歴史雑学9 「海軍兵学校」の真実

「海軍兵学校」の真実 ー大東亜戦争外伝ー                        矢吹直彦

今、ビジネス書の中に、「海軍兵学校の教育」を取り上げたものを時々目にします。海軍兵学校は、陸軍士官学校、旧制第一高等学校と並んで、日本の三大難関校と呼ばれていました。もちろん、時代が戦前ですので、旧制中学校の卒業生が対象です。しかし、中学校4年生修了程度の学力があれば受検は可能だったので、水兵から受検して合格した者もいたそうです。そもそも、旧制中学校に入学する者は、尋常高等小学校卒業生の一割程度だった時代を考えると、この三校に入る学力のある者は、日本のトップエリートと呼ばれていました。兵学校は、その中でも合格は厳しく、学力検査だけでなく、視力や心肺機能などの健康面のチェックが厳しく、入校前の最終健康診断で帰された者もいました。倍率は、募集人員によって差がありますが、概ね30~50倍程度はあったようです。全国の中学校のトップクラスの生徒が受検し、50人に一人しか合格できない学校ですから、世間からは、羨望の眼差しで見られていました。その上、兵学校の制服は、当時としてはかなりお洒落で、夏服は、真っ白な短ジャケットに錨マークの七つ釦があしらわれていました。腰には、士官以上が下げる短剣(装飾品)を帯びています。軍帽にも錨のマークがあしらわれ、そんな姿で街中を歩けば、注目を浴びるのは当然でした。海軍の宣伝にも大いに利用されており、ニュース映画や雑誌などにも写真や記事が掲載され、日本の少年少女の憧れとなっていったようです。教育内容は厳しく、留年や退校などもあって、成績不振者は卒業させて貰えませんでした。その中で厳しく訓練を受けた海軍将校の卵は、三年から四年の課程を終えると、海軍少尉候補生となり、海軍将校の道を歩むことになるのです。しかし、兵学校の制度や教育には、現在にも通じるすばらしい内容もありますが、問題もありました。今回は、そんな海軍兵学校を紐解いていきたいと思います。

1 純粋培養で育った海軍将校

海軍兵学校は、元々は東京の築地に校舎がありました。しかし、当時の上層部は、兵学校をイギリスの兵学校(ダートマス)のように、日本のエリート校として育てたいと考えていたのです。そのために、学校そのものを広島県の江田島町(今の江田島市)に移転することにしました。江田島は、瀬戸内海に浮かぶ小島で、広島からはフェリーで一時間程度で着きます。周囲を海に囲まれていますので、社会の雑音が入りにくく、好奇な眼に晒されることもありません。学校は、江田島湾(江田内)とよばれる入り江に面しており、兵学校では、こちらを正門とし、勝海舟の文字になる「海軍兵学校」の門柱のある陸側は、裏門という扱いになりました。そのため、卒業式などで天皇陛下や宮様がお出でになる際は、お召し艦を江田島湾に着け、海側から学校内に入られたといいます。やはり、海軍ですから、表は「海」でなければならないのでしょう。学校の裏手には、古鷹山という小高い山があり、海と山に隔てられた兵学校は、恰も仏教の修行僧の修練場のような雰囲気を醸し出していました。ここで、三年から四年にかけて同じ寄宿舎(生徒館)で生活し、訓練に明け暮れるわけですから、卒業時には、皆、同じような顔つきの「海軍将校」が出来上がるのです。卒業生も、戦時中は一千名規模でしたが、平時は、学年二百名程度でしたので、全校生徒でも一千名ほどだったようです。外国を見ると、同じ海軍将校であっても、全員が兵学校卒業生ではありません。もちろん、正規将校は、兵学校と呼ばれる学校を出ていますが、各種大学や、その資格や技術に応じて任官させていますので、日本のように純粋培養で育てられているわけではありません。日本の場合は、予算も少なく、海軍の人員もそれほど多くは必要ないので、戦時中でない限り、少数精鋭主義を採っていました。その代わり、この学校にかける予算は大きく、その質は、世界一だと自負していたようです。江田島の兵学校跡は、今でも海上自衛隊が幹部候補生学校と第一術科学校として使用していますので、当時の伝統は、海上自衛隊が引き継いでいます。特に、生活様式は、昔も今も変わりなく、軍人としての基礎を養うわけですから、規律も、さほど変わらないはずです。ただ、今は、無闇に殴られないということでしょうか。兵学校では、「鉄拳制裁」という名の体罰が横行し、学校当局が禁止令を出しても、最上級生(一号生徒と呼ぶ)が最下級生(三号、若しくは四号生徒と呼ぶ)を殴って鍛えることは、なくならなかったそうです。ここらあたりが、アメリカやイギリスの教育と大きく異なるところでしょう。幕末から明治初年にかけての海軍の養成所では、生徒である青年武士たちが殴り合っていたといいますから、そんな伝統が受け継がれてしまったのかも知れません。とにかく兵学校は殴って鍛えることを伝統としていたのです。卒業生である第六十八期生徒の豊田穣(作家)は、そのあたりの事情を「海兵四号生徒」という小説に書いていますので、興味のある方は、一読されることをお勧めいたします。六十八期生徒は、自分たちのクラスを「土方クラス」とか「獰猛クラス」とか呼んで、殴ることを誇りにしていたと言います。しかし、今、考えれば、あれほど優秀な生徒たちが、なぜそんな体罰に頼らなければ一人前の海軍将校が育たないと考えたのか、少し不思議な気がします。もっと、合理的な思考ができなかったものでしょうか。豊田穣氏は、「ねちねち叱られるよりも、一発殴られて気合いを入れられる方が、すっきりしてよかった」と述べていますが、昔からの蛮カラを気取ったのは、旧制一高も同じですから、トップエリートだからこそ粗野に見せたかったのかも知れません。しかし、それに反発する生徒もおり、豊田の先輩である六十七期生徒は、クラス全員で鉄拳制裁禁止を決め、六十八期からは「お嬢さんクラス」と揶揄されました。しかし、どちらのクラスも戦場では非常に勇敢に戦い多くの戦死者を出しています。

2 高度な生徒の自治組織

海軍兵学校は、日本海軍がその総力を結集して創り上げた学校らしく、非常に高度な自治組織がありました。それが、生徒たちの寄宿舎である「生徒館」運営です。これは、イギリスのパブリックスクールを模したといわれていますが、生活のすべてを軍艦での生活に適合するよう考えられている点は、さすがに海軍だと思います。この運営スタイルは、すべてではないにしろ、今の海上自衛隊にも受け継がれているはずです。そもそも日本海軍の戦闘単位は「分隊」にあります。陸軍だと連隊・大隊・中隊・小隊・分隊となりますが、海軍は、分隊がすべての基本単位になります。したがって、陸軍の中隊長は、陸軍大尉か中尉のポジションですが、海軍の分隊長は、海軍大尉のポジションになります。その部下となる中尉や少尉は「分隊士」と呼ばれ、戦闘編成が行われたとき、小隊長に指名されることがありました。兵学校では、この分隊をひとつのグループとして編成されており、大人は、分隊監事と呼ばれる三十代の大尉が配置されました。しかし、彼らは、監事であり、分隊長ではありません。生徒で作る分隊の分隊長は「伍長」と呼ばれ、伍長の任に就くのは、最上級生の成績優秀者があたりました。分隊の人数は四十人程度で、四学年の時は、一年生から四年生まで、ほぼ同数で編成されていました。四年生は「一号生徒」と呼ばれ、すべての生活の指導を委されていたのです。たとえば、三十個分隊があったとすると、第一分隊の伍長は、四年生の成績一番の生徒が務めます。彼が先任伍長で、軍隊では、指揮権を持つことになります。海軍は、すべて序列(ハンモックナンバー)が決められていて、五百人いれば、一番から五百番までわかる仕組みになっていました。これは、戦闘時に負傷か戦死して指揮権が行使できなくなった場合、即座に、次の序列の者が指揮を継承するシステムに基づいていました。これが、一年ごとに申し送りされて続いていくのです。ですから、その年の一号生徒と四号生徒は、よく似ているといわれます。先ほどの六十八期は、一号生徒の六十五期生徒に猛烈に殴られました。そして、七十一期も六十八期に猛烈に殴られたと言うわけです。しかし、猛烈に殴られたからといって、そのクラスが戦争に強かったかどうかは不明です。どのクラスも前線で戦い、六十八期も生き残った者は少数でした。戦争は、最前線に立つ尉官クラスが一番戦死率が高いといわれています。それぞれが、働き盛りの青年将校であり、最前線の指揮官になっていったのです。

3 兵学校の分隊競技

兵学校では、生活班である各分隊同士の熾烈な競争が繰り広げられました。学業は、個人の能力差がありますので、競技には馴染まないにしても、それ以外の訓練においては、常に分隊同士の競争に晒されるのです。有名なものには、「弥山登山競技」「遠泳競技」「水泳競技」「カッター競技」「柔剣道競技」などがありました。一号生徒は、新入生である四号生徒の競技力を少しでも向上させるために、必死になって訓練に励み、全分隊の一位を目指すのです。たとえば、五十個分隊があった年などは、その優勝旗を獲得することは至難の業であり、それだけに分隊全員の一致団結が勝敗の行方を左右したといわれています。もちろん、生徒の中には、水泳や柔剣道などで全国トップクラスの能力を持つ者もおり、各分隊が平均に分けられているわけではありませんが、その勝利への執念と粘り強さ、分隊全員の団結心など、軍隊にとって必要な精神力と気力を養う上で必要な訓育だったようです。それに、一般の学校においても各学級対抗や部活動の交流戦など、当時から競争は活発であり、生徒にとっても、わかりやすく馴染みのある指導方法でした。海軍にとって、一年は非常に大きな意味を持ちます。海軍の用語から基礎的な技術まで、どんなに優秀な成績で入校したといっても素人です。先輩生徒のように器用にこなすこともできません。それに、分隊で少しでも上位に入賞するためには、上級生が下級生をいじめている暇などないのです。軍隊ですから、怒鳴ったり、殴ったりすることはありましたが、それでも懇切丁寧に指導することが必要でした。それに、下級生徒にしてみても、全国から選ばれた海軍生徒だというプライドがあり、彼らが、ここで挫折することは少なかったようです。ただし、あまり健康面で優れない者は、健康を害し、そのまま退校していく者もいました。それ故に、江田島で鍛えられた四年間は、何ものにも代え難い青春の一頁になっていったのでしょう。少尉に任官した後も同期生の絆は深く、戦後も何かと面倒をみたという話も伝わってきます。ただ同じ釜の飯を食うだけでなく、長い期間一緒に苦労を分かち合った友情というものが兵学校にはあり、それが、戦場では平等に「死」が訪れるのですから、肉親以上の情が湧くというものなのでしょう。

4 エリート教育の問題点

海軍兵学校のエリート性は、難関校というだけでなく、制度的なものも大きく影響していました。日本海軍の根幹を為す将校を育てる教育機関ですから、力が入るのは当然です。そのために、多額の予算を遣って学校を整備していきました。もちろん、入校と同時に軍籍に入りますので、海軍軍人としての身分を有することになります。生徒は、「兵曹長の下、一等兵曹の上」という身分を貰いました。一般兵から兵曹長に昇進するには、最低十年程度はかかります。それを、十八,九の少年がいきなり一等兵曹の上という位をいただくわけですから、有頂天にならないはずはありません。そして、卒業するとすぐに「少尉候補生」となり、兵曹長の上の位を貰います。その候補生も一年の艦隊実習を終えれば、海軍少尉に任官するのです。平時でも、早い者は、二十一歳で少尉になった者もいました。生徒は、街中で下士官兵に出会っても、自分から敬礼することは許されません。髭を生やした中年の一等兵曹が、少年の兵学校生徒に敬礼して道を譲る姿は、なんとも奇妙なものです。こうしたエリート教育は、イギリスのパブリックスクールやダートマスの兵学校を模したといわれていますが、イギリスでは、そもそも、上流階級の子弟が入学する学校で、日本とは、自ずと身分が異なります。日本では、試験に合格すれば身分に関係なく登用されるので、夢のような制度ですが、生徒の中には、急に偉くなったことで、「選民意識」が高くなる者もいたようです。そうなると唯我独尊、鼻持ちならないエリート風を吹かして、部下の話も碌に聞かずに突撃して、さっさと戦死してしまうような指揮官がいたという話も伝わっています。エリートが必ずしも戦争に強いとは限りません。勇猛なのは結構ですが、指揮官は、沈着冷静で勇猛な部下を抑えつつ、最良の選択ができる能力が求められています。大所高所より俯瞰して状況を確認に、自分の持つ戦力を分析しながら命令を発する必要があります。しかし、日本海軍のように、部隊を指揮官と下士官兵に分断してしまうと、意思の疎通が十分に図ることができず、部下の能力の評価もままならず、闇雲に突撃命令を出してしまう危険性があるようです。その顕著な例が、兵学校出身士官と予備学生出身士官との軋轢問題でした。戦争が始まると、大量の初級指揮官が必要となり、大学生や高等専門学生などを対象に「予備学生」制度を拡充して募集し、短期間の訓練で初級指揮官に任命しました。そのため、同じ少尉でも、三年もの間兵学校で鍛えられた正規将校と、半年くらいの促成教育で同じ少尉に任官した予備学生がいたのです。もちろん、序列は兵学校出の少尉が上位でしたが、エリート教育を受けた兵学校出の将校は、何かと予備学生をライバル視し、陰では「スペア」と呼んでばかにしていたといわれています。それでも、実力があればいいのですが、予備学生出の中にもスペシャリストはいます。そうなると、お互いに反目し合い、なかなか打ち解けることは難しかったようです。日本海軍は、名称等にあまり配慮がなく、予科練での「甲乙丙」各種の練習生制度を設けましたが、これも学業成績が同じ「甲乙丙」なので、「丙種」の練習生にとって面白いはずがありません。また、下士官上がりの士官を「特務士官」と呼び、わざわざ「特務」の名と服装にも差別を設けました。「正規」と「予備」「甲乙丙」「特務」など、無用な差別感を持たせて組織を守ろうとするところなど、島国根性がなかなか抜けないのが、日本人なのかも知れません。今でも、「正社員」「契約社員」「派遣社員」「季節工」などと、わざわざ区別して扱うところなどは、七十年以上経過してもあまり変わりがないようです。

5  日本の海軍士官は優秀なのか

戦後、アメリカ軍は日本軍の兵士を分析してこのような結論を導き出したそうです。「確かに日本の下士官兵は勇猛で優秀な兵隊だった。しかし、指揮官は、同じパターンを繰り返し、あまり創造的ではないようだ」と。これは、陸海軍ともに共通するアメリカ軍の分析です。日本兵が「勇猛」であることは、各地の戦場を見れば明らかです。日本兵は、最後の一兵になるまで突撃を繰り返し、玉砕していきました。アメリカ兵が隙を見せれば、どこからでも飛び込んでくる勇敢さは、命を惜しむアメリカ兵にはない思考です。陸戦でいえば、ペリリュー島、アンガウル島の戦いや硫黄島の戦いそして最後の沖縄決戦を見ても明らかです。日本兵は、降伏という手段を選びませんでした。アメリカ兵は、「最後まで戦った結果として、降伏し捕虜になる」ことは、恥ではないのです。それは、戦争のルールだからです。戦争が、政治の一形態だと考えるアメリカ兵は、降伏や捕虜の扱いにもルールがあり、国際法に違反するような扱いは許されないという教育を受けていました。ただし、過酷な戦場では、そのルールを破る兵士はいたでしょう。しかし、ルールを知らない兵士はいなかったのです。ところが、日本兵は、そのルールすら教育されておらず、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓だけが頼りでした。そうなると、実際に捕虜となった兵士たちは困ります。軍事機密を漏らすまいと必死に抵抗する兵士がいる傍ら、どうせ帰れば処刑されると、自ら軍事機密を喋る兵士もいました。それは、兵士も将校も同じだったようです。こうした教育の問題が、大きな戦争になると問題化していくのです。日本軍の戦い方は、どうも江戸時代の「武士道」から抜けきらなかったような気がします。江戸時代は有事ではありません。平和な時代が二百年以上続き、そこで生まれたのが「武士道」です。軍人は、戦場での指揮こそが任務であり、平時の能力は問題ではありません。しかし、日本軍は平時の思想や体制のまま戦争に突入してしまいました。陸海軍ともに学ぶべきは、戦国時代の武将たちの生き方や思考、戦術だったのです。確かに海軍兵学校では、軍艦の操縦の仕方や軍人としての規律などを学びましたが、戦術となるとまるで教官が気に入るような平凡な物が多かったと言われています。有名な陸軍の戦略家である石原莞爾は、天才的な閃きで、陸軍大学校の教官たちの戦術論を論破してみせたそうです。参謀になるような優秀な軍人は、既に答えのある解答をそのまま覚え、それをなぞるような記憶力のいい人間が多かったのでしょう。だから、アメリカ軍は、日本の作戦に対して、「いつも、同じパターンで攻撃をしてくるので、こちらとしても備えができる」という評価をしています。日本の戦いで有名なのが、ペリリュー島の中川中佐や硫黄島の栗林中将が行った「地下要塞」による持久戦でしたが、その他の戦いは、すべて水際で殲滅され、最期は突撃による白兵戦しかありませんでした。中川中佐や栗林中将にしても、当初は、水際作戦を考えていたようですが、アメリカ軍の強大な戦力を前に、常識的な戦術では戦えないことを覚ったのです。しかし、これまでの準備等を考えると、戦術の転換は、指揮官にとっても重い決断になったようです。この「戦術の転換」だけは、現地指揮官の武将としての勘みたいなものでしょう。この勘が働かない指揮官は、前例を踏襲して失敗を繰り返しました。海軍も計画は緻密ですが、基本的に計画にないことはやりたがりません。ハワイでもミッドウェイでもレイテでも、計画どおりに進めようとして失敗しました。しかし、敵のいる戦場で計画通りに進む話などあるはずがないのです。言葉では「勇猛果敢」とか「見敵必殺」などと遣いますが、実際は、評価が下がらないような指揮を執る慎重な指揮官が多かったように思います。これでは、目的が「安全」と「名誉ある死」でしかなく、必死であるはずの国土防衛戦になっていません。海軍の指揮官は、「正々堂々と決戦をする」というような武士道ばかりが罷り通り、追撃戦を行った例はほとんどなかったのです。要するに、日本の軍人は、長期消耗戦の戦い方がわからず、「一撃離脱」が、格好いいと思っていたのでしょう。しかし、戦国時代の武将たちは違います。信長も秀吉も「諜報戦」を得意としており、謀略でも何でも駆使して戦いました。まさに、弱肉強食の時代です。勝った者が支配するのが、戦場の掟なのです。だからこそ、新型兵器である鉄砲を大量に使用して、敵を殲滅する作戦を採りました。当然、落ち武者狩りも徹底され、敵の大将の首を奪ってこその勝利なのです。そこに「見逃してやれ」などという情はありません。戦場の掟とは、かくも厳しいものなのです。もし、日本海軍が敵の軍艦ばかり狙わず、弱い輸送船団を集中的に狙って攻撃を重ねていれば、アメリカ海軍は、その護衛のための軍艦を派遣しなければならず、交通路は遮断され、物資も十分にオーストラリアやソ連、中国に運べなかったはずです。そうなれば、アメリカ太平洋艦隊は、日本との決戦に前向きになり焦りも生じたはずです。そこに隙が生まれるはずなのですが、海軍の指揮官たちは、「輸送船などの小物は、放っておけ」とばかりに、関心を向けませんでした。こうした戦術がないために、優秀な潜水艦部隊を擁しながら、効果的な交通遮断作戦が採れませんでした。それどころか、日本の輸送船団が次々と撃沈され、日本本土に運ばれる物資が海の底に沈んでしまったのです。「敵の弱点を衝く」ことは、戦いの常道だったはずなのですが、「艦隊決戦」だけを夢見ていた海軍は、結局、最後まで艦隊決戦ができないまま、そのほとんどの戦力を使い果たして敗戦を迎えたのです。

6 生き残った兵学校出身者

終戦により、昭和二十年十月をもって、海軍兵学校生徒全員が帰郷を命じられ、生徒の身分も失いました。そして、学校も閉じられることとなったのです。最期の兵学校生徒は、七十八期生だったといわれています。戦後、「兵学校出身者は、エリート将校だから、特攻なんかには出なかったのではないか」などという声もありましたが、とんでもありません。六十五期から七十三期までは出身者の戦死率が非常に高く、多い期は七〇%を超える戦死率となっています。階級は中尉から大尉クラスでしょう。神風特別攻撃隊や回天特別攻撃隊などにも多くの出身者が指揮官として名を連ね、次々と最前線に投入されていきました。各クラスの首席だった人たちも、駆逐艦などに乗り込み、機銃指揮官などの配置で戦死しています。もう、兵学校出身者などと区別している状況ではなかったのです。それでも、終戦を迎えて復員すると、軍は解体され身分も学歴もなくなってしまいました。しかし、その多くは再度大学等に入学し、戦後の復興に貢献していきました。そういうリーダーたちが昭和の終わり頃まで、各企業や役所、政治の世界で活躍していました。自衛隊の幹部になった人たちも多くいました。彼らは、クラスの団結力が高く、終戦後もお互いに連絡を取り合い毎年クラス会を開くなど、組織的に活動しているクラスもありました。平成から令和の時代になると、出身者も高齢となり、クラス会も解散して、兵学校を知る人も少なくなっているようです。それでも、兵学校のあった広島県江田島には、校舎がそのまま残り、海上自衛隊がその伝統とともに使用しているのは、歴史の保存という意味でも大切なことのように思います。今でも、企業の中には、兵学校で生徒たちが唱えていた「五省」を社訓として、教えている例もあるようです。やはり、人間教育という視点で見ると、採り入れるべき内容も多かったのでしょう。戦後は、戦前の教育をすべて否定してスタートしましたが、それは、飽くまで敗戦による占領を受けていたからで、日本人が、それを否定したわけではありません。アメリカ政府にとって、日本の教育は否定すべき教育だったのかも知れませんが、日本人が日本人を育てるために行ってきた教育が、すべて間違っていたとするならば、自分の先祖すべてを否定しなければなりません。そうなれば、自分が日本人であることも恥ずべき存在になってしまいます。それなら、国家としての日本国は解体し、皇室も何もかも捨て去るべきでしょう。敗戦による連合国軍の「占領」は、飽くまでも政治的な問題であって、日本人一人一人の生き方の問題ではありません。政治の形態は変わっても、先祖のお墓はあります。仏壇に手を合わせる習慣もあります。ただ、政治や教育などの「公」を司る役所や法律が変わり、新しい民主主義を唱えましたが、多くの日本人は、「アメリカの言うがままか?」と冷たい視線を社会に向けていただけのことです。それに、敗戦国とはいえ、自分の生き方まで占領軍や政治によって左右されるのであれば、それは、もう民主主義を名乗る資格はないでしょう。兵学校の卒業生たちにも、様々な生き方がありました。確かに、学校がなくなり身分も肩書きもなくなりました。それでも、教えを受けた事実までが消えてなくなったわけではありません。そして、それは、彼らの戦後を生きる支えとなりました。それに、生き残った彼らには、戦死した多くの同期生や先輩、後輩の分まで精一杯生きなければならなかったのです。

7 海軍兵学校「五省」

一、至誠(しせい)に悖(もと)る勿(な)かりしか

一、言行(げんこう)に恥(は)づる勿(な)かりしか

一、気力(きりょく)に缺(か)くる勿(な)かりしか

一、努力(どりょく)に憾(うら)み勿(な)かりしか

一、不精(ぶしょう)に亘(わた)る勿(な)かりしか

この五つの「省みる」作業を一日の終わりに、兵学校生徒全員が行っていました。おそらくは、その分隊の伍長(一号生徒)が、分隊員全員が黙想する中で、一つ一つを丁寧に唱え、心を落ち着けて静かに自らを反省したものと思われます。

「至誠」は、人としての誠の行為を表します。嘘偽りや誤魔化しのない真心を自分に問うことで、命というものを考えさせたのでしょう。彼らは戦場においても、黙々と命に従い、若い命を散らしていきました。ある者は、軍艦の艦上で敵戦闘機と交戦し、部下を守って死んでいきました。ある者は、潜水艦に乗り敵駆逐艦の爆雷攻撃の中で、必死に抵抗し海底に消えました。ある者は、神風特別攻撃隊の指揮官として、百機もの大編隊を率いて沖縄の海に突っ込みました。中には、フィリピンのジャングルの中を彷徨し、部下とともに最期まで抵抗して自決した者もいます。彼らは、この至誠の教えに忠実に生きたのです。

「言行」に恥じない生き方は、指揮官として部下の信頼を得ました。要領よく立ち回ったり、自分だけ安全地帯に身を置いたりすることを恥とする教育がありました。海軍将校は、必ず率先垂範、死ぬときも真っ先に突撃して範を垂れるよう教えられました。海軍には、「サイレント・ネイビー」という言葉があります。命令に従い従容として死を迎えるというものです。海軍将校は、黙して語らずの精神で生きた人が多かったと聞きます。

「気力」旺盛こそが、海軍将校たる資質でした。軽巡洋艦「名取」の先任将校は、軍艦沈没後に、生き残った兵を集めて短艇隊を編成し、太平洋の荒海を漕ぎ生還しました。まだ、二十代半ばの海軍大尉でした。不断の「努力」こそが、海軍将校の資質を向上させることでした。肩書きや学歴に溺れず、常に学ぶことを厭わず、死ぬその瞬間まで学び続けたのです。それは、軍人としてというより、一人の人間としての生き様だったのかも知れません。

兵学校では、「不精」こそが自分の弱さであり、未熟さだと教わりました。兵学校は、どんな場所でもピカピカに磨き上げられ、埃やちりひとつ落ちていませんでした。清掃、整理、整頓そのものが海軍では必須だったのです。ひとつの気の緩みが故障につながり、仲間を危険に晒すことになるのです。

こうした五つの教えが、教訓としてだけでなく、実際の訓練をとおして叩き込まれました。海軍には、「スマートで目先が利いて几帳面、これぞ船乗り」という言葉があります。「スマート」とは、服装や身だしなみだけのことではなく、「すべての生活においてスマートを心がける」という教えでもあります。清掃や整理整頓もこのスマートな生き方につながります。「目先が利く」とは、「先を読む」ということです。船に乗っていれば、いつ天候が急変するかわかりません。常に、今に安住することなく、次を予測して動くことが大切です。予測さえしておけば、慌てることはありません。彼らは、死さえも予測の範囲だったのです。「几帳面」は、今でこそ「細かい」といわれますが、この細かさが万事を助けます。無理、無駄、無茶を控えれば、自ずと結果はついてきます。細かいことにこそ気を配る配慮こそが、部下を束ねる指揮官として重要なことなのです。この五省が戦後の彼らを支えたのかも知れません。確かに、海軍兵学校には、問題点も多く存在します。しかし、参考になる点もたくさんあるように思います。兵学校では、終戦のその日まで英語教育が行われていました。それは、兵学校長を務めた井上成美校長の方針でもあったのです。「兵学校生徒は、戦争に強いだけでは駄目だ。世界に通じるジェントルマンとしての素養を教育しなければならない」として、周囲の反対の中、英語を必須科目から外さなかったそうです。海軍軍人としての誇りとは、そういったものなのかも知れません。

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