「JACK外伝 山田健太郎の最期」
矢吹直彦
「よし!敵機を振り切ったぞ!」
「このまま、低空飛行で沖縄を目指す!」
無線で、列機にそう怒鳴るように告げると、海軍中尉山田健太郎は、ひたすら、操縦桿を硬く握ったまま、前方を睨んでいた。
眼は燃えるように爛々と輝いていたが、その声はかすれ、口の中は異常に乾いていた。
健太郎は、体の中の水分が一気に蒸発したような感覚に襲われていた。
「いったい、こんなことが、あるのか…?」
しかし、現実は現実だ。
その証拠に、喉が焼け付くように痛んだ。ん、んっ…と咳払いをしてみるが、一向に変わる気配がない。
それでも、健太郎は、自分のやるべき使命だけは、忘れてはいなかった。
しかし、その表情は、顔面は朱を浴びたように紅く、こめかみには、太い動脈が浮き上がり、唇はガタガタと震え、嚙んだ唇からは血が滲んでいた。
いったい、この緊張感はなんなんだ。
二十三年の生涯で、こんな過酷な経験をしたことは一度もなかった。
既に、特攻隊員としての覚悟はしていたはずだったが、実際、自分が死に直面すると、人間はだれもがそうなるのだろうか…。
眼も充血しているらしく、前方を睨むように見てはいるが、霞がかかったように、よく見えなかった。
眼をしばたかせて見たが、涙が出ないのだろう。眼の奥がジンジンと痛い。
どうも、脳が強い衝撃を受けたために、身体の器官が、麻痺状態になっているようだった。
健太郎は、ズキズキと痛む頭で、そんな風に自分の体の症状を分析していた。
「しかし、俺はまだ生きている…」。
体中に痛みが走るということは、生きている証のように思えた。
後、一時間ほどの命だと思えば、その一瞬、一瞬が愛おしく、生きていることをこれほど嬉しく思ったことはなかった。
先ほどまで、猛烈な銃弾を浴びせていた敵機は去ったが、健太郎には、それでも、後ろを振り返る余裕はなかった。
ひたすら、敵機の銃撃を躱すために、二五〇㎏爆弾を装着した零戦を操って、低空まで退避し、それから先は、機体を左右に滑らせながら敵の攻撃を避け続けていたのだ。
時間は僅かだ。
おそらくは、五分程度の時間ではなかったか…と思う。
しかし、必死に逃げる健太郎には、とてつもない長い時間に感じた。
そして、健太郎にとって、これが初めての空戦だった。
それは、空中戦というような格好のいいものではなく、今、まさに狩られようとする猪が、必死になって猟師の鉄砲から逃げ惑う姿でしかなかったのだ。
それでも、この「機体を横に滑らす」技を習得していて助かった。
これは、筑波航空隊の西沢教員が、単独飛行の最後に、教えてくれた技術だった。
西沢飛曹長は、
「いいですか、山田学生。これは、教科書にはありませんが、ぜひ、覚えておいて下さい。きっと、実戦で役に立つはずです」
そう言って、何度か手本を見せてくれた技だった。
それが、こんなところで、役に立とうとは思いもしなかったが…。
幸い、敵機は、味方機の掩護もあり、数分間の攻撃で、諦めて去って行った。
それでも、初めての敵戦闘機との空戦で、頭の中は、これまで感じたことがなかったほどに疲れ、頭の芯が痺れていた。
息を吐くごとに、汗が吹き出し、体中が熱気で蒸されているようだった。
まだ、春の四月だというのに、下着の下から、汗が胸の方に幾筋もの流れを作って、垂れていくのがわかる。
脇の下もびっしょりだ。
これまでに、これほどの緊張感を味わったことがあっただろうか…。
命のやり取りなど、考えたこともない人生が、ここ数年で大きく変わってしまった。
それでも、現在の置かれている状況は十分把握できているつもりだったが、それすらも、誤解だったようだ。
特攻隊員に指名されても、意外と落ち着いている自分がいた。
自分から望んで、志願したせいもある。
しかし、今の今まで、「爆弾を抱えて敵艦に体当たりをすればいい…」と単純に考えていたが、実際はそんなもんじゃなかった。
「これが、実戦なのか…?」
「あの坂井は、連日、こんな戦いをしていたのか?」
そう考えると、自分がいかに飛行兵に向いていないか、わかったような気がしていた。
時間が経過するごとに、心は落ち着きを取り戻してきたが、肉体は、そう簡単ではないようだ。
今でも、血管という血管が膨張し、ドク、ドク、ドク…と急激に流れを速くしているのがわかる。
自分では、正常に呼吸をしているのかさえ、よくわからない。
きっと、敵機に追いかけられていた数分間は、呼吸ができなかったはずだ。
そんなことをしたら、その隙に銃弾を浴びることは間違いない…という確信があった。
もし、このままの状態が後五分も続けば、敵艦に突っ込む前に、命が切れてしまうだろう…。
それでも、取り敢えず、敵機は去った。
当面、攻撃を受けることはない。
しかし、体の筋肉という筋肉がこわばり、操縦桿から両手を離すことすらできない。
手袋の中も、汗でヌルヌルと気持ち悪かったが、硬直した指は、どうしても離れようとはしないのだ。
そんな興奮状態の中でも、体は、零戦の機体を操ることだけは忘れてはいなかった。
たった飛行時間三百時間程度のパイロットでも、猛烈な訓練で会得した操作は、体が覚えていてくれた。
「よし、このまま沖縄に向かおう…」
健太郎は、痺れた指先をゆっくり操縦桿から離すと、大きく掌を開き、グーパーを繰り返した。
指の感覚が戻ると、健太郎は、足下にある方向舵のラダーペダルを操作して機体を安定させた。そして、少し上昇しつつ、機体を、沖縄に向けた。
ここまで来れば、もう、回り道などしている余裕はないのだ。
我に返って後ろを振り向くと、四機の零戦が視界に入ってきた。
「ああ、部下たちも無事らしい…」
「よく、ついてきている…」
その中の一機は、少し白い煙の筋を後方に流していたが、ここまで来れば、どのみち、沖縄に向かうしかない。
どうやら、五番機の鈴木栄一二飛曹の零戦のようだった。
俺は、思わず無線機を手に取り、
「五番機、五番機、大丈夫か…?」
と、声をかけた。
この零戦の無線は、未だに性能が悪く、天候によっても調子が変わるので、扱いにくかったが、それでも、ないよりはましな機材だった。
すると、
「はい、こちら草薙五番…。大丈夫、ついて行かれそうです…」
と、返してきた。
よし、これなら、なんとか、沖縄にたどり着けるかも知れない…。
健太郎は、そう考えると、飛行服のズボンのポケットに入れておいた手ぬぐいを取り出し、汗を拭った。
やっと、体に自由が戻ったような気がしてきた。
きっと、他の四人も必死に回避操作をしたに違いなかった。
まあ、四番機の加納一飛曹は、隊の中でも実戦経験のある飛行兵だが、二番機の佐々木少尉と三番機の滝少尉は、健太郎の一期後輩の予備学生十四期の予備士官だったから、技量は、健太郎よりも覚束なかった。
それでも、敵機の攻撃から逃げられたのだから、とにかく、よかった…と言うほかはない。
あの男たちも、眼を充血させながら、必死に一番機についてきているのだろう。
健太郎の乗る、この零戦三二型は、航空母艦に搭載されるために、翼端を切り落とした改造零戦だったが、それほど性能も向上せず、量産はされなかった。
機体やエンジンそのものは、零戦の初期型である一一型や二一型と同じ三菱の「栄」エンジンだった。
このエンジンは、中馬力のエンジンだが、とにかく扱いやすく、その上、故障知らずで有名なエンジンだった。
零戦も後期に入ると、エンジン出力が増加した機体もできたが、基本構造が同じなので、アメリカの艦載機が、グラマン社のF四FからF六Fになると、その高速を生かして、零戦を凌駕するようになっていった。
この三二型は、どこかの倉庫に眠っていたものを修理して特攻機にしたものだと思う。
それにしても、しばらく放置されていた機体が、普通に使用できるのだから、零戦という戦闘機は、確かに優れ物だろう。
坂井に言わせれば、雷電は、その性能の高さは折り紙付きだが、やはり整備が難しく、量産型は当分難しいようだった。
それにしても草薙隊の零戦は、三二型、二一型、五二型と機種も様々だったが、健太郎は、一番新しい機体を五番機の鈴木に譲った。
せめて死にに行くときくらい、若い奴に花を持たせたかったのだ。
本人は、大層喜んでいたが、健太郎にしてみれば、エンジンさえ順調に動いてくれれば、文句はなかったのだ。
その通り、各機ともにエンジンは、順調そのものだったのが有り難かった。
ふと、手元の計器板を見ると、速度計は、時速四百㎞を指している。
かなりエンジンに無理を強いていたが、これも仕方がない。
それに、この低空では、これ以上は出せない。
敵機の攻撃は去ったが、敵の艦隊は、既に特攻機が来襲する報告を受けており、臨戦態勢を敷いているはずだ。
後、二十分も飛行すれば、否が応にも高度をとらなければならない。
そうしないと、敵艦隊を俯瞰することができないのだ。
しかし、それは、敵に我々の姿を晒すことになる。
そうなれば、今度は、上空直衛の敵戦闘機だけでなく、数百隻の敵の艦船から猛烈な対空射撃を受けることになる。
その恐怖は、この数倍になるのは、間違いない。
しかし、健太郎たち特攻隊の任務は、敵の艦船に体当たりすることなのだ。
一機を以て、敵に重大な損害を与えることが、「草薙隊」に課せられた任務だった。
そこまで来れば、健太郎の隊長としての役割を終える。
後は、直掩隊が、草薙隊の戦果を見届けてくれるに違いなかった。
敵艦隊の上空に達する前に、自分の機体を目視で点検してみると、左翼に数発の銃弾痕が認められた。また、風防にもひとつ穴がある。
どちらにしても、運が悪ければ、そのひとつの銃弾で撃墜されることがあるのだ。
そう考えると、今日は運がいい日なのかも知れなかった。
それに、たった一発の銃弾で戦死するのは、如何にも口惜しいではないか。
できれば、この腹に抱いた二五〇㎏爆弾ごと敵艦にぶつけてやりたいと思う。
敵の兵隊に恨みはないが、これも戦争だ。仕方がないのだ。
安定飛行に戻して、五分ほど過ぎただろうか。
今日の沖縄の海は、穏やかだった。
海の色が、少しずつコバルトブルーに変化してくるのがわかる。
風がないせいか、海面に小さな白波が立ち、これは、これで美しい。その美しい沖縄が戦場になっている。
沖縄では、女学生や中学生までが動員され、前線に立っているとのことだった。同じ日本人が、苦境に立たされているのだ。
今更、戦争を悔やんでも仕方がない。始まってしまった以上、戦うしかないのだ。同じ日本の仲間を救わなければならない。
そう思って、今、必死に飛んでいるんだ。
もう間もなくだ。もう間もなく、沖縄だ。
低空飛行をしているせいか、空には、断雲が多く浮かんでいるが、海は、少しずつ南国の海に変わっていくのがわかる。
もし、これが平和な時代での飛行なら、どんなに素晴らしいことか…。
きっと、後、数年もすれば、戦争も終わり、健太郎たちが飛んだ航路を、たくさんの客を乗せた大型飛行機が飛んでいく時代が来るのだろう…。
そんな夢のような日が来ることを望むが、それを健太郎自身が見る機会は永遠に訪れないことだけは、確かだった。
そんなことを考える余裕が出てくると、少しずつ筋肉が弛緩し、血の上った頭から血液が少しずつ下がっていくのがわかった。
健太郎は、そこで、「ふーっ!」と、大きな深呼吸をして、腕を上に伸ばしてみた。
全身の筋肉が緩み、体の中から、すべての「悪い空気」が、外に吐き出されたような気がした。
そこで、健太郎は、風防の取っ手に手を掛けた。
ガラッ…。
零戦の風防を開けると、冷たい風が操縦席に入り込み、健太郎は、その新鮮な酸素を体の中に目一杯取り入れた。
それを見たのだろうか。後方についてくる列機も同じようなことをしている仕草が見える…。
ふと、計器板に眼をやると、高度計は百mの少し上を指していた。
これ以上上昇すると、敵艦隊のレーダー網にかかる畏れがあった。
そのころのアメリカ艦隊のレーダーは、中空から高空の飛行機を捉えることはできたが、百m以下の低空を這うように飛行する戦闘機は、海面が反射するせいか、捕捉が十分できなかったようだ。
そのため、日本の特攻機は、沖縄に向かう半ばを過ぎると、低空飛行に切り替えるのだが、敵機は、そこを見越して、中空で待機し、多くの特攻機が沖縄の手前で撃墜されていた。
今回、「草薙隊」が、上手くいったのは、その敵機が待っている空域で戦闘が起こり、直掩隊の活躍で全機が無事に逃げおおせたことが大きかった。
健太郎たちは知らなかったが、それには、雷電隊四機の活躍があったのだ。
時刻を確認すると、腕に嵌めた航空時計は、間もなく〇八一〇になるところだ。後、十分もすれば、敵の機動部隊が見えるはず…だ。
そう思いながら健太郎は、頭を回して頭上に眼をやった。
ふと、上空を見ると、直掩の戦闘機が五機が、三角形の編隊を組んで飛んでいるのが見えた。
「ああ、直掩隊も無事だったか…?」
そう思いながら、今朝の出発のときのことを思い出していた。
出発にあたっては、いつも儀式的な式が行われる。
形式的だといえば、それはそうだが、日本人的だとも言える。しかし、回数が増えてくると、簡略化されることが多く、その式に参列する幹部たちも少なくなっていた。
今朝の〇六三〇には、俺たち神風特別攻撃隊「草薙隊」の壮行式が行われた。出撃が〇七〇〇が予定時刻だったので、三十分前が原則なのだろう。
珍しく、この日の早朝の特攻は、「草薙隊」の一隊だけだった。
宿舎の出撃割に、そう書かれていた。
「なんだ、今朝は、俺たちだけか?」
「まあ、いい。他の隊の準備ができていないんだろう…」
それに、おそらく、夕方には、また、数隊が出撃するはずだ。
健太郎たちの「草薙隊」は、名古屋航空隊で編成された部隊だった。
名古屋空といえば、元々は、急降下爆撃などの訓練をするための練習航空隊だったが、昭和二十年に特攻隊編成用の航空隊となり、三次にわたる「草薙隊」が編成された。
健太郎は、筑波航空隊の予備学生戦闘機専修課程を一番で卒業すると、そのまま筑波空に残り、教官配置についていた。
英語と航空理論を教える他に、次の予備学生の飛行実習も担当したが、実用機は、筑波の零戦を使用して訓練を受けながら、次の予備学生の指導に当たることになった。
どうも、海軍当局は、首席の健太郎の頭脳を生かそうと、取り敢えず、筑波の教官配置にしたのだ…という噂もあったが、戦局次第で、どうなるかはわからなかった。
そして、予想していたとおり、戦局の悪化とともに、中央に行く話は立ち消えになり、昭和二十年の三月に名古屋空に異動になったのだ。
名古屋空では、当初、司令部付で特攻隊の編成作業にあたっていたが、そんな仕事は、一緒に訓練を積んだ仲間を駒のように扱うことが耐えられず、名古屋空の駒田司令に「自分も特攻に出してくれ!」と、直訴した。
それは、健太郎の正義感だったのかも知れない。
予備学生時代も理不尽な教官や上官に対して苦情を言い、予備学生の生活改善を要求したのも一度や二度ではなかった。
入隊当初から首席だった健太郎は、学生長として予備学生十三期の代表だった。
海軍というところは、帝国大学出の健太郎にしてみれば、もっと民主的な組織かと思っていたが、とんでもない。
士官と下士官・兵は大きく区別されていて、訓練や生活においても交わるということがない。宿舎も食堂も別々で、部下と顔を合わせるのは、実戦を伴う場合だけになる。
そんなんで、お互いの意思の疎通が図れるはずもないのだが、伝統というか、イギリス海軍の模倣なので、何も考えずに取り入れた慣習が多かった。
士官が洋食のフルコースを食い、下士官兵が麦飯を食っているなんてことは、戦争前は、当たり前だったようだ。
それに、兵隊がよく殴られる。
健太郎たち予備学生も、入隊当初は、兵学校出の士官たちに随分殴られたが、筑波に来てからは、その回数は減っていた。
海軍の生活に慣れてきたこともあるが、予備学生長の健太郎が、分隊長に抗議したことも大きかった。
健太郎は、一人、分隊長室に入ると、
「我々予備学生は、間もなく海軍少尉に任官致します。しかし、未だ、娑婆っ気があるといった理不尽な理由で、殴る士官がおりますが、分隊長は、如何お考えですか?」
すると、分隊長は、
「それは、抗議か?」
と、聞くので、健太郎は、
「はい。これは、予備学生全体の名誉にかかる問題ですので、予備学生長として抗議に参りました」
健太郎は、お願いに来たつもりだったが、分隊長の物言いにも腹が立ったので、「抗議」だと言ってやった。
すると、分隊長は、
「うむ、わかった。予備学生長からの抗議として受け取る」
不思議なことに、それからは、滅多なことで、予備学生が殴られることはなくなった。
ただし、十四期の予備学生たちは、最初の二ヶ月の基礎訓練中、二等水兵として扱われたので、ベッドではなくハンモック、殴る場合も手ではなく、精神注入棒という樫の棒で殴られたそうだ。
健太郎は、自分ではあまり自覚はしていなかったが、傍で見ていると、さすが東京帝大卒というインテリ然とした風格があり、頭脳明晰、判断力、行動力抜群とくれば、彼をおいて予備学生長が務まる人間はいなかった。
健太郎は、運動神経もよく、飛行機の操縦も難なくこなす予備学生のエリートだった。
名古屋空の駒田司令は、そんな健太郎が疎ましかったのかも知れない。
海軍では、予備学生は、所詮「臨時雇い」であった。
司令のような海軍兵学校出は、海軍の正規将校であり、すべての兵の上に立つ身分と権利が与えられていた。
そのためか、兵学校出の士官よりも頭脳明晰で、何でもできる健太郎は、将校たちには、煙たい存在だったのだろう。
駒田司令は、健太郎の志願を受け、草薙隊、最後の隊長に指名したのだった。
健太郎が、第三次草薙隊を編成し、鹿屋に飛んだ直後、それを知った筑波航空隊の山岸大佐は、電話で駒田司令に猛抗議をしたそうだが、駒田中佐は、「我が隊の編成に口を出さんでいただきたい!」と、電話を切ってしまったそうだ。
健太郎の処遇については、海軍当局も知っており、いずれ、海軍中央でその頭脳を使いたい…という意向があったが、一司令の判断で、それが反故にされてしまったのだ。
山岸大佐は、海軍省にも撤回を要望したそうだが、組織上、一度発令された命令を撤回させることは難しかった。
こうして、健太郎は、特攻隊長になったのである。
健太郎が、同期の坂井直と出会ったのは、鹿屋に到着して五日目のことだった。
健太郎たち草薙隊は、他の隊と同様に、鹿屋基地に到着すると「名古屋空から来た草薙隊」であることを申告し、第五航空艦隊の指揮下に入ることになった。
元々、鹿屋基地には、鹿屋航空隊があり、中型攻撃機の基地として有名だった。
鹿屋空は、開戦劈頭、シンガポール防衛のためにイギリスより派遣されてきた戦艦レパルスとプリンス・オブ・ウェールズを九六式や一式陸上攻撃機による魚雷攻撃で撃沈する大戦果を挙げた部隊だった。
しかし、昭和二十年に入ると、中型攻撃機の活躍する場面はなくなり、その代わりに特攻機の出撃基地として様変わりしていたのだ。
陸軍には、薩摩半島に知覧航空基地があり、海軍は、鹿児島湾を挟んで反対側の大隅半島の鹿屋航空基地があり、この二つの航空基地が特攻隊専用の出撃基地となっていた。
沖縄戦が始まると、全国の航空隊で編成された特攻隊が、続々と集結し、数日間の間に出撃していくのだ。そのせいか、航空隊としての特徴はなく、各隊の兵たちもよそよそしく、お互いが親しくなることもなかった。
もちろん、明日は出撃という特攻隊員たちに、そんな余裕などあるはずもないが、地元の商店などでは、彼ら特攻隊員たちをもてなし、慰め、日本の最後の家庭の味を振る舞う母親のような人もいた。
知覧や鹿屋の人たちにしてみれば、特攻隊員は、「生きた軍神」のように見えたのかも知れない。
数日間とはいえ、彼らとの交流は、殺伐した世の中にあって、心と心が通い合う貴重な時間だったのだろう。
出撃の時には、双方の航空基地には、多くの町の人が詰めかけ、日の丸の小旗を振りながら見送ったといわれている。
こうして、海軍の鹿屋基地と陸軍の知覧基地は、二大特攻基地として全国に知られるようになっていた。
そして、その鹿屋基地で、偶然出会ったのが、坂井直だった。
坂井と健太郎は、海軍飛行科予備学生十三期、戦闘機専修組の同期で、土浦空、筑波空と同じ釜の飯を食い、卒業時も、健太郎が首席、坂井が三席だった。
しかし、操縦の腕は、坂井が遥かに同期生を凌駕しており、坂井は、周囲の仲間や上官たちからも、「予備学生の天才」と称されていた。
坂井と同じ時期に飛行学生として訓練を受けていた兵学校出の少尉たちにしてみれば、坂井の操縦技術は妬ましくもあり、驚きでもあった。その上、坂井は、剣の腕も並大抵ではなく、兵学校出の剣道自慢も、まったく歯が立たなかったのだ。
人間は、格段に差があると認めた人間には、卑屈になる。
あの生意気な兵学校出の士官たちも、坂井の前では、大きな顔をする者はだれもいなかった。
それにしても、大した男だと、健太郎は思った。
その坂井が、特攻基地の鹿屋に現れたわけだから、驚かないはずがない。
坂井は、みんなが想像していたとおり、首都防衛を任務とする厚木にある第三〇二航空隊に配属となり、本土防空戦で大活躍をしていた。
健太郎も、鹿屋で坂井に会ったときは、「まさか…」と思ったが、坂井たちは、最新鋭機の局地戦闘機雷電で、鹿屋基地上空に飛来する敵の戦闘機を迎撃する任務を帯びていたのだ。
「そうか、貴様が、特攻隊員であるはずがない…」
「いやあ、驚いたよ」
そう言って、健太郎は、久しぶりの再会を喜んだが、坂井は、
「なに?山田…、なんで貴様が、特攻隊員なんだ…」
と驚き、
「俺が、三〇二空の小園司令に掛け合ってやる」
と言ってくれたが、健太郎は、それを断った。
それは、名古屋で草薙隊を編成してから、常にこの五人で行動し、それだけ信頼関係を築いていたからだった。
最初のうち、十四期の少尉たちは、
「山田中尉が、特攻要員になるのはおかしい!」
と、憤慨していたが、それでも、健太郎が隊長になってくれたことは、嬉しかったようだった。
健太郎は、筑波航空隊で、十四期の教官でもあったのだ。
だから、二人の少尉にしてみれば、自分たちを育ててくれた教官と一緒に死ねるなら本望だ…という意識もあった。
それに、下士官の二人も兄弟のように仲がよく、この五人が揃っての草薙隊になっていたのだ。
それを今更、隊長の自分だけが、特攻隊から離れるなんてことはできなかったし、健太郎には、最初から、そんな気はなかった。
どうせ、遅かれ早かれ、そう長生きできる時代じゃない。どうせ死ぬなら、親しい仲間と一緒の方が幸せというもんだ…と考えていたし、とうに、死ぬ覚悟はできていた。
そして、そんな坂井に、
「おまえは生きろ…」
「生きて、五十年後の未来を見てくれ」
「俺たちの死が、日本の未来にどのように関わったのか、おまえの眼で見てくれ」
そう、託すのだった。
健太郎には、坂井なら生き延びられる…と確信していた。
飛行技術もそうだが、何か、坂井には未来があるように見えるのだ。理由は特にない。ただ、そんな気がする…程度の勘だが、もし、心残りがあるとすれば、自分たちが死んだ後の日本のことだった。
この国が滅びるのか、それとも、しぶとく生き残り、未来を築いていくのか、それが知りたいと思った。
もし、滅びてしまえば、家族もみんな死んだということだろう。だが、未来があるのなら、平和な時代を生きているかも知れない。
それに、坂井なら、しぶとく生きるはずだ。その逞しさもエネルギーもある男だ。
そう思いながら、健太郎は、坂井を見詰めていた。
さて、健太郎たちの出発の朝に話を戻そう。
草薙隊が、坂井たちの雷電隊の四機と一緒に鹿屋基地を出発したのは、ちょうど、〇七〇〇だった。
雷電は、高速機なので、健太郎たち爆装零戦と同航はできない。
計画では、雷電隊が先行して、前衛の敵戦闘機群を追い払い、その後を健太郎たち「草薙隊」が、進む手筈になっていた。
草薙隊には、篠田飛曹長率いる直掩の零戦が五機付いていた。
草薙隊に局地戦闘機の雷電が護衛につくのは、これが、最初で最後になるだろう。
本来は、基地上空の哨戒任務に当たることになっていたのだが、第五航空艦隊の宇垣纏長官のたっての願いで、実現した直掩隊だと聞いていた。
それに、隊長の坂井直は、健太郎の同期の予備学生だった。
宇垣長官にしてみても、内々で健太郎の一件は耳に入っていたらしい。
本当ならば、救ってやりたい。
しかし、今となってはどうにもならないことを宇垣は知っていた。
それに、声をかけても、草薙隊を率いる隊長ともなれば、受けることはあり得ない。
それよりも、少しでも成功の機会を増やしてやりたい…と考えていた。
そこに、現れたのが、厚木の雷電隊だった。
彼らは、到着するなり迎撃戦に上がり、敵戦闘機を撃墜して、敵の攻撃を未然に防いだ実績があった。
「あの、小隊なら…」
そう考えた宇垣は、副官を呼んで、雷電隊の詳細を聞いた。
「そうか…。航続距離が短いのか?」
「まあ、迎撃機だから、それは仕方がない…」
「ところで、特攻機を護衛する方法はないか?」
そう考えていると、今井航空参謀が、宇垣に提案をした。
「長官、それなら、いい方法があります」
「今、敵の戦闘機は、かなり本土近くまで出てきており、奄美大島周辺の空域で、早々に特攻機を墜とすつもりでいます」
「そのため、かなり早い段階で直掩隊と空戦になり、特攻機を最後まで護衛できないという問題を抱えております」
「そこで、雷電隊には、高度をとり、前衛の戦闘機群を叩いて貰うのです」
「雷電でも、奄美大島あたりまでなら護衛は可能です」
「そうすれば、後続の特攻隊は、ほぼ無傷で中間点まで到達することが可能になります」
「おそらく、中間点から沖縄周辺には、別の敵戦闘機群が待ち伏せしていると思われますが、ここは、直掩隊に頑張って貰い、特攻機を敵艦隊の上空まで引っ張れば、後は、必ず、突入できるはずです」
今井参謀の話を聞いた宇垣長官は、うん…と頷き、すぐにその案を裁可した。
「よし、今井君、それでいこう!」
「すぐに、雷電隊に依頼してくれ…」
「山田中尉には、申し訳ないことをした。せめて、突入は、成功させたいものだからな…」
そんな相談が、艦隊司令部で行われていたことは、健太郎も坂井も知る由もなかった。
ただ、草薙隊の壮行式には、珍しく宇垣長官がやってきて訓示を与えたので、少し驚いたくらいだった。
確かに、今井参謀の読みどおり、雷電隊の攻撃力は、それまでの日本の戦闘機の概念を覆すほどの凄まじさがあった。
前衛の敵戦闘機群の遥か上空から、太陽を背にした一撃離脱戦法は、瞬く間に敵戦闘機を二機撃墜して見せたのだ。
その高速振りは、敵機の速度を凌駕し、怖ろしいイメージを敵のパイロットに与えることができた。
彼らは、這々の体で母艦に戻ると、
「悪魔だ。悪魔の戦闘機を奴らは持っている!」
と叫んだそうだ。
この頃、首都圏では、B二九の爆撃に戦闘機の護衛が付けられず、アメリカ軍は、雷電や月光などの迎撃戦闘機に手を焼いていたのだ。
九州方面には、敵の艦載機が襲来していたが、迎撃は主に零戦隊や陸軍機が行っていたので、雷電のような迎撃を専門とする機体は初めてだったのだ。そのため、敵戦闘機群に動揺が走り、沖縄周辺で待ち構えていた戦闘機隊も、その情報が入ると、上空が気になり、あまり低空での戦闘に集中できなかったようだ。
健太郎の零戦が、低空で追い回されたが、被弾が少なかったのは、パイロットが、常に上空を気にしていて、照準が定まらなかったことが原因だったようだ。
どこの国のパイロットもそうだが、彼らは、あまり精神論で戦うことをしない。
自分の乗る戦闘機の性能を熟知し、その戦闘機の特性が十分に発揮できる戦法で戦うのだ。
アメリカの戦闘機の多くは、早い段階から高速機に変化しており、その優速を生かした「一撃離脱」戦法を得意としていた。
それは、日本の戦闘機の多くが、「巴戦」を得意としており、そのため、速度は乏しく、高高度性能が低いことを見越していたからだった。
それに、機体を軽量化するために、防御システムが乏しく、十二.七粍機銃弾で十分撃墜できたのだ。
日本機には、二〇粍機銃を装備した戦闘機が多いが、これもアメリカの戦闘機の装甲が厚いことが原因だった。
二〇粍では、搭載できる弾数が限られているため、攻撃力という点では、アメリカの戦闘機に分があった。
ところが、雷電は、まさにアメリカ型の戦闘機だったのだ。
まさか、自分たちのお家芸である「一撃離脱戦法」を日本の戦闘機に採られるとは、彼らにしてみれば、青天の霹靂である。
それに、熊ん蜂に似たずんぐりとしたボディは、まさに、「悪魔の降臨」としか言いようのない、恐ろしさがあったのだ。
後に、アメリカは、「サンダーボルト」という雷電をさらに大型化したような戦闘機を送り出してきたが、これこそ、巨大な熊ん蜂だった。
そんな想定外な戦闘機に出くわしたショックは、計り知れないものがある。
要するに、無線を通じて、前衛戦闘機隊の動揺が後ろの戦闘機隊に伝わり、アメリカ戦闘機隊全体に動揺が広がったのだ。
まさに、「未知との遭遇」という驚きだったのだろう。
しかし、残念なことに、この「悪魔の戦闘機」は、航続距離が短い。
結局、坂井たち雷電隊は、この最初の攻撃で、健太郎たちの護衛任務を終わらなければならなかった。
もし、もっと雷電が豊富にあり、零戦と役割分担ができれば、特攻作戦は、さらに戦果を拡大できたのだが、新型の雷電を生産する能力が、当時の日本にはなかったのだ。
その後、三四三航空隊の紫電改も同様に直掩任務に就いたが、紫電改も局地戦闘機のために航続距離が足らず、途中で引き返すことは同じだった。
しかし、それでも、紫電改部隊が、護衛についた期間、特攻隊の戦果が挙がったのは事実である。
さて、そんなこととは知らずに、沖縄に向けて飛行を続ける草薙隊の全機に無線が入った。
「敵、戦闘機前方!向かって来る!」
それは、直掩隊の篠田飛曹長からのものだった。
なに…? 来たか…?
すると、また、無線が入った。
「草薙隊は、低空に降りて下さい!」
健太郎は、操縦桿を前に倒しながら、急いで低空飛行に入ろうとしたそのときだった。
「あ、隊長、雷電です。敵機は間違い。雷電隊です!」
またもや、篠田飛曹長からだった。
ん…?
そう言われて、前方を見ると、なんと、あのずんぐりとした機影が雲の陰から見えてくるではないか。
それも四機編隊で、先頭の雷電の機体には、黄色の稲妻がペイントしてあった。
「あ、坂井機だ!」
まさか、先行していた坂井と、もう一度遭遇しようとは、夢にも思わなかった。
そのまま直進すると、雷電隊が反転して、同航態勢になった。
坂井機が、健太郎の零戦に近づくと、風防を開け、何かを叫んでいるのが見えた。
本当は、無線で話をしたかったが、高性能無線を積んでいる雷電と、零戦の無線機とでは周波数が合わず、コンタクトを取ることは難しかった。
それでも、坂井は、こちらを向いて必死に何かを叫んでいた。
健太郎も風防を全開にすると、大きく手を振って、それに応えた。
「おうい、坂井、ありがとう。気をつけて還れよう…」
「最後まで、ありがとう。ありがとう、坂井っ…!」
そう言って、いつまでも手を振り続けた。
しかし、雷電は、航続距離が短い。
もう、帰還しなければ、燃料が保たないだろう…。
そんな心配をしていると、もう一度、坂井と眼があった。
坂井は、泣いてるように見えた。
坂井…、ありがとうな。だけど、俺は行く、貴様は生きろ…。生きろ、坂井…。
そう心の中で叫ぶと、坂井機に向かって敬礼をした。
すると、坂井も大きく手を振ることを止め、少し頷くと、敬礼を返してよこした。
これで、別れだ。永遠の別れだ…。
すると、雷電隊の四機は、大きくバンクを振り、そのまま反転し、鹿屋基地へと還っていった。
きっと、坂井たちは、任務を終えると、俺たちの高度に合わせて反転してきたのだ…。
もっと高度をとって飛行をすれば、安全なのに、敢えて危険を冒して、俺に最後の挨拶をしに来てくれたんだな…。
健太郎は、そう思うと、涙が浮かんできた。
ありがとう坂井、ありがとうみんな…。
きっと成功させる。見ててくれよ…。
健太郎は、そう心の中で叫びながら、操縦桿を握りしめ、スロットルレバーを上げるのだった。
そのころ、篠田飛曹長は、遠く、前方を睨んでいた。
前衛の敵戦闘機隊は、おそらく、雷電隊が追い払ったのだろう。こちらに向かって来る敵影はない。
しかし、中間点を過ぎれば、第二段の後衛の敵戦闘機群が待ち構えているはずだった。
その数は、およそ十機。
ここを突破しなければ、敵の機動部隊に近づくことはできない。
篠田飛曹長は、部下の列機に無線で、「警戒を厳にせよ!」と、改めて命じた。
雷電隊から別れて十分ほど、過ぎたときである。
直掩隊と高度をとっている草薙隊のちょうど中間当たりの右下方に、敵機数機を発見した。
「よし、こちらが先だ!」
篠田飛曹長は、草薙隊に無線で「敵機発見!」を伝えた。
その声に応えるように、草薙隊の五機は、低空に再度、降りていった。
ここから先は、全速力だ。
篠田飛曹長は、列機に、
「よし、これより空戦に入る。上空からの攻撃で一気にかたを付ける!」
そう言うと、機体を反転させ、敵の戦闘機グラマンF六Fの五機編隊に突っ込んでいった。
しかし、いち早くそれに気づいた敵機は、一様に散開し、巴戦になっていった。
それでも、上空を占めた零戦隊が有利で、一撃で敵機二機を撃破し、その二機は、煙を吐きながら逃げていった。
残りは三機だ。
しかし、これを捕捉することは難しい。
敵も目的は、特攻機だった。
特攻機は、二五〇㎏爆弾を装着しているので、速度が出ない。
それでも、低空で回避行動を取っているので、簡単に捕捉はできないだろう。
爆撃機が低空に降りるのは、その下が海面なので、下方からの攻撃を回避できることと、追いかけてきたとしても、低空なので、速度が出せないという利点があった。
だからこそ、特攻機は、無理な回避操作で、機体を左右に滑らせるような操縦をするのだが、ベテラン搭乗員になると、未来予測で銃撃をしてくる。
これは、敵の運動を予測して、未来の到達点に向けて銃撃するという高等技術だった。
しかし、日米双方の、そういった技術を持つベテランパイロットはいるのだ。もし、そういう敵なら、こちらに勝ち目はない。
篠田飛曹長は、敵の隊長機をおぼしき一機と巴戦に入り、銃撃を加えた。
手応えはあった。
しかし、他の二機が、特攻機を追いかけている。
「畜生、山田中尉、逃げてくれ!」
そう、必死叫ぶが、特攻機は鈍足だ。
間もなく捕捉されるだろう。
そう思ったとき、部下の二機が敵戦闘機の後ろに食らいつくのが見えた。
「よし、そのまま、撃て!」
こちらも、まだ、一機が向かって来る。
回避運動をしつつ、後ろを取ろうとしたその瞬間に、敵は、猛烈なスピードを上げて、雲の彼方に飛んでいってしまった。
おそらく、時速六〇〇㎞は出ていただろう。
零戦の最高時速は、公称で五五〇㎞。
実際は、そんなには出ない。
燃料のオクタン価が違うのだ。
こちらが勝つときは、敵より高度をとり、垂直降下で攻撃ができる場合か、数十機が乱戦になり、速度が低下しつつ、巴戦に持ち込めたときに限られていた。
しかし、今では、敵も零戦の特長をすべて把握しており、得意のレーダーを駆使して、先手を打ってくるのだ。こうなると、もう劣勢に立たされるのは否めなかった。
それでも、今回は、雷電隊の活躍もあり、こちらが優位な位置から攻撃ができたので、被弾はあったが、全機が無事に沖縄海域に進むことができそうだった。
特攻機を追っていた敵グラマンは、直掩隊二機が追いつき、後方から襲撃したので、そのまま特攻機の頭上を追い越し、猛スピードで、高空に去って行った。
篠田飛曹長も敵機を追い払うと、直ちに急上昇し、敵艦隊発見の報を草薙隊にもたらした。
後衛の敵戦闘機は、五機編隊だった。
奴らも、前衛の味方機が二機も撃墜されたのだ、高空が気になり、いつまでも低空にはいられなかったのだろう。
それに、味方艦隊の対空砲火が始まりそうだったので、上空へ避難するよう命令でも下ったのだろう…と解釈した。
そして、その篠田飛曹長の予想は、当たった。
「山田中尉、敵艦隊発見!」
篠田飛曹長は、喜んで、全機に敵艦隊発見を報じた。
しかし、それを特攻隊員たちは、どんな気持ちで聞いたのだろう。
それは、特攻隊員への死の宣告に違いなかったのだ。
篠田飛曹長は、はっと、気づいたが、任務は任務だ。
それに、ここまで全機が辿り着いたことが奇跡みたいなものだった。
篠田飛曹長は、少し、間を開けると、
「それでは、草薙隊の皆さん…、成功を祈ります!」
静かに落ち着いた声で、そう伝えると、無線を切った。
ここから、特攻機は、手元にある電鍵を押し、モールス信号を鹿屋基地に送ることになっていたのだ。
無線の精度は悪く、遠隔だとうまく受信ができず、混線する可能性があった。その点、旧式ではあるが、モールス信号は、信号自体が単純なので、かなり遠隔地まで正確に知らせることができたのだ。
特攻機の場合、突入する瞬間に電鍵を押す。
そうすると、受信する側に「ツー」という長音が届く。
要は、それが、途切れたときが撃墜されたか、墜落して機体が破壊されたことを意味した。
そして、この長符が長く続くと、撃墜されずに体当たりが成功したものと判断したのだ。
その長符が切れたときが、特攻隊員の戦死を意味していた。
そして、直掩機が残っていれば、上空から突撃の様子を確認し、帰隊後、詳細を司令部に報告することになっていた。
今回は、全機無事に敵艦隊上空まで到達することができたので、直掩隊が、報告することになるだろう。
篠田飛曹長は、最初の取り決め通り、上空から草薙隊の突撃を見守ることにした。
それでも、敵戦闘機が上がってきていれば、それを排除しなければならなかったが、対空砲火が始まると、同士撃ちの危険があるので、敵戦闘機は、艦隊上空から離れていた。
すると、草薙隊の五機が、いよいよ低空から高度を上げ、突入準備に入っていくのが、左舷方向に見えた。
突入は、五機全員が一斉に突撃する手筈だった。
そうすれば、敵は的が絞れず、照準が合いにくくなるという判断だったが、猛烈な対空砲火は、そんな照準どころではなかった。
駆逐艦や戦艦、航空母艦まで、ありとあらゆる火器を総動員して、撃ちまくってくる。
約百隻もの軍艦が敷く、対空砲火は、まさに、打ち上げ花火のシャワーのように見えた。
それを、この中に飛び込むのだから、特攻隊員は、よほどの信念と覚悟がなければ、突っ込むことなどできはしない。
それを、十代の少年兵や若い予備学生が行うのだから、命じる方もどうかしている。
しかし、特攻隊の人たちは、淡々とその命に服し、笑顔で突っ込んでいくのだ。
その姿は、本当に神々しさがあった。
篠田飛曹長は、念のために全方向を目視し、敵機の機影がないことを確認すると、山田中尉機を眼で追った。
急上昇で高度一千mまで達して草薙隊の特攻機は、銘々に、操縦桿を倒して、急降下していくのが見えた。
遠くからでも、キーン…という急降下特有の金属音が大空に奏でられた。
直掩機も、あまり高度を下げると、対空砲火の弾幕に捕まることになるので、注意が必要だった。
ドンドンドンドン、ガガガガガガ…、ボムボムボムボム…、
と敵の射撃音や爆発音が響き、続いて、カンカンカンカン…と、高射砲などの対空砲火の弾丸の破片が、機体にあたる音がした。
これはこれで、嫌なものだった。
篠田飛曹長は、万が一の被弾に備えて、飛行帽の顎紐を締め直し、ゴーグルを装着した。
ゴーグル越しに、もう一度、山田機に眼を移した。
山田機は、他の四機と同じように、高度一千mから急降下に入った。
それは、あまり無理のない降下角度のように思えた。
「おっ、このままだと、敵の対空砲火に捕まるぞ…?」
そんな心配をした篠田飛曹長だったが、ここで、驚くべきことが起こった。
なんと、山田中尉機が、少し翼を振るような仕草を見せたかと思うと、そのまま、真っ逆さまに戦艦とおぼしき敵艦に突っ込んで行くではないか…。
山田機は、途中で機体をひっくり返し、機体を垂直に操作したのだ。
戦艦からの対空砲火は凄まじく、今にも山田機を捉えそうだったが、山田機の角度がつきすぎ、戦艦の対空砲火の照準が定められないのだ。
山田機は、途中で被弾し、右翼から火を噴いたが、それに構わず、そのまま、垂直の態勢で戦艦の後部砲塔付近に激突した。
ボン!という激突音が上空まで聞こえたような気がした。
一瞬、その戦艦周辺に静寂が訪れたが、次の瞬間、猛烈な爆煙を上げ、火災を発したのが見えた。
ボン!ボン!という大きな爆発音が連続して起きたかと思うと、もの凄い黒煙が立ち上り、青空を黒く覆ってしまう程だった。
そのうち、火炎がばっと広がり、戦艦が、ギー、ギーと軋むような音が、聞こえてくるようだった。
篠田飛曹長は、しばらく、呆然として、その燃える戦艦を見詰めていた。
これまで、何度も戦場に出ているベテランの篠田飛曹長でさえ、見たこともない、戦艦の爆発の瞬間だった。
ああ、山田中尉も散華されたか…。
それは、壮烈な戦死だった。
あの貴公子然とした山田健太郎中尉に…、あんな大胆な飛行技術があったとは…。
ベテランの篠田飛曹長にも衝撃的な最期だった。
山田機は、通常の急降下から急に横転の操作をすると、機体を背面の状態に入れ、そのまま垂直に敵艦にぶつかったのだ。
この方法なら、爆弾を投下しなくても、機体の速度が一番速い時点でぶつかることができる。
おそらくは、零戦でも時速六百㎞は、優に超えていたことだろう。
そんなスピードでぶつかられたら、敵艦の乗組員もたまったものではない。
爆弾は、徹甲弾なので、ぶつかった衝撃で、戦艦に穴を開け、艦内で爆発したのだろう。
爆弾が破裂した箇所は、鉄板がめくれ上がり、高温を発して、膨大な水蒸気を発することになる。その水蒸気の熱で、周囲の兵隊は、酷い熱傷を負うのだ。
敵艦内では、爆風でちぎれ飛んだ者、その熱風を浴びて即死した者、大やけどを負った者など、数百人が死傷したことは間違いない。
二五〇㎏もの爆弾が爆発すれば、直径百mの穴が空くといわれるくらい、凄まじい爆発力があるのだ。
それを戦艦の後部とはいえ、垂直にぶつかられたのでは、被害は甚大である。
山田中尉は、最後まで冷静さを保ちつつ、やったこともない操作で、最大限の戦果を挙げたのだ。
それにしても、人間にこんなことができるのか…?
篠田飛曹長は、しばらく上空から、その山田機が突っ込んだ戦艦の黒煙を眺め、言葉を失っていた。
「こちらも必死ならば、彼らも必死なのだ…」
戦争とは、本当に怖ろしい…。
戦争を起こした人間は、安全な部屋で、人の死を数字でカウントしているだけだが、戦争に仕方なく参加している兵隊は、どちらにしても、必死に戦い、無惨な死を遂げるのだ。
篠田飛曹長は、だれよりも優秀な頭脳を保った山田中尉の最期を見て、改めて、戦争の理不尽さを感じるのだった。
山田中尉の最期を確認した篠田飛曹長は、他の特攻機に眼を向けると、もう一機が手前の駆逐艦に体当たりに成功したのがわかった。
その駆逐艦からは、猛烈な炎が吹き出しており、撃沈は間違いなかった。
そして、その他の特攻機はどうしたか…、と海面に眼をやると、四つの大きな輪ができていた。
ん…? なぜ、四つもあるんだ?
そう思い、無線で「直掩隊集合せよ…」と、伝えると、三機はすぐに近くに寄ってきたが、若い門倉二飛曹の機が見つからなかった。
後でわかったことだが、門倉二飛曹は、最年少の鈴木栄一二飛曹について、体当たり寸前まで直掩機の任務を果たそうとしていたようだった。
確か、年も近く、聞かなかったが、鈴木と門倉は、予科練の同期生だったのかも知れない。
だから、門倉は、鈴木を最後まで守ってやりたかったのだろう。
鈴木は、最後には対空砲火で火だるまになって駆逐艦に突っ込んだということだった。
すると、門倉二飛曹は、鈴木二飛曹に向かって来る対空砲火を自分に引き受け、一緒に突っ込んでしまったのかも知れない。
「門倉…、おまえの任務は、特攻じゃない。特攻じゃないんだよ…」
「ばかやろう…」
篠田飛曹長は、海面に残る四つ目の輪を眺め、まだ、ニキビの残る門倉秀一の屈託のない笑顔を思い浮かるのだった。
門倉も、まだ、十九歳の若者だったのに…。
健太郎は、篠田飛曹長の無線を聴いた。
「敵艦隊、発見!」の報である。
健太郎は、
「了解。ありがとう!」
そう言うと、操縦桿を一気に手前に引くと、足下の方向舵を操作し、右方向へ上昇していった。
このまま、グズグズしていては、すぐに敵艦隊の前衛に捕まると判断したからである。
それに目的は、大型艦の撃破にある。
手前の前衛には、多数の駆逐艦や駆潜艇がおり、低空のままでは、その前衛陣にぶつかってしまうのだ。
低空飛行から一転、急上昇に転じ、高度一千mに達すると、既に、敵艦隊からの対空砲火が始まっていた。
これから、この弾雲の中に飛び込んでいかなければならなかった。
健太郎の体は、急激にこわばり、全身の毛が総立ちになるような恐怖感が襲ってきた。
すると、汗が一気に吹き出し、唇が震えるような感覚があった。
歯も、ぐっと食いしばらなければガチガチ…と鳴ってしまうところだった。
健太郎は、額に止めてあった飛行眼鏡(ゴーグル)を眼に嵌めた。そして、母から贈られた桜の刺繍がしてある純白のマフラーを鼻の下まで引っ張り上げた。
こうしておけば、マフラーを嚙んで恐怖に耐えることができるはずだ。
母さん、頼む…。
健太郎に、そんな気持ちが湧いてきた。
喉の奥は、乾燥してつばを飲み込むこともできなくなっていた。
それでも、「やらねば!」という使命感だけは、沸々と心の奥から湧き出てくるのがわかった。
周囲を見渡すと、風防越しに、篠田飛曹長の零戦五二型が、寄り添うようについてきてくれていた。
健太郎は、もう一度、ガキッ!とマフラーの端を嚙むと、篠田に向かって敬礼をしたのだ。
「篠田さん、お世話になりました。じゃあ、行きます!」
口の中でそう呟くと、徐に、操縦桿を前に倒した。
既に、下方では、草薙隊の連中が、次々と急降下していくのが見えた。
遅れてはならない。
もう一度、前方に眼を向けると、そのまま、一気にスロットルを全開にして、急降下を始めた。
機速がつく。
高度計と速度計が、ぐるぐると回り出し、爆音が空気を斬り裂く音に変化するのがわかった。
敵艦からの対空砲火が、こちらに向かってくる。
赤や青、黄色の弾丸が健太郎の顔を目がけて次々と襲ってくるが、目前で左や右に逸れていく。
この色は、曳光弾や徹甲弾などの種類ごとになっているらしい。
「よし!ここだ!」
健太郎には、もう恐怖心はなかった。
敵艦に体当たりすることだけが、今の目標だった。
そのために、今を生きているのだ。
「俺は、死んでなんかいない!」
そう呟いた瞬間、操縦桿をグルッと回して、機体を横転させ、背面になった瞬間に操縦桿を前に全力で倒した。
ウォーッ…!
という雄叫びが、腹の中から出てきた。
それは、健太郎の生涯で一度も出したことのない心からの叫びだった。
ゴーグルの下の眼は血走り、ギリギリと嚙んだ純白のマフラーには、赤く血が滲んでいた。
全身がガタガタと小刻みに震えている。
天と地がひっくり返り、機体の操作が思うようにいかない。
しかし、健太郎は、どこから出るのか、渾身の力を振り絞って操縦桿を前に倒し続け、そのまま、吸い込まれるように敵艦の煙突や後部副砲が眼に入った。
そこから先は、すべてスローモーションを見ているようだった。
敵艦の後部銃座には、大勢のアメリカ兵がヘルメットを被って必死に機銃を操作しているのがわかる。
健太郎の零戦三二型からも、二〇粍機銃弾が撃ち続けられていた。
さっきまで、猛烈な射撃音と零戦のエンジンの爆音が聞こえていたのに、今は、もう、何も聞こえなかった。
もうすぐだ…。もうすぐ、着くんだ…。
目の前のアメリカ兵が、一斉に逃げる様子が見えた。
その瞬間、これまで聴いたことのない爆発音が耳をつんざいた。
ドカーン、ドカーン!
その爆発音は、何度も響き渡り、敵艦は、徐にその動きを止めた。
上空では、その敵艦の爆発音と紅蓮の炎を確かめるように、篠田飛曹長が、見詰めていた。
「大型巡洋艦、一隻大破…」
おそらく、撃沈まではいくまいと篠田は考えていた。
しかし、あれだけの勢いで体当たりをすれば、二五〇㎏爆弾がかなり深部で爆発したはずだった。
あれでは、もう、舵もスクリューも動かないだろう…。
それに、あの爆発では、後部にいたアメリカ兵が百人以上犠牲になっているはずだ。
一機一人で戦った結果だと思うと、「特攻」という作戦が怖ろしい作戦だということに改めて気づかされた。
もし、自分が、あの修羅場の中にいたとしたら、たとえ生き残ったとしても、二度と正常に戻ることはないだろう。
それに、山田中尉たちも、その身を粉砕させ、国のために尽くしたのだ。
数秒前には、そこにいた一人の青年が、今は、もういない。
青年の死の結果が、敵艦のあの爆煙なのか…と思うと、篠田は、もう、何も考えることはできなかった。
ただ、ひたすら、草薙隊の人たちの冥福を祈るしかないのだ。
そして、
「山田中尉、お見事でした。私も、間もなく参ります…」
そう小声で呟くと、篠田飛曹長は、ゴーグルを外し、風防を開けた。
そして、列機に合図を送ると、機首を反転させ、鹿屋基地へと戻っていくのだった。
篠田飛曹長には、まだ、「報告」という大事な任務が残されていた。
それに、篠田機も対空砲火で、かなり損傷を受けていた。
大きな穴は見えないが、爆弾の破片を随分受けているようだった。
それにしても、疲れた…。
猛烈に疲れた。そう思いながら、握る操縦桿は、いつも以上に重く、空しく感じるのだった。
結局、山田中尉以下の草薙隊の戦果は、駆逐艦一隻撃沈、大型巡洋艦一隻大破だった。
鹿屋基地では、久しぶりの大戦果に、あちこちで万歳を叫ぶ声が聞こえた。こちらは、特攻機五機と直掩機一機が失われたが、わずかな犠牲で、敵に大損害を与えたことには違いなかった。
報道班員たちも、久々のビッグニュースに、慌てて記事を書きまくっていたが、篠田飛曹長は、淡々と司令部に報告すると、その足で、雷電隊の坂井中尉に、山田中尉の最期を伝えに向かった。
この戦果の陰には、坂井中尉たち雷電隊の活躍を抜きにしては、語れなかったからである。
もし、雷電隊が、前衛の敵戦闘機群を追い払ってくれなければ、篠田たち直掩隊が、そちらに向かい、結局、草薙隊は、前衛と中間点の敵戦闘機群の餌食となり、敵艦隊には到達できなかっただろう。
そう考えると、本当に有り難かった。
しかし、これも、今回限りだろう。
量産されない最新鋭の雷電を、首都防衛以外に使用することは、戦況が許さなかった。それに、雷電隊は、間もなく帰還するという噂もあった。
ただ、篠田飛曹長には、ひとつだけ、どうしても坂井中尉に聞きたいことがあったのだ。
それは、山田中尉の最期の操縦のことである。
あんな無茶な操作を、山田中尉はいつ覚えたのだろう…。それは、何年も零戦に乗っている自分にもできない操縦法だったのだ。
坂井たち雷電隊は、篠田たち直掩隊が戻るまで、宿舎に帰らず、鹿屋基地の待機所で待っていてくれた。
既に戦果は、通信科をとおして大凡は知っていただろう。
しかし、直掩隊から直接聞かなければ、気が済まなかったに違いない。
篠田飛曹長は、司令部への報告を済ませると、早足で待機所に向かった。
そこには、坂井中尉他三名の雷電搭乗員が待っていてくれた。
篠田が、帰還を報告すると、坂井は、すぐに、
「いやあ、篠田飛曹長、お疲れ様でした…」
そう言うと、篠田の眼をじっと見詰めるのだった。
篠田は、徐に話し始めた。
「坂井中尉、本日は直掩有難うございました。雷電隊のお陰で、敵機の編隊は、三千m付近に網を張った五機ほどだけでしたので、特攻隊を低空に逃がし、我々直掩隊五機は、敵機に向かっていきました」
「敵機は、いつものような集団での攻撃がなく、戦意を感じませんでした。何か、動揺しているように感じました。恐らくは、雷電隊が敵編隊を蹴散らしてくれたので、上空が気になっていたのだと思います」
「草薙隊は、そのまま低空を直進し、敵艦隊の輪形陣に到達しましたので、我々は、上空に退避し、攻撃を確認することにしました」
「山田中尉他四名は、低空から高度を上げてから、次々に敵駆逐艦、戦艦、いや大型巡洋艦へと突っ込んでいくのが見えました。敵の砲撃も盛んになり、二番機、三番機、四番機に相次いで敵の対空砲火が命中、火を噴きながらそのまま海へと墜ちていきました」
「残った一番機と五番機は、高度を上げると前衛の大型巡洋艦に狙いを定めたようでした。五番機は、突っ込む途中で被弾し、巡洋艦の先にいた駆逐艦の前部に体当たりしました。駆逐艦はもの凄い黒煙を上げ停止しましたので、そのまま沈没したものと思われます。五番機は、一番年少の鈴木二飛曹です。十九歳でした」
「一番機の山田中尉は、高度を上げ、敵大型巡洋艦の真上に位置すると、何を思ったのか急降下途中で、急に背面飛行に移り、そのままほぼ直角に巡洋艦の後部甲板付近に体当たりしました。私も爆装の零戦にあんなことができるとは、思ってもいませんでした。しかし、残念ながら後部甲板なので撃沈は難しいと思います」
「それでも、猛烈な噴煙が上がり、あの巡洋艦も二度と戦列には復帰できないでしょう」
「それにしても、なぜあんな技ができたのか、訓練ではやっていないはずです…」
「これが、私の見た状況であります」
「ところで、坂井中尉には、お心当たりがあるのではないですか?」
篠田飛曹長の質問に、坂井中尉は答えず、何か考えるように下を向いてしまった。
その顔色から、篠田飛曹長は、「やはりな…」と理解した。
やっぱり、あの操縦法を伝授したのは、坂井中尉なのだ。それは、あの雷電の特性を見ればわかる。
雷電は、大型機専門の迎撃機だ。
あの戦法は、大型機に攻撃するときの、雷電ならではの戦法に違いない。
そう確信したが、篠田飛曹長も、何も言わず、坂井中尉に敬礼をして、自分の隊に戻っていった。
翌日の新聞には、草薙隊の戦果が新聞に大きく取り上げられていた。
そして、これが山田健太郎中尉の正式な戦果となった。
四月二十八日、早朝〇七〇〇 晴れ
神風特別攻撃隊草薙隊
隊長 海軍少佐 山田健太郎 二十三歳
海軍飛行予備学生第十三期(東京帝大卒)
南西諸島方面にて特攻戦死
アメリカ駆逐艦一隻轟沈
巡洋艦一隻大破
しかし、この戦果は、だれも喜ばせはしなかった。
それから、四ヶ月後、戦争が終わった。日本は負けたのだ。
草薙隊の直掩にあたった篠田飛曹長以外の三人は、その後の戦闘で戦死していた。
直掩隊の二番機だった山本上飛曹は、その後、数回の直掩任務を全うしたが、七月の鹿屋基地上空での迎撃戦で大空に散った。
三番機の和田一飛曹は、六月の直掩任務で、敵戦闘機と交戦して戦死した。
四番機の佐野一飛曹は、その後、長崎の大村基地に転勤になり、空襲で死んだそうだ。
隊長を務めた篠田勇作飛曹長は、八月に少尉に進級して、横浜空で終戦を迎えた。
彼は、最後まで零戦に乗り続け、この長い戦争を生き抜いた。
そして、篠田飛曹長は、終戦後、坂井たちに会うこともなく、福井の実家に戻り、漁師になった。その後の、消息はわからない。
山田健太郎の実家は、東京の世田谷だったが、何度目かの空襲で家を焼かれ、栃木に疎開をしていたそうだ。
戦後、妹は嫁ぎ、残された父母も、息子の戦死を知らされると、落胆したのか、昭和二十六年頃には、相次いで亡くなったということだった。
今では、山田の家も途絶え、健太郎のことを知る者もいなくなった。
それでも、坂井は、農作業の傍ら、健太郎のことを思い出していた。
それに、山田の遺書は、坂井にとっても、大切なものとなった。
坂井の嫁の範子は、ときどき、坂井が、仏壇の引き出しから、健太郎の遺書を取り出しては、読んでいる姿を見ることがあった。
その遺書は、当時の紙ということもあり、かなりセピア色に変色し、読みにくくはなっていたが、坂井は、それを大事にして、窪んだ目に老眼鏡をかけ、一文字一文字をなぞるように読むのだった。
そこには、こう書かれていた。
坂井直中尉殿
貴君トハ、予備学生ノ戦闘機専修学生トシテ一緒ニ訓練ニ励ンダ仲ダ
コウシテ、最後ノ時ヲ同期ノ貴君トトモニイラレルコトハ、ナント幸福ナコトカ。
俺ハ死ヲ恐レルモノデハナイ。シカシ、無駄死ニダケハシタクナイ。
俺ノ志ヲ貴君ニ託ス。
生キテクレ。俺ノ分マデ生キテクレ。
生キテ、五十年後ノ日本ヲ見テホシイ。
俺タチノ死ガ無駄ダッタカドウカ、証明サレテイルハズダ。
最後ノ名酒、ウマカッタ。
アリガトウ。サラバ。
海軍飛行予備学生十三期
山田健太郎
坂井は、この遺書に書かれてある
「生キテ、五十年後ノ日本ヲ見テホシイ。 俺タチノ死ガ無駄ダッタカドウカ、証明サレテイルハズダ。」
を、見届ける責任があると感じていたのだ。
そして、五十年後。それは、平成七年と呼ばれる時代だった。
日本は、あの敗戦にも拘わらず、滅びることはなかったが、もう、健太郎が知る、あの日本でもなかった。
東京も復興し、近代的なビル群が建ち並び、もはや、東京に戦前を探すのは難しかった。
特攻隊や本土防空戦などの話をする者もなく、大東亜戦争は、太平洋戦争という違う戦争になってしまった。
でも、健太郎たちの死は、無駄だとは思えない。
当時の学生が、ペンを捨て軍隊に志願し、命を懸けて戦った歴史は消えることのない真実なのだ。
もし、あのとき坂井や健太郎のような学生が戦争を忌避し、戦場に出ないまま、家族が敵に蹂躙されていたら、本当に日本は滅びただろう。
健太郎たち予備学生十三期で生き残った者たちは、戦後五十年を、それこそ、死に物狂いで働いた。
それは、自分や家族を守るためでもあったが、死んだ仲間に申し訳なかったからだ。
本当は、死んだ連中がやらなければならなかった仕事を、一緒にやっている気持ちで、働いた。
それは、理屈じゃない。
死んだ者たちには、語る言葉がない。だから、生き残った者たちが、必死に働く姿をとおして、五十年後の日本人に見せなければならないのだ。
坂井は、畑仕事で休憩の度に、遠くの那須岳の方を眺めていた。
その先には、健太郎と過ごした最後の鹿屋の町がある。いや、その先には、沖縄の空がある。
あの日、必死に手を振り、別れた沖縄の空だ。
坂井は、大きな声で、西の空に向かって叫んだ。
「山田ーっ!俺は、まだ生きとるぞう…」
「また、会おうなあ…」
遠くから見ている範子には、また、おじいさんが、いつものように叫んどる…と思って、笑みを浮かべながら、それを眺めていた。
そういえば、坂井直が亡くなって三回忌が過ぎた頃、坂井の机の中から、山田健太郎中尉の遺書と、直が書いたのであろう詩らしきものが出てきた。
それは、中学生になっていた孫娘の幸が見つけたものだった。
幸は、お祖父ちゃん子で、生前の直に可愛がられていたから、
「三回忌に、幸に渡そうと知らせてくれたんだろう…」
と、みんなで話していた。
「海軍十三期飛行予備学生」
海軍中尉 坂井 直
学帽ヲ脱ギ ペンヲ剣ニ替エテ 国難ニ殉ジタ男タチヨ
貴様タチハ 予備学生ノ誇リヲモッテ 使命ヲ果タシタノダ
スペアト呼バレ 臨時雇イト言ワレ ソレデモ 歯ヲ食イシバリ 耐エタ
俺タチノ祖国ハ 俺タチノモノダ 誰ノモノデモナイ
日本人ミンナノモノダ
アル者ハ 海ニ アル者ハ 大空ノ彼方ニ 笑ッテ散ッタ
ダレモ 愚痴ヲ言ワズ ダレモ 嘆カズ 笑顔デ散ッタ
夢モ 未来モ 恋モ 捨テタ
ダケド 俺タチモ 人間ナノダ 機械ジャナイ 生キテイルンダ
アノ男ハ 俺ニ託シタ 五十年後ノ未来ヲ 見ロト
俺タチノ死ハ 無駄デハナカッタカ ト
俺ハ確信スル 貴様タチノ死ハ 無駄デハナカッタ
貴様タチノ死ガ 大和民族ニ 繁栄ヲ齎シタノダ
俺タチハ 貴様タチノ生ノ続キヲ 生キタ
貴様タチガ イタカラ 俺タチガイタ
誰モガ忘レテモ 俺ハ忘レナイ
待ッテイロ モウスグ会エル ミンナデ愉快ニ 会オウジャナイカ
旨イ 酒デモ 汲ミ交ワソウジャナイカ
幸は、一読すると、丁寧にその詩が書かれた紙を折り畳み、封筒に入れ直した。
そして、「私は、忘れないよ…」そう言って、優しい微笑みを仏壇の位牌に向けた。そして、そっと手を合わせるのだった。
また、何回目かの暑い夏が来ていた。
完
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