結城保博士の大東亜戦争

「結城保博士の大東亜戦争」
矢吹直彦
序章 文学博士・結城保

私は、私立明誠大学で近代史を研究している結城保、62歳。
後3年で退官を迎えるロートルの学者だ。
大学では、文学部の学生に近代史の講義をしているが、歴史学科の中でも近代史は不人気で、研究する学生がいても、大抵は明治までで終わっている。
まあ、幕末物はそこそこ人気だが、私は、学生が持っているイメージを悉く否定してしまうので、私の授業を受ける者は少ない。それでも、私の小さな研究室にも青木裕子という助手がひとりいて、私の仕事を手伝ってくれている。
彼女は、40歳手前の研究者だが、他校から助教授に…という話があっても、みんな断ってしまうので、私も困っているが、優秀な研究者には違いない。ただし、私も彼女も学会の異端児で、まったく出世の見込みはなかった。
何せ、戦後の歴史学会では、戦前から戦中、戦後の研究はほとんどタブー視されていて、GHQが創り上げた「太平洋戦争史観」を批判しようものなら、学会からも干され、研究者としての道を閉ざされてしまうのだ。
まして、私のような軍人上がりは、徹底的に嫌われ、相手にもされない。しかし、こうして、一応、私立大学とはいえ、研究者として生活が出来ているのは、本学のお陰である。
この明誠大学は、戦後に出来た私立大学のひとつだが、戦前は、私立明誠工業専門学校として優秀な技術者を輩出していた。戦時中は、海軍の技術者養成校のようになっていて、ここから多くの技術下士官が出ている。
そもそも、明誠工業は、福島の炭鉱王坂本明誠氏が、日本の近代化のために私財を使って創った私立の工業学校だった。そのために、最新の工作機械をドイツやアメリカから輸入し、自前で外国人技術者を雇い入れるなど、東北地方の発展に寄与した人物として名高い。
そのお陰で、東北各県の優秀な学生は、ここに入学して最新の工業技術を学んだのだ。
修業年限は、旧制中学校と同じように5年制を採用し、多くの学生は「明誠日新館」と称された寮に住み、勉学と技術の習得に励んだといわれている。
日新館とは、会津藩校「日新館」から、その名を戴いたものだが、学校は、郡山市にほど近い田村郡の三春町に置かれていた。
郡山は、福島県の中心都市で、東北道の重要都市であり、各県から集まってくるには都合がよかったのだろう。三春は田舎町ではあるが、元々進取の気風のある町で、静かな阿武隈高地の山裾に学校は置かれていた。
工作機械が大きな音を立てるので、なるべく辺鄙な場所に創ったのだろう。
創立は、明治20年ころだったから、西南戦争も終わり、日本が近代化の道を進み始めた時である。坂本明誠氏は、自分の名を学校名とし発展していった。
ここの卒業生の工作技術は非常に優れていて、軍艦を建造しようにも、彼らの工作技術がなければ形にもならない…と言われるくらいだった。
海軍関係の仕事に就く者が多く、戦時中も、その地下に自前の工作工場を密かに造っていたというから、明誠氏の国家に尽くそうとする思想は、受け継がれていたと言って間違いない。
軍の技術将校は、有名な帝国大学系の出身者ばかりだったが、実際の工作に従事するのは、軍工廠で育てた工員か、明誠のような専門学校の出身者で成り立っていた。特に、明誠は、老舗の工業専門学校で、その技術力は高く、海兵団に入隊後、すぐに全国にある海軍工廠に配置された。
その上、半年もすると海軍工作兵曹として下士官に任官できたので、入学希望者は多かったのだ。
戦後は、将校と違い下士官の工員は、公職追放の適用外だったために、日本の製造業の中核を担うことになった。
明誠氏の跡を継いだ明倫氏は、敗戦後の日本でいち早くGHQに願い出て、その存続を認めさせた。なぜなら、明誠の技術は、アメリカ駐留軍にとっても欠かせない技術であり、朝鮮戦争が始まると、さらに受注は増えたようであった。
明倫氏も東北人にしては、商売も上手で、英語も堪能だったために、自らGHQの交渉に当たったと聞く。そして、かなりの金を遣い、担当者のアメリカ将校をもてなしたと言われている。
そのためか、財閥解体や農地解放にあっても、坂本明倫氏の財産は減ることなく、不用な土地を国に納めて済ませたらしい。
大学設立に関しては、GHQの占領政策が終わった直後から、地元選出の国会議員を動かし、昭和30年には、文部省から大学設立の承認を得ている。
明倫氏は、当時の鳩山一郎や吉田茂、はたまた、児玉誉士夫らと通じ、陰で政治を動かした男の一人だと言われている。
学校名を「明誠大学」として福島から移転、東京の多摩市に開校した。
ただし、福島の工業専門学校は、そのまま専門学校として残してある。
明誠大学には、工業科の大学院もあるので、工業専門学校から大学に編入し、大学院に進学する者もいる。
冶金、化学、金属加工などの工業系学部は、その技術力において、日本有数の実績を誇り、卒業生の就職率は、100%を誇っていた。
明誠大学には、他にも文学部と商学部があるが、これらは、さほどの実績もなく、明倫理事長の道楽で出来たような学部だった。
理事長は、生粋の国士で、GHQを利用しても、彼らの思想に共鳴することはなかった。逆に、彼らの弱点を知り、「未来の日本は、経済の力で戦勝国になるのだ…」と声高に言うような人だった。
そのために、日本人の魂を受け継ぐ学問を研究する場として、文学部を設立し、和魂洋才を説く商学部を設けたのだ。
私は、復員後、一時、この明誠工業専門学校に採用され、英語と数学、そして歴史の授業を受け持っていた。
私の採用面接時には、明倫氏が出て来ており、私が、自分の経歴を聞かれ、
「海軍兵学校71期の結城保です…。軍艦能代に乗っておりました…」
と告げると、
「おお、君が、71期首席の結城生徒ですか…」
と感動され、わざわざ、私の前に出て来て、
「いやあ、本当にお疲れ様でした…」
と労いの言葉をかけてくれたのだ。
私のことは、戦時中、ニュース映画や雑誌で見て知っていた…と話してくれた。そのためか、私はすぐに採用となり、図らずも職を得ることが出来たのだった。そういう意味で、本学や坂本明倫氏は、私の大恩人なのだ。
私が、明誠大学で教員になれたのも、職員の身分のまま、東京の大学の夜間部に進ませてくれたお陰だった。正規のルートではないが、当時は、人材不足もあり、こうした形で大学の教員になった者も多かったのだ。
ただ、明誠大学にとって文学部は、主流とはなれず、学生の数も教員も少なく、就職実績も弱かった。お陰で、私のいる文学部の歴史学科は、せいぜい教員免許を出せる程度の学部であり、卒業生の多くは、学校の教員になるか、小さな出版社に入るくらいしかなかった。
助手の裕子は、私とのしがらみがあるために自分の才能を殺してまで、私の側にいてくれるのだ。彼女は、「それで、私は満足です…」というばかりで、親の心子知らずという状態だった。
それでも、私は、しがない研究者だったが、戦争関係の出版物を出す出版社とも親しく、何本かコラムを持たせて貰っている。それに、戦争映画やテレビドラマが製作される時などは、時代考証を頼まれることも多い。こういうときは「元海軍中尉」の肩書きがものを言うようだった。
そんなわけで、どうにかこうにか、薄給の身でも何とか生活して行くことはできた。そして、私の生活の多くは、助手の裕子のお陰で成り立っていたのだ。
その私が病に倒れたのは、間もなく63歳を迎えようとする3月初旬の寒い朝のことだった。暦の上ではすっかり春だったが、早朝の寒さは、やはり堪えた。それでも、朝8時には大学に出勤し、いくつかの講義をこなす毎日を送っていた。
この日は、1年生の「日本史概論」の講義で、簡単に言えば、専門分野に分かれる前の通史である。学生は、当然、高校でも日本史を選んだ人間なので、当たり前のことを復習するのだが、私の場合は、自分なりの歴史解釈を加えるので、学生たちからは人気があり、ちらほらと2年生や3年生も参加していた。
まあ、一度履修しても聴講という形ならと、出席を認めていたので、もう一度聴きたいという学生は少なからずいるもんだ…。
その、朝一番の講義中に、私は講堂で倒れ、そのまま救急車で多摩日赤病院に運ばれ、入院することになったらしい…。
らしい…というのも、私は倒れた記憶がないのだ。
ちょうど、鎌倉時代の概論を講義しており、いくつかの単語を黒板に書いていたところまでは記憶にあるが、どうも、その後、崩れるように倒れたということだった。
講堂には、60人程度の学生がいたので、少し騒ぎになったようだが、急を聞いた裕子が、うまく対処してくれたお陰で、あまり悪い噂は広まらなかった。
診断は、軽い脳溢血だ…と言うことだったが、精密検査の結果、高血圧や初期の胃癌らしいポリープも見つかったことで、ひと月以上の入院を余儀なくされてしまったのだ。
本当は、手術が終わり次第退院したかったのだが、独身ということもあり、大学の坂本明倫理事長が、病院側に頼み込んでくれたらしい。その上、個室の手配までして貰い、理事長には、退院したら挨拶に行かねばならないことになった。
ここからの話は、その入院生活の中で、出版社からの依頼を受けて、自分の研究の成果を語ったものである。
時間つぶし…というほどいい加減なものではないが、少しでも取材費が入れば、家計も助かる。それに、正直に言うと、私は、体に何かしらの違和感を感じていたことも事実だ。それが何かはわからないが、とにかく、自分の知っていることは、だれかにきちんと伝えておかねば…と思った。それが、戦争を戦い、生き抜いた者の使命のように感じていたのだ。

第一章 入院生活

私が、白いベッドの上で気がついたのは、春の温かい日差しが差し込む数日後の朝のことだった。
「ん…?」
最初は、自分がどこにいるのかも分からず、重い頭を巡らして、キョロキョロと見渡すばかりだったが、眼を覚ますと看護婦やら医師やらが来て、私の体をあちこち触ることからも、自分に異変が起きたであろうことは推察できた。
医師は、
「いやあ、結城さん。助かってよかった…」
そう言って、笑顔を見せるのだった。
側にいた看護婦から、裕子が、ずっと看病していてくれたことを聞かされた。
見渡しても裕子がいないので、「須藤」という名札を付けた看護婦に尋ねると、今日は、どうしても休めない…とのことだったそうだ。
そういえば、私は、この三日ほど意識が戻らなかった…という話も告げられた。
後から聞いた話では、医師が、
「このままってこともありますから、もし、近しい人がいれば、ご連絡をしておいてください…」
そう、裕子に言っていたそうだ。
とにかく、私は、運良く命を取り留めたが、この意識がない中で、私は、夢を見ていたようなのだ。

こんなことは、だれにも言えないが、実は、私は、この間、軍艦「能代」の艦上にいたのだ。  もちろん、私は、昏睡状態だったから、夢には違いないのだが、それでも、夢の中の若い私は、今のくたびれた初老の親父ではなく、生き生きとした青年将校だった。
私が乗る大日本帝国海軍の軽巡洋艦能代は、阿賀野型巡洋艦の二番艦として昭和18年6月に竣工した最新鋭の軍艦だった。
排水量8300トンで、最新型のレーダーや対空戦闘用の高角砲、そして25粍機銃などを装備した期待の軽巡洋艦だった。
私は、駆逐艦野風から能代に異動になり、後部高射砲指揮官に任命された。高射砲指揮官とは、対空戦闘の責任者ということになる。
大東亜戦争が始まると、艦隊決戦は夢のような話になり、実際は、軍艦は空からの攻撃に対して、ほとんど無力であることが証明されてしまった。それでも、各国の海軍は、急いで艦の防空体制の整備に取りかかり、甲板上には、多くの機銃座が設けられた。
この能代も同じように、急いで防空用の装備を施し、航空母艦や戦艦の随伴艦として多くの海戦に参加するのだった。
私は、内地から外地に出られることを喜び、
「これで、本格的に戦闘指揮が執れる!」
と張り切っていた。
まだ、二十歳を過ぎたばかりの何も知らない青年である。
戦争の恐ろしさも戦闘の酷たらしさも知らない男だった。

私が卒業した「海軍兵学校」は、海軍の正規兵科将校を養成する機関であり、当時は、日本のトップエリート校のひとつと呼ばれていた。
私の父は元海軍少将で、やはりこの兵学校を卒業し、訓練中の事故が元で退役した軍人だった。それでも、戦時中は臨時招集を受け、呉の海軍工廠で監督官のような仕事に就いていた。戦後は、私が生きていることも知らずに、終戦間際に病気で亡くなった。それより前に母も東京の大空襲で亡くしており、失意のうちに死んだのだろう。
下に妹が一人いたが、やはり母と一緒に亡くなったらしい…。
私の家は、戦前から東京の両国にあった。
私の卒業した府立三中の近くで、隅田川にも近く、子供のころは、隅田川沿いの桜が咲くのが楽しみだった。
戦争に征った私が生き残り、残った母と妹が亡くなるなんて、皮肉な話だ。妹の咲子は、17歳の女学生だった。
私は、両国の府立三中から志願して、海軍兵学校に入校した。71期だった。父親もそれを望んでいたし、私自身も軍人は当たり前の生き方だった。
そして、広島県の江田島にある本校で三年間鍛えられ、やっと一人前の士官として海上に出て来た私たちは、若いエネルギーを持て余し、何者も怖れるに足らず…の勢いで張り切っていた。
駆逐艦野風で砲術長補佐を仰せつかり、初級士官訓練を終えると、正式に軽巡洋艦能代に配置になったのだ。襟の階級章の桜もひとつ増えて二つになり、「これで、一人前の海軍士官だ」と無邪気に喜んでいたのだ。能代に着任したころの私は、中尉になったばかりで、傍目には、颯爽として見えたことだろう。
そのころの私は、戦局がどうなってるかも知らず、毎日、部下の下士官や兵隊を叱咤し、いい兄貴分になったようなつもりで、訓練に励んでいた。そんな私に士官次室で声をかけてきたのが、裕子の父である青木繁軍医少佐だった。
こちらは中尉、あちらは少佐だから、階級社会の海軍では、軽口を叩くなど以ての外だが、私の顔を見つけると、
「やあ、結城中尉ですね…。私は、軍医長の青木です」
そう言って、眼鏡の奥の眼を三日月のようにして、私に話しかけてきたのだ。
どうして、私に声をかけてきたかと言うと、実は、私は世間にちょっと知られた人間だったかららしい…。
私たち海軍兵学校71期生は、開戦の翌年に卒業を迎えた期だったが、戦争中ということもあり、海軍兵学校は、世間では人気が高く、よく雑誌やニュース映画にも取り上げられることが多かった。
71期の先任だった私は、そういった雑誌やニュースに取り上げられることが多く、特に、卒業式での恩賜の短剣を受け取るシーンは、ニュース映画で何度も放映された。
私自身は見ていないが、そんなわけで、私の名前を知っている人が多かったのだ。
そんなことがきっかけになり、裕子の父である青木軍医少佐とは、乗艦以来親しくなり、一緒に過ごすことが多くなっていった。
私は、軍人臭くない青木少佐の人柄が好きで、医学のことや世間のことなどを耳にしては、新鮮な感動を覚えるのだった。これまで、中学卒業以来、軍人の世界だけを見ていると、少し世間に疎くなり、まして、医学の世界など考えたこともない世界だったので、興味は次々と湧いてくるのだ。
そのうち、家族の話もするようになり、
「もし、君が戦闘で生き残ったら、私の最期を家族に知らせて欲しい。そして、私の家族が困っていたら、助けてやってほしい…」
と、青木少佐から頼まれるような関係になっていた。
どちらかというと、家族持ちの青木少佐からの頼みだったが、私が、
「だって、軍艦ですよ。沈んだら、二人ともお陀仏じゃないですか…?」
そう言うのだが、そのときばかりは、青木少佐が真剣なんで、独身の私は、気楽に、「はい、了解しました…」と軽く答えていた。
私が戦死しても、家族が困ることはないので、
「うちの場合は、報せてくれるだけで結構です。家は、府立三中の側なんで、すぐにわかりますよ…」
そう言っておいた。
そんな何気ない会話が、私の運命を決めることになろうとは、神のみぞ知るである。そして、私の見ていた夢は、あの「レイテ沖海戦」の日を迎えていた。

レイテ沖海戦は、連合艦隊がその総力を挙げてフィリピンに上陸せんとするアメリカ軍上陸部隊を撃滅し、この勝利をもって講和に持ち込む天王山というべき戦いだった。
フィリピンがアメリカ軍に奪われれば、日本のシーレーンに重大な脅威となり、東南アジアからの石油の輸送が遮断される怖れがあった。既に、アメリカの潜水艦部隊は、東シナ海から太平洋にかけて遊弋し、日本の石油タンカーや輸送船を攻撃していたのだ。
もちろん、日本海軍も駆逐艦や駆潜艇を派遣し、輸送船の護衛任務に就いてはいたが、どうしても派遣できる隻数が不足しており、脆弱な輸送船は、大きな被害を受けていたのである。
今度の作戦における連合艦隊の目的は、艦隊決戦には非ず。敵上陸部隊の殲滅にこそ、その主目的があった。
海軍部内でも、
「敵輸送船攻撃に、虎の子の戦艦部隊を使うのか?」
と疑問を呈する幹部も多かったが、軍令部次長の伊藤整一中将は、
「数万人の上陸部隊を殲滅できれば、人命を尊ぶアメリカ国民は、間違いなく動揺する。既に、アメリカ世論は、多くの犠牲を出している太平洋戦線に危惧を抱き、厭戦気分が広がっていると聞いておる」
「連合艦隊の巨砲を以て、マッカーサー大将を再度太平洋に追い落とすことができれば、日本の大勝利なのだ!」
そう力説して、反対論を封じ込めたのだった。
戦艦部隊の艦長たちの中にも不満を口にする者もいたが、連合艦隊司令長官の豊田副武大将は、
「連合艦隊の総力を以て、敵輸送船団を撃滅する!」
と檄を飛ばしたので、もう、反対論は起きなかった。
山本五十六大将の戦死後、軍令部が作戦の主導権を握った初めての決戦だった。伊藤中将は、
「これで、軍令部に作戦指導が戻る。これが、本来の日本海軍の姿だ…」
と、これまでの連合艦隊中心の海軍を立て直すことが出来ることに、喜びを感じていた。しかし、最後の最後に裏切り者が出てくるとは、予想だにしなかったが、この作戦が成功していれば、講和の道が開かれたはずであり、作戦に参加した一人として、残念な戦となってしまった。

連合艦隊は、戦艦大和と武蔵を投入し、航空母艦も真珠湾以来の武勲艦瑞鶴他3隻を投入した。能代は、主力である第二水雷戦隊の旗艦として参加し、大和に随伴する形でレイテ湾突入を目指していたのである。
今回の作戦が画期的だったのは、瑞鶴を初めとした機動部隊を「囮」として使おうとしたことだった。これは、小沢治三郎中将が発案し実行に移した作戦だったが、近い将来の連合艦隊司令長官と目されていた小沢中将自らが、「機動部隊を囮として使い、ハルゼー大将率いるアメリカ機動部隊を北方に誘い出し、その隙に、戦艦部隊にはレイテ湾に是が非でも突入して貰いたい」
との意見具申を行い、実現したのだった。
軍令部の伊藤中将、連合艦隊の豊田大将、そして機動部隊の小沢中将の意見が揃ったことで、この大作戦が生まれたのだった。
ただ、戦艦の主力部隊を率いる栗田健男中将のみが、不服そうだったことが気がかりだったが、それがこの決戦の行方を左右することになるとは、そのときはだれも考えもしなかった。
この作戦は、四方向からフィリピンのレイテ島を目指す作戦で、北方からは、志摩清英中将率いる志摩艦隊と小沢機動部隊が進み、東から西村祥治中将率いる西村艦隊と主力の栗田艦隊が突入することになっていた。
残念ながら、航空機の掩護はなく、志摩艦隊、西村艦隊、そして栗田艦隊も裸の艦隊だったところに、その悲惨さがあった。
今時、航空機の掩護もなく、艦隊だけで決戦に挑むなど、狂気の沙汰ではない。そんなことは、だれもが承知していたが、それでも、やるしかないのだ。
当時の基地航空隊は、アメリカ軍の空襲によって、その多くは飛べる状態になかった。
神風特別攻撃隊が編成されたのも、基地航空隊が弱体化しており、それしか方法がなかったからだ。
航空部隊の掩護のない艦隊は、連日、敵機動部隊の空襲を受け続け、脱落する艦船が相次いだ。それでも、西村艦隊はレイテ島に接近したが、駆逐艦一隻を残して全艦が沈められてしまった。
志摩艦隊も突入直前まで迫ったが、激しい空襲を受けて撤退。残すは戦艦大和を有する栗田艦隊だけとなった。
私たちは、シブヤン海に入ると、敵の空襲を度々受け、戦艦武蔵を失っていた。軍艦能代は、戦艦大和に付いてレイテ湾を目指していたのである。
私たちは、それまで何度かの空襲を受けて、艦も兵隊も満身創痍の状態だったが、それでも、私は、本格的な海戦に参加するのは初めてであり、上空を睨みながら、部下たちを励ましていた。
いや、励ました…と言うのは嘘になる。
私は、多くのベテランの部下たちに励まされていたのだ。
「高射長、そう緊張せんでもいいですよ…。敵はまだ来ませんから…」
まあ、とにかく、指揮官が、指揮棒をぶら下げながらウロウロされたんでは、部下たちも嫌になってしまうものだ。
とにかく、私は口が渇き、しきりに水筒の水を飲んでばかりいた。
夜もあまり眠ることが出来ず、眼は相当に血走っていたのだろう。
下士官たちは、「やれやれ…」という顔をしていたことを覚えている。
熟練の乗組員は、余裕の表情で空を見上げ、少しの合間に配られた握り飯を頬張り、水を飲んだ。
戦闘は、昭和19年10月24日から26日までの三日間、連続で続いた。
敵の空襲は熾烈を極め、私も当初は張り切って指揮をしていたが、あちこちに被害が出ると、その応急処置や負傷者の手当や救助などで艦上は大騒ぎになった。
私も至近弾を受けたが、幸い、大きな傷を負うことはなかった。それでも、戦闘は、簡単に人に死を与える。
私は、後部甲板指揮所で、大声で敵機の方角を示し命令を発するが、そんなものは、敵機の爆音、こちらの対空射撃音、爆弾の爆発音でかき消され、能代も乗組員は、満身創痍の状態になっていた。
夢中で指揮を執り、空襲が一段落したところで周囲を見ると、そこは修羅場だった。さっきまで話をしていたベテラン兵曹が、血だらけで絶命していたり、若い兵隊が、足や腕を引きちぎられ、断末魔の呻き声を上げていた。
私の側には、高射長補佐の佐々木兵曹がいたが、既に床に倒れ、虫の息の状態だった。それでも、私を励まし、「能代を頼みます…」と言って事切れた。
兵隊が死ぬと、「水葬」と称して、すぐに海に流し、何事もなかったかのように血で汚れた甲板を洗い、次の射撃準備に入るのだ。
私の持ち場である後部甲板の20粍機銃の半分以上は壊され、使える機銃も残り少なくなっていたが、それでも、生き残った兵隊は、再度兜の緒を締め、唇を噛みながら弾丸を装填するのだった。
夢は、そんなふうにリアルに戦闘が映像化されたかと思うと、私の子供時代に戻ったり、兵学校時代に戻ったりと、頭の中を交錯していた。
後で聞いた話だが、私は意識が戻らないまま、魘されることが度々あったようだった。それは、きっと、自分ではどうしようもないもどかしさを感じて、頭が混乱していたのだろう。
意識を取り戻す前に、私は青木少佐の夢を見ていた。
戦闘中、青木少佐は、軍医長として医務室の指揮を執り、食堂のテーブルをすべてベッドに替えて、運ばれてくる負傷者の応急処置に追われていた。
何回目かの空襲の合間に、青木少佐は、艦内を回り、私のところにもやって来た。
「やあ、高射長、無事でしたか…?」
「はい、何とか、生きていますが、次は分かりません…」
「そうだな、でも、やることをやるしかない…。じゃ、またな…」
そう言って、青木少佐は忙しそうに周囲の兵隊に声をかけながら持ち場に戻って行った。
翻った白衣が眼に残ったが、その風に舞う白衣の姿が、私の中の青木少佐だった。
「またな…」
そう言って、青木少佐は去って行ったが、次の「また」は、二度と訪れることはなかった。そして、それが、私が見た青木少佐の最後となった。
既に白衣は血で汚れ、顔にはかなりの疲労の跡が見られたが、眼だけは異様に光っていたことを覚えている。
確かに、こんな猛烈な戦闘を経験すれば、だれだって普通ではいられない。私自身も、青木少佐にはそんなふうに映っていたのだろう。
お互いに交わす言葉は、普通の会話なのだが、その言葉の裏には、死を目前に控えた者しかわからない非情さと温かさがあった。
おそらく、お互いの命も後、数時間のものだろう…。それは、能代の乗組員全員の心情だったと思う。
もう、作戦が上手くいっているのか、どうなのか…などと言うことは関係ない。ただ、ひたすら務めを果たし、死んでいくだけなのだ。

私が生き残って、青木少佐が死んだのは、まったくの偶然。神のいたずらでしかなかった。
第三波の空襲を受けたとき、私のいた後部防空指揮所に、まさに直撃弾が襲いかかった。そのときである。
私は、
「後部、直上、急降下!」
と叫ぶ見張員の絶叫を聞いた。
私たち後部指揮所付近にいた十数名の兵隊は、思わず、上空に眼を奪われた。
「あっ…!」
と、だれかが声を上げたが、私たちは、為す術もなくその光景を呆然と見ていたのだ。
不思議なもので、敵の急降下爆撃機から放たれた250㎏爆弾は、ゆっくりとこちらに向かって落ちてくるのがわかった。それは、右回りにクルクルと回転し、まさに、私を狙っていたかのように、落ちてきた。
ああ、いよいよ、来るな…?
私は、「退避命令」を出すことすら忘れて、ただ、その場に立ち尽くして、上空を見上げるしかなかった。
そのときである。だれから、私の体にぶつかってきたような衝撃を受け、私は、絶叫の声を発しながら、甲板上から海に弾き飛ばされていた。
私が、海に落ちるのと同時に、足の方から、大きな爆発音が響いた。
ドゴーン! グワッ! バキバキッ! ドゴーン!
と、連続して聞こえる爆発音は、深く海の中に沈む私にも、強い衝撃を与えた。
海の中は、もの凄い渦が巻いており、私は、自分の体を制御できないまま、その渦の波に翻弄され、大量の海水を飲んで、意識を失っていったのだった。

戦後、私は、この夢を何度となく見ては、魘され、そのたびに大声を上げて飛び起きたか…知れない。
脳溢血で倒れた私は、おそらく、あの夢をまた見ていた…。
その恐怖は、これまでも私を苦しめ、夢とわかってからも、落ち着くまでに10分以上かかるのが常だった。
ただ、一人暮らしの私は、この醜態を人前に晒すことはなかったが、看病に来ていた裕子は、その見苦しい私の姿を見てしまったに違いない。
出来れば、知られたくない私の恥ずかしい姿なのだ。
結局、私は、意識を失ったまま海に漂い、戦場処理に派遣されていたアメリカの潜水艦キング・フィッシュに意識不明のまま救助され、捕虜となった。
能代は、この海戦で沈没し、青木少佐も一緒に海に沈んだものと思われるが、その最期を私は知らないのだ。
ハワイの捕虜収容所に送られた私は、尋問に現れた日系アメリカ人のジョン・坂井中尉から能代の最期を聞かされた。その後は、厳しい取り調べも受けたが、初級士官の私が知ることは少なく、間もなく私への取り調べもなくなり、収容所生活が始まった。アメリカ軍の待遇は、比較的良好で、私たち士官は、強制労働もなかった。ハワイには、ふた月ほどいて、その後は、アメリカ本土のアリゾナ州の捕虜収容所に送られた。そこで、私は兵学校の先輩たちに会うことになった。「捕虜」という言葉が、重くのし掛かってきたのは、顔見知りの先輩たちに会い、いろいろな話をする中で生きることの難しさを考えたからかも知れない。捕虜になった時点で、私は死ぬことより生きることを選んだのだ。それは、今、考えれば、それでよかったと思えるが、当時は、軍人が生き恥を晒していいのか…という疑問が絶えず私を苦しめ続けた。それでも、人間は年月が人を変える。収容所での暮らしの中で、私は自分の役割を考え、無心で働いた。そして、少しずつ自分らしさを取り戻していったのだった。そして、約一年ぶりに、私が日本に帰国したのは、昭和21年の初春のことだった。

大学で倒れ、病院に運び込まれた私は、簡単な脳の手術を行い、三日目に意識を取り戻すことができたが、しばらくは安静を言い渡された。しかし、その後の検査で、胃に小さな悪性腫瘍が発見され、そのための手術も行われ、ひと月以上の入院生活を余儀なくされたのだった。

第二章 大東亜戦争の謎への挑戦

小春日和が続く暖かな日射しを受けて、私は、ベッドでの療養生活に正直飽きていた。脳溢血の後遺症は、あまり感じることはなかったが、それでも、検査をすると、高脂血症だの、高血圧だの、尿酸値が高いだのと言われ、医者からも生活改善を命令されていた。
当然、食事にも制限を加えられ、私の好きな泉亭のヒレカツ定食もままならない。魚ならいいのかと、刺身を頼むと、看護婦の須藤は、
「じゃあ、マグロの赤身をふた切れで手を打ちましょう…」
と、得意顔で言われ、「ふた切れじゃあ、いらない…」と布団を被るしかなかった。
病院食は、薄味で、たまには塩辛やキムチも食べたいが、それは当分無理だということだ。
私が出来ることと言えば、暇な時間を持て余してする病院の敷地内での散歩か読書である。その読書も、時間制限が加えられ、一回、一時間以上は禁止されていた。
幸いなことは、南向きの個室に入れて貰ったことだった。
私のいる病室は、中庭に面した一階の個室で、日がな一日、外を見て春の自然を楽しむことが出来た。
裕子は、朝と晩、必ず私の病室に立ち寄り、何かと面倒を看てくれていたが、私としては、申し訳ない気持ちが先に立った。それを告げると、裕子は、
「何、言ってるの?」
「病人は、何も考えずに養生に専念しなさい!」
とピシャリと言われ、私もその言葉に甘えることにしたのだ。
こうして青木少佐の愛娘が、戦後の長い期間、私の娘のように尽くしてくれるのは、戦死した青木少佐のお陰だ…と感謝した。
そんなとき、彼女が持ってきた仕事が、私の病院生活を豊かなものにしてくれようとは、考えもしなかった。

それは、手術後10日ほど経った夕方だった。
春の夕暮れは、何となく淡いピンク色に染まっているように見える。桜の季節が間近に迫っているから、そんなふうに見えるのかも知れないが、淡いピンク色の夕暮れは、私に昔の恋心を思い出させた。
戦後、碌に恋愛もせず、結婚もしなかった私だが、思い人がいなかったわけではない。その人も、既にこの世の人ではないのだ。
そんな時刻に、裕子が、病室に入ってきた。
ここは、個室病棟のせいか、案外入退室が緩く、身内であれば面会は夜中でない限り自由だった。
この日は、裕子の他に、もう一人、顔見知りの男を連れて来ていた。
それは、月刊「光」編集部の高木編集長だった。
「先生、もう大丈夫ですか?」
「おや、高木さん。こんなところまでわざわざ…、申し訳ないですね」
と、旧知の高木編集長に礼を述べた。
「先生が倒れたと聞いて、こちらも吃驚しましたよ。先生は、うちには大切なコラムニストなんですから…」
そう言うと、お見舞いと花束を裕子に手渡した。
「ああ、高木さん、あまり気を遣わないでください…」
私がそう言うと、
「いやいや、これは、いわゆる賄賂…ですから、気にせず、受け取って下さい」
そう言うので、
「まあ賄賂なら、もう少し原稿料を上げて貰いたいもんだね…」
私も、そんな冗談が言えるまでに回復してきたのがわかった。
手術は、さほど大きな傷にはならず、鈍い痛みはあったが、安静にさえしていれば、それほど気にはならなかった。
薬も服用しているが、血液の循環をよくする薬だそうで、多少苦みはあるが、これも仕方のないことだと諦めていた。
ひとしきり、そんな会話をしていると、高木が、
「実は、先生に、謎解きをしていただきたいんですが…?」
「謎解き…?」
私が不思議そうな顔をして裕子を見ると、裕子とは打ち合わせが済んでいるらしく、仕方ないのよ…といった顔を見せた。
どうやら、この男は、私の症状が軽いと聞かされて、仕事を頼みに来たらしいのだ。
高木編集長が言う、謎解きとは、こんな話だった。

「せっかくの機会ですから、この療養期間中の時間を使って、大東亜戦争の謎解きに挑戦してみませんか?」
「今の人は、何となく当時の政治家や軍人が愚かだから、侵略戦争をしたみたいな勉強しかしていないので、そんな謎なんかに気づく人はいません」
「しかし、先生なら、いくつかの謎の正体を知っているはずです。それを、今度の夏の終戦特集として、本誌で扱いたいんですよ…」
「もし、必要なら、資料集めは、私が行います」
「この企画は、社長の笹井が言い出したものですので、先生、ご協力をお願いします…。原稿料も社長に掛け合いますから、ぜひ…」
「もちろん、入院中ですから、先生が話されたことを私共が記録していきます。お疲れになるといけませんので、取材は、一回一時間程度でどうでしょうか。始める時刻は、先生にお任せしますので、お願いします…」
まったく、人が倒れて入院したというのに、調子がいいもんだ…と考えたが、私としては嫌いなテーマではないので、病院の許可を得られる範囲で…という条件で受けることにした。
それに、自分の記憶を元に話すだけで原稿料を稼げるのも魅力的ではあった。
これまでも、何度か月刊「光」のコラムにそれらしい記事を載せて貰ってはいたが、読者の反応は芳しくなく、どちらかというと、胡散臭く感じているようだった。
このころは、少年雑誌を中心に一大戦争ブームで、マンガだけでなく、テレビアニメにも太平洋戦史が取り上げられ、子供たちには、「零戦」や「戦艦大和」が大人気を博していたのだ。しかし、学校では、戦後、GHQが創った「太平洋戦史」が記載され、それが恰も真実のように語られていた。
私たちのような元軍人は肩身が狭く、「元海軍軍人です…」なんて言おうものなら、露骨に嫌な顔をされる時代だった。だから、真実を語りたくても、その機会はなく、あってもお茶を濁すのが精々だった。
そのくらい私たちは、敗戦の責任を感じていた。逆にそんな謙虚さが、GHQ製の太平洋戦争史観が幅を利かせる原因となった。でも、いつまでも、それを放置しておくことは出来ない。だれかが、真実を暴き、本当のことを日本の人々に知らしめなければならないのだ。それが、今、私が生きている理由だと思った。
捕虜として生き恥を晒し、生き長らえて、こんな研究をしているのも、何かひとつくらい人の役に立ちたいからだ。死ぬのは、その後でいい…。
そんな心境だった。
そして、その取材は、今度の日曜日から始めることになった。
私は、この高木編集長、そして裕子と簡単に打ち合わせをして、日曜の午後の暖かい時間に行うことになった。

第一回目の日曜日の午後1時は、風もなく穏やかだったので、車椅子で表に出て、中庭のテーブルでお茶を飲みながら話すことにした。
東京の多摩市にある日赤多摩病院は、まだ、出来て数年の新しい総合病院だった。
昭和50年代としては、最新式の手術室を完備し、日本最高の技術を誇っているとの評判だったこともあり、私は、その対応に十分満足していた。それに、坂井理事長の取り計らいで、個室で過ごすことが出来たのも私には幸いだった。
私は、周囲の物音に敏感で、ゆっくり眠ることが出来ないのだ。おそらく、それは、戦争体験が影響しているのだと思う。海で捕虜になったときも、アメリカの潜水艦だったし、ハワイの捕虜収容所時代も、最初のころは、よく独房に入れられ、厳しい取り調べを受けた。そんな狭い空間で厳しい生活を強いられたせいか、自分の殻に閉じこもりやすい性格になっていた。
だから、アパートを借りても、一つの小さな部屋に閉じこもっていることが多い。裕子は、そんな私の性格を承知しているので、あまり声をかけたりはしなかった。
明誠大学の坂本理事長も、そんな私に配慮して、個室を指示してくれたのだ。
東京の多摩市は、戦後に開発された街だが、明誠大学を初めとして多くの大学や専門学校が、キャンパスを作り始めていた。その中で、いち早く明誠大学が多摩市の大学誘致事業に賛同したことから、多摩市としても、坂本理事長には感謝しているのだろう。
それに、この病院には、立派な中庭が整備されており、まるで広い緑の公園の中に病棟や本館があるような造りになっていたのも嬉しかった。
だから、その中庭に出て、取材を受けることにしたのだ。
そして、私は、独り言にように、思いついたまま話を進めるスタイルにして貰った。
もし、疑問が出れば、その話の最後に質問に応じる…というフリートークの形式で、肩の凝らない話にしたかった。
高木編集長は、記録用の小さな録音機を持参しており、
「先生、お好きなようにお喋りください…。お茶でもお菓子でも、何でもご用意致します…」
そんなふうに言ってくれたので、こちらも、パジャマにガウンを着たままの姿で話し始めさせて貰った。

高木編集長が、最初に出した謎は、これである。
「大東亜戦争、そのものの目的です」
「あの戦争は、何のためにやった戦争だったのでしょうか?」
「普通に考えれば、大した工業力も資源もない日本が、米英相手に戦争をするなんて無謀すぎます。それを敢えて行わなければならないとすれば、それなりの明確な理由がなければなりません…」
「単に、アジアの解放などという大義名分では、日本という国の命運をも賭けた戦争ができるはずがないんです」
「私は、間違いなく、あの戦争は自衛のために立たざるを得ない戦争だったと思っていますが、その点を教えて下さい…」
高木は、録音機にそれだけ述べると、後は、私に合図を送って、話をするように促すのだった。
私の隣には、裕子が座り、いつでも異常があれば、対応するよう待機してくれていた。
私は、置かれたコーヒーカップにポットから白湯を注ぐと、ゆっくりと飲み、静かな声で中庭の木立に聞いて貰うような気持ちで、話し始めた。

第一節 大東亜戦争の目的の謎

結論から言うと、目的のない戦争…。つまり、戦争を欲する人間の欲望を満たすためだけの戦争…だと私は考えています。そして、日本は、その人間たちの生け贄に差し出された羊みたいなものかも知れません。
そんなことを言うと、あの戦争を戦った仲間たちに申し訳ないが、大義のない戦争を欲したのは、日本じゃない。欧米に巣くう一部の金融資本家や権力者たちなんです。それを知らないと、この戦争が見えて来ないんですよ。
じゃあ、それを前提にして話をしましょう。

戦後、GHQは、日本の占領政策の一環として「WGIP」という方針で臨みました。これは、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」、つまり、「戦争の罪を日本国民に植え付けるための計画」のことです。
当時のGHQには、アメリカの共産主義者やそのシンパが多く潜り込んでいました。
アメリカという国は、自由と平等を謳うお国柄ですから、それに反するような共産主義を容認する国ではありませんでした。だから、アメリカには、共産党はありません。その結党自体が違法なんです。
もちろん、裏社会では、共産党という組織が出来ており、その党員もたくさんいましたが、合法的な組織としては認められないんです。
ところが、実際は、アメリカの社会全体に共産主義は蔓延していました。
そもそも、戦時中のアメリカ政府は、ソ連のスパイの巣窟でしたからね。表だって共産主義は名乗れませんが、心を寄せる人は多かったんです。しかし、そのソ連にも黒幕はいました。国際金融機関を牛耳る資本家たちです。多分、皆さんもそんないくつかの財閥の名前は、聞いたことがあると思いますよ。
日本も日露戦争のときには、そのユダヤ資本の世話になって外債が売れたんですから、資本家だけを非難するのは如何なものかと思います。あの日露戦争でロシア帝国が万が一にでも日本に負けてくれれば、それだけロシア帝国の崩壊が近くなるわけですから、資本家たちは、日本を応援したくなったわけです。まさに、日本を応援する理由がありました。戦争というものは、資本家にとっては、金のなる木であることは、間違いありません。彼らにとって戦争は、一種のゲームなんです。
勝ちそうな方に投資して、戦中、戦後と、さらなる利益を得る…という手段は、商人にとっては常道でしょう。
あのロシア革命だって、成功するには、当然、資金が必要です。
日本の明石元二郎大佐が、密かに革命派に資金援助をしていたのは有名な話ですが、それと同じことが大東亜戦争前にも起きていたんです。なぜって、戦争は破壊が目的ですからね。
建設した物を次々と破壊する。人間も同じです。
大切に育てた命を、理由もなく、利益のために一瞬で奪うんだから、まったく生産性というものがない。だけど、造らなければ戦争に勝てないから、また造る。その繰り返しがビジネスになるんです。
今でも、世界中のどこかで戦争が起きるのは、そうしたビジネスが横行しているからで、人間の欲望という本能なのかも知れません。
あの昭和初期の世界大恐慌だって、金融資本家たちの謀略だって説もあるくらいです。
自分たちでアメリカの株を暴落させ、世界大恐慌に導き、それをきっかけに戦争を起こさせる。そうなれば、軍需産業が盛んになり、武器や兵器はどんどん売れるという寸法です。それによって、世界中の人々が飢えようが、苦しもうが、そんなことは関係ない。儲かりさえすればいい…という論法なんです。
実際、それが戦争の引き金になり、世界の資本家は大儲けしたはずですよ。ただ、ユダヤ人は、ヒットラーによって酷い目に遭いましたが、事前にかなりの資本家たちが、アメリカなどに亡命したと聞いています。
ヒットラーのユダヤ人弾圧も、単なる人種差別ではなく、そうした「ユダヤ商人」のような活動を憎んでいたための行動だと見ることもできます。また、そんなヒットラーに資金提供をしたのもドイツの資本家たちですから、どちらにしても、世の中には、そんな悪魔に魂を売ったような人間だっているんだ…ということを知って欲しいですね。
考えてもみてください…。さっきも言ったように、戦争は果てしない破壊です。造っては壊し、また造っては壊す。それは、人間も同じだって言いましたよね。
一億もいれば、数百万人を殺したって、その国を動かす人間には、大した問題じゃない。人間としての心さえ失ってしまえば、何だってできるんです。それが、悪魔の所業なんだと私は思いますがね…。
もちろん悪魔には、良心というものがない。
道徳観もないし、あの世も存在しない。あるのは、現世の限りない欲望だけですから…。
そう考えてしまえば、戦争も単なる「ビジネス」になってしまうんですよ。
自分たちだけが安全地帯に身を置いて、陰で施政者を操れば、こんなに楽しいゲームはない。ソ連もアメリカも中国も、そんなゲームをするための「人工国家」なのかも知れませんね。
しかし、日本は違う。
天皇を戴き、2700年近い歴史を持つ国なんです。
資本家たちが、乗っ取ろうとしても、そう簡単に国民が許しません。日本の権力者は、何人もいましたが、天皇や皇室にだけは手を出さなかった。そして、そこに手を出した者たちは、悉く非業の死を遂げました。つまり、金の力だけで、日本を支配することはできないんです。だからこそ、彼らには日本という国は、目障りなんだろうと思います。
そして、それは、戦後の今も変わらないんですよ…。
今でも、アメリカ占領軍のGHQが撒いた種はあちこちで育ち、内部から日本という国を腐らせようとしているんです。そういうずる賢さも、帝国主義時代の名残りかも知れませんね。いや、今の時代の方が露骨に出来ない分、陰で謀略の限りを尽くしている…ってことがありますからね。
まあ、同情すれば、そうでもしなければ、生き抜くことが出来なかったと言うことなんだろう…とは思いますが、そう思うと、憐れなもんです。
やはり、道徳心のない人や、ない国は、自分をコントロールできずに内部崩壊するまで、同じことを繰り返してしまうのでしょう。
だから、ルーズベルトもスターリンも、毛沢東も所詮は、闇の連中の傀儡なんだと思います。
彼らには、自分の意思というものがない。
自分の出世や名誉欲、征服欲を満足できれば、何でも言うことを聞く連中なんです。道徳心がないために、「欲」を満たすためなら何でもする中毒患者です。
あの男たちがやったことを考えてみればいい。全部、デタラメだ…。日米戦争後に何が待っていましたか? 中国に共産主義が誕生し、アメリカは、ソ連との長い冷戦を戦う羽目になりました。そのソ連も世界中に共産主義を拡散しましたが、アメリカとの軍拡競争に敗れ、崩壊寸前ではありませんか。中国は中華人民共和国となり、毛沢東の圧政により、文化大革命で何万人もに国民が殺されたといいます。そんなことのために、日本は犠牲になったのですか? 彼らは、自分の国の人々を騙し、その国民を犠牲にして、自分の名誉欲、支配欲を満たしただけのことだったんです。そして、最期は、どれも憐れな末路でした…。
ルーズベルトは、脳を患い、大統領執務室で泡を吹いて悶絶死したし、スターリンは、権力闘争に敗れ、密かに毒殺されたようだし、毛沢東は、文化大革命に失敗し、たくさんの病魔に冒されても権力を握ろうとして鄧小平らに追い落とされました。そして、毛の死後、その一党は悉く監獄に送られました…。原爆投下の命令書にサインしたトルーマンは、晩年、「どうして、自分は、あんなものにサインをしてしまったんだろう…」と、後悔の念に苛まれたといいます。        日米戦争を企んだルーズベルトは、ソ連のシンパで、容共主義者でした。その上、人種差別主義者で、資本家たちにとって一番扱いやすい政治家だったんです。そして、彼らは、揃って、日本や日本人は、大っ嫌いなんですよ…。
日本人は、欧米人にとって理想的な人間に見えると思います。思いやりがあり、優しく、礼儀正しい。その上、質素で清潔です。
子供を可愛がり、老人を敬う。こんなことは、敬虔なキリスト教徒でもなかなかできません。それを、普通の庶民がそうしているんですから…。驚きですよ。
キリスト教と聖書が一番だと思っていた人間にとって、天皇という現人神を戴く日本人は、自分たちが目指すべき理想の人間像なんです。でも、できない。だから、悔しいのかも知れませんね…。
そういう嫉妬心まで理解しないと、あの戦争はわからないと思いますよ。そんな人間たちだから、日本といい関係なんて築けるはずがないんです。

アメリカは、明治時代から中国大陸への進出を狙っていたんですが、日本の幕末期に起きた南北戦争で身動きが取れずにいました。この南北戦争も、おそらくは、資本家たちがアメリカという新興国家を支配するための謀略だろうと言われています…。そして、国内戦争をしている間に、帝国主義に乗り遅れ、アジアでは、日本が急速に近代化を進めて、自分たちが狙っていた中国に進出してしまったというわけです。
心の中じゃ、
「開国させてやった恩を忘れやがって…」とか、
「日露戦争の仲介までしてやったのに、分け前を寄越さないっていうのは、どういう了見だ!」
と、怒り心頭だったはずです。
確か、明治時代に、南満州鉄道を共同経営しよう…なんていう提案を持ってきたことがありましたが、せっかく決まりかけていたのに、外務大臣の小村寿太郎が、「筋が違う!」と言い張って、潰してしまったことがありました。まあ、明治の日本政府も正論ばかり言わずに、アメリカに少し配慮すればよかったんでしょうが、武士という種類の人間は、正論好きで、商人のような腹を探る交渉ができない。そのために、譲るところが譲れない…変なところがあるんです。
ところが、外国の外交官は、今でいうビジネスマンです。交渉術をよく心得ています。金と女と名誉を餌に、どんな技も仕掛けてくるのが外交官やスパイ活動に携わっている人間の常です。向こうとしては、それを楽しみにしているのに、日本の外交官ときたら、誠実なだけで、面白味がない。だから、真面目すぎてつまらないんです。
まあ、「こっちが妥協したんだから、そっちも譲れよ…」と言うのが、交渉の駆け引きの妙ですね。逆に、向こうにこっちの弱みを握られれば、万事休す。絶対に逆らえない。
ところが、日本人ときたら、常に清廉潔白で、金や女をあてがっても、見向きもしない。こういう奴を「いけ好かない奴」と言うんだと思います。
国際社会は、そうした騙し合いが常ですが、日本の外交官には通用しない。
日本人は、普段は温厚で笑顔を絶やさず我慢強い。
多少の無理も聞き、国際社会で上手く付き合おうと必死に努力する。本当に健気だと思います。しかし、融通が利かない。難しい人たちなんですね。
日本語には、「臥薪嘗胆」という言葉があります。元々は中国語ですが、日清戦争後の三国干渉の後に出てきた日本で流行した言葉です。それくらい我慢をしてでも、国際社会での生き残りを図ったのが日本という国なのです。
外国人は、そんな日本人のような我慢はしません。
思うことは口に出し、おかしいことはおかしいと主張します。
討論は、戦いだと割り切っていますから、屁理屈をつけても勝とうとするんです。そして、言葉尻を捉えて論破すると、高らかに勝利宣言をするんですよ。日本人から見たら、偉そうで恥ずかしい。これには、日本人は耐えられないんです。
日本人の美徳は、「謙譲」「惻隠」ですからね。そして、それ以上恥をかかされれば、刀を抜いて決闘を申し込むか、切腹という手段を用いて、恥辱を晴らすことになります。
こんな精神性が、外国人に分かるはずがありません。だから、日本人は扱いにくい…と言われるんです。
要するに、日本流の外交術で世界と渡り合おうとしたところに、無理があったとしか言いようがありません。
日本さえいなければ、本当は、欧米列強だけで支配するはずの中国に、近代化したばかりの日本がのこのこやって来て、好き勝手にやられては面白いはずがない。それも、日本が言うことは一々尤もで反論することも出来ない。だから、ディベートの要領で、嘘でも詭弁でも、何でも理由をつけて反対するんです。要は、「反対のための反対」というやり方です。これでは、どんなに筋道を立てて話をしても意味がありません。彼らがよく使う手です。それに、日本は、白人種じゃないから、余計に腹が立つ…。
日本が、世界の列強の植民地にならないように必死になって近代化を図ったことは間違いじゃありません。そのために、農業立国から無理に工業国へと転換し、強い軍隊を持つことにしたんですから…。ところが、日本は、開国させたアメリカが思っていた以上に強くなりすぎました。
アメリカにしてみれば、ヨーロッパの連中に負けないように、太平洋の隣国である日本を味方につけ、日本の後方支援を取り付けて中国への権益を広げようとしていたのに、日本は、いつの間にか一人歩きを始め、自分たちと対等な付き合いを望むようになってきたことに焦りを覚えたんです。
アメリカも最初のうちは、小さな弟を見るかのように、余裕を持って日本を見ていましたが、日露戦争に日本が勝利して以降は、仮想敵国に指定して「オレンジ計画」を立てました。
これは、日本と戦争になれば、太平洋の島伝いに日本本土に迫り、艦隊決戦によって日本を屈服させようとする戦争計画だったんです。
実際は、艦隊決戦は起こらず、空爆によって日本を焼土とする作戦に変更されましたが、もし、真珠湾攻撃が行われなければ、このオレンジ計画のままに戦いは推移し、サイパン島の沖合で艦隊決戦が起きたことは、ほぼ間違いのないところでしょう。そうなれば、日本にも勝機はあったと思いますよ。
アメリカ政府が、アメリカへの日本移民を排斥し始めたのも、このオレンジ計画を立てた大正末期のころからです。
「黄禍論」っていう言葉を聞いたことがあるかも知れませんが、わざわざ、日本人を「黄色い禍い」って呼ぶのもすごい人種差別ですね。もし、今の時代にこんなことを言えば、一気に日米関係は緊張し、同盟関係に支障を来すと思います。
アメリカ人は、一見陽気に見えるから、日本人も心を許しがちですが、とんでもない。彼らは、開拓精神旺盛で強かな国民なんですよ。
あのインディアンの虐殺を見れば、どれだけ獰猛な人間たちか、わかるというものでしょう。それを「開拓精神(フロンティア・スピリッツ)」と称して、アメリカ建国を誇っているんですから、以て知るべし…というところです。
その上、奴らは体もでかく喧嘩も強い。何かあれば、すぐに「かかって来い!」と、殴り合いの末、最後は拳銃で撃ち合う始末です。だから、アメリカ人は、負けるのが死ぬほど嫌いなんです。
まあ、日本でいえば、ヤクザの親分、いじめっ子、番長…気質、そんな言葉がぴったりな性格なんだと思いますよ。

急速な近代化を成し遂げた日本は、欧米諸国にとってアジア最大の脅威になっていきました。
日本人は、世界に追いつきたい一心で進めてきた近代化ですが、向こうの連中にしてみれば、恐怖でしかない。このまま行けば、どんな力を持つかも知れない。自分たちだって、やられてしまうかも知れない。そんなことになれば、世界は終わる…。そんな異星人を見るかのような恐怖心を彼らは抱いたんです。
そんな感覚は、当事者である日本人にはわからないはずです。
日本人は、そういった相手の機微に疎いところがありますからね。
日本も海洋国ですが、アメリカも海洋国なんです。太平洋を挟めば、直接の敵国は日本になるんです。
そんな日本に対して、人種差別と重なって、アメリカは、日本人を敵視するようになったのは、当然と言えば当然です。
そして、大東亜戦争の直接の原因は、「満州国」だと思いますよ。
本当は、満州はソ連が欲しがっていたんです。朝鮮もそう…。
ところが、日本が朝鮮を併合すると、どんどんインフラが整備され、あの朝鮮半島が近代化されていくじゃないですか。その上、満州国の建国です。満州国を建国したのは、満州事変を計画し実施した戦略の天才、石原莞爾中佐です。石原は、「世界最終戦争論」を著し、「この世界は、最終的に日米戦争で決着をつけるしかない」との思想を持っていました。その意味で、満州国建国は、将来の日米戦争に備えた布石だったのです。そんなことを考えた日本人は、石原以外にはいません。そうであるならば、アメリカがそれに気づかないはずがないのです。日本が、いずれアジアを統一して欧米との決戦を望んでいるとなれば、いずれ、日本と雌雄を決しなければなりません。そんな情報が、欧米諸国に流されていたとしても不思議ではないのです。この時点で、日本は、アメリカの仮想敵国から、現実的な「敵」になったのだと思います。せっかく中国の「清」が崩壊し、国内が大混乱している隙に権益を広げようと企んでいたのに、中国東北部に「国」を造り、自分たちを「敵」と見做す国が出現したわけですから、もう、日本に妥協することは許されません。はっきりと敵国として扱う約束が、欧米諸国の間で出来上がっていったのでしょう。
日本が言う理屈では、「満州国」も承認しなければいけなくなりますが、そんな正論などどうでもいい。自分たちを敵視する国は、早々にでも排除したい。そんな一心で、日本を追い詰めていったのでしょう。石原莞爾は、有能な戦略家でしたが、「情報戦」という意味では、脇が甘すぎると思います。結局、満州国は、出来上がってみると、日本の傀儡国家となり、石原のいう「五族協和主義」は、画に描いた餅になってしまいました。そして、日本軍に「下剋上」の雰囲気を生み出してしまったのです。それに、満州を日本に取られれば、ソ連にとっては大きな脅威となるのは明らかです。何せ、反共国がすぐ隣にいたんでは、中国を共産主義国にすることも出来ません。
西にドイツ、東に満州に日本と、反共国に包囲されてしまいます。そうなれば、身動きが取れない。まさに、ソ連にとっての危機なんです。その上、ソ連の悲願である南下政策が、日本によって阻まれることになります。
実は、ソ連も日本と同じように、いつ日本軍が攻めてくるんじゃないか…と、ピリピリしていたんです。
正直、ソ連は、日露戦争とノモンハン戦を戦いましたが、その日本軍の強さはロシア人に恐怖を植え付けることになりました。
特に、日露戦争時の旅順攻略戦や冬の黒溝台の攻防戦、そして奉天大会戦などで、ロシア兵は散々に打ち負かされたわけですから、日本兵が怖ろしくて仕方ないんです。
日本軍にとっては、必死の戦いだったんですが、ソ連にしてみても、命知らずの日本兵の精強ぶりは、ロシア人一人一人の心に強く刻みつけられたんです。
昭和に入ってからのノモンハン戦では、陸上の戦いは五分五分の戦いになりましたが、それは、ソ連軍が虎の子の戦車部隊を投入したからなんです。
航空戦では、ソ連軍は、完全に日本の陸軍航空隊にやられていたんですよ。
そのころの日本軍の航空機の性能は、欧米の航空機を凌駕し、熟練のパイロットの操縦技術は世界トップクラスの水準に達していました。
ソ連軍は、必死になって戦車部隊を投入して、互角の勝負に持ち込みましたが、もし、長期戦になって、日本の航空部隊が大挙してソ連領を空襲すれば、それこそ、ソ連自慢の機甲化部隊は、ひとたまりもありません。
いくら精強な戦車部隊がいたって、空からの攻撃にはまったく無力です。だから、戦後までその被害状況はひた隠しにして、虚勢を張っていたんです。
大東亜戦争末期の戦いでも、火事場泥棒のように北海道を狙いましたが、千島列島の占守島の戦いで惨敗し、結局は北海道占領を諦めざるを得ませんでした。だから、今でもソ連軍は、日本の自衛隊の力を怖れているはずですよ。
当時の日本は、ソ連との全面戦争に入るつもりはなく、飽くまで「事件」としてノモンハン戦を片付けたい意向でしたから、航空部隊の参加も限定的だったんです。
それでも、時折来る日本の戦闘機や爆撃機は、怖ろしく強い。
ソ連の戦闘機など、日本陸軍の97式戦闘機には、ひとたまりもない有様でした。
ソ連は、航空機による被害を必死に隠して、陸上部隊だけの被害に見せたから、日本が敗れたような格好になっただけで、ソ連は、あの後、かなり作戦部隊の指揮官に責任を取らせたらしいですね。
まあ、日本は情報戦が弱いから、敵の被害状況の詳細は入らなかったんでしょう。それに、入ったとしても、大本営の親ソ派の連中が、握りつぶした可能性があります。
陸軍部内にも親ソ派は多く、ドイツ派とソ連派に別れていたんじゃないかな…。欧米派は、少数ですよ。
硫黄島の戦いで有名な栗林忠道中将は親米派だと言われていますが、騎兵科の出身で、陸軍の主流派ではありません。だから、敵の上陸間近の小笠原兵団長を命じられて、硫黄島で玉砕したんです。
本当は別の人間が命じられたようですが、それを断ったために栗林さんにお鉢が回ってきたという話です。それでも、小笠原兵団長は、父島で指揮を執ればよかったのに、わざわざ硫黄島に行き、直接指揮を執りました。
非常に部下思いで勇敢な軍人でしたね。
それに、あの硫黄島の戦いは、アメリカ海兵隊の歴史に刻まれた戦いで、彼は死んで尚、名を残した名将ですね。

話を元に戻しますが、アメリカ政府は、完全に親ソ派に牛耳られていましたから、たとえノモンハンの真実を掴んでいても、日本に本当のことは教えませんよ。だから、ソ連は必死になって日本が北進しないよう、スパイ活動を盛んに行っていたんです。こういう点は、敵ながら、日本が見習うべきところがありますね。
ところで、みんなが忘れていることですが、この時代、「共産主義」は、だれからも否定されていないということなんです。
日本が共産主義を嫌ったのは、日本は歴史的に、天皇という君主を仰ぐ国体があるからです。
共産主義では、君主制は打倒する対象ですから、日本の体制には相容れないものがありました。それに、ブルジョワ階級、いわゆる資本家たちも打倒の対象ですから、容認できない…ということで、先進国には受け入れられなかったんです。
だけど、君主制や財閥の打倒は、一般民衆には大いに受け入れられました。だから、インテリ層が、その思想にかぶれていったんです。
よく映画なんかで、真面目なインテリ学生が共産主義者の書いた書籍を読んでいて、特高警察に無理矢理連行されるシーンが描かれますが、事情を知れば、やむを得ない部分もあるんです。
でも、大抵の人は、深く考えないので、「いい人が、悪い特高に虐められる」といったイメージを持つんですね。
小説や映画はそれでもいいと思いますが、現実の政治家たちの中にも、そのイメージのまま国を動かそうとするので、困ることになるんです。
戦後は、共産主義独裁政権の実態を目の当たりにして、みんな気がつくんですが、それまでは、理想の国家体制だと思った人は大勢いました。逆に、君主制みたいな体制の方が問題視されていて、共産主義に憧れを抱く人は多かったんです…。
ロシア革命を支援した日本は、帝政ロシアが倒されたときは、
「これで、ロシアの脅威がなくなるのではないか…」
とさえ思ったものです。ところが、共産主義者たちが政権を奪うと、コミンテルンを通して、世界中に共産主義思想が拡散していきました。
日本にも、コミンテルンから、「日本共産党」を作るようにとの指令があり、非合法組織として誕生したんです。アメリカも同様です。
今、共産党が正式な政党として認められているのは、日本くらいでしょう。
日本は、戦後、共産党が正式に政党として認められましたからね…。もちろん、GHQの命令で、そうなったんですけどね…。
でも、命令したアメリカにはないんです。不思議ですよね…。
ソ連が共産主義国として出発してみると、これは帝政ロシア時代より怖ろしい革命政権だということに日本人も気がつきました。
ソ連は、共産党の一党独裁政権を創り、皇帝一家をはじめ、特権階級を滅ぼし、資本主義社会に挑戦状を叩きつけたんです。つまり、日本の体制とは相容れない体制の大国が隣に出来たんです。
日露戦争に勝ちたくて、革命派に資金援助をしていた日本が、革命が成功した途端に、彼らは日本への恩を忘れ、野心を剥き出しにしたんですから、国際社会は怖ろしいものがあります。そして、この共産主義思想は、瞬く間に世界中に拡散し、日本にも津波のように押し寄せてきました。
何回も言うようですが、これに共感したのは、日本の貴族階級や特権階級のインテリ層と軍人たちだったことを忘れないでください。
彼らは、自分たちの置かれた特別な環境に疑問を持つようになったんです。
自分から進んで共産主義者とは名乗りませんが、おそらくそうであろう人には、首相の近衛文麿、内大臣の木戸幸一、内閣書記官長の風見章、朝日新聞記者の尾崎秀実、公爵の西園寺公一、海軍大将の米内光政などがいました。山本五十六も相当に怪しい…。映画スターの中にもいたはずです。
こうした多くのシンパを持ったソ連は、日本国内にその分子をばらまいたんです。そして、その精神的支柱が、思想家の北一輝であり、大川周明というわけなんですね。
北は、2.26事件の首謀者の一人として処刑されましたが、大川は、東京裁判時に精神を病んでいるとかで放免されました。東京裁判の映像が残っていますが、法廷で前に座っていた東條英機の頭をピシャッと後ろから平手で叩く姿が有名になりました。眼鏡をかけて無表情で叩くその姿からは、「こんな人に、影響を受けたのか?」と不思議に思いました。でも、このおかしな行動が幸いして、大川は訴追を免れています。たぶん、あれは狂言でしょう。彼は、他の軍人たちほど誠実ではなかったんです。
北一輝や大川周明の思想を基に、理論武装をした陸軍の磯部浅一や村中孝次ら、一部青年将校たちは、昭和維新を断行しようとして2.26事件を起こし政府の首脳を殺しました。その前に、海軍将校の三上卓たちが、5.15事件を起こして犬養首相を殺しましたがね…。
そんな大事件があったのに、世論は、彼ら青年将校たちに同情を寄せたんです。だから、5.15事件の三上たちは、だれも死刑になっていません。
2.26事件の時は、天皇ご自身が烈火の如く怒り、命令を下したので、彼らを処刑せざるを得なかったんです。これが、当時の世相なんです。

もう少し、2.26事件について話させてください。
テロ事件を起こして、同情されるなんて、まるで明治維新のころのような空気感が日本全体を覆っていたということです。だから、政治家や資本家、地主などの特権階級の人々は、門だけでなく、口まで閉ざしてしまったんです。それ以降、軍部の発言力が高まったことは、当然でした。
いつ、何時、「天誅!」と言って、後ろから撃たれるか分かりませんからね。そうなると、軍に対して強いことは言えなくなります。これが、「軍閥」と言われた時代の始まりです。
本来、日本を危険から守るべき軍人たちが、一部とはいえ、天皇の軍を私して、クーデター未遂事件を起こしました。まして、それが正義であるかのように主張して、国民の支持を受けようとしたのですから、異常としか言いようがありません。そして、それを「異常」だと感じていたのが、天皇お一人だったことが、また、怖ろしいことなんです。
軍部は、事件が起きても及び腰で、その反乱将校たちの気持ちを汲んだような発言をする者が多く、2.26事件では、あまりに陸軍の首脳たちが青年将校を庇うので、昭和天皇は激怒し、「朕が自ら近衛を率いて鎮圧に当たる!」とまで叫んだと言われています。
天皇が、国家元首として自分の判断で行動したのは、このときしかありません。
終戦の御聖断ですら、最後の最後まで自分の意見を述べず、首相の鈴木貫太郎が、「結論が出ません…」と言い、天皇にご裁可を仰いだことから、御聖断を下されたもので、万事やむを得ず…という判断だったことは明らかです。
そう考えると、2.26事件が如何に日本にとって重大な事件だったかが分かります。
そのくらい、日本には、共産主義に心を寄せた人間が多くいたんです。そして、彼らの多くは、ソ連を愛し、自分の祖国はソ連だ…と信じて亡命をする人間まで出ました。しかし、彼らの多くは、ソ連国境を越えると逮捕され、碌な取り調べもなくスパイ容疑で処刑されました。こっちが愛していても、向こうは、こちらを愛してはいなかったんです。
戦後のシベリア抑留問題を見ても、当時のソ連という国がどういう国だったか、わかるでしょう。それなのに、勝手に幻想を抱き、理想郷のように考えてしまった人たちは、気の毒としか言いようがありませんが、でも、余りにも愚かです。それが、ソ連という国の現実だったんですが、一度幻想を抱いてしまうと、そこから逃れる術はないのかも知れません。悲しいことですよ。
同じことが朝鮮半島でもありました。
朝鮮戦争が終わり、朝鮮半島が南北に分断された後、日本で、北朝鮮への帰還が始まりました。それを後押ししたのが、日本の大新聞社です。
そのとき、北朝鮮を「夢のような国」だと宣伝し、北朝鮮を故郷に持つ在日朝鮮人が家族共々帰還船に乗りました。しかし、共産主義の北朝鮮に行ってどうなったんでしょう。
マスコミや共産主義者たちが、勝手に幻の理想郷を創り上げ、人も金も善良な市民から取り上げて、一党独裁の国を造ることが、共産主義革命の本質だとすれば、けっして容認してはならない思想だと私は思います。
ロシア革命は、「民衆革命」だと言われていて、皇帝やその貴族たちが標的なりました。彼らは、単に没落するだけでなく、その命まで奪われることになりました。これは、あのフランス革命に近いものがあります。
それでも民衆は、特権階級の人たちが沈んでいく姿を見て快哉を叫んだんです。それは、時代の流れと共に仕方のない面もありました。
被支配階級の民衆にとっては、同じ人間でありながら、生まれや身分によって差別され、搾取されることに不満を持つのは当然です。だからこそ、革命は支持され、古い体制として革新をが求める声が世界中で湧き上がっていったのも自然の流れでしょう。
共産主義国ではないにしても、「民主主義」を求める声は世界中に広がり、イギリスなどでも、民主化の波は大きくなり、貴族などの特権階級が領地経営が出来なくなり、土地を切り売りして生活をしていくしかなく、やはり没落していく貴族も多かったんです。
日本は、身分差別はあっても、穏やかな封建社会だったためか、身分の低い者から搾取するということがありませんでした。農民には、税を課しましたが、町人は無税ですからね。
年貢も五公五民が通常で、農民も他に現金収入になるような農作物を栽培して儲ける方法はありました。
時代劇なんかでは、武士が威張り散らし、過度に年貢を要求するような場面が描かれますが、それほど武士の権限は強くありません。江戸時代というのは、法治主義ですから、農民一揆や大名家の不祥事は、改易の理由になるんです。だから、あまり酷い政治は出来ないんですよ。それに、武士に頭を下げていても、金を持つ大地主や商人は、けっしてばかではありません。大名家に金を貸して、なかなか返して貰えない…という話がありますが、確かに、金は返して貰えないかも知れませんが、金を貸した大地主や商人は、その何倍もの利益が得られる特権を与えられているんです。これが、商人の交渉術というものです。江戸時代には、独占禁止法はありませんから、大名家から、「〇〇を売る権利」をいただいただけでも、もの凄い利益が上がります。そんな特権をいただけるなら、一万両程度の金は惜しくはないはずです。中途半端な金貸しは大変かも知れませんが、大金持ちは、大名家に恩を売って儲ける…ということを平気で行っていました。だから、武士階級に搾取されていた…なんていうのは、戦後教育の賜でしかありません。何でもそうですが、一面的な見方に偏ると、真実を眼が曇る典型です。
そう考えると、同じ封建主義を採りながら、民主主義の基本である「民の暮らし」にまで眼が行き届いていたのは、日本以外はありません。だって、仁徳天皇は、民の家のかまどの煙を見て、「しばらくは、無税にせよ!」という逸話が残っているじゃないですか…。
だから、幕末の時代でも民衆蜂起というものがないんです。倒幕運動から戊辰戦争までは、あれは、関ヶ原の時代と同じで、武士の天下取りの戦いみたいなものだ…と民衆は思っていましたから、あまり関心がないんです。
会津なんかでも、農民は、
「また、サムライ同士がやっとるが、だれが領主になろうと、俺たち百姓には関わりねえ…。俺たちは、田畑を耕すのが仕事だっぺ…」
と、積極的に戦には参加していないんです。
明治になって国民皆兵になった方が、貴重な若い労働力を奪われて、
「ご一新前の方がよかった…」
なんて声も聞かれたくらいですから…。
その後、世界中で民衆の力や声が高まり、多くの国の王制が滅びました。
こうして、国民国家という概念で新しい体制になった国も多く、このロシア革命の影響は大きかったんです。
もし、日露戦争に日本が敗れていれば、ロシア革命だって成功したかどうか、わかりません。それに、あのロシア革命は、ヨーロッパやアメリカの資本家が、革命派に資金を提供していたから、帝政が倒されるほどの力を得たんです。そうでなければ、民衆の力だけで王制は倒せませんよ。フランス革命も同じです。
資本家たちは、現実主義者ですからね。
王様や貴族を大事にしても商売ができないくらいなら、民衆の味方になって商売が上手く行く方を選ぶ。ただ、それだけのことです。それに、特権階級がなくなり、小中規模の資本家がいなくなれば、世界中の富は、一部の大資本家だけで独占できます。
要は、世界中が自由に物の売り買いが出来、儲けになれば、国の体制なんて何でも構わない…というのが、大資本家たちの正義なんだろうと思います。
そう考えると、アメリカのような多民族国家は、自由度が高く、商売に向いているし、大統領も資本家の都合のいい人間にさせることができます。
共産主義国だって、その独裁政権に金を与えれば、権力を維持し、資本家が経済を独占することだってできる…。
厄介なのは、日本のように神のような国家元首がおり、精神的支柱になっている国です。まして、日本の天皇は煌びやかな宮殿に住んでいるわけでもなく、生活も質素です。その上、建国以来の家柄で、日本の神々の子孫ですから、民衆も強い尊敬の念を抱いています。
さらに天皇家は権威はあっても権力者ではないので、金銭欲がありません。
だから、金の力で転ぶことはないんです。ですから、こういう存在を権力者が潰すことは絶対に出来ません。
日本の歴史には、強い権力者が度々登場してきますが、天皇の地位に手を突っ込んだのは、明治政府だけです。明治政府は、なんと、天皇を京都から連れ出し、東京に住まわせてしまいました。正式な都の移転ではありませんでしたが、「京の都」から「東の京」に勝手に移してしまうなんて発想は、勤皇家にはありません。さすがに、天皇を「玉」呼ばわりした人たちです。畏れを知りません。その上、天皇や貴族が一番嫌った「武官」にしてしまうのですから、もの凄いクーデターを起こしたものです。天皇を軍隊の統率者にして、「大元帥」の位を与え、軍服まで着せたんです。朝廷からしたら、これは屈辱的な行為です。そもそも、武士は、朝廷の貴族からしてみれば、「穢れ」を扱う最下級の者たちです。それと同じ位に天皇を引き摺り下ろしたわけですから、これをクーデターと呼んでもおかしい話ではないでしょう。天皇は、日本の祖神である天照大御神の子孫であり、日本の神々に仕え、国民の安寧と五穀豊穣を願う「現人神」という存在であったにも拘わらず、外国に見る「皇帝」と同じような権力者の象徴にしてしまえば、それは中国のいう「易姓革命」と同じになってしまいます。失礼を承知で申せば、この明治維新により、天皇は、そのあるべき形を変えてしまわれた…ということになったと私は考えています。したがって、これからの皇統の継承が難しくなってくると思います。あのとき、明治維新を成し遂げた薩摩や長州の人間には、「畏れ多い」という日本語が理解できなかったのでしょう。今後も、天皇や皇室が、政治利用されないことを願うばかりです。                               さて、話を戻しますと、日本は、歴史的に道徳が日常生活に息づいている国です。特別に宗教を学ばなくても、普段の生活そのものが神や仏と共にある…暮らしぶりです。それに、日本の宗教は一神教ではなく、八百万の神々を祀る多神教です。
仏も神の化身と考えるようなお国柄ですから、人々の暮らしは神様の暮らしそのものなのです。
日本では、「森羅万象に神が宿る」と言いますが、生活そのものが神様なくして成り立ちません。だから、人々は、八百万の神々の見守られて暮らしているという安心感があり、道徳的なのでしょう。違いますかね…。ところが、欧米のように自由貿易をしたくても、道徳的概念がしっかりした日本は、節度があります。日本語には、「足るを知る」「弁える」という言い方がありますが、何でも満腹になるまで欲しがることを「卑しむ」文化があります。だから、儲けのためには何をしても構わない…という論理は通用しないんです。だから、資本家たちには、日本は、迷惑な存在なのかも知れません。彼らも、自分たちが卑しいことをしているくらいの自覚はあるのでしょう。

ロシア革命後、ロシアは共産主義体制になり、ソビエト連邦を称しましたが、最初のころは、「国民すべて平等」を標榜する政治に、人々は歓喜の声を上げました。まるで、夢のよう…だってね。
ところが、共産党独裁政権の実態が見えてくると、内部抗争に明け暮れ、権力の座に着いた者が、政敵を次々と粛正するに至って、少しずつ本質が見えてきました。
民衆が、共産党がいう平等とは、「貧しさの平等」だったと気づいたときには、既に体制は固まっており、皇帝と貴族の代わりに、「共産党員」という特権階級が生まれただけのことだったのです。それも、歴史も文化も持たない特権階級は、節度もなく、ひたすら権力闘争と富の収奪にだけ血道を上げ、民衆を落胆させることになりました。
あの独ソ戦でのスターリングラードの攻防戦では、市民を疎開させず、ドイツ軍との最前線に立たせ、「人の壁」を作ったという話は有名です。こうして市民すらも戦争の盾にできる発想が、一党独裁というものなんでしょう。
一般民衆は、自由どころか、常に監視の目が光り、スパイ容疑をかけられて闇に葬られた人は、数万人以上に上ると言われていますが、実態は何もわかりません。ところが、昭和初期の日本人は、そんなことになろうとは、夢にも思っていません。「平等」という言葉の魔力に魅入られ、みんな共産主義に幻想を抱いていたんです。
当然、日本にも共産主義の思想は広がっていましたが、天皇を戴く日本が、皇室廃止などできるはずがありません。天皇こそが日本であり、日本の国体なのです。皇室を廃止することは、日本という国を滅ぼすことに他なりません。さすがの明治政府の流れを汲む日本政府も、天皇や皇室を軽んじているとはいえ、そこまで愚かではありませんでした。それで、共産主義思想を取り締まる「治安維持法」が出来たんですが、当時の日本としては当然の法律だったんです。
それでも、共産主義が理想の国家体制だと信じる人は多く、特に学生やインテリ階級、青年将校たちは、法律の眼を掻い潜ってまでも「赤い本」を読み漁りました。それは、今まで知ることもなかった新鮮な考え方であり、最先端の思想を知って傾倒していったのです。貧しければ貧しいほど、苦しければ苦しいほど、夢のような世界を頭の中に描きたくなるのは、当然なのかも知れません。
きっと、明治維新を為しても、夢のような理想国家は創れなかった…という思いが、日本人全体に広がっていたからこそ、共産主義革命が起これば、違う夢のような国が出来る…と信じたかったのかも知れません。
確かに、封建社会といわれた体制では、汗水垂らして働くのは民衆であり、それを支配するのが何もしない王族や貴族、財閥系の人間だとすれば、そんな社会構造は変えたいと思うのが、素直な感情でしょう。
特権階級の若い人たちの中には、そんな地位にいることが許せない…と思う純粋な人たちもいました。それに、召集令状一枚で兵隊にさせられた若者たちの苦労話を聞けば、士官学校や兵学校を出たようなインテリの青年将校は、幕末の志士のように、もう一度「維新」をしなければならない…と考えても、やむを得ないところはあります。
日本人は、ある意味、生真面目で正直過ぎるのかも知れません。
日本で、戦前、陸軍の統制派と皇道派が派閥争いを繰り広げた話は、知っていると思いますが、あれだって、根っこは同じ共産主義思想の形を変えただけのものです。
ただ、国家体制は共産主義と同じ体制に作り直しても、国民の頂点に「天皇」を戴くだけのことなんです。言うなれば、「大日本社会主義帝国」なんていう体制でしょうか。
大日本帝国憲法には、「天皇は、神聖にして侵してはならない」とありますから、原則的に日本という国は、「天皇の国」でもあるんです。それは、覆らない。いや、覆せない…。
世界の国々とは、成り立ちが違いますから、それを否定することは、日本の歴史のすべてを否定することになります。さすがに、革命を考える人たちでも、日本人として、そんなことはできないんです。
最初は、貧しい人々のための共産主義だと思われていたものが、実際は、違います。共産主義は、今の中国でも一党独裁で、富は一部の特権階級の人間に握られ、平等に分配される物は、僅かでしかないのが現実です。だから、政権を握れば、やりたい放題になるんです。そんなことは、当時の政府も軍部も知っていました。
特に軍部は、面倒な議会や予算なんて言わなくていい…。
自分たちの欲しいように予算を遣い、命令を下せるんです。
戦争中に議会を解散して大政翼賛会を作り、「国家総動員法」を作って国民を命令で動員することが出来るようにしました。そして、自由経済を停止させ、すべてを国の管理下に置いて統制しました。
生活物資も自由には買えないように統制し、配給制度の下にしか手に入らなくしたのです。まさしく、あれが共産主義体制です。だから、日本人は、既に共産主義体制の生活を体験しているんです。
あれが、戦時下だけでなく、平和な時代でも行われることになれば、国は、命令一下で何でも出来ます。権力者には、最高の政治体制なんですよ。しかし、当時の日本は、独裁国家じゃない。
大日本帝国憲法があり、議会があり、議会の承認が得られなければ予算が付かない。面倒な手続を踏まなければ、軍艦も造れないし兵隊も集められない。
今でこそ、当たり前の政治だけれど、当時は、
「そんな悠長なことでは、戦争には勝てん!」
と軍部の連中や右翼は騒ぎました。
陸軍は、それを国家として統制して政治を行うのか、天皇親政の名の下に軍部独裁政権を打ち立てるのか…といった違いでしかなく、共通しているのは、どちらも共産主義政権の模倣だ…ということなんです。
今と違って、まだまだ江戸時代はそんなに昔の話じゃない。
江戸のころなら、金さえあれば、殿様の命令一下で何でも出来ました。
あの薩摩藩では、殿様の島津斉彬の命令で、偽金を造って軍艦や大砲を製造し、それを倒幕運動に使いました。まさに、やりたい放題です。
何万両もの借金があったにも関わらず、それを踏み倒したのも薩摩です。
琉球や奄美大島から搾取し、農民の暮らしなど考えもせず、寄生虫のように生き血を啜ったのは、あの薩摩です。
その薩摩が新しい国を創ったのですから、国民の暮らしなど考えるはずもないのです。西郷隆盛は、今でもスターで英雄ですが、やったことは、正直、褒められたものではありません。
議会制民主主義って言われますが、その思考になれるには、相当の時間が必要なんです。所詮は、外国の模倣ですから、そう簡単に日本人に馴染むわけがない…。
昭和初期のころは、「まだまだ思考は、江戸時代」っていう人は多かったんだと思います。今でも、政府や役所が言うことには、「お上の命令」だと捉える人もいることからも、「お上には逆らえない…」といった意識は強かったはずです。
こうした時代背景があったことを、まずは、覚えておいて欲しいですね…。

私は、ここまで一気に話すと、やはり疲れが出た。無理をするもんじゃない。歴史を語るのは楽しいことだが、それでも、病の身では仕方がない。
記録を取っている編集長に、
「じゃあ、今日は、ここまでで…。すまないね。少し疲れたよ…」
そう言って、自分の部屋に戻った。
帰り際に編集長が、
「いやあ、ありがとうございました。勉強になりました…」
「なるほど、共産主義の捉え方が、今とは違うんですもんね…」
「私もうっかりしていました」
「じゃあ、明日もよろしくお願いします…」
そう言って、帰っていった。
夜、裕子が大学から真っ直ぐ病院に来て、私の世話をしてくれる横顔を見ていると、青木少佐とその奥さんの顔が脳裏に過った。
青木少佐は、背の高い眼鏡をかけた温厚な人だった。
言葉遣いも丁寧で、軍人というより、どう見ても町のお医者さんだったんだ。だから、兵隊たちにも人気があり、若い水兵も「先生、先生…」と慕い、だれも「軍医」とか、「少佐」なんて言わない。どこにいても、青木少佐は、「お医者さん」なんだと思った。だから、軍艦内で医務室だけは、笑い声が谺す憩いの場のようになっていた。
私が顔を出すと、一瞬、笑い声が消え、兵隊の顔つきにも緊張が走ったが、青木少佐が、
「大丈夫。この結城中尉は、71期首席の優秀な人だが、野暮なことの嫌いな将校だから、君たちを叱ったりせんよ…」
と言うので、私も、兵隊たちに、
「だが貴様ら、こんなところに油を売りに来てはいかんぞ…」
と苦笑いを浮かべながら、注意をするだけにしておいた。そのうち、私も時々顔を見せるので、衛生兵から、
「中尉も、油を売りに来ましたか?」
などと、言われる始末だった。
そんなことを思い出していると、少し、切ない思いをしたものだった。
裕子は、
「何か、先生、楽しそうですね…」
「でも、休んでて、いい仕事が出来てよかったですね…」
「高木編集長も、心配して来てくれているんですね…」
そう言うと、大学の様子などを聞かせてくれた。
大学では、学生たちが私の講義がしばらく休みなので、裕子に、「いつ、再開できるのか?」と尋ねて来るそうだ。中には、熱心な学生がいて、卒論の相談がしたい…だの、アドバイスが欲しいだのと言って来ているようで、裕子が助言すると、
「でも、やっぱり、結城先生の方がいい…」
と、少し不服そうだ…と裕子もがっかりしていた。
それで、私から…と言うことで、それらの質問に対して、私なりの意見を付け加えるように裕子に指示をしておくのだった。

翌日は、少し曇空だったので、病院のラウンジで話をすることにした。
予定の1時より少し前に高木がやって来た。高木は、もう一人、社員らしき女性を連れて来ていた。その女性は、「坂本瑞穂」と名乗った。
私が、「坂本…?」と尋ねると、何と、明誠大学理事長の坂本明倫氏の孫だというのだ。
年は、24、5歳で大学の文学部を出て梓書房に入社し、今度、月刊「光」の編集をやることになったとのことで、私のところに連れてきたらしい。
何でも、高木編集長が、毎日来られないので、担当をこの坂本瑞穂にやらせたいとの意向だった。
私にとっても、大恩人である坂本理事長の孫でもあり、若く美しい女性なので、裕子に聞いてみなければわからない…と答えておいたが、清楚な上に聡明な感じがしたので、私は許可するつもりだった。
それに、理事長の名を出されては、断る理由がない。
とにかく、返事は明日…と言うことにして、二人がいる前で、昨日の話の続きをすることにした。

昨日は、共産主義の思想が、日本にも広く蔓延していたところまで話しましたね。
日本が三国軍事同盟を結んだのも、ひとつには、ソ連の共産主義思想が広がらないように、反共産主義のドイツと連携する必要を感じていたからなんです。
無論、世間で言われているように、「ヒットラーのバスに乗り遅れるな!」という強い者に追随して利を得ようとする考えがなかったわけじゃない。ただ、陸軍にとっては仮想敵国がソ連であるわけだから、西から牽制してくれるドイツは、日本にとっても有り難いんですね。それまでに、日独防共協定を結んでいたわけだから、それが軍事同盟に発展しても、けっしておかしいわけではありません。
防共協定は、昭和11年11月で、日独伊三国軍事同盟が、昭和15年9月に結ばれていますから、日本は対ソ連、対コミンテルンに対して非常に警戒感を持ち、徹底して取り締まっていたことがわかります。だから、ドイツとの軍事同盟を日本が結ばざるを得なかったほど、世界的にソ連や共産主義の勢力が拡大していたということなんです。
当時、海軍大臣の米内光政、次官の山本五十六、軍務局長の井上成美の三人が、海軍省内でドイツとの同盟を断固反対していた…と言いますが、親ソ派の米内にしてみれば、ソ連を守りたい一心で反対していたとも考えられます。もちろん、井上なんかにしてみれば、ヒットラーは信用できる男ではないという信念があったようです。また、アメリカを刺激したくない…というのも、海軍としては当然の結論だったと思います。しかし、陸軍にしてみれば、ソ連の牽制のためにもドイツとの同盟が必要だと考えていたことは確かです。ただ、結果として、この同盟が米英の脅威となったことは間違いありません。
ドイツは、第一次世界大戦で戦勝国となった米英に対して非常に強い恨みを持っていました。あのワイマール憲法とワイワール共和国は、今の日本と同じです。
戦勝国は、単にドイツにだけ現実不可能な理想国家理論を押し付け、ドイツが再度、発展することを阻害し、ヨーロッパの弱小国として生きることを謀ったのです。
ドイツは、天文学的な賠償金のために、もの凄いインフレに見舞われ、多くの国民が貧困に喘ぐことになりました。餓死する者も多く出て、戦勝国に対するドイツ国民の恨みは、かなり根深かったはずです。それが、ナチス党を賞賛し、独裁者ヒットラーを生み出す要因でもあったのですから、皮肉なものです。
ドイツは、敗戦によって、貧しく、世界の孤児となってしまいました。だが、ドイツ人は、その誇りを失ってはいませんでした。たとえ、戦争に敗れたとはいえ、その民族としての誇りまで奪われたのではない…。そうした強い鋼のような精神が、絵空事のようなワイマール憲法を拒否したのです。
今のドイツ人を見てもわかります。
ヨーロッパにとって、戦争など日常的なもので、歴史的に見れば、何度も戦っているんです。一度や二度の敗戦なんか、驚くに値しません。そこが、日本との違いでしょう。
ドイツもイギリスもアメリカも、民族に大きな違いがあるわけではありません。親戚や知人だって各国にいます。日本人がアメリカ人を見るのと感覚がまるで違うんです。だから、ドイツ人はけっして卑屈にはなりません。
「いつか、見ていろ!」
というのが、ドイツ人なんです。
ヒットラーは、演説でドイツ国民に「誇りを取り戻せ!」と訴えました。そして、いつの日か、自分たちをこんな眼に合わせた戦勝国に恨みを晴らそうと演説し、その機会を窺っていたのです。それに、ドイツ人は白人種の国です。
アメリカにもイギリスにも、ドイツがルーツの家は多い…。だから、勝者であるアメリカやイギリスもドイツを日本のように扱うことは出来なかったのです。
第二次世界大戦だって、そもそもは、ドイツのヒットラーをコントロール出来ないことが発端でした。
今、聞いてもヒットラーの演説は、ドイツ国民には当然の言葉ばかりでした。彼には卑屈さがないんです。キザな軍服に身を包み、颯爽と壇上に上がると、空を見上げるような格好で言葉を発するのです。その言葉は、戦争に敗れて下を向いてばかりいたドイツ国民に勇気を与え、誇りを取り戻させました。
今の政治家のようにちっぽけな政策なんかじゃないんです。
民族としての誇りを取り戻させてくれたことで、ヒットラーのナチス党は、国民の圧倒的な支持を受け、ドイツのリーダーになったのです。
ドイツは、ナチス党が政権を奪うと、民主主義手続をとおして独裁政権を打ち立てました。そして、国軍の充実に力を注ぎ、国民の自由を最大限に制限して国家総動員体制を確立したのです。これは、非常に強引な手段ですが、有事の際には、国民の資産をすべて国家の自由に使えるという法律です。そのため、ドイツにあったその莫大な国民の資産はすべて国のものとなったのです。
結局、戦争は限定的なものではなく、国家の総力を挙げて戦うようなものになり、軍人の国民も一体化して戦う総動員体制が不可欠になってしまった…ということです。まして、ヒットラーは、ユダヤ人を迫害し、ドイツの占領地域にあるユダヤの資本家たちまで強制収容所に送り込みました。そうなると、ユダヤ財閥の資産も国のものになります。こうした体制が、ナチスドイツを強力な軍事国家に成長させたのです。
なぜ、ヒットラーがユダヤ人を迫害し、あそこまで残虐に殺戮しなければならなかったのかは、日本人には理解できないでしょう。もっと、歴史的、宗教的な憎悪というか、怨念というようなものがあったのかも知れません。ただし、そんなヒットラーにも資金を提供する資本家はいたはずですから、それを炙り出さない限り、真実は見えてこないと思います。
当時のヨーロッパでは、そんなドイツを苦々しく思っていましたが、力を付けてくると、戦争にならないように穏便に済ませようとしました。
正直、どこの国も、もう戦争は懲り懲りなのです。たとえ勝利しても国が疲弊し、莫大な負債だけが残ります。あの大英帝国でさえ、二回の世界大戦で国は破綻寸前まで追い込まれたのです。そのため、第二次世界大戦後は、アメリカとソ連という二大国家によって世界は二分されてしまいました。だからこそ、イギリスもフランスも、戦争を欲しなかったのです。それがドイツをさらに勢いづける結果となりました。
日独伊三国軍事同盟が締結されたのも、このころのことです。
ドイツやイタリアは、独裁政権となり、他のヨーロッパ諸国との関係が悪くなっていきました。特にドイツとソ連は国境を接しており、領土争いで緊張状態が続いていました。ヒットラーとスターリンでは、妥協することなど不可能と思われていたのです。そうなると、ドイツは、同じ反共産主義を採る日本と同盟を結ぶことが、ソ連への牽制になると考えていました。日独が同盟関係になれば、ソ連を挟み撃ちにすることができます。これは、日独の両国にとって大いなる利益のある同盟でした。だからこそ、日本陸軍は、ドイツとの同盟を推進したのです。
繰り返しになりますが、第二次世界大戦を引き起こしたのは、ドイツです。日本ではありません。日本は、国際社会から孤立しないようにドイツに近づき、対抗手段を採っただけのことです。その日本が、アメリカやイギリスの謀略に乗せられ、真珠湾攻撃という無謀な作戦を採ったのは、間違いでした。絶対にやってはいけない作戦でした。
本来、アメリカが原爆を落とすべき国は、開発競争をしていたドイツなのですが、そうならなかったのは、ドイツは、「親戚」だからです。まさか、アメリカやイギリス国民の叔父や叔母のいるドイツに、原爆投下なんて出来るわけがありません。その点、日本なら親戚関係もないし、有色人種だし、未知の生物を殺す程度の意識で原爆を投下したんです…。
縁もゆかりもないアジアの小国なら、民族を焼き殺しても構わないが、親戚では、そうもいかないでしょう。当時の欧米のインテリ層の人種差別意識は、今の比どころじゃありません。
日本人を平気で「ジャップ」と呼び、猿の親戚のように思っていたことは、紛れもない事実なのです。いくら戦争をしても、ドイツ人を人間として憎んでいるわけではないんです。ところが、日本は違います。
猿のような日本人が、白人の国に挑戦してくることさえ「生意気」に思えたし、戦争ともなれば、「消滅」させても心が痛まない国なんです。この強烈な人種差別意識を知らなければ、大東亜戦争はわかりません。
要するに、白人種の国は、生意気な日本という国を、この自分たちが支配する世界から消し去りたかったんです。そして、戦争を拡大すれば、世界恐慌以来の不景気から脱することが出来ます。資本家たちが考えそうなことです。
戦争が、一番金儲けには手っ取り早い…。
日本だって、戦後、朝鮮戦争という隣国の戦争で儲けたから、高度経済成長があったわけだし…。他国が苦しんでいる時に、和平の仲介をするわけでもなく、自分の国だけが儲かればいい…というのは、エゴイズムの典型でしょう。これが世界大戦ともなれば、どのくらい儲かるかわかるでしょう。
特にアメリカは、国を挙げて兵器の増産に乗り出し、自国だけでなくヨーロッパ諸国やソ連にも輸出しまくったんです。
ルーズベルト政権は、議会の承認もなく兵器をどんどんとソ連に送り、独ソ戦を支えました。中国の蒋介石にも援蒋ルートを通じて兵器を送り、義勇軍まで仕立てて日本の航空部隊と戦いました。
大東亜戦争開戦前にアメリカの爆撃機で日本本土を空襲する作戦まで立てられていたことを知っていますか。既に、事実上の日米戦争は、始まっていたんです。
世界の兵器工場となったアメリカは、世界大恐慌の不況を脱し、軍需景気で経済は好況に転じました。これにより、ルーズベルト大統領は第二次世界大戦の英雄になったんです。これが「戦争」というものです。
今のアメリカだって、軍需産業で経済が成り立っているようなもんです。
銃だって、いくら「銃規制」が叫ばれても、アメリカ人は絶対に手放しません。なぜなら、銃産業は、アメリカの重要な基幹産業だからです。
だから、いいも悪いもない。それで生きている人がいる以上、単なるイデオロギーで社会を語ってはいけないということです。
つまり、日本が近代化し、国際社会に出てくれば来るほど、邪魔な存在が際立ち、鬱陶しくなるんです。まさに、人間の「いじめ」の構図と同じです。自分たちのテリトリーを侵す者を排除したい。ただ、それだけ…。
簡単に言えば、「難癖」を付けてでも日本を排除し、昔の国際秩序を取り戻したいのが、欧米列強であり、資本家たちだったということです。
日本でも既得権益を手放さない業界や政治家は多いでしょう。それと同じです。自分たちの「村社会」によそ者が入ってきて、秩序を壊そうとすれば、排除したくなるもんです。だから、「よそ者」は、しばらくは身を慎んで「よそ者」扱いされなくなるまで我慢をするしかないんです。
ところが、日本は我慢しているつもりでも、あまりにも早く実力を付けすぎたために、昔からの人間に睨まれたんです。だから、日本がいくら外交で妥協しようとしても、欧米は許してくれるはずもなく、いずれ叩き潰そうと機会を窺っていたんです。それは、所詮、時間の問題でした。
それが、昭和16年だったのか、昭和30年になったのかは、わかりませんが、あのままでは、いずれ日本は、国際社会から消される運命にあったのかも知れません…。
だから、大東亜戦争は、日本にとって「自衛戦争」だったっていうんです。
だって、いじめられている子供が、必死になっていじめっ子に食らいつき、喧嘩をしているのに、そのいじめっ子が、「日本に虐められている…」って訴えるわけだから、だれだって、嘘だってわかるでしょう。でも、いじめっ子のGHQは、平気で「日本が、みんなで相談して、世界を侵略しようとしていた」と言うもんだから、当の日本人は吃驚ですよ。
自分たちは、平和の使者で解放軍。悪い政治家や軍人に騙されていた罪のない日本人を解放してあげます…なんてよく言えたもんです。そんな解放軍が、無差別爆撃や原爆投下なんかやりますか?
落としたのは、政治家や軍人の頭上ではなく、一般庶民も頭の上ですよ。
考えるだけで腹立たしい…。
ただし、大変な犠牲を払って戦争に勝利してみれば、帝国主義は終焉を迎え、植民地は次々に独立してしまいました。その上、人種差別が問題視され、白人優位の社会が崩壊していくのだから、本当の勝者はだれだったのか、わからなくなりました。
いくら真実を隠し、嘘で塗り固めた歴史を作っても、そんなまやかしは長く続きません。アジア諸国の中には、日本に対して、
「その母体を傷つけてまで、子供を産んでくれたことには、感謝の言葉しかない…」
という声も多くあります。
戦後しか知らない政治家や官僚が、GHQの占領政策や東京裁判のまま、謝罪外交を繰り広げても、戦前から戦後まで知っている政治家は、今の日本の政治を嘆いているんです。
「アジアでは、日本だけが頼りなのに、肝腎の日本が戦争に負けたくらいで、頭ばかり下げて…」
そう嘆いているんです。アジア諸国は、やっぱり日本が頼りなんですから…。それは、皆さんも分かると思います…。

私は、そこまで一気に話すと、坂本理事長の孫娘だという瑞穂の顔を見た。
坂本理事長は、既に80歳を超えた老人だったが、5人の子供がおり、それぞれが立派に独立しているという話を聞いたことがあった。顔立ちは、それほど似てはいないが、その何気ない表情に、理事長の仕草を思い出していた。彼女も、理事長に似て聡明なんだろう…と思った。
彼女は、静かに私の話を聞くと、
「こんな話、今まで聞いたことがありませんでした…」
「学校では、日本の戦争は、世界征服を目指した侵略戦争だ…って教わりましたから…」
「だったら、学校で教わった話は、全部、嘘じゃないですか。そんな嘘を生徒に教えていいんですか?」
と、少し憤慨したような表情を見せた。
それに、私はこう答えた。
「それだけ、日本の敗戦は、日本人を酷く傷つけたんだよ…」
「敗戦によって、心が空洞のようになってしまった日本人に、GHQは、自分たちに都合のいい話だけを吹き込んだのさ…」
「日本の占領政策は、間接統治でね。占領されていた7年間は、日本に主権はないんだ。だから、GHQは、様々な機関を使って、歪んだ太平洋戦史を教えたんだ」
「その中心となったのが、学校なんだよ。他にも、映画、新聞、雑誌、あらゆる手段を用いて、新しい太平洋戦史を教え、大東亜戦史を葬ったのさ…」
「だからと言って、教えた学校の先生を責めることもできない。だって、その人たちは、被害者で、戦争の全体像を知らないんだからね…」
「教科書だって、占領期間中は検閲があり、発行も自由じゃない。先生たちにとっても、それを使って教えるように命令されれば、真実を確かめる術もないんだよ…」
「それが、今でも続いているってことさ…」
そう、私が言うと、彼女は、俯いて、じっと自分の手を見詰めていた。
そして、顔を上げると、
「でも、よかったです。編集長が、先生の話を聞きに行け…と言った意味がわかりました」
「また、明日もよろしくお願いします」
そう言って、屈託のない笑顔を私に見せるのだった。
そして、そっとハンカチで眼を拭うと、いつもの瑞穂に戻っていた。

第二節 戦争を回避する手段

その翌日は、高木編集長が坂本瑞穂と一緒に現れた。
「なんだ、高木さん。今日はいいんですか?」
私が、そう尋ねると、
「いや、昨日ね。この坂本の報告を受けて、録音機を再生したんですが、私が夢中になっちゃってね」
「今日は、何とか、私も先生の話が聞きたくてやって来ました。社の仕事は、戻ってからまたやりますんで、よろしくお願いします」
そう言って、頭を下げるので、また、ラウンジに三人の席をとった。
座ると、高木が、
「先生、本題に入る前に、共産主義が日本に広まったことについて、もう少し、聞かせてくれませんか?」
と、聞いてきた。
私が、坂本瑞穂に共産主義のイメージについて尋ねると、
「そうですね。共産主義自体は、そんなに間違った思想だとは思いませんが、ソ連や中国などの話を聞いていると、一党独裁で、思想統一までされているようで、自由がない…という印象です」
そう答えた。
私は、
「ねっ、高木さん。若い坂本さんのイメージでも、間違った思想ではない…というところが味噌なんです」
「そもそも、共産主義は平等主義ですからね。一部の人間が富を占有するのではなく、国民すべてが平等に富を分け与えられる…という思想です。だから、身分や階級もない。ほら、ソ連や中国でも仲間のことを『同志』って呼ぶじゃないですか。あれですよ。日本でも、当時の国民の多くに受け入れられた理由がそこにあります…」                           高木は、
「まあ、確かに。あの頃は国全体が貧しく、財閥系の企業や華族は、贅沢を恣にしている…という印象がありましたからね」
「それに、娘の身売り話は普通にあったし、冷害で作物が作れず、一家離散した話や満州に開拓に出た話をよく聞きました」
「なるほど、当時の日本の闇は、奥が深いですね…。そうなると、日本人の多くは、共産主義に傾倒していたということですか?」
と、尋ねるので、
「はい、そうですよ。今は、共産主義を賞賛する人は少なくなりましたが、戦前から戦後にかけて、共産主義は、インテリ層を中心として、非常の大きな力を持っていたんです…」
「それは、どうしてですか?」
「高木さん。それは、あなたが指摘したとおり、貧しさですよ…。貧しさが、共産主義を生んだんです…」
「特に欧米の貧富の差は、日本のそれとは大きく異なります。奴隷がいた時代ですよ。奴隷は、人間なのに売り買いの対象物です」
「日本でも、人身売買はありましたがね。それでも、規模は欧米ほど大きくはない」
「欧米の身分階級ははっきりしていて、庶民は搾取される存在で、上の階級に上がることは出来ません」
「だから、欧米の植民地経営は、搾取するだけの経営でしょ…」
「インドなどもイギリスの植民地になって、酷い目に遭っていますからね」
「だから、庶民は、みんな貧しいんです。そこに、平等主義の共産主義思想が現われ、みんな飛び着いたんですよ…」
そう説明すると、高木は、
「貧しさですか…。何か、分かるような気がします」
そう言って、戦前の昔の貧しい時代を思い出していたようだった。
私は、大正11年の生まれだったし、高木編集長もその少し後の世代だったから、あのころの貧しさを経験した人間だった。
しかし、坂本瑞穂は、昭和30年代の生まれだから本当の貧困を経験したことがない。
この年代の人たちに共産主義を理解させるのは、非常に難しいと感じていたのだが、こうした機会に話が出来るのは、戦前世代としては有り難かった。
そこで、私なりの解説をすることにした。

明治維新は、下級武士たちが起こしたクーデターだ…と言われるように、その根底には、「貧しさ」「差別」「閉塞感」などがあります。そして、それらは、信じられないほどのエネルギーを蓄えて、爆発寸前でした。
江戸時代の徳川幕府の採った政策は、諸外国に比べても穏当で、クーデターを起こしてまで倒さなければならないような政権ではありませんでした。しかし、武士階級の中では、そうではありません。
階級差別というものは、庶民より武士階級にこそあったと言っていいでしょう。もちろん、能力のある者は、その能力を生かして出世も出来たでしょうが、徳川家よりも各大名家の方が保守的でした。昔からの慣習に縛られ、藩政改革を打ち出しても、門閥が邪魔をして遅々として進まないのが通例でした。だから、徳川幕府よりも地方の各大名家の方が、固定的で、武士の能力を生かし切れていなかったように思います。
その証拠に、薩摩でも長州、土佐でも、下級武士の出身者がクーデターの中核となり、上級武士たちを動かしていました。
幕府は、優秀な旗本や御家人出身者が幕政を実質的には動かしていたんです。あの昌平坂学問所は、徳川家の学校ですが、各大名家からも優秀な人材に入学を許可して学ばせているんです。
だから、昌平坂学問所に留学し学んだ者たちは、国元に帰れば、その藩政を任されるような地位に昇ったと言われています。
ただ、そうでない武士の方が圧倒的に多いわけですから、不満が募っても仕方がない面もありました。それだけ、身分が固定されていたということになります。
とにかく、一般の武士たちは、生涯薄給に甘んじ、藩や幕府の一役人として、その土地に土着して生きていかなければならなかったんです。そして、小さな出世のためにあくせく働く自分がいるのです。
あの西郷隆盛ですら、なかなか出世の糸口が見つけられず、農村を見回る役人で生涯を終えるつもりだったと言われています。
たまたま、時代が大きなうねりの中にあったことと、島津斉彬という殿様に見出されたことが、出世の糸口になりました。西郷という人物を見ていると、やはり非凡な才能を見出すことができます。
斉彬の御庭方のような隠密任務を与えられますが、その仕事ぶりは堅実で、殿様の意を汲む…という点では、非常に優れた才能を発揮しました。こうした人物が、多く野に埋もれていたことは、間違いありません。
だからこそ、身分の固定した社会に対して、不満を持つのは当然と言えば当然なんです。
ただ、長州藩や薩摩藩、土佐藩の下級武士たちに見られるように、自分たちの境遇の恨みを自分の殿様にではなく、徳川家に向けさせたのは、その大名家の教育にこそあったといえます。
武士というものは、不思議なもので、どんな理不尽な目に遭っても、主君は主君なのです。それだけ武士道の「忠義の道」という教えが徹底していたとも言えますが、不満の捌け口が日本の統治者である幕府に向ける教育が、裏で行われていようとは、怖ろしいものです。
「こんな惨めな境遇に追いやったのは、徳川だ!」
という教えは、積年の恨みとなり、「いつかは、徳川を倒す!」という野望を藩士たちが持つことは、外様の大名家にとっては好都合な考えだったのです。
それはそうだ。
だって、自分たちが行っている施策の不満を自分たちではなく、幕府、そして徳川家に向けられるのだから施政者にとっては好都合です。
元々、武士は天下取りのために命懸けで戦い、敗れれば、どんな酷い目に遭っても文句も言えない。
関ヶ原の戦いの後の徳川家による仕置きを見てもわかります。あの豊臣家ですら、大坂の陣で滅んでいるじゃないですか…。戦争に敗れるということは、そういうことなんです。
勝者も「仁」で敗戦処理を行えばいいのですが、勝者の驕りのまま、敗者を労ろうともしない態度が、永遠に恨みを残すのです。
先日も話したドイツの扱いもそうでした。ヒットラーという怪物を産んだのは、そうした戦後処理の結果ですよ。
そうした怨念の思想は、徳川幕府が存続している間、数百年にわたって続いていたことになります。そして、その溜まったエネルギーが、開国問題、攘夷運動をとおして爆発したのです。
つまり、武士階級という狭い社会の底辺で蠢いていた者たちの不満が噴出したのが明治維新だった…と考えてもいいと思います。

大東亜戦争後のGHQが行った占領政策も多くの問題を残しました。それは、今でも解消できずにいますが、日本を真の友好国に出来なかったのは、アメリカ人の心の狭さと傲慢さがあったからでしょう。だから、戊辰戦争の勝者にも未来志向がない。
単に、憎い徳川家を倒せば、それで満足であり、自分の鬱憤さえ晴らせれば、死んでも満足なのだという思考が問題なんですが、当時の武士には理解出来なかったかも知れません。だから、明治政府は、舵取りが難しく、権力闘争に明け暮れてしまったのです。
明治という時代を迎えても、国内の混乱は続きました。
西日本の各地で元武士たちが反乱を起こし、西南戦争で西郷隆盛が死に、すぐに大久保利通が不平士族に殺されたことで、明治維新は終わりを迎えたのかも知れませんが、こうした歴史を刻んだ日本には、クーデターを容認する空気が醸成されたとしてもやむを得ないことだったんです。
「気に入らなければ、反乱を起こせばいい…」
「正義は、我にありだ…」
こうした単純な思考や行動が容認されれば、人々は成功体験として脳に深く刻みつけられるものです。
明治維新そのものは、世界の革命事件の中でも穏やかだったために、評価する声は多くありますが、それでも多くの負の遺産を残したことは事実です。そして、それは、昭和という時代を迎えると表面化してきました。

大正末期から昭和初期に起きた世界大不況の波は、脆弱な基盤しか持たない日本の経済に大打撃を与えました。
近代工業化を急いだ日本政府は、民衆を置き去りにしたまま進められました。労働問題、公害問題、農村の疲弊、差別問題と多くの問題が噴出したにも関わらず、政府は、それを警察権力や軍の力によって押し潰しました。
国民は、生活が十分に出来れば政治に関心を持ちませんが、生活が困窮すれば、その矛先を政治家や経済界、特権階級に向けるのは、昔も今も同じです。
そんなときに思い出されたのが、60年前の明治維新であり、15年前のロシア革命でした。どちらも、国を変革する大クーデター事件で、その思想は、共産主義革命なんです。
特にロシア革命以後に誕生したソビエト連邦は、平等主義を唱え、恰も国民の為の国家であるかのような錯覚を世界に広めていました。日本でも、このロシア革命を賞賛する声は多く、インテリや特権階級の人間に、そのシンパは多かったんです。
たとえば、近衛文麿や木戸幸一なども、京都大学在学中に共産主義思想に共鳴し、自分たちのような貴族階級の存在を疎ましくさえ思ったそうです。当時の大学の学者たちも、新しい学問や思想に飢えていたこともあり、積極的に共産主義を学び、それを賞賛していました。
彼らには、政治や経済に関心はありません。新しい学問や思想は、自分の知的好奇心を満足させてくれる魅力と新鮮さがありました。新しい知識を持つことは、当時のインテリ層のステイタスでもあったのです。
明治の元勲の一人である西園寺公望の孫である公一は、公爵家を継いだ人間ではありますが、左翼運動家で知られ、後に公爵の地位を追われてしまいました。ゾルゲ事件にも関与していましたが、さすがに元元勲の孫では、起訴することも憚られたのでしょう。
ただし、公爵の爵位は剥奪されています。
本来は、日本の皇室の藩屏となるべき、こうした階級の人間たちが、共産主義思想にかぶれたことは、その後の日本に大きな影響を与えました。
密かに設立された日本共産党に、ソ連が設立したコミンテルン(共産主義思想を世界中に広めるための機関)から命令が届いたとき、そこには、「特権階級の打倒」という文字がが書かれていました。
これは、日本では、財閥や資本家、地主などの特権階級を壊すという意味の他に、王制の打倒を意味していたんです。つまり、天皇、皇室の破壊を意味します。そして、コミンテルンは、暴力革命を勧めてもいたのです。
それはそうです。
あのロシア革命も、皇帝であったニコライ二世一家を皆殺しにしているんですから、日本の天皇やその一族を殺してでも革命を成し遂げよ…というのが、共産革命の本質なんです。
これを知った政府は、共産主義が如何に怖ろしい思想なのかということを悟り、治安維持法を作りました。そして、その思想犯を取り締まるために出来たのが、特別高等警察、いわゆる「特高」です。
これにより、非合法として共産主義者を逮捕し、共産主義思想の拡散を防ごうとしました。
当時としては、国体を護るためには、どうしても必要な法律だったのですが、今では、天下の悪法として喧伝され、本来の趣旨を理解しないまま、思想弾圧として解釈が歪められています。
そんな中であっても、政府や軍部、資本家たちの中に共産主義にかぶれた人間が多く存在していました。
陸海軍の青年将校がクーデターを起こしたのも、北一輝や大川周明などの思想家に操られるようにして動いた結果であり、米内光政、永野修身、山本五十六たち海軍の軍人が、何の思想的な影響を受けなかったと考える方が無理なのです。
私の考えでは、連合艦隊司令長官を務めた山本五十六大将は、正直、愛国者だったと思います。
山本は、元々特権階級の人間じゃありません。
越後長岡藩牧野家の家臣の子供です。貧乏暮らしもよく知っています。
出世して家名を上げるために海軍軍人になったような男が、簡単に共産主義にかぶれることはありません。
出身の越後長岡藩は、戊辰戦争において、智将河合継之助を大将に徹底抗戦を試みましたが、新政府軍に敗れ賊軍となりました。その屈辱を山本が忘れているはずはないのです。だからこそ、海軍部内で頭角を現したとき、自分の力で、薩摩の海軍を変えたかったのかも知れません。
賊軍出身の将が出来る復讐といえば、それくらいなもんです。
だから、大艦巨砲主義の時代に航空機優先論を唱え、海軍の天邪鬼になることで己の存在感を示したかったんだと思います。そして、奇しくも、自分が連合艦隊の司令長官でいたときに、日米戦争が勃発する幸運に恵まれました。
恵まれた…というのは、賊軍出身の将である山本には、戦争が「汚名挽回の機会」と見えたのでしょう。それが、真珠湾攻撃につながりました。
山本は、これまで海軍が積み上げてきた大戦略を当然知っていながら、自分の権限と人脈で、それを変えて見せたのです。これこそ、天邪鬼山本五十六の真骨頂です。そして、自分が手塩にかけて育ててきた航空部隊を使って、アメリカ太平洋艦隊を叩き潰し、救国の英雄になって、戊辰の恨みと恥辱を一気に晴らしたかったのだと思います。なぜなら、山本にとって英雄は、故郷の「河井継之助」しかいません。
戊辰戦争時に「武力中立」を唱え、最新兵器のガトリング銃を揃えて幕府軍にも新政府軍にも与しない態度を貫きました。まるで、今のスイスみたいな中立宣言をして見せたのです。
本当は、新政府軍は、戦わない長岡藩を迂回し、東北方面に進めばいいものを敢えて長岡藩に戦いを挑みました。こういうところが、新政府に人材がいない証拠です。
河井継之助は、新政府軍の責任者である土佐の岩村精一郎と会談に臨みました。有名な「小千谷会談」です。岩村は、単に土佐藩出身ということだけで、軍の幹部に出世したような男で、態度だけは尊大な能力のない人間でした。そんな男が、河井のような相手と対等に話ができるはずがありません。最初から最後まで横柄に対応し、河井継之助の必死の説得にも応じることなく席を蹴り、長岡戦争へと突入してしまったのです。
新政府軍は、長岡城の激しい攻防戦の末、勝利することはできましたが、その犠牲は大きく、大きな恨みを長岡に残していったのです。
山本五十六にしてみれば、そんな戦いの激しさと、新政府軍の苛烈な処断を聞かされて育ちました。そして、新政府に属する人間を恨んでいたことは、間違いありません。そして、「昭和の河井継之助」になろうと決心したのだと思います。結果は、継之助と同じ運命になりました。
河井継之助は、長岡城奪還に失敗し、傷を負って会津に逃げる途中、その深手が元で奥会津の地で亡くなりました。
山本も、ガダルカナル島の奪還に失敗し、現地視察と称する無謀な計画で、搭乗した一式陸攻が撃墜され、戦死してしまいました。どちらも、英雄には違いありませんが、「悲劇の英雄」です。
実は、そこにこそ、山本の隙があった…と考えるべきだと思います。
そんな野心家の山本に、親ソ派で共産主義シンパの米内光政が近づき、真珠湾攻撃を囁いたに違いありません。そうでなければ、あんなにすんなりと真珠湾攻撃案が海軍部内で承認されるはずがないんです。それと、山本のアメリカ駐在武官時代に、密かにアメリカ共産党シンパのアメリカ海軍の軍人が近づき、それを示唆するような情報を伝えた可能性もあります。
山本は、女好き、博打好きで有名な男です。
だれ憚ることなく、若い芸者と馴染みになり、当時の恋文まで公開されていますので、噂ではありません。山本は、あまり家庭を顧みず、奥さんについての逸話もありません。
そういう男は、大抵自信家で、自分を相当に過信しています。まして、博打好きということは、はったりの利く男です。そんな調子のいい男ほど、プロのスパイにかかれば、籠絡されるのは当然でしょう。だれが、どこで、山本に真珠湾を示唆したかはわかりませんが、私の推理としては、そんなところです。

本来、政府や大本営は、対米英戦争をするつもりはなく、対米英戦争を避け、北進してドイツと共にソ連を叩く方針であったものを、昭和研究会の尾崎秀実たちに唆された首相の近衛文麿が、米内光政と結んで南進論に舵を切ってしまったのです。
近衛は、終戦間際に天皇に「近衛上奏文」を提出して、共産主義者に唆された自分を恥じて注意を喚起しましたが、天皇は、それまでの近衛の言動を不快に思っており、このときも近衛を遠ざけ、内大臣の木戸に、
「近衛は、弱いね…」
と、その不満を口にしたそうです。
天皇にしてみれば、摂関家筆頭の地位に胡座をかき、自分が危うくなると逃げる…といった近衛の弱さを嘆いたといわれています。しかし、最後の最後に、近衛は正直に自分が共産主義者に騙されていることを悟ったのでしょう。天皇に正直に自分の間違いを吐露したのですが、時既に遅し…という時期でもありました。その近衛は、敗戦後、東京裁判においてA級戦犯の指名を受けると、服毒自殺をしますが、これも、暗殺だ…という証言があります。
確かに、近衛をA級裁判の軍事法廷に引き出し、天皇に言ったようなことを口走られれば、戦争の裏面史を暴かれるようなものですから、GHQとしては、阻止したいところだったはずです。
本当なら、金か名誉で黙らせる方法もありますが、近衛ほどの身分の者は、そのどちらもある人間です。そんなものに転ぶはずがありません。
近衛の服毒自殺も、今となっては闇の歴史ですが、事実はそんな噂話の中に隠されているものです。それに、大東亜戦争は、石油の輸入を止められたことに大きな原因がありましたが、それも怪しいところが見られるんです。
中国発展の基礎を築いた「大慶油田」をご存知でしょうか。これは、満州で見つかった油田です。
戦前、既に満州には大油田の兆候があり、軍の一部は当然知っていたはずです。油田の調査は、陸軍が行っていましたが、この情報は政府内で共有されてはいませんでした。もし、大慶油田の調査が積極的に行われ、戦前に発見されていれば、南進論は崩壊し、間違いなく日本軍は北進を開始していたはずです。
昭和16年7月には、「関東軍特種演習」と称する陸軍部隊の大集結が満州で行われました。動員数は、約70万を超えたと言われています。これだけの部隊を満州に集結させた意味は、当然、独ソ戦に呼応して、そのまま北進し、ソ連と先端を開くことが前提にあります。
大東亜戦争の開戦が12月ですから、わずか5ヶ月前にそんな大動員が意味もなく行われるはずがないんです。それだけの部隊に動員をかければ、予算だって莫大にかかります。それを覆したのが、南進論を叫んだ連中です。
なぜ、そんなことになったかと言えば、同じ7月に「南方資源を確保して戦争に備える」ことを理由に、南部仏領インドシナ(今のベトナム)への進駐にありました。
このころフランスは、ドイツの占領下にあり、日本政府は、フランス亡命政府と交渉して進駐したことになっていますが、ただでさえ、米英との緊張状態の中で、さらに刺激するような行動を採れば、敵に戦争の口実を与えるようなもんです。
米内光政たちは、
「石油がない以上、それを求めて南進するのは、当然じゃないか!」
と、大声で叫びました。
この「石油…」というひと言が国策を誤らせたのです。
もし、大慶油田が発見されれば、この石油問題も解決できる可能性があることを知りながら、「大した油田ではない!」と一蹴し、東南アジアの油田地帯を奪うことにしてしまったのです。つまり、だれかが南に誘導しようとする勢力があったことになります。
既にスパイ容疑で逮捕される寸前のゾルゲや尾崎秀実らが、南進論を近衛文麿に吹き込み、誘導していたことは明らかです。それでも尚、南進論を説く政治家や軍人がいたことが不思議でなりません。
この時期こそが、日本の戦争回避の分水嶺でした。
おそらくは、南進論を説く連中にしてみれば、ここですべてが明らかになれば、北進論になるだけでなく、自分たちの身の危険も感じていたはずです。
早く、政府、大本営の方針を南進に決定させ、ソ連の崩壊を阻止すると共に、対米英戦に持ち込み、日本を崩壊させ共産革命を成し遂げなければなりません。
そこまで考えていたかどうか、はわかりませんが、「ソ連の危機を救う」という点では、必死だったと思います。要するに、ゾルゲや尾崎たちだけでなく、相当の親ソ派が日本政府や軍部内に入り込んでいたことがわかります。
山本五十六は、そうした人間たちに操られた作られた「英雄」なのでしょう。

中国東北部に大油田が発見され、大慶油田と称されたのは、昭和30年代のことです。地元では、石油が出ることをだれもが承知していましたが、日中戦争、そして、それに続く蒋介石と毛沢東の内戦のために調査は昭和28年まで見送られていました。
アメリカ政府は、日本の敗戦後、蒋介石を裏切り、中国共産党を支援しました。アメリカが蒋介石を支援したのは、日本軍と国民党軍を戦わせ、国民党軍の戦力を削ることにありました。
国共内戦が始まると、アメリカは、一気に武器弾薬を共産党軍に送り、中華人民共和国の樹立に手を貸しました。
さすがに、ソ連とアメリカの支援を受けた中共軍に蒋介石の国民党軍が勝てる見込みはありません。蒋介石は、本来、日本と連携して中国を統一するはずだったのが、張学良の裏切りによって西安で拉致監禁され、共産党軍と共に、日本軍と戦うことになった結果、中国大陸を追われたのです。
アメリカ政府は、中国に共産党政権を樹立させるために蒋介石を見捨て、毛沢東につきました。そして、中国に共産党政権ができれば、漁夫の利を得ようと企みましたが、結局、ソ連と毛沢東に騙され、強大な敵性国家が誕生してしまった…ということなのです。
そのころは、日米戦争も終わり、ルーズベルト大統領も亡くなっていました。そして、トルーマンが大統領が就任していましたが、トルーマンは、無能な副大統領で、これまでの政策に一切拘わらせて貰っていないのです。だから、大統領に就任しても、これまでのアメリカ政府の官僚たちに従うしか方法がありませんでした。おそらく、トルーマンは、ソ連シンパの政府の役人たちに上手く乗せられて、原爆投下命令書にサインし、中国共産党樹立に力を貸してしまったのだと思います。
トルーマンは、「第二次世界大戦を終わらせた英雄」という名誉が欲しかっただけなのですが、結局は、「原爆を投下した男」という汚名が後世に残されました。周囲の共産主義者たちにとっては、軽い神輿でちょうどよかったんだと思います。

話を大慶油田に戻します。
あの大慶油田は、発見してみれば、世界最大規模の油田であることがわかり、中華人民共和国発展に大いに寄与したことは、承知のとおりです。
発見されたとき、これは「大慶だ!」と叫び、共産党政権は大喜びしたことで、「大慶油田」と名付けたと言われています。そんな大油田が、都合よく発見されるはずがありません。当然、目星が付いていた場所を改めて調査し直し、改めて「大発見!」と喜んで見せたのでしょう。
日本との戦争に勝利し、蒋介石の国民党軍に勝利し、その上、油田まで手に入ったことで、中国共産党は、中華人民共和国の基礎を築きました。そして、毛沢東は、政治の実権を確実なものにしたのです。
実際、当時の陸軍や政府が、どこまで気づいていたかは記録がないので定かではありませんが、この油田の調査を真剣に行った形跡がないことから、「見つかっては困る…」勢力が、隠したのかも知れません。そうでなければ、内戦が終わるや否や、あんなに早く発見されるわけがないんです。発掘技術だって、あの当時の中国にそんな高等技術はありません。だから、既に知っていた油田を恰も初めて知ったかのようなふりをしたんでしょう。
もし、日本のまともな人間が調査に当たっていれば、すぐにでも採掘に乗り出し、昭和16年以前に発見されていたはずだと思います。そうなれば、日本の南進はあり得ません。つまり、米英との戦争は回避されるということになります。逆に、関東特殊演習の動員を即座に戦時編制として北進し、対ソ戦争になったことは、間違いありませんでした。
対ソ戦争になれば、西からドイツ、東から日本の攻撃を受け、ソ連は、崩壊します。そして、そうなって困るのが、世界中に共産主義革命の種を撒きたかった勢力ということになるんです。それは、コミンテルンなのか、それとも世界の大資本家たちなのか、詳しくはわかりませんが、日米英戦争が遠のくことだけは間違いありません。もし、あのとき、石原莞爾が現役の軍人として、日本の戦略に与していれば、大慶油田を発見できた可能性があります。残念なことに石原は、首相となった東條英機と対立し、陸軍を辞めさせられていました。満州国を建国し、世界最終戦争のプランを持つ石原なら、間違いなく北進を主張したはずです。しかし、歴史は、石原を表舞台から遠ざけてしまったのです。それでも、アメリカは難癖を付けて、日本に何らかの攻撃を仕掛けてくる可能性は否定できませんが、戦場は、限定的になり、全面戦争になった可能性はないと思います。
いくらアメリカ政府が日本を非難しようとも、アメリカ国民が戦争を望まない以上、議会も動かず、どうしようもなかったはずです。そして、日米戦争がなければ、その後の世界史がどう変わっていたかは、想像もつきません。それが、日本のために幸せだったかどうかは、別の問題として、大東亜戦争が起きなかったことだけは、間違いないんです。しかし、歴史はそうは動きませんでした。
結局、東南アジアの油田以外に、日本が占領した地域からは大きな油田は見つからず、アメリカを中心とした経済包囲網を敷かれ、経済封鎖の末、「窮鼠猫を嚙む」といった心境で、対米英戦争を覚悟したんですから、酷い話です。
この南進論に山本五十六がどこまで関与したかは不明ですが、米内の第一の子分として出世していった山本が、米内に背くことは考えられず、日米戦争の見通しを近衛首相に尋ねられたとき、
「一年や一年半は、存分に暴れてご覧に入れる…」
と言ったのも、米内が南進論に近衛を誘導するための策略とも考えられます。
山本にしてみれば、だれが唆したかは別として、真珠湾攻撃という大博打を打ちたかったことは、間違いないでしょう。その目的は、日米英戦争の勝利ということもありましたが、連合艦隊を率いる海軍大将として、「やってみたかった…」というのが、本音だと思います。
博打打ちにとって大勝負は、一生の中で、そう何回もあるものではありません。無論、失敗した場合のリスクは考えたとしても、「やってみたい」という欲望に勝てるほどではなかったということです。とにかく、こうした共産主義者やそのシンパの政治家、そして軍人によって対米英戦争が決定されのは事実です。
もし、日米英戦争が回避できたとすれば、それは、米英を刺激しない政策を採り続けることと、世界に日本の窮状を訴えることしかなかった…と思います。
まず、米英を刺激しない方法は、とにかく南進しないことに尽きます。
それにしても、ソ連さえ叩いてしまえば、コミンテルンも崩壊させることができたわけですから、向かう方向を完全に間違えたのは明らかです。
対ソ戦争になれば、アメリカやイギリスは、ソ連に加担できず、手をこまねいて見ているほかはなかったはずです。
ソ連は、ヨーロッパにおいても嫌われ者の国でした。常に領土問題でトラブルを起こし、ドイツ以上に厄介な国だったのです。独ソ戦が起きても、ヨーロッパでソ連を支援しようとする国はありませんでした。
当時、日本とは日ソ中立条約を結んだばかりでしたから、北進してソ連と戦争をするためには、この条約を破棄しなければなりません。
この条約を結んだ外務大臣の松岡洋右は、
「日本のためなら、さっさと破棄すればいい…」
という強硬論を吐きましたが、天皇は、
「それでは、国際信義に悖る」
と、難色を示したと言われています。
松岡という人物は、日本人に似合わず、はったりが多く、策謀好きな人物と見られていました。だから、余計に天皇には、信頼されていなかったようです。しかし、日本の将来を考えれば、ここは、日ソ中立条約を破棄しても、北進するしかなかったのです。
もうひとつは、ABCD包囲陣と呼ばれる経済封鎖やハルノートと呼ばれる日本へのアメリカからの最後通牒の件を国際社会に訴えることだったと思います。
今では、これだけの経済封鎖をすれば、宣戦布告と同じ意味を持ちます。資源のない工業国日本に石油も売らない、くず鉄を売らないでは、死ねと言っていることと同じです。これだけを見ても、日本の開戦はやむを得ない…というのが、常識でしょう。
特にハルノートは、大統領決裁で日本に通告されたものであり、連邦議会の承認を得ていません。これは、アメリカにおける合衆国憲法違反なのです。もし、この最後通告といわれるような文書が、議会の承認を得ないまま日本に通知されたことがわかれば、連邦議会は紛糾し、ルーズベルト大統領を追及したはずです。
アメリカは、大統領令で緊急対応が出来る国ですが、「戦争」のような重大事態は、当然、議会の承認が必要です。それをルーズベルト大統領とその側近は、議会を無視して日本に最後通告をしたのですから、大問題です。
とにかく、ルーズベルトは、「戦争をしない」ことを公約に三選を果たした大統領なのですから、この日本への通告は、戦争を誘発するものであり、アメリカ国民は絶対に許さなかったはずです。
アメリカ政府には、多くのソ連のスパイが入り込み、日本を戦争へと誘導していました。しかし、国民や議会は別です。
アメリカと言っても、みんなが同じ意見だったわけではありません。その多くは、戦争反対で、また、第一次世界大戦のような外国の戦争にアメリカ兵が投入されることを怖れていました。
この時代は、まだ、徴兵制度があり、政府の命令があれば、兵隊になるのは義務なのです。ましてや、日本などという極東アジアの日本などという小国と戦争をする理由がありません。
たとえ、植民地であるフィリピンを攻撃されても、全面戦争をアメリカ国民は望まなかったでしょう。それが、アメリカの方から日本を追い詰めるような最後通告を発したとなれば話は別です。戦後、ハルノートは、アメリカ連邦議会で大問題になりました。
大統領が戦争を誘発するような最後通牒と言うべき文書を発したことは、議会軽視も甚だしい事件でした。この後、アメリカ議会は、「レッドパージ」を行い、アメリカ政府に巣くう共産主義者を一掃する政策に転換しました。
日本のGHQ内でも、同じような共産主義者追放が行われ、多くのGHQ将校が、その職を追われました。日本人にもそれは適用され、大がかりな追放運動が起きましたが、時が遅すぎました。
戦後、間もなくGHQは、戦争協力者の「公職追放」を命令し、それと合わせて共産主義者の解放を許しました。そのため、戦争協力者に名指しされた日本人は、政治や学校、経済などのあらゆる分野で仕事をすることが出来なくなり、その空いた席には、GHQが了承した人物が入り込んだのです。
アメリカ議会が、レッドパージを始めたのは、日本への占領政策が始まって5年が過ぎていました。この間に、GHQ内に潜む多くの共産主義者、若しくは、そのシンパによって日本の政策は、共産主義的要素の強いものとなり、日本国憲法も作られていたのです。
そのために、日本人へのレッドパージは、限定的なものとなり、特に教育界や出版業界から、それらを排除することは出来ませんでした。
ハルノートは、そういう意味で、アメリカ政府の非道を世に知らしめる格好の材料となり得たのですが、アメリカ世論を理解していなかった日本政府は、この通告によって、戦争を決断してしまったのです。
山本五十六は、海軍軍人としては、日米戦はできない…と考えていたと思いますが、山本五十六個人としては、真珠湾攻撃の夢を棄てきれなかったのでしょう。もし、有能な政治家や外交官がいれば、ハワイ攻撃に向かう機動部隊をハワイ沖に待機させると同時に、このハルノートをアメリカ世論に向けて公表すれば、日米交渉の継続は可能だったはずです。
外交のプロなら、それくらいは思いついて欲しいところですが、今現在、それを指摘した外交官がいたとは、聞いたことがありません。

二日目も、ここまで話すと私も相当に疲れを感じていた。
何度も白湯を飲み、一気に話したので、頭が少しクラクラしていた。
瑞穂が、                                       「先生、大丈夫ですか…?」                               と心配そうに聞いてきたので、私が、                          「ああ、少し頑張りすぎたかな…」                             と答えると、高木と顔を見合わせ、                            「今日は、ここまでにしましょう。先生、すみませんでした…」               と、恐縮しきりだった。私は少し落ち着くと、もう一度、白湯を口に入れて一息ついた。    やはり、無理は禁物だな…と少し反省したが、二人を見ると、瑞穂は、           「へえ…、そうだったんですね。驚きました…」
と、眼を白黒させるばかりだったが、高木は、俯いたまま、ん…と唸り、
「何か、聞けば聞くほど、深い闇の奥に連れて行かれるようで、私自身戸惑うばかりです。これを掲載したら、かなりの反響があると思いますよ…」
「しかし、先生の研究者としての立場もどうなるか…心配でもあります」
「先生は、どう思われます?」
そう聞いてくるので、
「いや、構わないんじゃないかな。昭和の時代がいつまで続くかわからんし。陛下がおられる間に世に出れば、ひょっとしたら陛下の目に留まるかも知れませんよね…」
「おそらく、陛下はすべてをご存知のはずです。それでも、何も申されません。だからこそ、私たち国民の方から、先の大戦を総括する必要があるんじゃないか…と思っています」
「それに、今回の入院で私も悟りました」
「命は、無限じゃありません。これで、研究者の道を閉ざされたとしても、退官まで数年ですから、今、大学を退職になっても悔いはありませんし…」
「それで…、そちらでたまに仕事をいただければ、それで御の字です」
私も正直、研究者生活で社会の評価を気にする生き方に、辟易としていたところだったので、そう答えた。
「じゃあ、今日のところは、これくらいにしておきましょう…」
私は、そう言って、ラウンジの椅子から立ち上がった。
長く同じ姿勢を保っていたので、少し腰に痛みがあったが、今のところは、大丈夫そうだった。 ただ、何か、頭の奥に妙な違和感を感じたのだが、それ以上、言葉にするのは躊躇われた。
高木は、
「先生が、そう仰ってくださるなら、徹底的にやりましょう。こうなりゃ、我が社も先生と運命共同体です…」
すると、瑞穂が横から言葉を発した。
「先生、もう、私のことは坂本さん…って言わないでください。坂本…とか、瑞穂…とか言ってください。私も編集者の端くれですから、運命を共にします」
そう言うので、高木も、
「大袈裟だなあ…。君にまで心配はかけんよ」
「でも、最後まで付き合えば、いい勉強になるはずだよ…」
高木がそう言うと、瑞穂は、「はい…」と返事をし、私の手を取って病室まで連れて行ってくれたのだ。私もこんな若い女性に寄り添って貰ったことがなかったので、年甲斐もなく少し緊張したが、こうして手を引かれると、華奢で、柔らかな指の感触が、疲れた私の癒やしになった。ただ、こんなことは、口には出さなかった。
ベッドで横になると、やはり、体や頭には、疲労感が残っていたが、私自身の気持ちは満足だった。
このことがよかったのか、私の病状の回復も順調なようで、私自身の気力が戻ってくるのがわかって嬉しかった。そして、次の取材は、翌々日の土曜日の午後ということになった。

第三節 日本軍の謎

金曜日は、特に取材もなく、一人のんびりと病室で過ごすことになった。
高木編集長からは、私が頼んでおい資料が届けられ、記憶の曖昧なところは資料で確認することにしていた。
それにしても、あの戦争は不思議なことだらけだった。
今日は、一日、そんなことを考えながら過ごすことにした。そうすれば、頭が整理できるはずだ。それに、今日は、終日検査もなく穏やかに過ごすことができる日だった。

確か、日本は明治維新以降、国際社会には相当に気を遣い、日清、日露の戦争も国際法に則って正々堂々と戦った。捕虜の扱いにしても、国内の捕虜収容所で丁重にもてなし、世界から非難を受けるようなことはしなかった。
だから、明治、大正時代までの日本軍は、軍規を重んじる清廉な軍隊だったはずだ。それが、昭和になると一変してしまう。本当にそうなのだろうか。ここは、一つ考えてみる必要があるだろう。

日本軍が中国に進出した理由は、日清、日露の勝利によって獲得した権益があったことと、日本からの移民や仕事で中国に在留する日本人が増えたからに他ならない。それは、どこの国も同じで、あの頃の戦争で勝利した国は、賠償金を得たり、その国の一部を租借地として借り上げたりと、治外法権の地域を創り上げていったのは、承知の通りだ。
有名な都市に香港や上海があるが、日本も中国東北部の「満州」地方に権利を持つことになった。
元々、満州は、中国の清朝時代の皇帝である愛新覚羅家が誕生した一地方で、満州族と呼ばれる民族の土地だった。そのために、万里の長城の北にあり、漢民族とは違う文化圏として認知されていたのだ。この満州地方は、今の北朝鮮やソ連、モンゴルと国境を接しており、ソ連は、満州への触手を伸ばしていた。
満州は、満州国が建国されるまでは、法の支配の及ばない無法地帯化していた。馬賊や匪賊と呼ばれるような盗賊まがいの人間たちが、その地域を支配し、そこで暮らす人々には困った存在だったのだ。
当時のソ連、いや、ロシア時代から、南下政策を採っていたソ連は、満州、そして朝鮮半島、次いで日本をもその領土に組み入れたい…という野心を隠そうとはしなかった。
ソ連は広大な領土を持つ大国であったが、その大半は北極圏にあり、不毛な土地が多かった。そのために、南の領土が欲しくてたまらなかったのだ。それに太平洋に出たくても、日本列島が壁のように出口を塞ぎ、すぐ側に太平洋がありながら、北極かヨーロッパ周りでしか太平洋に出ることは叶わなかった。
日露戦争のときに、バルチック艦隊が、北極回りで日本海に出て来たことを考えれば、日本という国がロシア・ソ連にとって厄介な国であることはわかるだろう。そして、そのロシアに日本が戦争で勝利したことは、太平洋への道が閉ざされたことを意味するのだ。だから、ソ連は、第二次世界大戦終結間際に、日ソ中立条約を一方的に破棄して日本に攻めてきたのだ。
本来ならば、こんな漁夫の利を漁るような参加は、認められないのだが、体の弱っていたルーズベルトは、ヤルタ会談で、ソ連のスターリンに一方的に条件を飲まされたといわれている。ソ連を助けようとしたルーズベルト政権だったが、助けるどころか足下を見られ、いつの間にか、ソ連のいいように世界が分割されてしまっていたのだ。そのヤルタでは、スターリンは既に思考力さえ失っており、側近の連中がソ連との交渉に臨み、世界分割案を決定したそうだが、その側近たちは、もちろん、後にソ連のスパイだってことがわかっている。同席したチャーチルは、助けて貰った手前、何も言うことができなかったそうだ。
権力と名誉欲だけにかられ、自分を見失い、重い病に倒れた大統領の憐れな末路だった。

さて、少し、日露戦争に話を戻す。
あの日露戦争の勝利は、世界が驚嘆する事件であり、白人種からすれば、あってはならない出来事として捉えられていた。そんな日本が、満州に国を建国させたことは、欧米列強にとって許し難い行為に見えた。
本来、中国を植民地化してきたのは、欧米であり、後からやって来た日本が、その領土を掠め取るかのように「満州」を奪ったのだ。
彼らの感覚にしてみれば、日本は、広大な地域を植民地化し、その膨大な資源を独り占めにするかのように見えたはずなのだ。そのころの中国は、群雄割拠の時代で、中央政府と呼べるものがない。取り敢えず、蒋介石の国民党が実権を握ってはいたが、各地に馬賊と呼ばれる集団が闊歩し、人々は、貧しく苦しい生活を強いられていた。中国共産党が誕生したのは、そんな時代だったからなのだ。                                        当時の中国人にとって、政府はどこでもいい。自分たちの暮らしを守ってくれるのなら、外国の日本軍であっても歓迎するような雰囲気があった。そんな中国の混乱に乗じて、ソ連は、毛沢東や周恩来などを支援して中国共産党を作らせ、蒋介石に対抗する組織としたのだ。そして、いずれは蒋介石の国民党を排除して、中国全土を共産主義の国に変えようと目論んでいた。それが、今の中華人民共和国の始まりである。
日本が本格的に中国に進出すると、満州国を自立させソ連の監視と反共の砦にしようと目論んだ。ただし、それは日本政府というより、南満州鉄道の防衛のために設置された「関東軍」が考えたことである。
関東軍は、日本陸軍における軍団を総括する最大規模の部隊で、兵員数も数十万人規模に膨れ上がっていた。本来は、南満州鉄道の安全と在留邦人の保護を目的とした部隊だったが、中国との軋轢が生じると、その数は、膨れ上がり、昭和16年の関東特殊演習時には、70万人を超える兵力を擁した。また、外地部隊であったことから、独立性が高く、昭和3年の張作霖爆殺事件や昭和6年の満州事変などを起こしたのも関東軍の謀略だといわれている。関東軍で有名なのが、東條英機と石原莞爾だろう。
この二人は、水と油のような関係で、大東亜戦争が始まる前に、東條は石原を予備役に追い落とし、軍から追放してしまった。
石原莞爾は、日本最大の戦略家といわれた逸材で、奇人でも有名だったが、五族協和を唱えた満州国建国の立役者だった。
石原には、世界最終戦争という未来予想図があり、いずれ、世界最終戦を行うのは、日本とアメリカだという考えに基づいた国造りを目指していた。だからこそ、この時期の大東亜戦争は、「時期尚早」として、最後まで反対していたのだ。
東條は、石原とは正反対の性格で、石原にいわせれば、
「上等兵程度なら、有能な兵隊が務まるだろう…」
と、その几帳面な性格を揶揄し、とことん反発し嫌っていた。
それはともかく、関東軍には日本の中央の意思に反して勝手に行動する癖があり、度々、国際問題を引き起こす原因となっていた。それには、関東軍なりの理由があった。
今でも、よく現場と本社では考え方が異なり、対立する企業が見られるが、関東軍と陸軍参謀本部や陸軍省とは、意見を異にすることが多々あった。たとえば、関東軍としては、南満州鉄道の安全を維持するためには、その鉄道周辺地域の安全を担保しなければならない。しかし、中国は、清朝が倒れて後、中央政府と呼べるものがない。そのため、現地の有力者と交渉し、邦人の安全を確保しなければならないのだが、馬賊や匪賊と呼ばれるような盗賊まがいの集団が闊歩し、安全を担保することが難しい状況にあった。
満州地方に移住してきた日本人にとって、頼りになるのは関東軍であり、日本の中央政府ではない。そうなると、日本は蒋介石政府と交渉するようにと命令を発しても、現実には、馬賊の張作霖と話をしなければ埒があかないことになる。そんな風に、その場、その場で臨機応変に対応しなければならなかったのが、関東軍であった。
日本政府としても、国際社会の手前、なるべく穏便に事を進めたいのだが、中国の状況を考えれば、難しいことは承知していたので、関東軍の行動を黙認せざるを得ないというのが、正直なところだったのだろう。
昭和3年の張作霖を関東軍が爆殺したという事件も、ソ連の謀略だったという説もあり、首謀者として関東軍高級参謀の河本大作大佐が挙げられたが、満州の王と呼ばれた張作霖は馬賊の親分で、この存在がソ連にとっても日本にとっても障害になっていたことは間違いなかった。しかし、当初、この暗殺事件を中国軍による謀略に見せかけたところに問題があった。そして、続く昭和6年には、石原莞爾を中心として満州事変を引き起こし、柳条湖付近の南満州鉄道の線路を中国軍が爆破したという噂を流して、満州全土に関東軍の部隊を動員し、わずか6ヶ月でそれを制圧してしまった。これも、日本政府や軍は、事前に知らされることなく関東軍の単独で行った事件だった。
これにより、翌、昭和7年に満州国は建国されるに至るが、これには、国際社会の反感を買い、日本が国際連盟から脱退するきっかけとなってしまった。
もし、日本軍が、それまでのイメージを変えてしまったとしたら、この関東軍の謀略によるところが大きい。
張作霖にしても、満州国にしても、中国の内情を知れば知るほど近代化の道は遠く、いつまで経っても欧米諸国の植民地状態が続いていたことは事実だ。それにより、日本の権益が脅かされ、在留日本人が不満に思うのも当然だった。しかし、それを改善するためには、日本は中国のすべてに関与せざる得ないことになり、中国人にしてみれば、外国人の不法介入にしか見えなくなっていた。
日本にしてみれば、「善いことをしている…」気分があったが、その態度は中国人に対して横柄で、差別意識も垣間見えることから、反日意識が生まれたのも自然の成り行きだった。また、その反日感情を利用して、蒋介石も毛沢東も、さらに反日を宣伝し、いつの間にか日本軍は、野蛮で怖ろしい軍団へとイメージが創られていったのだ。その多くの事件は、中国兵によるもので、その中国兵の蛮行も日本兵が行ったことにされ、なおさら、反日感情が高まるといった絵を描かれてしまったのだ。
今でも騒がれる「南京大虐殺」も、その一連の反日感情を煽るための宣伝だったことは間違いない。

他の国も中国に権益を持ち、租界もあったが、中国自体がどうなろうと関係ない…と割り切っており、自分たちが得た租界地さえ守ることができれば、それ以上のことに介入するつもりはなかった。ところが、日本では、「大アジア主義」といった「アジアはひとつ」というスローガンを掲げ、欧米諸国にアジアが一つになって対抗しようとしていたのだ。これは、明治維新直後から出て来た発想で、西郷隆盛の征韓論や朝鮮併合なども、この路線に沿った政策でもあった。
日本は、幸いにも明治維新により早急に近代化を図ることに成功したために、欧米の植民地化を防ぐことができたが、他のアジア諸国は、欧米列強の餌食となり、ほとんどの国がその支配下に置かれたのだった。
日本人は、アジアが白人社会に浸食されていく姿を座して見ることが出来ず、アジア諸国を啓蒙しようと努めたが、今になって考えれば、余計なお世話以外のなにものでもなかった。
特に中国人は、発想が欧米人に近く、強い権力者に靡く傾向があるために、清朝が倒れたのも、それより欧米列強の軍隊が強いと中国人が認識したからに他ならなかった。
この日本の勘違いと余計なお節介が、日本や日本軍を中国人が嫌う原因ともなったことに、当の日本人が気づかなかったのだ。それが、どんないいことをしたつもりでも、「してやった…」という恩着せがましい態度が好かれるはずもなく、顔が自分たちアジア人に似ていることからも、反感は強くなっていった。
朝鮮や満州国を見ても、日本から次々と予算を投入し、インフラや教育まで整備し、日本以上の豊かな社会を創り上げたが、そこに暮らす人々には、喜びよりも屈辱的な思いの方が多かった。
暮らしがよくなれば、よくなるほど、自国の政治が駄目なことがわかる。それでも、同じ民族なら有り難がっても、外国人にして貰って喜ぶ国民はいない。余計に惨めになるだけなのだが、その気持ちを当時の日本人には理解出来なかった。
自分たちでは到底出来ないことを易々と成し遂げる日本人を見て、尊敬の念を抱く気持ちと同時に、自分たちの政府が出来ない悔しさや恥ずかしさが、人々の心を当惑させていたのだ。
そんな中で、日本人に対する大事件が起こっている。
それは、昭和12年7月29日に起きた「通州事件」である。
この事件は、日本の味方だと思われていた冀東(きとう)防共自治政府の保安隊(中国人部隊)が、日本軍の通州守備隊や通州城内に暮らしていた日本人居留民を襲撃・殺害した事件である。これにより、女、子供を含む200人以上の在留邦人が猟奇的に殺害、処刑された。
日本人にとって、味方であると信じていた中国人部隊が突然、豹変したように日本人を襲撃し、惨たらしく殺す姿は、生き残った少数の日本人により明らかにされたのだ。
当時の新聞には、惨たらしい日本人の遺体の写真などが掲載され、全国で、中国に対する怨嗟の声が高まったのである。しかし、ここにも、日本人の中国人に対する甘さが垣間見える。
たとえ味方だ…と考えていたとしても、彼らは中国人であり、自分たちの利益のために日本に味方をしているが、さらによい条件で傭ってくれるのなら、寝返るのも当たり前なのだ。
心の底から日本人を信頼しているわけではなく、その襲撃の有様も、抵抗しない顔見知りの婦女子に対して何の躊躇いもなく銃弾を撃ち込み、青竜刀で首を刎ねたという。いわゆる「嬲り殺し」であった。防共自治政府の保安隊は、日頃から通州の日本人と接し、声を交わし笑顔を見せ合う関係だったという。日本軍の守備隊とも交流があり、そんな友人、知人をいとも簡単に嬲り殺しができる神経は、日本人では到底理解出来ないだろう。                      日中戦争の始まりだという「盧溝橋事件」が、近くの北京郊外で起きたのは、その半月前であることを考えると、この事件の背景には、中国共産党の陰謀が見えてくる。
昭和12年7月7日に起きた盧溝橋事件も、日本駐留軍と中国国民党軍による発砲事件がきっかけだったが、現地では、早急に解決したいと考えていたものが、泥沼のように戦争に引き摺り込まれ、全面戦争になるとは、だれも予想にもしていなかったのだ。
日本の中国への深入りが、すべての原因であり、これ以降、日本軍は残虐な軍隊として世界中に宣伝されていくのだった。そして、今でも話題になる南京攻略戦が始まったのが、昭和12年12月4日のことだった。
この昭和12年という年は、日本が中国との全面戦争に引き摺り込まれた年として記憶しておいてほしい。
盧溝橋事件に始まった日中戦争も日本の意思に拘わらず、拡大の一途を辿り、上海の日本租界が中国軍によって狙われ、昭和12年8月13日には、第二次上海事変が始まったのである。上海には、主に海軍陸戦隊がその守備に就いており、そこに中国軍が攻撃を開始したのだ。ところが、その中国軍の背後にはドイツ軍事顧問団が付いており、ドイツ式の攻撃方法を採用し、トーチカに立てこもり、ドイツから購入した武器を使用して日本軍に立ち向かってきたのだ。
日本とドイツは、前年の昭和11年に日独防共協定を結ぶような関係にありながら、ドイツは一方で中国に武器弾薬を売るだけでなく、日本軍の攻撃方法まで指南していたのだ。だから、ドイツは信用できない…と分かっていたのだが、ドイツも武器弾薬を輸出することで外貨を稼ぐといった政策を採っており、友好国と言っても、どこまで信用していいか分からないのが国際情勢というものだった。そして、この上海事変の拡大を主張したのが、当時の海軍大臣米内光政である。
米内は、陸軍参謀本部次長の多田駿中将が、
「陸軍は、戦争の拡大を望まない!」
と、涙ながらに強く主張したにも拘わらず、米内は、海軍の航空部隊に命令して重慶に退いた国民党軍を攻撃する「渡洋爆撃」まで敢行したのだ。
後に、この重慶爆撃を中国は、「無差別爆撃」として日本の非難の材料にされてしまった。そのとき、撮った「一人の泣く幼児」の写真がアメリカの雑誌「ライフ」に掲載されると、日本は非難に晒されることになった。ところが、この写真は捏造写真で、モデルの子供をわざと置いて撮影したことが、戦後判明している。また、空襲によって民間人の多くが犠牲になった写真など、無差別爆撃の非道さを訴えたが、どれも捏造が疑われる写真ばかりで、中国は、日本を貶めるための情報戦を徹底して行っていたのだ。
日本軍は、敵の軍事拠点を目標に空爆を行ったのだが、後にアメリカ軍が、民間人をねらった日本へ行った空襲とは違い、出来る限り限定的な爆撃に終始した。だが、中国軍は、これを逆手にとって、「民間人をねらった無差別爆撃が行われた!」と世界中に宣伝したために、孤立していた日本を擁護する声はなく、中国側の主張に反論することも出来なかった。これにより、日本軍は、中国を虐める「悪の軍団」と見られるようになり、これまでの日本軍の規律正しさが嘘のような扱いになったことは、中国が情報戦において、完全勝利したことを意味していた。
この情報戦は、さらに奥地へと向かう南京城攻略戦においても同様だった。
日本軍の司令官である松井石根大将は、各部隊に「軍規を厳正にせよ!」という通達まで出し、日本兵による不祥事が起きないよう配慮していた。なぜなら、この当時は、外国人記者が現地取材を許されており、南京市にも多くの外国人ジャーナリストたちがいたのだ。しかし、南京での攻略戦は、指揮官が早々に逃亡してしまい、残された中国兵は統制を失い、南京城内に多数が逃げ込んだのだ。中国兵は、軍服を脱ぎ捨て、民衆の中に武器を持ったまま紛れ込んだので、日本軍としても南京の治安を守るために、これを摘発する警察行動を採らざるを得なかった。
この軍服を脱いで市民になりすます行為は、国際法違反だが、馬賊や匪賊上がりの中国兵にとって、そんなものは関係なかった。ここにも、日本軍の勘違いがある。             日本軍は、世界に出しても恥ずかしくない正規軍である。軍律も厳しく、世界一統制の取れた軍隊だった。ところが、中国軍は、徴兵制度もなく、国民党なら国民党が勝手に若者を金銭で徴発し、数だけ集めた軍隊なのだ。軍規や統制などなったものではなく、逃げる兵には、後方から射殺する部隊があったとも言われており、恐怖心で兵を戦わせていたのだ。それに、兵たちの乱暴狼藉は黙認し、あちこちで起きた残虐な略奪行為も、そのほとんどが中国兵か馬賊、匪賊と呼ばれる男たちの仕業だったと言われている。それをすべて「日本軍の仕業」として宣伝したのだ。      南京戦においても、「便衣兵」と呼ばれた私服の中国兵は、隙を狙っては日本兵を狙撃したために、市内を警邏していた日本軍の小部隊が、それら便衣兵を銃撃をするような場面はあったが、組織的に市民を虐殺するような命令を清廉潔白な松井大将が出すはずもなく、日本軍の軍規は保たれていたのだ。さらに、中国軍は、南京城攻略後に、「30万人の市民が虐殺された!」と宣伝し、世界中に発信されたため、事実を知らない人々は、重慶に続く蛮行がさらに行われた…と信じ、殊更、日本軍を憎むようになっていったのだ。
アメリカの記者の中には、国民党に傭われ、真実かどうかではなく、宣伝のために記事を書き、アメリカ本国に送る者もいた。こうして、中国の嘘は世界中に拡散され、日本は窮地に立たされるようになっていくのだった。
戦後、軍規を厳正にせよ…という命令を発し、中国との融和に努めた松井大将は、忌まわしき東京裁判で、A級戦犯として処刑された。
本来、陸軍は多田駿中将が主張したように、中国大陸への進出は、戦争が泥沼化する原因となったが、なぜか、米内光政ら海軍側はこれに固執し、日中戦争の泥沼に嵌まり込んでしまったのだ。
親ソ派の米内たちに、何かしらの意図があるとすれば、本来、ソ連が仮想敵国であったものを中国に釘付けにすることで、ソ連への矛先を鈍らせ、これを守った…とも考えられる。
米内光政は、戦後、A級戦犯の指名を受けることなく病死しているので、真実はわからないが、米内の動きこそが、大東亜戦争の鍵を握るような気がしている。

大東亜戦争は、対米英戦争だけではない。それまでの日中の関係を知らなければ、わからないことが多い。しかし、日本と中国の関係は、明治維新直後から始まり、歴史的に見ても複雑な関係が見て取れる。
日本人は、自分の正義感や武士道的思考を基に世界を見て、「大アジア構想」を夢見たのだろうが、国際社会において、そんな夢を見たのは日本人しかいなかったのだ。
「同床異夢」という言葉があるが、まさに、朝鮮、中国とは、同じアジア人でありながら、見ている夢があまりにも違い過ぎた。そして、それは、余計なお節介だったのだろう。
朝鮮人にも中国人にも、それぞれの歴史に基づいた生き方がある。それは、どんなに不幸に見えたとしても、それを甘んじて受け入れる歴史があるのであれば、他国の人間が介入してはいけないのだ…。それは、日本人の道徳観とは違うのかも知れないが、相手のある事に対しての慎みかも知れない。
日本軍、いや、日本の兵隊が、世界中で、どんどん悪人にされていく姿を見るのは、とても辛いことなのだ。
日本にいるときは、善良で優しい一市民であり、働き者の父であり兄であるのだ。それが、兵隊として訓練を受け、戦場に出れば「悪鬼」と化すのだろうか。心がそんなに変わってしまうのだろうか。
元海軍士官として、戦場に出た自分としては、とても考えられない。
私の乗艦した軽巡洋艦能代は、レイテ沖海戦で沈んだ。
それでも、部下の兵隊たちは、最後まで屈託のない笑顔を見せ、祖国防衛のために戦ったのだ。彼らは、確かに戦闘中は「鬼」であったかも知れないが、戦闘が終われば、優しい一青年として、ふるさとを思い、愛する人を思う日本人なのだ。
今日は、ベッドの上で一人、そんなことを考えていた。そして、看護婦が渡してくれた薬を飲むと、少しづつ意識が遠のき、深い眠りに入っていった。

第四節 真珠湾攻撃の謎

この日は、しばらくぶりの晴天に恵まれ、春の暖かい日差しが、私の治療を促してくれるような効果があった。
入院生活も一週間以上が過ぎ、手持ち無沙汰の中で、唯一、月刊「光」の坂本瑞穂が訪ねて来てくれるのを楽しみにするようになっていた。
毎日、様子を見に来る裕子は、そんな私の心境の変化をいち早く読み取り、
「先生…?」
「今日は、坂本さん、来ますかね…」
「ん…?」
と、私が怪訝な顔をすると、裕子はすかさず、
「分かりますよ…。先生、朝から、何かそわそわしてますもんね…」
「でも、駄目ですよ。坂本さんは、坂本社長さんのお孫さんですから、変なことを言わないでくださいね…」
裕子は、こっちが何にも言っていないのに、先回りをして妙なことを言うので、
「おいおい、変なことを言うなよ…」
「こんな入院生活をしていると、人恋しくもなるんだよ。そんなことは、百も承知さ…」
「私には、いい話し相手さ。それだけだよ…」
そう言いながら、脇に置いてあったコップの水をゴクッ…と飲み込んだ。
何となく、そんなことを言われると、ドギマギしてしまう自分が情けなかった。
裕子が言うように、私は、坂本瑞穂が来ることを、確かに心待ちにしていたのかも知れない。
若い人が、こんな話を聞きたいはずがない。だけど、瑞穂は、眼を輝かせながら興味深く聞いてくれるのだ。そんな喜びが、入院患者には、嬉しいものなんだ…と言いたかったが、裕子が寂しそうなんで、それ以上は言わなかった。それに、私にしてみれば、裕子とは血のつながりはないが、まさに親と娘の関係だった。
その話も追々していこう。
「じゃあ、先生、私は大学に行きますから、後はよろしくお願いします」
「とにかく、嬉しくても、長話にならないようにしてください…」
そう言って、私に釘を刺して、部屋を出て行った。

午前中は、検査やら診察やらで、バタバタと忙しかったが、昼食を摂ると、今日の病院でのスケジュールは終わる。
そして、午後1時を指したころ、瑞穂がやって来た。今日は、一人らしい。          「こんにちは、先生…」
今日も、きちんとした春色のスーツを着込み、スカートから出た細くて長い足は、若者の特権のように感じて微笑ましかった。
髪は、ポニーテールのまとめていたが、それも色白の肌に美しく見えた。
瑞穂は、ここへ来る度に、花を買ってくるので、
「瑞穂さん。そうしょっちゅう買ってこなくてもいいよ…」
「取材中だから、あんまり気遣いはしないでくれ」
そう言葉をかけると、
「先生、大丈夫です。これも取材するための環境整備ですから、当然、会社持ちです」     「それに、花がある生活って素敵じゃないですか…。私、お花が大好きなんです」
そんなことを言うので、私も、苦笑いをするしかなかった。
瑞穂が今回持ってきた謎は、「真珠湾攻撃」のことだった。
これについては、何度も話してきたが、改めてどういう作戦だったのか、振り返って見て欲しい…という高木編集長からの依頼が添えられていた。そこで、天気のいい今日は、また、中庭に出て、そこの陶器製のテーブル席に座って話をすることにした。この病院は、そういった調度品から庭の手入れまで、本当に行き届いており、単に体の悪い部分を治療する…だけでなく、心のケアまで考えて設計されているそうだ。これは、担当の須藤看護婦が自慢げに言っていたことだが、なるほど、この陶器のテーブルと椅子のセットに帆布の大きな日よけの傘が付けられていて、なかなか風情があった。これなら、ここにコーヒーセットでもあれば、恋人との休日にも使えるだろう…。そんなことを考えていると、何だか、坂本瑞穂という女性に申し訳ない気がしてきた。      だけど、仕事と割り切ってしまえばいいか…と考え、瑞穂を見ると、既にバックからノートやら、録音機やらを取り出して、彼女は仕事モードに入っていた。これでは、私もちゃんと仕事をしなければならない。私が、
「ところで、瑞穂さんは、自分でも勉強しているんですか…?」
と尋ねると、嬉しそうに、
「はい。私、俄然やる気が出て来て、休日でも会社の書庫に籠もって調べたりしているんです。でも、色んな説があって、何かしっくりきません。何か、変なんですよね…」         「先生が仰るように、日本は東京裁判では、侵略戦争を意図して共同謀議を図り、真珠湾攻撃をした…というようなことが述べられているようですが、これでは、日本以外の国は善良な平和を愛する国で、日本やドイツだけが、邪な意図を持った悪い国…っていうレッテルを貼っただけのような気がします」「欧米列強は、産業革命以降、帝国主義政策を採り、植民地を世界中に広げているんですよ…。これって、体のいい侵略ですよね」「だから、調べれば調べるほど、わからなくなってしまうんです。私も学校時代、何を勉強していたんだろう…って、考えさせられました」    そう言いながら首を傾げて見せたが、私は、彼女が本当に勉強してきたことが嬉しかったが、こちらもいい加減なことは言えなくなり、少し緊張感が出て来た。そこで、
「じゃあ、これからする私の話も参考にしてください…」
と促して、白湯を一杯啜りながら、話を始めることにした。

もし、真珠湾を攻撃しなかったら、日本は対米英戦争に負けなかったかも知れません。どんなことをしても、強大なアメリカと戦争になったら負ける…と考えるのは、大きな間違いです。たとえ、戦争になっても負けない方法はあるんです。そこからお話ししましょう。
山本五十六が、だれかに唆されて真珠湾攻撃を夢想した話は前にもしましたが、もちろん、山本個人の考えであるはずがありません。
当時の日本海軍は、日本の巨大官僚組織です。大昔じゃあるまいし、そんな連合艦隊司令長官一人の意見で、これまでの作戦計画がボツになるなんてことはあり得ません。上司が許しても、官僚組織が許さないからです。それが、僅かな期間で承認されたのは、かなり上の人が動いたからに違いないのです。山本の上といえば、軍令部総長の永野修身大将、総理大臣や海軍大臣経験者の米内光政大将、そして、元軍令部総長の伏見宮博恭王くらいなものです。その人たちが、真珠湾攻撃を容認した人々と考えて間違いないでしょう。
まあ、伏見宮様がどこまで関与していたかは不明ですが、当時の海軍に強い影響力を持っていた人ですから、真珠湾攻撃を事前に知らなかった…というのも、どうかな…と思います。なぜなら、永野総長は、前の軍令部総長だった伏見宮様のお付き武官みたいな存在ですから、後で叱られては、自分の立場が危うくなります。実際、そうはなっていないので、事前に永野から伏見宮様には、お話は行っていたと思います。                               伏見宮様は、お飾りの海軍大将ではありません。軍艦の艦長も務められた生粋の海軍軍人なんです。宮様でありながら実力で軍令部総長になった人物だと言えるでしょう。そんな重鎮が、なぜ、真珠湾攻撃を認めたのかは、未だに謎なんです。申し訳ありません。ただし、皇族ですから、知っていても「知らぬ存ぜぬ…」を決め込むのは、当然です。しかし、そのことで、永野総長を叱ったという話も聞きませんから、やはり、事前に了承していたと考える方が自然です…。
軍令部総長の永野大将は、
「まあ、山本があそこまで言うんだから、やらせて見たらいいじゃないか…」
なんて、暢気なことを言っていたという証言がありますから、やはり、事前に知っていたということでしょう。それに、米内大将も、これについては何も語ってはいません。ただ、だんまりを決め込んでいたんです。それに、陸軍や大本営には、何も知らせず、海軍の独断で決めた攻撃でしたから、首相の東條英機大将も後から聞かされたと証言しています。
本当なら、時の総理大臣には作戦内容を知らせ、了承を取っておくものだと思いますが、そのことからも、最初から大本営が機能していなかったことがわかります。だから、陸軍、海軍、政府がそれぞれ、勝手に戦争をしていたように見えるんです。まして、真珠湾攻撃が成功したかのように見えたので、その決裁手続が問題視されませんでしたが、海軍も官僚機構の一つであると考えれば、失敗した場合、国の運命を左右する重大事となり、戦争継続は難しかったはずです。
そんな初歩の手続きすら無視して行った真珠湾作戦とは、何だったのでしょうか。そして、この小さな成功が、後々、問題を引き起こすのです。

おそらく山本五十六は、この作戦を実行してみて初めて、自分のやったことの恐ろしさに気がついたはずです。
日本の航空部隊を育てた山本ですから、真珠湾攻撃の主目的は、アメリカ太平洋艦隊の航空母艦を沈めることにあったはずです。ところが、真珠湾には航空母艦は一隻もいませんでした。本当は、日曜日なので、少なくても4隻は湾内にいて行動予定は入らないはずです。アメリカという国は、戦争中でも、きちんと休みの日は休む…という行動パターンを繰り返していました。彼らにとって戦争は、命懸けではありますが、ひとつの仕事として認識されていたんです。だから、私の経験でも、日曜日には空襲がない…という認識がありました。収容所では、休日になると作業もないので、捕虜チーム対アメリカ兵チームでバレーボールで試合をしたこともありますよ。彼らは本当に陽気で、大声を上げたり拍手をしたり、笑ったりと、心からゲームを楽しむような気質がありました。こっちは、戦争でもするかのように必死でボールに食らいつくんですが、なんか悲壮感が漂ってくるんです。同じ人間でありながら、本当に文化が違うんだな…と思いました。だから、戦争前の休日の真珠湾に航空母艦がいるなんて、疑いもしなかったはずです。それが、実際は一隻もいないんですから、山本だって気がついたはずです。そのことを聞かされたとき、山本は青ざめ、「しまった…」と臍を噛み、自分が騙されていたことに気づかされたんです。
山本にしてみれば、航空母艦さえ沈めてしまえば、しばらくの間、太平洋の制空権は日本が握ることになります。おそらく、アメリカは、大西洋艦隊を回すことも出来ず、最低でも一年は、太平洋の制空権は日本にあったでしょう。そうなれば、ハワイ占領も夢ではなくなり、一気に講和に持ち込めると、算段をしていました。ところが、山本の意を汲んだはずの南雲忠一中将は、真珠湾の旧式の戦艦を沈めたことで喜び、第二次攻撃をしないまま機動部隊を反転してしまったんです。現地では、航空部隊の指揮官たちが、「第二次攻撃をしましょう。ハワイの石油貯蔵庫や周辺施設も無傷です」と強く進言したのですが、参謀長の草鹿龍之介少将は、首を横に振り、「剣豪は、一刀のもとに敵を倒すものだ」などと、武士道に則った作法であるかのように格好を付けて、南雲長官の判断を支持したのです。航空母艦を沈めるはなしなど、端からなかったかのように、さっさと引き揚げてしまいました。連合艦隊司令部でも、議論はありましたが、再攻撃の命令を出すことなく、「帰国の途に着く…」といった無電が入ると、それでだれもが安心してしまったんです。これで、万事休す…です。
山本は、ハワイの大戦果の報告を受けても、特に喜ぶでもなく、ただ、淡々と将棋を指し、その後は、長官室に戻って、しばらく部屋から出てこなかったといわれています。
将棋は、自分の気持ちを抑えるためと、周囲に自分の動揺を見透かされないための行動であり、周囲の喜びも、山本にはショックだったことでしょう。それに、自室にでも籠もらなければ、自分の気持ちを落ち着かせることも出来ません。心の中では、ずっと、「騙された…、騙された…」と、反芻していたと思います。
「天才的な博打打ち」を自負していた男が、相手に手の内を読まれ、見え見えの策に乗って自滅したわけですから、自暴自棄にならないはずがありません。
敵を騙したつもりで、まんまと敵の策におびき出されたわけですから、軍人としての自信も崩れたことでしょう。この時点で、山本の軍人としての生命は絶たれたのです。

元々、日本海軍の対米戦争に対する構想は、ハワイ遠征などではありません。それも、航空機で敵の要塞を制圧するような奇策ではなく、日本近海に正々堂々とアメリカ艦隊を迎え撃ち、史上最大の海戦の結果として、大勝利を収める計画だったんです。そのために、議会に無理を言って世界第三位の大艦隊を整備してきました。確かに、大艦巨砲主義といった古い概念に取り付かれたままの計画だったかも知れませんが、それは、アメリカやイギリスも同じです。
航空機と航空母艦は著しく進歩し、その運用なくして戦争はあり得ない様相を呈していましたが、飽くまでも戦艦部隊の補助兵力として機動部隊が編成されたのです。
そんな大構想の下で、艦隊を揃えてきたにも関わらず、それを運用する連合艦隊自らが、これまでの計画を破棄し、機動部隊単独でハワイを奇襲しようというのですから、とんでもない話です。
その上、ハワイでは、敵の航空母艦を撃ち漏らしたとあっては、この作戦は、大失敗という評価を下さなければならないはずが、日本では、軍艦マーチのメロディに乗って「大勝利!」を謳ってしまったことで、山本の責任を問う声は上がりませんでした。
この謀略に成功したルーズベルト大統領とその側近たちは、即座に「だまし討ち」のレッテルを貼り、大声で、「リーメンバー・パールハーバー」を叫んで見せたのです。
事情を知らない国民や連邦議会の議員たちは、日米交渉中に日本軍が、とんでもない暴挙に出た…と思い込み、諸手を挙げてルーズベルトに賛同し、対日戦争に突入していったのです。
当初、山本は、
「太平洋艦隊を撃滅して、アメリカ国民の戦意を挫く…」
みたいなことを言っていましたが、まったく逆の効果をもたらしてしまいました。
そもそも、太平洋艦隊のワンセットを潰したところで、アメリカ人が音を上げるはずがないのです。それより、アメリカ人は「売られた喧嘩は、必ず買う」という性格だったことを日本人の多くが忘れていました。あのとき、アメリカ政府は、殊更に亡くなったアメリカ兵の悲劇を宣伝し、如何に日本軍が卑怯で残忍な連中か…ということを誇張して国民に伝えました。そして、アメリカ国民の憎悪を掻き立てたのです。こうして怒りに火がついたアメリカ人を鎮める方法は、ありませんでした。青年たちは、次々と軍に志願し、日本との戦いに挑んでいったのです。この青年たちも、山本五十六同様に、騙されていたのですから、本当に気の毒な話です。こうして、日米は、全面戦争に突入していきました。こうしてルーズベルト政権は、ニューディール政策の失敗を糊塗し、国家総動員体制で第二次世界大戦に参戦できる体制を完成させたのです。真実を言えば、アメリカ国民にとっては大迷惑な話だったのですが、一部の資本家とルーズベルト、そしてその側近、ソ連、コミンテルンにとっては、大成功でした。イギリスのチャーチルも、この報を聞いて、小躍りして喜んだと伝わっています。ドイツに敗北寸前のイギリスは、是が非でもアメリカの参戦を望んでおり、これで一息吐けたのは間違いありませんが、これが大英帝国崩壊の始まりになることにチャーチル自身が気づくまでには、後、数年の時間が必要でした。

機動部隊を預けられた南雲中将は、山本の真意など知らず、命じられるままに渋々、ハワイ作戦を遂行しました。艦隊のほとんどの艦長や司令官は、この山本の案を聞かされたとき、唖然とした言います。海軍士官の常識として、あり得ない作戦なんです。
余程、敵が間抜けか、油断でもしていない限り、大艦隊がだれにも気づかれずに行ける距離ではありません。別に敵国の船でなくても、どこかの国の船に発見されれば、本国に無電され、アメリカの知るところとなるのは、当たり前のことです。それも、今は日米交渉の瀬戸際の時期です。たとえ噂であっても、そんな兆候がアメリカ政府の耳に入れば、日米交渉は、その時点で決裂したでしょう。そして、その確率は、限りなく100%に近いのです。山本五十六は、そんな海軍の常識派の艦長たちの危惧も無視しました。それだけでなく、「もし、日米交渉が妥協する見込みが立てば、艦隊を引き返せ!」と厳命しました。それに異を唱える艦長たちに、こう言い放ったのです。「兵を養うは、何のためか。飽くまで国の平和を守らんが為である。引き返せという命令に不服の者は、申し出よ。直ちにその職を解く!」                         一見、平和を希求する司令長官という印象を与えますが、とんでもありません。それなら、最初から、機動部隊をハワイにまで送らなければいいのです。そんな危険な賭をした男が、一方で平和を望むなんて矛盾しているではありませんか。機動部隊の各艦長たちは、当然、そんな風に思っていましたが、みんな口を閉ざしてしまいました。腹の中では、山本という人間を軽蔑していたことでしょう。それが、常識というものです。そして、永野軍令部総長も米内光政大将も、すべてを山本五十六一人に預け、だれもが心配する話を聞こうともしなかったのです。
一番頭を抱えたのは、軍令部の参謀たちでした。
伊藤整一次長をはじめ、部下の参謀たちが、いくら考えても、成功の確率はゼロに近く、戦争そのものを諦めるかのような無謀な作戦でした。これを「無謀だ」と思わないとしたら、それは、謀略であることを知っている人間だけです。伊藤整一中将は、軍令部の中にいて本当に苦労した人物だと思います。彼は、最後に無謀な海上特攻艦隊の司令長官として戦艦大和に座乗し、沖縄に向かう途中で撃沈されて戦死しました。開戦当初の軍令部次長という要職にありながら、山本を止めることができず、自分が想像したとおりの最期を迎えるに当たって、責任をとるかのような戦死でした。こうした立派な軍人がいたことを覚えておきたいと思います。

真珠湾攻撃がなければ、日本は、正々堂々と米英に宣戦布告を行い、その上で、フィリピンのアメリカ軍基地を空襲し、東南アジアの攻略戦に撃って出たはずです。
敵は、米英の植民地派遣軍ですから、歴史の事実どおりに短期間で占領し、東南アジアからインド解放に向かったのです。昭和19年に行われたインド解放のためのインパール作戦は、日本軍の計画の杜撰さと牟田口廉也という司令官の人格によって、日本の戦史上、もっとも悲劇的な作戦といわれていますが、これが、昭和17年初頭に行われていたら、様相は随分違うものになっていたのです。インドは、イギリスの植民地として統治され、搾取され続けてきました。しかし、インド人は日本と協力してでも、独立を勝ち取りたいという希望を持っていました。そして、その日本に支援を求めたのが、チャンドラ・ボースです。彼は、今でもインド独立の英雄としてインドで尊敬の対象になっていますが、ドイツがあてにならないと悟ったボースは、日本を頼るのです。このインパール作戦は、確かに、あの時点では無謀な作戦でした、開戦当初であれば、間違いなく成功したでしょう。インドからイギリス軍を駆逐できれば、あの広大なインドが日本の同盟国になったのです。そうなれば、明治以来、日本の掲げた「大アジア構想」は、実現できたはずです。中国など相手にしなくても、インドは、日本人と価値を同じくする優秀な民族なのです。         話は、少し飛びますが、例の東京裁判で、「日本は無罪!」と主張した判事が一人いました。それが、インド代表のラダ・ビノード・パール判事です。パール判事は、国際法を学んだ権威ある学者でした。彼は、「平和に対する罪と人道に対する罪」は、戦勝国による戦争終結後に作られた事後法であり、これを以てそれ以前の罪を裁くことは許されない…と主張したのです。まったく、常識的な判断でしたが、東京裁判で取り上げられることはありませんでした。           パール判事にしてみれば、判事に任命される前から、戦勝国の裁く東京裁判自体に疑問を持っていました。そして、日本軍が行ったインパール作戦は、失敗に終わりましたが、インド独立のための支援作戦として高く評価していたのだと思います。もし、インドにチャンドラ・ボースやガンジーが現れなかったとしたら、インド人は、自分たちの誇りを取り戻せなかったはずです。ガンジーは、無抵抗主義を説きましたが、彼らは、イギリスの役人に殴打されようとも、理不尽な命令に無軍で抵抗しました。それが、何百、何千と現れたとき、イギリス人は本当の怖ろしさを味わったはずです。そして、インド独立義勇軍が参加したインパール作戦は、彼らに本当の勇気を与えたのだと、私は考えています。義勇軍が叫んだ「デリーへ!」という言葉は、その後もインド人の心に残りました。

話は、少し本題から逸れましたが、インドやチャンドラ・ボース、そしてパール判事のことも覚えておいていただきたいと思います。                            もし…、という話は、あり得ない話かも知れませんが、あの当時、この「もし」の方が、現実的な話でもあったんです。逆に真珠湾攻撃は、まったく常識外れの「まさか…」という作戦でした。あの艦長たちの方が、私は、真面だったと思います。                     日本海軍が、日露戦争直後から練りに練った作戦なら、機動部隊をを東南アジアからインド洋まで送り込み、制空権を確保しつつ、インド独立を促したでしょう。そうなれば、中国は放っておいても構わない地域になります。当然、援蒋ルートは遮断され、アメリカ義勇軍は殲滅されることになります。あのころの南雲機動部隊は、まさに無敵の艦隊です。あんなミッドウェイなどに行かなくても、ハワイ方面などは、潜水艦部隊に任せておけば十分です。そうなれば、主力の連合艦隊は予定通り、西太平洋に向かい、サイパン島を本拠地として集結し、アメリカ太平洋艦隊の来航を戦備を整えて待てばいいのです。日本海海戦のときもそうですが、軍艦というものは、整備にとても時間がかかる代物なんです。大量の石油も必要ですが、船底にこびり付いた貝や牡蠣などの殻がくっつき、船速に大きな影響を与えました。それに、ボイラーの点検も必要です。大砲や銃器も毎日整備しなければ、役に立ちません。それなら、決戦場近くに、そういった艦の整備ができる基地が必要になります。だから、サイパン島が適地ということになるんです。ここなら、十分な港湾設備を整えることができるスペースがあります。滑走路も何本を作れる広さもあります。ここを拠点にしてアメリカ艦隊を迎え撃てば、日本海軍の方が地の利を得ている分、有利になるという考えがありました。                                        海軍の戦略では、ハワイから出撃するであろうアメリカ太平洋艦隊を南洋諸島に点在する島々に航空基地を造り、そこから数度の攻撃をかけ、アメリカの機動部隊の航空機を減らすことを考えていました。通常、一隻の航空母艦には、200機ほどの航空機を搭載します。5隻の航空母艦には、合計1000機が最大搭載量です。それを、基地航空隊が3割ほど減らせれば、残りは700機になります。そこに、今度は、潜水艦部隊を単艦で自由に潜行させ、輸送船団を攻撃させます。輸送船には、予備の航空機や燃料、乗員の食料や日用品が積まれていますので、そこで2割程度の戦力を削ることができれば、アメリカ太平洋艦隊に大きなダメージを与えることができるのです。そして、最終的には、サイパン島沖に来襲したアメリカ太平洋艦隊の機動部隊とこちらの機動部隊が激突し、双方相打ちとなっても、日本軍には、まだサイパン基地の航空部隊が温存されています。そして、最終決戦になりますが、おそらく、制空権は日本が取ると思われます。なぜなら、その時点でも航空機の数と日本の戦闘機、そして搭乗員の優秀さを考えれば、空の戦いは間違いなく、日本軍の圧勝に終わります。最後に戦艦同士の砲戦で決着をつけるというのが、最初からの目論見でした。そのために日本海軍は大艦巨砲主義を信じて大型戦艦群を整備してきたんです。戦後は、戦艦巨砲主義を「無駄な投資だった…」とばかにする評論がありますが、当時の国際情勢を考えれば、これが、あながち無理だという根拠がありません。真珠湾攻撃に比べれば、数十倍確率の高い作戦であることは間違いないのです。                             こうした確率の高い戦略を持っていたにも拘わらず、なぜ、真珠湾攻撃を機動部隊のみで実施したのか、未だに謎なのです。それを山本五十六という一軍人のカリスマ性に持って行くことこそが、無理だと言っているんですよ。                               日独伊三国軍事同盟では、日本が他国と戦端を開いた場合は、自動的にドイツもイタリアも宣戦布告をする手筈になっていたので、アメリカとも戦うことになります。しかし、アメリカ世論は、戦争に参加することを喜びませんでした。そのために、ルーズベルトを大統領に三度選んだのです。
世論が盛り上がらない中で、日本とドイツを相手に戦うとなれば、如何にも限定的にならざるを得ません。アメリカ世論は、戦争の主力になることを嫌がるはずですから、兵器の増産も国家総動員体制にはなれません。そうなれば、長期消耗戦に陥ることは考えられず、限定的な局地戦を戦い、講和につなげるのが一般的でしょう。
要するに、真珠湾攻撃を行ったために、この勝利の方程式が崩れ、日本は、滅亡の淵に立たされるのですから、山本を始め、日本海軍の責任は重大だと言えると思いますよ…。ただ、だれが山本に入れ知恵をしたかは、分かりません…。想像出来るのは、山本がアメリカに留学していた大正8年と駐在武官として赴任した大正末期のころに、アメリカ共産党のスパイが山本に近づいた可能性があります。
アメリカ海軍に属する人間であったなら、山本は、それほど警戒しなかった可能性があります。
山本は、視察と称して、アメリカの各地を見て回ったそうですが、酒、女、博打は、三度の飯より大好きという男ですから、脇が甘いところがある…。
人間は、そういう匂いを醸し出していると、同じ種類の人間が近づいてくるものです。
おそらく、山本にはアメリカにも多くの知人や友人がいたはずで、その中には、女性もいたでしょう。自分ではナンパしたつもりかも知れませんが、山本という日本海軍の軍人に近づいて、情報を得ようとする人間はうようよいます。ハニートラップなんかかけなくても、山本から美しい女性に近づいてくる。それに、酒と博打が出来るバーは、秘密のアジトになっている可能性もあるんです。そこで、与太話のふりをして、「真珠湾」の話などが出た可能性があります。それ以上に、山本は調子に乗って、日本海軍の実情をペラペラと話してしまったかも知れません。山本は、あまりアメリカ時代の話をしなかったと言いますから、人に言えない秘密行動もあったと見るべきです。
駐在武官という役職そのものが、スパイ活動をしに行くようなものですから、アメリカの裏社会に通じていても、おかしくはないんです。
アメリカだって、当然のように、この博打好きの駐在武官をマークしていたはずです。もし、そのとき、だれかが「ハワイ軍港…」を示唆するような言葉を発していれば、山本の脳裏に「ハワイ」が刻まれた可能性があります。そして、「ハワイ空襲」をイメージしながら、日本海軍の航空部隊を養成したのかも知れません。
それが、より具体化されたのは、海軍次官時代だと思います。このときの上司が米内光政ですから…。
米内は、親米英派と知られた海軍の大物で、昭和15年には、内閣総理大臣を務めています。しかし、米内の経歴を見ると、親米派というよりは、親ソ派です。彼は、大正4年と7年に、ロシアとソ連の駐在武官をしています。ちょうど、ロシア革命の時期に符合します。
米内も酒と女好きで有名な男ですが、ロシア革命時にロシアで、大きな変革の動きを見てきたわけですから、共産主義や革命というものが、どういうものか一番よく分かっている人物です。そして、駐在武官として、やはりロシアやソ連の裏社会ともつながっていた可能性があります。あの明石大佐も、秘密裏に革命派と通じていたという話は、日露戦争後の英雄譚として語られていますが、実態は、だれも知りません。国家の機密費を使い、革命派を支援していたということだけです。そこで何が話し合われ、どんな約束が出来ていたのかは、一切不明です。その関係が、日露戦争後、どう日本とつながっていたのかを知る資料はないんです。もし、そのルートがまだ残っており、米内がそれに関わっていたとしたらどうでしょう。                   ロシア革命が起きたのは、ちょうど米内がロシアに赴任していた間のことでした。米内は、駐在武官として、ただの傍観者でいたとは到底思えません。日本政府や日本海軍からも何らかの指令が出されていたはずです。もし、明石ルートが残されていたとしたら、米内がその支援を引き継いだ可能性があるのです。だって、ロシア帝国が崩壊すれば、新しい体制になり、ロシアの南下政策のような脅威はなくなるかも知れないんですよ。まだ、共産主義の怖ろしさを知らない時期ですから、まずは、ロシア帝国の崩壊を願うのは、当時の日本としては当然の思考です。ですから、米内は、駐在武官として忠実に働いていたはずです。おそらく、それには陸軍の駐在武官も関わっていたことと思います。そうして、革命が成功するや、ロシアはソビエト連邦を建国しますが、米内は、知ってはいけない情報を知り過ぎたともいえる人物になりました。そうなると、否も応もなく、ソ連共産党のシンパとして、生きる道しかなくなった可能性があります。もし、それに反して秘密情報を漏らせば、当然、ソ連の秘密警察に暗殺されることでしょう。米内のことですから、ソ連に恋人もいたでしょうし、その恋人のことも心配です。親しくなればなるほど、どうにもならなくなるのが、人間の常なのです。米内にしてみれば、利敵行為さえしなければいい…と腹を括るしかありません。そんな秘密を抱えながら、日本に帰国した後の米内は、出世街道を驀進しています。    前にも話しましたが、米内は、海軍の重鎮として日米開戦を主導した人物の一人です。表面上は、親米英派を装い、その裏では日本が日中戦争を拡大するようなことばかりしています。さらには、南進論を主導し、日米英戦争を招いたのです。それが、すべて「ソ連を守る」ためだとしたら、どうでしょう。米内の行動は一貫していたことになります。終戦工作においても、米内はソ連に仲介を頼むよう政府に働きかけ、「残った艦船をすべて、そのためにソ連に差し出せばいい…」と、驚くべき発言をしています。同じ思想を持つ内大臣の木戸幸一も、「ソ連が進駐してきても、そんなに酷いことにはならんよ…」と、能天気なことを言っていたといいます。そして、米内は、なぜか、東京裁判ではA級戦犯の指名を受けることなく、北海道に移住し、そこで亡くなりました。したがって、米内は、戦争の当事者であったにも拘わらず、何も語らず死んでしまい、今でも米内は、「戦争終結に努力した軍人」として評価されています。                         ただ、私は、最後の陸軍大臣を務めた阿南惟幾大将が、敗戦の責任を取って切腹する間際に、自分の部下に向かって「米内を斬れ!」と命じて死んだことが、忘れられません。          それにしても、米内という人物は、得体の知れないところがあり、兵学校時代の成績より、その風格によって出世した軍人のようです。普段は無口ですが、眼は大きく、その威圧的風貌は、周囲を怖れさせました。山本を可愛がったのも、山本の持つ独特の匂いが、自分と共通するものを感じていたからでしょう。この米内になら、山本は「ハワイ空襲」案を事前に話していた可能性があります。米内には、共産主義者で、近衛文麿首相の内閣書記官長を務めた風見章との接点があり、おそらくは、尾崎秀実らともつながりがあったはずです。この人たちは、すべて親ソ派の人物で、共産主義者かそれに近い人々でした。
尾崎たちが、「昭和研究会」というチームを作り、近衛文麿のブレーンとして活動していたことは有名です。そして、その近衛自信が、後に「自分は、共産主義者たちに騙されていた…」ということを、天皇に「近衛上奏文」として打ち明けたことでもわかります。
この構造を考えると、「真珠湾攻撃」を示唆したのは、ゾルゲから尾崎秀実、米内光政、山本五十六へと続く親ソ派の謀略のように見えてきます。
この辺りのことは闇の中ですが、終戦直後、風見章が米内や山本と交わした書簡を、庭でこっそり焼いていた…という話を風見の家族が見ていたそうです。
日本の「南進論」を近衛に唆した昭和研究会が、「真珠湾攻撃」を米内や山本に唆したとしても、まったく不思議ではありません。こうした策謀の渦の中に、昭和初期という時代があったということです。
*                                                 私の話を一時間以上にわたって聞いていた瑞穂は、フーッと小さなため息を吐くと、
「じゃあ、山本五十六は、周囲の人間に動かされていたんですね…」
と言うので、
「ああ、そういうことになるね。表に出るのは、山本だったが、裏では、共産主義者やその仲間が蠢いて策謀を巡らしていたんだよ…」                          「大人には、みんな、それぞれの事情を抱えているのは、今も昔も同じだからね。単に人物像や肩書きで人を見てはいけない…ということなんだ」                     「もし、私がそのとき彼らの側にいたとしても、どう行動したかはわからない。私は、たまたま若く、戦争の状況もわからないまま軍艦に乗っていただけの一兵士だから、米内や山本の立場は、わからないんだよ…」                                  「それでも、研究者としては、忖度なく考えるというのが今の仕事だから、失礼なことも言うのだが、そのときの人たちが、どうするべきなのかは、その人次第で、こうすればいい…と言うのは、歴史を知っているから言える未来人の言葉だね…」                       「それに、アメリカも一筋縄ではいかないところがあってね。アメリカ人にもいろいろな考えがあって、日本の味方をしてくれそうな人たちもいたんだが…」
「だけど、真珠湾を攻撃されてしまって、日本を擁護出来なくなってしまったんだ。もし、その人たちを味方につけていれば、あんな戦争は起こらなかったと思うよ…」
私がそう言うと、瑞穂は、納得したような顔を私に見せた。
「そう言えば、今でもアメリカって民主党と共和党に分かれて政権争いをしているじゃないですか…。それに、あのケネディ大統領だって、弟のロバート上院議員だって暗殺されているでしょ…」
「考えてみれば、アメリカの表は華やかだけど、裏は、すごく怖ろしく感じます…」
「先生、ありがとうございました。これで、私も少しは、いい記事が書けそうです…」
そう言って、優しい笑顔を私に見せてくれた。後は、季節の話をしたり、瑞穂の好きな人の話をしたりして、私は、楽しい時間を過ごすことが出来た。
こんなことだから、裕子に、いろいろなことを言われるんだろう。でも、若くて感性豊かな美人の前で、寛がない方がおかしい。
瑞穂には、恋人がいないらしいから、だれか大学にでもいい男がいないもんか…と考えを巡らせたりしていた。
春とはいえ、3時を回ると陽が陰り、少し肌寒くなったので、今日の話はここまでにして、また、次回を約束するのだった。

第五節 ミッドウェイ海戦の謎

翌々日の日曜日は、裕子も休日とあって午前中に家の用事を済ませて、病院にやって来たのは、ちょうど12時を少し回ったころだった。
この日の約束は、午後1時30分だったこともあり、裕子も、この取材に参加するつもりだったらしい…。
裕子は、私と一緒に食事をしながら、
「先生、随分楽しそうにお仕事をされているようですね…。先日、高木編集長さんから大学に電話がありました」
「坂本瑞穂さんが、すごく勉強をされていて、とてもいい取材が出来ているって、言ってましたよ…」
その顔は、何かを含んでいるように、唇の左側の口角が上がっているので、すぐに「やきもち」を焼いているんだとわかったが、知らんぷりをしていた。
裕子は、間もなく40歳になるはずだが、母の幸子によく似て色白で、きめ細かな白い肌をしていた。唇もほんのり紅味を帯びていて、若いころ、いや、今でも学内では、「明誠美人」としてエントリーされるほどだった。ただし、化粧は薄く、髪も後ろに束ねるだけのあっさりで、派手さがない。着る服も、学生が着るような紺やグレー、茶系のスーツが多く、清潔感はあるが、色気は少ない…。
性格もサバサバしていて、講義になると結構大きな声で端的に話している。
歌は上手いが、どちらかと言うと流行歌は歌わない方だろう。
逆に、居酒屋の常連で、私ともよく近くの「三幸」という店に行く。母の名の幸という文字が気に入ったらしい。
酒は、間違いなく私より強いが、飲んで乱れたことはない。だから、男たちも少し近寄りがたいようだ。
昔、結婚を意識して付き合った男はいたようだが、東京を離れることが出来ずに、諦めた…らしい。そのころは、母の幸も入退院を繰り返していたし、私のこともあって、さすがに母一人、子一人では、嫁ぐことも出来なかったのだろう。
私に相談してくれれば、何とかしたのに…と後で思ったが、何も言わなかったのが、裕子の優しさなのだ。
その母の幸子が亡くなり、父の戦友の私だけが身寄りのようになってしまった。
私も、空襲で母と妹を亡くし、戦後間もなく、私が帰国する前に父も死んだ。
お互い天涯孤独の身で、戦後の長い間、二人で支え合ってきたんだ。
そんな私が、仕事だと言っても、若くて美しい女性と会っていることに、心が穏やかであるはずがない。それは、父を取られた娘の心境なんだ…と思うと、申し訳ないが、こちらも取材費をいただく以上、いい加減な対応が出来ないので、とにかく、何も言わないことにしていた。
それで、今回は、休日の取材ということもあって、裕子も参加することになったのだ。

この日も、病院のラウンジを借りて、取材を受けることになった。
テーマは、「ミッドウェイ海戦」である。
既に、昭和初期の日本の状況と真珠湾攻撃までは話したので、次は、このテーマとなったが、これは、正直言って、どうしようもない戦いだった。
席に着くと、高木編集長と坂本瑞穂が待機していて、私用に白湯の入ったマグカップを置くと、瑞穂が質問を向けてきた。高木は、いつもの着古したスーツだが、瑞穂は、女性らしく、今日は淡いピンクのカーディガンを羽織っていた。平日と違い、日曜日なので、少しカジュアルな格好をしてきたのだろう。                                     私が、そんな風に瑞穂を見ていると、隣から裕子の咳払いが聞こえてきた。どうも、私の視線の先を見て、注意してくれたらしい。                             別にやましい気持ちはないのだが、裕子は、少し気にしすぎるのかも知れない…と私は心の中で呟くことにした。そして、もう一度、瑞穂に質問の趣旨を促すと、瑞穂が、いいですか…?というような顔をして、私を見たので、眼で、どうぞ…と再度促した。               「や、山本長官は、真珠湾で撃ち漏らしたアメリカ太平洋艦隊の航空母艦を叩くために、ミッドウェイ作戦を計画したということですが、やはり、日本本土への空襲を怖れたためなのですか?」
と聞いてきた。
まあ、通説では、そうなっており、昭和17年4月の東京へのドーリットル空襲が引き金になったということだが、それより、真珠湾作戦の失敗が山本を焦らせたといった方が正しい。
私は、三人に、
「要するに、山本にしてみれば、真珠湾攻撃は、成功するはずだったんだ…」           と言うと、二人は驚いたような顔を見せ、
「確かに、アメリカ政府による謀略説があることは知っていますが、それは誘導されただけで、成功まで保証されていたんですか?」                            と尋ねるので、私は、                                           「実際はわからないが、山本は、そう思い込んでいたんだろうね。だから、空母さえ叩いてしまえば…と考えたのさ…」
「まあ、一種の誘惑に乗せられたウブな男ってところかな…」
「誘惑?」
裕子が、何かを頭で思い浮かべているらしく、妄想を掻き立てているような顔をしていた。
「そうさ、誘惑さ…」
「それは、こういうことだよ…」
私は、徐に話を続けることにした。

おそらく、山本は、アメリカ駐在武官時代からアメリカのスパイがもたらしたハワイ情報に心が惹かれていたんだと思います。
だって、考えてみてください。
前回も言いましたが、彼は、賊軍の長岡藩の出身ですよ。
山本が、軍人を志したのも、河井継之助や家老の山本帯刀、そして長岡藩牧野家の汚名を晴らすことです。言っておくと、山本五十六は旧姓高野五十六です。
元長岡藩士の高野家から、後嗣のいなくなった長岡藩家老山本帯刀の家に養子に入ったんです。海軍大尉の時でした。
このころ、海軍大学校に入った海軍大尉と言えば、海軍のエリート街道が約束されたようなもんです。きっと、郷里長岡の希望の星になっていたんでしょう。
元藩主の牧野子爵の口添えがあって、山本帯刀家を相続したわけですから、その意味は、「賊軍の汚名を晴らしてくれ!」しかありません。
山本の生涯には、この言葉が終生つきまといました。
そんな山本が、アメリカ滞在中に、アメリカ政府のエージェント、若しくは共産党のスパイからハワイの話を聞かされ、「これは、面白い…」と密かに温めていたのだと思います。
日本に戻ってからは、賊軍出身者ながら、海軍のエリート街道を突き進み、航空部隊の育成に努めます。なぜなら、艦隊は、薩摩藩出身の軍人が多く、なかなか山本が入り込む余地がなかったからです。
飛行機なら、まだ、未完成の分野であり、まして航空母艦の運用となると、まったくの未知の世界でした。
本来であれば、砲術を専攻した山本が、未知の飛行機に行く必要はありません。そのころの飛行機は、成績優秀な人間が専攻するような代物ではなかったんです。それでも、山本は、飛行機にのめり込み、日本の航空隊の基礎を築きました。その間、山本の脳裏には、ずっとハワイがあったんだと思いますね…。それが、運命の糸に引き摺られるように日米開戦が決定し、海軍に日本の運命が委ねられることになりました。
もし、これが日ソ戦なら、陸軍が主力となりますから、山本にしたら大違いです。山本は、きっと、
「これで成功すれば、長岡藩の汚名を晴らすことができる…」
「俺が、救国の英雄になれるんだ…」
と、興奮したと思います。
そこに、元上司の米内光政や昭和研究会の尾崎秀実などが、国策を南進論に持って行くために策謀を巡らしていました。
山本のそんな野望や性格を知る米内は、三国軍事同盟に反対した同志の山本を連合艦隊司令長官に据えたのです。理由は、「三国同盟反対で、右翼に狙われているから、海上に逃がす…」というものでした。
山本は、軍略より軍政の方が性に合っていたらしく、引き続き海軍次官をやりたかったみたいですが、米内の命令には逆らえません。それに、連合艦隊司令長官は、2年程度の任期だし、故郷長岡にも、海軍次官よりも聞こえがいい…。
もし、米内に何か考えがあったとしたら、自分にとって都合のいい山本を連合艦隊のトップに据えておいた方が便利だ…ということもあったと思います。
米内にしてみれば、隙の多い山本は、御しやすい人物だったんだろうと思います。それに、米内は岩手で、山本と同じ賊軍の出身です。
おそらく、山本は連合艦隊に出る前に、自分のハワイ作戦案を米内に披露していたはずです。時期はわかりませんが…。
その山本の意図を見抜いた米内は、それを利用しようと思いつきました。
後は簡単です。
そのころのアメリカ政府内は、共産主義の巣窟だと言えるくらい、ソ連のスパイがたくさん入り込んでいました。もし、日本が、ハワイを攻撃してくれれば、願ったり叶ったりです。
アメリカ世論は、戦争への参加は断固反対ですが、日本が卑怯な奇襲攻撃でもかけてくれれば、戦争に参加する明確な理由が出来るのです。
ほくそ笑んだルーズベルトを初めとした共産主義者たちは、それを上手く演出するための策を考えました。それが、ハルノートであり、日本の宣戦布告文書の遅延でした。
そして、ハワイの太平洋艦隊司令部には、危険を知らせず、日本軍のハワイ攻撃を黙認したんです。要するに、「見て見ぬふり作戦」です。
これが、まんまと成功すると、ルーズベルトは、待ってましたとばかりに、議会で「リーメンバー・パールハーバー!」と叫んで見せたのです。
本当に彼らは、素晴らしい演出家であり俳優でした。
そして、このときの山本五十六のショックは計り知れません。
国内では、「英雄、英雄!」と拍手喝采を贈りましたが、航空母艦を沈めることの出来なかった真珠湾攻撃など、何の意味もないのです。これでは、講和どころか、寝ていた獅子を叩き起こしただけのことで、日本など、アメリカが本気になれば、あっと言う間に食い殺されることぐらい、山本にはわかっていました。
そうです…。そのとき、山本は「騙された…」ことに気づいたのです。しかし、公に米内や風見、尾崎などの名を口に出すことは出来ません。黙って、連合艦隊を率いて対米戦争をしなければならなくなったんです。
勝つ見込みなど、まったくない戦争をしなければならない山本の苦衷は、察するに余りあります。そのとき、山本は死を覚悟したんだと思います。
本来、山本は作戦家ではありません。
政治家としては、腹の据わった政治をしますが、作戦家として、この大戦争をどう戦うかのビジョンを元々持っていないのです。ただ、ハワイ攻撃だけが、唯一の作戦でした。
本当は、この一会戦で講和に持ち込むはずだったわけですから、次の手など考えようもありません。このときになって、明治以来の暫時撃滅案を放棄した付けの大きさを実感したはずです。しかし、今となっては、後戻りは出来ません。まして、東京がアメリカ軍によって空襲されたと聞くや、慌ててミッドウェイ攻略を含んだ大作戦を敢行しようと焦るのです。
山本の頭の中には、敵航空母艦の撃滅しかありません。とにかく、空からの攻撃を阻止し制空権を握れば、もう一度講和のチャンスが巡ってきます。だから、何としても敵の航空母艦を誘き出し、ハワイで出来なかった計画を完成させることでした。しかし、このとき、山本を助けてくれる人は、だれもいませんでした。
北進論を潰し、南にさえ向かってくれれば、取り敢えずソ連の崩壊はありません。処刑された尾崎やゾルゲも、あの世でホッとしたことでしょう。そして、親ソ派の米内や風見も、安堵のため息を吐いたはずです。そうなると、山本など、どうなっても構わない男なのです。

このミッドウェイ作戦計画は、山本の指示で、連合艦隊首席参謀の黒島亀人大佐が作ったと言われています。黒島は、「変人参謀」という渾名があり、戦争をゲームのように組み立て、面白がるような変人気質の男でした。
黒島は、山本に、
「ハワイ近海のミッドウェイ島を空襲すれば、必ずハワイから敵の航空母艦が出て来ます。そこを叩けば、間違いなく敵を殲滅出来ます」
と大口を叩き、ついでに、北のアリューシャン作戦まで組み入れました。さらに、敵航空母艦を叩いた後、山本が勝利宣言をするために、連合艦隊の戦艦部隊が、機動部隊の後からのこのことついて行く計画まで立てていたのです。
黒島は、頭の切れる男でしたが、実戦経験がないため、ゲームと現実の区別がつきにくいんです。そのため、計画が大きくなり、かつ、緻密になってしまったために、現実と計画の間に小さな綻びが出始めていたのですが、それに気づいた者がいたとしても、日本の英雄となった山本やその幕僚に意見する者はいませんでした。
ミッドウェイ作戦自体は、そんなに難しい作戦ではありません。
単純に言えば、ミッドウェイ島の航空基地を叩いて、ハワイから押っ取り刀で駆けつけてくるアメリカ機動部隊を待って、航空決戦をするだけのことです。それを、機動部隊は、最初のミッドウェイ島の空襲に失敗します。
敵が日本海軍の暗号を解析して、襲来に備えていたから失敗したのですが、それでも、次に来る敵機動部隊の出現を待てばよかったんです。しかし、現地では、そこで疑心暗鬼が生まれたんですね。
これが、戦場の常なんですよ…。
敵の情勢がわからない機動部隊は、ミッドウェイ基地からの攻撃にも備えなければならないし、現れるだろう敵機動部隊にも備えるといった二重作戦に陥ってしまったんです。それで、南雲司令長官は、第二次ミッドウェイ島攻撃命令を出したんですが、敵に備えて雷撃機に魚雷を装備させていました。それを陸用爆弾に付け替えさせたのは、航空参謀源田実中佐です。そして、航空母艦内では大童で、魚雷を爆弾に替え終わったとき、「敵艦隊発見!」の報せが入りました。
このときは、まだ、航空母艦がいるかどうかの判断が出来ません。すると、今度は、「航空母艦らしきものを認む!」という偵察機からの報告です。
これで、また、「らしき…?」と疑心暗鬼に陥りました。
人間とは面白いもので、一度決断すると、他の情報が入っても、前の判断に固執するところがあります。この時点で既に冷静さを失っているんです。そして、最後に、「敵航空母艦発見!」の報せが入りました。こうなると、前の判断が間違っていたことになります。
これで、作戦が失敗でもしようものなら、責任問題となり、将来の出世はなくなります。だれもが、「失敗」の二文字に囚われ、体が硬直したはずです。
空母飛龍に乗っていた南雲長官指揮下の山口多聞少将は、南雲司令部が乗っている空母赤城に対して、催促の信号を送ります。
「直ちに、発艦の要ありと認む!」
つまり、甲板上の飛行機を敵艦隊に向けて発信させろ…!という意見具申です。
それでも、南雲や源田は迷います。そして、出した答えが、
「正攻法で行こう…」
ということになりました。
冷静に考えれば、もう一度、爆弾を魚雷に取り替える時間はありません。敵の攻撃機が到着してしまえば、万事休すなんですが、そんなことより、失敗をどうやって挽回するか…でいっぱいになった南雲や源田は、一番やってはいけない選択をしてしまうのです。
こういうところは、いくら軍人と言っても素人です。
このときの日本海軍で、本当の修羅場を潜った者はいませんでした。南雲も源田も平和な時代のエリート軍人です。理屈では分かっているつもりでも、実戦の経験がないので、臨機応変な仕事が出来ないんです。もし、彼らが中国との戦争にでも出征していれば、戦争の怖さも難しさも理解できたでしょう。その点、山口少将は、中国戦線での航空戦の実相を現地で見ていますから、「戦機」という言葉を感覚的に知っていました。だからこその意見具申だったんです。
南雲中将や源田中佐は、ハワイからミッドウェイまで、確かに戦場で指揮を執りましたが、本当に身の危険を感じた戦いはありませんでした。
勝ち戦が続き、「戦えば、勝つもんだ…」と安易に考えていた節があります。これは、何もこの二人ばかりではなく、機動部隊の乗員や搭乗員にも見られた…といいます。それに、戦ったのは航空機に搭乗する飛行兵ばかりで、司令部の参謀が、危険な戦場に身を置くことはないんです。だから、戦場勘みたいなものが働かないのかも知れません。
逆に、敵の飛行機が目の前に現れて緊張してしまい、冷静な判断が出来なくなってしまったとも考えられます。
とにかく、戦場には通常では考えられない異常なことが起こるものです。
人間は極限状態に置かれると、脳が麻痺するのかも知れません。それを何度も繰り返していくうちに、脳が正常な働きをするようになり、生き残れる…とも考えられます。
私も、軍艦能代で敵の攻撃を散々受けたのですが、実際は、そのときのことは、あまり覚えていないんです。きっと、緊張のあまり何を指揮したかも忘れるくらい無我夢中だったのだと思います。
とにかく、こうして、ミッドウェイ海戦は日本の大敗北となりました。
日本は、正式空母の赤城、加賀、蒼龍、飛龍の4隻を一瞬にして失い、山本の悲願だった敵航空母艦撃滅の夢が、脆くも崩れ去ったんです。実は、この時点で、対米戦争の敗戦は決定したと言えるでしょう。
よく、ミッドウェイ海戦は、暗号戦に負けた…と言われますが、情報戦において、日本はアメリカと比べて、大人と幼児くらいの違いがありました。
情報戦というのは、スパイ活動などもその一つです。
アメリカには、日系人も多くいたんですから、当然、スパイを放っていたと思いますが、碌に情報をもたらしては来ませんでした。
アメリカに共産主義者が蔓延り、アメリカ政府内にも多数のスパイが入り込んでいることくらい、わかりそうなもんです。
ソ連のコミンテルンから、様々な指令が各国の共産党に出されていたんですから、そこから探る方法だってあったはずです。
日本国内でも特別高等警察の捜査によって、ゾルゲや尾崎秀実らのスパイ組織が暴かれたんですから、海軍は、何をしていたんでしょうか?
山本は、スパイにいいように踊らされたし、暗号は、すぐに解読される始末で、通信機器は弱く、レーダーすら装備できない時点で、情報戦は完敗です。そんな未熟な軍隊が、百戦錬磨のアメリカと戦争をしようなどと考えたところに、日本の未熟さが垣間見えます。
この敗戦によって、山本は、絶望したことでしょう。
わざわざ、凱歌を上げるためだけに機動部隊について来たのに、歴史上、最大の大敗北を喫しては面目もありません。賊軍の汚名を晴らすどころか、さらに、家名に泥を塗り、恥をかくことになってしまいました。これで、山本が生き長らえるはずがありません。だから、ガダルカナルの最前線に飛んで行き、機上で戦死したのも、絶望感からの自殺に近い行動だったと思います。

後、もうひとつ。
山本の戦死についてですが、これにも謎が存在します。
山本の死は、さっきも言ったように、自殺に近い戦死だとする理由を話します。
真珠湾で失敗し、その挽回策としてミッドウェイ作戦を敢行しましたが、これが大敗北となり、本来は責任を取って辞職するのが筋ですが、海軍の上層部は、それを許してはくれませんでした。
その理由のひとつは、山本五十六の名前が大きくなりすぎたことです。
真珠湾奇襲作戦が大成功を収めたかのように宣伝されたことで、対米戦争は、山本五十六抜きには考えられなくなっていたのです。だから、ミッドウェイの大敗北は、その事実を隠され、兵たちは、日本に帰還しても秘密裏に幽閉され、故郷に帰ることも出来ませんでした。
本来ならば、機動部隊の南雲長官や草鹿参謀長なども更迭され、人事の刷新を図るところですが、責任を取らされたのは、航空参謀の源田中佐が航空母艦の飛行長に左遷されたくらいでした。
なぜかといえば、公には互角の戦いを行ったことになっている機動部隊に厳しい人事が下されれば、せっかくの隠蔽工作が無駄になるからです。
山本は、敗戦の報告に訪れた南雲中将や参謀長の草鹿少将に、「責任は、私が取る!」と言い、この二人の指揮官を更迭することはありませんでした。
これも山本特有の温情とする向きもありますが、やはり隠蔽のために、そのまま機動部隊の指揮を執らせたと考えた方がいいでしょう。まして、山本五十六自身に一番の責任があるわけですから、海軍ぐるみで隠したと考えるのが妥当です。そして、山本は、特に責任論も出ることなく、また、次の南太平洋海戦やガダルカナル攻防戦の指揮を執り、最後のイ号作戦を経て、山本が長年かけて創り上げてきた日本海軍の航空部隊は、ほぼ壊滅してしまいました。
それを見届けた山本は、いよいよ、引き際を悟ったのでしょう。
「前線視察を行う!」という命令を発すると、これまでの白い軍服を脱ぎ、草色の軍服に着替えて一式陸上攻撃機に乗り込みました。護衛の戦闘機は、たったの六機です。
この視察行きは、暗号に気を遣うこともなく、平文で視察先に到着時刻まで送り、アメリカ軍を歓喜させました。
アメリカ軍は、ここで山本を始末するのがよいか、それとも生かす方がよいか議論をしたそうです。それは、もし、山本の後に、もっと優秀な人間がトップに立つのであれば、山本を生かした方がいい。逆に、次のリーダーは凡庸な人物しかいないとなれば、ここで山本には死んで貰う…。そんな議論でした。
結局、次の連合艦隊司令長官になる人物は、間違いなく凡庸な人間だ…という結論を得て、山本機撃墜計画が練られました。
確かに、次の古賀峯一大将は、砲術や水雷を専門とした将官で、どちらかというと調整型の司令長官でした。それに、山本が航空部隊を粗方消耗してしまった現在、古賀に出来ることはそんなにはなかったんです。そういう意味では、貧乏籤を引かされた軍人と言うこともできます。その古賀大将は、山本の後を継いで連合艦隊司令長官に親補されますが、既に航空戦力を消耗し尽くしていた海軍は、その再建が急務となっていました。アメリカ軍の反攻も本格的になり、古賀長官は、中部太平洋方面で防戦に努めましたが、もう、それに抗するだけの戦力がなくなっていたのです。そして、就任から一年後、海軍の南洋の拠点であったパラオが空襲されると、連合艦隊の司令部を急遽フィリピンに移すため、二機の大型飛行艇で飛行中、暴風雨に遭遇し、なんと行方不明になってしまったのです。おそらく、雷雨の中飛行し、墜落したものと推定されました。問題は、それだけではすみませんでした。もう一機の飛行艇に乗っていた参謀長の福留繁中将は、やはり飛行艇が海上に不時着したため、やむを得ず、海の中に入って救助を待っていたところ、なんと、フィリピンのゲリラ隊に身柄を拘束されてしまったのです。要するに、敵の捕虜となってしまうという大問題を引き起こしてしまいました。幸いなことに、その後、日本軍が救出にあたり、無事に保護されましたが、機密の暗号書が入った鞄が、そのゲリラの手に渡ってしまったのです。しかし、福留たちは、その鞄は間違いなく海に沈めたと主張したために、不問に付されましたが、実際は、ゲリラの手にありました。海軍は、この問題も追及することなく暗号書は、変更されずに使われ続けたといいます。なんと、お粗末なことでしょうか。ハワイ作戦の失敗、ミッドウェイ作戦の失敗、山本長官の戦死、古賀長官の殉職、参謀長の捕虜問題、暗号書の紛失問題と、日本海軍は、重要な局面において悉く失敗を繰り返したのです。そして、その隠蔽体質は、終戦のその日まで変わることはありませんでした。結局は、あのハワイ作戦から生じた日本海軍の狂いは、どんどんと広がり、修正不可能のところまで来ていたのです。山本五十六は、航空部隊を使い切ると、自ら死地に跳び込み、自分なりの責任を取ったのかも知れません。本人は、あの長岡藩の河井継之助のような心境で、死んでいったのかも知れませんが、残された日本国民は、何も知らないまま、若い兵隊を戦場に送り続けました。いつか勝利する日が来ることを信じて…。私も、そんな大問題が起きているとは露ほども知らず、戦場に出ることだけを目標に訓練に励んでいたのです。

さて、ここで、もう少し山本の死について、不思議な出来事を話しましょう。         山本の乗った一式陸攻は、視察先のブイン飛行場に到着する寸前に待ち構えていたアメリカ陸軍の戦闘機によって撃ち落とされました。記録では、機上戦死ということになっていますが、これも、おそらく、国民の発表するために作られた創作だと思います。
検死記録を調べて見ると、一式陸攻は、機長の必死の操縦で、ジャングルの中に不時着するかのように滑り込んだたために、胴体は折れましたが、山本と高田軍医長は、しばらく生きていたのではないか…と言われています。
よく、山本の最期に、
「飛行機の外に投げ出された元帥は、座席に座ったまま、軍刀を抱くようにして静かに眼を閉じていた…」
という描写がありますが、それは本当だったようです。
それに、山本の体にはほとんど傷がなく、ただ、一カ所だけ喉元に銃弾が突き抜けた痕が確認されたそうです。そして、そのすぐ側には、高田軍医長が横たわっていました。
機体の中を見ると、連合艦隊司令部の参謀たちが、血塗れになって死んでおり、中には、炎で焼けただれた死体もをあったといわれています。つまり、敵機が攻撃をしてきた際、山本の部下たちは、山本の体を守ろうと山本に覆い被さったのでしょう。自分の身を犠牲にして長官を守ろうとしたその使命感は、同じ軍人だったものとして、立派だったと思います。そして、不時着の際も、だれかの体がクッションになって山本を守り抜いたとしか考えられません。
外に飛び出して、飛行機の中の座席に本を座らせたのは、最後まで生きていた高田軍医長だったのです。
高田軍医長は、瀕死の状態で山本を助け、座席へと座らせると、しばらくして絶命したのでしょう。遺体は、山本長官に手を伸ばすような仕草で倒れていたといいます。墜落時の衝撃で、体内で出血した血が凝固し、血管を破裂させたのかも知れません。航空機事故には、稀にある症状です。
山本は、座席に腰を下ろしながら、しばらく救助を待っていたのでしょうが、暗いジャングルの中で一人、何を考えていたのでしょうか。戦死覚悟で乗った飛行機で、墜落しても死ねない自分を恨んだのかも知れません。または、自分の身を捨ててまで、守ってくれた部下の参謀たちに感謝の言葉を贈ったのかも知れません。それでも、山本は、これ以上生きていくことはできなかった…と思います。自分の行った過ちで、国を滅ぼそうとしているのですから、先祖に対して申し訳が立ちません。自分の邪な考えが、こうした事態を招いてしまった後悔の念は、山本を苦しめたはずです。そして、山本は考えた挙げ句、自分で高田軍医長の持っていた拳銃で自殺したものと思われます。

報道では、敵機の機銃弾が体を貫いた…とありますが、もし、アメリカ軍機の13粍機銃弾が、首から背中に抜けていれば、顔の半分は吹き飛び、見るに無惨な状態だったはずです。
山本の傷は穴が小さく、どう見ても拳銃の弾丸程度の大きさの物でした。結局、数日後に山本の遺体は陸軍の一小隊によって発見されましたが、検死後、その遺体は、だれの眼にも触れることなく、日本に運ばれました。
検死に携わった軍医には、箝口令が敷かれ、遺体に近づく者があると、同行しなかった渡辺という戦務参謀が、険しい顔をして追い払ったといわれています。
おそらく、渡辺は、この山本の秘密に気づいてしまい、隠蔽することにしたのだと思います。  もし、山本五十六が、戦争の将来に絶望して自殺した…などと知られれば、日本はパニックになります。そして、海軍の責任問題が大きくクローズアップされたことでしょう。
渡辺はそれを察し、自分一人だけの秘密として、地獄まで持って行くことにしたのだと思います。
山本五十六という人物は、決して悪人ではなく、愛国心や郷土愛のある男だったと思います。しかし、軍人としては隙の多い人間でした。そして、賊軍の汚名を晴らさんと、焦り、藻掻き、必死に戦ったのでしょう。しかし、ハワイ攻撃に一発勝負を賭けたところで墓穴を掘ってしまいました。
その後は、自分が騙されていたことを知ると、図らずも、祖国を裏切ってしまった後悔の念と悔しさ、そして、絶望感が入り交じった人生だったと思います。彼の心が純粋だっただけに、気の毒としか言いようがありません。山本五十六の死は、しばらく伏せられた後、国葬で葬られることになりました。その葬儀委員長を務めたのが米内光政です。長岡では、山本神社を創り、軍神として祀りたいという意向もあったようですが、戦局の悪化とともに立ち消えになったそうです。    *
こうしてミッドウェイ海戦を振り返って見ても、様々な思惑や感情が入り乱れ、「こうだ!」という単純明快な答えが出ないものなのだ。三人は、黙って私の話を聞いていた。
録音機だけが静かに回っており、その音だけが、私の話を刻んでいるのだと思うと、少しだけ寂しさもあった。しばらくの静寂の後、高木編集長が言葉を発した。
「先生、よくわかりました。ありがとう、ございました…」                 「ミッドウェイ海戦の失敗は、有名なので私も知っているつもりでしたが、山本五十六の立場になって考えてみると、複雑な思いがあったことがわかりました。また、米内光政という人物にも大変興味を持ちました。確かに、米内さんは、掴み所のない人物のように描かれることが多く、正直、戦争にどう関わっていたかがわかりませんでしたが、親米派というより親ソ派だったんですね…」「私たちは、少し、戦争を単純に見過ぎているのかも知れません…」             そう言うと、何事かを考えるような素振りを見せると、私に声をかけた。          「で…、先生には、後二つだけ、お願いしたいと考えています」
「これが、月刊光に掲載されれば、世間からかなりの反響を呼ぶと思います。そして、様々な意見が寄せられることでしょう。私共は、一向に構わないんですが、先生には、ご迷惑をおかけすると思います…」
恐縮して、そう言うので、
「いやいや、前にも言いましたが、私は、全然、構わないんですよ。私の経歴も、しっかりと載せてください…。その方が、読者も納得されるでしょう…」
「いいんですか…?」
「はい」
「私は、生粋の海軍軍人でしたし、戦闘経験もあります」
「戦争は、本当に惨たらしい…」                            「本物の戦場を知っている者の一人として、少しでも真実を語っておきたいと思います…」
「あんな戦争を二度と起こさないためにも、真実は明らかにされなければなりません。もちろん、私の話も一つの説です。違うという方もおられるでしょう。でも、それでいいんです…。議論することが、必要なんだと思いますよ…」
私が、そう言うと、裕子が声をかけた。
「先生、そろそろ…」
そう促されて、私は、自分の病室に戻ることにした。
右手を挙げて挨拶をすると、瑞穂が、丁寧にお辞儀をしているのが見えた。
私は、裕子に、
「やれやれ、話すと本当に疲れるよ…」
そう言って、添えられた裕子の手を軽く握った。
確か、どこかで握ったことのあるような、柔らかくて優しい手の感触だった…。その感触は、私が忘れようとしても忘れられない、苦しい思い出のひとつでもあった。

第三節 特攻隊の謎

翌日の午後、瑞穂が、また花束を持って面会に訪れた。
来るたびに見舞いの品を持ってくるので、「もういい…」と断っているのだが、それでも懲りずに持ってくるのが坂本瑞穂という女性なのだろう…。
今日は、薄いグリーンのワンピースに、ベージュのジャケットを羽織っている。着ている物のセンスはよく、社会人としてだけでなく、入院患者を見舞う服装としても申し分ない。
挨拶がてらに聞いてみると、
「いえ、これは、母が用意してくれんるんです…」
「母の父、つまり私の祖父も海軍の軍人で、先生のように立派な経歴ではありませんが、やはり軍艦に乗っていたそうです…」
「その祖父は、数年前に亡くなったんですが、いつも清潔な身なりをしていて、母に、服装には、その人の人柄が出る…と言って注意をしていたそうです」
「それで、私も、顔を合わせると、よく小言を言われました…」               「髪が長すぎる…とか、靴を揃えろ…なんて、坂本の祖父に比べても融通が利かない頑固者だったんです。でも、母は、曲がったことの嫌いな立派な人だったって言ってました」        私が、「戦後は、何をされていたんですか?」                       と尋ねると、                                       「はい、蒲田で精密機械の部品を造る町工場を経営していました。今でも、叔父が経営を受け継いで社長をしています…」                                 私は、それで合点がいった。
私たち海軍の軍人は、兵隊から大将まで、その服装やマナーには殊の外厳しく躾けられた経験があった。この瑞穂の祖父の経歴はあまり聞かなかったが、技術系の士官だったのかも知れないと思った。海軍には、機関学校や経理学校という将校養成機関があったが、機関学校は、軍艦や飛行機のエンジンを扱う技術部門の将校要請機関で、そこでの訓練は、技術系だけに私たち兵学校よりもさらに厳しいという噂があった。それに、軍艦の動力を扱う縁の下の力持ちといった配置になるためか、我慢強い人が多い。実際の戦闘が始まると、甲板上で何が起きているか、わからぬまま必死にボイラーを焚き、軍艦が沈むときも艦の一番下にいるので、生き残る者は少ないのだ。     私は、瑞穂の話を聞いて、なるほど…と感心した。戦後、苦労して機械部品製造工場を立ち上げ、家族を養い、生きてきたんだろう。私などに比べて、なんと立派な人物なんだろうと、改めて瑞穂を見るのだった。                                    あの坂本明倫氏とこの祖父の血を受け継いだ娘だ。きっと、この仕事も立派にこなすに違いない。私は、そう確信するのだった…。                             そう言えば、海軍兵学校にもあったが、間違いなく機関学校や海兵団にもあったはずだが、兵舎の廊下の踊り場には、全身を映せる大きな鏡が、必ず括り付けられていたのだ。これは、「踊り場で必ず自分の服装を点検せよ!」という海軍の躾の一環だった。だから、だれもが軍服には常にアイロンをかけ、きれいにしておかなければならない。ズボンなどは、寝るときに布団の下に敷いて、しわ伸ばしをするのが普通だった。                            外出の前には、必ず服装点検が行われ、上官から注意を受ける。これが、乱れていると、兵隊なら上官から殴られたし、場合によっては、休暇を取り消しになっても文句が言えなかった。だから、海軍と言えば、お洒落という印象がついていた。海軍部内には、「スマートで目先が利いて几帳面、これぞ船乗り!」という言葉があるくらいなのだ。
私は、瑞穂に、
「でもね。海軍では、ひとつの不注意が事故につながる…という危機管理のために、整理整頓や服装なども細かく躾けたんだ…。お祖父さんの躾は、君の将来を考えてのお小言だったんだね。いいお祖父さんだ…」
そう言うと、瑞穂は嬉しそうに、
「はい。じゃあ、花を生けてきますね…」
そう言って、花瓶を持って花の交換に出て行った。
さて、今日は何の謎だろう…と考えていると、また、年甲斐もなく少しウキウキした気持ちになってくるのがわかった。
こんな姿を、あの裕子に見られたら、また、何を言われるかわからない。
そう思いながら、私も身支度を調えた。
体の方は、今のところ痛いところもなく、病院の医師は、
「じゃあ、来週には退院ですね。後は、二週間に一ぺん通院してください。お薬を差し上げます…」
ということだった。

そうしている間に、花瓶に花が飾られた。
今日の花は、チューリップが入っていたが、残念ながら、後はよく分からなかった。
私は、花の名前を覚えるような余裕もなく過ごしていたらしい。ただ、黄色や紫などが彩り、心を慰めてくれた。まあ、私には、瑞穂が来てくれるだけで華やかな気分になったもんだが、それは、内緒である。
ラウンジに席を設けると、今日は、瑞穂と二人きりで取材を受けることになった。
瑞穂の顔は、最初のころとは違い、私の話を聞こうとする真摯な態度が見られたので、こちらもいい加減なことはできない。その黒目がちな瞳で見つめられると、いい年をして少しドギマギしてしまう自分がいたが、それを悟られないように、落ち着いた声で尋ねた。
「で、瑞穂さん。今日のテーマは、何でしたっけ…?」
そう言うと、瑞穂は、バックから大学ノートを取り出し、
「実は、編集長から、特攻隊のことについて、意見を聞いてこい…っていうことなんです…」
「特攻隊って、テレビドラマで放映されている『同期の桜』のことでしょう?」
そう言うので、私は少し驚いたが、それはそれで間違ってはいない。
このころは、戦時中を扱ったドラマが必ず放映されており、「同期の桜」というドラマは、海軍予備学生出身の特攻隊員の話が中心になっていて、私もその時代考証を一部担当していた。
それに、私の同期生も随分、特攻隊の指揮官として出撃している。
私は、艦船勤務だったので、彼らに会う機会は少なかったし、それに、レイテ沖海戦で海に放り出された後は、アメリカ潜水艦に救助されて捕虜になったので、それ以降の日本の情勢は新聞記事でしか知らないのだ。だが、戦後、日本に上陸して同期生の石川から多くの仲間の死を聞かされた。
石川の話に衝撃を受けたが、私は、そうか…とひと言、言ったきりで、それ以上言葉を発することができなかった。不可抗力とはいえ、敵の捕虜となってしまった身としては、彼らをどうこう言う資格がないのだ。
それが、今の若い人には、テレビドラマの中の出来事としか考えられないのも無理はない。
敗戦によって、多くの戦友たちの死も語られなくなったし、「無駄死に…」「犬死に…」と蔑む声さえ聞こえてきた。
私に対しても、「なんだ、捕虜崩れか?」と陰口を聞く者がいることを知っている。
戦後、間もなくは、                                   「海軍兵学校出の将校が、おめおめと生きて帰ってきて恥ずかしくないのか?」
と面と向かって罵られたこともある。それが、敗戦なのだ。
もし、日本が勝利していたら、私が故国の土を踏むことは二度となかったと思う。私の捕虜時代の仲間にも、帰国後すぐにアメリカに渡り、向こうに永住した者もいた。それくらい、捕虜となったことは、当時の軍人には大きな汚点なのだ。
そんな私が、平気で、あの大東亜戦争を批判していいものだろうか…とさえ思う。みんなが尊敬している山本五十六をこき下ろしていいのだろうか?
とも思うが、やはり、ここで嘘はつけない。これが、自分が長年研究してきた結果なのだ。それが、真実かどうかはわからない。しかし、そうとしか思えないことがたくさん見つかった。自分が信じて来た歴史が覆るかも知れない。もし、私が自分を誤魔化し嘘を吐けば、私は、二度と、青木少佐の墓前に手を合わせることは出来ないだろう。そして、私を身を捨てて助けてくれた部下たちにも申し訳ない…。そんな気がしていた。
あのとき、軍艦能代で一緒に戦い死んで行った戦友たちに嘘はつけない。
私の人生だって、もう、そんなに残された時間はないのだ。だったら、正直に話そう…。それが、彼らへの供養になるはずなのだ…。そう信じて、また、瑞穂の取材に応じた。

私は、戦後、アメリカ軍の捕虜としてアリゾナの収容所からハワイ経由で日本に送還されました。あれは、昭和21年の2月の半ば過ぎだったと思います。
寒い日でした。
遠くに富士山が見えたときには、一緒に捕虜生活を送っていた仲間たちも涙を流して喜んでいましたが、捕虜第一号となった坂巻元少尉は、複雑なようでした。彼は、
「結城中尉。日本は敗れましたが、私たち捕虜を許してくれますかね…?」
「特に私は、捕虜第一号です…」
「特殊潜航艇の仲間たちが軍神になり、私一人が捕虜になりました。おそらく、日本でも知られているでしょう…」
そう言ってため息を吐くのでした。
私は、
「坂巻少尉。大丈夫ですよ。日本が負けて、アメリカ軍が進駐したんでしょう…。それなら、日本人全員が捕虜になったようなもんですよ」
「それに、私たちは、坂巻少尉がいなかったら、もっと生活が荒れ、暴動が起きていたかも知れません」
「こうして、故国の土を踏めるのも、坂巻少尉のお陰です…」
そんなことを言った覚えがあります。
そのとき、坂巻さんは無言でしたが、きっと捕虜第一号の汚名を背負いながら一生生きていくんだ…と思いました。
それは、私も同じです。
送還船が浦賀の港に着くと、そこには、同期生の石川の姿がありました。
石川は、復員事務をしていたんです。
石川は、私の顔を見ると、大きく手を振って、
「おうい、結城!」
「こっちだ、こっちだ!」
って叫ぶんです。
石川は痩せてはいましたが、私の側に駆け寄ると、
「結城、大変だったな…。ご苦労さん、疲れたろう…」
そう言って、私を取り敢えず、宿舎にあてがわれた建物まで案内してくれました。
所定の手続を済ませ、宿舎に入ると、みんなが上着を脱いで、マジックかなんかでゴシゴシと上着の背中を擦っているんです。
私が尋ねると、
「この背中のPWの文字を消さんと、街にも出られんだろ…」
そう言うのです。
「PW」つまり、英語で「POW」、捕虜という意味です。それが、シャツや上着にでかく書かれていたんです。それでも、このアメリカ製の上着は上等で、冬の日本では手放せません。だから、みんな、そうやって一生懸命、消そうとしているんです。
その晩、石川が、ウィスキーを持って訪ねて来てくれました。
離れたところを見ると、あの坂巻少尉も同期生がいたらしく、やはり捕虜になっていた大谷中尉と一緒に、何やら話をしていました。
私は、同期生がいないので、石川と二人で、その後の日本の様子を聞いたのです。
石川自身は、駆逐艦に配属されて間もなく肺を患い、それからは入退院の繰り返しで、敗戦を迎えたそうです。兵学校時代は、体操の名手で、体を壊すような男ではなかったんですが…。    石川は、それが悔しかったようで、しきりに残念だ…と言っては、酒を飲んでいました。彼も、みんなと一緒の戦いたかったんだろうな…と思いましたが、今、生きていることには、何らかの意味がある…と私は石川に言いました。言ったというより、私自身に言い聞かせた言葉だったんです。石川は、復員業務を終えると、故郷の岐阜に戻り、高校の教師になって英語を教えていたんですが、やはり戦時中の無理が祟ったのか、昭和35年に亡くなりました。
結構、世話好きで、
「俺は、戦争中に役に立たんかったから、同期会の世話役をやらせて貰っているんだ…」
と、名簿作りや会場設定など、何でもこなすいい奴だったんです。
その石川が言うには、
「おまえが戦死認定になったころ、特攻隊が次々と出撃して行ったんだ。井上も小原も山下も、みんな特攻隊長として出撃して行った。俺も、一時は、鹿屋基地の司令部にいたから、多くの同期生を見送ったんだ…」
「奴ら、出撃するとき、俺に、石川、後を頼んだぞ…って笑顔で飛び立って行くんだ。みんな、隊長だからな。部下の手前、辛そうな顔は見せられないんだな…と思って、俺も、おう、任せておけ…って言うしかなくてな…」
「あれは、今思い出しても、辛いもんだよ…結城」
そう言っては、手ぬぐいで涙を拭うんです。聞く方の私も辛いですよ。
結局、私たち71期は、581名卒業して329人が戦死しました。戦死率57%です。
私の記憶では、特攻隊というと、指揮官として突っ込んで行った多くの仲間を思い出すんです。
私たちのような軍艦に乗っていた者は、自ら死を任務としてはいません。結果として死が待っているだけのことです。
任務は、敵艦を沈めて勝利することですから、その間に起きる戦闘は当然の任務ですし、戦死することは、軍人として端から覚悟をしています。しかし、特攻は違います。死ぬこと自体を任務とするような作戦は、世界戦史上採用した国はありません。
私は、こんな作戦を採る日本海軍を尊敬できません。あってはならない作戦だったと考えています。それを承知の上で、お話をします。

特別攻撃隊というものは、何もあのときに始まったものではありません。
日本人は、昔から、「自己犠牲」というものを容認する雰囲気があります。もちろん、それは大変尊いことですが、それと「自己犠牲を強いる」作戦を同列に扱うことは出来ません。
私も参加したレイテ沖海戦は、日本海軍の最後の決戦でした。そして、これに敗れれば、もう後はないんです。
軍令部も連合艦隊司令部も、それを覚悟していたはずです。そのために、戦艦大和、武蔵という虎の子の二大戦艦を投入して、レイテ湾に上陸するアメリカ上陸部隊を殲滅する作戦を決めたんです。もちろん、この戦いにすべてを消耗させる決断は重く、まさに国家存亡の戦でした。
レイテ湾に向かう艦隊は、レイテ島の北方から志摩艦隊、東からは、西村艦隊と主力の栗田艦隊が迫り、囮部隊として小沢中将率いる機動部隊があったんです。日本側は、連合艦隊の戦力になる艦艇60隻以上、航空機600機が参加しました。それに対して、アメリカ艦隊は、ハルゼー中将率いる主力機動部隊とキンケイド中将率いる艦隊、約200隻以上、航空機1000機が、日本艦隊を迎え撃ったのです。
このころになると、日本の石油も、この一会戦分しかありませんでした。もう、次の大会戦は考えられないんです。
本当は、ここにフィリピン各地の陸上航空基地が呼応し、敵を攻撃するはずでしたが、アメリカ軍の事前の空襲によって、その多くが壊滅させられていたんです。そうなると、頼りは、戦艦部隊しかありません。
駆逐艦や巡洋艦などの艦艇は、戦艦を守るための犠牲にならざるを得ないんです。私の軽巡洋艦能代も栗田艦隊に属し、最後まで戦艦大和の護衛に付いていました。だから、度重なる空襲で沈むのは、覚悟の上だったんです。そして、最後の最後に、生き残った戦艦が、その巨砲を以てレイテ湾内にある敵輸送船団を全滅させるのです。そのための犠牲なら、無駄死ににはならない…というのが、当時の私たちの思いでした。それは、航空部隊も同じだったんでしょう。
第一航空艦隊司令長官に着任したばかりの大西瀧治郎中将は、マバラカット航空基地で「特攻作戦」の実施を命じたんです。
大西中将は、自分の判断で行った作戦だ…と言っていましたが、それは嘘です。既に軍令部では、あの黒島亀人参謀が軍令部に入り、特攻作戦を計画していたんです。
大東亜戦争が始まってからも、自己犠牲の精神は発揮されていました。
特に飛行機は、戦場で故障したり、機銃で撃たれて燃料が漏れたりすると、その搭乗員は潔く敵の艦船や陸上基地目がけて突っ込んで行きました。
陸上でも、戦友のために敵の盾になった話は感動を呼び、国内でも新聞等に掲載され、特攻攻撃は賞賛されたんです。
私の先輩である坂巻少尉は、真珠湾攻撃のときの小型潜水艇・甲標的の艇長でした。5隻が出撃し、その全艇が還っては来ませんでした。
坂巻艇は、方向を示す装置であるジャイロコンパスが壊れていたんです。
本来なら、出撃取りやめになる故障です。しかし、坂巻少尉は、部下の稲田一曹と共に出撃して行きました。いくら湾口内での襲撃といえども、方向が定まらなくては、操縦も出来ません。そのとき、二人は死ぬ覚悟だったんです。案の定、坂巻艇は方向を見失い座礁してしまいました。
坂巻少尉は、稲田兵曹に、再起を図ろう…と命じて、夜の海に飛び込んだそうです。そして、稲田兵曹は波に呑まれて溺死しました。
必死に藻掻いた坂巻少尉は、意識を失ったままアメリカ軍の捕虜となったんです。不可抗力ですよ。
本当は、母艦の艦長は、出撃を止めるべきでした。
何年もかけて訓練を積み、大きな戦力になるはずの二人の兵を、「武士の情け」といった心情に甘えて命令を出したわけですから、艦長の責任は大きいんです。そして、この5隻の特殊潜航艇の戦果は、ゼロでした。
他の艇も防潜網に阻まれて自沈したり、駆逐艦に発見され撃沈されたりして、全滅しました。それを日本海軍は、勝手に「戦艦アリゾナ撃沈」と発表したもんだから、航空部隊はカンカンです。
あれは間違いなく、航空機による爆撃で撃沈したもので、あんな小型潜水艇の魚雷なんか、当たるはずもないんです。
そもそも、大型潜水艦に積んで敵の泊地攻撃をするなんて、時代錯誤も甚だしい…。あれは、第一次世界大戦時代の発想で生まれたもので、防潜網、駆潜艇、ソナーなど、防御体制の整った軍港に入ったところで、戦果など挙がるはずもないんです。それは、後に人間魚雷「回天」でも繰り返されました。それは、戦争末期のことでしたので、さらに泊地の防御体制は完璧になり、蟻の這い入る隙もない…と言われたくらいです。こうした無茶な作戦を立ててしまうのが、日本海軍の甘さだと私は思います。日本の参謀教育は、必ず「正解」といわれる答えが用意されていて、そこにどれだけ近づけるかがポイントでした。だから、成績優秀な学生は、それを予想して答えを書くのです。問題は、指導教官が作りますので、少しコツを掴めば、意外と予想は当たるんです。私も、海軍兵学校時代は、そんな予想をしながら勉強をしていましたので、もし、参謀になったとしても、大した作戦は考えられなかったと思います。日本は、あまり「独創性」を重んじない気風があります。島国ですから、他と違うことは異物だと思って排除する遺伝子が組み込まれているのかも知れません。だから、山本五十六の真珠湾攻撃は、傍から見れば独創的な発想で生まれた戦術のように見えますが、あれは、事前の示唆がなければ単なる大博打です。勝つ確率1%、負ける確率99%という愚かな作戦です。だから、だれかの入れ知恵があったと私は考えているんです。     えっ…と、特別攻撃隊でしたね…。                             だから、真珠湾での特殊潜航艇の攻撃を「失敗だった」とも言えないので、戦死した搭乗員を「軍神」に祭り上げ、「九軍神」として戦意昂揚に利用したんです。
山本五十六も、特殊潜航艇の攻撃が失敗だったことを知りましたが、そんなことより、航空母艦が一隻もいなかったことにショックを受け、茫然自失の中で、止めようもなかったんです。ここに「特別攻撃隊」という名称が定着してしまいました。
あの黒島亀人大佐は、山本長官が戦死すると連合艦隊司令部から軍令部に異動し、特攻作戦を考え出したんです。最初は、だれも取り合わなかった特攻に興味を示したのが、ミッドウェイ海戦の失敗で冷や飯を食わされた源田実大佐です。彼も、やはり軍令部に戻されていました。
こうした参謀職が務まる人材が、日本海軍にはいなかったのかも知れません。また、この二人が揃うと碌なことを考えないのは、ハワイでもミッドウェイでも証明されています。
こうして、中央では着々と「飛行機に爆弾を搭載して体当たりをする」特別攻撃案が具体化していきました。
大西中将と源田大佐は、山本五十六に「真珠湾攻撃案」を作成するよう…依頼された仲間ですから、特攻案も源田から大西にもたらされたのかも知れません。とにかく、特別攻撃案が、大西個人の発案でないことは確かです。
大西は、レイテ決戦が、日本の天王山であることは承知していました。そして、現地に来てみると、アメリカ軍の攻撃で、使える戦闘機がほとんどない…ことに呆然としました。
戦闘機がなくては、レイテ湾に突入しようとしている日本艦隊を支援することができません。そこで、頭に浮かんだのが、源田が囁いていた「体当たり攻撃」案です。
大西は、軍令部での案にしたがい、これを命令ではなく「志願」という形にしました。それは、本人も言っているように、「統率の外道」だからです。
軍人は、戦をするのが本務ですが、そこには、人間としての最低モラルはあります。それが、「決死隊は命じられるが、必死隊は命じられない」というものでした。それは、当然です。
組織の上司が、部下に罪もないのに「死」を任務として命じていいはずがありません。それは、天皇の大権にもない行為です。もし、通常であれば、そんな職務権限を越えた命令を出した上司は、責任を問われ、懲戒処分となるでしょう。それが、「統率」の限界なのです。
それを承知だからこそ、「志願」という形にしました。
おそらく、そこに私がいたら、率先して反対を表明したと思います。たとえ下級士官であっても、「おかしいものは、おかしい!」と言えるのが日本海軍のよさだと思っていましたので、兵学校71期を代表して、言わせて貰ったはずです。黙って従えるわけがないんです。
下士官や兵たちなら、尚更のこと。そんな「死」を命じられて喜ぶ者などいるはずがないんですから。彼らだって同じ人間です。上官と部下の関係ではあっても、退役すれば、同じ国民の一人です。そんな関係なのに、「死んで来い!」とは、人をばかにするのもいい加減にしろ…と大声で叫びたかったはずです。
大西は、こうなることを予想して、隊名を「神風特別攻撃隊」とし、4隊を編成するように命じました。それが、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」です。
本居宣長の和歌から、採られました。
「敷嶋の大和心を人とはば、朝日に匂う山桜花」
日本人の心を歌った名歌だと言われていますが、宣長は「国学」を著した学者ですから、特攻隊の隊名には、相応しいと考えたんでしょうね。
この隊名がすんなり決まったということは、事前に準備されていた証拠です。記録では、現地部隊の幹部が発案したなどと書かれていますが、あの状況の中で、そんなに上手く出来るはずがありません。そもそも、海軍の軍人に、そんな教養のある人間はいませんよ…。
それが出来るくらいなら、「九軍神」のときだって、事前に隊名があってもよさそうなのに、あのときは、当初は、「特別攻撃隊」などとも呼ばれていないんですから、後で、マスコミがつけたんでしょう。
特に敷島隊の指揮官には、私たちの一期先輩に当たる70期の関行男大尉が選ばれました。私は、兵学校での印象はあまりありませんが、艦上爆撃機から戦闘機に転科してきたばかりの将校だったと思います。
フィリピンの戦闘機搭乗員には、関大尉と同期の菅野直大尉がいたんですが、ちょうど、日本へ戦闘機の受領のために出張しており、幹部たちは、
「あの菅野がいたらなあ…」
と残念がったそうですが、私は、事前に特攻が行われそうだ…と情報を掴んだ幹部のだれかが、「菅野を特攻になど、出してたまるか…」と無理矢理、日本への出張を命じたと考えています。証拠はありません。
関大尉なら、新しく転属してきた新参者だし、戦闘機搭乗員としては未熟です。ただし、艦爆乗りですから、急降下は得意なはずです。そこに眼を付けたのでしょう。
こんな過酷な命令を出すには、親しい関係になってからでは出しようがありません。大西中将だって、着任早々だから、非情な命令が出せたんだと思います。
大西中将にしてみれば、特攻第一号は、「海軍兵学校出の正規将校がいい…」だけのことですから…。関さんは、貧乏籤を引いたんです。新婚間もない奥さんがいたのに、気の毒なことでした。
実は、幹部たちは、そんなことも知らなかったそうです。
余談ですが、菅野さんとは、私が三号生徒のときに同じ分隊にいて、よく面倒を看て貰いました。渾名がブルドックというそうですが、生徒のころは、物静かで、自習室や図書室でよく本を読んでいました。ただ、運動神経は抜群で、体技は何をやっても器用にこなす人でした。コツを掴むのが上手だ…という印象を持っています。
菅野大尉は、本土防空戦で新型戦闘機紫電改を駆って、迎撃戦に大活躍しましたが、終戦間際の空戦で戦死してしまいました。
戦後、生きていたら、小説家なんかになっていたんじゃないか…と思うくらい、普段は物静かな優しい人でした。あ、そうそう、そのときの343航空隊の司令が、あの源田実大佐です。
源田さんは、戦後は自衛隊に入り、航空幕僚長にまで昇進して、参議院議員も務めました。本当に、運のいい人だと思いますよ…。                            さて、その最初の特別攻撃隊ですが、なんと関大尉の敷島隊が、大戦果を挙げたんです。
確か、護衛空母1隻撃沈、3隻大破の大戦果でした。
たった零戦5機でこれほどの戦果を挙げたことは、開戦以来の一大ニュースです。通常の攻撃なら、100機ほどの大編隊でも、それほどの戦果が挙がるかどうかわからない時期ですから、関係者は、みんな吃驚したんです。実は、敷島隊には、それほどの熟練搭乗員がいたわけではないんです。
関大尉も零戦にはまだ不慣れだったし、他の4人の搭乗員も予科練出の若年兵でした。それが、ベテラン搭乗員を揃えても出来ないようなことをやったわけですから、大本営も日本海軍も面目を施したんです。しかし、これが「統率の外道」という批判を封じ込めて、終戦の日まで続く「特攻作戦」となったんですから、皮肉なものです。
この後は、さらに乱暴な志願方法が採られ、「志願する者は、一歩前へ!」などという形で、特攻隊員が指名されていきました。実は、選ぶ指揮官たちも、特攻命令など出したくないんです。だから、こんな乱暴な方法でしか、選べなかったというのも事実です。
機械的に選ばないと、そこに情が入ってしまい。軍人というより人として、自分のやっている行為が苦しくなるんです。
私は、軍艦の下級指揮官でしたので、そういう場面には遭遇しませんでしたが、「死んで来い!」なんていう命令を出すなんて、想像したこともありません。せいぜい、「一緒に、死んでくれ!」までです。

沖縄戦が始まると、連日のように鹿児島県の各基地から特攻隊が出撃して行きました。陸軍も海軍に呼応して、すぐに特攻作戦に参加しました。沖縄特攻では、海軍より陸軍の特攻隊の方が多かったくらいです。
このころになると、アメリカ海軍も特攻隊に備えて、輪形陣を強化し、特に航空母艦を守ろうと必死に戦ったんです。                                                                                                      高性能レーダーを駆使し、日本軍機の到着時刻を予想して、艦載機を発進させ、遥か前方で待ち構えていました。そのために、敵の艦船を見ることなく散っていった特攻機も多かったようです。
それでも、何機かは、アメリカ艦隊上空に達しました。そして、発見するやいなや、電鍵のキーを押し、翼を翻すと、真っ逆さまに突っ込んでいくんです。電鍵のキーを押すのは、鹿児島の基地の無線室で待機している味方に突っ込んだことを報せるためです。この無電が「ツー」と聞こえている間は、飛行機が撃墜されていない証になります。そして、それが長ければ「成功」と判断され、短ければ、対空砲に撃墜されたと判断されました。沖縄戦のころになると、十分な直掩機を付けてやることもできず、戦果確認が満足に出来なかったんです。敷島隊は、撃墜王で有名な西沢広義飛行兵曹長率いる直掩隊が戦果確認しましたので、戦果は間違いありませんでした。       日本軍機は、機体に装備された機銃を撃ち続けながら突っ込んでいきました。だから、飛行機は撃墜できても、アメリカ艦隊の甲板上の兵隊に大きな損害を与えたのです。それより、自分目がけて、もの凄い勢いで突っ込んでくる日本軍機に、兵隊の多くは恐怖を感じたといわれています。
特攻機が上空に現れれば、アメリカ軍の艦載機は、艦船から撃ち出される砲弾に当たらないように、退避しなければなりません。そうなると、守るのは、各艦艇で射撃を任された兵隊たちです。
私も経験がありますが、空からダイブして来る敵の攻撃機は、もの凄い金属音を奏でて突っ込んで来るんです。
こっちも、13粍や20粍の機銃弾を撃ち続けました。その火線は、網の目のように広がり、その中を急降下して来るんですから、勇気というよりは、死を覚悟しないと出来ない技だと思います。
特攻機がダイブすると、もう、空は真っ暗になるくらい砲弾が撃ち出され、機銃が唸り続けます。その音は、耳をつんざき、精神を引き裂くような衝撃を受けます。とにかく、自分が何をしているのかさえ、わからなくなるんです。
とにかく、目の前の敵を倒す…、それだけに集中していました。
そこに、次々と燃えながら突っ込んでくる特攻機が見えてきます。
直撃を受けないまでも、目前まで突っ込まれると、さすがに戦場慣れした海軍兵も頭を抱えて退避行動に移るんですが、大きな金属の塊が、猛烈な炎を上げながら目の前に突っ込んで来るんですよ。
私も敵機を撃墜した経験がありますが、燃えながら側を通過した飛行機の、その焼け焦げた油の匂いは、今でも忘れることができません。そして、いつぶつかるか、いつぶつかるか…と体を丸く硬直させてその瞬間を待つんです。それは、本当に怖ろしい時間だった…と思います。
戦場をリアルに体験すると、その意味がよくわかります。
私も、軍艦能代で敵機の空襲を受けているとき、もの凄い爆音と銃撃音が響き、だれの声も聞こえないくらいになりました。見ていなくても、あちこちから弾丸が当たる音が聞こえ、人の断末魔の声が聞こえてきます。
身近にいる人間が、血塗れになって倒れていくんです。真っ赤な血も、だれのものかもわかりません。そして、空襲が終わると、一気に静寂が戻るんです。
体は、緊張感で震え、喉は声が出ないほどに焼け、ヒリヒリと痛みます。それでも、次の空襲に備えて準備をしなければなりません。死体は、そのままに出来ませんので、海に投げ込んでいくんです。手を合わせる余裕すらないんですよ。そんなことを何度も繰り返していたら、精神が持つわけがないんです。
沖縄のアメリカ艦隊の兵隊は、それを体験しているんです。
万が一、駆逐艦程度の小艦艇に特攻機が命中すれば、轟沈もあり得ます。たとえ大型艦でも、命中すれば、体当たりされた箇所は10m近くにわたって大破し、その付近にいた兵隊は、焼かれて死ぬか、有毒ガスで死ぬか、大けがをするかのどれかです。それでも、悲惨なことに変わりはありません。250㎏爆弾の威力は、もの凄いんです。
戦争を知らない世代は、単純に撃沈した艦船の数等で勝敗を見ようとしますが、あのまま特攻作戦が続けられ、沖縄が持ち堪えていたら、兵隊の神経が持たなかったかも知れないと言われているんです。
それくらい、アメリカ軍にとって「特攻」は、怖ろしい作戦だったんです。でも、それでも採るべき作戦ではありませんでした…。

戦争末期になると、堂々と多くの特攻兵器が登場してきました。
航空特攻では、「桜花」というグライダー兵器が登場しましたが、母機の一式陸上攻撃機が、次々と敵の艦載機に撃墜され、桜花の突撃を確認できた事例は僅かです。さらに、潜水艦部隊は、酸素魚雷を改造した人間魚雷「回天」を誕生させ、これも、終戦の日まで投入されました。どのくらいの戦果があったのかは、潜水艦のために確認が難しく、アメリカ側も正確な情報公開はしていません。
潜水艦の艦長たちは、輸送船を中心に多くの船を沈めたと主張していますが、小さな魚雷を操り、動き回る艦艇に当てるのは至難の技だったと思います。
他にも特攻ボートと言われた「震洋」や人間機雷「伏龍」などがありましたが、犠牲者の方が多くて、戦果らしい戦果は挙げられませんでした。
私は、特攻の話は、アメリカのアリゾナ州の捕虜収容所で聞きました。向こうの日系の通訳が、私を尋問するとき、そんな情報もくれたんです。
通訳の士官が、
「どうして、そんなことをするのか、私にはわかりません。結城さん、あなたは、どう思いますか?」
などと聞いてくるので、
「そんな命令はあり得ない。もし、そんな作戦が正式に採用されたとしたら、日本の恥になる。私は、断固反対する!」
と強い口調で言った覚えがあります。
特攻は、本当に辛く悲しい戦争の負の遺産になりました。それだけです…。

私の特攻についての話は、そこまでにした。
話をしているうちに、段々と腹が立って来るのがわかるのだ。
同じ海軍に籍を置いた軍人が、そんな愚かな作戦を平気で遂行していたかと思うと、海軍兵学校での教えは、何だったのか…と思う。
私たちは、生徒時代、自習の最後の時間を使って「五省」を大きな声で暗唱したものだ。
一、至誠に悖る勿りしか
一、言行に恥づる勿りしか
一、氣力に缺くる勿りしか
一、努力に憾み勿りしか
一、不精に亘る勿りしか
この五つの教えを、私は片時も忘れたことがない。そして、今でもこの五つの教えに背かないようにしてきたつもりだった。
捕虜という惨めな体験もしたが、敵の潜水艦に救助され、意識を取り戻したときも死のう…とは思わなかった。それは、潜水艦の艦長を始め、乗組員の温かい励ましがあったからかも知れない。彼らは、口々に、「大丈夫だ…。君は、よく戦った…」と慰めてくれた。それに、私自身、五省に恥じるような戦いはしなかった自負があったからだ。それに、だれかが私を助けようと、私を海に突き飛ばしてくれた。もちろん、それで生きられるかどうかはわからないが、取り敢えず、そうするしか方法がなかったことは、私にもわかる。それが、だれかはわからないが、間違いなく私の部下の仕業なのだ。だったら、死ぬのではなく、生きる道を探そう…。そう思った。        ただ、特攻は違う。
突っ込んで行った仲間たちに罪はない。彼らは祖国を守るために精一杯戦ったんだ。しかし、この作戦を考えた参謀たちや、命令をした指揮官たちは、どう責任を取ったんだ?
戦争に勝敗は付きものだし、それに敗れたことは仕方がない。しかし、この教えに背いてまで戦う理由があるのか…、私には疑問だった。
大西中将が言うように、特攻は、「統率の外道」だ。そんな作戦を惰性のように続けた先輩たちに、「至誠」は本当にあったのか?
大西中将は、特攻隊を編成した責任を取って、終戦後に腹を斬った。それが、彼の責任の取り方だったんだろう。だが、戦後、そんな命令を出したことすら忘れたかのように、平然と平和な時代を謳歌する人間を私は信用することができない。
もちろん、私などが知らないところで、考え、悩み、苦しんだのかも知れない。それでも、割り切れないのだ。だから、私は、近代史の研究者の道を志したのかも知れない。
そう思うと、胸が苦しくなり、瑞穂との会話をする余裕すらもなくしていた。
それを察したのか、瑞穂は、
「先生…、そろそろお疲れのようなので、今日はこのくらいにしましょう」
「辛いことを思い出させてしまい、本当に申し訳ありませんでした…」
そう言うと、私の側に寄り添い、彼女に抱えられるようにして、静かに病室に戻るのだった。   確かに瑞穂が言うように、辛い思い出ばかりだった。出来れば、忘れていたい思い出だったが、思い出さなければ取材は受けられない。そう考えると、戦争を体験した多くの日本人は、そんな苦しみや辛さ、悲しさを胸の奥にしまって生きているんだろう。それは、それで壮絶な戦いが続いているような気がした。

第四節 終戦の謎

あの日から、数日が過ぎた。
春の日射しが日を追う毎に強くなり、風はまだ冷たいが、その日射しは春の暖かさを運んできていた。この取材を受けてから、私も昔のことをよく思い出すようになっていた。
私は、大正時代末期の生まれだが、それでも、東京の街にはネオンが光り、子供の好きそうなお菓子もあったし、楽しい娯楽もあった。
私の家は、四人家族だったが、父が海軍の軍人だったこともあり、両国に家を借り、母と私と妹の三人で過ごすことが多かった。だから、たまに父が帰宅すると、妙に緊張し、あまり打ち解けて話すこともなかった。私も妹も活発な性格で、そんなに両親に苦労をかけたようなことはなかったと思うが、それでも、母にしてみれば、いろいろな心配をしていたのだろう。             私が海軍兵学校を受けたい…と言ったときも、一瞬、難しい顔をしたが、それは父の願いでもあり、母が反対する理由はなかった。どこの家でも、子供が自由に進路を決められる時代ではなく、自分の進路と雖も、大事な結城家の問題でもあったのだ。しかし、母にとっては、またひとつ心配の種が出来たというところだったのだろう。                         私の家は、忠臣蔵で有名な「本所松坂町」のすぐ近くにあり、家は借家だったが、東京でも下町だったので、友だちにも事欠かなかった。下駄屋の息子や遊郭の家の子まで、様々な家業があり、私は、海軍士官の息子だったので、みんなから一目置かれるような存在だったような気がする。  ただ、私が生まれたのが関東大震災直後だったために、震災を直接経験していないが、母たちが住んでいた借家は、全焼してしまったそうだ。そのころは、父は軍艦に乗っており、そのために、母は、しばらく実家のある白河に戻っていたため、災難に遭うことはなかった。
震災後も、父は両国に改めて借家を借り、昭和20年3月10日の東京大空襲の日まで、母と妹は、その家に暮らしていたのだ。それが、徒となった。                       両国は、東京でも下町のためか、隣近所の人情もあり、私の家が海軍の軍人の家だとわかると、多くの人が声をかけてくれるようになっていた。
私が、府立三中に入ったのも、学校が近かったということもあるが、海軍兵学校を目指していた私にとって、地理をよく知っている地元の中学校がいい…と考えていたからだ。
当時の府立三中は、一中、二中と並ぶ東京屈指の進学校で、戦後も両国高等学校として、その伝統を引き継いでいるようだ。
私は、野球が大好きで、学校の野球部では、ショートを守り、学校時代も東京府の大会では、そこそこの成績を残した。もちろん、全国中等学校野球選手権大会に出るほどの強豪校にはなれなかったが、甲子園は、私たち球児の憧れの聖地になっていた。戦後、甲子園大会が復活し、ラジオ放送で中継を聴いたとき、私は泣いた。大きな声を上げて泣いた。                  兵学校にも私と同じように中学野球に夢中になっていた生徒もいたし、部隊にも野球少年はいた。彼らとは、階級の垣根を越えて、時間があれば野球の話をし、キャッチボールをしたものだ。  予備学生出身の士官の中にも、大学野球をやっていた者もいて、野球というスポーツが、すべての垣根を取り払い、仲間になれたものだ。だが、そんな彼らの多くは、今はいない。           一緒に遊んだ友だちも、夢中で白球を追った仲間たちも、その多くは戦場で倒れた。やはり特攻で死んだ者もいる。また、母校に戻って教師になった者もいたが、あの忌まわしい東京大空襲で校舎が全焼し、行方不明になった…。
私の母と妹も、空襲警報と同時に隅田川方面に逃げたことまではわかったが、その後の行方は杳としてわからない。たぶん、多くの避難者と共に亡くなったのだと思う。
父は、それを知るとかなり落胆したようで、既に私の戦死の公報が届いていたはずだから、家族全員を亡くしたと思い、それから間もなく病に倒れ、戦後間もなく海軍病院で死んだ。
私が、送還されて日本に帰国したのは、父が死んで半年近く経ってからのことだった。     墓は、両国の大徳院にある。
その墓には、父の穣のお骨しかなく、母と妹の骨はないが、ひょっとしたら、その辺りで亡くなったんじゃないか…と考え、両国に墓を求めたのだ。
後で、私がその墓に入ったら、父は相当に驚くだろう。
今ごろ、あの世で三人が出会っていたらいいのに…と思うのだが、こればかりは確かめようもない。
そして、いよいよ取材も最後になった。
私の研究してきたことの最後の話は、「昭和20年8月15日の終戦の謎」とした。もう、私の退院の日も近づき、この日は、私が日時を指定させて貰った。
既に病院からは、外出の許可を貰っており、この病院の近くのレストランで食事を摂りながら、4人で話をしようと考えたからである。それは、私の拙い研究の話に付き合って貰った高木編集長や坂本瑞穂編集者へのお礼の意味を込めて、私が招待をしたものだった。もちろん、いつも私の側にいてくれる裕子も一緒なのは当然だが…。

その日の夕方6時を過ぎ、私は、裕子に連れられて洋食レストラン「SAKURA」に着いた。
ここは病院のすぐ側にあるレストランで、散歩中に私が見つけたものだった。事前に裕子と下見もしたが、洒落たフレンチを出すレストランで、その落ち着いた雰囲気が、気に入った理由である。
空を見上げると、春は本格的なものになり、いよいよ東京にも桜前線が到達したようだった。このレストランにも中庭に大きな桜の木があり、この日は、七分咲きだったが、あと数日後でソメイヨシノの桜が満開になるだろう。
約束の時間は、午後6時30分だったが、既に高木と瑞穂が到着して、私たちを待っていてくれた。瑞穂は、また、いつもと違う清楚な白のブラウスに濃紺のジャケットを羽織っていた。スカートは、淡いベージュのプリーツの入ったスカートである。                   彼女が桜の木の下にいると、まさに、桜の妖精が舞い降りたかのような可憐な美しさがあった。
私は、思わず「咲子…」と呼びそうになり、グッと言葉を飲み込んだ。まさか、こんなところに、咲子が出てくるはずがないのだ。でも、その横顔は、私の妹の咲子そのものだった。
咲子は、17歳でその生涯を閉じたが、もし、元気でいてくれたら、私は、成人した咲子に会うことが出来たはずなのだ。そして、今でも二人で母を支えることの出来たのに…。そう思うと、胸にこみ上げてくるものがあった。
咲子は、勤労動員で近くの工場に出ていたために、疎開の対象にはならなかった。それに、両国の家には母がいて、父や私が無事に帰還することを祈っていたのだろう。そして、昭和20年3月10日の深夜、母の範子と共に避難して、大勢の人と共に行方不明になったままである。     私は、復員すると、母と咲子の消息を尋ねて近所や周辺を回ったが、あの辺りは、一番被害が多かったところらしく、近所でも助かった人が少なかった。それに、空襲の後は、親戚を頼るなどして疎開したために、戦後も戻って来た人は、まばらだった。それでも、数軒先の八百屋のご主人が戻ってきており、その日のことを詳しく聞いたが、二人とも隅田川の方に向かって逃げた…との情報だけで、後のことは何もわからなかった。まして、そのご主人も、一人だけ生き残り、家族を全員亡くしていたということもあって、それ以上、辛くて話を聞くことが出来なかったのだ。きっと、咲子は、最後まで母の手を握りしめて死んだのだろう…と思うと、可哀想で涙が止まらなかった。それに比べて、戦後に生まれ、今を生きている瑞穂は幸せそうだった。
私たちは、軽く挨拶を交わすと、しばらく桜の木を眺め、その春の匂いを嗅いだ。そして、ぼんやりと眺めているうちに、あの江田島の桜と隅田川沿いの桜が同時に浮かんでいた。
私の卒業した海軍兵学校の敷地は広く、正門は表桟橋と言うことになっており、海側に面して桜並木があるのだ。もちろん、訓練中にそれを愛でる余裕などないのだが、ちらっと見て、眼の奥に焼き付いたその桜こそが、若い生徒たちには、自分のように見えたものだった。
「俺たちも、この桜みたいなもんだな…」
そういう仲間たちを、私は、
「いいじゃないか。桜のように美しく咲いて、パッと散ろうじゃないか…。それが、俺たちらしくていい…」
そんなことを話していたが、それを言った私が生き残り、言われた仲間たちが桜のように散っていった。心の中では、いつも「すまない…」と彼らに謝る毎日だった。
それでも、この年になって、昔のことを語れることが、どれだけ幸せなのか…と思わずにはいられなかった。
おい、みんなのためにも、俺の知っていることを世に問うよ。協力してくれ…。
私は、桜を見上げながら、心の中でそう叫ぶのだった。
そして、隅田川沿いの桜並木は、昔からの桜の名所で、親子三人で必ず夜桜見物に出かけたものだった。
父が海軍省に勤務になった数年は、一緒に出かけたこともあった。ただ、父はほとんど家にいないので、私と妹は、何か緊張して、あまり桜を見る余裕がなかったように思う。
父は、そんなに厳しい人ではなく、軍人よりも学者の方が似合うタイプだったが、家が貧しく上級の学校に進学できないので、兵学校に進んだ…と聞いたことがある。もし、今のような時代なら、きっと素晴らしい研究者になっていただろう。そう考えると、今の自分が恥ずかしくなった。  父は、ああ見えて甘い物が大好きで、桜見物をしながらでも、手にはみたらし団子や草餅などを持ちながら歩き、私たちにも「食え、食え、もっと食え…」と、いくつでも買ってくれるので、さすがの私たちも少し辟易としたものだった。だが、今になって考えれば、普段家にいないぶん、子供たちには何かしてやりたくて、仕方がなかったんだと思う。そういう意味では、不器用な人だった。                                           他の三人は、そんな感慨深げな私の姿に気づいたのか、少しだけ離れた場所で、声もかけずに、静かに待っていてくれた。
私は、桜の木肌を慈しむように触り、自分の心を落ち着けると、裕子に目をやった。
裕子は、いつものように私を見て微笑むと、私に近づき、そっと背中に手を回してくれた。
その手は温かく、私の心を穏やかなものにしてくれるのだった。

その日の食事は、とても楽しいものになった。
部屋は、こじんまりとした個室で、壁には、やはり桜の木のリトグラフが掛けられていた。おそらく、高遠の神代桜だろう…。私も一度だけ見たことがある桜だった。
外を見ても桜、中にいても桜…、本当に桜の花びらに囲まれたような雰囲気は、戦後の平和の象徴のようにも見えた。
ここのオーナーシェフが気を利かしてくれたのか、コース料理にも拘わらず、私には、ちょうどいいくらいの量の皿が出され、さすがに酒は飲めなかったが、爽やかな味のオレンジジュースが、その場をつないでくれていた。
他愛のない会話の後、コーヒーが出された。
私にも、少しだけ、アメリカンのコーヒーが出され、久しぶりにコーヒーの豊かな香りを楽しむことが出来た。そして、いよいよ、最終回の「終戦」の話をすることになった。

じゃあ、いよいよ最終回ですね…。それでは、終戦の話をしましょう。
前にも話しましたが、山本五十六は真珠湾攻撃を成功させ、圧倒的兵力を以て太平洋の制空権、制海権を奪い、アメリカとの講和に持ち込もうと考えていました。しかし、これは、アメリカ政府や共産主義者たちの謀略によるものでした。
それに気づいた山本は、騙されたことを知り、一時は絶望感に襲われましたが、日本国内で英雄視されると、何とか挽回できないものかと考え、ミッドウェイ海戦を計画します。しかし、これも海軍部内の意思を統一が図れず、また、作戦を立案した黒島亀人大佐の緻密で広すぎる作戦行動は、計画自体が上手く消化できず、あちこちに齟齬が生じることになり、大敗北を喫してしまいました。
虎の子の航空母艦を4隻も失い、打つ手のなくなった山本は、機動部隊を再建する暇も与えず、南太平洋海戦、そしてイ号作戦を発動させ、航空母艦の優秀な搭乗員を次々とガダルカナルの戦場に投入し、失敗します。
これでいよいよ、自分が手塩に育てた航空兵力を失った山本は、すべてを諦め、自分の死を覚悟して無理に前線視察を強行し、ソロモンの空に散りました。
貴重な航空戦力を失った日本は、残った航空兵力と養成したばかりの若年搭乗員を前線に駆り立て、必死の抵抗を見せましたが、アメリカも戦争準備が整うと、もう、勝ち目はありませんでした。
本当は、サイパン島が落ちた時点で、絶対国防圏が失われ、敗戦は決まったのですが、それでも、降伏することは出来ませんでした。そして、日本海軍機動部隊最後の決戦に挑んだのが、サイパン島の攻防戦となったマリアナ沖の航空戦でした。                            このころになると、日米の戦力差というよりは、新兵器の差というものが顕著になってきたんです。特にレーダー技術は、日本の技術の10年先を行っていました。だから、昔からの戦術で作戦を考えても、もう時代に合わなくなっているのですが、それを理解する時間もありませんでした。サイパン島争奪を巡るマリアナ沖航空戦では、正規空母の翔鶴、大鳳を失い、小沢中将の「アウトレンジ戦法」も、味方搭乗員の練度不足やアメリカ軍のレーダー性能の向上などで惨敗を喫し、アメリカ軍と戦える航空母艦がすべて失われてしまったんです。
山本が言うとおり、この日米戦争は、制空権を取る戦いでした。
オセロゲームのように、最初のうちは一進一退を続けていますが、どこかの潮目で一気に色が白黒どちらか一色に染まっていきます。その境目が、南太平洋海戦だったと思います。
南太平洋海戦は、やはり、イ号作戦の前に行われた機動部隊同士の戦いでした。指揮官は、ミッドウェイ海戦で大敗北を喫した南雲中将です。これも、ガダルカナル島の攻防戦の前哨戦というべき機動部隊同士の決戦でしたが、日本海軍が善戦したのは、ここまででした。
日本海軍は空母翔鶴と瑞鳳が損害を受けたものの、アメリカの航空母艦ホーネットを撃沈、同空母エンタープライズに損害を与え、戦い自体は、日本海軍機動部隊の勝利でしたが、真珠湾、珊瑚海、ミッドウェイと続く航空決戦の末、戦前からのベテラン搭乗員の多くが失われました。
その上、昭和18年4月には、イ号作戦を発動したのですから、戦力が整備される時間はありませんでした。ここに、山本の焦りが感じられます。
この南太平洋海戦を潮目に、昭和18年に入ると、アメリカ軍の攻勢が始まりました。
このころの私たちは、17年末に兵学校を卒業し、海軍少尉候補生として士官見習いのような格好で、各艦隊に配属され、初級士官としての訓練を行っていたんです。
私は、軍艦長門に配属され、甲板士官として艦内の軍規の保持に働いていました。戦局がどう動いているのかなんてことは、何も知りませんでした。ただ、士官次室の噂で、ミッドウェイ海戦で、航空母艦が相当やられたらしい…というような話は聞こえてきており、周囲の動きを見ていても、何となく慌ただしく、内地にいる私たちにも戦争の厳しさは実感できました。
半年の見習い期間が過ぎると、私たちに正式な配属先が決まります。私は、飽くまで軍艦への配属を希望しており、最初は、駆逐艦野風に配属になり、次に軽巡洋艦能代に配属になったんです。そして、乗り組み後一ヶ月ほどしてトラック島に向かいました。ちょうど、昭和18年の夏のころです。
能代での私の配置は、高射長という肩書きで、やることは、後部機銃の指揮官です。中尉ですから、そんなもんです。「とにかく、敵が来たら撃て!」という配置です。
それでも、部下の兵隊たちは、少しでも早く弾丸を装填し発射できるように機銃座毎に競争になり、新しく配属された新兵たちの動きも機敏になってきました。さらに、新兵は、下士官の指導で、機銃座をピカピカになるまで磨き込むのです。だから、訓練で使用した後も、機銃は新品同様です。この備えができるから、戦闘時に故障がなかったんだと思います。
些細なことかも知れませんが、私は、戦闘中、「機銃故障!」という声は聞きませんでした。おそらく、沈没寸前まで、この機銃は唸りを上げ続けていたと確信しています。
戦史にも残らない小さな出来事ですが、本当に兵隊は、よく戦ったと思います。だから、戦後、彼らのことを「犬死に」呼ばわりする連中が許せないんです。

内地を出港した軍艦能代は、トラック島経由でラバウルに到着すると、そこに止まり、出撃命令を待って待機していたんです。そのころ、連合艦隊司令長官は、古賀峰一中将になっていました。
古賀さんは、遠くで見ただけで人柄もよく知りませんが、山本長官が、戦力を食い潰してしまったんで、どうすることも出来なかったと思いますよ。
とにかく、この戦争は制空権の奪い合いです。いくら、軍艦を揃えても、飛行機がなければ、何も出来ないんです。ラバウルでは、アメリカ軍の空襲を何度も受けました。ガダルカナルが奪われると、もう、ラバウルにいる意味がないんです。そして、12月には、トラック島泊地へと移動しました。そして、昭和19年を迎えたんです。
私にとっても、防戦一方の戦いで、敵艦隊との砲撃戦なんか夢の話です。
一度、修理と防空関係の装備の充実のために日本に戻ってきました。でも、東京には戻れずじまいで、母や妹と会ったのは、兵学校を卒業して、海軍省に挨拶に出向いたときだけでした。   「また、休暇が出たら、戻ります…」そう言って、玄関先で見送って貰ったきりで、二人とも死んでしまいました。父とは、兵学校に入校以来、一度も会わずじまいでした。           日本に戻って修理を終えると、今度は、サイパン島が危ない…ということで、因縁の栗田健男中将の指揮下に入り、マリアナ沖に向かったんです。
このとき、初めて戦死を覚悟しました。しかし、この海戦は、軍艦の出番がほとんどなく、航空部隊の戦いでした。そして、虎の子の正規空母の大鳳と翔鶴、そして飛鷹を失ったんです。特に大鳳を失ったのは痛かった…。
大鳳は、飛行甲板に500㎏爆弾が直撃しても、それを跳ね返す力を持った新鋭空母だったんです。それが、敵潜水艦の雷撃で沈められたんです。たった一本の魚雷が大鳳に命中したんですが、その程度で沈むような航空母艦ではありません。被雷後も、何事もないように走っていた大鳳が、よもや沈むとは、考えもしませんでした。しかし、その数時間後、大鳳のいる方から爆発音が聞こえ、振り向くと、飛行甲板の中央部から猛烈な火柱が立っているではありませんか。一瞬で、もうだめだ…と思いました。それくらい、凄まじい爆発だったんです。              後で聞いた話ですが、艦内にガスが充満し、それが何かも火花が引火し、大爆発を起こしたということでしたが、すぐに「換気はどうしてたんだ?」という疑問を持ちました。ガスは、無臭ではありません。気づかないはずがないんです。何を慌てていたんだか、乗組員の練度がそれだけ落ちていたんでしょう。それに、日本海軍は、損傷を受けたときの専門部隊がいないんです。     損害を受けると、それぞれの部署から数人ずつが応急班として集められ、消火作業や救助作業に当たるんです。専門的知識があるわけではありませんから、上官の指示通りに動くだけです。だから、ガス漏れの点検や補修など、基本的な作業が出来なかったんでしょう。
このマリアナ沖海戦は、敵の攻撃機の届かないところから、攻撃部隊を発艦させ、敵がこちらに到着する前に、敵艦隊を叩くといった戦法でしたが、そのころの搭乗員は練度も低く、そんな長距離を飛行すること自体が無理だったんです。
そこに、敵の高性能レーダーに捕捉されると、敵の艦載機が待ち受け、次々と味方の攻撃機を撃墜していったのです。このときは、零戦にも爆弾を搭載し、爆装零戦と称して攻撃機として使用したんです。そのために、掩護する戦闘機が不足し、敵から、「マリアナの七面鳥撃ち」なんて揶揄される始末でした。また、このころになると、敵の砲弾がもの凄く当たるようになっていたんです。それは、砲弾に取り付けた新しい「信管」の発明がありました。
何でもVT信管と言うのだそうですが、彼らは、「マジックヒューズ」って呼んでいました。  何がマジックかと言うと、高速で飛んでくる砲弾が、近くに金属を探知すると爆発する仕組みになっていたようで、こちらの攻撃機に砲弾が近づくと、当たらなくても爆発するんです。そうすると、その破片で飛行機は損傷し、撃墜させられるという代物です。
もちろん、日本軍は何も知りませんから、中高度を飛行していて、さあ、急降下しようとすると、その砲弾にやられるんです。ここにも、科学力の差が如実に表れています。
このマリアナ沖海戦は、私にとっては忙しく動き回っていただけの戦いでした。本当の戦いの恐ろしさは、次のレイテ沖海戦でしたが、ここで私は、海に落ちて、敵の捕虜になってしまいましたから、本当の戦争の恐ろしさを知るのは、レイテ沖海戦の一回だけです。
言っておくと、レイテ沖海戦の失敗は、主力部隊の司令長官だった栗田健男中将以下の幕僚すべての陰謀でした。
この作戦は「捷一号作戦」と呼ばれ、連合艦隊最後の決戦だ…と訓示され、各乗組員が死を覚悟して出撃したんです。
とにかく、レイテ湾内にいるアメリカ上陸軍の輸送船団を撃滅して、敵上陸部隊を粉砕することが目的でした。これが成功すれば、フィリピンは持ち堪える可能性があります。そして、数万人というアメリカ兵を殺傷すれば、アメリカ世論も騒ぐだろう…という目算もありました。また、アメリカ太平洋方面軍の最高司令官マッカーサー大将を追い詰めれば、アメリカ上陸軍は崩壊する…と読んでいたんです。
ただ、この作戦は、最初から「つき」がありませんでした。                        なぜなら、この作戦が発動されたのは、ひとつの誤報から始まっていたからです。          それは、昭和19年10月に起きた台湾沖航空戦でした。
マリアナ諸島を奪ったアメリカ軍は、次に狙うのはフィリピンであることはわかっていました。そこで、この「捷号作戦」が計画されていたんです。
すると、そこに、アメリカの機動部隊が、台湾から沖縄方面に向かって来るという情報が軍令部に入りました。ここなら、航空母艦がなくても基地航空隊が攻撃することが可能です。そこで、すかさず、日本海軍は、航空攻撃を命じたのです。
日本の各基地からは、1000機以上の攻撃機が参加しています。
敵は、どう見積もっても航空母艦20隻くらいがこちらに向かっています。もし、フィリピン戦の前に、これを叩くことができれば、日本が絶対的に有利に立てます。
航空攻撃は、三日間続き、「航空母艦だけでも30隻以上を撃沈した…」という報告が軍令部に届きました。なぜか、この報告を軍令部は、鵜呑みにしてしまったんです。冷静に考えれば、そんなことはあり得ません。まして、この航空戦は主に夜の戦いだったんです。
昼間では敵に見つかる可能性が高いんで、なるべく夜間で敵の艦載機が発艦出来ない時間帯を狙って出撃しました。しかし、夜間攻撃は、よほど練度が高くないと成功しません。暗いと目測を誤り、とんでもない場所に投弾する危険性がありました。それでも、攻撃が出来る可能性の高い夜間や海の荒れている時間帯を見計らって出撃して行ったんです。
それが、「数十隻の敵艦を撃沈した」と言うんですから、だれだって驚きます。そして、それを受け取った軍令部は、「真偽を確かめろ!」と命令するはずです。ところが、肝腎の軍令部は、そんな確認もしないまま、早々にこの戦果を天皇に上奏した上、報道発表までしてしまったんです。
もちろん、軍令部の参謀の中には、
「これは、おかしい…?」
「今の搭乗員の練度で、こんな大戦果が出るはずがない。調べ直せ!」
と、現地に部下を派遣した人もいましたが、なぜか、この慎重論はもみ消され、久々の大戦果に大本営も国民も酔ってしまいました。
これで、フィリピンでの捷一号作戦は、早まったと言われています。
もし、これだけの航空母艦た軍艦を沈めていれば、アメリカの上陸部隊の支援は出来ません。そうなれば、上陸作戦そのものが撤回され、延期されるはずです。しかし、その後も、アメリカ軍にその兆候は見られませんでした。
後になってわかったことですが、結局、こちらは300機以上の損害を出し、アメリカ軍は、巡洋艦レベルの軍艦に損傷を与えただけだったのです。
何をどう確認したのかは、わかりませんが、戦後の調べでは、
「未熟な搭乗員が、夜間爆撃等の爆発の光を轟沈として数えたり、重複して報告されたりして、数が膨れ上がったのではないか…?」
という結論に至りましたが、これ自体もかなり胡散臭いものがあります。
私は、だれかが意図的に戦果を過大報告させ、日本軍を混乱させる目的があったように思います。無論、確かめたわけではありませんが、名前は言えませんが、軍令部の〇〇参謀が怪しい…という話はあります。何を意図して誤報を発表してしまったのかはわかりませんが、このころになると、みんなが追い詰められていて、怪しい情報でも信じたくなったのかも知れません。こうなると、末期症状です。

フィリピン防衛の任に就いていた陸軍の山下奉文中将は、フィリピンでの戦いをルソン島で行うことを決定しており、そのための準備を整えていたにも拘わらず、この台湾沖航空戦大勝利の誤報により、レイテ島で戦うことを命じられてしまったんです。
ルソン島は、フィリピン諸島の中でも最大規模の島で、ここでなら、長期持久戦も可能でした。それを小さなレイテ島では、周囲を敵に囲まれてしまえば、為す術がありません。
大本営は敵の主力は撃退され、アメリカ上陸軍は袋の鼠だ…とでも考えたのでしょう。山下中将の「長期持久戦」を放棄し、短期決戦にて雌雄を決しようと考えたんです。
日本は、昔からこの「短期決戦」という作戦が大好きですから、ここで一気にアメリカ軍を叩ける…と踏んだんです。
こんな安易な発想では、長期戦に対応できないのは当然です。このころの大本営には、優秀な参謀がいなかった証拠です。もし、台湾沖航空戦の戦果が間違いなら、とんでもないことになることは、わかりきっていました。
山下中将は、台湾沖航空戦後もアメリカ軍の攻撃は止まず、到底、敵の航空母艦が沈められたとは思えませんでした。それに、部下の参謀たちの分析でも、日本の勝利はなかった…と結論づけられたのです。それでも、一度出た命令が覆ることはありませんでした。
私たちも、この戦果を怪しいと睨んでいましたが、やはり出撃してみると、連日の空襲に見舞われ、あの大戦果は間違いだった…とすぐに気がつきました。
軍艦能代の士官室でも、副長や幹部が、
「何が大戦果だ?」
「あれが、本当なら、敵の航空母艦は一度沈んでから、また浮き上がり戦闘に加わったことになるだろう?」
「ばかにしやがって!」
そう言って、怒っている姿を度々目にしていましたので、私も「やっぱりな…」と覚悟をしたもんです。それでも、全滅覚悟で出撃してきたんですから、是が非でもレイテ湾への突入だけは成功させたかったんです。
これは、戦後、いや最近わかったことですが、栗田長官は、この「輸送船団撃滅」という命令が不服だったようです。出撃前に、軍令部の参謀に、
「もし、敵艦隊が目前に現れたら、輸送船より戦艦を優先して構わないか?」と尋ねたそうです。
まあ、一種の誘導質問です。
それに対して、その参謀は、「構わない」と言った…といわれています。
そんな立ち話での会話が、正式命令より優先されるはずがないんですが、栗田中将は、
「戦艦大和や武蔵をむざむざと輸送船如きのために、沈めるのは勿体ない!」
と広言していた人物で、作戦の趣旨さえ理解していなかったんです。
結局、栗田長官は、レイテ湾を目前にして、反転命令を出してしまいました。
私は、既に敵の捕虜になっていましたので、詳細を知る立場にはいませんでしたが、収容所でそれを聞いたとき、唖然としてしまいました。
これでは、なぜ、多くの将兵が死んだのかわかりません。みんな、レイテ突入だけを念願して死んでいったんです。
実は、このとき、「南西方面艦隊司令長官」名で一通の電報が栗田長官の乗る大和に届けられました。それには、
「敵艦隊が、北方より迫りつつあり」
という物だったそうです。
それを口実に、栗田長官は、「敵艦隊の撃滅を目指す!」として、レイテ湾突入を止め、反転、北上したんです。
そこには、宇垣纏中将も乗っており、厳しい口調で栗田長官に詰め寄り、
「レイテ湾に突入しないのか!」
と何度も言ったそうですが、この艦隊の指揮権は栗田中将にありました。
海軍では、軍令承行令という規則があり、指揮権のない者は、命令を下す資格がないのです。
戦艦大和の艦橋にいた多くの将校や兵の前で、栗田中将は、「反転せよ!」と命じました。本当に、将兵は悔しかっただろうと思います。出来ることなら、栗田長官を引きずり下ろしてでもレイテ湾に突入したい…と思う者もいたようですが、海軍軍人である以上、それはできませんでした。
ところが、この電報は、ニセ電報だったのです。
栗田長官の作戦参謀が、自分でメモ書きした電報を栗田長官に渡して、狂言芝居をして見せたのです。そのとき、戦艦大和の航海長が、作戦参謀の動きが怪しいので、「そのメモを見せろ!」と問い詰めたそうですが、作戦参謀は、「貴様に見せる理由がない!」と押し問答したと後に語っています。
いくら調べても、そんな電報を受け取った記録や発信した事実はなく、栗田長官以下の幕僚の自作自演でした。
戦後、栗田さんは、そのことをマスコミにも問われましたが、一切口を開かず、黙ったまま病気で亡くなったそうです。しかし、生粋の海軍軍人が、こんなことをしてまで、艦隊決戦を夢見ていたとすれば、強大なアメリカという敵に勝てるはずがありません。
結局は、山本五十六の間違いが、こうしたところにまで影響を及ぼしてしまったんです。
上の立場の人間が一度でも自分勝手なごり押しをする姿を見せると、それを学ぶ人間が出て来ます。山本さんは、真珠湾の幻に魅せられて、海軍の戦略を壊してしまいました。おそらく、栗田さんは、こうした軍規の乱れを見て、艦隊決戦の幻を追いかけてしまったんでしょう。
ありもしない艦隊をでっち上げ、作戦の意図を知りながら反転するとは、国家反逆罪に等しい大罪です。しかし、日本海軍は、その栗田健男中将を処罰することなく、海軍兵学校長に異動させました。
こうした隠蔽体質は、終戦まで続き、栄光を誇った帝国海軍は、消滅したんです。
そこから先は、特攻隊の時に話したとおりです。

昭和20年の沖縄戦の終わりころから、日本は、戦争の継続を諦め、終戦を模索していました。 いや、やはりサイパン島の陥落以後、日本は戦争を止めたいと考えていたんです。
日本政府は、スイスやバチカンにも連絡を取り、仲介役を立てたいと考えていましたが、それを阻止し続けたのはアメリカ政府でした。天皇は、ローマ教皇の力を借りても、戦争終結を探っていたんです。
アメリカ政府の目的は、ソ連のような共産主義国を世界各国に広げることでした。もちろん、それはルーズベルト政権の考え方で、連邦議会やアメリカ国民がそれを支持していたわけではありません。前にも話したように、ルーズベルトは資本家の操り人形なんです。共産主義を容認し、そのシンパを多く政府内に取り込みましたが、これも自分の意思ではなく、国際金融を支配する資本家たちの企みでした。だから、ルーズベルトにはっきりとした意思はありません。          アメリカという国は不思議な国で、大統領や政府に大きな権限が与えられているために、議会の承認を得なくても、大統領の判断でかなりのことが出来るんです。
戦後、問題になりますが、日本を戦争に追い詰めたハルノートと呼ばれた最後通牒すらも、アメリカ議会や国民は知らなかったと言われているんです。だから、世界中に共産主義革命を起こすことも、ルーズベルトやその側近たちで進められていったのです。そして、それは、中国だけでなく、日本もその標的になっていました。
日本は、「国体の護持」、つまり「天皇や皇室の維持」だけが、降伏するための唯一の条件でしたが、共産革命を夢見る共産主義者たちは、天皇や皇室の存在を認めるはずがありません。さらに、ルーズベルトやアメリカ政府は、アメリカ自体も共産主義国家に変えようとしていたのではないか…と思います。
戦後、言われるようになった「グルーバル主義」は、まさに形を変えた共産主義思想だと思います。あれは、国の垣根を取り払い、「自由貿易」の名の下に、富を一部の資本家や政治家で独占しようとする革命に他なりません。それを実現するためには、力が必要です。それが「原子爆弾」だったのです。これが完成すれば、世界は、一部の国の物になる…という確信が彼らにはあったんでしょう。特にルーズベルトは、それに固執していました。
原爆の完成こそが、彼の野望が達成出来るときなのです。しかし、その夢は、己の病によって断たれました。と言うより、用が済んだ大統領は、密かに殺されたのかも知れません。ルーズベルトが重い病であったことは確かですが、それすらも利用して、入院させないんですから、怖ろしい組織に操られたものです。                                  アメリカという国は、民主主義国家だといわれますが、それは、上辺だけのことなんです。あの国は、「強い者が支配する国」だと考えた方がいいと思います。だから、様々な意見があり、権力争いを繰り広げているんです。
あのケネディ大統領の暗殺にしても、あんなアメリカ青年一人の計画で、成功するはずがありません。おそらく、彼は騙されてあの凶行に及んだのです。その裏には、アメリカCIAが関与している…と噂されていますが、間違いないと思います。
結局、政府も政府機関も、大資本家に逆らって生きていくことは出来ません。アメリカを裏で牛耳る資本家は、大統領だって政府機関だって、マスコミだって、己の都合のいいように金の力で操れるんです。
ケネディ大統領は、本当は、その資本家たちの代表者ですから、上手くやれば、何期でも大統領職に止まることは出来たでしょう。しかし、彼は日米戦争にも参加している元軍人です。それに、ケネディ家という大財閥を背景に持つ大統領です。そう易々と、一部資本家たちの傀儡にはなりません。
コントロールできなくなったケネディを大統領から引きずり下ろす方法は、暗殺しかなかったんです。あれほど国民の圧倒的支持を受けた大統領を選挙で引きずり下ろすことなど出来るはずがないんです。だけど、暗殺なら簡単です。
第16代大統領、エイブラハム・リンカーン。
第20代大統領、ジェームズ。ガーフィールド。
第25代大統領、ウィリアム・マッキンリー。
第35代大統領、ジョン・F・ケネディ。
そして、最近では、第40代大統領、ロナルド・レーガンが、未遂に終わりましたが銃撃されています。僅か200年の間に5人もの大統領が暗殺、若しくは未遂事件が起きているのですから、けっして安全な国とは呼べません。
表だって証拠を明らかにする人はいませんが、今でも、アメリカだけでなく世界中の大資本家たちは、国家権力を操り、自分たちにとって都合のいい世界を創りたがっているのでしょう。
日本の皇室や天皇は残りましたが、けっして安泰ではありません。GHQが残していった様々な謀略は、密かに進行していると考えた方がいいように思います。

少し、話が逸れました…。
日本の終戦ですが、アメリカ国内には、大統領や政府は、日本を叩き潰したいと考えていましたが、一部の日本を知る人の中には、日本や天皇に対して尊敬の念を持ち、日本を救いたいと願う政治家や外交官もいました。しかし、ルーズベルト政権は、それらの声には耳を傾けることなく、戦争終結を認めなかったんです。
それに、ソ連を後押ししている関係上、どうしても独ソ戦が片付いたら、ソ連を日本に向かわせたかったからです。そうすれば、ソ連は、北海道という土地をただ同然に奪うことが出来るんです。そうなれば、ロシア時代から続く南下政策が、ここで実現することになります。
スターリンは、北海道以北をソ連領土とし、世界を支配することを夢見ていました。それが、まさに実現しようとしていたのです。
もし、ルーズベルトが健康で、あのまま生きていたら、それは可能だったはずです。しかし、トルーマンが大統領になると、少しずつ風向きが変わってきました。
曲がりなりにもルーズベルトは、4選を果たした偉大な大統領です。
欧州戦争を終わらせた英雄でもあります。これを引きずり下ろすのは、容易ではありません。
ところが、ルーズベルトは高血圧の持病が悪化し、大統領執務室で突然死をしてしまいました。
病死なのか、毒殺なのかはわかりませんが、彼も用済みになったんでしょう。そして、副大統領のトルーマンが大統領に就任しました。
彼も、所詮は、資本家たちの傀儡です。若しくは、ルーズベルトが残していった政府内官僚の操り人形でした。彼がやることは、原子爆弾の投下命令書にサインをすることと、ソ連の対日参戦を認めることでした。
運良く大統領になったトルーマンは、それを承諾し、日本に原子爆弾を投下させたんです。
そして、約束通り、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、満州や樺太、千島列島に攻め込みました。そして、在留邦人の悲劇やシベリア抑留の悲劇が生まれました。
それでも、満州や樺太はソ連に奪われましたが、千島列島の占守島の守備隊が必死に守り切り、北海道にまでソ連軍が到達することはできませんでした。
アメリカ軍が、いち早く北海道に進駐しており、ソ連側からの分割占領案を拒否したことで、北海道がソ連に奪われることはありませんでした。しかし、北方領土は、既にソ連軍が侵攻しており、どうしようもなかったと思います。
当のアメリカ軍にしてみれば、自分たちが進駐した土地を易々と明け渡すほど愚かではありません。それに、国民感情として、共産主義を容認する雰囲気はなかったのです。         もうひとつ付け加えると、アメリカ軍という組織は、共産主義を容認する軍人はだれもいません。大統領の命令で動く軍隊ではありますが、自分たちの意思も持っています。その証拠に、ソ連が北海道に進駐しようとしたとき、それを拒否したのは、アメリカ政府ではなく、太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサーだと言われています。彼は、確かに権力欲の強い将軍ではありますが、生粋の軍人でもあります。自分たちが、血を流して占領した地域を、大統領やアメリカ政府が命令してきたからと言って、易々と応じるほど愚かではありません。彼らは、戦う戦士としての誇りも持っているのです。だから、ソ連との交渉には応じませんでした。それに、マッカーサーは、帰国後は、大統領の座を狙っている大物です。こんなところで、妥協などするはずがないのです。  マッカーサーは、日本占領の総司令官でしたが、朝鮮戦争が起こると、その総指揮官に任命されました。しかし、今度の敵は、今までアメリカ政府が支援してきたソ連と中国です。この共産主義国と戦っているうちに、日本が、どれだけ苦労して反共政策を採ってきたのか理解したのです。そして、アメリカ政府と悉く対立し、連合国軍最高司令官の職を解任されてしまいました。     マッカーサーの言葉として、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」というものがありますが、その演説の中で、日本の戦争について、こう語りました。                      「日本は、侵略のために戦争をしたのではない。あれは、飽くまで自衛のための戦争だったんだ」と。しかし、このマッカーサーの言葉を、アメリカや日本のマスコミは一切無視し、広く知らしめることはありませんでした。結局、世界のマスコミも、金の力でどうにでもなる存在になっていたのです。                                        長くなりましたが、アメリカという国は、こうした二面性を持っているので、わかりにくいのですが、政府が共産主義を容認しても、すべてのアメリカ人は、正直、共産主義など受け入れたくなかったのです。なぜなら、アメリカは、「開拓精神」のお国柄です。
「アメリカン・ドリーム」という言葉が示すように、努力して這い上がり、自分の夢を叶える国なのです。富を平等に分かち合う…などという甘い文化はありません。勝つか負けるか、勝負事の大好きな国民だということを忘れてはなりません。そうしたアメリカ人気質のお陰で、最低限の領土は守られました。
それを見たアメリカ政府は、ここまで…と判断して、あのポツダム宣言を発表し、日本軍の無条件降伏と天皇の地位を曖昧にしたまま、戦争の終結を認めたのです。
ここで、間違えてはいけないのが、ポツダム宣言は、日本国の無条件降伏とは言っていません。飽くまで、「日本軍」の無条件降伏なのです。だから、戦後、GHQが「日本が、無条件降伏をした」と嘘の宣伝を流したために、日本人の多くは、日本国の無条件降伏と勘違いをしましたが、それも、彼ら一流の謀略です。

日本の終戦の決断は、最後までもつれましたが、天皇の御聖断により、ポツダム宣言の受託という決着を見て、8月15日の正午に、天皇自らが国民に終戦を告げました。
日中戦争、大東亜戦争を俯瞰して見たとき、陸軍に戦争責任があったように言う人がいますが、私は、海軍により大きな責任があったと考えています。
そもそも、日中戦争が拡大化した原因は、第二次上海事変での海軍の強硬な意見にあります。盧溝橋事件に端を発した日中戦争ですが、あれは、ソ連、コミンテルン、中国共産党の謀略によって仕掛けられたものでした。それに続く、通州事件は、あまりにも残虐な殺戮でしたが、あれも、中国共産党の指示の下に保安隊が起こした事件です。この二つの事件はつながっており、日本を怒らせ、全面戦争に引き摺り込むための謀略でした。そして、第二次上海事変も、それに続く事件で、上海の日本租界で中国軍が起こした戦争です。日本は、やむなく在留邦人保護のために軍隊を出動させるしかありませんでしたが、陸軍はできるだけ限定的に派兵を行い、全面戦争は避けたい意向を持っていました。それを強硬に軍の動員を求めたのが、当時の海軍です。
上海の陸戦隊を支援するために、海軍は砲艦を派遣し中国軍を攻撃しました。また、中国軍が奥地に逃げ込むと、渡洋爆撃まで行い、中国国民党軍の拠点である重慶を爆撃しました。こうなると、陸軍も動かざるを得なくなり、さらに南京まで逃げた国民党軍を追って南京攻略まで続きました。そして、この南京攻略戦が、戦後の東京裁判で「南京大虐殺」というデマを流され、松井石根大将が処刑されたことは、前にお話しした通りです。
この日中戦争もソ連やコミンテルンの策謀によって起こりました。だから、どうしても日本を叩き潰したい勢力が、中国に加担していたということなんです。そして、その仲間は、日本人の中にもいたんです。
真面目な日本人は、表に出てくる事象だけを見て判断しがちですが、その裏面に真実が隠されているものなんです。まあ、こんなことを言っても、その歴史観で生きてきた人には、俄に信じることはできないと思います。そして、海軍主導で日米戦争が始まり、連合艦隊は信じがたい錯誤を繰り返して敗れました。最後には、特攻という統率上あり得ない作戦まで採用して、若い人たちを戦場に送り続けたんです。
終戦は、当時の総理大臣だった鈴木貫太郎元侍従長が、天皇の御聖断を仰いで決まりましたが、納得できなかったのは陸軍でした。
陸軍にしてみれば、あの第二次上海事変のとき、海軍が強硬に派兵を主張しなければ、こんなことにはならなかった…という思いがあります。それに、北進論を主張したのに、石油は北にはない…と言い張り、南に進駐したことで、日米英戦争を起こす原因を作ってしまいました。
大東亜戦争でも、勝手に真珠湾攻撃を行い、それに巻き添えを食らうように、陸軍部隊は、慣れない孤島での戦いで消耗していったのです。
仮想敵国ソ連との戦いを想定して創り上げた陸軍部隊を、海軍の勝手な作戦で消耗させておいて、自分たちの駒がなくなると、掌を返すように、終戦を主張するのは、詐欺まがいなものです。
だから、陸軍大臣の阿南惟幾大将は、敗戦の責任を取って切腹する間際、部下に、「米内を斬れ!」と強い口調で命じたのです。本当に悔しかったんだと思います。
阿南大臣は、天皇のお付き武官として、親しく接した経験があり、天皇のお言葉を大切にする軍人でした。天皇もそんな阿南を愛し、いつも気にかけていたといいます。その阿南が、敗戦の責任を取って自分が切腹することで、陸軍部隊の行動を抑えたのです。
私は、海軍の将官に比べて、立派な武人だったと阿南惟幾を高く評価しています。
この戦争の責任は、海軍と米内光政にある…と阿南大将は、考えていたのでしょう。結局、米内は、腹も斬らず、戦犯にもならず、戦後間もなく病気で亡くなりました。親ソ派の重鎮として、この敗戦をどう見ていたのでしょうか。考えようによっては、米内も利用されていたとも言えますが、よくわかりません。
彼は、何も言わずに戦後間もなく亡くなりますので、真相は何もわかりません。ただ、親ソ派だった米内が、日本の和平工作に頼ったのはソ連でした。そして、その条件として、連合艦隊で残った艦船をソ連に譲ろうとさえしていたのです。
ところが、そんな米内の心も知らず、ソ連は日本を裏切り、火事場泥棒のようにして領土を掠め取りました。その上、多くの日本人を虐殺し、シベリアを始め、自分の支配地で酷使し、その扱いは家畜以下のものでした。
戦闘で死んだ兵士は、任務を果たしての戦死ですから仕方がありません。しかし、戦時国際法を無視し、何万人もの元日本兵を捕虜として非人道的に扱い、その多くを死に至らしめた責任を、未だに謝罪することもありません。
米内光政は、そんなソ連を本当に愛していたのでしょうか。今となっては、尋ねることも出来ませんが、これが米内の言う革命だとしたら、阿南大将の言葉が心に残ります。

陸軍は、戦前に共産主義思想の固まった軍人たちが軍閥を作り、勢力争いをしていたことが、国策を誤らせたことも事実です。
軍人として、「戦争に負けない国」にしたかったのかも知れませんが、その思想が、ソ連やコミンテルン、資本家たちに付け入る隙を与えたのも事実です。
陸軍としては、本土決戦こそが本領発揮の場と考えていましたが、それもならず、悔し涙を流して矛を収めました。たとえ、本土決戦を行ったとしても、ソ連やコミンテルン、大資本家たちを敵に回して勝てる見込みはありません。結局は、再び原爆が投下されて、日本は壊滅したはずです。
この戦争の総括は出来ませんが、私なりに分析した結果をお話ししました。

これで、私は、自分が知る限りの大東亜戦争を語って聞かせたと思った。
三人は、私が話し終えると、フーッと小さく息を吐き出した。きっと、緊張して聞いていたんだろう。
すると、高木が、
「先生、ありがとうございました。いいお話を伺うことが出来て、益々掲載が楽しみになってきました…」
瑞穂は、下を向いてハンカチを握りしめていた。そして、
「私…何にも知らなくて、今まで何をやってきたんだろう…」
小さな声でそう呟いた。
それは、そうだろう。彼女たちが受けた戦後の学校教育では、大東亜戦争は、太平洋戦争になり、アメリカ版の近現代史を教わってきたんだから、私の話とはまったく違う。
私の大学の学生も、最初のうちは戸惑い、怒りの声を挙げる者もいた。それでも、長い時間をかけて日本や世界が歩んできた歴史を説明すると、多くの学生は納得した顔を見せるようになった。
それくらい、修正された歴史を元に戻するのは大変な作業なのだ。
今でも、日本政府や歴史学会は、私の説を認めようとはしないし、私を学者の異端児として扱う。だから、私はしがない大学教授であり、研究者として日の目を見ることはないだろう。それは、私の側にいる裕子も同じだ。
ただ、この明誠大学が、それを許し、その研究に予算を付けてくれていることで、私たちの生活が成り立っている。それは、理事長である瑞穂の祖父である坂本明倫氏のお陰である。
「じゃあ、これくらいにしましょうか…」
「私も少し調子に乗って、話しすぎた…」
何となく頭の芯が重い。
全身が気怠く、眼の奥にも鈍痛を感じるようになった。
そんな私の姿を見て、二人は、
「先生、大丈夫ですか?」
と、声をかけてきたので、私は裕子を支えにして、笑顔を見せた。
「ああ、大丈夫さ。明日には元気になって退院するよ…」
そう言って、裕子と一緒に病院に戻っていった。
それをレストランの玄関で見送る二人は、心なしか寂しそうに見えた。
私は、もう一度、夜の空を見上げた。
そこには、桜の木々の端の方が見え、桜の花が、そろそろ満開になろうと開き始めていた。
「後、何回、この桜を愛でることが出来るんだろう…」
そんな言葉が、つい口をついた。
それを聞き逃さなかった裕子は、私をしっかりと抱き寄せ、
「だめですよ、先生。私には先生しか家族はいないんです…」
「お父さんやお母さんの分も生きて、私を支えて下さい!」
「そんな、弱音は聞きたくありません!」
声は小さかったが、その口調は、ちょっと怒っているように聞こえた。
そんなふうに叱ってくれる娘を持って、私は幸せだった。

最終章 旅立ち

「ああ、裕子。今日はすまなかったね…」
ベッドに横たわり、時計を見ると、夜の9時を回っていた。
「先生、だめですよ。あんまり無理しちゃ…。明日の退院が延びるかも知れませんから…」
そう言って脅かすので、
「まあ、そう言うなよ。ところで、ちょっといいかな…」
「はい…?」
裕子は、私の枕元に座った。
私は、枕元の小さな引き出しを開け、一つの桐の箱を取り出し、裕子に手渡した。
「こ、これは…?」
「ああ、中を見てご覧…」
私に促されて、桐の箱の蓋を開けると、そこには真珠のブローチが見えた。
「え、何ですか…これ?」
それは、もうかなり古くはなってはいたが、まだ、だれも身につけたことのない新品のブローチだった。
もう、30年以上前のものだった。
「それはね。私が一度だけ結婚を申し込もうとして、昔、銀座で買った物なんだ…」
「な、その箱に店の名前が書かれているだろう…」
「だが、その人は、私がそれを渡す前に亡くなられてしまった…」
「美しく、聡明で優しい人だった…でも、その人は、かわいい一人娘を残して逝かれてしまったんだよ」
「でも、それを見せたとき、ひと言、ありがとう…って言ってくれてね」
「それが、私の心の支えになった。今でも、そう思っている…」
「これを、君に預けておく。私の形見になるかも知れない品だ…」
「持っていてくれ…」
私は、そう告げると、裕子に帰宅を促した。
「明日も講義があるんだろう…。もう、帰りなさい…」
そう言うと、裕子は、
「はい。明日の夕方お迎えに来ます。先生、明日、必ず来ますから…」
そう言うと、私の手をぎゅっと握りしめた。それは、細く、温かく、華奢な掌だった。こんな小さな手で、私を支えてくれていたかと思うと、涙が溢れそうだった。
「じゃあ、明日、頼むね…」
そう言うと、裕子は桐の小箱をバックししまい、静かに病室を出て行った。
常夜灯の淡いオレンジ色の光だけが、病室を包んだ。
そして、私は、静かに眼を閉じ、深い眠りの中に入っていった。

その晩、私は、夢を見ていた。
それは、戦後、私がアメリカから送還されてきた後のことだった。
私は、廃墟と化した東京の街を歩いていた。
あの夜、石川に同期生の消息を聞いた私は、石川から注意を受けていた。
「おい、結城。ところで、おまえ…金を持っているのか?」
そう、聞かれたので、
「ああ、アメリカドルを100ドルほどだが支給された。後は、煙草や缶詰、チョコレート、それに、日用品の類いかな…。全部、アメリカ軍の支給品だがな」
そう言うと、石川は、
「いいか。今の日本は大変なことになっているんだ。物価は、昔の比じゃない。それに、今、貴様の持っている品は、この日本じゃ貴重品なんだ。これは、全部金に換えられる。いいか、滅多なことで使うなよ…」
「ドルは、全部日本円に替えてしまうより、使う分以外は、ドルのままで持ってろ…。そして、東京に出たら闇市があるから、そこでドルを円に替えるんだ。それも、1ドルずつ替えるんだぞ…」
あの石川が、真剣な眼をして言うので、私も驚いて話をきくと、どうやら、日本はとんでもないインフレになっていて、食べ物もないらしい…。その石川の言葉が、私を助けることになった。

私は、帰国したら、すぐにでもやらなければならないことがあった。
それは、軍艦能代の軍医長青木少佐の家族を探すことだった。私は、あの約束を果たさなければならなかった。
それは、私が生き残り、青木少佐が戦死したからだ。
私たちは、私が能代に乗艦以来、ずっと一緒に過ごしてきた。兵科と軍医科で、職務は違うが、それでも気が合った。
私は、青木少佐のあの気さくな性格に、どれだけ助けらたか知れない。それは、兵隊たちも同じだったろう…。だから能代の医務室は、病室というよりも、談話室と言っていいくらいの賑やかさと穏やかさがあった。
副長が時々、青木少佐に注意していたようだが、その副長自身も医務室に来ては、お喋りして行く始末で、艦長の梶原大佐も苦笑いするしかなかった。それでも、能代は、艦長以下、非常に統率の取れた艦として連合艦隊からも一目置かれていたのだ。
私は、ここで、厳しいばかりが軍隊ではないことを学んだ。たとえ、明るい笑顔があっても、一度スイッチの入った兵は、だれよりもキビキビと動き、その作業は正確そのものだった。そして、強い。
あのレイテ沖での空襲の際も、私の部下たちは、泣き言ひとつ言わずに黙々と戦い死んでいったではないか。
銃撃されて腕をもがれても、爆弾ではらわたが千切れても、彼らは泣き言も言わず、黙って死んでいったのだ。ある兵は、重傷を負ったにも拘わらず、命が尽きるまで弾薬を運び、機銃手に手渡すと事切れていた。
ある兵は、傷ついた班長を医務室に運ぶために、その体を背負い、血と油で汚れた甲板を走った。
だれもが、必死に戦ったのだ。そして、最後の最後に、私を海へと逃がし、犠牲になった部下がいたんだ。
それこそが、軍艦能代の魂なのだ。
そう思うたびに、私の脳裏には、あの青木少佐の屈託のない笑顔が浮かぶのだった。

私は、青木少佐が、東京の日赤病院の外科医だったことを頼りに、真っ直ぐに広尾にある日赤病院に向かった。そして、そこで、副看護婦長をしていた奥さんの幸子と会ったのだ。
幸子は、既に青木少佐の戦死の公報を受け取っており、軍艦能代が沈んで、乗組員全員が戦死したことを知らされていた。
どこで、どんなふうに死んだかを教えてくれる人もなく、生まれたばかりの一人娘の裕子を母親に預け、日赤で看護婦として働いていた。
私は、幸子に会ったその日から、この家族のために生きようと決心をしたのだ。それは、私と青木少佐との約束ではあったが、私自身身寄りを亡くし、どう生きていいのか、わからなかったからかも知れない。
幸子は、最初のうちは戸惑っていたが、何度か会いに行くうちに、いろいろな話をするようになっていた。
彼女も、女一人のみで家族を養う苦しさをだれかと分かち合いたかったのかも知れない。
ある日、私が、青木少佐との出会いから、最後の日までの話をすると、幸子は、涙を流しながら聞いてくれた。そして、ひと言、
「ほんと、あの人らしい…」
そう呟いた。そして、自分のことも話し始めた。

青木少佐とは、この日赤病院で知り合い、結婚をしたそうだ。
病院の中でも、いつも患者に笑顔を見せ、患者たちから「先生、先生…」と慕われ、出征するときは、幸子さんと一緒に、病室を丁寧に回り、患者一人一人に挨拶をして、その後の治療が出来ないことを詫びたそうだ。
そんな青木少佐だからこそ、兵隊たちは心を開き、愚痴も言い、励まされ、新しい活力を貰って戦闘配置に就いたんだろう。そう思うと、今ごろ青木少佐と一緒にいるであろう能代の兵隊たちが羨ましくもあった。
できれば、自分もその仲間に加えて欲しかったが、まずは、彼との約束を果たさなければならなかった。

私は、今の明誠大学の坂本先生に出会い、こうして職を得ることができたことは、幸運だった。幸い、私の英語力は、兵学校での教育と捕虜生活で読み書きが不自由なく出来るまでになっていた。
向こうでは、時間のある限り英字新聞を読み、仲間の捕虜たちに話してやるのも私の仕事のようになっていた。ときには、坂巻少尉の補助として、収容所の幹部と生活改善についての交渉にも当たったし、アメリカ兵と捕虜のトラブルの仲裁役を買って出た。
そんなことをしているうちに、さらに英語力が身につき、アメリカ兵とも親しく話せるようになっていた。
彼らとて、喜んで志願したわけではなく、故郷の家族や恋人のことを思い出しては、私に話をしてくれた。そんなこともあって、当初は、坂本先生の秘書的な役を仰せつかり、外国人との通訳も任されるようになった。
そんな生活がしばらく続いたが、時々、先生が昔のことを思い出したかのように、海軍兵学校を話題にされた。
「あのニュース映画を見て、私も海軍を目指せばよかったかな…って思うんだよ」         「君も知っているとおり、私の父である明誠は、明誠工業学校という技術者を養成する学校を創った人だからね。私も、明誠工業から、東北帝国大学の工学部で勉強し、戦時中は、陸軍の飛行機のエンジンの開発に携わっていた」                              「だけど、2000馬力エンジンは難しくて、結局、私ではものにはならなかった…」     「技術屋は、油まみれで地味だからね。君たちのような颯爽とした海軍士官の方が、よかったかも知れんが、君の戦争体験も凄まじいからな…」                      「でも、あのときの写真集は、今でも家のどこかにあると思うよ…」               と、そんなことを話してくれたことがある。
前にも話したが、私が1号生徒のとき、プロのカメラマンが一週間ほどやって来て、私たちの写真を撮って回っていた。
当時の草鹿校長や鳴海分隊監事は、私をその写真家に紹介し、
「この結城生徒が、全校の先任伍長ですので、よく話を聞いて下さい。また、写真撮影は、1号生徒を中心に撮られるようお願いします…」
と注意されていた。
兵学校としては、海軍の宣伝用になることは承知しているが、1号以外の生徒だと、気持ちが浮ついて訓練に集中できなくなると困る…とでも考えたのだろう。それで、私たち71期生徒を中心に撮影が行われた。
そのために、私たちの卒業式はニュース映画にもなり、首席である私が、高松宮殿下ご臨席の中で、恩賜の短剣をいただくのが、全国の映画館で放映されたのだ。
その映像のアナウンスで、
「71期、結城保生徒に恩賜の短剣が授与されました…」
と私の名前が放送されたので、知っている人が多いのだ。しかし、それが縁で今の仕事につながっているのだから、けっして悪いことばかりではない。
敵の捕虜となった私としては、面目を失ったことになるのだが、それで、今の生活が成り立っているのだとすれば、有り難い話ではあった。

私は、戦後、そのまま東京で暮らし、幸子や裕子のアパートにほど近いところに部屋を借り、何かと顔を出すようにしていた。
幸子の部屋には、当初は、幸子の母も同居しており、二間に三人で暮らしていた。それでも、裕子の祖母が面倒を看てくれたお陰で、幸子は、看護婦として働くことが出来たのだ。
私は、休日になると、必ず幸子の家に出かけ、裕子と三人で食事をしたり、散歩に出かけたりしていた。おそらく、傍から見れば、仲のいい夫婦と子供に見えたことだろう。
幸子の母の光江は、私の来訪を嫌がる様子もなく、温かく迎えてくれたので、私も気兼ねなく訪問することができた。それに、女所帯では何かと物騒だったし、こんな軍人上がりの人間でも、男手は頼りになると考えてくれたんだろう。
その光江も、裕子が小学校に上がったころ、外で洗濯中に脳溢血で倒れ、そのまま逝ってしまった。青木家の墓は、やはり東京上野の谷中霊園にあり、そこに埋葬した。この女性も戦前、戦中、戦後と苦労ばかりの人生だっただろうと思うと、冥福を祈らざるを得なかった。
その後は、幸子が裕子を同じアパートの親しい女性に預け、働いていた。
その人は、私とも顔なじみになり、世間話をするまでになった。
年齢は、やはり光江と同じくらいだったせいか、私が海軍の元軍人だったと聞くと、やはり、あのときのニュース映画を思い出したらしく、
「あのときの、結城生徒…。生きてたんですね…」
と驚かれてしまった。
私が正直に捕虜になっていた…という話をしても驚かず、
「そんなん、日本中、みんな捕虜みたいなものですから…」
と、大して気にする様子もなかったので、少しホッとしたことを覚えている。
その人の名は…、最近、よく人の名前を忘れるので、なかなか出てこないが、確か、近くで美容院を経営している美容師だったと思う。
裕子がよく懐いていたので、幸子も本当に助けられたはずだ。

幸子は、私の二つほど年上だったが、身長は170㎝の私より10㎝近く低く、顔も童顔なので、私の方が年上に見えるようだった。
私が幸子を女性として意識するようになるのに、そんなに時間はかからなかった。しかし、親友の青木少佐の奥さんである。まさか、その大切な奥さんを私が奪うようなことをしていいのか…と私は悩んだ。
だが、私を父のように懐く裕子を見ていると、私は、
「この娘の父親になりたい…」
「幸子の夫になって、生涯、青木少佐の分まで一緒に暮らしてやりたい…」
と思うようになっていた。そして、思い切ってプロポーズをしようと、銀座であの真珠のブローチを買ったのだった。
それを、いつ渡そうか…と考えていた矢先、幸子に病が見つかった。
それでも、私は日赤の病室で、幸子に思いを打ち明けたが、幸子は、あのブローチを手に取りながら、
「まあ、素敵なブローチね…ありがとうございます」
「結城さんが、そう言って下さって、私は、本当に嬉しく思っています。でも、それをお受けするのは、この病が治ってからにして下さい…。それまで、裕子には、何も言わないで」
そう言われ、ブローチは、私の元に戻されたのだ。それ以来、私は、幸子の病が治るよう必死に励ましたが、それは、叶わぬ願いとなった。
発病して1年後、幸子は、静かに息を引き取った。
死ぬ間際に、私と幸子を枕元に呼び寄せ、
「もう、母もいません。結城さん、ごめんなさい…。でも、この子を、裕子をお願いします。ごめんなさい…」
そう言うと、私の手を強く握りしめ、裕子を見詰めながら旅立ってしまった。
私と裕子は、正式な親子になれないまま、その後は、二人で暮らし、私が育ててきたのだ。養子縁組をしようかとも考えたが、独身の私では、それもままならなかった。
裕子は、とても賢い子で、幸子が死んだときには、小学校の高学年になっていたので、それからは、私も新しいアパートに引っ越し、家のことの多くは、裕子がこなしてきた。
両親に似て、頭のよかった裕子は、地元の進学校に入学し、国立の女子大学に進んだ。そして、裕子は、やはり研究者の道を選んで、大学院を出て博士号を取った。
そんな裕子を、昔から知っていた坂本先生が、明誠大学文学部に助手として採用し、私の元に置いてくれたのだった。

その間に、私にも恋人らしい人が出来た。
それは、アメリカ人の女性だった。
彼女は、やはり大学で英語を教える講師だったが、ハワイ大学を出た才女だった。名は、ジェニーと言った。
このころの大学は、日本人の先生でも、英語を流暢に話す人は少なく、25歳のジェニーと私は、すぐに打ち解ける仲になった。
二人でよく話をし、裕子とも親しくなった。
裕子は、姉妹がいないので、このジェニーを姉のように思っていたのかも知れない。私にも、
「ねえ、先生。このジェニーさんと一緒になれば…?」
と言うことがあったが、私の心の中では、「多分、無理だろう…」と思っていた。
なぜなら、彼女の家は、ハワイで農場を経営する資産家であり、日本に行くのも反対していたそうだ。
それは、そうだろう…。昭和16年12月8日の真珠湾攻撃を彼らが忘れているはずがないのだ。
あれから20年近くが経っていたとしても、間近であの爆撃を見た衝撃は、忘れられるはずがない。それに、私は、その攻撃した側の日本海軍の将校だったのだ。
私は、心からジェニーを愛していたが、やはり予想通り、ジェニーの親や親族からの大反対があり、ジェニーは、泣きながら帰国していった。
しばらくは、エアメールでのやり取りが続いたが、1年後には、ハワイの弁護士と結婚する…という連絡を寄越して、音信は断たれた。
彼女も、自分の人生の決断をしたのだ。
アメリカ人でありながら、どことなく、幸子に面影の似た女性だった。
それ以来、私にはそれほど親しくなる女性もなく、淡々と仕事をこなす毎日が続いていた。
学生の中には、私に興味を示す女性もいたが、裕子のことを知ると、だれもが、尻込みしたかのように私から離れていった。それくらい私と裕子は、傍から見れば、親子に見えたのだろう。
無論、姓が違うのだから正式な親子関係ではないが、私は、人から聞かれると、
「ああ、あの人は、私の義理の兄夫婦の子だ…」
と答えることにしていたので、それ以上詮索されることはなかった。
戦後は、戦災孤児も多く、そういった子供は親族で引き取り、面倒を看て育てることが多かったから、別段、不思議ではない。
その娘が、同じ大学の、それも同じ研究室にいるのだから、だれもが遠慮するのはわかる。それでも、私は裕子が側にいてくれるだけで満足だった。
彼女が側にいてくれるということは、亡くなった青木少佐や幸子が側にいることと同じだと考えていたからだ。
だから、私は、裕子がいなければ生きていけないのだ。
だが、そんな思いが強すぎたのか、この裕子を嫁がせることが出来なかったのが、私の心残りだった。
裕子は、私が見ても美しい女性に育っていた。
大学での評判もよく、一時は坂本理事長の秘書としての仕事もしていた。
若いころは、お見合いの話も多く、私に相談に来る若い研究者もいたくらいだ。だが、裕子は、それをすべて断り、いつまでも私の側から離れなかった。
あるとき、裕子に、
「裕子。私に気兼ねは要らないんだよ…。いつでも結婚していいんだからな…」
そう言うと、裕子は、
「いやよ。私は、ずっと先生の側にいるって決めているんだから、追い出すようなことは言わないでよ…」
そう言って、話をはぐらかすのが常だった。
だから、なかなか、結婚の話もしづらくなり、今日まで来てしまったのだ。それだけは、青木少佐や幸子にすまないと思う…。

そんなことを思いつくままで考えていたときである。
急に、頭の奥が痛み出した。
それは、今までにはない鈍い痛みだった。
頭を下げ、枕に横たわると、少しは痛みが和らいだが、痺れるような痛みに変わると、私は、声を出せなくなっていった。
まずい…。
頭では、そう思うのだが、麻痺は全身に広がったようで、ナースコールのボタンに手が届かない。
次第に、私の意識が遠のいて行くのがわかった。
それは、あの能代での戦闘で、海に投げ出されたとき、暗く深い海の底に引き摺り込まれたときの感覚に近かった。
藻掻いても、足掻いても、光は見えては来なかった。
あのときも、大量の水を飲み、意識が遠のいて行くのがわかったが、今、そのときと同じ感覚も味わっていた。
もう、呼吸が出来ない。光が見えない。
裕子…。裕子…。
意識の薄れていく中で、私は何度も裕子の名を呼んだ。

完全に意識が消える瞬間。
あの青木少佐と幸子の顔が見えた。
ああ、少佐。幸子さん…。
二人は、あの若いときのままの顔で、私を見詰めていた。その顔は穏やかで、いつもの微笑みを浮かべていた。
すると、幸子が、私にそっと近づくと、
「ありがとう。結城さん。本当にありがとう…」
そう言って、私の手を取った。
隣には、背の高い青木少佐が、眼鏡越しに私を見て、
「おい。結城中尉。ご苦労さん。裕子のことありがとう。でも、もういいよ。みんなが、向こうで待ってるから…」
そう言うと、私を手招きするように歩き出した。
すると、幸子が、すっと手を離すと、そのまま私の顔を見ながら消えていくではないか…。
私が思わず、幸子…と声をかけると、
今度は、前方に明るい光が見えてきた。
私は、青木少佐に導かれるままに、その光の方に足を進めた。
するとどうしたことだろう。
私は、海軍中尉の制服を着て、あの能代に乗艦するときのラッタルを昇っているではないか…。
甲板に足を着けると、私の部下たちが整列して、私を迎えてくれるのだ。
「高射長。お疲れ様でした。お待ちしておりました…」
「大日本帝国海軍軍艦能代、未だ健在です!」
そう言うと、一斉に敬礼をするのだった。
私は、思わず背筋を伸ばすと、白手袋の右手で、海軍式の敬礼を行った。
私は、やっと自分のいるべき場所に戻ってきたのだ。

病院の看護婦が、私の亡骸を発見したのは、翌日の朝になってからだった。
いつものように起きてこない私をいぶかって、看護婦の須藤が私を見たとき、私は、既に息をしていなかった。でも、苦しそうな表情ではなかったようだ。
その日は、本当は、退院する日だった。
裕子が急を聞いて駆けつけたとき、私は一人静かにベッドに体を横たえていた。
裕子は、
「先生、先生…」
と言って泣き崩れたが、裕子は、この日が来るのを何となく感じていた。
それは、私があのブローチを裕子に手渡した瞬間に、悟ったそうだ。
「先生、ありがとう。育ててくれてありがとう…」
裕子は、自分のバックから、あの桐の箱に入ったブローチを取り出すと、そっと私の手に握らせてくれた。
私は、それを軍艦能代の士官室で感じ取っていた。
側には、青木少佐が立っていた。
青木少佐は、私に、
「なあ、結城中尉。私たちの人生って一体何だったんだろうな…」
「こんな人生でも、いい人生って言えるのかな?」
そう言うので、私は、
「さあ、どうですかね…。でも、どんな時代に生まれても、その人の考え一つなんじゃないですか。その時代を精一杯生きたかどうかが、その人の人生の答えだと思います…」
そう答えると、二人で、士官室の廊下のハッチを開けて甲板に出た。
南国の空は、どこまでも蒼く雲ひとつ見えなかった。
二人は、大きな伸びをして、故国に思いを馳せるのだった。そんな私の手には、真新しい真珠のブローチが握られていた。

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