「新選組」の真実 ー幕末外伝ー 矢吹直彦
幕末の京都を舞台に活躍した「新選組」を知らない人はいないでしょう。間もなく、司馬遼太郎原作の「燃えよ剣」が、映画館で公開されるようですが、昔と違い、新選組の幕末のヒーローとして認知されるようになってきました。近藤勇、土方歳三、沖田総司、斎藤一などの蒼々たる剣豪たちの凄まじい生き方は、今でも、多くの日本人の共感を呼んでいます。それでは、なぜ、「新選組」が、ヒーローになり得たのか、考えてみたいと思います。
1 「新選組」は、警察組織
幕末ものは、基本的に明治政府を作った薩摩や長州などの西国藩の武士たちが主人公です。彼らが、新しい時代を見据え、腐った徳川幕府を倒して、日本の夜明けを生み出すといったストーリーは、これまで、百年以上にわたって繰り返され、私たちも、それが本当の歴史であるかのように教え込まれてきました。西郷隆盛や吉田松陰、坂本龍馬などは、必ず、ときの一番有名な俳優が演じ、イメージを刷り込まれてきたのです。しかし、冷静に考えてみれば、社会正義がどちらにあったかは、考えるまでもなく、一目瞭然です。当時の社会体制は、幕藩体制といわれるように、徳川幕府が中心となって作った「法治主義」でした。「法が間違っているから、守らなくてもいい」というのなら、今の時代でも同じになります。自分勝手な理由で人を殺め、それを「天誅」と称して罰せられないのなら、社会は無法地帯と化し、殺人が横行することでしょう。志があれば無罪で、勝手な殺人が有罪では、道理が合いません。それを許さず、容疑者を逮捕し、当時の法に照らして処罰するのは、法治国家の仕組みであり、国の基盤です。それを「治安」行動といいますが、薩摩や長州が幕末の京都や江戸で行った無法行為は、処罰されないでよかったのでしょうか。吉田松陰は、幕府要人の暗殺計画を持っていたことを吐露し、斬首刑に処されましたが、特に江戸時代の裁きに違法性は見られません。気の毒だとは思いますが、「国家反逆罪」は、天下の大罪に違いないからです。西郷隆盛が、西南戦争という内乱を引き起こし、最後は自害して果てましたが、官位が剥奪されても、仕方がないことです。そのために、どれだけ、罪のない九州地方の人たちに迷惑をかけたのでしょうか。損害賠償請求されれば、とんでもない金額になるはずです。それを政府軍が鎮圧するのは、当然のことです。しかし、それと比べて、「新選組」には、どんな罪があったというのでしょうか。新選組は、京都の治安を任された会津藩の組織に組み込まれた警察部隊です。会津藩は、当時の日本政府である幕府から、正式に「京都守護職」という警察任務を命じられました。京都の治安は乱れ、京都所司代では、手に負えない事態になっていたことから、幕府は、会津藩に首都京都の治安を委ねたのです。そして、新選組は、正式に会津藩主松平容保公より、「新選組」という名をいただき、警察部隊として行動しました。そして、京都で、犯罪行為を繰り返す、浪人たちを捕縛することを任務としていたのです。ただし、武器である日本刀を抜き、抵抗する場合は、これを「斬る」権限を持たされていましたが、これは、今の警察官が自己防衛や被害拡大を防ぐために行う、「発砲」権限と同じです。よく、歴史小説等では、「池田屋事件」が取り上げられますが、これは、長州や土佐などの浪人共が、大勢でテロ事件を計画しているアジトに新選組の一部隊が踏み込んで、捕縛した事件です。数名の浪人は、新撰組隊士と斬り合い、命を落としていますが、テロリストをそのまま放置したとすれば、今でも大問題になっていたことでしょう。あのサリン事件のときも、事前に探索できていれば、警察は、山梨県のアジトに踏み込んでいたはずです。それができずに、あの悲劇を生んでしまいました。そのように考えれば、新選組の採った行動は、賞賛に値するものだったのです。それとも、彼らの志を容認し、京都が焼かれ、帝が拉致されてもいい…というのでしょうか。こうした正当な警察行動を採った部隊を恨み、後に、自首して出た新選組局長近藤勇を斬首の上、首を晒した行為を行った政府軍は、「近代的な政府」という概念のない「前近代的な思考の組織」だったということがわかります。もし、まともな政府であれば、東京に送り尋問の上、不当な行為があれば、裁判によって死刑に処せばいいだけのことです。そして、現地で勝手に斬首刑に処した政府軍の幹部は、明治の時代になっても咎められることはありませんでした。こうした正常な判断もできない組織に国を委ねてよかったのでしょうか。「動乱の時代だから仕方がない」という言い方をしますが、戦争だろうがなんだろうが、不法行為を見逃しては、民主主義国家は成り立たないと思います。
2 天然理心流の剣法
新選組というと、近藤勇が道場主を務めていた試衛館の天然理心流が有名ですが、多摩地方にまで出張していたそうですから、八王子千人同心につながる総合武術だったようです。八王子千人同心は、元々は、武田家に仕えていた武士たちが、後に、徳川家康に召し抱えられたことを機に、多摩地方の郷士となって、関東の守護についた者たちといわれています。確かに、甲州街道は、江戸からまっすぐに多摩に抜けて甲州へとつながっていました。ここは、今でも、皇居の半蔵門から真っ直ぐな坂道になっており、江戸に万が一のことが起これば、将軍家は、甲州街道をひたすら、真っ直ぐに多摩地方に逃げる道でもあったのです。そのため、八王子や日野には、元武田家の旧臣たちを郷士として配置し、すぐに将軍の護衛に付けるようにしていたのです。そのため、多摩地方は、武術の稽古をする農民が多く、その農民たちの多くは、八王子千人同心とよばれた旧武田家の武士団の流れを汲んでいました。武田といえば、「風林火山」で有名ですが、武田信玄の育てた軍団は、精強で、あの織田信長さえ、信玄の目の黒いうちは、甲州には手は出せませんでした。そこで鍛えられた兵たちは、「武田の赤備え」と呼ばれるように、真っ赤な甲冑を身にまとい、風林火山の「火」のような勢いで、敵陣に向かっていったのです。だからこそ、天然理心流は、総合武術として後世にまで、伝えられたのでしょう。この流派を学んだ近藤勇や土方歳三が、戦略に長けていた理由がわかります。彼らは、単に武士の嗜みとしての剣術を修行していたのではなく、より実戦的なシュミレーションを行いながら、稽古を行っていたわけですから、新選組を組織しても、すぐに、軍略を立てることができたのです。土方歳三は、戦術の才があり、常に実戦を想定した戦い方を行っています。池田屋事件などは屋内戦ですから、刀を振り回すより、突きが有効です。剣の天才といわれた沖田総司などは、「三段突き」を会得していたといわれていますが、まさに、肘を上手に畳んで素早く突きを繰り出されれば、敵もこれを防ぐ方法がありません。屋内戦は、大きく振りかぶることなく、一番短い距離と素早い動作で刀を操らなければならず、訓練をしていない者は、柱や鴨居が邪魔になり、敵に隙を見せることになるのです。それに、総合武術の天然理心流は、柔術や居合い、合気道などの技も知っていたでしょうから、刀を操るだけでなく、体全体を武器として戦うことができたのです。道場剣法だけで、刀を振ってきた浪人たちが敵うはずもありませんでした。実は、こうした剣法は、意外と各地方に伝承されて伝わっていることが多く、豊臣秀吉の「刀狩り」以降、密かに、農民の剣法として口伝で伝わっていました。なぜなら、ときの領主から動員令が発せられれば、農民も兵として従軍しなければなりませんでした。実際、戊辰戦争のときには、会津藩では、一千名に及ぶ農民兵を動員したといわれています。彼らは、隠し持っていた武器を携え、農民兵部隊として出陣していきました。彼らは、その地形に詳しく、ゲリラ戦を展開して大いに敵を悩ませたといいます。普段は、おとなしく見せている農民たちも、いざとなれば、下手な武士たちより精強で、明治以降も、会津連隊は、全国でも有数な精強部隊と謳われました。ガダルカナル島であれほど戦えたのも、農民兵としての血が流れていたからなのです。今では、「武士は強く、農民は弱い」という歴史観が作られていますが、とんでもありません。農民の鍛えられた肉体と、総合武術を会得した技は、武士を遥かに凌ぐものがあったのです。各大名家が、農民一揆を怖れた理由がここにもありました。彼らが怒ると、とんでもない勢力となって武士たちを苦しめ、その大名家もただではすまなかったのです。天然理心流とは、それを武士の剣術に高めたものだったのでしょう。新選組は、確かに強かったはずです。なぜなら、近藤勇も土方歳三も、農民兵だからなのです。
3 武士らしい武士道
新選組を実質的に率いたのは、副長の土方歳三だといわれています。土方という人間は、正式な学校は出ていませんが、実戦的に戦術を学んだ武術家だといえます。そして、軍を動かすための組織づくりを知っていました。今の人たちは、何でも「学校」で学ばなければ身につかないと考えがちですが、それは、飽くまでも「過去問」でしかありません。確かに、学校は効率的に過去問を解く方法を教えてはくれますが、学校の方針や教員の資質によって、学生の才能を殺すことだって平気でしてしまいます。そして、学校には「権威」がありますので、周囲の人々は、その権威に従順になり、高い学歴のある人間を信用しようとします。しかし、それは平時の考え方で、有事にそれは通用しません。近代の日本軍を見ても、日露戦争までは、学歴より実戦を潜り抜けてきた将軍たちが、指揮を執って勝利しましたが、大東亜戦争になると、陸軍や海軍の大学校を出た勉学に励んだ将軍や参謀が指揮を執って大敗を喫しています。結局、過去問が得意で出世してきた人間は、みんな同じような発想をするので、攻撃パターンが読めてしまうのです。よく「正攻法でいこう」という指揮官がいますが、正攻法とは、「教科書に書かれているような、ミスの少ない攻撃方法」のことです。これでは、その教科書を読んだ人間なら、だれでも知っている方法だということです。そんな戦術で勝利を得られるのなら、だれも苦労はしません。100点満点の答案を書きたいがために、思い切った作戦が採れないのです。その点、土方は、天然理心流という総合武術を学んでいたことで、「敵の弱点を衝く」方法をよく知っていました。だから正攻法で攻撃などするはずもないのです。彼の戦術は、学校では最低点でも、実戦では100点満点なのです。こうした戦術眼が、土方という作戦参謀を作ったのでしょう。だからこそ、土方は、有事に際しては、武士道を捨て、戦いに勝つことだけを念頭に指揮を執りました。しかし、平時においては、とことん武士道を求め、今でも怖れられる「局中法度」を設けたのです。どうせ、元々は、浪人か武士に憧れた農民や町人たちの集まりです。こんな野合の衆を束ねるには、徹底した規律と価値基準が必要だったのです。それが、武士としての「潔い死」である「切腹」でした。この局中法度に背けば、即死罪になります。それも「名誉ある切腹」です。土方は、切腹に際しては型どおり、一度、腹に短刀を突き刺した後、首を刎ねたそうです。その頃の切腹は、腹を切らないうちに首を刎ねるものでしたが、新選組は、武士らしく、腹を切らせたといいます。「名誉ある死」とは、なんとも酷いものです。初代局長、芹沢鴨自身も、局中法度違反により、土方たちによって粛正されました。この鉄の掟によって、新選組という組織は、盤石な体制を築くことができたのです。
4 強い組織の作り方
新選組がなぜ強いのか…と問われれば、それは「武士道」に生きる集団だったからかも知れません。幕末のこの時期において、本気で武士道を貫いた組織は、あまりなかったように思います。長州藩の過激派の武士たちは、悲願である「幕府打倒」が目的だったし、薩摩藩も「関ヶ原の恨み」が骨の髄まで染みこんでいたために、その思考は武士道の思想とは違います。この両藩は、関ヶ原の戦い以降、徳川家に睨まれ、数百年の間、国の隅に追いやられ、不遇をかこっていました。そのため、子供の頃から「関ヶ原の恨み」を教育されていたのです。そのため、彼らの武士道は、飽くまでも自国のための武士道であり、日本国の未来を考えるほど、広い視野を持っていませんでした。現代の歴史小説では、世界の情勢を幕府以上に感じ取っていたように書かれていますが、そんなはずはありません。世界情勢を正確に把握できていたのは、幕府の中枢にいる老中や旗本たちだけだったと思います。もちろん、新選組の近藤や土方が、世界情勢など知る由もありませんが、逆に、「正邪」の区別だけは、はっきりしていたはずです。そして、徳川家に対する忠誠心は、多摩地方の郷士出身だけあって、強固な信念がありました。その上、「武士道に生きる」ことを目指して、「誠」の文字を旗印にしていることから、彼らに損得はないのです。「京都の治安を守る」ことが、彼らの絶対的な使命であり、それを阻害する者は、何人も許さないという意思がありました。彼らに政治的な配慮は、関係ないのです。だからこそ、「自分たちこそが正義だ」と信じて、正義の剣を振るうことができたのです。組織というものには、常に「大義」が必要です。薩摩人や長州人の大義は、「徳川家打倒」以外にはありません。この国では、それだけが絶対的な価値を持っているのです。そこには、冷静な反省や分析はなく、「先祖が辱められた」という屈辱感だけがありました。だから、明治政府の政治が混乱を来したのです。新選組は、会津藩が京都守護職に就いて後、今日の治安部隊として行動し、鳥羽伏見の戦いで始まった戊辰戦争を最後まで戦い続けました。京都でも、甲州でも、会津でも、「誠」の旗は翻りました。そして、最後は、函館で戦い、土方歳三の戦死とともに、新選組の戦いは幕を下ろしました。彼らを傭った会津藩や徳川家は降伏し、幕府もなくなりました。それでも、「誠」の旗を降ろさなかったのは、「武士」としての死に様を見せたかったからです。そして、土方の死によって、ようやく日本から真の侍はいなくなったのです。こうした志があればこそ、新選組は、最後の最後まで組織を崩さず、信念を貫くことができたのでしょう。それは、どんな組織も同じです。「大義」なきところに、人はついてきません。明治の世になり、薩摩や長州は、天下を奪いました。しかし、彼らの政治に大義はありませんでした。政争に明け暮れ、内乱を起こし、その組織はあまりにお粗末でした。内乱を起こした西郷隆盛や江藤新平、前原一誠たちは、賊徒となりましたが、彼らこそが、大義を全うしようとした本物の武士だったのかも知れません。正義を貫こうとした者たちが死に、欲深い者たちが生き残り、国を創ったとすれば、いずれ破綻することは目に見えていたのです。
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