「日本人の衛生観念」にもの申す。 矢吹直彦
新型コロナウィルスが蔓延し、世界中がパニック状態に陥りました。中国から感染が広がり、瞬く間に世界中に拡散され、多くの死者が出ています。グローバル社会といわれるようになってから、世界は恰も一つであるかのような錯覚すら覚えた時代がありましたが、このような危険極まりないウィルスが持ち込まれる事態になると、各国ともに国境を封鎖してでも自国民を守る必要があります。感染することはやむを得ないとしても、如何にして医療崩壊を起こさずに、亡くなる人を減らせるかが勝負の分かれ目のようです。時間が経過するにつれ、日本と世界各国の差が歴然と現れ始め、「なぜ、日本だけが死者が極端に少ないのだ?」という論調で世界が日本を注目し始めています。割合からいえば、日本より少ない国もあるように思いますが、日本の場合は情報を隠すことはありません。誤魔化そうにも、すぐに実態が暴かれSNS等を使って情報が拡散されてしまうからです。したがって、数字的に見れば、日本はいたって正確だろうと推察することができます。外国の機関にしてみれば、「日本は、大した対策を採っていないのに、どうして効果的な対応ができるのだ?」と思うでしょうが、それこそ、そこには、日本の歴史や伝統、日本人の気質等があるからだろうと考えられます。そのことについて、少し、分析してみたいと思います。
1 自然豊かな日本列島
世界の先進国の中で「楽園」のような国土を持つ国はありません。だからこそ、先進国は、十九世紀から二十世紀にかけて競い合うように植民地争奪戦争に走ったのです。それは、自国が豊かではないからです。当時の日本の最大の脅威は、大国ロシア帝国でした。しかし、ロシアは広大な国土の割に自然に恵まれていたわけではありません。温暖な地域は少なく、その多くは極寒の地です。そのため、ロシアが南下政策を採っていたことは、あまりにも有名です。ヨーロッパの国々は、自国の面積を小さく、どこの国をとっても大なり小なり似たような文化を持っていました。ただし、産業革命以降、工業化が進んだお陰で強大な軍事力を持ち、資源を求めて植民地争奪に走ったです。こういうとき、宗教は便利でした。聖書にも「侵略せよ」などとは、どこにも書かれていませんが、「教え」という便利な言葉を使い、世界中に大切な教えを広めるため…という大義を見つけ、実質的に国を奪うような卑劣な収奪を行ったのです。ヨーロッパの人々は、そのことを知りながら、豊かになった生活を捨てられず、政府の欺瞞に眼を瞑ったのでしょう。そして、進んだ文明は、さらなる「差別主義」を産み、差別される人々の暮らしに目を向けることがありませんでした。ところが、日本は小さな国土でありながら、ヨーロッパの国々にはない豊かさがありました。気候も温暖で土壌も栄養価に富み、四季折々の季節は多くの作物を収穫することができました。また、急峻な山岳地帯が多かったために、豊富な水資源にも恵まれ、水が涸れるなどということは、考えられませんでした。そのため、稲作が入ってくると、瞬く間に全国土に稲が育てられたのです。また、周囲が日本海、太平洋に囲まれているため、外国から大軍が押し寄せてくることを阻み、日本人だけの暮らしを満喫することができたのです。異民族がいないということは、異なる宗教観もなく、暮らしも同じようなものです。言語は統一され、感覚的に持っている価値観にも大きな違いがありませんでした。そのためか、差別感は小さく、人々は穏やかな交流をとおして暮らしていくことができたのです。ただし、そんな豊かな国土を持つ日本列島でしたが、多くの活火山を持ち、地震、台風、津波などの災害は日常茶飯事でした。そのためか、日本人は独特の死生観を持ち、「天道に順う」ことを自然に受け入れていったのです。十年前の東日本大震災においても、約2万人の人々が犠牲になりましたが、それでも、人々は故郷から逃げ出さず、その土地で生きようとします。そして、だれも「自然(天)」を恨んだりはしません。それも「運命」と受け入れているのです。外国のように、異民族に侵略され略奪され、命を奪われる人災とは違います。天に生かされている以上、災いも「天の教え」と考えるのです。こうした死生観が、今でも日本人の多くに受け継がれ、災害を受けてもそれを受け入れる心の寛さがあるのだと思います。今、起きている新型コロナウィルスという災厄は、本当に不幸なことですが、日本人は、それをまずは「受け入れ」、自分の生活スタイルを見直すことで、災厄から逃れようとしています。そして、心のどこかで自分の先祖や神仏に祈り、その災厄を克服しようとしています。こうした「心の有り様」が、日本人の強さなのかも知れません。
2 清浄こそが、日本人の暮らし
「清浄」という文字を見て、日本人なら多くの想像を巡らすはずです。たとえば「清い心」「浄土」「清潔」「清水」「不浄」「浄(清)める」など、日本人にとって「清浄」の文字こそ、人間として到達したい世界であり、人生観だろうと思います。今でも神社仏閣に参拝する際は、必ず手や口を清めてから境内に入ります。なぜなら、その先に神仏が祀られているからです。日本人は、鳥居や山門の先は、神仏の領域だと心得ています。年末に大掃除をして床の間に神棚をあしらえ、注連縄を飾って歳神様を迎えることは、どこの家でも行っている生活習慣でしょう。たとえ意味がわかっていなくても、子供の頃から見て育った人なら、そうすることが正しいと認識しているはずです。神仏の前では衣服を整え、姿勢を正して柏手を打つ(手を合わせる)作法は、日本人ならだれもが行う形です。こうした習慣が、日本人の生活に潤いをもたらしています。日本人は、トイレや浴室などにお金をかける国民だといわれますが、これも神代の時代から続いてきた生活習慣だと考えられます。古事記などを読んでも、神様が清浄な川に入り、穢れを清める場面が出てきますが、「清くない」ものを「穢れ」と考え、それらは、清らかな水によって流されると考えられてきました。そのためか、日本人は「水」への拘りが強く、スーパーやコンビニでも、「清水」のペットボトルは何種類も販売されており、多くの日本人が愛用しています。また、学校教育の中にも、「清める」行為は採り入れられており、毎日の日課として「清掃」が教育に採り入れられています。これは、分業制の外国にはない習慣で、こうした習慣が大人になっても意識に残り、「掃除をする」行為は、美しいと感じるのだろうと思います。
3 「〇〇様」という意識
今でも、日本人は友人にベタベタすることはありません。夫婦関係や子供との関係においても一定の距離を置き、上手に付き合うことができます。そして、日本人は相手にやたら触ることを好みません。最近では、外国のように「ハグ」と称する抱き合う行為をする若者のが増えてきましたが、握手する習慣もない日本人が、ハグやキスまでいくとは到底考えられません。家庭内でもそんなに家族と接触する機会は少ないはずです。それは、子供でも大人でも、親しい関係でも、そうでなくても同じです。そのほどよい距離感が日本人の円滑な人間関係を作ってきました。そこには、日本人ならではの「他人」に対する考え方があったようです。私も、子供の頃から「よそ様」「人様」そして、手紙には「〇〇様」というように、相手に「様」という敬称をつけて接することが多かったように思います。「よそ様の物なんだから…」とか、「人様に迷惑かけて…」などと叱られた経験があります。相手は、必ず「ああ、いいですよ。子供なんだから…」と受け流してくれたものですが、子供ながらに「人様の物を勝手に触ってはいけないんだな…」と学びました。こうして、自分の物と他人の物を峻別して、他人と付き合うことが、賢い付き合い方であり、常識人として見られる方法でした。最近でも、こうした付き合い方ができずに近所トラブルになったり、犯罪行為に走ったりする事件を見ますが、日本人の根本には、こうした「〇〇様」的な距離感が心地よいのだと思います。こうした生活習慣が、今回のコロナ騒動でも、かなり有効に働いているように思います。それに、日本人は自然環境のせいか、優しく温和です。何も好き好んで争ったりすることはしません。たとえば、今回のコロナ騒動にしても、責任のある立場の人が「こうしましょう…」と促せば、「きっと、そうなんだろう…」とまじめに従います。それは、基本的に「人を信頼する」ことが、生活を円滑にすることだということを知っているからです。もちろん、ときには首を傾げ「え、そうなの?」と考えるときもありますが、よほど大きな間違いでなければ、「取り敢えずそうしてみよう」と考えます。だから、政府は命令や権力を振りかざさなくても国民は、従うのです。それは、日本の歴史の中で、日本人が奴隷扱いをされなかった証でもあります。今、アメリカで黒人差別が表面化していますが、人間を奴隷として酷使し、動物や物のように扱われた恥辱は、絶対に忘れることのできない歴史なのです。幸い、日本ではこうした黒歴史はありませんでした。身分差別はありましたが、それは「立場の違い」と考え、それを脱したければ「学問」で克服できるという方法もあったからです。そんなことよりも、たとえ主従であっても、主が家僕や女中を人として扱い、優しく接すれば、恩を感じても恨みに思うようなことはありませんでした。しかし、どんなに偉い位に就いても、下の者を労れない主人は侮られ、多くの人から恨みを買うことになったのです。こうした傲慢な人間を日本人は嫌います。今の報道を見ていても、政治家のような権力者には、「このような傲慢な振る舞いがある」とスクープし、徹底的に叩くことで、政治家としての資質よりも人間性を評価しようとしています。本来、政治家は政治の善し悪しで評価すべきものと思いますが、日本人は、そんなことより「人間性」こそがすべてなのです。こうした感覚が今の人たちにもしっかり受け継がれており、コロナ騒動にも、国民全体が対応できるのだと思います。
4 「きれい好き」は、褒め言葉
「あ、うんの呼吸」と言われるように、日本人は同じ言語を話し、同じような生活習慣の中で歴史を刻んできました。占領期の七年間を除けば、異国人に国を支配されたこともなく、日本人以外の王朝が建てられたこともありませんでした。そのためか、日本人は外国人に比べて無防備です。挨拶にしても、両手を前に組み、目線を下げてお辞儀をしますが、これは相手を信頼しきらなければできない行為でしょう。こうした無防備な習慣が、人と適度な距離感を保つ原因なのかも知れません。そして、日本の湿度の高い風土は、床を上げ、玄関で履き物を脱ぐ習慣となりました。室内には、防菌効果の高いい草を使った畳を敷き、布団の上げ下ろしも日常的なものです。今でこそ、高性能な掃除機が活躍しますが、朝、掃き掃除、拭き掃除をするのは家庭では当たり前の光景です。そのためか、日本の家電製品は高性能の物が多く、その種類も豊富です。トイレやお風呂もそうですが、冷蔵庫、洗濯機、掃除機、食器洗浄機、乾燥機、除湿機、加湿器、エアコン等、「清める」ことに関する製品は多く、どの家庭でも、少しでも高機能な製品を求めがちです。また、下着や衣類等も多くのメーカーが鎬を削り、より高品質な物を提供しています。品切れ問題で騒がれたマスクでさえ、既に多くのメーカーが高品質の製品を造り販売を始めました。これでは、従来の使い捨てマスクは不用になることでしょう。外国人からすれば、「どうして、そこまで拘るの?」と言われそうですが、そこまで拘るのが日本人なのです。そして、日本人は「あなたは、きれい好きね」という言葉を言われると、とても喜びます。身なりの清潔感、シンプルな化粧、歯や歯並びの美しさ、美しい黒髪、整った爪、高級石鹸の香り等、日本人の「きれい」は、第一に「清潔感」なのです。独特の香りのきつい香水は嫌われますし、派手な衣装も敬遠されがちです。まして、汗や体臭、口臭などはもってのほかです。そのための予防製品も多く販売され、男女問わず使用しています。こうした「きれい好き」を追究する日本人だからこそ「衛生観念」は、人一倍強いのかも知れません。よく、外国の男性が、「日本女性は、美しい」と言いますが、それは、原色の美しさではなく、モノトーンの美しさなのかも知れません。そうした「美」に対する感性も日本人独特なものがあります。このコロナ騒動が、いつまで続くのかはわかりませんが、日本人の「きれい好き」な衛生観念が功を奏し、亡くなる人も少なく終わることを願います。そして、日本の衛生文化が世界に広まっていけばいいと思います。
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