「不寛容な世の中」にもの申す。 矢吹直彦
最近の日本社会は、多くの識者が指摘しているように「寛容さ」がなくなってきているように見えます。もちろん、正義を主張することは間違ってはいませんが、この、少しばかりの「寛容な心」を無くすと社会全体がギスギスとして、居心地の悪さを感じてしまいます。そんな雰囲気は嫌なのですが、一度「不寛容」の渦に巻き込まれると、そこから立ち戻るには非常に難しくなるものです。おそらく、歴史の中でこんな時代が何回か訪れたのではないでしょうか。考えられるのが、幕末期の日本です。尊皇の志士と称するような下級武士や浪人が京の町を跋扈するようになると、常に彼らは、「攘夷、攘夷!」と叫び、それに反する言葉をひと言でも言えば、正義は我にあり…とばかりに、「天誅!」を称して、その人間を殺めても構わないという歪な正義感が広まりました。もちろん、これが幕府を倒すための方便であったことは、今ではわかっていることですが、「攘夷」が「正義」となると、それ以外は一切認めないという不寛容さが、社会を息苦しくさせました。もちろん、その中には、社会不安に対する逃避行動や、社会や自分に対する不平不満の捌け口として利用された一面があります。別に直接幕府に対して意見があるわけではなくても、攘夷を叫んでさえいれば、今の境遇から抜け出せるのではないか…という功利的な面も隠しきれません。現在も、自分の不平不満を身近なターゲットに向かって矢を放つという心理は、それほど、変わらないように思います。その次に思い当たるのが、昭和初期に起きた多くのテロ事件です。経済人や政治家の暗殺、軍人による「5.15事件」や「2.26事件」など、社会不安の捌け口を「暗殺」という方法で、だれかの責任にすることで自己満足に陥ったのです。これも、やはり社会不安からの逃避行動だったのかも知れません。そのとき、財閥系の経済人や政治、軍部の重臣たちが暗殺されましたが、庶民から見れば、まったく縁のない「雲の上の人」たちです。テロリストたちから、「君側の奸」とか、「私利私欲に走った奸物」などと宣伝されれば、一般国民が、そうかな…と思うのも無理はありません。しかし、国際情勢はそんな単純なものではなく、当時の日本としては、皆、必死に戦っていたのです。暗殺された重臣たちも、今から見ても、贅沢をしている様子もなく、質素な暮らしぶりが印象的です。それに、どんな理屈をつけようとも、闇雲に殺されていい人は、だれもいません。それでも、当時の国民は、そんな暗殺者たちの行動にすら拍手を送りました。「自分が不幸なのは、あいつのせいだ…」という論理は、いつの時代でも理屈になっていません。単に生真面目で、職務に忠実であった重臣たちを暗殺して「昭和維新」を興そうとしたのですから、偏った思想を持つことは、本当に怖ろしいことなのです。昭和天皇一人が、怒りを露わにして討伐を命じたと言われていますが、もし、天皇ご自身が行動を起こさなければ、日本は、早々に軍部独裁政治になっていたということなのでしょう。この事件以降、「軍隊(人)は怖ろしい」というイメージが出来上がり、国民と軍人の間に大きな溝ができてしまいました。本来なら、国防の任に当たる軍人は尊敬される存在であるべきもので、恐怖の対象になる存在ではありません。しかし、日本では江戸時代の武士以上に軍人は怖れられ、そのイメージは現代にまで引き継がれています。戦後も、アメリカ占領軍(GHQ)の占領政策が徹底されると、それに逆らうような言論は許されませんでした。そして、GHQの宣伝は巧みでした。報道は厳しく検閲され、連合国軍に不利となるような報道は一切されず、証拠もないような事件すら真実であったかのように伝えられました。戦争犯罪人裁判も杜撰で、碌な調べもなしに有罪として、多くの戦犯容疑の軍人が死刑に処せられています。これらの人々は、何も語らず「敗戦」という責任を背負い処刑されました。しかし、その人々に感謝の気持ちを伝える日本人は少数です。唯一、祀られている靖国神社がありますが、近隣諸国に配慮して天皇や総理大臣の参拝はありません。戦後75年も経とうとしているのに、あまりにも無慈悲に思えます。このように、一度「正義だ」と思い込まされると、それ以外の意見は抹殺され、反論しようものなら、徹底的に叩く「不寛容さ」は、健全だとは思えませんが、それでいいのでしょうか。やはり、人間には、どこか、冷静さと余裕が必要です。小さなことに目くじらを立て、厳しく取り締まり、処罰を繰り返していくと、人間は小さな殻に閉じこもり、犯罪はより巧妙になります。よく、逮捕された人が、「法律に違反していない…」と嘯きますが、何でも「法律論」を持ち出して、責任回避をしようとします。悪いことをしている自覚があればこそ、「法律」を楯にするのです。「よそ様に迷惑をかける行為は、慎まなければならない」と幼い頃、教わりましたが、今では、「法律にさえ触れなければ、何をしてもいい」と教えなければならないのでしょうか。昔から、こうした行為をする者は「卑怯者」と呼ばれ、尊敬を受けることはありませんでした。しかし、最近は、そんな言葉も死語になってしまったのかも知れません。そこで、この「不寛容さ」について、少し考えてみたいと思います。
1 ネット社会の危うさ
ネット社会が到来し、SNS等で芸能人や著名人のブログなどが酷い誹謗中傷記事で炎上するという話が報道されるようになりました。それは、どれも匿名での中傷投稿です。それによって自殺にまで追い込まれたタレントの話などが出ると、人間はここまで心を鬼にすることができるのか…と暗澹たる思いがします。おそらく、そういった投稿を発信する人は、自分なりの正義感を持って悪を正そうとしているのかも知れません。しかし、そんな「ダークナイト」にような行為が合法であるはずがありません。罪を正すのは、司法の場であり、その人間に、他人が指摘しなければわからないような過ちがあるのなら、正義の使者は、自分の姓名を名乗った上で、正々堂々と投稿すればいいのです。そのとき、知り合いでもない他人に向かって罵詈雑言を吐くというのも、人間性が疑われても仕方がないでしょう。いい年をした大人が、聞くに耐えないような恥ずかしい言葉を連ねて、何も感じないとしたら、その人の人生もそんなものだということです。「匿名」という、自分だけを安全地帯に置いて相手を貶める行為は、間違いなく犯罪です。最近では、これらの行為に対して被害届を警察に提出して、捜査の上、裁判で決着をつけようとする著名人も現れ、近いうちに法整備も為されることでしょう。ネットの書き込みなど、警察の捜査網を使えば発信元を確定することなど簡単なことです。犯罪が立証できれば、他の犯罪同様に姓名や年齢、職業等を公開し、社会的な制裁をも受けることになります。これが、何かしらの職業に就いている人なら、その組織から懲戒処分も下されることでしょう。公務員なら、もちろん、懲戒免職処分です。それが、学生なら、退学か停学等の処罰を受け、就職に大きな影響を及ぼすことは間違いありません。「つい、魔が差して…」が、一生を棒に振ることにもなるのです。ネット社会というのは、本当に怖ろしい社会です。一旦、新聞やテレビで姓名が公開されるな否や、たちまち身辺調査がネット上で始まり、その家の位置まで特定され、肖像画像がばらまかれます。そして、それは拡散した時点で、永遠に消されることがないのです。少年時代の一時の過ちであっても、一度ネット上に公開された愚かな行為は、その人間に一生つきまとうわけですから、怖ろしい時代になったものです。確かに、パソコン、スマホ、ネット…、とても便利な道具です。しかし、便利だけに危うさも併せ持っているということなのでしょう。人間は、死んでもスマホが使えるわけではありません。せめて亡くなるときには、周囲の人間に少しは惜しまれて死にたいものです。後ろ指を指されて死んでいくのは、惨めではありませんか。
2 教養と寛容性
社会が不寛容になった要因として、私見で申せば「読書文化の衰退」が原因ではないかと考えています。スマートフォンの普及以降、日本人は本を読まなくなったと言われています。もちろん、一時の現象ならばいいのですが、そのまま読書離れが進めば、日本人の「教養」は、どこかに行ってしまうような気がします。出版業界も不況が続き、活字文化は危機的な状態にあるともいわれています。昔であれば、わからない語句や漢字は、国語辞典等で調べたものですが、今は、スマホをちょっと操作するだけで、調べることができます。こうした手軽さはメリットですが、何でもちょっと操作するだけでわかった気になるというのも…、どうかと思います。国際学力調査で、日本の学生の「読解力」が低いということで大騒ぎになりましたが、テストもマークシート方式では、勉強もクイズみたいなものです。今の学生が、論文を作成するのにスマホを使ってネットにアップされている論文の一部をコピーするような話がありましたが、自分で思考して論理を組み立てる訓練をしなければ、論文は書けません。つまり、自分の思考も「論理の組み立て」が苦手だということなのです。だから、ちょっとした他人の事件に反応し、短いセンテンスで、厳しく非難してしまうような書き込みを投稿してしまうのかも知れません。よく、小中学校の国語の授業などでは、「文章の行間を読む」といった指導が行われていました。文章には直接書かれていなくても、主人公の気持ちを忖度して、自分なりに類推する学習です。場合によっては、原作者自体がそんなことは考えてもいないかも知れませんが、その「行間を読む」訓練をとおして、人の気持ちを推し量る力を身につけたのです。だから、様々な事件に出会ったとき、被害者や加害者の気持ちになって、「こんなことがあったのかも知れないなあ…」などと、考えを巡らし、同情したりしたものです。宗教の言葉に、「罪を憎んで人を憎まず」というものがありますが、行った行為は愚かな行為だったとしても、その行為を反省し、もう一度地道に生きる道を見つけたら、少なからずも応援してやろう…という寛大さは持っていました。それが、「罪も人も憎む」では、過ちを犯した人間は社会から消え去るしかありません。それは、あまりにも過酷な罰でしょう。若者が、よく「関係ない…」という言い方をして、すべてを否定しようとする反抗的な態度を採ることがありますが、この「関係ない」は、周囲の存在を消す行為です。それが、親であろうが友人であろうが、教師であろうが、今の自分に都合の悪い存在は、「関係ない」と言って消し去ってしまうのです。それと同じような思考が、中高年や高齢者にまで広がってしまうとすれば、とても怖ろしいことだと思います。この世の中、人との「関係性」のみで出来上がっています。きっと不寛容な人たちは、どんな相手であっても「関係ない」と切り捨て、自分が同じように切り捨てられたとき、絶望感に苛まれるのかも知れません。読書をするという行為は、人が生きていく上で、とても重要な行為なのです。それに、多くの良書を読み続けることで、心を豊かにして、人の機微のわかる人間に成長するのだと思います。その「読書」が廃れたとき、人間から「教養」を失わせているのかも知れません。私は、テレビドラマの「相棒」という刑事ドラマが好きですが、それは、主人公の杉下右京という人物が、もの凄く教養とプライドの高い人間だからです。犯罪を犯す者の心理を読み解き、物証などはなくても、その人間の本質を見抜いた捜査をしていきます。それは、他のだれもが気づかない視点なのです。ドラマとはいえ、杉下という警察官は、どんなに高位の肩書きを持つ人間より、教養人であり紳士に描かれています。きっと多くの視聴者は、その主人公に憧れ、自分もそうありたい…と願っているのではないでしょうか。そう考えると、「不寛容」な人間は、どんなに高位の肩書きを持っていたとしても、教養人としては勉強不足なのかも知れません。
3 日本人の特性は寛容性
日本が本気で国家戦略を考えているのなら、本来、日本という国と日本人が育んできた「寛容性」を育てる教育をするべきなのです。いくら75年前に戦争に敗れたからと言って、それを未来永劫、贖罪のように受け継いで行く必要はないはずです。いつまでも「謝罪」を続けてきた結果、日本は一部の国から侮られ、いつまでも賠償金を払わされ続けます。既に戦争当事者は亡くなり、戦後生まれが国の大半を占めています。一部の国が、歴史を捏造してまで日本に謝罪と賠償金を求めるなら、そんな国とは付き合わないことです。戦後、日本人は国土の復興のために、他のことを省みず邁進しました。国土は豊かになり、世界の先進国の仲間入りも果たしました。その代わり、日本人としての思想も教育も失い、未だに迷走しています。当時の占領軍(GHQ)は、日本人に謂われのない罪を被せ、二度と(自分たちの)国際社会に刃向かえないように思想改造まで行いました。その結果が、今の日本です。そして、その尖兵となった左翼思想家たちが国の中枢に入り込み、日本人がそのアイデンティティを取り戻さないように厳重に監視しているのです。そんな体制の中で、日本人は個人主義を植え付けられ、公共の精神を失いました。しかし、多くの日本人は愚かではありません。社会制度や政治はそうであっても、日本人個々は、先祖を大切にし、自分のルーツを誇りとして生きてきたのです。そして、それは名もない庶民一人一人が心密かに持ち続けているのです。しかし、それを子孫に伝えようにも、社会が許しません。「みんなのために働け」と言っても、社会は、「自分のために働こう」と言います。「お天道様が見ているよ」と言っても、「ばれなきゃいいじゃないか」と言います。そんな風潮の中で、心ある人たちは、みんな口を噤んでしまったのです。でも、それは、口には出さなくても、庶民一人一人の生き方が、けっして個人主義ではないのです。確かに、パソコンやスマホを自由に操れる一部の人が、現代病というような事件や事故を引き起こしますが、それは、日本人の1%くらいのものでしょう。残りの99%の人々は、思いやりのある優しい人々です。もし、これからの未来に日本という国を残したいのなら、99%の人々の声に耳を傾けるべきなのです。そして、その声を政治や教育の世界に反映させることができれば、間違いなく日本は、世界をリードする「道徳国家」になれるでしょう。外国人は、何も立派な建物や文化遺産が見たくて日本に来るわけではありません。日本人に触れることで、自分を見つめ直したいのです。「世界には、こんなに思いやりがあって、優しい人たちがいるんだ?」という感動を味わいたいのです。確かに、今は1%の人々が国を動かし、世論を創っています。その声が大きいために、日本人全部が不寛容になってしまったのか…と思いがちですが、それは違います。ただし、それに気づかずに放置すれば、いずれ、1%が10%になり、日本人らしさがどんどん失われていくことは間違いありません。日本人の特性は、「思いやり」「優しさ」に溢れた寛容性なのです。
4 不寛容な報道のあり方
今のマスコミの報道スタイルを見ていると、非常に刺激的な言葉を遣い、それでいて、どの放送局も同じような手法を用い、マンネリ化を招いています。コロナ騒動の初期にマスクが品不足になり、トイレットペーパーなどの紙類までもが店頭からなくなる騒ぎが起きたとき、マスコミは、挙って何もない陳列棚を映像で何回も流し、国民に危機感を煽りました。今でも、高齢者は、新聞やテレビの報道を正しいと思い込んでおり、「ない」となれば、即座に買い出しに出かけてしまいます。そして、子供や親戚、近所の分まで買い求め、「買っておいたから、あげるね…」と親切に配るのです。自分だけなら、一袋で済むものを毎日のように買いに出かけ、押し入れは、マスクやトイレットペーパーで山積みになってしまいます。こんなことが冗談抜きで行われているのです。今も、「マスク警察」と称して、マスクをきちんとつけていない人に、高齢者の男性が「マスクしろよ!」と恫喝する事例が多く取り上げられていますが、日常的にそんな光景を見ることはありません。確かに一部には、そんな暇な行動をとる人物もいるのでしょうが、そんな人間は、国民の1%もいないはずです。何でもそうですが、事件や事故が起きると、必ず模倣犯が出てきます。報道されるとそれが恰も市民権を得たかのような錯覚でも起こすのでしょうか。煽り運転の時も、児童虐待も、報道すればするほど全国に拡散しているように思えます。芸能人のブログ等の炎上話も、別に報道されなくても生活に困ることはありません。それに、芸能人の私生活やブログの内容などは、興味を持っている人だけの話題です。芸能人は、その芸を見たいのであって、私生活を赤裸々に紹介して貰いたいとは思っていないと思います。そこが、マスコミの異常性です。酷い報道は、隠しカメラや隠しマイクを使い、望遠レンズで隠し撮りした映像を昼日中から何度も放送し、その芸能人を非難し続ける手法です。本人の許可も取らず、繁みに身を潜めた記者が、有名タレント等のプライバシーを暴いていいのでしょうか。たとえ「公人」扱いといえども、余りにも無慈悲な所業だと思います。子供にしてみれば、自分の親がそんな卑劣な行為で収入を得ていることを知れば、そのショックは大きいことでしょう。それでも、「金」にさえなれば、何でもOKという手法は、恥ずかしい限りです。また、それを口にするアナウンサーやコメンテーターは、どんな気持ちで意見を述べるのでしょうか。それとも、「金のため」なら、何でもOKと割り切っているのでしょうか。よくわかりません。実際、世の中が「不寛容」に傾いていることはわかりますが、それを正常に戻すために、マスコミには、正常な姿を紹介し、そういった不寛容な言動を窘めるような姿勢で臨んで貰いたいと思います。人間には、やはり私と公の区別があります。公私の区別がなく、すべてが「公」なければ生きられないのなら、日本人の多くは生きる権利すら与えられないことになります。それなら、マスコミの皆さんはきっと聖人君子のような暮らしをされているのでしょう。マスコミも会社組織として経営されているのなら、その会社の社会的役割があるはずです。企業の上層部には、高学歴で道徳性の高い幹部の皆さんがいるのでしょうから、会社自体が国民から見放されないよう、よりよい報道をお願いします。
5 結局は「人間」の弱さ
どんなに資産があっても、どんなに高学歴でも、どんなに容姿端麗でも、どんなに立派な肩書きがあろうとも、所詮は「人間」です。現世で生きている間は、そんなものに大きな価値を見出してしまいます。それは生きている限り仕方のないことです。自分の生きている世界が、そういう価値を重んじるのであれば、それに逆らうほど人間は強くはありません。それ以上に、その価値観の世界に埋没し、他の価値すら認めようとしないのも人間の愚かさです。収入が多いこと、学歴が高いこと、容姿が優れていること、肩書きが立派なことは、その価値を大切にする人間にとって、自分のプライドをくすぐり満足感を得られるのでしょう。しかし、それらを取り除いたとき、いったい人間には、何が残るのでしょうか。それは「人間性」です。人はいずれ年を取り、体も弱り、肩書きも容姿も崩れた一介の老人になります。それでも、自分の体がままならないのに、看護師や介護士、または家族に虚勢を張り、「何でも金で買える」と思っている醜い老人がいます。金の前には、だれもがひれ伏すとでも思っているのでしょうか。最近では、資産家でもないのに、地域のコンビニで、店員に威張る年寄りがいるようですが、傍から見ていると、本当に憐れ以外の何者でもありません。結局、80年近く生きてきて、何の教養も身につけずに終わってしまう人たちがいるのだと思うと、とても「老人を敬う」気持ちにはなれません。そういう私も老人の一人ですが、きっと周囲からは疎まれていることでしょう。今の日本では、宗教教育はできませんので、年寄りでも「あの世」がわからない人もいることでしょう。「あの世」のことを勉強しておかないので、死ぬことを極端に恐れ、不老不死を買おうとさえします。そんなことは無理なことを承知の上で、足掻く姿はまるで地獄の「餓鬼」のようです。日本の仏教では、昔から、地獄と極楽を教えました。そして、善人は極楽へ、悪人は地獄へと導かれることをだれもが知っています。だから、その地獄に落ちることのないよう、身を慎み、人様に迷惑をかけぬように生きてきたのです。日本には、神も仏もいます。街中を歩いているだけで、多くの神社や寺院を見かけます。その地域、地域に神は宿り、人の一生を見守り続けるのです。そして、自分が亡くなると、そちらの世界に入り修行の年月が待っています。そのときに、「前世の生き方が問われる」といいますが、もう、そんな教えは、なくなってしまったのでしょうか。いや、そんなことはありません。元気なうちは虚勢を張っていても、一旦病にでもなれば、弱気になり神仏にすがろうとするのも人間です。それでも、現世の見栄にしがみつき、来世を忘れては、死を受け入れることはできません。確かに、日本人は長生きです。でも、所詮、百年とは生きられないのです。限られた人生をどう生きるか…という視点で、未来を生きることができたら、どれほど幸せかわかりません。やはり、子供のうちからしっかり来世の話を聞かせ、身を慎むことを教えなければならないのです。「死」をタブー化し、単に怖れるだけでは人間は生きられないのです。老人になっても見苦しく足掻く姿は、地獄の亡者そのものです。そんな人間に「寛容さ」があるはずはありません。死ぬ直前まで欲望の塊の人間は、あの世でも「欲」という煩悩を捨てきれず、地獄の底で足掻くのでしょう。「不寛容」も「寛容」も、所詮は人間の心の有り様なのです。自分がどんな人間になりたいのか…という根本的な哲学をもう一度見つめ直すときが来ているように思います。
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