟むことはありませんでした。なぜなら、この「中教審答申」は、建前的には文部科学省が、いわゆる「有識者」と言われる各界の著名人に「新しい教育」について諮問し、答申を受けて決定するプロセスを辿っており、これを否定することは、自分たちの「方針」を自ら否定するようなもので、「中教審の権威」を政治の力で貶めることになるのです。つまり、時の権力者は、自分の都合に合わせて「日本の教育」を意のままにできることを「国民」に知らしめたことになるのです。「民主主義」を標榜する「日本国」が、こんな横暴を許していいのでしょうか。しかし、マスコミも野党の政治家も挙って「ゆとり教育大反対運動」を展開し、国民の面前で「教育への介入」をして見せたのです。これ以降、「日本の教育」は、「転落の道」を辿ることになったのです。

そして、マスコミは、喜んで政治家の走狗となり、その世代の若者たちを「ゆとり世代」と名付けて、後々まで蔑みました。しかし、実際は違いました。僅か数年の「ゆとり教育」でしたが、そのときに種を撒いた「個性尊重」「主体的活動」「自学の大切さ」などが、個性的な若者を誕生させたのです。特に、芸能、芸術、スポーツ等では、「天才か…?」と思わせるような才能が次々と開花していきました。今をときめく大リーグの「大谷翔平選手」などは、その代表的な若者でしょう。これまでなら、「出る杭は打つ」的な思考で、「金太郎飴人間」ばかりを作ってきた日本に、初めて「個性的な人間」が生まれたのです。しかし、当時、その大人たちの「常識の壁」は厚く、最初は、だれもが「そんなのは無理だ!」とばかりに、少年の「個性」を潰そうと躍起になりましたが、彼も彼の家族も怯みませんでした。テレビのスポーツ番組では、大御所と呼ばれる「昔の一流選手」が次々と現れては、「今の子供は…」とか、「プロを舐めてる…」と言って、彼と家族を散々にこき下ろしました。そのことは、大谷選手とご家族にとっては、忘れられない屈辱の日々だったろうと思います。「ゆとり世代」と言うだけで、この年代の若者は、会社でもばかにされたと言いますから、「ゆとり教育」を潰した人たちは、さぞや満足だったことでしょう。しかし、世界は既に若者の「個性」や「特性」を生かした研究を進めており、それから数年後には、続々と「天才」たちが、各界で活躍し始めるのですから、面白いものです。今では、その常識的な大人たちは、「過去の所業」など忘れたかのように、成功した若者を賞賛し、「凄い!」「天才だ!」と持ち上げ、自分の手柄のように拍手を送っています。しかし、無理な「学力向上政策」は残ったままで、子供の「学力向上」どころか、日本全体が「凋落傾向」にあるというのも皮肉な話です。

よく、「今の子供は家の中に閉じ籠もってゲームばかりしている…」と、大人たちの「今時の若者論」を唱えますが、今の子供には、昔の大人ほど「時間的なゆとり」はありません。小学校に入学すれば、低学年のうちから毎日「6時間授業」で、下校は「午後4時」を回ります。朝8時前から登校して、6時間も授業を受け、やっと下校できるときには、もう「夕方」です。最近は、家に帰ってもだれもいないので、「学童保育」という施設を使う子供が大半です。そこでも、学校の延長みたいにして過ごし、迎えに来る「家族」を待つのです。これだけで、6、7歳の子供はクタクタです。それも、自由に「遊んで」の疲れではないので「心」が疲れるのです。大人でも、周囲に他人がいると「気疲れ」するものです。それが、朝から夕方まで続くのです。それも「毎日」ですから、子供の「脳や心」の休まる暇がありません。「いじめ」の原因もこうしたことがあるのではないかと想像できます。子供だけでなく、人間は「心」が疲れると「脳」が麻痺し、人間の「理性」が抑えられ、「本能」が表に出て来るのかも知れません。側にいる相手を攻撃したくなり、相手が困ったり、泣いたり、騒いだりするのを「楽しむ」ような、歪みが出て来るのでしょう。最近の不可思議な事件の数々も、こうした「心の歪み」から来ているものが多いように感じます。子供の場合は、こうした「脳や心の疲れ」が出ないよう配慮し、常に「5~6分」の力で過ごせるようにしたいものですが、日本人の「せっかち」な性分からすると、「そんな悠長なことはしてはいられない!」となるのでしょう。「ゆっくり結果を待て」とか、「果報は寝て待て」という言葉だってあるのに、「待てない」典型が日本政府なのです。

高学年の10歳以上にもなると、やっと学校が終わり、重い荷物を背負って帰宅すると「茶の一杯」も飲まないうちに、すぐに「学習塾」に向かわなければなりません。夜の7時から授業が始まるとなると、家にいられるのは2時間足らずです。その間に、宿題を済ませたり、自分の用事を済ませたりしていれば「あっ…」と言う間に時間は過ぎます。慌てて塾に向い、それから、また「2時間」の授業が始まります。特段、私立への進学を考えていない子供でも、そこでのんびりしている子供は少数です。学習塾でなくても「習い事」をしている子供も多く、我が家では、週3回で剣道の道場に通っていました。そうなると、帰宅は午後の9時過ぎは当たり前です。普通なら「子供の寝る時間」ですが、今時の子供は忙しくて、そんな早い時間に寝る子は、幼児だけでしょう。そこから、塾の宿題をやり、風呂に入り、明日の準備をして就寝は「11時過ぎ」になります。そして、翌朝6時には起きて、動き出すのです。これに、「部活動」が加われば、朝7時には、練習が始まりますので、ゆっくり寝ている暇はありません。これだけのことをこなしている子供に、「ゲームばかりしている」はないでしょう。それに、「危険だ!」と騒いで、子供を屋外から排除するように仕向けたのは、日本の「大人たち」だということを忘れてはなりません。大人は、本当に「自分の都合」だけで生きている我が儘な「生物」なのです。

これでも、「ゆとり」は、だめなのでしょうか。今の日本がギスギスしているのは、社会全体から「ゆとり」を奪ってきたせいだとは思いませんか?「週休2日制」が開始されるころ、「子供の受け皿をどうするか?」などという議論がされましたが、今は、子供のことなど社会は関心も持たないようです。あるのは、「少子化対策」ばかりで、それも、少しばかりの「資金援助(支援という)」をするだけで、「子育て」の根本がわかっていません。子育ては、ただ「補助金」を出せば済む話ではありません。社会全体が「子育て」に関心を持ち、みんなで育てようという機運が必要なのです。今の若い親たちは、子育てに一人で悩み、相談したくても、親身になってくれる近所の人はいませんし、昔のように「子供を預かってくれる」人もいません。預かりたくても、「もし、何かあれば責任が持てない…」からです。親切心で助言したり、手助けをしたりしても、母親が満足できなければ「親切心」も仇になるからです。そして、学校に入学しても、教師は子供や保護者によそよそしく接し、昔のように「抱きしめて」くれることもなくなりました。スキンシップは「セクハラ」ですから、子供の体にタッチする人は、いないはずです。そして、相談しても一般論に終始し、最後は、「そちらで決めてください…」と突き放され、本気で叱ってくれる「先生」もいなくなりました。そして、今や、学校は「ブラック」と呼ばれる場所となり、いるはずの「教師」が配置されていない状況です。これで、だれが「子育ては楽しい」と思えるのでしょう。要するに政府は、本気で少子化に取り組む気がないのです。「子供が愛されない時代」に生きる親や子供たちは、本当に可哀想だと思います。

7 「米百俵の精神」を捨てた日本政府

もし、政府の考える改革が成功し「民営化」になったとしても、日本の教育が「世界一」と呼ばれる日は永遠に訪れないと思います。あるのは、だれの目にも明らかな「格差」だけです。もちろん、所得の多いエリート層の人たちは、富裕層と同じように学校を選択できますので、これまで以上に充実した学校生活が送れるかも知れません。しかし、そうでない「中間層」の人たちは、それほど潤沢な資金を用意できませんので、やはり、これまでどおり「公立」を選ぶことになるでしょう。そのとき、教員はすべて「派遣会社に登録している人」ですから、就業規則も厳格に守らなければなりませんし、残業するにも許可が必要になります。もし、会社の就業規則を無視して働けば、当然、懲戒処分の対象となり「解雇」されるでしょう。そこまでして、子供のために働く人はいません。当然、契約は「1年」が基本ですから、その実績に応じて、契約の「延長」が決められます。そうなれば、就業時間は「8時間」、授業時数は「週20時間」、部活動等の課外活動は「別契約」となります。会議等は、すべて「リモート」で可能ですから、授業時間外の勤務時間内で各教室等で行われます。保護者からの苦情や相談は、おそらく「AI」を活用し、AIの指示で担当役所や警察、児童相談所に通告されるはずです。保護者の相談内容によっては、「ハラスメント」と判断されて、「警告」を受けるかも知れません。そして、必要であれば、有料の「相談窓口」を利用することになるでしょう。そのときになって、「昔の先生は、もっと親身になって相談に乗ってくれた…」と嘆いても後の祭りです。それを求めたのは、今の大人たちだからです。

そうなれば、学校はこれまでより、ずっとスリム化し、保護者の責任は「明確」になるはずです。これまで、学校だけが頼りだった親や子供たちは、他の「専門機関」に回るしかなく、いわゆる昔ながらの「学校の先生」は、何処にもいなくなり、日本の教育改革は完成するのです。これが、私の「未来予想図」ですが、案外、当たるのではないでしょうか。そのときになって、昔を懐かしんでも仕方がありません。一度動き出した体制は、そう簡単に変わることはなく、たとえ「失敗だった…」と気づいても、それを変えるのは、また、数十年の「時間」が必要になるのです。昔、幕末のころ「越後長岡藩」は、朝敵となり、新政府軍によって町は焼かれ、厳しい罰を受けました。戦いの指揮を執った家老「河合継之助」は、戦で亡くなりましたが、後を継いだ「小林虎三郎」は、親戚筋から送られて来た多くの「米俵」を見て、ある決断をしました。それは、飢えた領民にその米を分配するのではなく、米を金に換え「学校」を作ったのです。彼は、「米は食えば終わる。しかし、教育は人を育てる。将来の長岡のための人を創るのだ!」と言ったそうです。これが、後に「米百俵の精神」として有名になり、小泉純一郎総理も国会で引用されました。「学校」とは、「未来の国のために役立つ人材を育てる機関」なのです。そして、そこで教える教員は、「肩書き」ではありません。教員になる資格なら、何処の大学でも取得できます。そして、都道府県に採用されれば、「肩書き」だけは「教諭」になるでしょう。しかし、その若い教員が、「本物の教師」になるには、長い長い年月と経験が必要なのです。それを、日本政府は、この数年間で、すべてを失いました。そして、子供たちの未来を託せる教師は、今の体制では、二度と生まれることはないでしょう。まさに、「米百俵」を政府が勝手に食い潰したのです。いずれ、近いうちに政府は、日本の教育問題で頭を抱えることになるはずです。学校の「教師」を人間扱いせず、単なる「駒」として使い捨てにした報いは、何処に返って来るのでしょう。

8 外れて欲しい「未来予想」

これを読んだ人は、「こんなのは妄想だ!」とか、「あり得ない!」と思う人が大半かも知れません。私も「そうであって欲しい…」と願っています。しかし、現状を見ると、そんなに甘い状況で   ないことだけは確かです。教職に経験のない人は、「子供だろ…?」「子供に教えるくらい、だれだってできるんじゃないの?」と思いがちですが、多分、教室い入っただけで、緊張感で冷や汗を掻くはずです。40人「80の瞳」が一斉にこちらを見るのです。その「熱い視線」は、好意だけのものではありません。教師を値踏みするかのようにじっと見られると、大人でも「足が竦む」思いがするはずです。そして、声を出そうにも声が震えて、小さな音しか出ません。そうなれば、子供はすぐに「こそこそ」と囁きだし、10分もしないうちに騒ぎ出すことでしょう。それを上手にコントロールできるのが、経験を積んだ「ベテラン教師たち」なのです。この教師たちは、授業での指導にも長けていて、子供の「発言」を拾い上げて、学習の「めあて」に迫る手法を身に付けていますから、たとえば、「教科書」と「話術」だけで、子供を学習に集中させることができるのです。それは、長年培ってきた経験と「豊富な知識」に裏付けされています。彼らは、常に「本を読み」、専門知識から雑学まで、頭の中には無数の「引き出し」があり、教えているうちに、その「引き出し」が次々と開いて、子供の興味を掻き立てるのです。そんな「魔法」のような技術を持つ教師が、次々と教壇を降り、教育現場から去っているのです。おそらく、頭のいいはずの政治家や官僚たちには、到底「真似」はできないでしょう。

だからこそ、日本の教育は「世界一」だったのですが、日本政府とマスコミによって壊されました。もし、日本をもう一度「復活」させたいと本気で考える政治家がいるのなら、「教師風情が…」と思わず、一度、膝を折って、そんな優秀な「元教師」たちの話を聞いて欲しいと思います。単なる「数合わせ」のように、「教員」の頭数だけ揃えても、大型船がコントロールできないのと同じです。優秀な教師(船員)が、若い部下を鍛えて、自分の持つ技術を惜しみなく伝えなければ、教育は成り立たないのです。そして、その優秀な教師が去った後も、それを「受け継いだ」若い教師が経験を積み、また、若手に教える…。この「伝承」だけが、「強い力」を生み出すのです。頭でっかちの船長(校長)が乗り込んで来て、訓示ばかり垂れても船(学校)は動きません。いずれ、太平洋にも出ないうちに「座礁」し、船諸共に海底に引き込まれてしまうでしょう。「学力が高い=優秀」ではないのです。世界の先進国は、既にそのことに気づき、これまでの「グローバル化」を見直し始めました。彼らは、やるのも早いかも知れませんが、「だめ」とわかったときの「切替」も素早く、日本はいつの間にか「置いてきぼり」にされてしまうのではないでしょうか。そろそろ、自分の国に「誇り」を持ち、世界をリードするくらいの気持ちで「教育」を建て直して欲しいと願わずにはおられません。

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