今年は、「終戦80年」ということで、マスコミもこれに合わせて様々な「終戦企画」を考えているようです。戦争を経験した人の多くは、既に80才を超え、その声を聴こうにも残された時間はそれほど多くはありません。日本人の平均寿命が延びたために、現在においても「戦争を語る人」はいますが、多くの日本人にとっては、「終戦80年」と言われても、それほどの感慨も持たないことでしょう。「時間」というものは、本当に残酷なものです。いくら、「残したい・残さなければ…」と考えても、何もしなければ「記憶」という記録は、消えてなくなってしまうのです。私が生まれた昭和30年前半は、敗戦後、僅か10年が経過したばかりのころでした。都会はいざ知らず、田舎は特に戦前と変わらぬ風景があり、生活も似たようなものだったはずです。思い出すのは、曾祖母が作ってくれた「味噌にぎり飯」のことばかりです。小さい私が、「腹へった…」と言うと、ばあさんは、必ず、子供の手には大きな丸い「味噌にぎり」を作り、食べさせてくれました。もちろん、米も家の田んぼで採れた米ですし、味噌も自家製です。そんな自給自足みたいな生活ですから「戦後の復興」も、見た目にはあまり変化はありませんでした。しかし、そんな村でも「復員した人」はたくさんおり、農業の担い手として毎日の作業に追われていたのです。
一般国民にとって、政治的なことは何もわかりません。唯一の情報伝達手段は「ラジオ」でしたから、「ラジオが言っている」は、だれもが納得する「正しい情報」だったのです。そのうち、農家でも新聞を購読するようになると、今度は「新聞に書いてあった」が、やはり「正しい情報」になるのです。それが、地方の政治を動かし、家庭内での「戦後思想」を形作る大きな要因になりました。特に「政治家」は、地方の「偉い人・立派な人」ですから、その発する「言葉」は、現代の100倍以上の力を持っていたはずです。明治以降、江戸時代から続いた身分制度は、「階級制度」として残り、それが敗戦によってなくなっても、国民の意識の中では、知らず知らずに「権威・権力」に阿る体質が出来上がっていました。そして、自分たちで勝手に「階級社会」らしきものを作ったのです。未だに「大学」が恰も「学問の府」のように言われるのは、「勉強のできる人は、立派な人」という明治以降の「刷り込み」が国民にあるからです。逆に言えば「勉強の苦手な人は、立派な人ではない」ことになります。そんな理屈は、成り立ちませんが、それくらい国民には「学歴」は権威あるものとして認識されたのです。
その結果、戦後「80年」が経過しても、国民のほとんどは大東亜戦争の「現実」を知りません。もちろん、空襲等の被害を受けた人たちの記憶は、記録と共に残りますが、「なぜ、日本が戦争をしなければならなかったのか?」「なぜ、3年半もの間戦争が続いたのか?」「どうやって、戦争が終わったのか?」などの問いに正しく答えた人はいません。歴史的な「事実」は年表に書かれていますが、それだけで理解することはできません。普通に考えれば、中国で戦っている最中に、世界の強国である「米英」と戦うなどという考えが思いつくはずがないのです。この「あり得ないこと」が現実になってしまうには、それなりの深い「理由」がなければなりません。いくらシュミレーションを重ねても、日本が「勝利」する確立は、10%もなかったはずです。よくて「引き分け」に持ち込んで「敗戦に近い和睦」するのが精一杯です。あのロシアとの大戦争でさえ、日本はアメリカが仲介に立ってくれたお陰で「やや勝利」程度で終わりました。それを、いくら同盟国に「ドイツ」がいるとしても、「アメリカ」相手では、敗戦は必至だったはずです。それを国家の責任者が、「やる!」と決断するには、相当の覚悟がなければなりません。この場合の「覚悟」とは、責任者が「自決する」程度で済む話ではありません。日本人どころか、日本という国家が「滅亡」するかも知れない戦いなのです。
しかし、現実には、そんな「覚悟」を持って戦った軍人も政治家もいませんでした。もちろん、戦争となれば多くの軍人は、己の命をかけて戦いました。そして、敗戦直後には、その責任を負って自決した軍人も多くいましたが、だれもが「個人」として責任を感じただけのことです。あのとき、日本は、「どうしても負けられない戦い」を本当にしたのでしょうか。戦争が始まっても陸海軍は統一した指揮も執れず、日本には戦争遂行のための「最高指揮官」すら存在しなかったのです。よく、開戦時の首相の「東條英機」がドイツの「ヒットラー総統」のような権力を持っていたかのように言う人がいますが、東條首相は、開戦時の真珠湾攻撃も後から知らされ、ミッドウェイ海戦の敗北も知らされなかったと言います。戦争中でも、陸海軍で予算の奪い合いを行い、満足な「戦争計画」すら持たないで、大国アメリカに挑戦していたわけですから、これで「勝てる」はずがありません。つまり、「絶対に負けられない戦争」を「平時の体制」のままで行っていたわけですから、当時の日本の指導者たちは、言葉では「必勝」を叫びながら、単に「勢いに任せて」戦争をしただけだったのです。
もちろん、戦争を仕掛けたのは「アメリカ」です。確かに、日本軍による「真珠湾攻撃」で戦争の火蓋は切られましたが、その前にアメリカが仕掛けた「罠」は、どれをとっても戦争に前のめりになっていることがわかります。たとえば、日本が中国(蔣介石軍)と戦っているときに、アメリカ空軍は「フライングタイガース」なる義勇軍を組織して、中国大陸の空で日本陸海軍の戦闘機と戦っています。その上、大陸に大型爆撃機用の滑走路を建設し、日本を大陸から空爆する計画があったくらいですから、アメリカは積極的に日本との戦争を望んでいました。そして、日本への経済封鎖を次々と進め、最後には「中国からの全面撤兵」を求めた「ハルノート」と呼ばれる文書を日本政府に突きつけました。これは、アメリカ議会を通した正式文書ではありません。「大統領権限」で発出した文書です。アメリカ政府が日米交渉をしている最中に、こうした「最後通牒」的な文書を発出する時点で、「早く仕掛けてこい…」と挑発しているのです。このことは、戦後、アメリカ議会で問題になっていますが、そのとき、大統領だったルーズベルトは病死していましたので、結局は有耶無耶で終わっています。そんなアメリカが、日本との関係を修復するつもりもなく、ただ、アジアに君臨する目障りな「大日本帝国」を叩き潰したかったのです。これでは、もし、開戦しなくても、別の手段でアメリカは間違いなく日本をさらに追い詰めて行ったはずです。当時のアメリカ政府は、邪悪な「帝国主義者」の巣窟だったのです。
1 「ルーズベルト」の歪んだ野望
日米戦争を計画し実行した張本人は、アメリカ大統領「フランクリン・ルーズベルト大統領」です。もし、あのときのアメリカ大統領が、ルーズベルト以外の人物であれば、日米戦争にはならなかったでしょう。彼は、日本の敗戦を待たずに病死しましたが、今でもアメリカでは「英雄」として、尊敬を集めているそうです。しかし、最近の研究によって真実が少しずつ明らかにされるようになり、ルーズベルトが日本を「壊滅」させるために意図的に動いたことは間違いありません。それは、彼の性格にもよりますが、やはり一番大きいのは「世界の支配者として君臨する」という野望のためでした。そのために、アメリカ人が一番嫌う「共産主義者」まで味方につけようとしていたのです。アメリカ合衆国が、世界の指導者としていられるのは、この国が「民主主義国家」だからです。確かに「民主主義」という政治体制が、優れた政治体制か…と問われれば首を傾げる人もいるでしょう。日本も明治以降は「議会制民主主義」を採用し、国民の「選挙」で選ばれた「代議士」によって政治が運営されています。しかし、必ずしも「民意」が正しい選択をするかと言われれば、危うい部分も多く含んでいます。実際、民意で選ばれた代議士や首長などの不祥事は後を絶たず、自分たちの「リーダー」を選ぶ難しさを実感しているのは、昔も今も同じです。それでも、一人の政治家に「独裁」を許すことが如何に危険かを知っている国民は、やはり「民主主義」を選ぶのです。
ルーズベルトは、そういう意味では、アメリカ国民の「総意」によって選ばれた大統領でした。それも、第一次世界大戦の反省を踏まえ、「アメリカ青年を二度と戦場に送ることがしない!」とまで誓って「四選」を果たしていたのです。一つの国の元首の職を同じ人物が10年以上続けるのは、異常なことです。これは、「民意」というよりは、何らかの「組織的な運動」がないと無理な結果だと思います。それでも、「自分の息子を戦場に送らない!」という言葉は、アメリカの多くの女性の心に響きました。それは、当然です。戦争は勝っても負けても「悲劇」です。なぜなら、大切な人を無慈悲に殺す行為を誉める人はいません。もし、戦争を認めるとしたら、それは「祖国防衛」のための戦いだけでしょう。それがわかっているだけに、ルーズベルトは希代の詐欺師のようなものでした。しかも、彼が考えたことは、アメリカ国民の幸福などではなく、如何に自分の「権力」を高めるかにありました。無論、ルーズベルトの後ろには、彼を支える巨大権力(資本家たち)があったことは確かです。そのために、アジアのリーダーになりつつある「日本」が、自分たちの野望の邪魔になったのです。
アメリカにとって「中国」は、非常に魅力的な「国」でした。その資源は無限大で、人口は膨大です。大国でありながら、政治は混沌としており、「清朝」滅亡後は、未だに「統一」されておらず、軍閥が割拠し、そこに付け込んだヨーロッパや日本が中国を「植民地化」しようとしていました。アメリカにしてみても、そんな中国に進出できれば、ヨーロッパや日本以上に国に利益をもたらすのはわかっています。しかし、国内の戦争(南北戦争)によって、中国進出に遅れたアメリカは、まずは、日本を取り込んでそこを足がかりにしようとしましたが、これを日本政府に拒絶されてしまいました。そうしているうちに、なかなか中国に進出する機会が見つからず、アメリカ自身が焦っていたことは事実です。日本にしてみても、「日清・日露の戦い」において勝ち取った利益をアメリカに横取りされるようなことはしたくありませんでした。しかし、このことが、アメリカ政府が日本を「敵視」するきっかけになったのです。アメリカにしてみれば、「開国させた上に、戦争の仲介までしてやったのになんて恩知らずだ!」とでも考えたのでしょう。確かに、幕末の開国以降、アメリカの援助によって、日本が国際社会に出て行かれたのは事実です。そういう意味では、日本は、もっと賢くアメリカと付き合っていってもよかったと思います。
しかし、その後のアメリカの日本に対する「嫌がらせ」は、常軌を逸しています。酷いのは、「黄禍論」という人種差別思想をまき散らし、アメリカで生活を営んでいた「移民」に対して、無茶苦茶な「差別」政策を実行したことです。日本が、日本人移民のために一生懸命頭を下げ、貿易等で譲歩しても、アメリカが許すことはありませんでした。大正末期から昭和にかけてのアメリカは、本当に醜い「人種差別国家」でした。日米戦争が始まると、日系人に忠誠を誓わせ、アメリカ軍に編入させて「日系人部隊」としてヨーロッパ戦線の激戦地に送りました。しかし、本土にいる日系人は、財産のすべてを没収された上でアリゾナなどの砂漠地帯に軟禁され、その差別的な待遇は、戦後、問題になったほどです。アメリカという国は、一度憎しみを持つと、その民族が滅びるまで徹底的にいじめ抜くところがあります。そんな空気の中で、日本が中国に進出している姿を見るのは、たまらなく悔しかったのだと思います。大正時代には日本を「仮想敵国」とした「オレンジ計画」を策定しています。そして、日米戦争は、まさに「オレンジ計画」どおりに進んだことは知っておくべきでしょう。大統領のルーズベルトは、根っからの「共産主義者」で、ソ連に親しみの感情を持っていました。だれもが、共産主義を「危険思想」と考え、アメリカでも「共産党」が政治活動をすることを禁じていましたが、当時のルーズベルト政権は、常に「ソ連」に友好的で、彼が行った「ニューディール政策」は、まさに「社会主義政策」でした。彼の側近は、共産主義者たちで固められていたのです。
昭和初期と言えば、世界中が大恐慌という「経済不況」に見舞われた時期です。これも、アメリカやイギリスの資本家たちが「戦争」が起きることを狙って意図的に起こした謀略だという説もありますが、こうした経済の混乱が、社会を不安定にさせたことは間違いありません。日本人でも懐が豊かな時は、心にも余裕がありますが、貧しくなると邪な心が生まれ、何とも酷い事件が起こるものです。つまらないことで「いざこざ」が起こり、警察が出動するのは昔も今も同じです。当時、陰惨な事件だったのが、関東大震災直後の「朝鮮人虐殺事件」でしょう。真相は、今でも不明ですが、「震災のどさくさに紛れて、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ!?」という噂が発端で、いわゆる「自警団」が、血眼になって朝鮮人を探し出し、虐待を加えたというものです。弱い立場の者が、さらに弱い者をいたぶり、憂さを晴らすのは、人間の醜さの典型でしょう。被害者数まではわかりませんが、朝鮮人だけでなく、朝鮮人を庇った人や疑われた日本人までもが多く殺されたことは間違いないようです。こうした「狂気」は、経済と連動しているだけに始末が負えません。現代でも、似たような「いじめ」が、SNSを使って行われたりしていますが、「不景気」は、社会の秩序を混乱させていくものなのです。昭和初期は、こうした現象が世界各地で起こりました。
ルーズベルトは、自分が行った「ニューディール政策」が失敗すると、多くの負債を抱えることになりました。今でいう「公共投資の失敗」です。国民の眼を欺き、これを解消するためには、「戦争」しかありません。当時の帝国主義思想では、こうした問題を解決する手段として「戦争」が選ばれるのは、そんなに難しい選択ではないのです。日本が、「満州が日本の生命線」と言っていたのと同じです。今なら、「おいおい、満州は、日本の領土じゃないだろ…?」「いくら権利があると言っても、どんどん移民を送ったら、満州の人々が困るだろう…?」と考えるのが常識ですが、この時代は、そこに人が暮らしていようと、「戦争で勝ち取った権利を行使して何が悪い?」と開き直ることが常識なのです。日本が朝鮮半島や満州で、そこの国の人々の支持を得られなかったのは当然でした。確かに、インフラを整備し学校も作りましたが、何でも「日本人優先」では、現地の人間は面白いはずがありません。今の日本でも外国人の問題は、大きなトラブルの原因になっています。どんな理屈をつけても、自分たちの生活が脅かされることを人々が望むはずがないのです。世界各国で「移民問題」が大きく取り沙汰されているのは、当然のことなのです。
世界恐慌をきっかけに世界中の人々は、不満と不安が渦のように拡大し、それに合わせるかのように各国で「独裁者」が誕生しました。ドイツの「ヒットラー」、イタリアの「ムッソリーニ」、ソ連の「スターリン」などです。中国でも「蔣介石」が中国統一を狙っていました。アメリカも「四選」も続ければ、それは「独裁者」とあまり変わりはないでしょう。独裁者は、共通して「強さ」があります。そして、人の話に耳を貸そうとはしません。経済不況の中で、人々は、即断即決ができる「独裁政権」を望み、早く自分たちを今の苦境から救って欲しいと考えていました。そのためには、「戦争も辞さない」という考えが世界中に広がっていったのです。そして、遂にドイツ軍がポーランドに侵入したことをきっかけに「第二次世界大戦」が始まりました。これこそが、金儲けを企む資本家たちの思う壺です。戦争は「金のなる木」なのです。高額な兵器が次々と生産され消費されていきます。各都市は空襲によって街が破壊され、多くの人が犠牲になります。そうなれば、人々の支援にも復興にも多額の予算を必要とします。そして、戦争中であれば、議会も機能せず、税金は平時の倍以上を徴収しても国民は何も言いません。決裁も権力者の自由になります。アメリカが「原子爆弾」の開発に莫大な予算を使いましたが、それすらも議会は何も知らず、大統領決裁のみで行うことができたのです。こうなると、世界は「独裁者」同士の戦いになってきます。それこそが、資本家たちが望んでいた結果でした。
結局、ルーズベルトは、己の信念に基づいて政治をしていたのではなく、己の名声と野望のためにアメリカの資本家をバックに大統領になっただけの男でした。共産主義を認め、ソ連を認めたのは、彼自身の思想などではなく、それによって利益を得る者たちの指示によって動いていただけのことで、それ以上の思想はありませんでした。そのために、政府内に多くの共産主義者を入れたのも、そうすることが「戦争」に都合がよかったからです。そして、思惑どおり、日本は窮地に追い込まれ、真珠湾を攻撃しました。ルーズベルトにしてみれば「しめた…!」というところでしょう。こうした謀略は、小さいながらも日本の歴史にも見ることができます。幕末の混乱期に、薩摩藩の西郷隆盛は部下に命じて江戸で騒ぎを起こし、怒った幕府が薩摩藩邸を「焼き討ち」にしました。江戸で強盗殺人や放火を繰り返したのは、西郷の部下たちです。そうやって、幕府を挑発して戦争を仕掛けさせたのです。ルーズベルトの手口も、まさにあのときの「薩摩藩」と同じです。結局、「勝てば官軍」ですから、日本に酷い仕打ちをして挑発を繰り返しても、悪いのは「日本」であって、アメリカがそれによって咎められることはありません。政治とは、そういうものなのです。
ルーズベルトは、自分の野望が叶うのを見届けることなく、執務中に倒れ亡くなりました。血圧が常時250以上もあったと言いますから、常に頭が朦朧としていて十分な思考もできなかったはずです。そして、究極の兵器になるはずだった「原子爆弾の開発」を命じ、その完成を見ることなく死んでしまいました。そして、彼の野望は潰えたのです。「中国から日本を追い払い、アメリカが中国の支配者となるのだ!」「原子爆弾さえあれば、世界中の国々がアメリカにひれ伏すだろう…」と野心を燃やしていたルーズベルトでしたが、その夢は、原子爆弾という「悪魔の兵器」を使用してさえ、叶うことはありませんでした。それも当然です。世界の資本家たちにとって、「戦争」をすることに意味があるのであって、一人の野心家の夢などどうでもいいことなのです。彼が死んでも、次の男が大統領になればいいだけのことです。そして、田舎町の雑貨屋の店主だった「トルーマン」が新大統領に就任しました。トルーマンは、何もできない政治家だったからこそ、ルーズベルトは「副大統領」に指名しておいたのです。賢い政治家なら、自分の野心が見抜かれ、政敵にならぬとも限りません。しかし、「雑貨屋のトルーマン」なら、その心配は皆無でした。トルーマンは、ルーズベルトから政治については、何も知らされていなかったのです。大統領に就任したことで、唯一「核のボタン」が渡されました。何も知らない無能の政治家に「世界を破滅させる権限」を与えてしまったのです。歴史は、ときにこうした「怖ろしい運命」を創り出すことがあります。もし、真面な政治家が大統領になっていれば、「核兵器」なる物騒な物を使おうなどとは考えもしないでしょう。「核実験」だけで世界にその怖ろしさを宣伝できたのですから…。
トルーマンも権力を手にした「狂人」でした。アメリカ大統領になったと言っても、イギリスのチャーチルほどの実績もありません。ソ連のスターリンほどのカリスマ性もありません。中国の蔣介石の前に出ても自分が霞んで見えるほどです。側近たちは、みんなルーズベルト時代からの横滑りで、トルーマンを心の中では、(雑貨屋…)とばかにしている始末です。こんなとき、自分を尊大に見せる方法は、ただ一つ。だれもが「あっ!」と驚くパフォーマンスを見せることです。それが、「核のボタン」でした。トルーマンは、このとき「権力の悪魔」に魅入られていたのです。そして、この悪魔の兵器を日本で試そうと考えました。日本人なら、「猿と一緒だ」と考えていたアメリカですから、世論の反発は少ないでしょう。それに、「パールハーバーの復讐だ」と言えば、議会を乗り切ることができます。そして、最後には「アメリカ青年100万人の命を守り、戦争を早期に終わらせる唯一の手段だった」という詭弁を弄して「日本への投下」を命じました。それも「二発」もです。小心者は、内心ビクビクしているだけに、こういう所は妙に「虚勢」を張りたがるのは、万国共通です。そして、この「偉業」によってトルーマンは、アメリカの英雄となり、この兵器の力で、世界がアメリカにひれ伏すと考えたのです。それは、想像というより「妄想」でした。結果、トルーマンは、世界で初「核兵器投下を命じた愚かな大統領」となり、ソ連も中国も益々言うことを聞かなくなりました。そして、トルーマンを誹る声は、現在も世界中に広がっています。これ以降、アメリカは、「核兵器を使用した唯一の国」として、歴史にその汚名を刻むことになったのです。
2 「ソ連」に救いを求めた日本政府
今でこそ、「ソ連」が、共産主義革命を世界中に起こすために「何をしたか…」が明らかにされてきましたが、80年前の日本で、その怖ろしさに気づく者は少数でした。戦争の見通しが立たなくなった日本は、世界で一番怖ろしい国である「ソ連」を頼りにアメリカに降伏しようと考えたのです。当時の内閣は、鈴木貫太郎内閣でしたが、頻りにソ連に秋波を送り「仲介の労」を取ってもらうよう依頼していました。そのころ、ソ連とは戦前に「中立条約」を結んでいましたので、ソ連は日本の交戦国ではありませんでした。しかし、「共産主義国ソ連」を頼ると言うことは、将来、日本が「共産主義国」になっても構わないという意思表示でもあります。海軍大臣の米内光政は、元々「ロシア通」で鳴らした軍人ですから、「残った連合艦隊の軍艦を引き渡すという条件でどうか…?」と言っていたくらいです。内大臣の木戸幸一は「共産主義と言っても、そんなに酷いことはしないよ…」と軽く考えており、「スターリンは、日本の西郷隆盛に似ているそうだよ…」と言っていました。こんな暢気な人たちが、日本の運命を握っていたことに驚きます。しかし、ただ一人、戦争直前まで総理大臣を務めた「近衛文麿」だけは、天皇に「共産主義革命の可能性」に言及した「近衛上奏文」を提出し、自己反省をすると共に、共産主義の怖ろしさを説きました。あの時、この「近衛公爵」だけが、ソ連を正しく評価していました。
しかし、政府首脳も軍首脳も揃って「ソ連に仲介を頼むべきだ…」と強く要望している中で、一人「天皇」だけが、「アメリカに降伏する…」と告げました。昭和天皇には、「ソ連」や「共産主義」の本質が見えていたのです。そこには、近衛公爵の進言が功を奏したのかも知れません。と言うより、昭和天皇は、「国家元首」として、ソ連の胡散臭さを見抜いていたのでしょう。それは、政府首脳たちの考えとは大きく異なりました。日本の首脳たちは、「天皇制を廃し、日本に共産主義革命を起こしても構わない…」と思っていたのではなく、「天皇制と共産主義は両立できる」と思っていたのです。それは、当時の多くの知識人たちが考えていたことでした。なぜなら、戦前の「5.15事件」も「2.26事件」も、思想的なものは同じだからです。日本に「議会制民主主義」が誕生して、僅か80年足らずです。欧米に見習って「議会制民主主義」を政治体制として採用しましたが、それまでは、いわゆる「幕藩体制」で政治が行われており、「封建主義」と言われる武士中心の「独裁政治」が普通でした。多くの旧武士たちにとって、欧米型の「民主主義」には抵抗があり、「選挙」そのものに違和感を覚えている人たちが大勢いました。おそらく、心の中では「面倒臭いなあ…」「まどろっこしい…」と考え、武士中心の「即断即決政治」を望んでいたはずです。だからこそ、多くの軍人は、「天皇親政による軍部内閣」を作り、封建主義に替わる「軍政」を敷きたいと考えていたのです。それなら、「民主主義」を標榜するアメリカより、「専制国家」であるソ連に親しみを感じて当然でした。そのころの日本では、ソ連国内で起きている「共産党独裁政権」の実態を掴んではいなかったのです。
既にソ連では、ドイツ軍との戦いに国民を老若男女問わず動員し、戦場になる都市部から疎開もさせず「人民の鎖」を命じて、最前線に立たせたのです。さすがのドイツ軍もこの人命軽視の作戦に驚きました。攻撃しようとする矢先に、小さな子供や若い女性がいては、引き金を引けるはずがありません。そんなことをすれば、世界からどんな非難の声が上がるかわからないからです。それに、眼の前で泣き叫ぶ子供を撃つことなど、人間のやることではないことくらいドイツ軍兵士もわかります。それをソ連軍は平気で行えるのです。ナチスドイツの「ユダヤ人の迫害」も悲惨ですが、ソ連が行った「人民の楯作戦」は、それ以上に悲惨なものがありました。それを知ってか知らずか、日本の「降伏」をソ連に頼もうと言うのですから、さすがの昭和天皇も驚きました。そこで、自らの言葉で「終戦の詔」を発し、アメリカに単独で降伏することを命じたのです。もし、昭和天皇が8月15日に「玉音」を国民に聞かせなかったら、いくら、天皇が「終戦」を命じても、軍部は納得しなかったはずです。事実、「ドイツ降伏後にソ連軍が日本に攻めて来る」という情報をヨーロッパから発信した「小野寺信少将」の極秘電報は、大本営参謀の「瀬島龍三中佐」によって握り潰され、天皇に伝えられることはありませんでした。瀬島は、後に満州でソ連と交渉し、「満州の日本人をソ連領で強制労働させる」密約をしたと言われています。これが、悪名高い「シベリア抑留の悲劇」です。
昭和20年8月8日、頼みの綱だった「ソ連」が、日ソ中立条約を一方的に破棄して「満州」に攻め込みました。これは、ヤルタ会談でアメリカの要請を受けてスターリンが決断したものでした。ソ連にとって、日本は「日露戦争」での憎しみこそあれ、和平の仲介をするほどお人好しではなかったのです。これに衝撃を受けた日本政府と軍部は、茫然自失となり、最早、どうする手立ても見出すこともできませんでした。既に満州国にあった「関東軍」は、その精鋭部隊をアメリカとの戦いに引き抜かれ、ソ連の攻撃を防ぐこともできませんでした。それ以上に、満州にいた関東軍の幹部たちは、ソ連の侵攻を聞くや否や、家族共々、真っ先に汽車に乗り、多くの在留日本人を置き去りにしたまま逃げ出したのです。数年前まで精鋭を誇った「関東軍」も、優秀なリーダーが不在では「張り子の虎」も同然でした。ソ連軍は、敵意を剥き出しにしたまま満州の広野に雪崩れ込み、それから先の日本人の運命は「悲惨」を通り越した惨たらしいものでした。その経緯については、多くの書籍が出版されましたので、ここでは書きませんが、それが「ロシア兵」の正体なのです。そんな国に「和平の仲介」を委ねようとした日本の首脳たちに「国を守る」気概も知恵もありませんでした。そして、ソ連の裏切りを知ると、さっきまで「ソ連を頼ろう…」と言っていた者たちは、皆、口を閉ざしてしまいました。内大臣の木戸幸一も海軍大臣の米内光政も、総理大臣の鈴木貫太郎も、だれもが口を噤み、戦後も何も語ろうとはしませんでした。
しかし、唯一、北海道の守備を任されていた「樋口季三郎中将」だけは、「本土防衛」の決断をしました。それは、千島列島の「占守島」に攻撃を仕掛けてきたソ連軍に対して、即座に「防衛戦闘」を命じたのです。既に8月15日の正午に天皇の玉音放送が流され、終戦をすべての将兵に知らせた後のことでした。占守島守備隊は、戦車の燃料を抜き、砲弾を倉庫にしまい、兵器を集めて片付けていたときのことです。既に「占守島」の各部隊は、本土への帰還に向けて準備を整えていたのです。「もう、戦争はしなくていいんだ…」「これで、故郷に帰れるんだ」と、だれもが考え、命が助かったことを喜び合っていました。そのとき、島の「見張所」から、「未確認の船団がこちらに向かって来る!」という報告を受けました。北方から来る多数の艦隊ですから、「ソ連軍」に違いありません。その旨を緊急電で司令部に報告すると、司令官の樋口中将から「戦闘開始命令」が出されました。占守島守備隊は、命令を受けると即座に武器弾薬、戦車、飛行機を整え、ソ連軍上陸部隊を迎え撃ったのです。もし、彼らが関東軍の幹部たちのような「腰抜け揃い」だったら、千島列島のみならず、北海道への上陸を許したことでしょう。そして、リーダーが「樋口季三郎中将」のような勇将でなかったら、やはり、命令を躊躇い、ソ連軍に蹂躙されたはずです。
実は、この戦車連隊に私の伯父もいました。まだ、若い戦車兵(伍長)として戦いに参加しました。伯父は、戦車兵の一員としてソ連兵と戦い、辛うじて生き残ることができました。しかし、和平交渉の結果、ソ連軍の捕虜となってシベリアに送られたのです。まだ、若かったせいか、ここでも生き残り、故郷に帰還したのは、昭和23年の夏でした。元々、寡黙な人で、戦争中の話はしない人でした。復員後は、黙々と実家の田畑を耕し、酒を飲み、残りの人生を家族を養うために働きました。家族が、父親の戦争を知るのは、死後のことだったのです。それにしても、そんな「ソ連」や「共産主義」に憧れ、「日本も共産主義国家として生き残ればいい…」と考えた当時の政治家や軍人は、一体何を考えていたのでしょうか。もし、昭和天皇が、彼らの意のままに動いていたら、日本はソ連の衛星国となり、今の「北朝鮮」や「東ドイツ」などのようになったはずです。そこでは、「皇室」も破壊され、日本の歴史も伝統も何もなくなった「共産主義国ヤーポン」が出来上がったはずです。それを日本人は喜んで受け入れるのでしょうか。戦争は、国民が起こすのではありません。政治家や軍人が、自分の見栄やプライド、欲望のために、屁理屈をつけて国民を煽動し、戦場へと駆り立てるのです。そして、悲惨な「結果」は、戦争を始めた人間が受けるのではなく、関係のない国民が受けるのです。戦争に勝ったアメリカもソ連も、国としては勝ったでしょう。しかし、父や兄、弟を失った家族には、「勝利」などやっては来ないのです。まして、アメリカ合衆国の元首である大統領自身が国民に嘘を吐き、自分のために戦争を企んだとは、考えたくもありません。しかし、それが「事実」なのです。
3 「本土決戦」思想の台頭
昭和20年に入ると、日本とアメリカの力量の差は明らかになりました。本来、戦争は「昭和19年末」の段階で決着が着いていたのです。日本の連合艦隊は、その戦力を総動員して戦った海戦に悉く敗れ、最早、航空機だけが「戦力」と呼べるものになっていました。その航空機も、既に性能においてアメリカ軍機に凌駕され、パイロットの練度も逆転されていたのです。そして、最後に残された戦法が、「航空機による体当たり攻撃」いわゆる「特攻」しかありませんでした。それでも、日本が戦い続けたのは、日本の「国体」である「天皇制」が存続できる見通しが立たなかったからです。もし、アメリカに戦争終結の意思があれば、サイパン島を攻略した時点で「降伏勧告」をすることは可能でした。それは、アメリカの重爆撃機「B29」なら、日本本土への空爆が可能だからです。しかし、アメリカにそんな意思はありませんでした。ヨーロッパでは、既にドイツ軍が敗退を続け、連合国軍の勝利は間近でした。ドイツは、各占領地を放棄し、後はドイツ本国しかありません。そこに攻め入ることは、「ドイツ」という国を滅ぼすことになります。特に「ソ連」は、強くそれを望み、「ドイツ本国侵攻作戦」は進んでいました。当然、日本にも同じことを考えていたはずです。ソ連は、「ドイツ降伏の三ヶ月後に日本と戦う」と約束していましたので、それは、当然「本土決戦」を意味していました。
戦後、「日本が早く降伏していれば…」という意見を述べる評論家が多くいましたが、それは、連合国軍、特に「ソ連」が許さなかったでしょう。アメリカも「原子爆弾」の開発をしている最中で、それを利用しないまま戦争が終われば、まさに「宝の持ち腐れ」です。そんな状況の中で、日本が「降伏」を申し出ても、それは「無条件降伏」しかありません。「無条件降伏」とは、「ドイツ」がそうであったように、本土に敵が攻め込み、国が壊滅状態になり、交渉する政府機関がなくなることを意味します。事実、総統だった「ヒットラー」は自殺し、ナチス党は壊滅。残されたドイツ軍の指揮官が、降伏を申し出るしかなかったのです。そのため、ドイツは、国土を二つに分割され、すべてを連合国軍に委ねることになりました。それは、当時の日本には絶対にできないことだったのです。「国体を守る!」は、日本の政治家、軍人、官僚たち共通の願いでした。それが、叶わなければ、絶対に戦争を止めることができないのです。「国体」とは、「皇室」のことです。「お国柄」と言えばわかりやすいと思いますが、2600年以上続いてきた「国体」を失うということは、日本の歴史、先祖に対して申し開きができないほどの大罪です。それだけは、これまでの日本の権力者のだれもがやらなかった「禁じ手」なのです。
「国体を守る!」そのためであれば、「共産主義」でも受け入れるというのが、政府首脳や軍人たちの考えでした。そのために、「中立条約」を結んでいたソ連を頼ろうとしたのでしょう。しかし、この「ソ連」に対する認識は甘すぎました。確かに、共産主義は、民主主義に比べて「政治」を動かしやすい思想です。そもそも、「議会」がありませんから、政策は「党」が決めればいいだけのことです。いちいち会議などしなくても、リーダー(共産党書記長)が、命じれば、それで「国」が動きます。その権力は絶大で、だれもが侵すことのできない「力」を持っていました。今の中国も「国家主席」が国の方針を決める権限を持っています。形上は「人民会議」と呼ばれる「会議」があるようですが、それは飽くまで「党の方針」を徹底させるだけの集まりであり、代表者が意見を戦わせる場ではありません。日本のマスコミは、この会議を「日本の国会にあたる…」と表現していますが、それは「大嘘」です。そんな民主的な会議をするくらいなら、「共産主義」などという国家体制は採らないはずです。しかし、当時の日本の政治家や軍人には、この「独裁型政治」が魅力的に映ったのです。日本でも、「天皇」を「共産党書記長」若しくは「国家主席」と置き換えれば、まさに「天皇親政」ができるのです。そして、天皇の名の下に「軍人内閣」を作り、「国家総動員体制」を敷けば、日本もソ連と同じような強力国家になれるのです。
それが、どんな「悲劇」を産むかも想像することなく、日本の首脳はどんどん前向きになって行きました。その体制ならば、「本土決戦」が可能だと考えたのです。国の予算のすべてを「軍事費」に回し、国民をすべて「戦力」と考えれば、約一億人の「兵隊」が生まれるのです。仮にその半数が死んでも、国は滅びません。もし、本土決戦となり、「5人がかりで一人のアメリカ兵を殺す」とすれば、一億人で約2千万人を殺すことができます。そこまでやれば、戦争は継続できないでしょう。「本土決戦」を叫んでいた軍人は、そんなシュミレーションをしていたと言います。これは、まさに「狂気の沙汰」です。もし、それで「皇室」が守られたとしても、最早、国民の気持ちは天皇から離れ、次々とアメリカに降伏すると思います。「子供の命を犠牲にして、親が命乞いをする」などという倫理観は、日本にはありません。そんな「国体」なら、さっさと滅べばいいのです。「本土決戦」とは、そういうことを意味しています。そこにいち早く気づいたのが、「昭和天皇」だったと言うことです。「天皇」は、政治家でも軍人でもありません。明治政府によって、仕方なく軍服を着せられましたが、元々、天皇は「国家安寧を願う神の代理」という存在なのですから、「国家安寧」に背く行為を認めるはずがありません。こうして、天皇ご自身の決断によって日本は救われたのです。「昭和天皇」自身には、最初から「本土決戦」などとう愚かな選択肢はありませんでした。
4 「玉音放送」によって、日本軍は矛を収めた
昭和20年8月15日、正午。ラジオが「緊急臨時放送」を流しました。既に事前予告がされていましたので、国民のだれもが、初めての経験だったので緊張した面持ちでラジオの前に集まりました。ラジオのない家は、ある家に上がり込んで聴かせてもらったそうです。そこで語られたのが、「終戦の詔」でした。これには、国民のだれもが驚きました。しかし、それを予感していた者は少数で、多くの人は「青天の霹靂」だったと言います。まして、戦いの最中にいた軍隊では、「日本が降伏した」という事実は、驚きだったでしょう。そして、日本軍の「武装解除」は粛々と進められたのです。しかし、当時、日本軍は「本土決戦」を計画しており、約100万人の兵員と10000機の航空機を用意していました。特に陸軍は、「本土決戦こそは、我らの本当の戦いだ!」と意気込み、温存していた航空機や戦車などを整備し、敵の上陸に備えていました。よく、「このころは、日本には満足に戦える戦闘機はなかった…」などとする意見もありますが、そんなことはありません。特攻機には、旧式の戦闘機が使われ、新鋭機の多くは格納庫にしまわれていたのです。それは、燃料も同じです。陸軍にしてみれば、今度の戦争は、いわば「海軍の戦争」でしかありませんでした。海軍がアメリカと戦争を始めたために、陸軍はそれに付き合わされたのです。それに、中国大陸での戦いは、ほとんど陸軍の独壇場でした。まして、中国大陸では、日本軍はずっと勝ち続けており、もうすぐ「蔣介石(国民党)」を降伏に追い込めると考えていたくらいです。
そんなに戦力を残しながら、天皇は「終戦」を決断されました。軍部(陸軍)にしてみれば「いや、まだまだ戦える。本当の戦いはこれからだ…」と主張しましたが、天皇はそれを認めませんでした。それは、「国民を守りたい」という願いから天皇ご自身が決断したことでした。昭和20年に入ると、サイパン島を攻略したアメリカ軍の「戦略爆撃機B29」が、日本本土空襲に飛び立つようになりました。そして、首都東京を初めとする全国各都市が空襲によって破壊されたのです。その上、二発の原子爆弾によって広島と長崎では、未曾有の大被害を被りました。もう、これに抗する手立てはなかったのです。それは、「国民を守りたい」と念願していた天皇には、大ショックだったはずです。そもそも、皇室があるのは、明治以降の「富国強兵政策」のためではありません。ましてや、政治的権力を握りたいからでもありません。皇室の存在意義は、「国家安寧を祈る」ことにのみあるのです。今でも天皇陛下は、毎日、国家・国民の弥栄を願ってご祈祷をされているという話を聞きます。それは、国民の眼には触れませんが、余程の強い意思と信念、使命感がなければできる話ではありません。どんな日でも、体が続く限り宮殿の奥の「社」に詣で、祈りを捧げるのです。それは、ほとんど「苦行」に近いものがあると聞きます。そんな毎日を送る天皇と、どんな形でも戦に勝ちたい軍人とでは、自ずと「心の有り様」が違って当然です。
当時の政治家や軍人たちは、「どんな形であれ、国体(皇室)を守るのが使命」と考えていましたが、天皇お一人は、「これ以上、国民を犠牲にして、国体の存続はあり得ない」と考えていたのです。そんな天皇が、「一億玉砕」を叫ぶ軍部に与するはずがありません。だからこそ、天皇は「ポツダム宣言」を受け入れたのです。そこには、「皇室の存続」は書かれていませんでしたが、「軍の無条件降伏」が書かれていました。おそらくは、「国体は、私がお守りする。しかし、軍は解体しても構わない…」と考えたのでしょう。きっと、「本土決戦」「一億玉砕」を聞いた時点で、天皇は、軍部を見限ったのだと思います。日本の政治家や軍人たちは、天皇の「御心」を何一つわかっていなかったのです。「ポツダム宣言受託」を聞いた皇室の女官が、「これから、皇室はどうなるのでしょう…?」と心配の声を挙げたとき、皇太后様は、ひと言「昔に戻るだけですよ…」と、毅然と前を向いて仰ったそうです。結局は、「明治以降の皇室は、日本の伝統を守る皇室ではなかった」と言いたかったのでしょう。
この天皇の意思は明確でした。御前会議を何度開いても結論が出ず、グズグズとしている連中を見て、天皇は、総理大臣の鈴木貫太郎と打ち合わせをして「お言葉」を発せられました。それは、「戦争を止める!」ということです。それは、アメリカが提示した「ポツダム宣言」を受け入れ、連合国軍に「降伏する」ことに他なりません。そして、「聖断」を下すと、自らマイクの前に立ち国民に「終戦」を告げました。天皇ご自身の言葉で終戦を告げなければ、誤解が生じる可能性があったからです。そして、その「玉音」を聞いたとき、ほとんどの日本人は、その言葉にひれ伏しました。それは、だれもが「日本という国は、天皇様が治める国」なのだという共通認識があったからです。日本の歴史には、時に強い権力者が現れますが、それでも、権力者は「天皇の委任」を受けて政治を司るのであって、「国を治める」のは、天皇お一人なのです。自らが「天皇」になろうとした権力者は、いませんでした。織田信長も豊臣秀吉も徳川家康も、すべて「天皇の臣下」として行動しました。それが、日本という国の「秩序」なのです。それが、わかっているだけに、だれも「玉音」に逆らおうとはしませんでした。もちろん、一部の部隊には「徹底抗戦」を叫ぶ軍人がいましたが、部隊全部がそれについて行くことはありませんでした。どの部隊も粛々と「矛」を収めたのです。
「天皇」は「王」ではありません。「王」は絶対権力者かも知れませんが、天皇は「権威者」なのです。進駐してきたアメリカ軍には、それがわかりませんでした。マッカーサー元帥を乗せた飛行機が厚木基地に着陸したとき、基地は、静寂を取り戻しており、迎えの日本人は元帥を丁重に迎えました。「厚木」といえば、首都防衛の最前線航空基地で、アメリカが最も手を焼いた航空部隊がいたのです。それが、何の抵抗もなく、至る所が掃き清められていました。そして、東京に向かう沿道には、元陸軍兵士が、護衛のためにずらっと並び、元帥の車両を見送ったといわれています。その「誇り高き姿」を見たマッカーサーは、内心で(日本、恐るべし…)と感じたのではないでしょうか。そして、後に、昭和天皇と会談したマッカーサーは、天皇が「すべての責任は私にある」と申し出られたことに心を打たれたと書き残しています。「命乞い」ではなく、「責任を取る」ために、GHQの最高司令官に会いに来たと言うのです。こんな潔い君主は、どこの世界にもいません。自分の地位も名誉も命もなげうって「国民を救いたい」とマッカーサーに頭を下げられたのです。
外国の戦地には、「皇族」が派遣されました。それは、「天皇の名代」としての使命を負ってのことでした。天皇は、自分の意思が正確に伝わらなければ、不測の事態が起きる可能性を危惧し、皇族を派遣したのです。そして、各皇族方は現地に飛ぶと、諄々と天皇の意思を伝え、諭し、静かに「降伏」の作業が進むように促したのです。これにより、現地部隊の叛乱はひとつもありませんでした。世界の戦争史の中で、これほどスムーズに「終戦作業」が進んだ国はなかったと思います。まして、まだまだ戦える軍隊を持ちながらの降伏ですから、その「潔さ」は、外国人を唸らせました。こうしたことが、日本の皇室が、世界の尊敬を受ける原因のひとつになっているのかも知れません。そして、国民も「玉音放送」を聴くと、我に返ったかのように普通の生活を取り戻して行きました。もちろん、多くの国民が被害を受け、家族を失い、生活の立て直しは大変でしたが、「日本には天皇陛下がおられる」ことは、唯一の救いでした。戦後、GHQが「如何に当時の指導者が愚かで、国民を騙して侵略を繰り返したか…」ということを宣伝しましたが、さすがのGHQも「天皇」について触れることはしませんでした。そして、一部「共産主義者」が、GHQの力を借りて「共産革命」を起こそうと躍起になりましたが、それも「昭和天皇」が、日本中を回り国民に親しく接する「巡行」が行われると、だれもが、「天皇」のお言葉に涙しました。昭和天皇は、炭鉱の深い穴にまで入り、作業員にまで親しく声をかけられたといいます。労働争議で騒いでいる人たちも、天皇のお顔を見るだけで、頭を下げ涙を流したそうです。そんな「天皇陛下」がおられる国で「共産革命」など起きようもなかったのです。
日本人にとって、戦争は本当に不幸なことでした。世界がもっと人に寛容であれば、戦争は起こらなかったはずです。たとえ、昔とはいえ「帝国主義」という「差別主義」は、人間として本当に愚かな行為でした。欧米諸国は、競ってアジア、アフリカ、南米、オーストラリア大陸などの国々を襲っては、自国の「植民地」にしていきました。日本も江戸時代のまま鎖国を続けていれば、いずれ、欧米列強の餌食になったことでしょう。そういう意味では、開国後の「富国強兵政策」を否定することはできませんが、「天皇」をドイツのように権力者に祭り上げたことだけは失敗だったと思います。元々、神に仕える天皇に「軍服」を着せ、国家元首として「軍隊の長」にまでしてしまいました。それは、軍人たちに勘違いをさせる元になったのです。日本では、「天皇親政」などあり得ません。天皇は、日本の最高権威者であって、その威光を以て国を治める存在なのです。もし、邪な権力者が現れて、天皇の地位を奪おうとしても、国民がそれを許さないでしょう。明治以降の天皇や皇室は、日本の歴史の「恥ずべき時代」だと思います。しかし、どんな境遇にあっても、天皇陛下は、ご自分のお立場を違えることはありませんでした。そういうお人柄だったからこそ、あの「玉音放送」で、国民は矛を収めたのです。昭和20年8月15日から、既に「80年」という時間が経過しました。しかし、日本には「天皇陛下」がおられます。それが、日本人にとって大きな「宝」であることを改めて気づかされました。
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