歴史雑学10 「予科練」の真実

「予科練」の真実 ー大東亜戦争外伝ー                          矢吹直彦

若い血潮の予科練の七つ釦は桜に錨 今日も飛ぶ飛ぶ霞ヶ浦にゃ でっかい希望の雲が湧く~ これは昭和18年に公開された映画、「決戦の大空へ」の挿入歌となった西条八十作詞、古関裕而作曲の「若鷲の歌」の一番です。当時の野暮ったい学生服に比べて、「海軍飛行予科練習生」の夏の純白の制服は、夏空に映えて格好良かったと思います。まして、釦が「桜に錨」の金釦七つですから、少年たちは目を輝かせて憧れました。この当時の軍の学校には、陸軍士官学校、海軍兵学校などがありましたが、この制服は、兵学校に倣ったものでした。しかし、兵学校は中学校(旧制)卒業程度の学力試験と言われていましたが、その試験をほぼ満点近く取れなければ合格は覚束ないほどの難関校でした。おそらく、日本中から選りすぐられた生徒が集められたと思います。予科練もそれに匹敵するくらいの応募があったと記録にはあります。それに、予科練は、飛行予科練習生ですから、飛行機の操縦をする航空兵を養成する機関です。予科練に入隊することが、戦争に参加するとか、軍人になるとかという以前に、その見た目の格好よさが、少年たちの心を揺さぶったことは間違いありません。その上に、このメロディと歌詞が登場してくれば、宣伝効果は抜群です。この映画が公開されたことによって海軍飛行予科練習生の応募は急激に増えたといわれています。しかし、この2年後には敗戦を迎えるわけですから、この映画を見て志願した少年たちが予科練を巣立つころは、まさに「決戦」の修羅場に放り込まれたわけです。そして、多くの少年兵たちは生還することはありませんでした。なぜなら、練習生を終え、最下級の下士官に任命されたばかりの少年たちを待ち受けていたのは、「特攻」という戦争史上初めての体当たり攻撃だったのです。特攻は、空だけではありません。海においても「回天」「震洋」「伏龍」など、次々と新しい特攻兵器は誕生していきました。そして、その搭乗員の多くは予科練出身者だったのです。「決戦の大空へ」の映画は、今でもネットで公開されていますから見ることができます。確かに、映画ですから、実際の現実とはかなり違うところがありますが、それも仕方がないことでしょう。そこで、海軍の少年航空兵が、どんな役割を担ったのか、少し解説してみたいと思います。

1 少数精鋭主義の搭乗員養成

日本の航空機乗員養成は、昭和に入ってから少しずつ行われるようになりました。やはり、航空機は一機あたりの単価が高く、当時の日本には高価な兵器でした。しかし、アメリカを仮想敵国とする日本海軍にしてみれば、アメリカに遅れをとるわけにはいきません。向こうが戦艦を建造すれば、それを上回る大きさの戦艦が必要だと考え、航空母艦が建造されれば、航空母艦を造るといった競争を際限なく行われていったのです。陸軍にしてみても、大陸は広く、対中国にしても対ソ連にしても大陸での戦いになることは明らかです。そうなれば、陸上航空機は必須でした。当初は、各兵科からの転科で搭乗員を養成していましたが、航空機の発達に伴い、人員の確保も喫緊の課題となったのです。そこで、考えられたのが「飛行予科練習生」制度でした。陸軍では、同じように「少年飛行兵」制度を設けて、陸海軍で競うようにして少年たちを募集し、飛行機搭乗員として養成を始めました。そのころ、航空機の発達は、めまぐるしいスピードで進み、各国は、競争しながら新型機の開発を進めていました。日本も三菱航空機や中島飛行機など、数社が陸海軍の注文を受けて新型機の開発に取り組みました。そして、大東亜戦争前に完成したのが、陸軍の一式戦「隼」であり、海軍の零式艦上戦闘機でした。どちらも空冷の九百馬力程度のエンジンを搭載し、中高度での格闘性能に優れ、時速五百㎞を超える高速機として誕生したのです。それは、欧米の主力戦闘機に肩を並べる傑作機でした。こうした優秀な戦闘機が開発されたことで、他の攻撃機や爆撃機なども次々と生み出され、これまでのような搭乗員養成制度では間に合わなくなっていったのです。予科練も当初は、小学校高等科卒の少年たちが対象でしたが、もっと早く養成出来る方法として、中学校卒業生程度の学力を持つ少年たちを対象にした制度も生まれました。それを「甲種」とよび、従来の予科練を「乙種」と称することになりました。後からできた甲種予科練は、修業期間も短く、昇任も早いことから、乙種と甲種の間には、相当のライバル意識ができたようです。とにかく、飛行兵の養成には、多額の費用がかかります。自転車くらいしか満足に運転できない少年を鍛えて、飛行機のアクロバット飛行ができるように育てるわけですから、大変な労力を必要としました。しかし、いくら予算がかかろうとも、欧米諸国の航空戦力に立ち向かうには、どうしても必要な戦力であったことは確かです。特に海軍は、莫大な予算を遣い、巨大戦艦大和や武蔵を建造していましたので、国家予算の大半が軍事費に遣われるような有様でした。現在、国家予算の2%程度が防衛費ですが、戦争前でも、国の予算の半分ほどが軍事費に遣われていました。戦争末期なると、それが八割を超えたといわれています。当時の日本が如何に軍事大国だったかがわかります。それでも、国民はその出費に耐え、貧しいながらも国に協力しました。こうした国民の血税を遣うわけですから、「人よりも機材の方が大事」といった発想が生まれたのも必然です。日本軍は、特に兵器を大事にした軍隊でしたから、人は殴っても、兵器に傷を付けることは許されません。しかし、外国は逆です。兵器は消耗品であり道具です。故障でもすればすぐに廃棄し、交換するといった発想で扱っていましたので、便利で強力な兵器を求め、改良が進められていったのです。貧乏国の日本は、ひとつの兵器を大事に長く使おうとします。だから、欧米のような進歩が生まれなかったのかも知れません。少数精鋭主義で要請された飛行機の搭乗員は、本来貴重な戦力ですから大事にされたかというと、そんなことはありませんでした。過酷な戦場に投入され、連日、出撃していきました。そうした過酷な戦場で、櫛の歯が欠けるように優秀な搭乗員が戦死していったのです。もし、アメリカ軍のように常にスペアが用意されていれば、日本のベテラン搭乗員も、もっと長く活躍できたはずです。

2 航空兵力の中心になった予科練

航空兵になるには、昭和初期までは他の兵科から転科し、操縦練習生に採用されなければなりませんでした。しかし、この試験は非常に難しく、優秀な兵隊だけが採用される狭き門でした。そのために人数も少なく、大東亜戦争に入ると多くの航空兵が戦死し、補充ができなくなっていたのです。飛行科の指揮官には、海軍兵学校を出た将校が一度艦船勤務を経て、飛行学生になります。後には、海軍飛行科予備学生制度ができますので、大学出の士官候補生(予備学生)が、同じように訓練を受けて飛行科の指揮官になりました。そして、その部下になる飛行兵が予科練出の下士官たちでした。予科練卒でも初期の卒業生は、開戦のころには相当のベテラン搭乗員になっており、飛行時間が一千時間を超える者がたくさんいました。まして、日中戦争で中国軍やアメリカ義勇軍(フライングタイガース)と戦ってきましたので、実践経験も豊富です。だから、昭和16年~17年までの日本海軍は強かったのです。戦闘機も新型の零式艦上戦闘機が配備されると、その戦闘力はアメリカやイギリスの戦闘機を凌駕しました。零戦の性能以上に、搭乗員の戦闘能力が高く、「無敵の零戦」とまで呼ばれるようになりました。しかし、それは飽くまで「少数」だということを忘れてはなりません。つまり、一軍選手は揃っていても、二軍や三軍がいないチームなのです。もちろん、慌てて予科練を拡充して搭乗員養成に拍車をかけましたが、少なくても五百時間以上飛ばなければ身につかない技術がたくさんあります。それには、最低でも二年はかかりました。映画「決戦の大空へ」が、昭和18年9月ですから、この映画を見て志願した予科練生は、本当は戦場に出る能力がないまま、決戦場に投入された悲劇の飛行兵たちだったことがわかります。それでも、すべての戦場において予科練出身者は、必死に戦い抜きました。神風特別攻撃隊の第一号になる敷島隊の五人は、隊長の関行男大尉は飛行学生出身の将校ですが、残りの四人はすべて予科練出身者でした。主体は甲種予科練第十期生だったといわれています。

3  職業軍人としての誇り

予科練生は、確かに子供のような少年兵でしたが、それでも彼らは海軍軍人であり職業軍人でした。なぜなら、子供とはいえ志願して海軍に身を投じた人間だからです。戦争末期になると、海軍にも多くの人たちが召集され、兵隊になっていました。日本の徴兵は、市町村の兵事係が該当者名簿に載っている者を機械的に招集者名簿に載せたといわれるくらい杜撰なものでした。だから、軍需工場で働く優秀な技術者(工員)や大学の教員などを招集し、二等兵として扱ったのです。欧米では、専門性を有する人には、「その専門性を生かして国家に尽くす」よう適正な配置をしていました。例をあげれば、戦闘機や軍艦を製造する工員に中には、溶接や工作に長けている者がいます。十年以上も同じ仕事に従事し、熟練の域に達した者でなければ、精密機械は造れないのですが、その人間を招集してしまえば、後は未熟な工員だけになってしまいます。最後は、勤労動員で集められた一般人や中学生に作業をさせたと言いますから、考え方が根本から間違っています。だれでも造れるような戦闘機なら、最初から難しい工作を必要とするような注文をしなければいいのです。そうした全体を俯瞰して見ることが苦手な日本人は、些末なことに拘る割に大雑把です。予科練の少年たちの中にも、理不尽な懲罰で体を壊し、飛行兵を断念した者がいたそうです。海軍の下士官の中には、生来持っていた凶暴性を発揮し、無抵抗な下級者を、死ぬ寸前まで樫の棒でなぐり続けるような異常者もいたそうです。「鍛える」という軍人特有の理屈で暴力を好きなだけふるえる組織は、やはり異常社会です。そうして殴られて鍛えられた少年たちは、いわゆる「軍人精神」を叩き込まれ、戦場へと出て行きました。彼らが、特攻隊員として黙々と出撃して行けたのも、そうした国家に忠誠を尽くすという軍人精神と、若いながらに「職業軍人」としてのプライドがあったからだと想像することができます。欧米の軍隊では、考えられないような育成方法が日本では採られていました。映画「決戦の大空へ」に出てくる下士官や士官は、みんな思いやりのある、厳しくも優しい人たちばかりでした。そして、そんな軍隊に少年たちは憧れたのです。国民が思う軍隊と現実の軍隊では、大きな隔たりがありますが、映画のような軍隊であっても、立派な軍人を育てることができたと思います。しかし、軍隊そのものに、そんな思考があれば、「特攻」などという戦術とも呼べないような無謀な作戦は最初から採用されなかったはずです。大西瀧治郎が、「統率の外道」と呼んだように、日本海軍は、その「外道」の道を突き進んでいったのです。

4  予科練出身者の戦後

大東亜戦争は、海軍の戦争でした。そして、それは飛行機の戦争でもあったのです。要するに制空権を確保した方が勝つ戦いなのです。日本は、その制空権を奪われたために戦争に敗れました。いくら軍艦を何隻持とうが、飛行機を百機も攻撃に向かわせれば、勝つのは間違いなく飛行機の方です。昭和20年に入ると、日本の各都市はアメリカ軍の空襲に晒されました。B29の大編隊が日本各地を襲い、百万人以上の日本人を殺しました。このまま戦争を続ければ、第二、第三の原爆が投下され、さらに数百万人が犠牲になったはずです。つまり、制空権を失った時点で、勝敗はついてしまったのです。いくら、地上兵力が数万規模で持っていても、数日間の爆撃で間違いなく壊滅してしまいます。その空の戦いの主役は、予科練出身の飛行兵たちでした。彼らは、特攻隊として、または本土防空戦の隊員として数倍の敵に向かっていきました。そして、その多くは大空に散っていきました。8月15日に終戦を知らせる玉音放送が流れると、彼らの戦争も終わりました。と、同時に軍隊も解体され、職業軍人であった彼らは、何も持たされずに社会に戻っていきました。敗戦ほど惨めなことはありません。いくら必死に戦い、多くの犠牲を出そうとも、負ければ、それで終わりです。地位も名誉も職も失い、ただの復員兵が一人、社会に取り残されました。出征したときは、あれほど多くの声に見送られ、地域の名誉として褒め称えられた少年が、還ってきたときは、惨めな敗残兵です。貧しかった実家に帰っても、居場所すらなく、伝手を頼って北海道や各開拓地で鍬を振るった人もいました。国鉄(今のJR)の作業員となり、空襲で破壊された鉄道網を補修する仕事に就く者もいました。炭鉱に身を寄せ、深い地下穴に潜り、真っ黒になって石炭を掘り続けた者もいました。戦争中は、命をかけて敵と戦い、戦後は、生きるために身を粉にして働き続けたのです。ある者は、働く傍ら、亡くなった戦友の遺族を訪ね、自分が生き残ったことを詫び、戦友の最期を語り続けました。ある者は、もう一度夜学に通い、働きながら新しい勉強を始めました。そして、十年、二十年が経過し、やっと平穏な日々を送ることができたのです。戦後七十五年、予科練出身者の多くは、既にこの世を去りました。もう、彼らのことを語る人も少なくなりました。映像で表現しようとしても、時代考証もままなりません。最近、テレビドラマで、予科練習生を取り上げていましたが、役者の人たちの背が高く、骨格も立派です。しかし、実際は、170㎝を超える者などは少なく、映画「決戦の大空へ」を見ても、みんな小柄で、本当に少年そのものです。ドラマでは、着ている軍服も立派ですが、昔の物は、すぐによれて、あまり格好のいい物ではありません。そもそも、生地が違い過ぎるのです。人生九十年の時代になってしまいましたが、戦争を戦った世代の人たちには、本当にお疲れ様でした…、そして、ありがとうございました…とねぎらいの言葉をかけたいと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です